令和の生贄

 

 

山本太郎の「れいわ新選組」のことは書いておかねば、と思った。

僕は政治オンチだから、彼のその行動がどれほどのインパクトを世間にもたらすのかはよくわからないし、その政策の是非を分析できる能力もない。

ともあれさっそくネトウヨたちが寄ってたかっていちゃもんをつけにかかっているが、どれもこれも程度の低いものばかりで、山本太郎にとっては痛くも痒くもないだろう。

「ただの悪趣味のパフォーマンスに過ぎない」といったって、わざとそうしているのだもの、「これはアイロニーです」とちゃんといっている。わざと悪趣味のおちゃらけをやって、令和フィーバーに水を差している。そうやって「ノイズ」というかたちの警鐘を鳴らして人々の関心を喚起しようとしているのだし、そのうえで現在の停滞した時代の「生贄」になろうとする彼の決死の覚悟を届けようとしている。

彼ほどに清純で熱い心を持ったネトウヨなんか、この国の総理大臣以下ひとりもいない。

この世に、死に物狂いほど美しいものはない。とはいえ彼は、困っている人に手を差し伸べようとしているだけであり、そんな当たり前の心が情け容赦なく踏みにじられているのが現在の政治状況なのだ。

信号のない道路を横断することができなくて立ち往生している子供や年寄りを見つけ、車を止めて渡らせてやるのはとても気持ちがいいことだろう。まあ山本太郎の「れいわ新選組」がしようとしているのはそういうことであり、現在の政治経済の支配層にはそういう精神がすっかり失われている。たったそれだけのことだが、それだけのことを取り戻すことが果てしなく困難な状況になってしまっている。

 

 

去年はクイーンの『ボヘミアンラプソディ』という映画が大ヒットしたが、そのクイーンに『ウィ・アー・ザ・チャンピオン』という歌がある。この場合の「チャンピオン」とは「メシア(救世主)」というような意味で、それを「ウィ・アー」というとき、「われわれは神に捧げられる生贄である」という自覚が込められている。

その当時のクイーンは、正当なロックアーチストというより、「トリックスター」という感じで評価されていた。まあセクシーな美声とともにファッショナブルで女子を中心に絶大な人気があったが、どちらかというとまあトリックスターであり、彼ら自身にも「本流ではない」という自覚はつねにあったはずで、おまけにリードボーカルフレディ・マーキュリーパキスタン系のマイノリティで、しかもゲイだった。彼らがチャンピオンのヒーローであるゆえんは、「人類の生贄」であることにあった。

山本太郎だって、もとはといえば政治家を目指していたわけではない高校中退の芸能人だったし、演説するときには「私は永田町のイロモノです」といつも言っている。イロモノ、すなわちトリックスター、気取ってなんかいられないという「生贄」としての自覚が彼の政治活動のダイナミズムを担保している。彼こそが「チャンピオン」であり、そのへんの低脳なくせに正義・正論を気取ってばかりいるネトウヨたちとはモノが違うというか、志の高さが違う。

彼が政治の世界でビッグスターになればおもしろいのになあ、と思う。

 

 

ろくでもない世の中だと思う。

今の政権が醜悪であることなんかだれでも知っているのだが、みんなが醜悪であれば、それが正義になる。それによって自分のずるさとかいじましさとかが許されるのなら、今の政権こそ正義だ。醜悪さこそ正義だ。今の政権は、ずるくいじましく醜悪に生きろと教えてくれている。それはとても安心することだ。それによって仲間内の関係が安定するし、醜悪な世の中なら醜悪に生きなければ認められない。

現在の権力者たちの醜悪さもさることながら、それにもたれかかって生きようとしている者たちがたくさんいることも大きな問題に違いない。権力者だけでこの世の中の動きをつくっているとは限らない。

まあ現在のこの社会は、こずるくいじましく生きてゆくことが正義であるかのように動いてゆくシステムになっている。システムから外れたら、うまく生きられない……そういう強迫観念を世界中が共有している。

生きることは大切だ、という強迫観念。醜悪にならなければ生きることはできないし、醜悪になることは正義だ。

いやまあ、そんなふうに生きたければそうすればいいのだけれど、それでこの生が輝き活性化するわけではない。

世界(他者)の輝きにときめいていなければ、人は生きられない。つまりそれは、「ときめき」は生きることよりも大切だということであり、「もう死んでもいい」という勢いで世界の輝きにときめいてゆくことが人間の普遍的な生のかたちである、ということだ。そうやって原初の人類は地球の隅々まで拡散していったのだし、われわれが小さな野の花を見つけて思わずときめくことにだって、そういう「もう死んでもいい」という勢いの「心の飛躍(=超越性)」がはたらいている。

あなたの心の「かわいい」というときめきを、はたしてAIに体験することができるだろうか。

政治や経済がどうのといっても人はだれもがときめき合う世界を願っているのだし, ときめき合わなければ政治も経済も安定しない。仲間内だけで「空気」という名の正義を旗印に結束しているだけでは、「ときめき合う」という関係は生まれない。結束して「空気」の外の第三者を忌み嫌い排除する。それは、忌み嫌い排除する心を共有しながら結束しているだけで、ときめき合い連携しているのではない。そんなことばかりしていたら、「ときめく」心はどんどん摩滅してゆく。

ときめく心を摩滅させなければ、あの醜悪な権力者たちのようには生きられない。醜悪にならなければ生きられないような社会のシステムが出来上がっている。生きることが大切であるのなら、醜悪になるほかない。「生きるため」とか「生活のため」といえば、どんないじましさや意地汚さも正義になる。

しかしそれでも人が人であるかぎり「もう死んでもいい」という勢いは持っているのであり、「もう死んでもいい」という勢いでときめいてゆかなければ生きられない。

 

 

世の中は、正しい方向に動いてゆくのではない。「感動=ときめき」がなければ新しい社会は生まれてこない。

戦前の大日本帝国は正義を生きようとして戦争の時代に突入してゆき、最後は惨めな敗戦で終わった。

とすれば戦後のこの国は、そうした正義の呪縛から解き放たれ、「感動=ときめき」を生きようとしていったのかもしれない。社会はこの上なく困窮していたが、人と人のときめき合う関係や映画や歌謡曲などの娯楽のムーブメントは大いに盛り上がっていった。そうやって東京や大阪などの荒廃した都市にどんどん人が集まってきたし、未曽有のベビーブームが起きた。そのとき多くの人々が、食糧や住居が確保されている田舎から、あえて不自由な暮らしを余儀なくされる大都市へとどんどん移住していった。それは、「滅びる」ことを覚悟してというか、「もう死んでもいい」という勢いで感動すなわち人と人のときめき合う関係を生きようとする態度だったのであり、その決意として憲法第九条が生まれてきた。

この生を活性化させるのは、この生に執着することではなく、この生を超えてゆこうとすることにある。

この生の尊厳は、「生命賛歌」によって証明されるのではない。

世界の輝きにときめき感動する体験が人を生かしている。生きることなんかろくでもないが、それでも世界は輝いている。人はこの生を嘆きかなしんでいる存在であるがゆえに、この世界の輝きにときめき感動する。

現代人は、この生の嘆きやかなしみを抱きすくめてゆくことができないがゆえに、この世界の輝きに対するときめきが希薄になっている。

この世界の輝きにときめき感動する体験は、この生に対する嘆きやかなしみから生まれてくる。敗戦直後の人々がなぜ世界の輝きに深く豊かにときめいていたかといえば、この生に対する嘆きやかなしみを深く切実に抱きすくめていたからだろう。

生きてあることを深く切実に問うなら、いつどんな時代であれ、嘆きやかなしみは沸いてくる。そのようにして人間は存在している。

 

 

人は、むやみな生命賛歌やナショナリズムを振りかざしながらヘイトスピーカーや右翼になる。移民を排斥しようとすることは人間性を喪失している態度だが、宗教を手放そうとしない移民もまた、新しい世界や人との出会いに対するときめきや感動を喪失している。彼らは、神との関係に潜り込んで出てこようとはしない。そして移民を排斥しようとする者たちもまた、みずからの生にしがみついている。

みずからの生や神との関係にしがみつけば、「出会いのときめき」はない。

この生を嘆きかなしむところには、神も生命賛歌もない。神は何もしてくれないし、この生はろくなものではない。しかしそこに立つことによってこそ、世界や他者は輝いて立ち現れる。

もちろんイスラム教徒がみずからの宗教を手放すことなどありえない。それはもう、ユダヤ教徒のヨーロッパ移住2千年の歴史が証明している。ヨーロッパ人の苦悩と受難は永遠に続くのか。宗教を携えた移民は排斥しなければならないと同時に、移民それ自体は排斥してはならない。

彼らにとってイスラム教を手放すことは生きることも死ぬこともできなくなってしまうことだが、その生きることも死ぬこともできない途方に暮れた心を抱きすくめて生きるのが人間性の自然・本質なのだ。

ヨーロッパ人にしても、イスラム教を手放さないことを許すとしても、それを当然の権利だと思われたら困る。そう思っているから、イスラム教徒やユダヤ教徒は迫害される。

宗教を携えて生きることが許されてしかるべきことであるとしても、それはけっして尊く美しい態度であるのではない。そんなところに人間性の尊厳があるのではないし、尊厳を意識するということ自体が卑しいのだ。

生きてあることに途方に暮れているのが人間であり、そこに立ってこそ世界や他者は輝いて立ち現れる。

 

 

ヨーロッパ人とアラブ人も、日本人と韓国人も、たがいに憎み合っている側面があるとしても、それでも「他者」は輝いている。

「他者は輝いている」という人間性の自然・本質を、たがいに受け止めなければならない。それは、生きてあることを嘆きかなしむ存在にならねばならないということであり、どちらも「自分は正しい」と思ってはならない、途方に暮れていなければならない。

正義にしがみついていたら、「許す」ということはできない。ナショナリストたちは、正義にしがみつきながら「他者」を「許さない」ことによって結束してゆく。国家とは「許さない」装置だ。正義とは「許さない」ことだ。とすれば「許す」とは、国家=法の外に出ることにちがいない。「生の外に出る」と言い換えてもよい。「もう死んでもいい」という勢いで許してゆく。そりゃあ「敵」を許すことはできないが、だれだって「人間」は許している。それは、他者に「生きていてくれ」と願うこと。他者が生きるためには自分が死なねばならないとしても、それでも「生きていてくれ」と願う。そしてそのように「もう死んでもいい」と思うとき、この生やこの心は活性化している。「許す」ことは心地よいことだし、それは、生きてあることを嘆きかなしんでいることによって可能になる。

つまり、「許す」ことは可能だし、そこにこそ人間性の自然・本質がある、ということだ。

おたがいいつまでも嫌いであったり許さなかったりするとしても、「許す」ことが人間ほんらいの心の動きである、という認識だけは持つことができるのではないだろうか。

「許さない」ことは、人間性の真実でも正義でもない。

人は、「この生」や「自分」を許していないが、「人間」は許している。なのに今どきは、「この生」や「自分」を許して、「人間」を許していない。

性悪説」というのだろうか。人間はもともと醜悪な生きものであるが、それを克服して正しい人間にならねばならない、という。そうじゃない。人間は醜悪な生きものになってゆくのだ。今どきのヘイトスピーチは、「野生の心」によるのでもあるまい。社会のシステムに侵されながら、そうやって歪んでゆくだけだろう。

人間的な「野生の心」は、生きてあることの嘆きやかなしみにある。なぜなら、この生を嘆きかなしむことが、この生を活性化させることだからだ。

 

 

まあ他者を「許さない」という感情は、後天的な権力志向の心から生まれてくる。それは、他者を支配ししようとしている感情である。他人が何をしようと何を思おうと、他人の勝手ではないか。人は「人間」を許している。「人間」に対して、「生きていてくれ」と願っている。だから原始人は遠来の旅人を歓迎した。それは、旅に疲れて死にそうになっている者だからであり、赤ん坊を育てようとするのと同じことだ。

死にそうになっているものほど美しく尊い存在もない。すべての基本はここにある、と僕は思っている。そういう存在に対して「ざまあみやがれ」と思うのか、「自己責任でなんとかしろ」と思うのか。生まれたばかりの赤ん坊に対しても、そう思うのか。思わないだろう。犬や猫や鳥だってそう思わない。子育てするなんて、とてもリスキーなことだ。ときには、自分の命を差し出すくらいの覚悟をしないとできなかったりする。しかしそれは、とても心地よいことでもある。自分の命を差し出して「生贄」になることの恍惚というものがある。なぜならわれわれは、生きてあることを嘆きかなしんでいる存在であるからだ。だから死にそうなものを美しいと思うし、死にそうなものに対して自分が「生贄」になろうとも思うし、「もプシンでもいい」という勢いで生きてしまったりする。というか、命のはたらきそのものが「もう死んでもいい」という勢いのことだ。

命がけの行為に対してはだれしも感動するし、だれにとっても生きてあることそれ自体が命がけの「死んでゆく」行為なのだ。息をすることは、そのぶん生きるエネルギーを消費しながら死に近づいてゆくことだろう。誰だって命がけで生きているし、よりあからさまに命がけであることに遭遇すれば、そりゃあ感動する。

「野生の心」は、死にそうなものに対して、「ざまあみやがれ」とか「自己責任だ」などとは思わない。ときには自分の命を差し出してでも生きさせようとする。生きてあることを嘆きかなしんでいる存在である人間にとって、自分の命を差し出すことはひとつの「快楽」であり、その勢いのもとでこそ命のはたらきは活性化する。

「許す」とは、他者に対して「生きていてくれ」と願うこと。それは、他者に向かって自分の命を差し出すということであり、そこにこそ人間性の自然・本質がある。

まあここでは、「神の許し」とか「神の裁き」とか、そんな次元のことをいっているのではない。人と人のあいだの「人情の機微」の基本的なところを問うているだけである。基本的に人は「人間を許している」存在であり、「憎しみ」とか「許さない」とか、そういう他者を裁こうとする心の動きは、文明社会のシステムから生まれてくる後天的なものに過ぎない。それは「野生の心」ではない。そんなややこしい心の動きが人間の本性などであるものか。

自分の中に人を憎む心があるのはそれが人間の本性(=原始的な感情)だからだ、とか、何をくだらないことをいっているのだろう。今どきのネトウヨたちはまあそんなところかもしれないが、そんなものはただの発達障害であり、文明病に過ぎない。この世のすべての人間がおまえと同じように醜悪な潜在意識をたぎらせているわけではない。

 

 

僕には、山本太郎ほどの清らかな心はないが、そのひたむきで命がけのふるまいを「美しい」と感動する心くらいはある。現在のこの国の「生贄」になろうとしているその心こそ、まさに「野生の心」なのだ。

原初の人類は、だれもが集団の「生贄」になってゆくようなかたちで二本の足で立ち上がっていった。そのようにして、猿とは別の生きものになった。

「生きる」いとなみとはエネルギーを消費する「死んでゆく」いとなみでもあり、「生贄」になろうとすることはすべての生きものの命のはたらきだともいえるわけだが、「進化」とは「生贄になる」ということであって、生きるためのコストパフォーマンスを拡大するということではない。原初の人類は、二本の足で立つというきわめて危険で不安定な姿勢を常態にすることによって猿よりも弱い猿になったのであり、それは、コストパフォーマンスを大きく失う事態だった。しかしそれが、結果的に目覚ましい進化へとつながっていった。

新しい時代が生まれてくる契機は、コストパフォーマンスを失うことにある。この国の太平洋戦争の敗戦が、まさしくそうだった。戦前の朝鮮・満州。台湾を植民地にしていた当時さえGDPは世界の6位くらいだったが、日本列島だけに閉じ込められて世界の最貧国のひとつになった戦後は、そこからたった40年でたちまち世界の2位にまで上り詰めていった。

現在のこの国は、コストパフォーマンスを失うことをとても嫌う傾向にあり、ネトウヨのようにすべての邪魔者をどんどん排除してゆけばコストパフォーマンスはよくなるだろうが、新しい時代に向かうダイナミズムは逆にどんどん減少衰退してゆく。つまり、だれも「生贄」になりたがらない世の中になっている。そうして多くの弱者がさらに追い詰められていっている。

そこで山本太郎の「れいわ新選組」が、われわれが「生贄」になる、と立ち上がった。ただ彼は、自分たちだけでも「生贄」になれば世の中は変わるかもしれないと期待しているのだろうが、それだけではだめだ。誰もが「生贄」にならなければ世の中は変わらない。

J・F・ケネディは、大統領就任演説で、「アメリカ市民のみなさん、国歌がみなさんに何をなしうるのかを問わないでいただきたい、みなさんが国家のために何をなしうるかを問うていただきたい」と語った。この文言の意図をどう解釈するかはさまざまだろうが、とにかく「皆さんが応援してくれるのなら私は死に物狂いで頑張る」という意味であるのなら、それはそのまま山本太郎の宣言でもある。

われわれのなすべきことは、山本太郎の「れいわ新選組」を応援したくさん当選させることだけであり、それが、われわれもまた「生贄になる」ことであるに違いない。

今は、賢い政治家よりも、死に物狂いで頑張る政治家が求められている。その「もう死んでもいい」と勢いに感動しながら、「祭りの賑わい」が生まれ、新しい時代が生まれてくる。

山本太郎のそのチャレンジが実を結ぶかどうかは、僕にはわからない。ただ、その姿勢は美しく感動的だと思うし、人間なら誰だって困っている人に手を差し伸べようとする衝動は持っている。僕としては、これによって現在の政権やネトウヨたちの醜悪さがいっそうあからさまに露呈される時代状況になってゆけばいいのになあ、と思う。

 

 

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キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。