EUと移民反対

『日本国紀』という本がバカ売れしているらしい。じつは僕もさっそく買って読んでみたのだが、歴史の教科書やウィキペディアに書いてあることを並べているだけだし、しかもその歴史的事実に対する著者の解釈もまったく愚劣で幼稚で陳腐で、どうしてこんな本を買ってしまったのだろうと後悔している。

悪貨は良貨を駆逐するとはよく言ったもんだ。われわれのだれもが新しい時代の到来を待ち望んでいるが、新しい思想や作品が万人に受け入れられるわけではない。ゴッホの例のように、新しい思想や作品は、当人の死後に評価されことが多い。つまり人々は、後になってから、ああそうだったのか、と気づく。

リアルタイムで多くの人々にもてはやされるのは、通俗的であることもひとつの大きな要素になる。

時代を超えた思想や作品は、受け入れられない。しかし人々は、時代を超えた新しい時代を待ち望んでいる。

現在のこの国は右翼の本が売れる時代であるらしいが、だからこそ右翼を超える思想や作品が待ち望まれてもいる。右翼の時代であるがゆえに、右翼はもはや「NEXT」ではない。

まあ、日本人に生まれてよかった、ということを扇動している本であるのだが、著者も含めて現在の日本人がほんらいの日本人であることができているか。われわれが待ち望んでいるのは新しい日本人であり、それがほんらいの日本人でもある。

僕としてはこんな低俗な本をもてはやしている人たちよりも、初音ミクや米津玄師を聞いている若者たちのほうがずっと日本人らしさを感じるし、その日本人らしさが世界で「クール」だと評価されてもいる。

この国の総理大臣をはじめとして今どきの右翼が世界で「クール」だと評価されているか。笑いものになっているだけではないか。

「日本人に生まれてよかった」などと自己満足しているなんて、少しも「クール」ではない。もともと日本人は日本人とは何かと問い続けている民族であり、日本人であること正味がよくわかっていないのだから、「日本人に生まれてよかった」などと思いようがない。日本人であることを超えたところに立っているのが日本人なのだ。自分が日本人であることなんか置き去りにしながらたとえ異文化であっても他愛なくときめいてゆくのが日本人であり、だから「日本人とは何か」と問わねばならないのだし、日本人であることから解き放たれているのがほんらいの日本人なのだ。そしてその他愛なさを、外国人から「クール」だと評価されている。

彼らは「日本人に生まれてよかった」と思っているから、「移民」に入ってこられるのをとても嫌がる。たいした日本人でもないくせに、たかが戸籍が日本人であるということだけに居直りしがみつき、それに満足しようとしている。なんとまあ、いじましいことか。

日本人であること以前に生きてあることそれ自体に「かなしみ=嘆き」を抱いているのが日本人であり、まあそういうことは、こんな傲慢で恥知らずな作家やそれをもてはやしている右翼たちよりも、15歳のギャルのほうがずっと深くかみしめている。

 

だれかが、こんなことをいっていた。

多神教の集団に一神教とが一人でも入り込めば、多神教はたちまち崩壊する。日本人は一神教の怖さを知らない」と。

だから移民反対だといいたいらしいのだが、知ったかぶりして何を偉そうなことをいってるんだか。

一神教は怖いに決まっているさ。たいていの日本人はそのことを知っているし、だからこの国は、全体としては一神教にならない歴史を歩んできた。

日本人の中にも一神教の人はいくらでもいるし、しかしそれを排除することはできないということも知っている。なぜなら「おかみ=権力」とは、法律という唯一絶対の神によって支配しようとしている一神教そのものだからだ。

この世の一神教はもはや宗教だけに限らない一つの観念のかたちになっており、日本人がそういうことに寛容であるのは、それすらも攪拌してしまう文化の伝統を持っているからだろう。

移民反対という、その純血主義そのものが一神教なのだ。

一神教が一人でも入り込むと多神教が壊されるだなんてただの強迫観念で、その強迫観念それ自体が一神教でしかない。怖いのはそういう一神教という強迫観念の持ち主がリーダーになって支配しにかかることで、それが、ナチス・ドイツであり、大日本帝国だった。

純血主義も拝金主義も右翼が正しいというのも法律を守らねばならないというも、つまるところ一神教なのだ。正義正論で支配しようとするそのこと自体が一神教で、正義正論を振りかざすことがアイデンティティの国家も宗教もすべて一神教だといえる。資本主義であろうと共産主義であろうと、一神教だろうと多神教だろうと、正義正論という「唯一神」に縛られたら一神教に決まっている

人類はもはや一神教的観念から逃れられないのであり、その観念を排除するのではなくどのように攪拌してゆくかというのが現在の人類社会の課題であり、その課題を負って現在のEUが困難な道を歩み続けている。それはいつか挫折するかもしれないが、おまえらみたいな観念的一神教徒が偉そうなことをいうな。彼らは、けんめいに一神教を克服し超えようとしている。もしもその試みが成功すれば、それは世界中の希望になる。

一神教が怖いことなんか当たり前だが、それを排除すればいいというようなものではない。それを克服し超えてゆかねばならない。お前らみたいなアホと違って世界は今、その難題に挑戦している。

あなたたちは、現在の「ヨーロッパの苦悩」に寄り添ってものを考えてみるということがなぜできないのか。

多文化共生なんて個人的にはあまり好きな言葉ではないが、世界中の人類の血が混じり合ってしまうこととそれぞれの地域で独自の文化が生成していることは人類史普遍の法則であり、おもしろいことに両者は矛盾しない。

一神教徒が千人二千人入って来ても、現実には集団の全員がそれの染まってしまうことはない。相互扶助のミツバチの群れの中にエゴイストが一人入ってきたら、みんなエゴイストになってしまうのですか。ミツバチはミツバチのままだし、日本人は日本人のままなのだ。古代の大陸文化や移民の受け入れの帰結は平安時代の国風文化だったのであり、平仮名は漢字という基礎がなければ生まれてこなかった。

多文化共生とは、棲み分けつつ連携してゆこうとする思想であり、その基礎原理は「生物多様性」にある。ここでいう「共生」とは棲み分けつつ連携してゆくということであって、別別になることでも同じになることでもない。一神教多神教かというような二項対立で考えてもしょうがない。

日本人どうしだって、みんなが同じ趣味思想になるのではなく、それぞれ違いを認め合いながら仲良く連携してゆこうということ。個人と個人の関係だって「棲み分けつつ連携」してゆこうとしている。

同じになるなんてうんざりだけど、連携しないと生きていられない。「カルチャー=文化」とは人々の思考や感性を同じにするものではなく、人々が連携するための触媒である。音楽が好きだといっても、クラシックが好きな人もいればジャズが好きな人もいるし演歌が好きな人もいる。また、クラシックが好きだといっても、ベートーベンが好きな人もいればブラームスが好きな人もいる。文化は、文化であることを自己否定し乗り越えてゆこうとする。そうやって新しい文化や新しい作者がどんどんあらわれてくる。

もともとのジャズとは即興の変奏曲=バリエーションであり、そうやってジャズを超えてゆくことがジャズという文化運動だともいえる。大阪なおみは、日本人の変奏曲=バリエーションであるがゆえに、もっとも日本人的であり、人々はそこに「新しい日本人」を見ているのかもしれない。

この世に正しいことなんか何もないという「混沌」を生きるのが日本的な多神教であり多文化共生主義であり、身体的血統的なルーツとかアイデンティティなんかどうでもいい。そうやってこの国の伝統においては、我が家は天皇家の末裔だとか朝鮮貴族の末裔だとか平家の落人の子孫だとかと嘘っぱちを宣言しても許されてきた。

純血日本人を名乗るあなたたちが、どれほど「日本的」であるというのか。純血などどうでもいい、ということこそもっとも「日本的」なのだ。

日本人が一神教の怖さを知らないのは、一神教すらも攪拌してしまう文化の伝統を持っているからであり、そんなに怖いのなら、そんなに純血が大事だというのなら、おまえら、クリスマスもハロウィンもバレンタインもするな。漢字も横文字も使うな。中華料理も西洋料理も食うな。キムチも食うな。

多文化を受け入れて移民は受け入れないというのは無理があり、「移民」は人類の歴史始まって以来の普遍的な生態であり、それはもう、どう「拒否」するかではなく、どう「克服」するかという問題なのだ。

つまり、日本人がそういう無原則的無国籍的な思考や感性を持っているということは、日本人であることを超えようとしているのが日本人である、ということであり、そうでなければ一神教という正義・正論を攪拌してしまうことはできないし、年月や季節とともに移ろい流れてゆくことはできない。

日本列島の古代も中世も明治維新の近代化も、すべて外国文化や移民を受け入れるというかたちではじまったのだし、それらを攪拌しながら新しい国風文化が生まれてきた。

大坂なおみは日本人じゃない」だなんて、そんな失礼でくそ厚かましいことをいっちゃだめだ。本人が日本人だと思っているのならまぎれもなく日本人であり、そこにどんな法律的な規則があろうとも、個人としての他人がとやかく言うべきことではない。

 

 

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キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

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