今宵逢ふ人みな美しき

新しい天皇・皇后即位の祝賀パレードは、ずいぶん盛大で華やかだった。たしかに車の上のご両人は美しく輝いていたし、それ見守る群衆の目もいきいきと輝いていた。

この光景を見たら、権力者だって改めて天皇の人気を認識し、ますます政治利用しようという野心を膨らませたにちがいない。

現在の総理大臣は天皇家にあまりよく思われていないとのもっぱらの評判だが、鈍感なご当人が気づくはずもないだろうし、天皇を政治利用することに対するつつしみも後ろめたさもさらさらないにちがいない。そうしてこのごろは取り巻き連中も、あれほど頑迷に反対していた「(次は)愛子天皇」という案を容認しはじめているらしい。

まあ民衆の8割以上がその案を支持しているのだから、それを無下に踏みつけにすると政権がひっくり返りかねない、と心配しているのだろう。

もともと「男系男子」とか「万世一系」などということが歴史的事実であるという根拠など何もないのだし、そういういじましい作為性を離れた人の世の自然としての「なりゆき」を大切にする文化の伝統によって天皇制が長く引き継がれてきたのだ。

いちおう「政教分離」のたてまえであるのなら、そんなことは天皇家宮内庁で決めればいいだけのことで、いちいち政治が口をはさむことではない。そういう「不敬」なことはつつしむのが日本人としてのたしなみなのだ。

極端なことをいえば、次期天皇はどこかからもらってきた養子でもかまわない。大切なことは「血筋」ではなく「天皇家で育った」ということであり、それがほんとうの「歴史=伝統の継承」というものだろう。それはまあ「三代続けば江戸っ子」というのと同じで、もとはアメリカ人でも三代続けて日本列島に住めば、まぎれもなく日本人なのだ。

何はともあれ素敵な人が天皇であればそれでよい。

いつの時代も人の世は「憂き世」で、せめてこの世のどこかに素敵な人がいてほしい。そういう「遠いあこがれ」の形見として天皇が存在するわけで、「遠いあこがれ」が息づいている心によって世界の輝きに対する「出会いのときめき」が体験されるのだし、「出会いのときめき」がなければ人は生きられない。

天皇は、この世のどこかに存在するであろう素敵な人であり、身近な対象であってはならないし、ましてや支配するべき対象ではさらにない。だから、「万世一系」だの「男系男子」だのと厚かましいことをいうべきではない。

天皇はその本質においてミステリアスな存在であり、同時にだれにとってもこの世界もすべての他者もその本質においてはミステリアスな対象であるのだし、そういう「不思議」にときめく心の形見として天皇が祀り上げられている。

 

 

不思議すなわち非日常の祝祭……そこから天皇が生まれてきた。だから民衆は即位の礼の祝賀パレードに熱狂するわけだが、政治に無関心な民衆がこんなにも熱狂するということは、天皇を政治的な存在だとは思っていないことを意味する。だから戦後の民衆は、左翼のインテリたちがどれほど「天皇の戦争責任」を煽っても、それを問おうとしなかった。

戦後左翼の蹉跌……50年代の全学連や60年代の全共闘学生運動がけっきょく民衆を巻き込むことができないまま成功できなかったのも、天皇制を否定したからだし、民衆がもともと国の政治に関心がない存在だったからだ。

日本列島の民衆の心を政治に向けさせることは難しい。だからこんなひどい政治がまかり通ってしまうし、政治的な関心をどれほど啓蒙しても投票率は上がらない。選挙が「非日常の祝祭」になって、はじめて盛り上がる。

つまり、ひどい政治を批判するだけでは投票率は上がらない。日本列島の民衆は、みずからのひどい人生を受け入れるようにして、ひどい政治も受け入れてしまう。もしも投票に行くとしたら、他者のために行く。他者に手を差しのべることだって本質的には他者の輝きを祝福する行為であり、そのような気分で投票に行く。

たとえば、山本太郎の街頭宣伝には、たくさんの聴衆が集まってくる。そうして彼がけんめいに「困っている人に手を差しのべたい」と訴えるとき、聴衆は山本太郎が自分を救ってく

れると期待するのかといえば、そうではない、自分も山本太郎のように誰かに手を差しのべたいと思う、そういう祝祭の場として盛り上がっているのだ。

言い換えれば、現在のひどい状況は、人々の心から「誰かに手を差しのべたい」という願いがどんどん失われていっている、ということだろうか。

日本列島の民衆はもともと右翼でも左翼でもなく、たんなるノンポリである。伝統的に「国家」というものを信じていない。それは、四方を荒海に囲まれた島国で「異民族」という存在を意識しない歴史を歩んできたこととともに、国家という政治権力の組織の上に政治権力とは無縁な「天皇」という存在がいる構造になっていたからでもある。

天皇はその本質において、たとえば源氏物語光源氏のように国家の政治権力よりも「色ごと」すなわち「人と人のときめき合う関係」のほうに大きな関心があり、だから今でも「民の安寧を祈る」ということを第一の仕事にしている。そして天皇は「国民」という存在ではなく、「国家の外」の存在である。というわけで天皇を慕っている民衆もまた、国家の政治権力に関心がなく、伝統的に「国民」という意識が薄い。

現在は、50パーセントの民衆が選挙に行かない。彼らに政治的な関心を持たせることは難しいし、彼らは自分のためなんかでは選挙に行かない。彼らは、他者に手を差しのべる、すなわち他者の存在の輝きにときめき祝福する行為として選挙に行く。そういう「非日常の祝祭」の気分の盛り上がりがなければ、投票率は上がらない。

 

 

まったくひどい世の中になってしまったものだと思う。

韓国叩きのヘイトスピーチとかろくでもない大臣ばかりだとか関電賄賂事件とか消費税10パーセントとかセクハラとかパワハラとかいじめとか、その他もろもろ現在の政権のみならず日本人の精神の荒廃は惨憺たるもので、ほんとにひどい世の中になってしまったものだと思う。安楽な人生だからとか苦しいからとかというような問題ではない。苦しい人生でも豊かな「ときめき」を体験して生きている人はいる。

しかしまあそれ以上にろくでもない人間ばかりの世の中で、ますます人間嫌いになってしまいそうだ。何より自分自身がいちばんろくでもない人間だからこそ、自分のことなど忘れて自分以外の人の輝きにときめいていたいのに、うんざりさせられることのほうがずっと多い。

知らない人はみな美しい。しかし知ってしまうと、たいていの場合げんなりさせられる。世の中というのは、そういうものだろうか。家族のあいだだって、もう永久にさよならしたい、と思うことがあるし、家族だからこそ憎み合ったりもする。

世界や他者の輝きにときめく体験は大切だ。それがなければ人は生きられない。だれもが「今宵逢う人みな美しき(与謝野晶子)」というような気分で街を歩ける世の中になればいいと思う。

この国の総理大臣以下の多くのネトウヨたちは、人を憎み差別し嘲り笑うことを生きがいにしている。そうやってどんどん精神も顔つきも醜く歪んでいっているのであればもう、病んでいる、としか言いようがない。

現在のこの国は、醜い日本人が醜い総理大臣を支えて成り立っている。この醜さは総理大臣ひとりの問題ではないし、この醜さは今や世界中に知れ渡っている。

しかしそれでも、この国の人や景色は美しいといって、世界中から観光客がやってきている。

美しい風土だから、醜いものをはびこらせてしまう。

美しい風土は、醜いものを許してしまうというか、醜いものに関心がない。そうやって政治や経済の状況が醜くなればなるほど、無関心になってゆく。どんなに醜い政治経済の状況になっても、街を歩けば「今宵逢う人みな美しき」という気分を体験することができるのが日本的な風土であるらしい。人々は、このひどい政治経済の状況にうんざりしているが、絶望はしていない。なぜなら、絶望するほどの関心がないから。

 

 

まあ世界中どこでも見知らぬ人どうしはときめき合うようにできているし、一緒に暮らせば避けがたく鬱陶しくもなってくる。それが普遍的な人間性であり、そうやって人類は「旅の文化」を育て、地球の隅々まで拡散していった。

美しいものにあこがれるからこそ、醜いものとはかかわりたくない。そうやってこの社会に醜いものがはびこる。「今だけ、金だけ、自分だけ」とかいう、とても日本人社会とは思えないような醜い政治経済の状況がはびこる。

相手のことを知る必要なんかない。知ってしまってうんざりさせられることは多い。だから民衆は、国家の政治や権力者のことを知ろうとしない。

「知らない」ことの大切さというのもある。「知らない」から「知りたい」とも思うのだが、ひとつのことを知ることによってさらに三つの「わからない」ことがあるのに気づいたりする。そうやって人の心は、どんどん「知らない=わからない」ことに分け入ってゆく。「知らない=わからない」ことに引き寄せられてゆくのが人の心の常であり、古代人はそれを「学ぶ」といった。「学ぶ」とは「知らない」ことを知ろうとすることであり、「わからない」という「不思議」に驚きときめくことであって、「知る」ことではない。「知る」ことなんか、永遠にやってこないのだし、だからこそ人の心」から「ときめく」というはたらきも永遠になくならない。

なのに今どきの一部の日本人は、韓国人の何もかもをわかっているかのような顔をしながらあれこれ韓国叩きを繰り返している。おまえらのその薄っぺらな脳みそで韓国人の何がわかるというのか。もちろん韓国人にはどうしてもわからない「日本的なもの」もあるわけで、人と人は、その「わからない」というところでときめき合っているのであり、そうやって「今宵逢う人みな美しき」という体験をする。

 

 

現在の韓国と日本とどちらが正しいかとか、わかったような気になってしゃらくさいことばかり言うな。正しかろうと間違っていようと、嫌いであろうとあるまいと、そんなことはひとまず忘れて、まっとうな関係の可能性について考えるということがどうしてできないのか。

同じ家族どうしならけんかもするし、夫婦が別れたりもする。しかし向こう三軒両隣のご近所が相手なら、たとえ好き嫌いはあっても、付き合いの作法というかたしなみというものがある。道で出会えば、「おはよう」とか「こんにちは」と笑って会釈をする。これは世界共通だろうし、このことの基礎には、「今宵逢う人みな美しき」すなわち「見知らぬ人との出会いはひとつの救いである」という人間性の基礎としての体験がある。「知り合い」だから微笑んで会釈をするのではない。見知らぬ人との出会いのような気分で微笑み合うのが「知り合いどうし」のたしなみなのだ。たとえ夫婦であっても、そういう気分がなければ「ときめき」はない。朝目覚めれば、生まれ変わってこの世のすべてが見知らぬ人との新しい出会いになる……そういう気分で人は「おはよう」という。

見知らぬ人が相手なら、その人格の善悪を裁くことなんかできない。そうやって相手の存在そのものを祝福してゆくことができる。

人の心は、根源において他者の存在を祝福している。

であれば、今どきの右翼のヘイトスピーチなんか、「表現の自由」と「多様性の容認」などという問題ではない。人間性の本質においてあるはずのないいわば病理であり、いずれはすべて治癒・淘汰されねばならない。淘汰してもすぐまたヘイトスピーチが湧いてくるのが文明社会の歴史であるが、そのつど治癒・淘汰してきたのも人間性の歴史なのだ。

人間社会に心の病気の種は尽きないし、病気であれば、いつかきっと治癒される。三島由紀夫は「美しい病気」といったが、人間性の真実は、病気ではない。しかしヘイトスピーチまみれの世の中になったら、人間性の真実が病気にされてしまうわけで、それが、「鬼畜米英」というヘイトスピーチにまみれていた末期の大日本帝国だったのだろう。

あのころの「鬼畜米英」も今どきの「韓国叩き」も、そっくりそのまま同じではないか。韓国が善か悪かという問題ではない。善か悪かと「裁く」ことが病気なのだ。

見知らぬ人を裁くことなんかできない。人間性の真実は、他者の存在そのものにときめき祝福している。世界は輝いている。なのに、こんなくすんだ世界にしてしまったのは、いったい誰なのか。

文明社会に飼い慣らされて生きていれば、制度的な「観念」や「欲望」がどんどん膨らんできて、人間ほんらいの「ときめき」や「あこがれ」や純粋で切実な「衝動」が希薄になってくる。そうして、世界はくすんだ色になってゆく。

しかし世の中は、いつだって文明社会の制度に飼い慣らされた人間と飼い慣らされていない人間がいる。

人間性の真実はけっして滅びないし、だれだって他愛なくときめき合うことができる心はどこかしらに持っている。

 

 

正しいとか間違っているとか好きとか嫌いとかの「判断」はすべて「過去」に対してのことであり、ほんとうの「現在」は「未来に向かう可能性」として成り立っている。そういう「可能性」を問う率直さとひたむきさすなわち「イノセント」こそがここでいう「処女性」であり、それがこの国の文化の伝統であると同時に普遍的な人間性の基礎=本質でもある。人類の知能は、その「イノセント」によって進化発展してきた。

たとえば、現在のもっとも高度な学問は、数学や哲学をはじめとする「基礎学問」である。表面的な現象の分析ではなく、その「本質」を探究すること、その「イノセント」こそもっとも高度な知能なのだ。だから、東大教授であると同時にれいわ新選組の候補者でもあった安富歩は、「子供を守ろう」と訴えた。

「未来」のヴィジョンなど思い描く必要などない。「現在=今ここ」の「細部」に愛着する「イノセント」にこそ、未来に向かう可能性が宿っている。つまり、ただ他愛なくときめき合っていればいいだけのこと、そこにこそ未来に向かう可能性が宿っている。

たとえば、名もない平凡な主婦がある日しょうもない亭主を捨ててシングルマザーになる……たとえそのために貧困に陥ったとしても、政治はそれを応援しなければならない。この国の未来の可能性は、そこにこそ宿っている。

まあ家庭内でセックスレスの主婦がSNSで知り合った相手と不倫をすることだってひとつの「イノセント」であり、そこには、凡庸な政治家や知識人が描く凡庸な「未来のヴィジョン」などよりもずっと確かで切実な「未来に向かう可能性」が宿っている。

知らない者どうしは、相手の存在そのものにときめき合っている。人間は、「知らない」ということを自覚しそのことにときめいてゆくことができる存在であり、そこにこそ人間としての「知」の可能性と「愛」の可能性がある。

人間は「知る」生きものではない。「知りたい」と願う生きものであり、ひとつのことを知れば、そこからさららに三つの「知りたい」という謎=問いが生まれてくる。そうやって「知る」ことには、永遠にたどり着けない。人間は、猿よりももっとたくさんの「知らない=知りたい」ことを抱えている。知れば知るほど「知らない」ことが増えてゆく。そうやって人間は、猿よりもたくさんの「可能性」を持っている。しかしだからこそ永遠に「可能性」を生きるほかない存在であり、「達成」の瞬間は永遠にやってこない。人類の歴史は、そうやって止むことなく進化発展してきた。

知ったかぶりの韓国叩きをしていい気になっているなんて、グロテスクだ。人間なら「知りたい」と願う。その永遠にかなえられない夢を見続けるのが人間であり、それを「愛」ともいう。

 

 

現在の安倍政権下の政治はどうしようもなくひどいものだと思う。しかし、ひどいのは総理大臣だけではない。政治経済を中心とする社会の腐敗と停滞は、今や世界中に広がっている。ほとんどの民衆はそれを望んでもいないのに、避けがたくそうなってしまうようなシステムが出来上がっている。とくにこの国では、政治も経済もいっそうの腐敗と停滞が進んでいる。しかしわかりすぎるほどの停滞と腐敗だから、みんなが選挙に行けば現在の政権なんかかんたんにひっくり返るのに、そういう動きが起きてこない。

この国の民衆は、この国の政治経済を牛耳る者たちの腐敗を許し社会の停滞に甘んじてしまっている。権力社会の腐敗と硬直化した思考が民衆社会にも及んでいて、共犯関係になってしまっている。とくに大人の男たちの思考が完全に骨抜きにされてしまっている。

女たち、とくに主婦や若い娘たちにアピールできなければ、投票率は上がらないし、社会は変わらない。なぜなら彼女らは、社会システムの外の、この世の「細部=辺境」を生きている者たちだからだ。

「女三界に家なし」というように、女はその本質において社会システムの外の「無縁者」である。

「細部」を大切にしなければならない。社会は「細部」から変わってゆく。「細部」とは、たとえば「おはよう」とあいさつすること、人と人が他愛なくときめき合う関係が宿る「細部」を大切にしなければならない。家庭内でセックスレスになった主婦が「不倫」に走るのもそういう「細部」に対する愛着があるからだし、まあこの国の伝統は「色ごとの文化」であり、そんなことはじつは大昔からずっと続いてきたことで、娼婦こそ神(仏)であるという文化なのだ。

彼女らは、政治の未来に対するヴィジョンなど持てないまま、「今ここ」の「細部」に対する愛着=祝福を生きている。「神は細部に宿る」などというが、人間性の真実は彼女らにこそもっとも深く確かに宿っているのであり、いつだって社会はそこから変わってゆく。

言い換えれば、未来は「今ここ」の「細部」に宿っている、女の中にこそ「未来の可能性」が宿っている、ということだ。嫌みな女もたくさんいる世の中だけれど、希望は捨てない、「遠いあこがれ」は人類普遍の心模様なのだから。

 

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キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。

民主主義の牙城

 

 

首里城が燃えたのは、ショックだった。沖縄の受難の歴史を象徴するような出来事に思えた。たぶん沖縄は、モナコのように独立するのがいちばんいいのだろう。もしもモナコ美しい国としてヨーロッパじゅうから愛されているとしたら、沖縄だってアジアじゅうから宝石のように美しい島国として愛されるべき資格がある。その愛が足りないのは沖縄を本土防衛のための捨て石の要塞のように考えているこの国の右翼たちで、そんな連中がこの国でのさばっているかぎり沖縄の受難はまだまだ続くにちがいない。

たぶんこの国は、右翼を淘汰してしまうことはできないだろう。すべての右翼が醜悪だというわけではないし、たとえ醜悪であっても許してしまう国民性=風土がある。許してもかまわない。しかしわれわれ日本人は、あの醜悪な右翼たちを置き去りにしてしまわねばならない。置き去りにされたら彼らだって、やがてはわれわれについて来ようとする。この国のほとんどの右翼なんか、べつに深い思考や信念があるのではなく、ただ権威とか権力というものしがみつきたいだけなのだ。

差別やヘイトスピーチをしないことがトレンドの世の中になれば、あの醜悪な右翼たちもだんだんいなくなってゆく。まあ彼らは、総理大臣が味方しているから付け上がっているだけなのだ。

明治以降のこの国では天皇が権威や権力の象徴だったから彼らはそれにしがみついているのだが、日本列島の長い歴史においては、べつに権威でも権力でもなかったし、権威・権力の象徴として生まれてきたのではない。まあ大和朝廷発生以降の権力社会においては天皇のそばにいて天皇を支配しつつ権威や権力の象徴のようにでっち上げてきたが、少なくとも民衆社会においては、あくまでも「遠いあこがれ」として祀り上げてきただけだ。

民衆にとっての天皇は、権威でも権力でもない。「人間性の真実」すなわち「魂の純潔」に対する「遠いあこがれ」の形見なのだ。だからまあ、ふだんは天皇のことなど忘れているが、心の底にはいつも「遠いあこがれ」の対象として天皇が棲みついている。それが、日本人としての歴史の無意識なのだ。

天皇にしがみついて天皇を支配しているなんて、駄々っ子が母親にしがみついて母親を支配しているのとそっくりそのまま同じではないか。

愛とは、「遠いあこがれ」なのだ。今どきの右翼にはそれがないし、それがあれば、天皇に対して「男系男子」だの「万世一系」だのと、自分たちの勝手な思い込みを押し付けることはできない。

彼らは支配することが大好きな人種で、天皇の権威を借りて好き勝手にいろんなことを押し付け支配しにかかってくる。彼らが愛しているのは「支配すること」であって、「天皇」その人ではない。天皇その人を愛しているのなら、天皇はいかにあるべきか、ということなどいえるはずがない。彼らは、天皇に対しても、そのえげつない支配欲を遠慮会釈なく向けている。その「つつしみ」のなさはいったい何なのか。それでも日本人か、といいたくなる。お願いだから、これ以上われわれの天皇をおもちゃにしないでくれ。

 

 

というわけで彼ら右翼にとっての沖縄は、支配するべき対象でしかない。本土が大切で天皇が大切だというなら、本土以外の地域も天皇以外の存在も、どうでもいいものになってしまう。そして沖縄は本土を守るための要塞=捨て石だし、すべての民衆は天皇を守るための道具にすぎない。天皇自身はそんなことなど何も望んでいないのに、右翼たちは天皇に対して民衆を支配するための権威・権力であれとたくさんのことを要求してゆく。けっきょく彼らの愛しているのは「権威・権力」であって、天皇ではない。

しかし民衆は、天皇の存在そのものの輝きにときめいているのであって、根源的には天皇の権威や権力など求めていない。

「愛する」とは「遠いあこがれ」のことだ。

たとえば被災地を訪れた天皇に対して被災者の民衆は、ひれ伏して顔も上げられないということなどない、ただもう他愛なくときめきながら天皇がかけてくれた言葉に甘えてゆく。権威だからときめくのではない、輝いているからときめくのだ。純粋な存在そのもの輝き。人が赤ん坊の愛らしさにときめくのは、べつに権威だからではないだろう。お母さんにときめく赤ん坊は、権威などというものを意識しているわけではないだろう。そういう純粋で他愛ないときめき、すなわち「遠いあこがれ」の形見として日本列島の民衆は天皇を生み出し、長い歴史の中で祀り上げてきた。

 

 

「遠いあこがれ」は、人類普遍の愛のかたちなのだ。原始的な集団においては、そのようにしてリーダー的な存在が選ばれていった。権力を握ったものが君臨していたのではない。権力者など存在しなかった。権力者が生まれてきたのは、集落が都市化して文明国家になってからのことだ。

だれかが、「原初、女は太陽であった」といったが、人類の歴史は、まず女を集団のリーダーに祀り上げた。ネアンデルタール人以来、原始代はほとんどの集落が乱婚関係で、父親がだれかということなどわからなかった。したがって「家族」などという単位はなく、「母子関係」があっただけだ。だったら、すべての男の上に母親がいるということで、とうぜん母親である女が祀り上げられることになる。また、権力者が存在しない原始的な集落のいとなみは人と人のときめき合う関係が基礎になっており、その関係を活性化させる能力は女のほうが豊かにそなえている。母子関係はもちろんのこと、男と女のセックスの関係だって、女が「やらせてあげる」という気になってくれないことには成り立たない。いろんな意味で原始時代は、女が上位の社会だった。

人類学者は、原始社会の構造について語るとき、つねに狩りや採集や農業等の「食料生産」のことを中心的な問題にしてしまっているが、そうじゃない、原始集落運営の中心的な問題は男と女の「セックス」にあったのだ。だから「女は太陽」であり、世界中どこでも母系社会だった。

ことに日本列島は、大陸以上に「女が太陽」の母系社会の時代が長く続いた。縄文時代弥生時代もずっとそうで、1500年前の大和朝廷成立の時代まで続いた。したがって起源としての天皇大和朝廷成立以前に存在していたとすれば、とうぜん女だったことになる。

今でも女のことを「おかみ」とか「やまのかみ」というのは、天皇の起源・本質に由来する歴史の無意識であり、少なくとも民衆社会は本質においてそういう構造になっている。まあ、だから「人妻の不倫」が流行るのだ。

日本列島の民衆社会における集団性の伝統は、「原始的」な人と人が他愛なくときめき合い助け合うことにある。そしてそれは女の本能であり、その構造を天皇制が担保してきたのだし、そこにこそ普遍的な「民主主義」の基礎と究極のかたちもある。

 

 

沖縄と本土の人間の民族的遺伝子的なルーツはほぼ同じである、といわれている。

だから同じ国でもかまわないということになるわけだが、大きく海で隔てられた縄文時代以降の歴史と文化はかなり違うところがある。

まず地政学的に見て、沖縄は縄文時代から積極的に海に出ていったが、本土はほとんど鎖国的な歴史を歩んできた。だから沖縄は早くから中国大陸の国家共同体の文化の洗礼を受けてきたし、それに対して本土の民衆が国家共同体を意識し始めたのは明治以降のことにすぎない。

琉球王朝ができたのが15世紀ころで大和朝廷が生まれたのは5~6世紀ころだが、民衆の共同体意識の芽生えは、逆に沖縄のほうがずっと早い。だから今でも民衆の政治意識・共同体意識は沖縄のほうが高い。そうやって現在の沖縄は、この国の民主主義の最先端を歩む地域になっている。

万葉集の「詠み人知らず」の民衆の歌なんか個人的な恋や旅や暮らしのことばかりだが、沖縄の古い「おもろさうし(草子)」という歌集には「共同体」を意識したものがたくさんあり、それでも国家共同体へと発展するのが遅れたのは、小さな島ばかりでなかなか「都市集落」を形成できなかったからだろう。そうして15世紀になって、ようやく「首里」という都市集落と「琉球王朝」という国家共同体が生まれてきた。おそらくそれは大和朝廷よりずっと本格的な国家共同体にちがいなく、何しろ彼らは、地政学的に本土・朝鮮・中国をはじめとして東アジア全体と外交交渉をしていかなければならなかったのだから。

沖縄の民衆は、日本列島の民衆よりもずっと早くから「異民族」を意識しており、それが国家共同体の意識になっていった。

大和朝廷が生まれてきたときの奈良盆地および本土の民衆には国家共同体の意識などなく、その意識が芽生えるまでには、さらに1000年以上のちの明治時代まで待たねばならなかった。というか本土の民衆は、今でも良くも悪くもその意識が薄い。それに対して沖縄の民衆は琉球王朝が生まれる前からすでに「共同体意識」を持っていて、それが「おもろさうし」によくあらわれている。

 

 

「おもろ」は祭りのときにみんなで掛け合いをしながら歌われるもので、関西弁では「おもしろい」のことを「おもろい」というが、「おもろ」とは「祭りの高揚感」をあらわす言葉だったのだろうか。本土の言葉と沖縄の言葉は今でこそずいぶん違うが、ルーツは同じ「やまとことば」なのだ。

「おもろ」の歌詞は、海の向こうの神の国とか、そういう宗教的な色合いが濃く、一方本土の万葉集の「詠み人知らず」の歌は、あくまで個人的な「心のあや」を歌い上げたものばかりで、共同体的な宗教色はほとんどない。

しかしそれでも民族的なルーツは同じなのだから沖縄も同じ日本国でもいいのだが、歴史的にはちゃんと「琉球国」として歩んできたのだし、「国柄」としての文化土壌は、けっして同じではない。

琉球国は初めから他の国(異民族)との関係を意識した文明国家として生まれてきたが、大和朝廷の起源にそんな意識はなく、すでに存在する原始的な都市集落に寄生した権力組織として生まれてきたにすぎない。だから本土の民衆は、いまだに「政府」というようなものに対する愛着が薄い。

とくに現在の政府は、自分たちの既得権益ばかりに固執して、一国を背負った政府の体をなしていない。権力亡者ばかりが集まったこんな政府を、どのように愛せというのか。この国の「政府」は大和朝廷の発生以来ずっとそんな連中によって運営されてきたのであり、民の安寧を祈る仕事は天皇が引き受けてきたというか、権力者がそういうコンセプト=スローガン=目的はぜんぶ天皇に押し付けてきたのだ。というか、もともと民衆に望まれて生まれてきた「政府」ではないから、そのようにしないと民衆支配がうまくできないし、そのようにすれば民衆を守らなくても確実に民衆を支配することができるという仕組みになっている。

平成天皇生前退位の意向を政府関係者に漏らしたとき、政府をはじめとする右翼たちはこぞって反対した。しかし天皇がテレビでそれを国民に語りかけたとき、国民の圧倒的多数がたちまちそれを支持し、右翼たちも反対を言えなくなってしまった。これによって、天皇の「権力=影響力」は権力社会のそれよりも絶大だ、ということを図らずも証明してしまった。そこが天皇制のやっかいなところで、天皇が右翼権力者の支配下にあるかぎり民衆への圧政は続くし、民衆のもとに取り戻せば、天皇の存在こそが民主主義のよりどころになる。まあ「象徴天皇制」としてスタートした敗戦後はそういうチャンスだったのだが、どういうわけか民主主義を標榜する左翼知識人たちがこぞって天皇制を否定し、天皇の戦争責任を糾弾し続けてきてしまった。

55年体制」などといって、進駐軍が去った後もずっと右翼の自民党政権が続いてきたのは、左翼たちが天皇制を否定したために民衆の大きな支持を得られなかったからだ。

天皇の仕事が「民の安寧を祈る」ことにあるのだとすれば、それは、天皇は民主主義を支持しているということなのだ。

右翼の連力者たちの頭の中にあるのは民衆を支配することだけで「民の安寧」なんか知ったことではないし、それはもう「天皇のために死ね」と命令し続けてきた明治以来の戦争の歴史が証明していることではないか。

大和朝廷の発生以来、権力者たちは、「民の安寧を祈る」ことなんか。ぜんぶ天皇に押し付けてきた。彼らには民衆を守ろうとする心意気なんかないし、民衆もまた「われわれを守ってくれ」と要求するほどの愛着と関心を権力社会に対して持っていない。

良かれ悪しかれこの国の民衆は天皇との関係を生きているのであって、権力社会との関係を生きているのではない。戦後左翼は、そういう天皇と民衆の親密な関係を甘く見すぎた。

 

 

いっぽう琉球国の政府はつねに民の安寧のための仕事をしてきたし、沖縄には「政府=共同体」に対する愛着の歴史風土がある。だから本土のあいまいな政治状況に染まることなく、独自の民主主義の精神風土をつくりあげている。

沖縄の人々にとっての首里城は「共同体」の象徴であり、そこに王がいるかどうかということはあまり問題ではない。それに対して本土の民衆にとっての皇居はあくまで天皇の住居にすぎないのであり、この国の共同性を担保する象徴だという意識は薄い。象徴は天皇であって、皇居ではない。本土の民衆は、「国家共同体」というイメージがほとんどない。それはまあ、大和朝廷の始まりのときからそうだったのだが、とくに明治以降の醜悪な右翼政権によって醜悪な国家観を押し付けられてきたというトラウマもある。

最近の小中学校では戦前のような道徳教育がさかんになってきているらしいが、はたしてすべての子供たちを洗脳してしまうことができるだろうか。国家に忠誠を誓わなければだれも許さない、という帝国主義的「国民国家」システム。それは、権力者は何をやっても許される、というシステムでもある。彼らはそれを実現するために天皇を利用しようとしているわけだが、だからといって左翼のように天皇制を否定すればその流れに抵抗することができるかといえば、そうはいかないことが戦後左翼の衰退によって証明されている。良くも悪くもこの国における天皇の影響力は絶大であり、それはもうこの国の伝統なのだから、今さら天皇制を廃止することなんかできない。われわれにできることは、権力者に支配され利用されている天皇を民衆のもとに取り戻すということだけではないだろうか。

戦後左翼は天皇を「既得権益者」として憎んだり軽蔑したりしているが、それは民衆の心に寄り添っていないということである。天皇は「既得権益者」ではない。天皇を神と崇める右翼によって、「人間である」という「既得権益」を奪われている人なのだ。

天皇を神と崇めるなんてたんなる個人的な宗教趣味であり、そうやって右翼は私利私欲に走る人間ばかりになってゆく。

起源としての天皇は、みんなが他愛なくときめき合い助け合う集団性の形見の存在だった。そういう原始的であると同時に究極でもある集団性を、ひとつの「共同体意識」としてわれわれは止揚してゆくことができるだろうか。つまり、天皇を民主主義のよりどころにすることができるか、ということだ。

何にしても本土の人間は、上から下まで良くも悪くも「共同体意識」が薄すぎる。だから権力者は勝手なことばかりするし、民衆はそれを許してしまう。

いっぽう沖縄の人々は共同体意識が進んでいるからこそ、琉球王の代わりに天皇を共同体のよりどころとして仰ぐこともできるし、首里城とともに琉球民としてのアイデンティティも失っていない。「沖縄=琉球」という共同体は今なお確かに存在する。

沖縄はこの国の民主主義の先進地域であり、沖縄の民主主義が滅びることは、この国の民主主義が滅びることだ。

 

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<span class="deco" style="font-weight:bold;">蛇足の宣伝です</span>

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キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。

祭りの賑わい

僕は、インテリの頭脳だけが優秀だとは思っていない。どんな高級インテリだろうと、その思考の限界というのはある。

たとえ東大教授だろうと、知ったかぶりして偉そうなことをいわれても、その思考の浅さにほんとにむかつくときがある。

しかしどんなに気に入らなくても、それが正しいと思えるのなら、何も言えない。言えないから、学歴差別がはびこる。何のかんのいってもみんな、東大は正しくて偉いと思っている。むかつくなら、たとえ庶民でも「それは間違っている」といえる思考を持たなければならない。ただ感情的に東大という権威に反発しているだけなら、たんなるコンプレックスの裏返しにすぎない。

僕は東大教授より深く考えている部分を持っている。じっさい東大教授から「あなたに教えられた」といわれたことだってある。そりゃそうさ、だれだって人より優れた自分だけの知の領域を持っている。

僕は、先日の参議院選挙でれいわ新選組から立候補した安富歩東大教授の「子供を守る」という政治原理の思想にはげしく同意し、その研究領域の広さと深さと正確さには大いに尊敬し感服しており、現在のこの国の第一級のインテリだと思っている。とはいえ彼に対してだって、何を知ったかぶりして底の浅いことをいってるのか、と思うことはある。

彼は論語の新しい解釈を提唱する本を出しているのだが、当人が自負するほど斬新で画期的な解釈だとは僕には思えない。つまり、知ったかぶりして何を偉そうことを、東大教授なんてこの程度のものか、と。

僕は論語のことなんかほとんど興味もないが、そんな僕でさえ「それは違うだろう」と思ってしまうことがいくつもある。

たとえば論語の冒頭の「学びてときにこれを習う、またよろこばしからずや」という語句は有名だが、この一般的な解釈は「学んだことを復習するのはよろこばしいことだ」ということになっており、安富氏は、この最初の部分は「学んだことが身につくのは……」と訳すべきだといっているわけだが、まあどっちもどっちで薄っぺらな解釈だ。

「学」と「習」、中国だろうと日本列島だろうと古代人はそれらの言葉をどのように使っていたのかという時代的な考察がなさすぎる。

「学」といっても、本も学校も新聞もなかった古代には「お勉強」というようなものなどなかったのである。「学」をそのままあっさり「お勉強」ととらえてしまうのは、いかにも「勉強オタク」の東大脳が考えそうなことだ。小林秀雄は、「まなぶ」とは「まねる」ことだ、といったりしているが、これだって「勉強オタク」のセリフでしかない。

「学=まなぶ」の「まな」の語源は、「不思議なもの」あるいは「(不思議なものに)驚きときめくこと」をいい、中国語の「学(がく)」という音韻そのものも「愕然とする」といったりするように、語源的には同じようなニュアンスにちがいない。

つまり、古代における「学=まなぶ」は、「なんだろう?」と問うこと言ったのであって、「お勉強をして何かを知る」ことでも「まねる」ことだったのでもない。とくに論語では、「知ったかぶり」を戒めつつ「不知」という概念を肯定的に認識し、「不知を自覚して常に<問う>ということをせよ」と繰り返し説いている。

そして「習」は「習慣」「習練」の「習」で、「反復」を意味する。中国語の「習」であれやまとことばの「習う」であれ、それは「トライする」というようなニュアンスで、知るまでの「過程」のことをいうのであって「知る=身につく」ことを言っているのではない。中国だろうと日本列島だろうと、古代人の知の探究のテーマは「道」ということにあったわけで、それは「過程」を意味するのであって「知る=結果」のことなど感情に入っていなかった。ひとつのことを知れば、そこで三つの「問い=疑問」が生まれる。そうやって「知る」という「結果」には永遠にたどり着けないのだ。

安直に「知る」という概念をもてあそんで「知ったかぶり」をしたがるのを「東大脳」といい、それは現代人一般の傾向でもある。

したがって「学んで時にこれを習う」は、ようするに「つねに<疑問を抱く>ということをせよ」といっているのだ。

東洋的な「道」とは「問う」ことであって「わかる=決定する」ことではない……ということを、既存の論語研究者だけでなく、安富歩氏だってわかっていない。そしてそれは、無学な一般庶民の大工とか板前とかの職人ならみんな知っていることだ。

論語は昔からインテリのもっとも大切な教養のひとつになってきたが、その思想の素晴らしさは、知ったかぶりした注釈家の思考の底の浅さを浮かび上がらせてくれることにある。

僕は論語の思想なんかしょうもないとずっと思っていたが、それは孔子の思想ではなく注釈がしょうもないのだということがこのごろ分かった。

 

 

もうひとつ安富氏の論語解釈に対する異論・反論を書いておく。

学而1の1の3……人、不知にして不慍、また君子ならずや。

一般的な注釈では、この場合の「人不知而不慍」を「人に知られていないことを怒らない」となっているが、安富氏は「(何も)知らない人に対しても怒らない」と解説しているわけだが、僕はどちらもだめだと思う。

彼らの「不知」に対する解釈も「不慍」に対する解釈もおかしいというか、底が浅い。

論語における「不知」という概念はとても重要で、孔子はそれをつねに肯定的に語っている。にもかかわらず一般の注釈家も安富氏も、これをネガティブな意味にとらえており、それはあまりにも安直で不用意なのではないか。偏差値自慢のインテリの陥りそうな罠だ。そんな底の浅い解釈はしてくれるな。

孔子がここで言いたかったのは、ソクラテスと同じような不可知論で、「知らない」という自覚=認識こそが学問の道である、ということではないだろうか。ひとつのことを知ればそこに三つの「不知=疑問」が生じる……「知る」ということのパラドックス、それが学問の道だ、と孔子はいっている。

「道」とは「過程」のことで「解答=決定」など永遠に得られない……というのが東洋思想の肝であり、「知」とは「永遠の不知」のこと、そういうパラドックスこそ論語の底に流れる思想の姿なのだ。

そして「不慍」の「慍」は、仏教でいう「増上慢」のことで、「不慍」とは「いい気にならない」とか「知ったかぶりをしない」というようなことで、「怒らない」ということではない。「不知をよく認識してむやみに知ったかぶりをしない人」といっているのだ。

古代の日本人は、この「慍」に「ふつくむ」というやまとことばを当てた。「ふつくむ」とは、まあ「ふくらむ」の類似語で、「虚勢を張る」とか「居直る」というような意味で、古代の日本人のほうが世の注釈家よりずっと「慍」の意味を正確にとらえている。

古代の日本列島は2000年以上前の孔子の時代と同じように、「非文字文化」の時代から「文字文化」の時代に移ってゆく端境期にあった。新しい時代に踊らされて「知る」とか「知ったかぶりをする」ことの底の浅さがよくわかっていたのだろう。

「学ぶ」というのは「知らない」「知りたい」という衝動を募らせることだ、と孔子はいっている。だからここでは「不知(の自覚・認識)」こそ大切なのだと説いているわけで、「人に知られていないことを怒らない」とか「何も知らない人を怒らない」とか、そんな安っぽい説教をしているのではない。

インテリゆえの思考の底の浅さ、というのはやっぱりあるわけで、ほんとうは名もない民衆のほうがよほど深く考えていたりする。名もない民衆は「言葉」に対する知識が足りないからそれをうまく表現できないだけのことだ。しかし思考は「言葉」でするのではない。思考の結果が「言葉」になる。思考を言葉にできる能力はインテリのほうが圧倒的に優れているが、その思考の結果としての「言葉」が「人に知られていないことを怒らない」とか「何も知らない人を怒らない」では話にならないではないか。その思考は、あまりにも底が浅い。名もない民衆や古代人は、言葉にできなくても、じつはもっと深いところを考えている。

現在の「文字文化」に毒されたインテリでは、古代人の心に推参することはできない。現存の論語注釈なんか、中国だろうと日本だろうと文字文化に毒されたインテリのものばかりだから、原典の思想から逸脱してしまっている部分は少なくないにちがいない。

古代の心や人間性の自然・本質に迫る思考は、名もない民衆のほうがずっと深く確かにそなえている、ただ言葉がないだけで。

 

 

ほんとにひどい世の中になってしまったもので、安富氏は「この状況を変えるためには<子供を守る>という生命原理を政治原理として国民全員が再認識しなければならない」という。つまり、どんな政策でもかまわないからその「原理」だけは大切にしよう、と呼びかけて彼は立候補した。

世界は「多様」だが、「原理」はひとつだ。

今どきは「多様性の尊重」とか「表現の自由」という名のもとに、信じられないような「差別」や「ヘイトスピーチ」が横行している。しかし「差別」や「ヘイトスピーチ」など、自由でも多様性でもなく、人間性の自然・本質に照らせば、もともと存在するはずがないものだ。だから安富氏も「LGBTなど存在しない」といっている。差別する者も差別される者も、もともと存在するはずがないのだ。人としてもともと存在するはずがない「差別」や「ヘイトスピーチ」を繰り返しながら「自由」だの「多様性」だのと言って居直るのは、人として精神を病んでいる証拠であり、そんなものは「自由」でも「多様性」でもない。多少の後ろめたさがあるならまだしも、彼らはそれが正義であるかのように主張してくる。こんな醜悪な人間が横行している世の中とは、いったい何だろう。このようにして人類は滅んでゆくのだろうか。

しかし、もともと猿よりも弱い猿だった人類がここまで生き残ってきたのはときめき合い助け合う関係で集団をいとなんできたからであり、それによって「差別」や「ヘイトスピーチ」のような他者を排除しようとする醜悪な動きを洗い流してきたからだ。

人類は、その本性として、そうした醜悪な人間たちと戦って排除してゆくということはしない。醜悪な人間たちを置き去りにしてゆくことによって、彼らも醜悪ではいられないようにしてしまう。これが人間集団の基本原理であるのだが、排除しないから醜悪な人間はいつの時代も一定数いるし、いてもかまわない。ときめき合い助け合う集団のかたちが守られていればよい。まあそうやって、競い合い争い合う権力社会とは別の、ときめき合い助け合う民衆自治の集団性の文化を守り育ててきた。

というわけで日本列島の民衆はどんな醜悪な権力社会でも許してしまい、この国まるごと民衆社会の論理で運営しようという望みをなかなか持てない。そしてそれは、民衆は根源(=歴史の無意識)においてナショナリズムを持っていない、ということを意味する。

ともあれ「民主主義」とはときめき合い助け合う民衆社会の論理で国家を運営することであり、それを安富氏は、「子供を守る」ということを政治原理にしなければならない、といっているし、それはまたこのブログでさんざん言っている「人間としての尊厳は<生きられないこの世のもっとも弱いもの>のもとにある」というのと原理的には同じなのだ。

 

 

人間なら誰だって「尊厳」とか「崇高」とか「魂の純潔」というようなものにあこがれひざまずく気持ちはあるのだが、それが何かという認識は人それぞれに違うわけで、あの連中ときたら「魂の純潔」で韓国叩きをしているつもりでいるのだからやっかいだ。

ナショナリズムは醜い。そんなものは、根源において天皇にも民衆にもない。

今回の即位の礼天皇は、宣明スピーチにおいて「国民」という言葉を繰り返し何度も使ったが、「国」とか「国家」という言葉はついに一度も発しなかった。それは、素晴らしいことだ。天皇が愛しているのは「国民」であって「国家」ではない。

右翼の国家権力は天皇を支配する存在であり、そんなものを天皇が愛せるはずがない。天皇の味方は「国民」だけであり、令和天皇もそこのところをちゃんと自覚していたにちがいない。

「国」よりも「人」を愛せ、ということ。国家など「尊厳」でも「崇高」でもないし、ナショナリズムに「魂の純潔」が宿っているのでもない。

断っておくが僕は、国家などなくてもいい、と言いたいのではない。それはあるていど人類史の必然だろうし、そのことを否定するつもりはない。とはいえべつに「愛する」対象ではない。日本列島やそこに住む人々に興味は少なからずあるが、「日本」という「国家」に対する実感はほとんどない。実感がないのだから、愛しようがない。

吉本隆明は「国家は幻想である」といったが、「たしかに幻想だなあ」という実感がある。政府や議会という機関組織は実在するにちがいないが、いかようにも変化してきたしこれからも変化し続けてゆくわけで、人によってそれを評価したりしなかったりしているのだから、普遍的な愛の対象にはなりえない。

どんな国であれ、国を愛する者もいれば愛さない者もいるし、関心がない者だっている。とくにこの国ではそれが多様で、江戸時代までの民衆には愛国心などというものはなかった。海に囲まれた島国で異民族との軋轢のない歴史を歩んできたのであれば、もともと「国家」とは何かということがよくわかっていないのであり、愛国心があれば偉いというような土地柄ではないのだ。

そりゃあ民衆も天皇もこの国の存続が安寧であればと願っているが、それは「愛している」ということとはまた別の問題だ。われわれの愛する対象は、目の前に存在する「あなた」であり「世界」であって、「国家」という「幻想」ではない。

「国家」という現世的で通俗的な概念など「崇高」でも「尊厳」でもないのであり、それをどのようにして愛せというのか。

僕は、「国家」よりも「天皇」を愛するし、「天皇」は「国家」のものでない、「民衆」のものだ。

「国家」が「崇高」で「尊厳」である時代が、いったいいつにあったというのか。大和朝廷の発生以来、いつの時代においても「国家」などろくでもなかったのだ。ただ、それでも、いつの時代もときめき合い助け合う民衆社会は息をひそめるように存在してきたし、ときめき合い助け合う人々がたしかに存在してきた。天皇は、そういう人々を愛しているのであって、国家を愛しているのではない。

民主主義は多数決だというが、たとえ上から下まで精神が荒廃してどんなにひどい世の中になっても、1パーセントでもときめき合い助け合っている人々がいるかぎり、人間性の真実はそこにこそある。それでもまだそういう人々がいるという、そのことが真実の証しなのだ。多数の中に真実があるというのなら、とうぜんそれは全員に広がってゆくはずだが、真実ではないからけっしてそうはならない。それでもそうはならないそのところにこそ真実がある。そうしてその1パーセントが守られてゆくことを「伝統」というのであり、昔からいつの時代も荒廃した精神の持ち主ばかりがのさばる「憂き世」であったのだ。それは、そんな荒廃した精神の持ち主が集まって権力社会を構成してきたからだが、そんな荒廃した精神の持ち主が少しずつ淘汰されながら「民主主義」が提唱されるようになってきた。まあ、淘汰され、また増えてきて、ということを繰り返しながら時代は推移してきたのだが、そうやって長い歴史のあいだに何度も権力社会が交代してきたわけで、けっきょく荒廃した精神の権力亡者たちは必ず淘汰されるというのが歴史の法則なのだ。

 

 

「悪貨は良貨を駆逐する」というが、悪貨が貨幣の真実なのか。そうではないだろう。人類はできるだけ良い貨幣を持とうとして金貨や小判を生み出したのだし、そういう貨幣の真実を信じて紙幣が生まれてきた。貨幣だって進化論の法則に沿って発展してきたのだ。

紙幣はただの紙切れだし仮想通貨はただの数字だといっても、だれもが貨幣の「真実=意味・価値」を信じているからそれらが成り立つ。

悪貨には意味も価値もない。悪貨を淘汰してきた果てに紙幣や仮想通貨が生まれてきたのであり、紙幣や仮想通貨は悪貨ではない、ある意味で究極の良貨なのだ。だから現代社会はややこしいことになっている。それが悪貨なら淘汰すればいいだけだが、それが良貨であることに付け込んであれこれの企みをする人間が跳梁跋扈してくる。

お金(貨幣)には意味も価値もあるから、名もない庶民は安い給料でこき使われなければならない。意味も価値もないからいらない、というわけにはいかないではないか。

悪貨は必ず淘汰される。それが歴史の法則であり、同様に人間性の真実から離れたヘイトスピーチなどいずれ必ず淘汰されるし、いずれまたよみがえってくる。現在のヘイトスピーチや差別は、自由と平等を装い、良識や良心の嘘を暴く正義・正論として登場してきた。つまり、「良貨=真実」の顔をしてよみがえってきた。だから歴史はややこしく行ったり来たりしなければならないのだが、しかし行ったり来たりしながらようやく「民主主義」を目指す段階にたどり着いた。

なんのかのといっても人は、「良貨=真実」を信じている。

で、天皇制もまた古代の王制や中世の封建主義や近代の帝国主義のように淘汰される運命にあるのかといえば、そうとは限らない。天皇は「良貨」すなわち「人間性の真実の形見」であり、「民主主義の形見」にもなりうる存在なのだ。

起源としての天皇は、権力社会の頂点に君臨して登場してきたのではない、古代以前の「民衆自治=民主主義」の「形見=象徴」として民衆から祀り上げられた存在だったのであり、天皇制は人類の集団性の起源であり究極のかたちでもある。

「良貨としての天皇制」と、「悪貨としての天皇制」がある。悪貨としての天皇制は天皇が権力社会に支配され利用されている制度であり、民衆自治=民主主義の形見=象徴として機能することによってはじめて「良貨」になる。

起源であり究極でもあるところの「良貨としての天皇制」は、古代の大和朝廷から明治以来の大日本帝国の時代まで、何度も「悪貨としての天皇制」に駆逐されてきた。しかし悪貨はいずれ淘汰されるのであり、淘汰しなければ民主主義の未来はない。

 

 

「良貨としての天皇」には、権威とか権力とか万世一系とか男系男子というような「実体」はない。ただもう人間性の真実が信じられるところに天皇が存在する。つまり、天皇天皇であればそれでよいのだ。男でも女でもいいし、天皇に子供がいなければ養子をもらって育てればいい。民衆が「あの人が天皇だ」と信じればいいだけのこと。血筋などという「実体」はどうでもいい。天皇という存在の本質は、紙幣や仮想通貨のように抽象的なのだ。その異次元的な抽象性に、天皇という存在の尊厳と崇高さがある。

「世界は輝いている」とときめいて生きていられたらそれでよい。そのためのよりどころとして天皇が存在する。

「子供の愛らしい輝き」を守ることが政治の原点だ……安富歩氏はそう訴えてれいわ新選組から立候補した。世界や他者は存在そのものにおいて輝いている……そう信じることができるためのよりどころとして天皇制は生まれてきたのであり、それが、人と人が他愛なくときめき合い助け合う関係で集団をいとなんでゆくという民主主義社会の原点であり究極でもある。それが、天皇の願いであり、人類普遍の願いであり、この国の民衆社会の伝統でもある。

「祭りの賑わい」すなわち民主主義としての「集団の盛り上がり」は、人と人が他愛なくときめき合い助け合うことの上に成り立っている。そのコンセプトで山本太郎はれいわ新選組を立ち上げたのであり、彼ほどそれを深く豊かに体現している政治家はいないし、そんな彼が安富歩を候補者に選んだのもよくわかる。また、そうした「祭りの賑わい=集団の盛り上がり」が起きてこなければ投票率は上がらない。

今や、政治も人の心もまったくひどい状況になってしまっているが、それでも民衆社会の片隅には「民主主義=人間性の真実」としての人と人が他愛なくときめき合い助け合う関係性=集団性は息づいているのであり、それこそが天皇制の伝統であるのだし、そういう意味で僕は、山本太郎と今どきのギャルや女たちに期待している。

 

 

天皇制は、伝統的にギャル(処女=思春期の少女)や女たちを輝かせる制度であって、あの醜悪な右翼たちのためのものではない。

だれの心の中にも「真実」や「魂の純潔」に対する遠いあこがれが息づいている。天皇制は、そこから生まれ育ってきたのであって、神武なにがしとかいう権力者が生み出したのではない。

右翼は、権力にあこがれる。しかし女は、権力にあこがれたりはしない。なぜなら、女であることそれ自体が権力だからだ。権力とは「影響力」のこと、この国の文化の伝統は女が及ぼす影響力を基礎にしてはぐくまれてきた。たとえば「無常」とか「大和魂」とか「武士の潔さ」などといっても、その「いつ死んでもかまわない」という「潔さ」をこの世でもっともラディカルにそなえているのは女であり「処女=思春期の少女」なのだ。

「おんな=おみな」というやまとことばの「な」は「ときめき」をあらわし、「み」は「柔らかく充実している」ことをあらわしている。女とは、心身ともにそういう存在であるらしい。その認識・感動を基礎にして、他愛なくときめき合い助け合う民衆社会ならではの集団性が生まれ育ってきたし、もともとはそのための「祭り」であり「天皇制」だったのであり、「呪術」も「権力」とともにそれらが生まれてきたのではない。古代以前の日本列島に「呪術」も「権力」も存在しなかった。あくまで純粋に、他愛なくときめき合い助け合う集団性として「祭り」が生まれ、そこから起源としての天皇である「処女=巫女」が祀り上げられていった。

他愛なくときめき合い助け合うことが日本列島の集団性の伝統であることは、今回のラグビーワールドカップのチームの戦い方だけでなく各地域での外国チームのもてなし方等でもよくわかったではないか。ナショナリズムの強い土地柄ならこうまで他愛なく外国からの客にときめいてゆくことなんかできないし、外国人だってそこに人間性の真実と民主主義の未来を見ていたにちがいない。

日本列島1万年の歴史においては、にナショナリズムの伝統なんかない。少なくとも大和朝廷成立以前は、ただもう純粋に「真実」と「魂の純潔」にあこがれながら歴史を歩んできただけなのだ。それがまあ、世界中どこでも原始時代の人類の歴史だった。その歴史の記憶の上に古代のソクラテス孔子のような思索家が登場してきたわけで、彼らは、大陸で生まれた文明制度の文字化社会によって失われつつある「<世界の真実>と<魂の純潔>に対するあこがれ」を失ってはならないと説いたのであり、それは四方を荒海に囲まれたこの日本列島の島嶼性によって残されていた。

 

 

日本列島の伝統は、人類普遍の原始性を洗練させてゆくかたちで育ってきた。そうやって天皇制が生まれてきたのだし、現在のマンガ・アニメやギャルファッション等の「かわいい」のムーブメントが「ジャパンクール」といって世界でもてはやされるのも、そういう伝統の上に成り立っているからだ。

日本列島の伝統の「独自性」は「普遍性」でもある。だから「ジャパンクール」がウケるし、言い換えればそれは異民族に対する警戒感がない進取の気性でもある。だから、世界中の文化を他愛なく受け入れ世界中の病理にかんたんに感染してしまう。そしてそれはまた、ナショナリズムの薄さの証拠でもある。

ナショナリズムを持たないその軽薄さこそ、日本列島の「独自性」であり「進取の気性」なのだ。独自でないことが独自なのだ。その他愛なさと警戒心のなさが「ジャパンクール」なのだ。

今どきの右翼は、天皇制も含めて日本列島の伝統をことごとく壊してしまっている。ナショナリズムの薄さこそ「ジャパンクール」なのに、ナショナリズム愛国心)が無上のものであるかのように騒ぎ立てている。

日本列島の伝統なんて、難しい話じゃない。「(処女=思春期の少女のような)他愛ないときめき」、それが原点であり究極なのだ。「わび・さび」の美意識も、花と散る「武士道」の潔さも、つまるところそれが基礎になっているわけで、またそこにこそ普遍的な人間性の真実も息づいている。したがってこの国のあるべき政治のかたちも、それを信じてどこまで高度に洗練させてゆくことができるかにかかっているわけで、みんなが選挙に行くような民衆社会の盛り上がりもおそらくそのようにして起きてくるのだろう。

たとえば、この国の外交戦略は拙くてもっと欧米諸国のようなしたたかな駆け引きを見習わなくてはならない、などとよくいわれるが、僕はそうは思わない。「他愛ないときめき」すなわちそうした人間性の真実を愚直に信じて他者の存在そのものの輝きを他愛なく祝福してゆく態度が高度に洗練されてゆけば、したたかな駆け引きよりももっと有効な外交戦略になる。まあそれができる能力と人格をそなえた政治家は今のところ山本太郎以外にはいないわけだが、それができなければ戦争はなくならないし、民主主義の未来もない。

今や世界はこんなにひどい状況になってしまい、ようやく「人間性の真実とは何か」と問い始めているのかもしれない。そういう意味で僕は、れいわ新選組山本太郎や安富歩には大いに期待している。

 

 

安富歩氏の言説には、もうひとつ疑問がある。

彼は、れいわ新選組から立候補するときの記者会見の席で、「むかしの中国では、銅銭を造っても造ってもどんどん市場から消えてしまい、造らないとときには民衆の暴動が起きるほどだった」と語っていた。

この話を聞いて僕は、とても興味を抱かせられた。これは貨幣の起源と本質にかかわる問題だと思えた。

この銅銭がどこに消えていったかといえば、安富氏は、「庶民がタンス預金にしたりどこかに失くしてしまったりした」と語っておられたが、この説明はおそらく安富氏のたんなる憶測で、どう考えてもおかしい。「タンス預金」になるようなものなら、そうかんたんに失くしたりはしない。人は、そうかんたんにお金を失くしたりしないし、失くせばとても落胆する。

かんたんに失くしてしまうようなものを「もっと造れ」と騒ぐはずがないではないか。

安富氏がこのとき「庶民のタンス預金」といったのは、金持ちなら金貨や銀貨を蓄財すると考えたからだろう。日本列島の中世でも、貨幣に縁のない農民でさえいくばくかの銅銭をため込んでいたといわれている。しかしまあ、それくらいのことは世の中全体の量から見れば微々たるものにちがいない。

銅銭を溶かして銅鏡や銅剣や農具などをつくるといっても、銅の地金が銅銭より高いということなどありえない。だから銅銭で買えばいいだけのことだし、そんなことは大昔の日本列島をはじめとする銅の精錬技術のない周辺国でやっていただけで、この量もやっぱり微々たるもので、中国の庶民は銅銭で青銅器を買っていたにちがいなく、だったら銅銭が市場から消えるはずがない。

とにかく銅銭で何かを買うことができるかぎり、庶民のタンス預金が膨大になるはずがないし、かんたんに失くしてしまうはずもない。

安富氏はこのことを「貨幣がその本質において意味も価値もないことの証しである」といっておられるわけだが、それは、現代の庶民が貨幣の意味や価値を信じながら安い給料でこき使われていることをばかにしたセリフだ。人間は、貨幣がただの「紙切れ」や「数字」であってもまだその意味と価値を信じているのであり、それを何かと問うのが経済学者の仕事ではないのか。

貨幣はその本質において意味や価値持っている。だからこそ現在の経済状況がややこしいものになっているわけで、意味も価値もないのならとっくに歴史によって淘汰されている。

 

 

10

貨幣が持っている本質的な意味や価値とは何だろう。それが昔の中国の流通市場から消えていったということは、もともと何かを買うという「交換」のためのものではなかったことを意味する。「交換」の道具として手は大した意味も価値もなかったのだろうが、きっとほかに使い蜜があったわけで、そこにこそ貨幣の起源と本質の真実が隠されている。

そのとき中国の民衆社会から大量の銅銭が消えていったということは、彼らは銅銭を「何かを買う(=交換)」ためのものとして扱っていなかったということを意味する。

世界中どこでも昔の民衆は、ほとんどは自給自足と相互扶助で暮らしていたにちがいなく、極端にいえば貨幣経済なんてあってもなくてもよかった。それでも貨幣=銅銭をわざわざ貯め込み、しかもわざわざ貯め込んだそれらをどこかに消してしまっていたのだ。

彼らにとっての貨幣は、第一義的には商品を買うためのものではなかった。

この国の中世の貧しい農民がわずかばかりの貨幣を小さな壺に入れて貯め込んでいたのも、それで何かを買おうというようなことではなく、たとえば地元のお寺に寄進したり、旅芸人の芸に投げ銭をしたりするためのもので、それで何かを買うということはほとんどなかった。だからまあ、お金などなくてもなんとか生きていられる社会になっていたわけで、そういう役立たずの人間を村のみんなで生きさせていた。

つまり、世界中どこでも昔の民衆にとっての「貨幣」は、「交換」の道具ではなく「贈与=ギフト」の形見だったということで、その「贈与=ギフト」の衝動によって村という集団が成り立っていた、ということだ。

 

 

11

では、その「贈与=ギフト」の衝動はどこにいちばん強く切実に向けられていたかといえば、「死者」に対してである。

「死者」の「贈与=ギフト」を捧げるのは、原始時代から続いてきた人類普遍の伝統である。葬式をしない民族などないし、そのときには必ず何かを供える。

5万年前のネアンデルタール人だって、死者の埋葬に際して花を捧げていたという考古学の証拠もある。そしてロシアのスンギールで発見された2万年前の遺跡では、死者の棺におびただしい数のビーズの玉が添えられていた。そしてそれは、被葬者が所有していたものではなく、集落中のみんながかなしみの形見として持ち寄り捧げたものだった。原始時代には文明社会のような身分制度などなく、そして死者を弔う気持ちは現在まで続く人類普遍の感情である。

まあそのころのビーズの玉はきらきら光る宝石であり、人類はもともときらきら光るものが大好きだった。だからその数万年前からきらきら光る貝殻や石粒で首飾りなどを作っており、それが貨幣の起源であるともいわれている。古代メソポタミア都市国家においても、精錬された銀や陶器のかけらなどが貨幣として使われていた。

銅銭だって「きらきら光るもの」だったから貨幣になったのだし、真新しい十円玉を見ればそれがよくわかる。

今でも金メダル銀メダル銅メダルというのがあるわけで、それは、勝者に捧げられる「贈与=ギフト」の形見である。すなわち、原始時代から現代まで、人類はつねに「貨幣=きらきら光るもの」を「贈与=ギフト」の形見として意識してきた。それで何か物が買えるという「交換」の機能は二義的なことで、第一義的には何ものにも代えられない「意味と価値」を持った「贈与=ギフト」の形見として意識されているのだ。だからこそそれは、ただの紙切れや数字にも代替できるし、貧しい庶民は安い給料欲しさにこき使われねばならない。

現在もなお貨幣は、第一義的本質的には「贈与=ギフト」の形見として流通している。MMT理論だって、せんじ詰めれば、まあそういうことだ。僕は経済学者ではないから細かいことの説明はできないが、旧来の経済理論が「天動説」だとすればMMTは「地動説」のようないわばコペルニクス的転回の理論である、などといわれている。だから僕も、旧来の経済学者はみな貨幣の本質的な機能は「交換」の道具にあるというが、じつは、本質的には「贈与=ギフト」の形見としてこの社会に存在している、といわばひとつの地動説として提唱したい。

彼らは、お金なんてただの紙切れや数字で本質的には何の意味も価値もないというが、そうじゃない。ただの紙切れや数字でもかまわないくらいに、意味も価値もあると信じられているのだし、じっさいそのようなものとして発生し、そのようなものとして歴史を歩んできたのだ。

 

 

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というわけで、昔の中国の銅銭がなぜ市場から消えてしまったかといえば、それが貨幣の本質としての「贈与(=ギフト)」の形見として使われたからであり、消えてしまったのはその相手が「死者」だったからだ。つまり、スンギールの遺跡のように、死者への捧げものとして埋葬の棺に納める習俗になっていたからではないだろうか。

中国や台湾は、今でもレプリカの紙幣を棺に納める習俗がある。貨幣経済が発達して庶民でも貨幣が必要な暮らしになっていったために、いつの間にかレプリカの紙幣でそれを代替するようになったのだろう。

中国の銅銭の外側の円形は「天」をあらわし、真ん中の四角い穴は「地」をあらわすといわれている。つまり銅銭は、現世と来世をつなぐものでもあったのだ。

「月」という漢字は、銅銭を束ねた形をあらわしているらしい。古代の中国において月は「天」の象徴であり、呪術の対象でもあった。そのような月の超越性は、そのまま貨幣の超越性でもあった。彼らは、貨幣が持つ超越性と呪術性を信じて、死者の埋葬に際しては惜しげもなく銅銭の束を供えたのではないだろうか。そうやって市場から銅銭が消えていったのではないだろうか。これは、ネアンデルタール人が死者の埋葬に際して野の花を供えて以来の、人類普遍の伝統ではないだろうか。

まあこれはあくまでたんなる仮説ではあるが、ともあれ人類にとっての貨幣は因果なことに好むと好まざるとにかかわらず特別な「意味と価値」を持っているのであり、そこのところを「貨幣には意味も価値もない」と説いておられる安富氏は見落としているのではないかと思える。意味も価値もないから市場から消えていったというのでは、研究者として思考が安直すぎる。意味も価値もあるから消えていったのだ。

山本太郎が「国債を発行してでも困窮している民衆の暮らしを底上げしなければならない」と訴えるのは、彼の中の「他者に対する他愛ないときめき」であり「他者に手を差しのべたいという衝動」であり、それはそのまま人類普遍の「贈与=ギフトの衝動」でもある。そしてそういうことは子を産み育てる存在である女たちにはとてもよくわかるらしく、先日の神奈川県海老名の街宣では、幼い子を連れたお母さんがたくさん聞きに来ていた。

 

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キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。

「天皇陛下万歳!」だってさ

先日、令和天皇即位の礼の儀式で、総理大臣が大仰な万歳三唱をこれ見よがしにやってみせていた。とんだ茶番劇の猿芝居、顔をそむけたくなるような醜悪そのものの風景だったが、同席した外国人たちはどう見ていたのだろう。

だいいち、天皇自身がどう思っていたのか。そのとき彼は例によってあのかすかなアルカイック・スマイルを浮かべているだけだから、内心のことなど伺うべくもない。

平成天皇の退位のとき以来、現政府は天皇家の行事に干渉しすぎる。彼ら右翼の権力者たちは、天皇を最大限に崇めてみせつつ、腹の底では天皇が自分たちの支配下にあることを見せつけようとしている。われわれの大好きな天皇を、安倍晋三一味ごとき右翼に奪われたままでいいのか。

万歳三唱なんて、よけいなお世話ではないか。「天皇陛下万歳!」と大真面目に叫ぶなんて軍国主義の滑稽でアナクロシュプレヒコールにすぎないのであって、戦後生まれの者たちは恥ずかしくてようしない。そんな習俗が明治以前の日本列島にあったはずもなく、千年以上の長い歴史の伝統を背負っている天皇からしたらよけいなお世話だろう。その長い歴史の伝統において天皇がつながりたいのは、民衆であって、権力者ではない。われわれ民衆は、天皇を権力社会の手から取り戻さなければならない。

なんのかのといっても天皇制は日本列島の長い歴史の伝統であり、それを否定することはできない。天皇制がいけないのではなく、天皇が権力社会に幽閉されてあることが異常な事態なのだ。

この国の長い歴史においては、天皇は民衆自治=民主主義の大切なアイコンとして生まれてきたのであり、その「伝統」を取り戻さねばならない。民衆自治=民主主義の大切なアイコンだったから、長い歴史において権力者は天皇家を滅ぼすことができなかったし、しかしだからこそ民衆支配のためのもっとも都合のいいアイコンにもなっていった。それにまんまとのせられて「天皇陛下万歳!」と叫ぶ、そんな愚劣で滑稽な猿芝居なんか、僕にはできない。

 

 

僕は共産党のシンパでもなんでもないが、今回共産党即位の礼に欠席したのはひとつの見識として肯定できなくもない。彼らはその理由として「即位した天皇を前にして総理大臣が天皇陛下万歳!と叫ぶなんて政教分離に反するし愚の骨頂だ」といっている。それはたしかにそうだ。神道が宗教であるかどうかはともかく、天皇を政治利用するべきではないし、それに付き合わされるのは共産党だっていい迷惑に違いない。

ただ共産党が僕の認識と違うのは、彼らは天皇制を否定していて、天皇制が民主主義を阻害している、といっていることにある。まあこれは共産党だけではないすべての左翼の共通認識かもしれないわけで、そんな底の浅い短絡的思考に凝り固まっているから、一般の民衆の支持がいまいち伸びないのだし、左翼革命など絶対に起きない。

この国では、天皇制を肯定しない限りリベラル左翼が多数派になることはない。

ほんらいの天皇制と民主主義は矛盾しないのであり、天皇制こそが民主主義の実現を可能にするわけで、そのためには大和朝廷成立以前すなわち権力者の道具にされてしまう以前の、民衆自治のよりどころ(=アイコン)であった起源としての天皇について考えてみなければならない。

起源としての天皇は、大和朝廷の成立以前の奈良盆地で生まれてきた。それはおそらく、歌と踊りの祭りの賑わい主役である「処女=巫女」であった。すなわち起源としての天皇を生み出したのは、日本列島1万年の歴史の伝統である「処女崇拝」にあった。したがって天皇という存在の本質は、たとえそれが男であれ女であれ「処女性」にあり、「処女性=たをやめぶり」こそ日本列島の伝統精神なのだ。

 

 

「処女性」とは「異次元性」のこと。処女の心は、いつの時代も「この世の外=死の世界」に向いており、「この世の外=死の世界」に超出してゆくことができる。そしてその「異次元の世界」への遠いあこがれこそが普遍的な人間性の基礎であり、そうやって人類の歴史は進化発展してきたわけで、進化発展とは「異次元の世界への超出」なのだ。

天皇は、権力社会によってその頂点の存在のように偽装されてきたが、本質的には権力の外にいるだけでなく、この世の外の存在なのだ。

日本列島の文化の伝統のもっとも主要な主題は「異次元性」にあり、天皇の存在の本質もそこにあるのであって、現世的な権力の頂点に立っているのではない。権力の頂点に立っていないという、その「異次元性=処女性」ゆえに、歴代の権力者たちはついに天皇を滅ぼすことができなかった。

だから、総理大臣がこれ見よがしにわざとらしく「天皇陛下万歳!」などと叫んだりしてはいけない。権力者には、そんなことをする資格はない。権力者は天皇を民衆のもとに戻さねばならない。それが、明治以降の戦争ばかりしていた時代を反省する、ということだ。

左翼は「天皇の名で戦争をしたではないか」というが、そういうかたちで戦争をする権力社会のしくみがあっただけのことで、天皇の意思でそういうしくみをつくったのではない。大日本帝国がつくった「天皇の命令にはだれも逆らってはいけない」という規範は、「天皇は命令しない」という歴史的原則の上に成り立っている。天皇は伝統的本質的に「命令をしない」存在で、そのことゆえにこの国のカリスマであり続けてきたのであり、明治政府の大日本帝国はそのことを狡猾に利用し、彼らの命令を天皇名で民衆のもとに下ろしてゆくという制度をつくった。これはまあ古代の大和朝廷発生いらいの権力社会の伝統でもあり、そういうかたちの「王政復古」だったのだ。

 

 

日本列島の「伝統」とは何か?このことを世の中の右翼は何もわかっていない。小林秀雄や西部進だって全然わかっていない。

小林秀雄は、「なぜ天皇制が大切なのか」という学生たちの質問に対して「だれだって天皇陛下に対しては<懐かしい>という思いを心の底に持っているでしょう。それが<伝統>というものですよ」と語っていた。そう言われれば何となく深い物言いのように聞こえてしまうが、ではその「なつかしさ」はどのようなものか、ということはちゃんと語っていない。そんな明治生まれの年寄りのセンチな気分でざっくり語られても困るのだ。

はたしてその「なつかしさ」は、明治以来の歴史=伝統なのか?古代の大和朝廷成立以来のものか?そんなものは、権力者によって捏造されたまやかしの伝統なのだ。

ほんらいそれは、さらにそれ以前からの歴史の記憶としての「なつかしさ」なのだ。

つまり、この国の歴史においては、権力社会の歴史における天皇に対する「なつかしさ」と民衆社会のそれとでは「なつかしさ」の位相が時間的にもその切実さにおいてもまったく違うのであり、そういうことを小林や西部はきちんと考えただろうか。考えているはずがない。彼らの常日頃の言説から、それをうかがえるような痕跡はない。なんとなくの思い込みの自己満足でざっくりとそう語っているだけなのだ。

日本列島の民衆の天皇に対する「なつかしさ」は、日本列島1万年の歴史の「なつかしさ」であると同時に、原初の人類が二本の足で立ち上がって以来の700万年の歴史の記憶でもある。「なつかしさ」というなら、そこまで検証してから語ってくれ、という話である。まあお二人とも、そのへんにごろごろ転がっているような凡庸なインテリ連中とは違うのだから。

その「なつかしさ」は、人類普遍の「異次元の世界」に対する遠いあこがれに由来しているのであり、その「あこがれ」は700万年前の原初の人類が二本の足で立ち上がって遠くの青い空を見上げたときからはじまっている。その「あこがれ」と「なつかしさ」を思うのなら、小林秀雄のいう「なつかしさ」など右翼的上級インテリのただのセンチでナルシスティックな思い込みにすぎないのであり、安倍晋三の「天皇陛下万歳!」もまた、ただの愚劣で滑稽な猿芝居でしかない。

僕は、天皇制を大いに肯定する者だが、右翼の天皇崇拝なんか認めない。下品で俗物の右翼の連中の権力志向こそが、この国の真の伝統である民衆社会における天皇に対する純粋な「あこがれ」と「なつかしさ」を蹂躙してしまった。

 

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『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

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です。

「知らない」ということ

韓国叩きのヘイトスピーチとか関電賄賂事件とか消費税10パーセントとか、その他もろもろの人と人の関係がめちゃくちゃで、ほんとにひどい世の中になってしまったものだと思う。自分が楽しているからとか苦しいからとかというような問題ではない。ろくでもない人間ばかりの世の中で、ますます人間嫌いになってしまいそうだ。何より自分自身がいちばんろくでもない人間だからこそ、自分のことなど忘れて自分以外の人間の輝きにときめいていたいのに、うんざりさせられることのほうがずっと多い。

知らない人はみな美しい。しかし知ってしまうと、たいていの場合げんなりさせられる。世の中というのは、そういうものだろうか。家族のあいだだって、もう永久にさよならしたい、と思うことがあるし、家族だからこそ憎み合ったりもする。

世界や他者の輝きにときめく体験は大切だ。それがなければ人は生きられない。だれもが「今宵逢う人みな美しき(与謝野晶子)」というような気分で街を歩ける世の中になればいいと思う。

この国の総理大臣以下の多くのネトウヨたちは、人を憎み差別し嘲り笑うことを生きがいにしている。そうやってどんどん精神も顔つきも醜く歪んでいっているのであればもう、病んでいる、としか言いようがない。

現在のこの国は、醜い日本人が醜い総理大臣を支えて成り立っている。この醜さは総理大臣ひとりの問題ではないし、この醜さは今や世界中に知れ渡っている。

しかしそれでも、この国の人や景色は美しいといって、世界中から観光客がやってきている。美しい風土だから、醜いものをはびこらせてしまう。美しい風土は、醜いものを許してしまうというか、醜いものに関心がない。そうやって政治や経済の状況が醜くなればなるほど、無関心になってゆく。どんなに醜い政治経済の状況になっても、街を歩けば「今宵逢う人みな美しき」という気分を体験することができるのが日本的な風土であるらしい。人々は、このひどい政治経済の状況にうんざりしているが、絶望はしていない。なぜなら、絶望するほどの関心がないから。

まあ世界中どこでも見知らぬ人どうしはときめき合うようにできているし、一緒に暮らせば避けがたく鬱陶しくもなってくる。それが普遍的な人間性であり、そうやって人類は「旅の文化」を育て、地球の隅々まで拡散していった。

美しいものにあこがれるからこそ、醜いものとはかかわりたくない。そうやってこの社会に醜いものがはびこる。「今だけ、金だけ、自分だけ」とかいう、とても日本人社会とは思えないような醜い政治経済の状況がはびこる。

相手のことを知る必要なんかない。知ってしまってうんざりさせられることは多い。だから民衆は、国家の政治や権力者のことを知ろうとしない。

「知らない」ことの大切さというのもある。「知らない」から「知りたい」とも思うのだが、ひとつのことを知ることによってさらに三つの「わからない」ことがあるのに気づいたりする。そうやって人の心は、どんどん「知らない=わからない」ことに分け入ってゆく。「知らない=わからない」ことに引き寄せられてゆくのが人の心の常であり、古代人はそれを「学ぶ」といった。「学ぶ」とは「知らない」ことを知ろうとすることであり、「わからない」という「不思議」に驚きときめくことであって、「知る」ことではない。「知る」ことなんか、永遠にやってこないのだし、だからこそ人の心」から「ときめく」というはたらきも永遠になくならない。

なのに今どきの一部の日本人は、韓国人の何もかもをわかっているかのような顔をしながらあれこれ韓国叩きを繰り返している。おまえらのその薄っぺらな脳みそで韓国人の何がわかるというのか。もちろん韓国人にはどうしてもわからない「日本的なもの」もあるわけで、人と人は、その「わからない」というところでときめき合っているのであり、そうやって「今宵逢う人みな美しき」という体験をする。

 

 

見知らぬ人との出会いは、ひとつの救いである。

いま、「GYAO」という無料映画のネット番組で、『知らない、ふたり』(監督・脚本=今泉力哉)という映画が配信されている。これはきわめて良質な日本映画で、監督のセンスの非凡さに感心させられた。小津安二郎調、ということだろうか。淡々としたテンポで話は進んでゆくのだが、こういうタッチのおしゃれな映画というのは、いかにも日本的だなあという感じで、僕は嫌いではない。

話の筋としては、知り合いだったり見ず知らずだったりする3人の女と4人の男によるおとぎ話的な錯綜した恋の群像劇で、脚本がものすごくよくできている。話の展開が嘘っぽいといってもしょうがない。何しろおとぎ話なのだ。そして、さりげなくてしかも深いニュアンス(心理のあや)を含んだ会話もよく練られていて、まさしく日本映画ならではのあはれではかなくきめ細かい味わいがある。

韓国人の男三人女ひとりの俳優が起用されており、彼らだけの韓国語での会話の場面もあるのだが、そのタッチは大げさな喜怒哀楽がないきわめて日本的であいまいな心理で流れてゆき、三人とも上手に演じていたし、若い彼らには「日本的」ということを知るいい経験になったに違いない。

あまり有名ではないらしい日本人のふたりの女優も、すごく魅力的な演技をしていた。

この物語の主題はタイトルが示すとおり、知らない者どうしのあいだで一方的にときめいたりときめき合ったりすることにあるらしいのだが、同時に日本と韓国の関係が成り立つ可能性を探ろうとする意図も含まれているのだろう。そしてそれは、さかしらにわかったような気になるのではなく、「わからない」というそのことに対する率直な驚きやときめきこそが大切だ、ということだろうか。

登場人物はみな、それぞれの個性でそれぞれにひたむきで純粋な心を持って「知りたい」と願っている。おとぎ話なのだ。しかしこの監督の人間観はとても深く本質的で、「知る」ことよりも「知らない」ことや「知りたい」と思うその「イノセント」にこそ国境を超えた関係(=愛)の可能性があるということを、とてもおしゃれにさりげなく表現してみせている。「人情の機微」という小さな世界をただあいまいにきめ細かく描いているだけだが、だからこそ、やっぱり日本映画はいいなあ、と思わせてくれる。

「知らない」という言葉に込めたこの監督の思いは、おそらくとても深い。そして、今どきの知ったかぶりをした韓国叩きの醜さと愚かさを改めて思い知らされる。

現在の韓国と日本とどちらが正しいかとか、わかったような気になってしゃらくさいことばかり言うな。正しかろうと間違っていようと、嫌いであろうとあるまいと、そんなことはひとまず忘れて、まっとうな関係の可能性について考えるということがどうしてできないのか。

正しいとか間違っているとか好きとか嫌いとかの「判断」はすべて「過去」に対してのことであり、ほんとうの「現在」は未来に向かう「可能性」として成り立っている。そういう「可能性」を問う率直さとひたむきさすなわち「イノセント」を、この映画は日韓の若者たちの群像劇として描いている。そしてその「イノセント」こそがここでいう「処女性」であり、それがこの国の文化の伝統であると同時に普遍的な人間性の基礎=本質でもある。

知らない者どうしは、相手の存在そのものにときめき合っている。人間は、「知らない」ということを自覚しそのことにときめいてゆくことができる存在であり、そこにこそ人間としての「知」の可能性と「愛」の可能性がある。

人間は「知る」生きものではない。「知りたい」と願う生きものであり、ひとつのことを知れば、そこからさららに三つの「知りたい」という謎=問いが生まれてくる。そうやって「知る」ことには、永遠にたどり着けない。人間は、猿よりももっとたくさんの「知らない=知りたい」ことを抱えている。知れば知るほど「知らない」ことが増えてゆく。そうやって人間は、猿よりもたくさんの「可能性」を持っている。しかしだからこそ永遠に「可能性」を生きるほかない存在であり、「達成」の瞬間は永遠にやってこない。人類の歴史は、そうやって止むことなく進化発展してきた。

知ったかぶりの韓国叩きをしていい気になっているんじゃない。人間なら「知りたい」と願え。その永遠にかなえられない夢を見続けるのが人間であり、それを「愛」ともいう。

 

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です。

選挙に行こう

先の参議院選挙で山本太郎とれいわ新選組は、「生きられないこの世のもっとも弱いもの」としての重度障碍者を先頭に祀り上げて戦った。この態度は、人としてきわめて本質的である。つまりそれは、生きられない存在としての生まれたばかりの赤ん坊をかわいがり生きさせようとするのと同じであり、人類の歴史はそうやって進化発展してきた。

吉本隆明は「大衆の原像」などといって「大衆」を祀り上げる思想を展開したが、人の世でもっとも大切なのは「大衆」ではなく「生きられないこの世のもっとも弱いもの」であり、彼らこそこの世のもっとも崇高な存在なのだ。

また、吉本をはじめとして「市民(=大衆)」とか「生活者」などという言葉が思想上の金科玉条のようによく語られるが、人間の思考の本質は「市民主義」にあるのでも「生活主義」にあるのでもない。人はつねに「生活=この生」の外に対するあこがれ抱いて生きている存在であり、だから「生きられないこの世のもっとも弱いもの」を祀り上げ生きさせようとするし、そうやって「生活の外」に向かってこの生も時代もつねに新しく変化してゆく。

人は、この生に戸惑い幻滅し、途方に暮れている存在である。だからこそ人類の歴史は進化発展してきたのだし、この世でもっともこの生に戸惑い幻滅し途方に暮れている存在は「処女=思春期の少女」であり、その浮世離れした気配を漂わせた姿にこそ彼女らの普遍的な愛らしさと世界中の人類が祀り上げずにいられない崇高さがある。

「愛らしい」とか「いとおしい」と思うことは、「崇高である」と思うことだ。この世のすべての愛らしく愛しいものは崇高である。そして「崇高である」とは、この生の外の「超越的」な存在であるということだ。

人類世界のもっとも謎めいた超越的天上的な存在は「処女=思春期の少女」である。それはもう「心ここにあらず」というようなその表情によくあらわれているし、じっさいにそういう心の状態になってしまう年ごろなのだ。彼女らは、この世に生きてあることに深く幻滅していると同時に、この世界や他者の輝きにもっとも深く豊かにときめいてもいる。そしてそれは、人の心のもっとも自然で本質的なかたちでもある。

今ここの自分やこの生が大切なものであるのなら、人類の歴史に進化も変化もないではないか。生きものは今ここに生きてあることがいたたまれない存在だから、その身体が動くようにできているのだ。

 

 

起源としての天皇は、この世のもっとも天上的な存在として祀り上げられた。そう解釈するのは古事記の上巻の神話と何も矛盾しないはずだし、今でもそのような存在として民衆から愛されている。

中巻以降に奈良盆地の「征服者」であるかのように記されてあるのはおそらく権力社会=大和朝廷がみずからの正当性を誇示するために脚色された話であり、民衆はあくまで遠い昔の神々の世界に対する「あこがれ」を語り伝えていただけだろう。

今どきの右翼は「天皇は国家の家長である」などというが、天皇は、そんな俗っぽい存在ではない。古代以前の奈良盆地の民衆にとっての天皇は、自分たちみずからが祀り上げ生み出していった「生贄」の「かみ」だったし、それを「神々の世界からやってきた征服者」であるということにするのも、ひとまず異存はなかった。どうせ、だれも知らない遠い昔の話なのだから。

人は普遍的に他界=天上界を夢見る存在である。なぜならこの世に生きてあることに幻滅し絶望しているからであり、それと同時にこの世界の輝きにときめいている存在だからである。この世界の輝きは、他界=天上界からもたらされる……人類の神話は、普遍的にそのような世界観で発想されている。だから大和朝廷の権力者たちたちは「天皇は神の末裔である」といったのだし、そうやって権力の正当性を示そうとした。

断っておくが、僕はべつにオカルトやスピリチュアルに興味なんかない。他界=天上界が存在するかどうかという問題ではない。人はなぜそのように発想するか、という問題であり、青い空を見上げたらだれだって天上の世界を思うだろう。それだけのことだし、そういう思考というか心の動きは、原初の人類が二本の足で立ち上がったときからすでにはじまっていたのだ。

起源としての天皇は、この世のもっとも「崇高」な存在として古代以前の奈良盆地の民衆に祀り上げられていたのであって、もっとも強い権力をそなえた「王=支配統治者」として君臨していたのではない。

 

 

奈良盆地のもっとも古い巨大前方後円墳である「箸墓」の被葬者は、三輪山の「かみ」と契りを交わした天皇家の娘ということになっている。つまり、起源としての天皇は、「かみ」と契りを交わした娘、ということになっていたのだ。この話が生まれたのは平安時代以降だという説もあるのだが、とすれば、そのときまでは起源としての天皇はそういう娘だったという認識が民衆のあいだに残っていたことになる。そして江戸時代の天皇だって、ふだんから女の化粧をして生活していたという。「天皇の処女性」こそ古代以来の天皇家の伝統だったのだ。

まあ現在の天皇即位の儀式である「大嘗祭」にも、「<かみ>と契りを交わす」というかたちが残されている。そういう「色ごとの文化」こそ日本列島の伝統の本流であり、この国の歴史においては「色ごと」にもっとも崇高な精神が宿ると認識されてきたわけで、古代以来の天皇の仕事は「色ごと」にあった。

「色ごとの文化」を深く豊かに汲み上げる能力は女の中にある。とりわけ「処女」の「色ごと=初体験」こそこの世のもっとも深く崇高な体験であるということは、人類普遍の共通認識である。

セックスの快感とか、そういう俗っぽい問題ではない。処女にとっての「色ごと=初体験」はひとつの悲劇であり、その悲劇性に崇高さが宿っている。初体験であれ、今どきの若い娘が手首を切ることであれ、集団の生贄になるという歴的な役回りであれ、処女とは悲劇の中に飛び込んでゆくことができる存在なのだ。

女にとってセックスはひとつの悲劇であり、そうやって嘆きつつあえぎつつカタルシス=エクスタシーを汲み上げてゆく。おそらく、すべての女の中に「初体験」の精神性が残っているのだろうし、その「もう死んでもいい」という勢いで悲劇の中に飛び込んでゆく精神性こそが、男も女もない普遍的な人間性の基礎=本質なのだ。

つまり日本列島の「切腹」や「特攻隊」の習俗であれ、そうした普遍的な人間性としての「色ごとの文化」の伝統の上に成り立っているわけで、それは思想や観念の問題ではなく、因果なことに良くも悪くも日本人の「歴史の無意識」なのだ。

「色ごと」を深く崇高な精神性にまで昇華していったところに、日本列島の「色ごとの文化」の伝統がある。

「色ごとの文化」とは、「もう死んでもいい」という勢いで「悲劇」の中に飛び込んでゆく「処女性の文化」でもある。

 

 

戦後のこの国は、戦後復興の高度経済成長で社会がうまく動いているころは70パーセントくらいの投票率があった。しかし現在はこんなにもひどい世の中になってしまって誰もがそれをわかっているのに、それでも投票率が50パーセント前後になっている。

投票率が低いからみんなが満足しているというのではない。日本列島の民衆は、「満足していない」というその「嘆き=悲劇性」に浸って生きてしまうところがある。だから権力者はいい気になって搾取し支配してくるし、民衆は「堪忍袋の緒が切れたとき」にようやく「一揆」のようなかたちで立ち上がる。

現在のこの国の50パーセントの有権者が投票に行かないのは、現状に満足しているからではない。現状を嘆いていて、その「嘆き=悲劇性」を抱きすくめてしまっているからだ。

この国の伝統においては、この生やこの社会に対する嘆きを共有してゆくことによって集団を活性化させてきた。それが「あはれ・はかなし」という美意識であり、「憂き世」という世界観になっている。

つまり民衆は、ひどい世の中だからろくでもない権力者があらわれてくると思っているのであって、ろくでもない権力者がひどい世の中にしているとは思っていない。権力者が世の中をつくっているとは思っていない。世の中は自分たちがつくっている、と思っている。これは歴史の無意識であり、日本列島の民衆は、権力社会とは別の民衆社会独自の集団性の文化をはぐくみながら歴史を歩んできた。

日本列島の民衆は、「国家」などという概念を信じていない。人の集まりとしての「世(よ)」という意識があるだけだ。

おそらく投票に行かなかった層のほとんどは「ひどい世の中だ」と嘆いている者たちであり、彼らは自分のためにも国家のためにも投票所に行かない。この世に自分のためになすべきことなど何もない。人の心や行動をうながしているのは他者との関係であり、彼らは他者との関係にうながされて、はじめて投票所に向かう。自分の一票など無意味で無力だと思う。それはたしかにそうだし、彼らは自分のためにも国のためにも動かない。彼らを投票所に向かわせる契機は、他者との関係にある。だれだって「生きられない弱いもの」に手を差し伸べたいし、「生きられない弱いもの」だってほかのだれかに手を差し伸べたいと願っている。そうやってときめき合い助け合おうとするのは人間性の自然だし、それが日本列島の集団性の文化、すなわち「色ごと」の文化の伝統でもある。

 

 

中世の百姓一揆にしろ明治・大正の米騒動にしろ、べつに国や藩のために立ち上がったのではない。「他者=生きられない弱いもの」を生きさせたいという願いがあっただけだ。

そうして「国や藩など滅びてもかまわない」という覚悟で徳政令を出すことによって国や藩が再生し活性化するということが起きる。一揆も徳政令も、まあ人類普遍の習俗としての一種の「祭り」であり、それは、「もう死んでもいい」という勢いでなされる「再生」のイベントにほかならない。

社会など滅びてもかまわないと覚悟することによって社会は再生し活性化する……これが人類史の法則であり、そうやって「祭り」という習俗が生まれ育ってきた。

したがって、たとえば今どきの消費税を上げるに際しての、その「国を守るため」という思考こそ国を亡ぼす原因になる国なのであり、国など滅びてもかまわないという覚悟で消費税を廃止することこそが再生と活性化につながる。人類の歴史は、「生きられない弱いものを生きさせる」というコンセプトのもとに進化発展してきたのだし、そういうかたちでしか進化発展しないようにできている。

人類の社会は、だれもが「もう死んでもいい」という勢いで自分の命と引き換えに他者を生きさせようとする関係になること、すなわちそうやってときめき合い助け合うことによって進化発展してきたわけで、それが「色ごと=祭り」の文化の本質でもある。

命のはたらきとは、不断の再生、すなわち点滅するはたらきであって、飴の棒のように伸びて繋がっているのではない。そういう命のはたらきから、人類史における「祭り」という「再生」のイベントが生まれ育ってきた。

 

 

選挙に行かない人間のほとんどは、現在の状況に満足しているわけではないし、「このままでいい」とも思っていない。だから投票率が上がれば与野党逆転が起きるわけだし、現在はほんとにひどい状況で暴動が起きても不思議ではないくらいなのに、それでも投票率が上がらない。

日本列島の伝統というかいわば民族性として、日本列島の民衆はひどい状況=悲劇を受け入れ抱きすくめてしまう傾向がことのほか強い。「憂き世」という言葉があるように、世の中はもともと理不尽なものだ、と思っている。その理不尽さを受け入れ共有しながらたがいにときめき合い助け合ってゆくのが、民衆社会の伝統になっている。

この国では、権力が理不尽を押し付けても許される……現在の政権与党は、そのことに気づいてしまったらしい。理不尽を押し付ければ押し付けるほど投票率は下がり、支配は安定してゆく、と。そしてそれはまさに戦前の大日本帝国の統治形態だったわけで、だから戦前の侵略戦争の歴史を強引に修正して正当化し、あからさまに「教育勅語を復活する」などともいってきたりしている。ほんとにひどい。やりたい放題ではないか。民衆はなめられているというより、権力者たちは支配することが正義=秩序だと思っている。支配者が強くて支配される者たちが弱く従順であれば、秩序は安定する。彼らはそれを目指しているし、人類の歴史はそうやって社会が衰退し滅んでゆくということを繰り返してきた。

このままでは社会が滅びる……と多くの人が思っているのに、それでもますます世の中が衰退してゆく。そして、民衆社会が衰退している分だけ、権力社会は元気になってゆく。彼らにとっては権力社会が元気であればそれでよいのであり、大和朝廷の発生以来、民衆なんかそのための消耗品だというくらいにしか思っていない。

ひとまず戦後の民主主義によって権力者の暴走に歯止めがかかったように見えたが、ここにきてまた元の木阿弥になりつつある。

日本列島は伝統的に権力社会とは別の民衆だけの集団性文化を持っているから、どうしても権力社会の政治に無関心になりがちだし、権力社会のやりたい放題の理不尽を許してしまったりする。

50パーセントの投票に行かなかった者たちのほとんどは現在の総理大臣など好きではない。むしろ嫌いである者たちが多い。それでも「どうでもいい」と許してしまっている。

 

 

投票率さえ上がれば、おそらく現在の政権などかんたんにひっくり返る。

だから現在の政権も大企業や金融の資本家たちも投票率を上げさせないように画策しているし、テレビや新聞などのマスコミがそれに抵抗する力と意欲を失っている。そうやってもともと政治に無関心な民衆をますます無関心にさせている。

投票率が上がらないような社会のしくみになりつつあるのだろうか。

現在の世界は政治的にも経済的にもさまざま行き詰まりの状況を抱えているが、少なくとも投票率の低さだけはこの国特有の問題である。

日本列島の民衆は政治の話をしたがらない。わわれわれにとって権力社会は「異世界」であり、ただ隔絶しているというだけでなく、集団性の文化そのものが根本的に違う。権力社会が競争し排除し合う世界であるなら、民衆社会ではときめき合い助け合いながら歴史を歩んできた。

日本人は会議が好きだし、けっして政治に疎い民族であるのではない。古代から村の運営は村の「寄り合い会議」で決めてきたし、権力社会とは別の思想でその会議が成り立っていた。権力社会の会議ではどちらが主導権を持つかとかどちらが正しいかということを争うが、村の寄り合い会議では、だれもが頭の中が白紙の状態になるまでだらだらと話し合う。そうして、だれもがなんとなくの全体の「なりゆき」に従ってゆく。つまり「多数決」で決着をつけるのではなく、「全員一致」になるまでだらだらと話し合う。それが村の寄り合い会議の作法であり、日本列島の民衆の集団性の伝統においては、正しいとか間違っているとかというような「判断=裁き」などしない。「水に流す」ということ、すなわちすべてが無になって消えてゆくカタルシスこそ民衆社会の伝統であり、「色ごと」の文化なのだ。

投票率を上げるためには、それこそ「セクシー」な盛り上がりがなければならない。日本列島の選挙は何が正しいかというようなことを判断する場ではない。ひとつの「祭り」であり、お祭り気分が盛り上がってこなければ投票に行く気になれない。そしてそれは、自分のためでも国のためでもない、「生きられない弱いもの」という他者のためであり、自分も選挙に参加しなければそういう者たちに申し訳ないという気分で行く。「生きられない弱いもの」こそこの世のもっとも崇高な存在であり、みんなしてそういう存在を祀り上げる気分で選挙に行く。つまり、この世界や他者の輝きを祝福し祀り上げる気分で選挙に行く。

そして「生きられないこの世のもっとも弱いもの」はこの世に存在しないということ。まだ生きているのなら、「生きられない」というわけではない。すでにこの世に存在しないもの、すなわち「死者」こそが、「生きられないこの世のもっとも弱いもの」なのだ。

「祭り」の本質はこの世に存在しない「死者」を祝福し祀り上げることにあり、そのように「もう死んでもいい」という勢いで盛り上がってゆくことによって人の心も集団も活性化する。

人としてのこの世界や他者の輝きを祝福し祀り上げる心映えの本質は、「死者」を祝福し祀り上げることにある、それが、人間性というか人の世の成り立ちの基礎になっている。

 

 

この世を「憂き世」と思い定めて生きている日本列島の民衆は、伝統的に権力社会の理不尽な支配をかんたんに許してしまう。

それはもうしょうがない……と思ってしまう。したがって、野党や知識人がそれを批判して扇動しても、なかなか投票率は上がらない。このことは、ここ数年の自公政権による傍若無人な政治支配を覆せなかったことで証明されている。もともと権力社会に興味がないのだから、どんなひどいことをされても恨みも怒りも湧いてこない。

投票率を上げるためには、民衆どうしのときめき合い助け合おうとする関係が盛り上がってこなければならない。

人々のあいだから祝福し祀り上げる思いが起きてこないことには、この国の選挙は盛り上がらない。国のためでも自分のためでもない、みんなで「生きられない弱いもの」としての「他者」を生きさせようとする願いで盛り上がってゆくことが起きてこなければならない。「生きられない弱いもの」は、この社会のシステムの外の存在である。そういう存在を祝福し祀り上げ、みんなしてこの社会のシステムの外に超出してゆくこと、すなわちみんなして新しい時代に飛び込んでゆこうとする動きが起きてくること。その「もう死んでもいい」という勢いによって、はじめて投票率が上がる。

新しい時代に飛び込んでゆこうとする心意気は、男よりも女のほうが豊かにそなえている。なぜなら文明社会における男は、既存の社会システムにはめ込まれて育つからだ。男たちは現在の世の中が変わることを嫌がっているし、女たちは新しい世の中を待ち望んでいる。いつの時代も「憂き世」なのだもの、「新しい世の中」を待ち望むのが日本人の心なのだ。もちろん新しい世の中だって「憂き世」に決まっているが、そうやって永遠に「新しい世の中」を夢見てゆくのが人間なのだ。

女、とりわけ「処女」のような「もう死んでもいい」という勢いを持たなければ新しい時代に飛び込んでゆくことはできない。そういう処女のような非現実的で超越的な「夢見る心」こそがじつは人類史に進化発展をもたらした人間性の本質であると同時にこの国の伝統でもあり、それをここでは「色ごとの文化」といっている。

セックスなんか嫌いだという男や女たちだって「もう死んでもいい」という勢いを持っているし、それがこの国ならではの「色ごとの文化」であり「処女性の文化」であり、そういう「祭りの賑わい」が生まれてこなければ投票率は上がらない。言い換えれば、景気が良くても悪くても、「祭りの賑わい」が生まれてくれば投票率は上がる。

「祭り」の主役は、昔は旅の僧や芸能民や乞食などの「無縁者」だった。今だってけっきょく人々は、この社会の外にはぐれていった者たちを追いかけて「新しい時代」というこの社会の外に超出してゆくのだ。

 

 

1960年代の後半、最初にミニスカートを穿いて街に登場してきた娘たちはこの社会の「はぐれもの=無縁者」すなわちこの社会の「生贄」だったのであり、しかしみんながそれを追いかけて流行という名の「新しい時代」が生まれてきた。

「新しい時代」は、体制側のエリートや権力者によってつくられるのではない。体制からこぼれ落ちた者たちによって切りひらかれてゆくのであり、こぼれ落ちていったん体制の外に出なければ「新しい時代」なんか見えてくるはずがない。

体制の中にいたら、どんなに賢くて誠実だろうというか、賢くて誠実だからこそというべきか、世の中をどんどん身動きできない袋小路に連れて行ってしまう。そうやって戦前のこの国は、侵略戦争を繰り返す泥沼に入り込み、みじめな敗戦を迎えるまで足を抜くことができなかった。

現在のこの国の権力者たちだって、大真面目に正義を主張しながら、この国の空気やシステムをますます澱んで停滞したものにしてしまっている。まあ、総理大臣をはじめとして嘘つきでこすっからくて恨みがましい連中ばかりで、たとえば韓国は許せないとかなんとか、「やめてくれよ」と思う。「正義を主張する」というそのこと自体が醜悪なのだ。

この社会からこぼれ落ちた「無縁者」はけっして正義を主張しないし、そのニュートラルな思考からしか「新しい時代」に向けた清新な風は吹いてこない。

日本人であることは、今どきの右翼が考えるほど単純なことではない。日本人は、日本人であることからこぼれ落ちてゆく。日本人であることができないのが日本人なのだ。だからわれわれは、日本人とは何かということを外国人に問い続けるし、外国人から指摘されてハッとすることは多い。

日本人は日本人であることの外部にあこがれている。そしてそれは、人間であることやこの生やこの世界の外部にあこがれている、ということだ。そうやって人は「超越的」な思考をするのであり、そうやって美しいものや崇高なものにあこがれるのだし、そうやって人と人はときめき合い助け合う。そうやって、自分の命を投げ出すようにして、他者に手を差しのべる。

人が人に「贈り物」をするのは、根源的には自分の命を差し出す行為であり、ひとつの「超越的な思考」なのだ。

日本人が日本人であることは、たんなる「事実」であって、素晴らしいことでもなんでもない。日本人であることから落ちこぼれてゆくのが日本人であり、そうやって他者にときめき、他者に手を差しのべる。

他者に手を差しのべるのは、他者がかわいそうだからではなく、他者にときめいているからだ。「生きられない」という「悲劇」は、崇高で美しい。崇高で美しいものは、この世の外にある。人は崇高で美しいものに対する遠いあこがれを抱いている。

日本列島の民衆社会は、伝統的に権力社会の理不尽な政治に対する「怒り」を組織することができない。それはもう、あの全学連全共闘運動の挫折が証明している。その革命運動は、ついに民衆社会を巻き込むことができなかった。

日本列島の民衆社会の動きが盛り上がるためには、「ときめき」を組織できなければならない。それが「色ごとの文化」の伝統であり、「ときめき」というその「超越的」な心の動きこそが、民衆社会における人や集団を活性化させる。中世の「踊念仏」とか幕末の「ええじゃないか騒動」とか、日本人の心はそうやって「新しい時代」に分け入ってゆく。それはとても猥雑で下品で通俗的に見えて、じつはそこにこそ「死」という崇高で美しいものに対する人類普遍の遠いあこがれが息づいている。

 

 

10

この世でもっとも超越的な存在は、「処女=思春期の少女」である。その代表的な存在はジャンヌ・ダルクだということになるわけだが、「処女=思春期の少女」はみんなジャンヌ・ダルクであり、時代はそこから変わり始める。もっと広くいえば、すべての女の中に宿る「処女性」こそが時代を変える、ということだ。

たとえば、この国の中世の「無常感」は鎌倉武士のあいだから生まれてきたといわれているが、じつはそれ以前の平安朝の女たちはすでに「無常感」の上に成り立つ「あはれ・はかなし」の美意識を生きていたし、それはもう日本列島の民衆社会全体の世界観・生命観でもあったわけで、権力社会の貴族の男や僧侶たちだけが「永遠」を手に入れようとあくせくしていただけなのだ。だから貴族は武士によって滅ぼされたし、権力と結びついた既存の仏教も、「無常感」を基礎とする新興の浄土宗や禅宗に取って代わられていった。

もしも古代から中世への時代のイノベーションがあったとしたら、それは「女の中の処女性」が生み出したのだ。既存の社会制度の外に立っている存在である女でなければ、「無常感」を深く確かに汲み上げることはできないし、「新しい時代」に飛び込んでゆく勇気も潔さも持てない。

何はともあれ「女の中の処女性」が目覚めなければ投票率は上がらないし、「新しい時代」は生まれてこない。「女の中の処女性」は、既存の権力や社会制度にしがみついている今どきの右翼なんか大嫌いだし、不潔(=潔くない)だと思っている。もちろん、まったく色気のない既存の左翼勢力にもがっかりしているのだが。

「色ごとの文化」のこの国においては、色気のない政治家ばかりでは投票率は上がらないし、「新しい時代」は生まれてこない。

 

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<span class="deco" style="font-weight:bold;">蛇足の宣伝です</span>

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キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。

恐竜時代の終焉

現在のこの国は、ほんとうに狂っている。だれもが巨大化複雑化した社会のシステムに呑み込まれながら、その上にあぐらをかいたかたちで政治や経済が動いている。

このままでいいはずがない。政府やマスコミによる韓国叩きのヘイトスピーチなんてどうしようもなく下劣だし、それを下劣だとも思わないでかんたんに扇動されてしまっている民衆もいる。そんな勢力はじつはほんの一部のはずだが、ともあれそんな勢力にすっかり支配されてしまっている。

世の中の人と人の関係そのものが狂ってしまい、いじめとか差別とかセクハラとかパワハラとかDVとかセックスレスとか、さまざまな社会病理を生み出している。

こんな世の中で、まともな政治家や資本家が生まれてくるはずもなく、まともな者たちはつねに少数派であるほかない。

民衆の心を停滞・衰弱させてしまえば、かんたんに支配することができる。あるものはその扇動に乗り、あるものは黙ってしまう。

扇動されて騒いでいれば心(思考)が活発に動いているかといえば、そうではない。だれよりも停滞・衰弱しているから、扇動されてしまう。沈黙して声を上げることができないでいる者たちのほうが、むしろ何ごとかを思い考えていたりする。

ともあれ多かれ少なかれだれもがこの社会のシステムに呑み込まれてしまっていて、あるものはすっかり呑み込まれながら軽挙妄動して大騒ぎし、またある者は途方に暮れて沈黙している。

人の心が変われば世の中も変わるというが、世の中が変わらなければ人の心も変わらない。みんなが世の中のシステムに呑み込まれてしまえば、変わりようがない。

世の中が変わる契機が何にあるかといえば、世の中の外に立つ者が現れてみんなから支持され祀り上げられるということが起きてこなければならない。

人類社会はつねに社会の外に立つ者を祀り上げながら歴史を歩んできた。その代表的な存在が、キリストであり、釈迦であり、この国の天皇だった。そして女や赤ん坊や病人や障碍者や老人、さらには旅芸人や旅の僧や乞食だって、基本的には「社会の外に立つ者」にほかならない。人の世は、いつの時代もそういう「無縁者」を「神の代理人=聖なる存在」すなわち「生贄」として祀り上げながら人の心および集団を活性化させ、その停滞から逃れてきた。十字架にかけられたキリストまさに「生贄」だったし、天皇だってその起源から現在までずっとそのような存在として祀り上げられてきた。

 

 

社会の外に立つ者(=無縁者)を生きさせ祀り上げるということをしなければ社会は活性化しないのであり、それが天皇制の基礎的なコンセプトである。

市民社会」などといっても、市民だけで社会が完結するわけではない。近代社会は市民の中から選ばれた者たちによって動かされてきたことによって、戦争ばかりしたり格差が広がったりする世界になってしまった。つまりそれは、市民間の)競争の勝者が社会を動かしてはならない、ということだ。もちろん、現在のこの国の総理大臣やネトウヨたちのような「勝者になりたがっている敗者」が動かしてもろくなことにならない。彼らは、勝者が選ばれて敗者は排除されるのがこの社会の法則だと信じてしまっているし、「善良な市民」はその理不尽を嘆きつつもひとまずそれを認めてしまっている。

この社会の運営は、社会の外に立った「勝者でも敗者でもない」者に託されねばならない。ただしこれは、精神とか生きざまの問題であって、社会的な身分がどうのという話ではない。この社会に生きる者はすべてこの社会の「市民」に決まっている。

まあ、身分的には、天皇だけがこの社会の外に立っている。そして市民たちは、天皇の存在を、「無主・無縁」の精神でだれもがときめき合い助け合いながら生きることのよりどころにしている。

ほんらい的には天皇を祀り上げることは「民主主義」の精神の上に成り立っているのであり、現在の総理大臣やネトウヨたちは、天皇の存在というか天皇を祀り上げる精神からもっとも遠い者たちである。彼らは、「勝者」であろうとする自意識を満たすために天皇の存在を利用しているだけなのだ。

天皇は、ヘイトスピーチなどけっしてしない。差別もしない。この国のもっとも本格的な「無主・無縁」の人である。

 

 

左翼の者たちだって「天皇の一番の関心事は、天皇家の系譜を守ることにある」とかというが、それはまわりの右翼たちが考えていることであって、天皇自身はそういう現世的な損得勘定の外にいる。彼にとって天皇であることは自分の運命として受け入れているだけであって、自分の「既得権益」だとも「幸福」だとも思っていない。生まれたときから天皇になることを宿命づけられていてその外に出ることができないとしたら、それは「不幸」の範疇のことだろう。彼にとっての幸福は、自分のことではなく世界が輝いていること(例えば民の安寧)であり、「無私の人」であるほかないのが天皇なのだ。

万世一系」とか「男系男子」ということなど、右翼の者たちにとって大事なだけで、天皇のあずかり知らぬことなのだ。また、多くの民衆にとっての天皇のめでたさやありがたさはそんなところにはなく、この世に天皇が存在するという事実そのものにある。

「水に流す」ということが伝統の日本列島においては、過去の血脈・血統のことはたんなる遊びであり、どんなに捏造しても許されるのだ。「万世一系」であれ「男系男子」であれ、明治以降に捏造されたたんなるお遊びで、まあ「そういうことにしておこう」というだけの話にすぎない。そんなことは右翼だけがむきになっているのであって、民衆の中の歴史の無意識においてはどうでもいいのだ。

とくに現在はテレビなどのマスコミによって天皇の顔を知ることができるから「今ここ」の天皇に対する直接的な親密さを持つことができるし、江戸時代以前は民衆のだれも天皇の顔を知らなかったはずだが、それでも今ここのこの世に天皇が存在するというそのことを祀り上げる気持ちはずっと引き継がれてきた。だからこそこの国の天皇制は長く続いてきたのであり、天皇やそのまわりの権力者たちが既得権益を守ろうとがんばったのではない。民衆が支持するから、天皇家を滅ぼそうと思っても滅ぼせなかったのだ。

この国では権力者と民衆のあいだに「契約関係」がないから、天皇を祀り上げていないと民衆を支配することができないし、祀り上げておけば天皇の名のもとに好き勝手に支配することができる。

だから右翼の権力者たちは、天皇を祀り上げつつ天皇のあるべきかたちを「万世一系」だの「男系男子」だの「神の末裔」だのとあれこれ規定しにかかるわけだが、それは権力者にとって都合のいい天皇像であって、天皇自身の自覚とも民衆の無意識が歴史的に思い描いてきたそれとも別のものだ。

 

 

天皇とは何か?

昭和天皇は明治政府が規定する政府にとって都合のいい天皇像を教え込まれて育ったが、平成天皇は戦後の「象徴天皇」とは何かということをつねに自問しながら生きてきたわけで、それは権力者にとって都合のいい天皇像ではなく、民衆に寄り添い民衆の思い描く天皇の姿を問うことだった。

平成天皇が自問する天皇像と世の右翼たちが要求してくるそれとは明らかに違っていたし、彼は皇太子時代からひたすら民衆に寄り添おうとしてきた。

おそらく昭和天皇は戦後の新しい「象徴天皇」という姿をうまく思い描くことはできなかっただろうが、それでも自身が国の一部として機能しているだけの存在にすぎないということは自覚していたにちがいなく、軍国主義の時代の天皇がどんなにしんどい立場であるかということは骨身に染みて知っていたはずだ。

太平洋戦争の敗戦までの昭和初期なんて戦争に次ぐ戦争の時代で、日本人のすべてがほとんど綱渡りのような日々だったのであり、彼は彼なりにどのように民衆との関係を結んでゆくかと煩悶し続けたに違いない。天皇の仕事は「民の安寧」を祈ることであり、それはもう、仁徳天皇の「民のかまど」の話があるように、古代以来の伝統であり、天皇とはそういう歴史を生きている存在であって、「天皇家既得権益を守る」とか、そんなことを第一に考えているのではない。

「激動の昭和」とはよく言ったもので、明治天皇の生涯はただの権力の操り人形でよかったかもしれないが、歴史的な敗戦を体験した昭和天皇はそれだけではすまなかった。彼の父の大正天皇は権力者たちによって表舞台から追いやられたし、それとともにきわめて不安定な身分である「摂政」にさせられた彼自身もさまざまな屈辱を受けた。摂政なんか、権力者の気に入らなければ、殺して取り替えてしまうことができる。そういう圧力に彼が耐えなければ、弟たちがその役目を負わされる。天皇になるまでの我慢だと思い定めて耐えた。そしてその後に天皇になって安定した地位を得ても、けっきょく軍部の暴走を止めることはできなかった。

天皇が神格化されてしまえば、民衆との直接的な関係を持てなくなり、けっきょく民衆の意識は権力者の望む方向に煽動・誘導されていってしまう。明治天皇昭和天皇も、神格化されているがゆえに、民衆に対して無力だった。

右翼の権力者は、天皇を神格化して神棚の奥に閉じ込めておこうとする。だから敗戦後のこの国は、それを反省して「象徴天皇制」にしようとした。さすがに神の末裔として生きてきた昭和天皇はこのことの認識がまだあいまいだったが、平成天皇になってようやく本格的に問われていった。彼は皇太子時代から美智子妃ともども誠実に民衆と世界観を共有しようとしていった。

今やもう天皇を神格化して見ている民衆などほとんどいないし、だからこそより深く親密な関係ができつつある。

 

 

令和という元号名も、新天皇も、おおむね好評らしい。

平成天皇だって、最初はなんだか頼りない存在のように見られていた。

しかし東日本大震災のときの献身的な被災地訪問を境にして、批判はすっかり影を潜め、民衆からの圧倒的な支持を集めていった。つまり、戦後の「象徴天皇」像は、彼によって確立されたともいえる。そしてそれが起源以来のほんとうの天皇の姿だということは、残念ながらまだ周知されていない。それは、明治以後の歴史においては新しい天皇像であると同時に、日本列島の歴史ほんらいの普遍的な天皇像でもある。平成天皇はそれを、大日本帝国の復活を夢見る権力者や右翼知識人に逆らって独自にひたむきに追い求め、確立していった。新天皇が無難なスタートを切ることができたのも、そんな平成天皇の遺産ということもあるに違いない。

平成天皇も令和新天皇も、無表情だった昭和天皇と違って、いつもにこやかに微笑んでいる。

広隆寺弥勒菩薩法隆寺百済観音等、古代の仏像に多く見られる「微笑み」の表情のことをアルカイック・スマイルなどというが、古代においては、洋の東西を問わず「微笑み」こそがこの世のもっとも崇高な表情であったらしい。平成天皇は普遍的な天皇像として「微笑み」を表現していったし、新天皇もおそらく意識的にそれを引き継いでいる。

世の右翼たちは天皇に「王の威厳」のようなものを求めたがるが、それは、日本列島はもとより人類普遍の歴史においても、もっとも「崇高なもの」ではない。天皇を「神」のように崇めたいのなら、「王の威厳」などという俗っぽく現世的な姿など要求するな。

「微笑み」がなぜ崇高であるかといえば、「微笑み」ほど謎めいた表情はないからであり、それは、異次元の世界の表情なのだ。もちろんひねくれものの「冷笑」やバカの「薄笑い」というのもあるが、天上的な慈愛に満ちた「微笑み」というのはやはりあるわけで、国民の目には平成天皇は心からそのように微笑んでいるように見えたし、それは彼自身も80歳を過ぎてもなお日常的に行われている宮中祭祀に欠かさず出て「民の安寧」を祈っていたというその誠実さのあらわれでもあったのかもしれない。彼は、「象徴天皇」とはそういうものだ、と心に決めていたらしい。

「象徴天皇」こそ、起源であり普遍的でもある天皇の姿である。だから、敗戦後の民衆も戸惑うことなくきわめてスムーズのそれを受け入れていった。一部の右翼だけは不服だったのだろうが、民衆の総意がそれをかき消した。

そのとき民衆は、明治維新以来失われていた天皇との直接的な関係を取り戻した。

 

 

天皇は「無私の人」であり、自分のことを忘れてひたすら「民の安寧」を祈り続けている。彼にとっては、「天皇家の存続」のこととか「万世一系・男系男子」ということなどどうでもよいのだ。

天皇家の存続は日本列島の歴史の運命というかたんなるなりゆきだったのであって、べつに天皇が望んだことではなく、権力者がそのように画策しているだけのこと。それを天皇家の望みであるかのように決めつけて非難するのはいかにも短絡的で、戦後左翼は天皇とは何かということを理解しないまま天皇制を否定してきた。

天皇天皇であることを受け入れているだけであり、いつの時代も天皇であるとはどういうことかと問い続けながら歴史を歩んできた。左翼であれ右翼であれ、まわりのものばかりが天皇とは何かということがわかっているつもりでいる。

天皇とは、ひたすら「天皇とは何か?」と問い続けている存在である。そういう意味でこの世に天皇は存在しないともいえるし、「存在しない」ことのその「超越性=異次元性」が天皇であることの証しなのだ。すなわち天皇に「アイデンティティ=私」などというものはない、ということ。その「超越性=異次元性」において「かみ」と呼ばれてきた。「神」ではない、平仮名の「かみ」。日本列島の「かみ」は「存在しない」ことが「かみ」であることの証しであり、したがって天皇にとっては「天皇家の存続」も「万系一世」も「男系男子」もどうでもよいことなのだ。

天皇とはひとつの「精神」であって「存在」ではない。つまり日本人は「もう死んでもいい」という勢いでときめき合い助け合う「心=精神」のよりどころとして天皇を祀り上げてきたわけで、権力社会はそれを利用して天皇の名のもとに「特攻隊」という戦略を生み出したのだし、現在における民衆が搾取され抑圧されている政治状況だって、民衆の「もう死んでもいい」という勢いが狡猾に利用されてしまっている。

とはいえ、天皇制を廃止すればその問題が解決されるわけではない。廃止したら、民衆ほんらいの「ときめき合い助け合う」関係性・集団性までもが壊されてしまう。であれば、天皇を右翼や権力者たちから民衆のもとに取り戻さねばならない。

 

 

明治天皇は権力の操り人形に徹した。それが彼の思い描く天皇像であったし、だからこそ権力者たちから偉大であるかのように評価されてきた。明治天皇を祀る明治神宮は、昭和天皇明治天皇のような操り人形にするために建てられたのかもしれない。

しかし「摂政」としての屈辱を味わった昭和天皇は、たんなる操り人形では終わらない天皇像を模索していった。その思考が明治以来の国家観に囲い込まれていたとはいえ、彼なりに権力者に抵抗し対峙し民衆の側に立とうとしたわけで、基本的に彼は権力者を信じていなかった。だから敗戦受諾の際には主導権を持つことができたのだが、けっきょく敗戦後も大日本帝国が西洋を模倣してつくりだした「神」のイメージにとらわれたまま、古代以来の伝統である「かみ」にはなれなかった。

平成天皇になって、はじめて「かみ」が問われていった。

もともとこの国の天皇は「かみ」であったのであって、「神」として2000年の歴史を歩んできたのではない。

「かみ」としての天皇は、この国の「非存在」の中心である。民衆の心は、そういう「真空」に向かって流れ込んでゆく。しかし明治から敗戦のときまでの民衆は、権力社会が押し付けてくる「神」のイメージを受け入れるだけで、天皇との直接的な関係を結ぶことができなかった。

天皇制の廃止を叫ぶ戦後左翼だって、「天皇の戦争責任」などといったりしながら戦前の天皇像にとらわれたまま、「象徴天皇」とはなにかとか「象徴天皇」ではなぜいけないのかという議論はあまり深めることはできなかった。だから、一部のインテリ層だけで議論が完結しているだけで、一般の民衆の心を引き寄せることはできなかった。

戦前の天皇像がまちがっているのはわかり切ったことで、なぜまちがっているかといえば、この国の伝統として人々の歴史の無意識に根付いているものではないからだ。

敗戦後の「象徴天皇」という概念というかスローガンは、帝国ファシズムの右翼権力者によって幽閉されていた天皇を民衆との直接的な関係のもとに解き放つことだった。そうしてそれは、平成天皇によってはじめて本格的に問われていった。またそれは、この国の天皇制の真の伝統を問うことでもあった。

 

 

戦後左翼は、天皇軍国主義の首謀者とみなして議論をしてきた。だから「天皇の戦争責任」などということになるわけだが、それを問うたら、民衆のすべても裁かれねばならないことになる。それがこの国の歴史的な「事情」なのだ。民衆を扇動したのは権力者やマスコミだが、天皇を戦争遂行に追い込んだのは民衆だったのだ。

天皇は、天皇家の歴史の無意識として、自分が民衆社会の「生贄」であることを知っている。それはもう、天皇であることの本能だといってもよい。

天皇家の存続」を願っているのは日本人であって、「無私の人」である天皇そその人の思ではない。天皇家はただ、その起源のときから日本列島の歴史に翻弄されながら存続してきただけであり、権力社会に対してはいつの時代も無力だった。

右翼や権力者たちは、天皇を「神」と崇めつつ、歴史の無意識においては、天皇なんか自分たちが支配しコントロールするべき道具だというくらいにしか思っていない。だから、天皇天皇家はかくあるべきだというような傲慢なことがいえる。彼らは、人として精神が腐っている。それに対して民衆は、天皇天皇であることその事実だけを純粋に祝福しているのであり、天皇の民衆に対する心も同じだ。

天皇の権威がどうのということなど権力者が考えていることで、民衆はただもう相手の存在そのものを祝福してゆく心のよりどころとして天皇を祀り上げてきたのであり、「象徴天皇」であることを自覚した平成天皇は、日本列島の民衆社会の伝統としてのそういう関係性と集団性に殉じていった。そうやって右翼主義者からの「民衆から隔絶した<神>であれ」という要請を振り切り、民衆との直接的な関係を模索していった。たとえば、被災地を訪問した天皇皇后がひざまずいて被災者からの声に耳を傾ける姿などはまさにそういうことであり、多くの右翼たちがそれを苦々しく思っていた。

 

 

権威主義は「差別」の温床であり、ヘイトスピーチ権威主義である。右翼は権威・権力にしがみつき、左翼はそれを否定し排除しようとするのだが、そのこと自体が権威・権力であることを認めてしまっている。

天皇は、権威でも権力でもない。権威でも権力でもないことが、天皇天皇たるゆえんである。民衆は、天皇の存在そのものを祝福し祀り上げている。権威・権力を超えたその「超越性」が、天皇を「崇高=神聖」たらしめている。

人は、この生を超えた「崇高=神聖=超越的」なものにあこがれる。それは、だれにとってもこの生がいたたまれないものであるからだ。いたたまれないものであるからこそ、「幸せ」とか「ときめき」とか「満足」とか「価値」とか「権威」というようなものを求めるのであり、その究極に「崇高=神聖=超越的」なものに対するあこがれがある。それが西洋人にとっては「神(ゴッド)」であるのだろうが、日本列島における「崇高=神聖=超越性」としての「かみ」は神の外の「非存在=無」であり、そういうものに対するあこがれのよりどころとして天皇が祀り上げられている。だから天皇は「無私の人」であり、戸籍も持たないのだが、べつに難しいことではない、ただもうわれを忘れて他愛なく世界や他者の輝きにときめいてゆくためのよりどころとして天皇が存在してきた、ということだ。

大切なのは「自分=この生」ではない。その外に向かって心が超出してゆくときにこそ、いたたまれない「自分=この生」が癒され活性化する。

「崇高=神聖=超越性」に対するあこがれなしにこの生は成り立たない。それは人としての普遍的な問題であり、そういう意味で、天皇がいなくなればこの国の運営がうまくいくとは言い切れない。また、天皇のいる国のたしなみとして、正しかろうと間違っていようとヘイトスピーチや差別なんかするべきではない、という問題もある。

天皇がいるから右翼や権力者はヘイトスピーチや差別を扇動するし、天皇がいるから民衆は「そんなことはしない」というたしなみを持つことができる。

天皇制は諸刃の剣であり、まずは天皇を民衆の手に取り戻さねばならない。そうすれば天皇は、だれもがときめき合い助け合うという民主主義のよりどころになる。日本列島は、民主主義からもっとも遠い国であると同時に、もっとも近い国でもある。

天皇は、右翼や権力者たちの玩具ではない。

 

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『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

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『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

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