ハイブリッドの栄光

大坂なおみ全豪オープンで優勝した。

すごいことだ。去年の今頃は世界ランク70位くらいだったのに、ここにきてメジャータイトルを連覇して世界一位に上りつめた。

もちろんこの国では大フィーバーだが、一部では、彼女はジャマイカ人とのハーフで幼いころにアメリカに移住して日本語もよく話せないのだから日本人とはいえない、という意見も出ている。

僕はまあ、彼女の国籍が日本であろうとアメリカであろうとどちらでもいいのだけれど、ひとりのテニスプレーヤーとしてとても魅力的だし、お母さんが日本人で「大坂なおみ」という日本語の名前を持っているのならまぎれもなく日本人だろうと思っている。

彼らの言い分はこうだ。

日本人ともいえないような選手を無理やり日本人として祀り上げようとするのはいじましいナショナリズムであり、外国人コンプレックスでもある……というようなことらしいのだが、何はともあれ半分は日本にルーツがありアイデンティティも本人が日本人だと思っているのなら日本人であるに決まっているし、彼女の肌の色や身体能力を問題にして「日本人ではない」とまで言うのは、彼女に対して失礼だろう。

たとえ両親が日本人で日本生まれの日本育ちの純粋な日本人であっても、いろんな日本人がいる。色の白い人白くない人、太っている人痩せている人、背の高い人低い人、顔の丸い人細長い人、健常者と障害者、美男美女とブスブオトコ……日本人であることの基準なんか。よく考えたらあってないようなもので、本人が日本人だと思っていてまわりもそう認めているなら、日本人以外の何ものでもないし、ジャマイカに行けば「私はジャマイカ人です」といえばいい。どちらも間違っていない。

ブラジル移民でブラジル国籍になって、日本語のしゃべれない二世や三世でも自分のことを日本人だと思っている人は少なからずいる。

大坂なおみの身体が何であれ、彼女から日本的なハートとは何かということを教えられていたりする。

日本人であることの嘆きやかなしみは日本人の伝統だし、日本人は日本人であることを超えたいと願っていたりする。だからバイリンガルがうらやましがられるし、いろんな意味で「日本人離れした日本人」はみんなのあこがれだ。日本人のくせにおっぱいの大きなギャルと、肌の色が濃い大坂なおみと、どれほどの違いがあるのか。

現在の日本女子陸上界の中長距離で売り出し中の高松智美ムセンビという19歳の選手は、ケニア人とのハーフで、顔や肌の色もその跳ねるようなバネのきいた走り方も大いにアフリカ的で日本人離れしている。この娘も幼いころにケニアから移住してきたらしいのだが、彼らからすると日本人ではないのだろうか。大阪育ちの彼女は、インタビューや友達との交流では、ひと昔前のこの国の少女のようなとても愛らしいはにかみ方をする。

本人が日本人だと思っているのなら、日本人だと認めてやればいいではないか。

大坂なおみを日本人として応援しようとする気持ちも、それ自体とても日本的で、「日本人離れ」していることこそ日本人の普遍的なあこがれなのだ。

「凡庸な悪」などという言葉があるが、「凡庸な日本人」であることに居直り、「日本人に生まれてよかった」などと思考停止しているのは日本人としてとても恥ずかしくいじましいことで、「日本人離れ」していることに対するあこがれを失ったら、日本人であることができない。

 

ようするに彼らは「移民」が嫌いなのであり、韓国も中国も嫌いであるらしい。

べつに嫌いであってもいいのだけれど、仲良くしなくてもいいというわけにはいかない。彼らだって国交断絶や戦争を望んでいるわけでもないだろうが、そんな空気を煽れば日本人が結束できるという幻想があるし、そうやって日本人として正当性を確認したいのだろうし、これもまた「凡庸な日本人のいじましさ」であり、とても危険だ。

ヨーロッパであれこの国であれ、移民問題の根本は、移民がいけないのではなく、移民と仲良くできないことにあり、そのことについてわれわれはもっと考える必要がある。もちろんそれには移民の側にもそれなりの節度を持ってもらいたいのだが、「日本人に生まれてよかった」などとほざいている「凡庸な日本人」にも問題がないわけではない。

現在のイギリスは、「凡庸なイギリス人」が移民拒否を叫んでブレグジットを決めたあげく、大きな社会不安と混乱を引き起こしている。

人類拡散の行き止まりの地である日本列島とヨーロッパは、いろんな地域から顔かたちも思考や感性も違うさまざまな人々が集まってきて、そこでとりあえずみんなで仲良く連携してゆこうとする文化を育ててきたのであり、今どきよくいわれている「多文化共生」の本家本元だともいえる。

「多文化共生」なんてあまり好きな言葉ではないが、ともあれそれは「生物多様性」という自然に還ろうとする思想でもあり、べつに彼らのいうちんけなナショナリズムの問題なんかではない。むしろEUのように、ナショナリズムを超えようとする思想だともいえる。

彼らの「移民反対」や「日本人は均質な民族である」という薄っぺらな思考こそ、まさしくちんけなナショナリズムそのものだろう。

「多文化共生」は原理主義的な硬直したお題目に過ぎないだなんて、何を下らないことをいってるんだか。その概念の基礎には「生物多様性」という自然があり、自然に対するあこがれは人間の本能のようなものだ。

生物多様性」は、生物間の棲み分けと連携の上に成り立っており、世界の国どうしも日本人どうしも、ひとつになることはないが、棲み分けつつ連携してゆこうとしている。

たとえば人間の体には無数の微生物が棲みついており、体の分子と棲み分けつつ連携している。その微生物がなければ体のはたらきは成り立たない。まあそういうことで、良くも悪くも自然=生物多様性に還ろうとすることは、現在の世界の潮流だろう。

「日本人は均質な民族である」という思考こそ、よほど硬直した原理主義のお題目で、顔かたちも性格や思考もてんでばらばらの混沌のまま連携してゆくのが日本列島の伝統的な集団性であり、彼らは帝国主義的宗教的な「秩序」と「結束」に対する信仰が強すぎるのであり、それは人間性の自然でも日本列島の伝統でもない。

 

彼らは、「EUはすでに破綻している」と批判し、右翼勢力の台頭を持ち上げる。

まあ今のご時世ではその「ちんけなナショナリズム」が商売になるのだから「もうかってまっか」「おきばりやす」というしかないのかもしれないが、EUでなんとか踏ん張ろうとしているヨーロッパ人が彼らよりも頭が悪いわけではないし、彼らよりも愛が薄いわけでもない。

国と国が国境を越えて仲良く連携してゆこうとして、何が悪いのか。あなたたちはなぜ、その困難な挑戦にエールを送ることができないのか。

彼らのいう通りにしてよくなるという保証なんかないし、「よくなる」という予定調和の前提を欲しがるそのさもしさいじましさはいったい何なのだ。

ヨーロッパは今、「よくなる」という保証もないまま、その困難な道をけんめいに突き進もうとしているのではないですか。たとえそれが挫折したとしても、「間違っていた」とは言えない。それはそれで、人類史の財産になるのだろうと思える。

太平洋戦争のぶざまな敗戦だって、この国の歴史の大切な財産だろう。彼らのような歴史修正主義者の「正義の戦争だった」ということが財産であるのではない。「ぶざまだった」というそのことが財産なのだし、だからこそ戦後復興のダイナミズムが起きた。戦後復興は、食糧危機をはじめとしてさまざまな艱難辛苦を克服してゆく過程だったはずだ。その艱難辛苦に耐えられたのは、「ぶざまだった」という後悔や絶望にあったからだろう。

今頃になって「あれは正義の戦争だった」と言い出したあげくに世界中の笑いものになって何がうれしいのか。正義であろうとあるまいと、とにかくぶざまに負けたのであり、地面に頭をこすりつけるようなその後悔と絶望こそが財産なのだろうと思う。

それはたぶんドイツだって同じで、彼らにとって移民を受け入れることはひとつの贖罪でもある。移民に入ってこられることは困ることも多いが、人間が人間であるかぎり、移民のない世界などありえない。何しろ人類は、原始時代からすでに世界中に拡散していたのだし、拡散する人間性の本質というのはある。それはつまり、人と人は仲間どうしで固まろうとするだけでなく、見知らぬものと連携してゆくこともできるということだし、そういう「連携」の集団性のほうが、結束の集団性よりもずっと豊かなダイナミズムを生む。

もともと人類最初の都市は、どこからともなく人が集まってきてときめき合い助け合いながら集団をつくってゆくというかたちで生まれてきたのだし、現在のサッカーや野球などの集団競技は、結束力よりも、高度な連係プレーを持っているチームがいちばん強い。

人がどこからともなく集まってくるということ、そこにこそ人間性の自然・本質があり、それによって「行き止まり」の地であるヨーロッパや日本列島の集団性の文化が育ってきた。

彼らがいくら移民反対を叫んでも、実際問題としてそうなるはずもなく、移民との関係をどうするかという問題があるだけだ。

同様に、どれほど韓国や中国が嫌いであろうと、現在の東アジアの状況からして仲良く連携してゆくしかないのであり、それをするための覚悟や勇気や誠実さや叡智を彼らに望むことはできない。

 

 

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キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。