「美しい日本」なんかどこにもない

 

 

新しい元号が発表された。

「令和」、万葉集の万葉仮名からとったというが、「れいわ」と中国式に読んで、中国式の漢字の意味で体裁をとっているのだから、やまとことばとは何の関係もない。総理大臣は「令和」にはこんな意味があるとかなんとかと吹聴していたらしいが、「何言ってるんだか、あほくさ」という感じである。政府もそのお抱えの学者たちも、そろいもそろってよくこんなバカげたことができるものだ。

万葉仮名の漢字を二つ拾いだして、それで漢字熟語をつくる……そんなことに何の意味や意義があるというのか。

万葉集からとるなら、たとえば枕詞の「あをによし」の「青丹」とか「ちはやぶる」の「千早」とか「ひさかたの」の「久方」とか、そういうかたちならまだうなずくこともできるが、これじゃあまさに「仏作って魂入れず」そのものではないか。

こんなやり方のどこに「日本精神」や「やまとごころ」があるというのか。「美しい日本」が聞いてあきれる。

「令和」なんて、中国式に読んで初めて形になる。「規律正しく和する」すなわち「国の命令にはおとなしく従え」といっているのだろう。いかにも右翼政権らしいいやらしいコンセプトだ。

人と人の「和」という関係はときめき合っていれば自然に生まれてくるのであって、「令」などという作為的なものを必要としない。

「法令」の「令」、権力者たちはそれに絶対的な力を持たせようとするし、民衆は泣く泣くそれに従っている。

どうしてこんないやらしい言葉を使いたがるのか、賛美したがるのか。

 

僕は、総理大臣の談話を直接には聞いていない。この頃はもう、あの人の声やしゃべり方を耳にするだけで、いたたまれなくなってしまう。もともと政治なんかほとんど興味もないのだけれど、あまりにも愚劣でグロテスクで、さすがに気になってしまう。

気にしなくてもいいようなましな政治をやってくれよ、とひとりの日本人としてそう思う。

日本人は伝統的に、国の政治に興味を持つことはしたくないのだ。だから、ナショナリズムなどというご立派な心もさらさらない。

しかしこんなにも愚劣でグロテスクな政権であるなら、気にしないで済ませることができないではないか。

日本人の国の政治との関係は、褒めもせずけなしもせず、ただ遠くからそっと見守る、というかたちであるのが理想なのだ。

目障りでなければ、それでいい。

しかし現在の政権は、あまりにも醜悪だ。とはいえ、そうとも思わずにやりたい放題にやらせてしまっている民衆の愚鈍さは、もっと情けない。

民衆が高い意識を持って暮らしていれば、政権だって多少は襟を正す。民衆が舐められている。そしてなめられているのは、政権にうんざりしている者たちではなく、政権を許している者たちだ。

許されていると思うから、あの連中がいい気になる。自分たちを許している愚鈍な者たちの心さえつかまえておけば政権は安泰だ、と思っている。それ以外の者たちは人間だとも思っていない。「弱者のための政治を」などといっても、聞く耳は持たない、弱者であればあるほど搾り取りやすいと思っているだけだ。

 

ともあれ現在の権力者たちに一番なめられているのは、「ネトウヨ」と呼ばれている者たちだろう。

権力者たちは多少なりとも自分の醜さを隠そうとしているが、ネトウヨたちは、驚くほどあからさまにヘイトスピーチを垂れ流し続けている。その執念深さはいったい何なのだろうと思うが、権力者がそれを許しつつ「もっとやれ」とけしかけてもいるからだろう。彼らは、権力者に甘えている。権力者が「許さない」という態度をとれば、彼らにはそれに反抗するような根性はない。彼らは権力者に支援されていると思っているし、権力者は彼らの存在をみずからの悪辣なふるまいの隠れ蓑にしている。まあそういう憎まれ畏れられる親衛隊がいれば、仕事がやりやすくなる。戦時中の特高警察のようなものだろうか。

権力者のお先棒を担ぐことは、この社会のシステムからこぼれ落ちていない、という安心になる。

権力のまわりには親衛隊が群がってくる。蜜に群がる蟻というか、システムからこぼれ落ちることの恐怖にせかされた強迫観念というか。総理大臣から末端のネトウヨまで、みんなしてそういう強迫観念にせかされている。そうして、とにもかくにもそういうグループの共同幻想によって「令和」という元号が採択された。とにかく、正義とは命令することで命令することが正義だと思っている連中なのだから、そういう言葉に引き寄せられてゆくのは当然だし、きっと「格調が高い元号名だ」と思っているのだろう。

「れい」という音韻は、命令の「れい」であると同時に、令嬢や令夫人の「れい」だし、「きれい・淡麗」の「れい」でもある。「れい」という音韻には、「格調が高い」とか「鋭い」というニュアンスがある。頭の中身が鈍くさくて下品なものほど、そういう言葉を好む傾向がある。

まあその言葉にどういうイメージを抱くかは人それぞれだし、いずれは単なる「記号」として習慣化してゆく。

ただねえ、万葉集からとったといっても、それはやまとことばでもなんでもないのですよ。つまりやることがちっとも日本的でも知的でも上品でもおしゃれでもない、ということ、無国籍的で無知で下品で野暮ったい、ということ。「令和」という言葉に罪はないとしても、それを採択した者たちの知性や品性にはうんざりさせられる。

僕個人が勝手に描くストーリーとしては、その発案を皇太子に頼み、「平和」という言葉が出され、その理由を聞かれて「みんなが知っていてみんなが好きな言葉はこれかなと思った」と答えれば、それがいちばんめでたいことだろう。

何はともあれ元号などというものは天皇家が決めるのが筋だろうし、皇太子が発案者になれば、その後天皇になったときに「象徴」としてのカリスマ性が与えられることになる。

元号を政府以下の下々のもたちで勝手に決めるなんて、いかにも政府が天皇を支配しているという感じで、あまり愉快ではないし、めでたさも大いにそがれてしまう。

とにかく元号なんてただの「記号」であり、民衆はひとまずそれを受け入れる。元号に罪はない。それを決めた連中の醜さが目障りなだけだ。

 

われわれ民衆は、どうしてこんなにもかんたんに支配されてしまうのだろう。ありえないほどに愚劣でグロテスクな者たちが権力の中枢を占拠してしまっている。愚劣でグロテスクな者でなければ権力の中枢に入ってゆけない、ということだろうか。そうして、そんな社会システムから振り落とされるまいとして権力にすり寄っていったり権力を容認したりしている者たちがいる。そうした現政権を支持するグループはこの国の多数派だろうか?

なんといってもこの国は政治に対する無関心的無党派層がいちばん多いのだから、現政権の支持者が多数派だとは一概にいえない。そこに異を唱えている者たちや、いろんな意味でこの社会のシステムの外に立っている者たちは、決して少なくはない。

この国の伝統においては、「民衆」とはこの社会のシステムの外に立っている存在であり、だからかんたんに支配されてしまうし、だから政治に関心がない。この国の民衆社会は、権力社会とは別の集団原理をもっている。だから「革命」が起きないのであり、と同時に、一日で民意が右翼から左翼に変わってしまうこともできる。それがまさしくあの敗戦直後の状況だったのであり、「水に流す」という文化、すなわち「みそぎ」の文化こそこの国の伝統にほかならない。

権力社会の集団性と民衆社会の集団原理は逆立している。前者が「法=令」のもとに「結束=和」してゆくのだとすれば、後者は、たとえば「祭りの賑わい」とか「貧乏長屋の助け合い」のように支配=被支配のない混沌のままに「連携=和」してゆくことによって盛り上がってゆく。

つまり、民衆社会の「和」は、「令和」などという言葉によって表現されるようなものではない、ということ。「和」などというものを権力社会が語るなんてしゃらくさい話で、おまえらが民衆社会から学べ、ということだ。

集団の「結束」は邪魔者を排除することの上に盛り上がるのであり、やがては自家中毒を起こして自滅してしまう。昭和初期のこの国が自家中毒を起こしたあげくに惨めな敗戦に向かって転げ落ちていったように。

「連携」こそこの国の集団性の伝統であり、それは民衆社会によって引き継がれてきた。

まあ、民衆社会がみずからの伝統を示さなければ、権力社会だって変わらない。

聖徳太子が十七条の憲法で「和を以て貴しとなす」といったとき、権力社会では傍若無人の権力闘争が習慣化し、権力者たちが権力のために次期天皇候補を殺し合うということが平気でなされていた。それが「令和」というスローガンによって引き起こされる事態であり、大日本帝国だろうと現政権だろうと、何も違いはない。総理大臣のまわりには、閣僚・官僚からネトウヨまで、忖度するイエスマンばかりで、この「結束」を「令和」という。

「和」という言葉を使えばそれですべてがオーケーというわけにはいかない。愚劣な連中の「和」は、愚劣な「和」でしかない。

「美しい日本」なんかどこにもない。「日本人に生まれてよかった」なんて、能天気なことをいってんじゃないよ。おまえらごときが「美しい日本人」なのか?

ほんとうに「美しい日本人」は、「自分以外はみな美しい日本人だ」と思っているから、自分が「日本人に生まれてよかった」などとはけっして思わない。僕は、うんざりすることが多くてとてもじゃないがそんな境地にはなれないけれど、そういう人がきっといるのだろうな、ということは信じられる。まあ、いようといまいと、それが「美しい日本人」なのだ。

 

 

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初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

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