風穴は空いたか?

選挙はライブであるということ、祭り(フェスティバル)であるということ。もしもれいわ新選組の奇跡が起きるとすれば、そのように「クチコミ」の人と人のときめき合う関係が大きく広がってゆくことによって起きるのだろうと思う。

もう、マスコミ報道は当てにできない。政権与党や経団連等の支配者たちの圧力によってみごとに黙殺・排除されてしまっている。

野党共闘のリーダーたちからも、自分たちの票を奪われるのではないのかと、かなり警戒され敵視されてもいる。四面楚歌だ。

しかし、もしもれいわ新選組が現れなかったら、この選挙はほとんど盛り上がらないまま、政権与党がほくそ笑む結果で終わっているに違いない。

れいわ新選組のムーブメントが盛り上がって投票率が上がれば、野党共闘だっていくぶんかはその恩恵にあずかることができる。

とにかく、投票率が上がらないことには、野党の側に勝ち目はない。そうして、このひどい社会状況はますます加速してゆくことになる。

多くの識者たちが指摘しているように、現在は、まるで昭和初期の戦争前夜のような社会状況なのだ。べつにそんな戦前回帰思想の持ち主が圧倒的多数であるわけでもないのに、多くの民衆が沈黙しているから、政治は停滞し、経済は冷え切って、エゴイスティックな支配層のやりたい放題になってしまっている。彼らは、民衆や労働者を寡黙で従順な存在にしてしまいたいのだし、その計画は着々と進んでいるかに見える。

そこで、山本太郎が立ちあがった。僕は、世の中がそうであるのならそれでしょうがない、と思っていたのだけれど、彼は政治家だから「しょうがないではすまされない」と考えて立ち上がった。勝算があるかどうかなど、考えなかったに違いない。考えてできるはずがない。そこが彼の純粋なひたむきさで、われわれ凡人と違うところだ。それを思えば、この状態で彼らが一体どれくらいの票を獲得できるかと予測するなど、彼らに失礼だしせんないことだ。あえていうなら、僕には希望的観測があるだけだ。10人が全員当選するということ。彼らの比例区獲得票数は、立憲民主党より多いだろう、と思っている。

多くの野党支持者が、立憲民主党にも国民民主党にもがっかりしているような気がする。野党は有権者と利害関係でつながっていることがあまりないから、魅力がなくなれば、たちまち見放されてしまう。逆にいえば、魅力的なら、またたく間に支持が広がる。

政治の中心的な機能はけっきょく「利益誘導」ということにあるのかもしれないが、人間にとってのもっとも本質的というか究極の「利益」は、「生きられないこの世のもっとも弱いものが生きられること」にあり、そしてそれは「誰もがときめき合い助け合う社会になる」ということでもある。つまり人間は「他者に命を捧げたい」と願っている存在であり、欲しいのは「自分の利益」ではなく「他者の利益」なのだ。たとえ現代時のほとんどが「自分の利益」を欲しがっているとしても、それでも無意識のところでは「他者の利益」を願っているのだし、だから「政治」という仕事が成り立つのだろう。

立憲民主党枝野幸男には、ちょっとがっかりした。それはわれわれに見る目がなかったということなのだが、彼は家族そろってカラオケに行ったりするマイホーム主義の良きパパであり良き夫であるらしい。それは、彼の美徳であると同時に、そうやって守るべき自分の世界があるということが政治家としての限界でもある。政治なんて、わが身を投げ打ってするものであり、そこに枝野幸男山本太郎の差がある。社会を変革しようとする政治家としての「怒り」と「かなしみ」が、山本太郎にはあって枝野幸男にはない。野党第一党の党首になって彼は、「守り」に入ってしまった。守るべきは「自分の党」ではないはずなのに、彼にとっては自分の党の支持者さえも「自分のファミリー」のように考えている。それは彼の「やさしさ」かもしれないが、その「やさしさ」は政治家としての「志」の低さでもあり、リーダーとしての資質というか魅力の限界なのだ。胎内回帰志向というか、まあ「自分の世界」の中でぬくぬくとしていたいのだ。だから、立憲民主党の支持率はどんどん下がっていった。彼は、民衆が待ち望んでいるリーダーではなかった。彼には、山本太郎ほどの「献身的な愛」はない。この世の「生贄」になろうというほどの覚悟はない。

さて、どのような開票結果が待っているのだろう。

 

 

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キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。

ラストスパート、いよいよ最後のホームストレートに差し掛かった

7月18日、今日の山本太郎の福島街宣は面白かった。

福島は原発事故の起きた場所だ。

頭の中をすっかり現在の社会制度に汚染されてしまっている年寄りがマイクを渡され、正義ぶって散々品性下劣な難癖をつけまくっており、政権与党側から送られてきた刺客だというコメントもあった。

もちろん山本太郎はそれを見事に切り返していたし、何度もマイクを渡してその話をちゃんと聞いてやったのも立派だと思ったが、そのクレーマーの老人のなんと厚かましく浅はかで醜悪なことか。

山本太郎原発被害に対するケアをちゃんとしろと訴えることに対して、一部の福島県民のあいだには、「山本太郎の言説は風評被害をまき散らしている」という批判もある。それを代表してこの老人はがなり立てていたわけだが、これは、まさしく「住民エゴ」である。そんなことをいって原発事故をなかったものにしてしまっていいのか。被害者を切り捨ててしまっていいのか。それは、福島県民が等しく負わねばならない歴史の負の遺産ではないのか。そのうえで、福島の復旧や復興が模索されねばならないのではないのか。

老害……とにかくまあ、右翼であれ左翼であれ、政治的な老人というのはほんとに醜悪だなあ、と思った。

選挙はまあ「お祭り」なのだから、なるべくならみすぼらしい老人は表に立つことなく、縁の下で頑張っていたほうがよい。

表に立つのは、女や若者がいい。そのほうが華やかで盛り上がるし、頭の中を規制の社会制度に汚染されてしまっている年寄りの男たちにはもう、頭の中を切り替えて新しい時代に漕ぎ出すという能力も心意気もない。

 

 

れいわ新選組は、いったい何人が当選するのだろうか。僕にはわからない。ただ、10人全員が当選すればおもしろいのになあ、と思っているだけだ。そうなれば、この国の政治の世界だけでなく、人々の心にパラダイムの転換が起きるきっかけになる。

悪いのは政治家だけじゃない。だれもがこんなひどい社会システムに埋没してしまっている情況から、あのようなひどい政治家たちが生まれてくるのだろう。何はともあれ選挙で政治家を選ぶ民主主義の世の中であり、民衆に許されていない政治家が存在できるはずもない。あのようなひどい政治家が存在できないような社会の情況が生まれてこないことには、何も変わらない。

もともとこの国には、権力社会とは別の原理を持った民衆だけの社会システムが機能していたのに、民衆が権力社会の政治に参加できる時代になったことによって、皮肉なことに民衆社会のシステムが権力社会と同じ様相を帯びてきた。それはきっとわれわれがほんものの民主主義を獲得できるようになるまでの過渡期の現象であり、この国ほんらいの民衆社会のシステムを権力社会に持ち込むことができなければならない。差別や競争によるのではなく、人々が他愛なくときめき合い助け合う社会システムを。

まあ現在の政権は差別や競争や闘争の原理の上に成り立つ権力社会の本能をむき出しにしてきており、そこに巻き込まれ流されてしまっている民衆がたくさんいるわけで、そんな情況において山本太郎とれいわ新選組は、そこからはぐれてしまったり抵抗しようとしている者たちを呼び寄せようとしている。そんな集団が過半数いることはたしかなのだ。もしも投票率が70パーセント以上になったら、自民党が政権与党でいられるはずがない。

「寄らば大樹の影」は日本人の国民性だというが、そうではない。それはもともと、権力社会の様相を揶揄する言葉だったのだ。江戸時代までのこの国の民衆は、権力社会とは別の民衆自治の集団システムをずっと守り続けてきたのであり、「お上」という権力社会に支配されてもけっして洗脳されないのが民衆のメンタリティの伝統だったのだ。まあ古代には、そうやって権力社会が押し付けてくる「仏教」に対するカウンターカルチャーとして民衆のあいだから「神道」が生まれてきた。この国の歴史は、いろいろ紆余曲折はあったとしても、けっきょく民衆のメンタリティがこの国を覆ってゆくようになっている。

 

 

この国の民衆の多くは、「寄らば大樹の陰」が嫌だから、政治に無関心であり、選挙に行かないのだ。まだまだ民衆の潜在意識においては、国の政治は「大樹」であり、長い理不尽な支配を被(こうむ)ってきた歴史の無意識が残っているわけで、どうしても権力社会の政治に対する拒否反応がある。なのに、権力社会の一員になったような顔をして偉そうに語るネトウヨたちの「寄らば大樹の陰」そのものの態度の、なんとあさましいことか。「それでも日本人か」といいたいところだが、その当人たちほど「日本人に生まれてよかった」と声高に合唱しているのだから、笑わせてくれる。「寄らば大樹の陰」のネトウヨは、駆逐されなければならない。そこから、この国の民主主義がはじまる。

ネトウヨたちは、れいわ新選組の盛り上がりを怖がっている。その気持ちは、なんとなくわかる。れいわ新選組は、存在のかたちそのものにおいて、彼らの「憎しみ」や「差別意識」を駆逐しようとしている。

人の世の基本は、ときめき合い助け合う関係の上に成り立っている。したがってその外に出て暴れているネトウヨたちが「憎しみ=ルサンチマン」を共有しながら結束しても、それは狭い世界の中のことで大きくその外に広がってゆくことはない。

人と人がときめき合いコミュニケーションしてゆく関係こそが広がってゆくのであって、ネトウヨたちは「憎しみ=ルサンチマン」によって他者を差別し排除しているだけだから、広がってゆくはずがない。

ここにきてこの国のヘイトスピーチの勢いは衰退しつつある。それは、この国の伝統文化にそぐわない潮流だからだし、人の世の構造上の意味においてどこまでも広がるはずがないのだ。そうしてそれと入れ替わるようにして、ときめき合い助け合う社会を目指すれいわ新選組のムーブメントが起きてきた。

とはいえこんなにも人がたくさん集まっている社会なら、「憎しみ」を募らせた「嫌われ者」が現れてくることもひとつの必然であるわけで、それはもう文明社会の宿命であるのかもしれない。しょうがないことだがしかし、われわれは彼らを置き去りにして前に進んでゆかねばならない。そのためには、山本太郎とれいわ新選組を支持すること、それだけでいい。彼らが民衆の圧倒的な支持を得て政権につけば、世の中の景色は、がらりと変わる。

 

 

民衆社会の論理で国の政治がなされることを「民主主義」という。そのためには、権力社会に洗脳された民衆ではなく、民衆社会の真の伝統すなわち人間性の自然・本質の上に成り立つ人類700万年の歴史の伝統を体現した者たちの論理が必要なのだ。

老人が新しい時代を切りひらくということなどありえない。彼らの多くは、他者ととときめき合い語り合うという「コミュニケーション」の能力をすでに失っているのであり、そうやって老人はボケてゆく。

女や若者たちの他愛なくときめき合い助け合うというそのメンタリティこそが必要なのであり、そこにこそ人間性の自然・本質がある。権力者であれ民衆であれ、そういう人と人の関係に対する「憎しみ=ルサンチマン」をたぎらせた「嫌われ者」たちがどんな正義・正論を叫んでもどうでもいい話なのだ。

自己実現」など、どうでもいい。自分を忘れて他者との他愛なくときめき合い助け合う関係を持てたときに、はじめて人は「幸せ」というようなものを感じる。山本太郎とれいわ新選組は、そんな社会にしようではないかと訴えている。

「クチコミ」、すなわち他者とのときめき合い語り合うコミュニケーションによって広くつながってゆくこと、これは、縄文時代以来の日本列島の伝統であり、それを起こすものを「ことだま」といった。縄文時代に国家制度なかった。当然である。しかしそれでも、日本列島には同じような言葉や習慣文化が広がっていた。それほどに「クチコミ」が豊かに機能している場所だったのであり、その伝統がよみがえればれいわ新選組の奇跡が起きる。

 

 

原初の人類はこの生に対する「嘆き」や「かなしみ」とともに二本の足で立ち上がっていった。そうして世界や他者に対する「愛」や「ときめき」に目覚めていった。平たくいえば、そのとき人類は「感動する心」を持ったことによって猿であることから決別し、進化発展していった、ということだ。そういう原点に還れば新しい世界はきっとやってくるし、そういう人としてのプリミティブな感慨はいつの時代もだれの心にも息づいている。

人間社会の根源のかたちは、人と人がときめき合い助け合うことにあり、それは「生きられないこの世のもっとも弱い者」を生きさせようとすることであり、さらにいえば「この世のもっとも魅力的な人」を特権化して祀り上げてゆくことでもある。そうやってこの国では、古代以前の奈良盆地から「起源としての天皇」が生まれてきた。

起源としての天皇は、大陸の古代文明国家から生まれてきた「支配者=王」とはまったく性格が違う。違うのだが、大陸には存在しなかったというのではない。

 

 

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です。

最後の大逆転=サプライズ=奇跡?はあるか?

7月12日、品川での「れいわ祭り」は、やはりすごい数の観衆で盛り上がっていた。2年前の衆議院選挙における枝野旋風のとき以上だった。もしかしたら、史上最高の選挙街宣かもしれない。というか、選挙街宣という以上に、まさにひとつのお祭り(=フェスティバル)として盛り上がっていた。

立候補した10人は、みな政治家としては未知数だが、ひとりひとりがそれぞれ人として魅力的(チャーミング)だった。観客は、そこに拍手して盛り上がっていった。

6年前に山本太郎が当選したときのサプライズだって、その政策がどうのいうよりも彼の人間的な魅力に票が集まったのだった。

とはいえ今のところテレビマスコミは、これを社会現象として報道することはしない。これも、異常だ。民主主義になったはずの戦後社会において、これほどあからさまな報道規制がなされたことはない。

現在の政権与党や資本家たちは、このムーブメントを封じ込めてしまおうと躍起になっている。都合の悪いことはなかったことにしてしまう……彼らは、それが正義だと思っているから、どんな卑劣な手を使っても潰しにかかる。その先兵が、ネトウヨと呼ばれる者たちだ。彼らは民衆社会の「嫌われ者」で、民衆に対する「憎しみ」で動いているから、その手口や言動はきわめて卑劣で執拗だ。

山本太郎とれいわ新選組のムーブメントを潰そうとする勢力は、この国の支配層だけでなく、民衆の中にもいる。そして、既存の野党勢力からも敵視されている。まさに四面楚歌。彼らそこからの突破を試みているわけで、それを支持する民衆の数はどんどん増えていっている。

このまま盛り上がっていって、最終的には1000万以上の票を獲得するのだろうか。それとも大方の予想通り2~300万票程度の小波乱で終わるのだろうか。

いずれにせよ、まったく無風のままで選挙が終わればこの国は完全に壊されてしまう、という意見は多い。現政権は信任されたという空気になり、憲法は変えられ、消費税をはじめとする庶民にかけられる税負担はますます重くなり、「もう生きてゆけない」と悲鳴を上げる者はさらに増える。だが、そうなっても、権力者や富裕層は少しも困らない。無知で無力な者たちほど支配しやすい相手もいない、そして百人の貧乏人がより貧乏になることはひとりの金持ちがより金持ちになることであり、今の世の中のお金はそうやって動いている。

 

 

どうしてこんなひどい仕組みの世の中になってしまったのか。まあ、いろんな「歴史のいたずら」が重なってのことだろうが、支配されやすい日本列島の民衆の民族性ということもあるし、世界的にはソビエト共産主義が崩壊したことによって資本主義が暴走してしまったということもあるのだろう。つまり、「金が天下」の世の中になり、拝金主義が旺盛なほんの一握りの富裕層によって世界の富が独占されてしまっている。

すでに出来上がってしまったこの仕組みを変えるのは、おそらくかんたんなことではないに違いない。現在において金を稼ぐことは正義だし、みんなが稼ぎたがっている。

資本主義が、共産主義に勝利したのだ。その勢いで金持ちは、いかに効率よく金を稼ぐかということをひたすら追求している。その情熱を、われわれ人類は冷ますことができるか。それはもう、人類全体の価値観や世界観や人間観を変えなければ実現しないことなのだろう。その絶望に立って変えていかないといけない。権力者を引きずり下ろすとか、そんな政治的な綱引きだけで変えられることではない。権力者だって、現在のこの社会システムの歯車の一つにすぎない。とくにあの総理大臣なんか、頭の悪いただの操り人形にすぎない。そのまわりに、無数のシステムの従僕たちが群がりのさばっている。

選挙戦最後の一週間。現在のマスコミは、はたしてこの山本太郎現象を報道するだろうか。報道されなければ、奇跡が起きて現在の政治状況に大きく風穴を開けるということにはならない。ネット社会という、コップの中のささやかな空騒ぎに終わってしまう。そうして、一部の既得権益者たちの安堵と高笑いとともに、この社会の地獄への行進はさらに加速してゆくことだろう。

狂っている。まったく狂っている。そんなこの社会のシステムを変更することは可能だろうか。それには、人々が心を入れ替える、ということが起きねばならない。あの連中だけでなく、われわれだって狂ってしまっている。みんなでこの拝金主義的資本主義社会の狂ったシステムを動かしているのだ。

パラダイムチェンジが起きないといけない。しかしそんな社会が実現するのは、われわれみんなが死に絶えてからのことだろうか。絶望しなければならない。みんな間違っていた、と絶望しなければならない。絶望の向こうにこそ希望がある。

 

 

ひどい世の中だ、と絶望しないといけない。

われわれ大人たちは、子供の前にひざまずかねばならない。生きられないこの世のもっとも弱いものにひざまずかねばならない。美しいものは絶望の向こうのこの世の外で生成している。感動するとは、心がこの世の外に超出してゆくことだ。生きられないこの世のもっとも弱い者たちは、絶望してこの世の外の世界を見ている者たちであり、この世の外の世界からの使者=贈り物なのだ。そうやって山本太郎は、二人の重度障碍者を「特定枠」に据えた。やまとことばでその心意気を「祀り上げる」という。

祀り上げるということをしないと、人の世はまとまりがつかない。「まつる」とは「まとめる」こと。みんなの昂揚感=心意気がひとつになってゆくことを「祭り」という。

人の心は、この世の外に超出してゆくときにもっとも昂揚する。そういう昂揚感が起こる場を「祭り」といい、その体験をもとにして人の集団は無限に膨らんでゆく。その本質においては、原始時代だろうと現代だろうと同じなのだ。

俗にまみれていない天皇を祀り上げることと、俗にまみれた権力者を祀り上げることと、いったいどちらが世の中を美しく豊かにまとめ上げることができるだろうか。天皇は国民統合の象徴である、という。じつはそれこそが起源としての天皇の姿だったのであり、それは、この国の現在の民主主義にとってもけっして悪いことではないだろう。

人間は、何かを祀り上げて生きている存在であり、それによって猿のレベルを超えた大きな集団を成り立たせている。だったら、俗にまみれていない「天皇」や「生きられないこの世のもっとも弱い者」を祀り上げようではないか、美しく豊かな人の世であるために。

今回の選挙で山本太郎がしていることは、まさに天皇制にかなっていると同時に民主主義そのものでもある。「美しい人の世」は、絶望の向こうに存在しているのであり、人は永遠にその世界を夢見て歴史を歩んでゆく。

絶望するとは、自分が自分であることに絶望することであり、人間であることに絶望することであり、生きものであることに絶望することだ。そうやって人は、自分のことなど忘れて(消し去って)世界や他者の輝きにときめいてゆく。言い換えれば、自分のことを忘れて(消し去って)いるときにはじめて世界は輝いて立ち現れる、ということだ。人間なら誰の心の底にもそういう絶望が疼いているのであり、だからこそ自分を忘れて世界の輝きにときめくという心の動きも起きてくる。

山本太郎の演説は、自分をかなぐり捨てて言葉に憑依し、他者に手を差し伸べようとしている。そのラディカルなひたむきさと熱さが人の心を揺さぶる説得力になっている。

山本太郎のれいわ新選組は、だれもが自分を後回しにして二人の「特定枠」を祀り上げている。もしかしたらこの二人しか当選できないかもしれないような状況なのに、それでもほかの者たちのだれも不足をいわなかったし、そうやって「祀り上げる」対象を共有してゆくことによってより豊かな「まとまり」が生まれてくる。もっとも強いものではなく、もっとも弱いものを祀り上げてゆく……それが、ほんらいの天皇制の精神なのだ。

 

 

今回のれいわ新選組の選挙戦は、マスコミから完全に無視されてきたから、大きなハンディキャップを負っている。他の政党を凌駕するその街頭宣伝活動の盛り上がりをどれだけ広げることができるか、それがカギになる。つまり、「クチコミ」がどれだけ広がるか、ということ。それだけであと1週間のうちに全国的な認知度を高めるというのはほとんど至難の業であり、多くの選挙通が「ありえない」と評している。もしもそれが起きたら「奇跡」以外の何ものでもない。

しかし人間の世界ではしばしばその「ありえない」ことが起きるわけで、それを起こさせるのが人間ならではの「コミュニケーション」のダイナミズムなのだ。

人間的な「コミュニケーション」とは、たんなる「伝達」のことではない。「ときめき=感動」が伝わり広がってゆく、ということだ。まあ「怒り」や「かなしみ」もひとつの「ときめき=感動」であり、そういう「人情の機微=感慨」が広がり共有される範囲において「国家」という名の「言語圏」が成り立っている。

人間は良くも悪くも猿以上に豊かな「心の動き」とそれにともなう「言葉」を持っている生きものであり、人の世ではそういう「人情の機微=感慨」が「クチコミ」によってたちまち広がり共有されてゆく「奇跡」がしばしば起きる。

現在のこの国の情況は、金儲けが正義であるかのような新自由州主義や差別主義等の社会システムにどんよりと覆われ、人と人の「コミュニケーション」の関係が希薄なってしまっているわけで、今回のれいわ新選組現象は、われわれ日本列島の伝統であるそういう人としての「コミュニケーション」の関係を取り戻すことができるかという「戦い=試金石」だともいえる。

「ことだま」という言葉のほんらいの意味は、「コミュニケーション」であり、「人と人のときめき合う関係を生み出すもの」を指している。つまり、人と人の「語らい」を豊かにするものが「ことだま」なのだ。「ことだま」は、言葉の中にではなく「語らい」の中に宿っている。そうやって日本列島では、古くから人や物や文化の往還が全国的に広がっていた。わけで、古事記によれば、当時の奈良盆地の人々は列島中の様々なことを知っていたことがわかる。そこは、列島中から人や物や文化が集まっている場所だったわけで、奈良盆地が一種の「聖地」であることを列島中の人々が知っていた、ということだ。

民衆の「クチコミ」が広がれば、思わぬ票が集まる。この部分においては、どんな選挙通もマスコミも、まだ読めていない。現在のこの国の民衆に広がる空気感、リチャード・ドーキンスは、これを「ミーム」といった。

金持ちや権力者がのさばり、差別や憎しみがはびこる……いい加減もう、こんな殺伐とした世の中はごめんではないか。

やさしさや人恋しさは、だれの心にも宿っているではないか。

 

 

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です。

山本太郎とれいわ新選組の敵

経済評論家による多くの経済予測が当てにならないように、山本太郎のれいわ新選組の獲得議席がいくつになるかなんて、ほんとうはだれにも予測がつく話ではない。

プロの評論家であろうとアマチュアのネット民だろうと、したり顔で予測している連中なんて、バカなやつらだと思う。

われわれが知りたいのは、今ここのこの世の中においてどんな空気が流れているか、そしてどんな風が吹き始めているかということだ。

また、それぞれの候補者の政治センスや人間的な魅力がどれほどのものであるか、ということだ。

この国の政治家には哲学がない、といわれている。れいわ新選組は、そんな底の浅い政治の世界に哲学を持ち込もうとしている。今のところそれを本格的に語れるのは東大教授の安富歩だけかもしれないが、他の候補者もそれぞれさまざまな社会問題の当事者であると同時にそれぞれ言葉の裏に哲学を秘めているし、また人間的な魅力を感じさせる人たちである。まあ、今までにはなかったタイプの政治集団であり、そのことに対して与党であれ野党であれ、既成の政治家たちは大きな警戒心を募らせているらしい。

彼らは民衆の大きな支持を獲得しつつあるが、それでもしかし、今回の選挙で多くの議席を得て国会の新しい政治勢力になるためには、現政権のあからさまなマスコミ規制に加え、みずからの資金不足のために、二年前の枝野旋風のときよりもずっと高い壁が立ちはだかっている。つまり、両翼から彼らを潰しにかかってきている。そこをどう突破するか?

たとえば今、民法のテレビでさえ、れいわ新選組の特集をしようとしたら番組ごと潰されてしまったり、まるで戦前戦中の言論統制のような状況になってきている。

 

 

「投票に行かない人々の奮起を促す政治的メッセージとはどのようなものだろうか。

それは、既成の政治認識や経済認識の外にあるはずだ。

既成のパラダイムを超えたメッセージでなければ、彼らの心に届かない。すなわち、既存の政治通程度の半端な「判断」をひっくり返すようなパラダイムが必要なのだ。

半端な認識で「判断」なんかしちゃいけない。虚心に耳を傾けるということ。半端な知識や認識で「MMTは胡散臭い」と「判断」するべきではない。

経済学者の安富歩は、れいわ新選組の候補者発表の記者会見の席でこういっていた。「こうすれば景気が良くなるという経済政策もこうしたらだめだという経済政策もない。どちらに転んでもたまたまのことでしかない。もしも子供の貧困をなくすためという目的でなされるのなら、すべての政策がなすに値する」と。

山本太郎だって、べつにMMTを正面切って主張しているわけではない。「今すぐ貧困層の底上げをしないといけない」と熱っぽく語っているだけだ。

「投票に行かない人たち」の心に響くメッセージこそが未来を切り開くのであって、彼ら政治通の眼鏡に叶うかどうかということなどたいした問題ではない。そのさかしらな「判断」こそが、新しい世の中が切りひらかれることの足を引っ張っているのだ。

 

 

人類の歴史は、その観念的な「判断」によって動いてきたのではない。無意識、すなわち良くも悪くも生きものとしての本能のようなものに動かされてきたのであり、それは、「生きられない弱いものを生きさせようとする」こと。親鳥が雛を育てるように、人類の歴史だって、その本能のようなものに動かされながら生き残り進化発展してきた。

人の集団は、「生きられない弱いものを生きさせようとする本能」を結集することによってもっとも熱狂し盛り上がる。

今回の山本太郎の、二人の重度障碍者を「特定枠」に据えて自分たちを三番目以下にするという決断はまさに、「生きられない弱いものを生きさせようとする本能」を結集しようとすることであり、人々はそこに感動し熱狂している。それは、素敵なムーブメントではないか。だれだって、生きられない弱いものにわが身の命を捧げたい、という願いを持っている。そこに響いているのだ。

山本太郎は、本人が自覚しているかどうかはともかく、人間の本性をちゃんと認識する「哲学」を持っている。今回の彼の行動や決断は、そのへんの政治通や経済通もずっと深い哲学を持っている。

 

 

バブル崩壊以後、あるいは東西冷戦の終結以後の世界は、だれもがさかしらな「判断」をしながら、どんどん歪んできてしまった。高度な頭脳による誠実で賢明な「判断」が人類を良い方向に導くのではない。むしろそれによってこそ人の世が歪んでいってしまう。そこが人の世のややこしいとこ炉だ。この世の中は、誠実で賢明な人たちのその「判断」によって歪んでゆく。

いまだに続いている議事堂前の原発反対集会だって、だれもがみずからの「判断」に酔って「自己満足」に浸っているだけで、人と人のつながりがまるで感じられない。その景色を見た安富歩は、「これじゃあ権力側に負けてしまうだろうな、とかなしくなってしまった」といっている。同感だ。これじゃあ「野火のように広がってゆく」という大きなうねりにはならない。

それに対してれいわ新選組のムーブメントは今、テレビマスコミから徹底的に締め出されながらも、野火のように広がっている。どこまで広がるかはわからないけど、最終的に、さかしらな政治通の山本太郎信者を小ばかにしたようなご立派な「判断」と、僕の他愛なくなくまさにおバカな「感動」と、いったいどちらを反映した結果になるのか、大いに楽しみである。

右翼であれ左翼であれ、彼らのれいわ新選組現象に対する批判記事を読んでいつも思うことは、「ダメだ、こいつは。思考のレベルが低すぎる。哲学がなさすぎる。人類の歴史や民衆の魂の純潔というものを何もわかっていない」ということ。安富歩じゃないけど、僕はかなしい。彼らだけですむことならいいけど、そういうしゃらくさい「判断」をして山本太郎の足を引っ張る者たちが、この世の中の歩みをもどかしいものにしてしまっているのだ。敵は、安倍晋三だけじゃない。政治に関心があってかならず選挙に行く者たちだけで盛り上がっていてもしょうがない。彼らが、どれだけ「選挙に行かない人たち」の心を揺り動かす言説を吐くことができたというのか。

くだらない。ほんとうにくだらない。この世の中は、インテリぶった中途半端な政治通や経済通によって動いてゆくのではない。

リベラルな政治通の人たちも、知ったかぶりしてしゃらくさいことばかり言うな。お願いだから、どうか選挙に行かない人たちの選挙行動の足を引っ張るようなことはしないでくれ。

今夜は、「れいわ祭り」というイベントが品川であるらしい。この週末の3日間でどれだけの盛り上がりが起きるのか、それがこの選挙戦の趨勢を占う試金石になるに違いない。

 

 

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キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。

山本太郎とれいわ新選組の敵

 

経済評論家による多くの経済予測が当てにならないように、山本太郎のれいわ新選組の獲得議席がいくつになるかなんて、ほんとうはだれにも予測がつく話ではない。

プロの評論家であろうとアマチュアのネット民だろうと、したり顔で予測している連中なんて、バカなやつらだと思う。

われわれが知りたいのは、今ここのこの世の中においてどんな空気が流れているか、そしてどんな風が吹き始めているかということだ。

また、それぞれの候補者の政治センスや人間的な魅力がどれほどのものであるか、ということだ。

この国の政治家には哲学がない、といわれている。れいわ新選組は、そんな底の浅い政治の世界に哲学を持ち込もうとしている。今のところそれを本格的に語れるのは東大教授の安富歩だけかもしれないが、他の候補者もそれぞれさまざまな社会問題の当事者であると同時にそれぞれ言葉の裏に哲学を秘めているし、また人間的な魅力を感じさせる人たちである。まあ、今までにはなかったタイプの政治集団であり、そのことに対して与党であれ野党であれ、既成の政治家たちは大きな警戒心を募らせているらしい。

彼らは民衆の大きな支持を獲得しつつあるが、それでもしかし、今回の選挙で多くの議席を得て国会の新しい政治勢力になるためには、現政権のあからさまなマスコミ規制に加え、みずからの資金不足のために、二年前の枝野旋風のときよりもずっと高い壁が立ちはだかっている。つまり、両翼から彼らを潰しにかかってきている。そこをどう突破するか?

たとえば今、民法のテレビでさえ、れいわ新選組の特集をしようとしたら番組ごと潰されてしまったり、まるで戦前戦中の言論統制のような状況になってきている。

 

 

「投票に行かない人々の奮起を促す政治的メッセージとはどのようなものだろうか。

それは、既成の政治認識や経済認識の外にあるはずだ。

既成のパラダイムを超えたメッセージでなければ、彼らの心に届かない。すなわち、既存の政治通程度の半端な「判断」をひっくり返すようなパラダイムが必要なのだ。

半端な認識で「判断」なんかしちゃいけない。虚心に耳を傾けるということ。半端な知識や認識で「MMTは胡散臭い」と「判断」するべきではない。

経済学者の安富歩は、れいわ新選組の候補者発表の記者会見の席でこういっていた。「こうすれば景気が良くなるという経済政策もこうしたらだめだという経済政策もない。どちらに転んでもたまたまのことでしかない。もしも子供の貧困をなくすためという目的でなされるのなら、すべての政策がなすに値する」と。

山本太郎だって、べつにMMTを正面切って主張しているわけではない。「今すぐ貧困層の底上げをしないといけない」と熱っぽく語っているだけだ。

「投票に行かない人たち」の心に響くメッセージこそが未来を切り開くのであって、彼ら政治通の眼鏡に叶うかどうかということなどたいした問題ではない。そのさかしらな「判断」こそが、新しい世の中が切りひらかれることの足を引っ張っているのだ。

 

 

人類の歴史は、その観念的な「判断」によって動いてきたのではない。無意識、すなわち良くも悪くも生きものとしての本能のようなものに動かされてきたのであり、それは、「生きられない弱いものを生きさせようとする」こと。親鳥が雛を育てるように、人類の歴史だって、その本能のようなものに動かされながら生き残り進化発展してきた。

人の集団は、「生きられない弱いものを生きさせようとする本能」を結集することによってもっとも熱狂し盛り上がる。

今回の山本太郎の、二人の重度障碍者を「特定枠」に据えて自分たちを三番目以下にするという決断はまさに、「生きられない弱いものを生きさせようとする本能」を結集しようとすることであり、人々はそこに感動し熱狂している。それは、素敵なムーブメントではないか。だれだって、生きられない弱いものにわが身の命を捧げたい、という願いを持っている。そこに響いているのだ。

山本太郎は、本人が自覚しているかどうかはともかく、人間の本性をちゃんと認識する「哲学」を持っている。今回の彼の行動や決断は、そのへんの政治通や経済通もずっと深い哲学を持っている。

 

 

バブル崩壊以後、あるいは東西冷戦の終結以後の世界は、だれもがさかしらな「判断」をしながら、どんどん歪んできてしまった。高度な頭脳による誠実で賢明な「判断」が人類を良い方向に導くのではない。むしろそれによってこそ人の世が歪んでいってしまう。そこが人の世のややこしいとこ炉だ。この世の中は、誠実で賢明な人たちのその「判断」によって歪んでゆく。

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くだらない。ほんとうにくだらない。この世の中は、インテリぶった中途半端な政治通や経済通によって動いてゆくのではない。

リベラルな政治通の人たちも、知ったかぶりしてしゃらくさいことばかり言うな。お願いだから、どうか選挙に行かない人たちの選挙行動の足を引っ張るようなことはしないでくれ。

今夜は、「れいわ祭り」というイベントが品川であるらしい。この週末の3日間でどれだけの盛り上がりが起きるのか、それがこの選挙戦の趨勢を占う試金石になるに違いない。

 

 

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です。

れいわ新選組は新しい時代を切りひらくことができるか

れいわ新選組は今回の選挙の台風の目になれるだろうか。

政治や選挙に詳しい人たちは、わかったような顔で、せいぜい2~3議席とるのがやっとだろう、と口をそろえていっている。

しかし世の中は、すべて彼らのいう通りに動いているわけではない。

明日のことなんか、だれにもわからない。

2年前に枝野旋風が起きた選挙のときでも、最初は現職以外に当選するのは数名程度だろうといわれていた。だが、いざふたを開けてみれば40人以上の新人が当選し、比例票も1千万を超えていた。このことを、いったい世の選挙通の誰が予想しただろうか。選挙期間中にどんどん支持率が上がってゆき、彼らはその数字をもとに最終的な予測をしたに過ぎなかった。

まああのときの立憲民主党には最初から大物の現職議員が数人いて正式な「政党」として認められていたから選挙期間中もそれなりにマスコミに露出していたが、今回の現職議員が山本太郎ひとりだけのれいわ新選組は、今のところネット界隈で騒がれているだけでマスコミからはほとんど無視されている。そういうハンデキャップはあるが、しかし、前回の枝野幸男よりも山本太郎のキャラクターのほうが外見的にも人柄的にもずっと華があるし、演説の説得力においても負けていない。そして他の候補者たちもそれぞれが既成の政治家にはない人間的な魅力をそなえており、聴衆の心をわくわくさせてくれている。そういう意味で、まったく新しい選挙の風を吹かせているともいえる。

というわけで、この国のネット情報網がどれだけ定着しているかということが試されてもいる。

フランスのイエローベスト運動も香港の100万人デモも、ネット情報を基礎にして起きている。

 

 

現在の世界の政治や経済を支配する者たちは、腐り果てている。どうしてこんなになってしまったのだろう。この国はとくにひどいのかもしれない。民衆が権力に従順で選挙にも行かないお国柄だから、支配者たちのやりたい放題になっている。総理大臣も資本家も官僚も、まともな人間とは思えない。人間はもともとそんな存在ではないはずなのに、この世の中に人間に対する憎しみと支配欲が蔓延してしまっている。憎しみが駆動していなければ、こんなにひどくなるはずがない。今やその憎しみはだれの中にもしみ込んできている。だからあのような人間たちが登場してくるのだろうし、民衆社会の中にだって、憎しみに駆り立てられたセクハラやパワハラやDV等が渦巻いている、

憎しみの水源は、「恐怖」にある。だから彼らは、人々に恐怖を植え付けて支配しようとする。

彼らにとって何が恐怖なのか?それは、人から見放されることだ。

親に愛されていない子供は、親から見放されることにおびえている。

嫌われ者にとって一番怖いのは、人から見放されることだ。それはもう、集団をつくる生きものである人間においては、普遍的根源的本能的な恐怖であるのかもしれない。その恐怖をもとにして近代文明は、競争社会を加速させてきた。競争に勝たなければ人から見放される……という恐怖。

と同時に、集団をつくる生きものである人間は、普遍的根源的本能的に人から見放されることを怖がっていない存在であるともいえる。それが人間性の自然であるのかもしれない。

だれの中にも、人から見放されることの恐怖・警戒心と、見放されることを何も心配していない他愛なく無防備な心の両方が混在している。まあ、友達や恋人と一緒にいれば無防備になれるし、それでも警戒心を捨てきれないのは病んでいる状態だろう。そして警戒しているぶんだけ心も体もこわばって世界にうまく反応できない。

シマウマは、ライオンのそばで悠然と草を食んでいる。しかし無防備だからこそ素早く豊かに反応することができる。これはまあ、人間の武道の達人も同じに違いない。

日本列島の伝統である「色ごとの文化」においては、無防備になることの醍醐味を称揚してゆくことにあり、セックスのエクスタシーはそうやって汲み上げられる。人と人が他愛なくときめき合う文化なのだ。

日本人は権力に対して無防備だから他愛なく支配されるし、支配されつつすでに他愛なくときめき合う民衆だけの小さな世界に逃げ込んでもいる。だから政治に対して無関心であり、江戸時代までは国歌も国旗もないまま村社会の豊かな民衆自治の習俗を育ててきた。

山本太郎は、そういう「民衆自治」の伝統を、現在の議会制民主主義の場に持ち込もうとしている。そういうかたちで「直接民主主義」の集団性を反映させようとがんばっているわけで、それは、現在の世界のもっとも前衛的な民主主義思想なのだ。

 

 

直接民主主義は、支配者や富裕層をはじめとするこの世の「嫌われ者」の敵である。

多様性の社会がどうとかというが、差別主義やファシズムももう一方の思想だといえるはずがない。差別主義やファシズムをこの世から失くすことは人類の悲願なのだ。差別主義者やファシストはこの世から抹殺しなければならない。しかしそれは、彼らを殺せというのではない。彼らが差別主義者やファシストでなくなればいいだけの話で、それだけのことだ。それだけのことだがしかし、「嫌われ者」がのさばるこんな世の中であれば、遠い遠い悲願でしかないのかもしれない。

彼らは「正義=法」によって人を支配する。「嫌われ者」は、人を支配しないことには、この人の世では生きられない。

まったく、この国の総理大臣なんて、絵にかいたような「嫌われ者」である。どうしてこんな醜悪な人間がのさばっているのかとうんざりするが、彼のような頭の悪い「嫌われ者」を担ぐことこそ、民衆を支配するためにはもっとも有効なのだ。彼個人にはものを考える能力はまるでないが、差別主義者やファシストの進言によろこんで同意できる人格や出自を持っている。彼らにとって、こんな都合のいい操り人形もない。この操り人形に最大の「権力=正義」を持たせれば、それを担ぐ者たちはやりたい放題のことができる。

総理大臣自身には、やりたいことなど何もない。彼には、そんな思考力も想像力もない。ただ、総理大臣でいたいだけであり、みんなにちやほやしてもらいたいだけ、「嫌われ者」はそれが人生最大の目標なのだ。

まあ彼は、天皇とは対極の存在だといえる。天皇は、すでにだれからもちやほやされているから、そんなことは何も望まない。ひたすら民衆をちやほやしたいというか、ひたすら民衆の安寧を願っている。それに対して彼は、自分がちやほやされていられるのならそんなことはどうでもいい。野垂れ死にする民衆がいれば「お気の毒です」といっておけばいいだけのこと、心なんか何も痛めていない。知ったことではない。おそらく病的なくらいそう思っている。

まあ「嫌われ者」というマイノリティである世のネトウヨたちだって、病的なくらい自分が「マジョリティ」の立場を欲しがり、「日本人に生まれてよかった」と合唱しつつ朝鮮人LGBT等を差別してゆく。それは、総理大臣とほぼ同じメンタリティなのだ。

「総理大臣」という正義の立場、「日本人」という正義の立場。そんなものは正義でもなんでもない、というのではない。そうやって「正義」という「人を支配する装置」にしがみつくことが醜悪ではた迷惑なのだ。

 

 

「嫌われ者」は「正義」を目指す。

現代社会におけるお金は、「正義」であり、「神」である。

貨幣の本質は「贈与=プレゼント」にある。だから世の中に貨幣が流通する。持てば使いたくなるのが本質である貨幣を、それでも守銭奴のように貯め込みたがるのは、それがその人にとっての「正義」であり「神」であるからだ。

現代社会においては、守銭奴が経済を支配しており、「正義」も「神」も守銭奴のもとにある。ユダヤ金融資本家に代表される守銭奴のもとにどんどん貨幣が吸い上げられ貯め込まれてゆくから、世の中の貨幣は不足してゆくばかりで、政府はどんどん貨幣を発行しなければならなくなる。

守銭奴によって支配される社会とは、「正義」と「神」によって支配される社会でもある。守銭奴は、「正義」と「神」のもとにあるという自覚で充足している。「正義」と「神」は選ばれた者のもとにあらねばならない。だから彼らは、他者が貨幣を持つことを許さない。あの手この手で奪いにかかる。彼らの「選民思想」は、「人間に対する憎しみ」の上に成り立っている。使い切れない金をため込んでもしょうがないじゃないかと思うのは貧乏人の発想で、彼らは、世の中に出回っている金は残らず自分のもとに引き寄せたいのであり、出回っていることが許せないのだ。出回っていれば、自分が「選ばれたもの」であることの根拠が危うくなる。そうして自分が「神」や「正義」から見放されるのではないかという恐怖が起きてくる。「嫌われ者」だから、自分は「神」や「正義」から見放されているのではないかという不安がいつもある。そしてこの不安は、ネトウヨというか世のレイシストファシストの不安でもある。

現代社会は、「神」や「正義」によって「選ばれた者」であろうとする者たちのその強迫観念に支配され、こんなにも歪んだものになってしまっている。

その歪みを克服するためには、彼らから「神」や「正義」を取り戻すのではなく、「神」や「正義」を屠り去らねばならない。というか、「神」や「正義」などというものは、もともと存在しないのだ。

にもかかわらず彼らは、ひたすら「神」や「正義」に執着してゆく。「嫌われ者」である彼らを守ってくれるのは、「人間」ではなく、人間を支配する「神」や「正義」であり、「人間に対する憎しみ」を抱いている彼らは、人間を支配する「神」や「正義」に激しくすがりついてゆく。「貨幣」という名の「神」や「正義」や「権力」に。

貯め込まれた貨幣など、「価値」でもなんでもない。彼らは「価値」をため込んでいるのではない。「神」や「正義」や「権力」などのほんらいあるはずのないものを貯め込んでいるにすぎない。そうやって「嫌われ者」であることの恨みを晴らしているというか、そうやってこの世界から排除されることの不安と恐怖に急き立てられている。

 

 

まあ「金の世の中だ」ということは、だれもが「神」や「正義」や「権力」を欲しがっているということになるわけだが、「金=貨幣」の本質は「与える」ものであって「貯め込む」ものではない。つまり金であろうと命であろうと、人はそのもっとも大切なものが消えてなくなってしまうことにこそ、もっとも深いカタルシスを覚える、ということだ。だから貨幣は世の中に出回るのだし、人はみずからの命を他者に捧げようとする。

起源としての貨幣であるきらきら光る貝殻や石粒は原始人にとっていちばん大切なものだったのであり、だからこそそれを他者にプレゼントした。現代人が宝石のエンゲージリングをプレゼントすることだって何も変わりはない。貨幣の本質は、今なお「贈与=プレゼント」の形見であることにある。人はそれを、命の形見として捧げる。

何ごとにおいても、命がけでやることほど楽しいことはない。そうやって原初の人類は二本の足で立ち上がったのだし、地球の隅々まで拡散していった。それは、たとえば諏訪の御柱祭や岸和田のだんじり祭りなどに象徴されるような、ひとつの命がけの「祝祭」だった。

貨幣の流通だって、その本質は「祝祭」なのだ。原始時代だろうと現代だろうと、貨幣は「祝福の形見」として存在している。お気に入りのセーターを買うことは、貨幣によってそのセーターを祝福する行為であり、そのセーターに貨幣を捧げる行為なのだ。ネアンデルタール人クロマニヨン人が、死者の埋葬に際して花やビーズの玉を捧げたように、他者を祝福し捧げものをすることは人間の本能なのだ。

こんなことをいうと、能天気な性善説だといわれそうだが、文明社会は権力者や資本家の悪意が民衆のそうした支配を受け入れてしまう本性を利用することによって動いているのであり、現在のこの国の権力社会は性悪説という非人間的な「嘘」の上に成り立っていると考えている。しかもこのごろは、民衆の中にもその悪意が深くしみ込んできている上に社会システムがとても複雑になっているから、なおさらどうにもならなくなっているのだろう。

この閉塞感……とにかくこの複雑に絡み合った社会システムは、人間性の自然から大きく逸脱した「嘘」によって支配されている。ここを突破することは容易ではないし、おそらく「性善説」によってしか突破できないに違いない。

世の中はきれいごとじゃない、などと性悪説に居直り知ったかぶりをしていたら、彼らの思うツボなのだ。

それでも人間の本性は、他愛なくときめき合いわが身を捧げ合うことにある。「現代貨幣」だって、本質的にはそういうことの上に成り立っている。

 

 

ここ数年、何度選挙しても傍若無人にでたらめなことばかりしている自民党が勝つということは、いろんな「時のいたずら」が重なって起きているのだろうが、このままでは取り返しのつかないことになってしまう……その危機感に迫られて山本太郎はれいわ新選組を立ち上げ、これでいいのか、と訴えている。

いいはずがない。いいはずがないのに、この世の中には「このままでいたい」と思う人がたくさんいる。この、真綿で首を絞められているような奇妙な閉塞感と隣り合わせの充足感のことを、れいわ新選組の立候補者のひとりである安富歩は「ラグジュアリーな地獄」といった。

「このままでいい」と思っている人は、まだまだたくさんいるのだろう。この停滞した状況をもとにした既得権益をむさぼっている富裕層はもちろん「このままがいい」のだろうし、既得権益にあずかれない民衆の中にも今より悪くならないのなら「このままでいい」と思っている者たちがいる。何しろもっとひどい状態の餓死寸前の人たちがたくさんいる世の中で、それを知ればこそ今の状況が変われば自分もそうなってしまうかもしれないという不安がある。まったく、うまい具合に仕組まれているものだ。彼らは、餓死寸前の人たちに手を差し伸べようという意欲などない。「自助努力」とか「自己責任」というプロパガンダが横行している新自由主義の競争社会なのだもの、手を差し伸べないことが正義で、手を差し伸べることは競争を放棄することを意味する。そうやって多くの民衆が、じわじわと真綿で首を絞められている。安富歩によれば、「オーガニックな真綿」だってさ。

このように逼塞した社会状況からネット界隈に噴出してきているネトウヨと呼ばれる者たちはもう、在日外国人や性的マイノリティはもちろんのこと身体障碍者にまであからさまなヘイトスピーチをぶつけて恥じない。世の中狂っている、としか思えない。この国は、いつからこんな恥ずかしい国になってしまったのだろう。こんな醜悪な人間たちが、正義は自分たちのもとにあると信じて疑わないのだ。なぜなら彼らは権力社会にすり寄る者たちであり、権力社会から容認されている存在だからだ。この国の総理大臣のまわりに集まっている多くの議員や官僚とか資本家とか百田尚樹とか櫻井よしことか、みなネトウヨと同じ人種なのだ。どうしてそんなふうに権力にすり寄って充足を得ようとするのか。その意地汚さが醜悪なのだ。

かつての右翼は、反権力で少数者の味方だった。彼らは国家など信じていなかった。天皇を信じていたのだ。

この国の民衆社会は、権力社会とは別の、ときめき合い助け合う民衆自治の習俗を持っていた。今どきの右翼たちは、その伝統を捨てて、どうして権力社会にすり寄り、差別やヘイトスピーチを繰り返すのか。彼らは民衆社会の「嫌われ者」であり、そのルサンチマンを推進力にしながら権力社会の側に立って民衆社会を呪っているのだ。

民衆社会がときめき合い助け合う社会であるのに対し、権力社会は憎み合い排除し合う闘争社会であり、それがネトウヨたちの性に合うのだろう。そういう権力社会のメンタリティが民衆社会にも浸透してきているのが現代であり、民主主義というなら、ときめき合い助け合う民衆社会のメンタリティこそが権力社会に浸透してゆくように変えてゆかねばならない。そのような時代の転換を目指して、山本太郎は今立ち上がった。果たしてこのムーブメントは、どこまで広がってゆくことができるのだろう。

 

 

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です。

選挙がはじまった

山本太郎が街宣のときに消費税減税とか財政出動とかの経済の話を延々とするのは、経済オンチの僕としては正直言ってちょっと鬱陶しかった。しかし世の中の多くの人はその話にこそ関心を寄せてくるのだから、それはまあしょうがない。

ただ僕は彼の人間的な魅力にとても興味があるし、他の候補者たちもそれぞれ既成の政治家にはないピュアなハートをそなえているように見える。それぞれが、それぞれに現在のこの国の矛盾を告発している。「類は友を呼ぶ」で、山本太郎同様に彼らの熱くひたむきな裏表のない人柄に人々が引き寄せられるのなら、大きな風になる。理屈よりも「情」に訴えるのが選挙の王道なのだ。

人の世は、良くも悪くも「情」の上に成り立っている。だから歴史は理屈道理には進まないのだし、AIだけでは制御しきれない側面がある。

人の世の動きは、即興のライブなのだ。

現在の大方の選挙通の分析によれば、れいわ新選組が獲得するのはせいぜい2~3議席だろうといわれているが、その予想を覆してほとんど全員が当選するということが起きる気配もないわけではない。

選挙がはじまった。

れいわ新選組の熱気は、どこまで広がるだろうか。

 

 

とにかくれいわ新選組の中心政策は経済的な格差・貧困問題にある。

というわけで今回はちょっと、お金のことについて考えてみたい。

世の中のしくみについて考えるとき、お金=貨幣の本質を問うのもひとつの方法かもしれない。

起源としての貨幣がきらきら光る石ころや貝殻だったということは、だれでも知っている。しかし原始時代のそれは、「交換」の道具ではなく、あくまで一方的な「贈与=プレゼント」の品物だった。だってそんなものは、人が生きてゆくための衣食住のことには何の役にも立たないのだから、衣食住のものと交換できるわけがない。海の魚と山の果実を交換するのとはわけが違う。

MMT(現代貨幣理論)によれば、貨幣によって負債がつくられるのではなく、負債によって貨幣が生まれるのだとか。銀行が持っている貨幣は何かの「もの」と交換するためのものではない。ただの「数字」だともいえる。それを誰かに貸し与えたときすなわ、すなわち「贈与」という行為が起きたときにはじめて、ただの「数字」ではなく、世の中に流通する「貨幣」になる。まあ、このようなことらしい。財政出動には国債を発行すればいいとか、ベイシックインカムとか、本質的には「贈与」の理論なのだ。

 

 

原始時代から現在まで、人は「きらきら光るもの」が好きで、それは生き延びるための衣食住のもの以上の価値を持っている。だから今でも、金やダイヤモンドこそが最大の価値になっている。そしてこのことは、人間性の自然・本質が「生き延びる」ことを目指すことにあるのではないことを意味している。「生き延びる」ことよりももっと大きな「価値」の象徴として金やダイヤモンドがある。

人間にとって「自分が生き延びる」ことよりもっと価値があるのは「他者が生き延びる」ことであり、そうやって女は子を産み育てているわけで、それは「他者に命を捧げる」ことだともいえる。つまり、人間は「贈与=プレゼント」をしたがる生きものだということで、きらきら光る貝殻や石ころはそのための形見として生まれてきた、ということだ。

2万5千年前の原始人(ロシアのスンギール)の遺跡においては、おびただしい数のビーズの玉を添えて死者が埋葬されていた。それはきっと村中からかき集めてきたものであったにちがいなく、彼らはそれを惜しげもなく死者に捧げた。原始人はしばしばそういうことをするわけで、そういう「贈与=プレゼント」の衝動こそ人間性の自然・本質なのだ。

それは「交換」という行為ではない。土の下に埋めてしまうのだから、それらはもうこの世から消えてなくなるのだ。それでも、そうせずにいられなかった。そしてそれは、死者のものになることによってはじめて「価値」になった。

文明社会は自分の持っているものを「価値=私有財産」とすることの上に成り立っているが、それでも自分のものに飽きて新しいものに買い替えようとするではないか。本質的には、自分のものになった瞬間から、それは「価値」ではなくなるのだ。

すべてのものは、他者に与えて他者が喜ぶことによってはじめて「価値」になる。現代社会においても、けっきょくのところそのことの上に「売買」という行為が成り立っている。どんなに素晴らしいものをつくっても、他人がよろこばないものなど売れるはずがないではないか。

 

 

「きらきら光るもの」は、衣食住には何の役にも立たない。ただ好きなだけで、なんの「価値」でもない。それでもそれが衣食住のものと「交換」できるようになるまでには、とても長い歴史の時間を要した。原始人が初めて貝殻の首飾りをつくってから文明国家で「交換」の道具としての「貨幣」が生まれてくるまでには、およそ10万年くらい経っている。

そのきらきら光る貝殻や石ころは、だれかが欲しがったりもらって喜んだりすることによって、はじめて「価値」になる。もともとは「価値」でもなんでもないのに、そのとき突然「価値」になる。

人間性の自然・本質は、他者に命を捧げることにある。

それはもともと「価値」ではないのだから、「交換」の道具にすることは原理的に不可能であり、それでも「交換」の道具となるための先見的な「価値」を持たせるためには、あるメタフィジカルな思考の「飛躍」を必要とする。人類は、そのメタフィジカルな「飛躍」を獲得するまでに10万年以上の歴史の時間を要したし、現在の貨幣経済だってこの「一方的な贈与」という本質をはらんでいる。

なぜそれが10万年以上もの歴史の時間を必要としたかといえば、人間はしんそこ「贈与=プレゼント」が好きな生きものであり、その「一方的な贈与」というかたちを失いたくなかったからだ。

まあ日本的な言葉でいえば「交換」などということはひとつの「けがれ」であり、原始人には人間性の自然としてその行為に対する後ろめたさがあったが、文明社会はそれを振り払ってそれを「正義」にしていった。つまり「神」という概念を持った文明人は、その思考法をもとにして「きらきら光る貨幣」もまた「神」のような全能のアイテムにしていった。

とはいえ人間が人間であるかぎり、「贈与=プレゼント」の本能から逃れることもできないわけで、現代社会の「貨幣」だって本質的にはそうした本能の上に成り立っているのであり、それがMMT(現代貨幣理論)であるらしい。

原初の貨幣は、「贈与=プレゼント」されることによってはじめて「価値」になった。そしてそれが、MMTにおける「貨幣は負債として発生する」ということでもある。おそらく貨幣の本質は、現代においても変わっていない。人間性の自然・本質としての「贈与の衝動」が豊かに機能していなければ、豊かな貨幣の流通もない。なんのかのといってもこの国の「戦後復興」が目覚ましかったのは、困っている人に手を差し伸べようという「贈与の衝動」が豊かに機能している社会だったからだ。とくに終戦直後はそうだったし、東日本大震災の直後だって、たくさんの寄付金やボランティアの人が集まった。

山本太郎のれいわ新選組が2か月で無名の民衆による2億円の寄付金を集めたのも、「贈与の衝動」が結集したことの証しにほかならない。少なくともそれは、「交換」の道具としての貨幣ではない。「交換」の道具であることは、文明社会における貨幣の属性のひとつであっても、本質ではない。

 

 

人類の「貨幣」が純粋な「贈与」の形見である段階から、文明国家の発生とともに「交換」の道具としての性格を加えていったその端境期の商業形態として「沈黙交易」というのがあった。

たとえばこれはアフリカのある地方でつい最近まで残っていた習俗であるらしいのだが、海の民が塩の入った袋を山の村まで運んでゆき、それを村の入り口に並べて帰ってゆき、すると次の日その袋の前にそれぞれお金が置かれてあり、戻ってきた海の民はその値段に納得した場合はお金だけをとり、納得しなければ塩の袋だけを引き取って帰ってゆく。このとき売り手と買い手はまったく顔を合わせない。

どうしてこんな面倒なことをしなければならないのか。「交換」というかたちにしたくないからだろう。とにかくどちらも、「一方的な贈与」として塩を差し出し、お金を差し出す。そういうかたちにしないと気持ちの収まりがつかない。これが原始的なメンタリティなのだ。そしてこの「交渉・交換をしない」という「沈黙交易」は、日本列島でも明治時代まで村と村の境の峠の茶屋や神社などを拠点にしてなされていたらしい。日本列島の場合は文明制度が発達してもなお、そのような「貨幣の本質は一方的な贈与にある」という原始性を色濃く残しているし、じつは世界的のその本質は変わっていないのではないだろうか。

 

 

奢ってもらうより奢ってやるほうが気持ちいいに決まっているし、だれだって困っているだれかに手を差し伸べたいという思いはあるわけで、それによって人間の世界の貨幣が流通してゆく。これが基本であるわけだが、現在においてはその基本が壊れてしまって一部のエゴイスティックな「嫌われ者」によって貨幣経済が動かされている。というか、だれもがエゴイスティックな「嫌われ者」になってお金を稼がないと生きてゆけない世の中になってしまった、ということだろうか。そうやって、世の中の「ときめき合い助け合う」という関係性や集団性が壊れてゆく。いや、すでに壊れてしまっているのかもしれないのだが、それでも人が人であるかぎり、人の心から「贈与の衝動」が消えることはないし、それがなければ「貨幣」という概念は成り立たない。

富裕な商人が土蔵の中に千両箱を100個も200個も積み上げてゆく……こんなことばかりしていたら、世の中に流通する小判はどんどん消えてゆく。現在の大企業の内部留保の増大という現象だっておそらくこれと同じだろうし、彼らに「贈与の衝動」や「ときめき合い助け合う関係性」を求めても無駄なのだろうか。無駄かもしれないがしかし、貨幣の本質は「贈与の衝動」ともに動いてゆくものであるがゆえにそこへと吸い上げられてゆくわけで、彼らそうした人間性の自然・本質に寄生して貨幣をため込んでいる。

人の心から「贈与の衝動」がなくなったら、「貨幣」など成り立たない。

国債などというものは、品物としてはなんの価値もない。これを一般の投資家が買う。買うといっても、なんの価値もないただの紙切れなのだから、「贈与=プレゼント」するのと同じだろう。もちろんそれは日本銀行で換金できるという保証があるわけだが、ひとまず「贈与」というかたちをとらないと気がすまない人間性の自然・本質があり、一部の資本家たちがその性格を利用し寄生しながらこの社会の経済システムをとてもややこしいものにしてしまっている。

貨幣の本質がただの「交換の道具」であるのなら、おそらくこんなややこしい社会にはなっていない。「贈与の形見」であるから、世の中に流通するし、ひとつのところに吸い上げられ、ため込まれて消えてしまうことにもなる。「交換の道具」ではないから消えてしまうのだ。「交換の道具」であったら、消えてしまうはずがない。

この世界のほとんどの貨幣は、1パーセントの金融資本家のもとに吸い上げられ、消えていってしまう。だから政府は、次々に貨幣を発行し続けねばならない。それは、貨幣の本質が「交換」ではなく「贈与」にあるからだ。

 

 

まあ、われわれが納める税金も本質においては「贈与=捧げもの」なのだし、商店で品物を売買するときでも、たがいに「贈与」されることの感謝やよろこびがなければ活性化しない。

もしかしたら共産主義社会が失敗したのは、貨幣のシステムがあまりにも合理的過ぎてというか、貨幣の機能が「交換の道具」だけになって、「贈与」という機能を失ってしまったからかもしれない。つまり、売るほうにも買うほうにも「贈与」されることの感謝もよろこびもない社会になってしまった。売ることのよろこび、買うことのよろこび、そういう感慨が起きてこなければ、経済が活性化するはずがない。

良い商品を差し出すことのよろこびと貨幣を差し出されることのよろこび、そして良い商品を差し出されることのよろこびと貨幣を差し出すことのよろこび、すなわち、贈与することのよろこびと贈与されることのよろこび、そういう関係がはたらいていなければこの社会の経済は活性化しない。

すなわち、「人情の機微」というものを無視したら商品経済は活性化しない。そして、「人情の機微」を無視して「贈与のよろこび」も「贈与されることのよろこび」もまったく感じない者たちによって貨幣が吸い上げられ消えていってしまう。「ホリエモン」や「ひろゆき」のような功利主義の根っからの「嫌われ者」はとても上手に貨幣を吸い上げてため込んでいるし、今やもう「嫌われ者」になって金を稼がないと生きられない社会でもある。

彼らは、貨幣の本質に寄生しているのであって、「贈与の形見」としての貨幣の本質を生きているのではない。

われわれはもう、「貨幣は<交換>の道具である」という既成観念を捨てるべきではないだろうか。MMTだって、もしかしたらそういうパラダイム・シフトというかコペルニクス的転回の認識の上に成り立っているのかもしれない。

MMTとは、「贈与の理論」、ということだろうか。人の世は、根源的には「一方的な贈与」の上に成り立っている。「助け合う社会」とは、「誰もがわが身を他者に捧げている社会」のことだ。いやもちろんそれは一年中というのではなく、いざとときはそういう関係になれるのが人間であり、そういう関係になれる心を持っていることの上に世の中が成り立っている。

ときめいたら自分のことなど忘れているの。「ときめく」とは「わが身を捧げる」ことだ。「助け合う社会」とは「ときめき合う社会」のことであり、そういう関係が希薄だから、経済が停滞する。因果なことにこの国の現在は、社会的な経済の停滞を基礎にして金持ちがより金持ちになってゆくことができるような仕組みが出来上がっている。

搾取の構造というか、貧乏人は金持ちから食い物にされていて、骨の髄までしゃぶりつくされている。まあ文明社会はいつの時代もそうだったともいえるわけだが、その理不尽を克服しようとするのがMMTであり民主主義である、ということだろうか。

 

 

「貨幣」の本質は、人間性の自然としての「贈与の衝動」の上に成り立っている。「交換の道具」ではない。「贈与の形見」だからこそ一部の資本家に一方的に吸い上げられてしまうということが起きる。しかもそれはもう文明国家の発生以来続いてきた現象なのだから、そうかんたんには解決できない。

人類史における貨幣の起源を語るとき、世の歴史家は、「物々交換」の習俗が発展して貨幣が生まれてきた、というが、そうではない。話が逆なのだ。

原初の人類はまず「きらきら光るもの」というなんの役にも立たないものを愛でることを覚え、それを「贈与=プレゼント」するようになっていった。この「贈与の衝動」は、たとえば親鳥が雛に餌を与えるように、生きものの本能だともいえる。この「贈与=プレゼント」の関係の上に「価値」が発生する。「価値」を感じるから、プレゼントしたくなるし、プレゼントされて喜ぶ。感じなければ、する気にならないし、されてもうれしくない。しかし、どちらか一方が感じるだけでは「価値」にはならない。したくなる気持ちとされて喜ぶ気持ちの「関係」が生じ、それが社会的に広がってゆくことによって、はじめて「価値=貨幣」になる。

「交換=交易」ということを覚えたからではない。貨幣を持ったから、「交換=交易」をするようになってきた。

原始人の社会では一方的に「贈与=プレゼント」をする関係があっただけで、その関係が発展して「貨幣」が生まれ、その後に「貨幣」を使って交換するようになったのであり、人類は「貨幣」という「価値」を生み出したことによって「交換」という行為を覚えていったのだ。

原始社会には、一方的な「贈与=プレゼント」という関係しかなかった。「沈黙交易」という歴史的習俗は、そのことの証明になっている。先験的に「物々交換」をしていたら、こんなややこしい交換の仕方なんかするものか。

 

 

人間性の自然は「贈与=プレゼント」をすることにあり、現代貨幣だって本質的にはそのことの上に成り立っている。

ただし資本家は、その本質に寄生しつつ、みずからはその衝動を持ってはならない存在でもある。

資本家が「贈与の衝動」に目覚めることはない。目覚めてはならない存在なのだ。この資本主義社会においては搾取をして蓄財することは正義であり栄光であり、その能力は、他者に対する無意識的な「悪意=憎しみ」とともに育ってゆく。資本家は、その「悪意=憎しみ」を隠し持ちながら民衆の「ときめき」に付け込んでゆく。

現代社会は、「悪意=憎しみ」が培養される構造になっている。もしかしたらそれは、民主主義の世の中になったからかもしれない。もともとそれは政治家や資本家の社会で特徴的なメンタリティだったが、今や民衆社会にも広がっている。原初以来の普遍的な人間性の自然としてときめき合い助け合うことを基礎にして動いていたはずの民衆社会も、今やまるで権力社会の権力闘争のように「悪意=憎しみ」をため込んで競争する社会になってしまっている。

ソ連の崩壊とともに東西冷戦の時代が終わり、一時は資本主義社会の正当性が証明されたようにいわれていたが、ここにきて資本主義の先頭ランナーだったアメリカの衰退がはじまり、かえって資本主義社会の矛盾が露呈してきた感がある。

競争だけの社会だからこそ、「悪意=憎しみ」が意識の底に沈殿しながら、取り除くことが不可能の状態で社会全体に広がってゆく。今やわれわれのこの社会は、目に見えぬ「悪意=憎しみ」が縦横に張り巡らされている。善人ばかりの世の中で、しかし誰の中にも「悪意=憎しみ」が潜んでいる。天国のような地獄……そんな世の中を自画自賛している権力者やネトウヨの気が知れない。

 

 

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キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。