金が仇の世の中で

 

 

世の中は金で動いている……それはまあたしかにそうで、世の中を動かしているのは資本家であり、民衆は金に動かされている。そして今どきの権力者もまた、経団連という資本家たちに動かされている。

今や権力者は資本家の使い走りの犬に成り下がっていて、国会の山本太郎はこれを「『保守』と名乗るな、『保身』と名乗れ」と発言した。

まあ、「保守」と名乗れば商売になる世の中らしい。

山本太郎は、「政治家は、金と票の匂いのするところに寄って来る」ともいっていた。

そりゃあ誰だって金がないと生きてゆけない世の中なのだから、金を欲しがることがいけないとはいえない。

しかし、お金=貨幣とは、いったい何なのだろう。

人類史における起源としての金=貨幣は、きらきら光る貝殻とか石ころとかの「この世のもっとも魅力的なもの」として生まれてきたわけで、欲しがるのは当然だともいえる。人類の心には、そういう歴史の無意識が埋め込まれてある。

金を欲しがるのはいけないことじゃない。しかし、「生きてゆくために」という、その目的が不純なのだ。われわれは「お金を使うために」お金を欲しがっているのであって、「生きるため」じゃない。そしてお金を使うことには大なり小なりの「喪失感」がともなうわけで、それはお金がもともと「この世のもっとも魅力的なもの」であったという歴史の無意識がはたらいているからだろう。

原初のお金はただの「きらきら光るもの」で、それは生きるための衣食住よりももっと大切なものだった。だからそれは、衣食住の物との「交換の道具」になってゆくことができた。

お金を使うことは生きるためのエネルギー源を「消費」してしまうことであり、それは「死んでゆく」体験だともいえるし、「死んでゆく」体験は楽しい。だからわれわれはお金を使う。われわれは「死んでゆく」体験をするためにお金を欲しがっているのであって、「生きるため」じゃない。まあ「死んでゆく」体験をすることが生きることなのだから、「生きるため」といえなくもないのだが、「死んでゆく」体験の楽しさを知らないと、お金をどんどんため込むようになる。それはきっと、健康なことではない。

資本家とは本能的にお金をため込みたがる人種で、その点においては健康ではない。しかしお金を使うことによってお金を稼いでため込んでいるのだから、彼らはわれわれよりもずっとお金を使うことの醍醐味を知っているともいえる。お金を湯水のように使って遊ぶ競馬や自動車レースは、もともと貴族や資本家たちの遊びだった。

世の中は、まことにややこしい。人間の生きるいとなみは、生きることから逸脱してゆくことにある。いや、生きものの生きるいとなみそのものが、そのような仕組みになっているのだ。

人がお金を欲しがるのは「この世のもっとも魅力的なもの」に引き寄せられているからであり、お金を使いたがるのは「死んでゆく」体験に引き寄せられているからであり、単純に「生きるため」ともいえない。生きることそれ自体が、「死んでゆく」体験の果てしない繰り返しなのだ。

江戸っ子が「宵越しの銭は持たねえ」といってお金をため込むことを嫌がったのは、「死んでゆく」体験の楽しさをよく知っていたからだ。

この世でもっとも楽しいことは「死んでゆく」体験であり、「死んでゆく」体験がなければ生きられない。人は、「もう死んでもいい」という勢いで生きている。

お金は、死の世界からの旅人である。「きらきら光るもの」すなわち「光」とは、異次元の世界からこの世界に現れ出て、また異次元の世界に向かって消え去ってゆく現象である。原初の人類は、その不思議=神秘に魅せられ、「お金=貨幣」を生み出していった。それは、「死」に魅せられる体験でもあった。つまり、「もう死んでもいい」という勢いでときめいていった。

だからまあ、自分のことを語るのに、あまりかんたんに「生きるため」などといわないほうがいい。それは、人として不健康だ。人が「生きていてほしい」と願うのはあくまで「他者」であり、「自分」ではない。江戸っ子は、「他者」が生きてゆくために奢るのであり、そのとき「自分」が「死んでゆく」という体験を楽しんでいる。「他者」が生きるための「生贄」になることほど楽しいこともないのであり、そういう衝動はだれの中にも息づいている。もともとお金=貨幣は、そういう衝動の上に成り立ち、この世に流通している。

つまり、人類滅亡はめでたいことであり、人類はその願いとともにこの生を活性化させ、進化発展の歴史を歩んできた。

 

 

資本主義の欲望は、人類を破滅の方向に向かわせるのかもしれない。しかし人類滅亡は人類普遍の夢であり、それもいいのだろう。おそらく問題は、それまでのあいだをどう生きるかということにあり、それでも人は、原初から人類滅亡のときまで、つねに心のどこかしらですべての「主義」や「価値」を超えて人と人が他愛なくときめき合う世界を夢見て生きてゆく。

この国の中世の「末法思想」においては、「この滅びゆく世界を阿弥陀如来大日如来が救いに来る」と僧侶たちが語ったそうだが、民衆たちの気分においては、「滅びのときまでのあいだをどれだけおもしろおかしく生きるか」ということにあった。それが『閑吟集』の「一期は夢よ、ただ狂え」という「無常感」であり、明日死ぬかもしれないという状況において、仏の救済もくそもないではないか。

中世の民衆は、権力社会と結託した僧侶や神官のおためごかしの説法に洗脳されてなどいなかった。

中世は、民衆が「私有財産」を持ち始める過渡期にあったわけで、「私有財産」とはこの世界が存続するという前提の上に成り立っているのだから、それを持てば、この世界が滅びてしまっては困る。まあ「文字」というのもこの世界の存続の上に成り立っている道具であるし、民衆も文字を読み書きすることを覚えてきて、文字社会に移行してゆく時期でもあった。

そんな過渡期において民衆は、それでも「無常」という感慨とともに「今ここ」を抱きすくめて生きようとしたわけで、その伝統の上に「江戸っ子は宵越しの銭は持たねえ」という習俗文化が生まれてきた。

この国の民衆社会には、不健康な権力社会の思想に洗脳されたくない、という伝統がある。

 

 

もしも資本主義の原則が「私有」ということにあるのだとすれば、「贈与」とは「私有」とか「価値」を放棄することなのだから、資本主義に反する行為になる。そして、「贈与」こそが資本主義もこの世界も活性化させる。資本主義もこの世界も、滅亡に向かって活性化してゆく。

なぜなら「貨幣」の本質は、交換可能な「債券」としてあるのではなく、一方的な「贈与」の形見としてあるからだ。貨幣の流通は、本質的には、一方的な「贈与」の衝動の上に成り立っている。それは、「私有」や「価値」を放棄することなのだから、人類滅亡の衝動だともいえる。

なんのかのといってもお金を使うことには「喪失感」がともなっているわけで、人は、その「喪失感」を抱きすくめながらお金を使う。

原初のきらきら光る貝殻や石粒は「この世のもっとも美しいもの」であったからこそ、それを差し出すことの「喪失感」には、もっとも深いカタルシス(快楽)があった。

人が旅人や訪問者を歓待するのは一方的な「贈与」の行為であり、旅人や訪問者もまた一方的な「捧げもの」として何かを差し出す。ここに「交換」という意識はなく、ただもう一方的な「捧げもの」を差し出し合っているだけである。それは「人恋しさ=ときめき」の形見であり、人は本能的に「捧げもの」をしようとする衝動を持っている。それが「お金=貨幣」の起源のかたちであり、べつに「交換」という意図があったわけではない。土産を持ってこなければ歓待しないというわけではないし、歓待してほしくて訪れたのではなく、ただもう人恋しかっただけであり、出会いたかっただけだ。

起源としての貨幣はきらきら光る貝殻とか石粒だった。それはとうぜんたんなる「贈与=プレゼント=捧げもの」だったわけで、それで何かと交換できるわけではなかった。リンゴと魚なら、多少は交換可能かもしれないがきらきら光るものなんか、生きてゆくためには何の役にも立たない。それはもともと交換不可能なものだったのであり、それを交換の道具にしていったところに人間的な思考の「超越性」がある、

2万年前の原始人の埋葬に無数のビーズの玉が添えられていたという考古学の証拠がある。これは、もっとも古い起源としての貨幣だともいえる。それは、何と「交換」したのでもない。死者に対して一方的に「贈与」し「捧げた」だけであったが、これが時代を経て貨幣になっていったのだ。

太平洋のある島にはバカでかい貨幣の形をした石を結納金替わりとして花嫁の家に贈るという風習があったらしいが、これだってべつに「交換」のための通貨として使うのではなく、ただ家の前に飾っておくだけで、花婿の感謝を表すためのものだった。

現在だって、一方的な「贈与=プレゼント」としてお金が使われている例はいくらでもあるし、そこにこそ貨幣の起源と本質がある。誰だって、奢られるよりも奢ったほうが気持ちいいに決まっている。

ハンバーガーショップの店員が「いらっしゃいませ」といって愛想を振りまくことに値段はついていない。今どきのその態度に心がこもっているかどうかはともかく、本質的には「人恋しさの形見」として「訪問者」を歓待しているのだ。

貨幣の本質は「人恋しさの形見」であることにある。それが近代の資本主義のシステムとともに大きく変質してしまっているとしても、とにかく本質的にはそういうことで、金が仇の世の中でも、人の心から「人恋しさ」が消えてなくなったわけではない。

 

 

われわれは、貨幣と商品を交換しているのではなく、たがいに「贈与」し合っているのだ。商品は、「贈与=サービス=捧げもの」の性格を持つことによって商品になる。

人の世は、そういう「人恋しさ」の上に成り立っている。

国家も企業も個人も、「自己愛」に陥った瞬間から混迷・停滞してゆく。国家は自己愛によって戦争をし、企業だってライバル企業と経済戦争をする。そして個人においても、自己愛で競争や闘争をしながら「献身」や「連携」の関係を失ってゆく。

コミュニケーションの本質は「伝達の意思」ではなく「人恋しさ=ときめき」にある。それを失ったら、集団の活性化もおぼつかない。

現在の世界は、競争や闘争に明け暮れながら混迷に陥っている。今や資本主義全盛の時代だといわれているが、それによって人々の命や心のはたらきが活性化しているとはいえない。そうやって現代人は社会の動きに巻き込まれながら心や体が病んでいったりしているのだが、それでも誰もが一方では非資本主義的な「献身」や「連携」の関係を生きようとしているわけで、そこから新しい時代が現れてくるのだろう。たとえそれがただたんに新しい資本主義社会だというだけのことだとしても、文明社会の歴史にはつねに「人間性の自然」という抑止力がはたらいているし、それこそが心や命のはたらきも集団も活性化させている。

文明社会で生きるためにはもちろん「お金=貨幣」が必要だが、人は消費するためにそれを稼ぐのであって、稼ぐことだけを目的にしているのはいつだってごく一部のものに過ぎない。だから「ユダヤの商人」やこの国の「士農工商」のように、昔から商人の身分は低かったし、現在の「資本家=富裕層」の身分が高いといっても、多くの人はやっぱりそれを第一義の目的にして生きるということはできない。

「金儲け」という汚れ仕事は国家が引き受けてそれを国民に分配するというシステムは今なお人類社会の理想であり、そこに税制度の本質があるのだろう。金儲けというややこしいことより、できることなら学問や芸術・芸能やスポーツや恋愛やセックス等々の遊びに夢中になって生きていたいというのが人の心の本質・本音であり理想であるのだろう。

多くの人々は、金儲けを人生第一の目的にして生きることはできない。だからどうしても資産格差は生じてしまうし、商人から富が零れ落ちてくること(=トリクルダウン)はない。

お金は国が稼がねばならないし、国は税制度や紙幣の発行などのそのための最も有利な条件をそなえている。

金儲けをしないと生きていられないが、だれだって心の底では「金儲けをしているどころではない」という気持ちも同時にある。つまり、遊んで暮らしたい、ということ。そしてその「自己を開放する」という人間的文化的な行為の本質は、「贈与=献身」にある。

「遊び」とはともあれ「他愛なくときめく」という体験のことであり、「献身=贈与」とは「他愛なくときめく」という体験の表現にほかならない。

自己愛で遊びはできない。資本家は自己愛という自己実現の目的で金儲けをし、私有財産を増やしてゆく。そうやってつねに自己完結しているのだから、「贈与=献身」としてのトリクルダウンなんか起きるはずがない。金持ちほどケチだということは、昔からずっといわれてきたことだ。貧乏人のほうがずっと金離れがいいし、ずっと助け合い連携して生きている。それは、「贈与=献身」の衝動の問題だろう。

「贈与=献身」の衝動がなければ移民を受け入れることなんかできないし、現在の世界にはその衝動をなくさせる社会の構造がある。

 

 

われを忘れて何かにかに夢中になってゆく「遊び」とは自己愛を引きはがす行為であり、そこから「献身=贈与」の衝動が生まれてくる。誰だって自己愛=自意識を持っているが、それを引きはがすことが「快楽」になる。人類の歴史は、「快楽」に流されてゆく。人の一生も、つまるところ「快楽」に流されながら、気がついたら死期が目の前に迫っている。そんなものだろう。大昔からずっと人はそんなふうに無駄で虚しい人生を生きてきたのであり、それはもう、どんな偉人・英雄であろうと虫けらのように死んでいった名もない民衆であろうと同じなのだ。生きてあることは時間を喪失し続けることであり、その喪失感を人は生きているのだしその喪失感を抱きすくめながら生きてあることを実感し、死と和解してゆく。けっきょくのところ、生まれてきたことと生まれてこなかったことは同じなのだ。そういう虚しさを「生命賛歌」という観念で否定しても、無意識のところではちゃんとわかっているし、最終的な人の思考や行動はその「認識=かなしみ=喪失感」の上に成り立っている。なぜだかわからなくても、歴史はそういうかたちで動いてゆくし、人もそういうかたちで生きている。だれもが心の奥のどこかしらでそうした感慨を疼かせながら生きている。

人がこの世に生まれ出てくることはひとつの「不条理」であり「悲劇」であり、その「嘆き」こそが人類史に進化発展をもたらしたのだし、その嘆きを抱きすくめている部分があるがゆえに、「生命賛歌」や「幸せ」や「金儲け」を追求するだけではすまない生き方をしてしまう。

今どきの若者はコストパフォーマンスのことばかり考えているといわれるが、自分をコントロールしながら社会のシステムに順応してゆく訓練をさせられながら育ってきたのだから、コストパフォーマンスを度外視して生きることなんかできない。つまり、コストパフォーマンスに強くこだわる社会のシステムが出来上がってしまっている。以前は500円1000円出さないと買えなかったものが、今や100円ショップで買えるようになった。100円ショップで買えるものを500円出して買うなんて、コストパフォーマンスが悪すぎる。そんなことはしたくない。CDなんか買わなくても、ネットでいくらでも聞くことができる。わざわざ映画館で観なくても、ビデオを買わなくても、ツタヤで借りれば間に合う。辞書もいらない。コストパフォーマンスで動いている世の中なのだもの、それを考えるなといっても無理がある。

 

 

この世に、お金に換えられないくらい魅力的な価値を持ったものが存在するか?

この命を差し出すに足る他者は存在するか?

それはまあ、こちらがわの愛と心意気の問題でもあるわけだが、そういう関係が生まれにくい社会のシステムになっている。大人と若者、男と女、どちらが悪いかといっても、どちらも悪いし、どちらもこの社会のシステムの犠牲者でもある。

けっきょく、今どきのグローバル資本主義や金融資本主義とともに「お金=貨幣」の価値や性格が変質してしまった、ということだろうか。良くも悪くも日本人は、社会の変化にたやすく順応してしまう傾向がある。

われわれは「お金=貨幣」の起源と本質に立ち返ることができるだろうか。

この命を他者に捧げるということができるだろうか。

まあ、コストパフォーマンスが気になるということは「生き延びたい」ということであり、それは「もう死んでもいい」という勢いを持たなければ超えられないし、その勢いは「ときめく」というかたちで生まれてくる。それだけのことだが、それだけのことができない世の中になってしまっている。それだけのことだからだれでもできるし、だれの中にもその衝動はあるのだが、できない人間ほど上手に生きてゆける社会のしくみになってしまっている。

われわれは、ときめき合い助け合う、という関係を取り戻すことができるだろうか。「自分が大事」で「命が大事」ということが正義の世の中であるのなら、なかなかそうはならない。

大事なのは、「他者の命」であって、「自分の命」ではない。

生きることなんか、うんざりだ。しかしそれでも世界や他者は、せつないほどにきらきら輝いている。

ともあれこの国においては、「きらきら輝く」ことにこんな絵文字=☆彡やこんな絵文字=°˖✧◝(⁰▿⁰)◜✧˖°をつくって楽しんでいるのだから、希望がないわけではない。どんな時代になろうと、そういう心映えが人々のあいだから消えてなくなるわけではない

人間は、猿よりももっと他愛なく世界の輝きにときめいてゆくおバカな生きものなのだ。

貨幣の起源においては、「いちばん大切なもの」を一方的に差し出してよろこんでいたのであり、貨幣の本質は一方的な「捧げもの」であることにある。そういう「おバカ」なところにこそ、人の心(=人間性)のダイナミズムがある。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

>> 

<span class="deco" style="font-weight:bold;">蛇足の宣伝です</span>

<< 

キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。