人恋しさの集団性

 

 

「令和」という新元号名を聞いても、なんだかなあ、と思うばかりで、もう飽きた。

あんなセレモニーなどただのこけおどしで、それが成功したのか失敗したのか、よくわからない。

もうどうでもいい。

統一地方選挙の結果もなんだか低調で、人々は、どうしてこんな愚劣な政権を許してしまうのだろう。さしあたって自分が困っていなければ政治のことなんかどうでもいい、ということだろうし、困っていないのだから政権が代わってほしくないとも思うのだろう。とくに若者は。彼らは、スケジュールが代わることやコストを払うことを嫌がるし、ちょっとまあ自閉症的なところがある。余計なことにかかわりたくない。

もちろんそんな若者ばかりではないし、若者であれば、そんな気分も何かのはずみでかんたんに変わってしまうこともあるだろう。

世の中が変われば、若者の気分も変わってくるのだろうが、今は、若者を自閉的にさせる社会のシステムが上手にきつく出来上がっている。

若者が投票に行くか行かないかは、政策の問題ではない。お祭り気分にさせてやることができるかどうかだ。お祭りとして盛り上がらなければ、投票になんか行かない。

その点は右翼のほうがよく心得ている。元号のセレモニーやオリンピックはまさにそんなことだし、ヘイトスピーチで騒ぎ立てることだってひとつのお祭りであり、それが正義かどうかとか真実かどうかということなど、彼らの知ったことではない。

僕だって、現在の政権が間違っているかどうかということなどわからない。ただもう耐えがたく「醜い」と思うだけなのだ。

元号はすばらしい、という右翼の者たちの感動なんてまったくいじましいかぎりだが、それでもないよりはましでお祭り気分にさせてくれるし、それが投票行動につながる。

とにかく集団行動のダイナミズムはお祭り気分とともに起きてくるわけで、そういう感動を与えてくれないことには野党に風は吹かない。

 

 

日本列島の歴史だって、まさにお祭り気分とともに動いてきたのだ。

たとえば、起源としての天皇が九州から奈良盆地にやってきた征服者だったいうのは、後世になって捏造されたたんなる伝説に過ぎないのであり、そんなことくらいこの国のだれもが知っている。

まあ、それでもその裏に史実が隠されていると考える歴史家が多いし、右翼たちはひとまずそれを史実であることにしようといういじましく意地汚い合意で結束している。

そんなことは、史実とは何の関係もない。そういう伝説をつくりたがるのは世界中の共同体の普遍的な習俗であるが、原初以来の人類の歴史に照らして考えれば、まずどこらともなくたくさんの人が集まってきて大きな集団がつくられていったということ、そんなことは、あたりまえすぎるくらいあたりまえのことではないか。そんな安っぽい物語をまさぐっている前に、なぜ人間の原初的で普遍的な集団性について考えようとしないのか?

この国の起源としての天皇は、奈良盆地の民衆がみんなで仲良く暮らしてゆくための「象徴=シンボル」として祀り上げっていった、まあ「巫女」のような「カリスマ・アイドル」だったのだ。それが、奈良盆地の都市化とともに天皇という存在になっていった。それだけのことさ。それだけのことだが、今どきの凡庸な歴史家たちにはそれを考えるだけの想像力も探求心もない。

「そこに史実が隠されている」ということにすればかんたんだしおもしろくもあるのだろうが、そういう起源伝説が根も葉もない作り話であることは世界史の普遍的な法則であり、そこに考える余地があるとすれば、そういう根拠のない作り話が生まれてくる時代状況を問うことにある。

たとえばその伝説がつくられた6・7世紀ころの奈良盆地には日本中からたくさんの人が集まってきていて、九州に高天原という秘境があることを人々が知っていた、ということであり、その千年前の高天原に王国があったという考古学的証拠など何もないし、文字のない社会の千年前のことを一体だれが覚えているというのか。そんな話は一寸法師や桃太郎の「貴種流離譚」と同じで、世界中どこでも起源伝説は根も葉もないことにこそ存在意義があるのだ。

まあ日本人は歴史を修正したり消してしまったりすることが好きな民族で、それが「水に流す」という精神風土の伝統で、そうやって九州の山奥の村では「自分たちは平家の落人の末裔である」という起源伝説を語り継いできた。平家の落人の子孫が代々庄屋を務めてきた、ということがあるにせよ、その前には無人の山野だったという証拠は何もない。

古代ローマはオオカミに育てられた双子の子供が建国したとか、起源伝説は、根も葉もないというその「超越性」にこそ値打ちがある。まあこの話をすると長くなってしまうが、この「超越的な思考」で言葉や神という概念が生まれてきたのだし、人類の歴史は「超越的な思考」とともに進化発展してきたともいえる。

 

 

お祭り気分が盛り上がらなければ集団のダイナミズムは起きてこない。弥生時代奈良盆地がその当時の日本列島でもっともダイナミックな人口爆発が起きた土地だったすれば、それはお祭り気分で賑わっていたということであり、それによって人々の.生殖活動が盛んになっていっただけでなく、周辺から訪れてくる旅人もたくさんいたということを意味している。旅人が持つ熱い心やせつない心というかその「人恋しさ」は祭りの盛り上がりにはとても役に立つ。

まあ終戦直後の東京や大阪だって同じようなムーブメントが起きていたのであり、そこは、田舎と違って極めて食糧事情が悪く、日本列島でもっとも困窮している土地だったのに、もっともたくさんの人が集まってきてもっとも賑わっていた。人類史における都市は、祭りの賑わいとともに生まれてきたのであって、政治経済的な理由によるのではない。

もしも「神武東征」という征服者伝説をつくったのが奈良盆地の民衆だったとすれば、じっさいの権力者だって天皇の家来にすぎない、ということにしたかったからだろうし、権力者にとってもそのほうが民衆支配に都合がよかったのだろう。この国のように権力者と民衆との「契約関係」のない社会では、そういう「構造」が必要だった。

われわれ民衆は契約関係もない権力者になぜこうもかんたんに支配されてしまうのかといえば、それが「天皇の命令」として下りてくるからだろうし、まあ世界史的にも民衆支配は「神の命令」として出来上がっていったのだ。

征服者は、まず神との関係の仲介役として民衆との「契約関係」を結ぶことによって権力支配を確立する。神は人類を支配するが、同時に救ってもくれる。だから西洋の支配者は民衆を救う義務を負っている。

しかしこの国の天皇は支配もしなければ救ってもくれない。ただ一方的に民衆を祝福しているだけであり、民衆もまた一方的に天皇を祝福している。もともとこの国の民衆と天皇とのあいだには、利害関係で結びついた「契約」などというものはない。だからその「契約」を偽装するために支配者たちは「神武東征」という物語を捏造したのだし、民衆もひとまずそれを受け入れた。なぜならそのとき民衆の祭りがすでに大規模・広域に拡大していたから、祭りを管理運営することが必要になっていたわけで、その「まつりごと」するものとして、天皇と民衆のあいだに立った支配者が登場してきたのだ。

この国の最初の「王=天皇」は、征服者ではなかった。そのとき天皇は民衆が勝手に祀り上げている存在であり、民衆が天皇という王を殺して革命を起こすということはあり得ないし、支配者にしても、天皇を殺したら民衆支配が成り立たなくなる。天皇制が1500年以上続いてきたというこの国の歴史的な社会の構造は、起源としての天皇が「征服者」でなかったことを物語っている。征服者としての王は殺してもかまわないが、神としての王は殺すわけにいかないし殺すことができない。

なんのかのといっても天皇制がこんなにも長く続いてきたのは、天皇が征服者ではなく「神」のような存在だったからだ。しかも、支配しない神だったというか、支配しないことによって神であることができた。この国と西洋やアラブとは、神という概念そのものが違う。

この国の「神=かみ」は、支配しないし、救いもしてくれない。なぜなら、もとはといえば、ただの祭りのアイドルだったのだもの。

江戸時代の吉原の花魁は菩薩という神のような存在だったし、今どきの舞妓やAKBや宝塚や初音ミクだって、ひとまず「巫女」であり「かみ」なのだ。

 

 

征服者は、かならず別の征服者に滅ぼされる。そうやって藤原氏も平家も源氏も北条も足利も織田も豊臣も徳川も、すべて別の征服者に滅ぼされた。それが歴史の法則だ。

天皇家は、最初から征服者ではなかったから1500年以上続いてきた。天皇は、支配者ではない。民衆によって一方的に祀り上げられているいわば「生贄」であり、「象徴」であるとは「生贄」であるということで、天皇はその立場を受け入れている。

丸山真男をはじめとする戦後左翼は「天皇が存在するかぎり日本人の精神的自立はない」などとよく言ってきたが、その自立できない「寄る辺ない心」こそ日本列島の伝統的な精神風土であると同時に人類史の普遍でもある。原始人は、「寄る辺ない心」を携えて地球の隅々まで拡散していったし、人類はその心を共有しながら際限なく大きな集団をつくってきた。

結束すれば邪魔者を排除しようとするし、大きな集団になってゆくことはできない。寄る辺ない心で緩くつながり連携してゆくから、際限なく大きな集団になってゆくことができる。

「結束」ではなく「連携」、この「無主・無縁」の「祭りの賑わい」こそが人類の集団性の起源であり究極のかたちなのだ。

「祭り」とは旅人との出会いの場であり、同時にだれもがどこからともなく集まってきた旅人になっているわけで、その「寄る辺ない心」の「人恋しさ」とともに祭りの賑わいが生まれてくる。その「人恋しさ」こそが、人類の集団ならではの「連携」のダイナミズムを生み出す。

最初からくっついて「結束」していたら、「人恋しさ」も「ときめき」も「連携」も生まれてこない。

 

 

因果なことに「移民」は原初以来の人類普遍の生態であり、文明社会だって、「移民」を成り立たせるためにはどうすればいいかという方策をあれこれ講じてきた。たとえばこの国の村社会の新しい移住者は、村の掟や慣習に従うことをきつく約束させられ、ときに数年間は村の最下層の身分に甘んじていた。移民=移住者の作法というものがあったし、そのうえで温かく迎えられもした。それはたぶん島国だから成り立っていた慣習で、昔も今も外国からの移民にとってはけっして楽なことではないのだが、三世代住み続ければみんな日本人になってしまう。そして「日本人になる」とは、何か日本人であることの基準があるのではなく、アイデンティティも原則もない「寄る辺ない身」になるということだ。

「寄る辺ない身」とは、故郷を喪失したものであり、故郷を「遠きにありて思う」もののことであれば、「移民」であることこそ「日本人」であることだともいえる。

人類拡散の行き止まりの地である日本列島では、だれもが移民である集団として歴史を歩みはじめ、そういう「寄る辺ない心」を基礎にした文化や集団性をはぐくんできた。

人は誰もが、胎内という故郷を喪失してこの世界に生きている。あるいは、「無=非存在」という故郷を喪失してこの「存在」の世界に現れ、やがてまたそこに還ってゆく、ということかもしれない。ともあれこの世界に生きて存在しているということは「寄る辺ない」ことであり、そういう「喪失感」による「かなしみ」や「もどかしさ」や「とりとめなさ」や「不安」や「いたたまれなさ」は誰の中にも宿っている。

人は「喪失感」を抱きすくめながら生きて存在している。誰もが生まれながらに故郷を喪失した「移民」であり、人間性の自然に立ちかえれば、移民を温かく迎え入れようとする心は誰の中にも宿っている。

 

 

たとえば小学校のクラスに移民の子供が転校してくれば、大歓迎するのが子供の世界の自然だろう。子供にはナショナリズムなんかないし、植え付ける必要もないだろうし、子供は「寄る辺ない心」を携えて生きている。子供から子供の心を奪っていいわけもないし、子供の心のまま成熟してゆくことこそ人類の理想であり切実な願いであるのかもしれない。まあこの国の天皇はそういう存在として長く祀り上げられてきたわけで、そういう理想のもとに寄り添い合ってゆくのがこの国の集団性の作法になってきた。誰もがそういう「寄る辺ない心」を携えた移民のような身であれば、そういう「理想=願い」を共有してゆかなければ集団は成り立たなかった。いや、いつの間にか自然にそういうかたちの集団になっていった、というべきだろうか。ともあれ、そのようにして長く天皇制が続いてきた。

人と人が他愛なくときめき合い助け合い連携してゆく社会をつくることは、もっともかんたんなことであると同時にもっとも困難なことでもある。文明社会には、国家主義とか宗教主義とか競争主義とか経済優先主義とか、いろいろそんなややこしいことがそれを阻んでいる。大人になるとはまあ、そんな文明制度に染まってゆくことで、だから子供や若者は「大人になりたくない」と思うのだし、とくにこの国にはそういう精神風土の伝統があり、「負うた子に教えられ」といったり「若衆宿」がつくられたりしてきた。子供や若者には、子供や若者特有の文化や集団性がある。そこから何かを学ぼうとするのが、すなわちこの国の天皇制のかたちなのだし、けっきょくつねに時代はそこに還ってゆくのが人類世界の普遍的な歴史のなりゆきなのではないだろうか。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

>> 

<span class="deco" style="font-weight:bold;">蛇足の宣伝です</span>

<< 

キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。