色ごとの文化とコンピュータのかなしみ

 

このごろ、人間とAIの違いはどこにあるか、とよく議論されている。

コンピュータは「ON」と「OFF」すなわち「1」と「0」の無限の組み合わせによって動いているのだとすれば、人間の脳というか生きものの命のはたらきは、「OFF=0」だけのはたらきではないだろうか。

コンピューターは「ON」と「OFF」の瞬間的な点滅と無限に繰り返しているのに対し、人間の脳は、「ON」の状態から「OFF」に向かってゆくその過程においてはたらいているのではないかと思える。瞬間的に消えるのではない。だんだん「消えてゆく」ということ、それが脳という命のはたらきではないかと思える。生きものの命のはたらきは、いったん貯め込んだエネルギーを消費しながらそれが消えてゆくまでの「過程」において起こっている。まあそのようなことで、脳のはたらきだってこの原理に基づいているのではないだろうか。

「(だんだん)消えてゆく」ということ、命のはたらきも脳のはたらきも、この運動ではないだろうか。コンピュータのはたらきには、この「消えてゆく」過程がない。

息を吸うことだって、それなりにエネルギーを消費しながらなされている。

命のはたらきとは、エネルギーを消費すること。すなわち「OFF=0」に向かうはたらきのこと。

コンピュータは、「解答」を導き出す。それは、もともとコンピュータに可能なことで、コンピュータは不可能なことには向かわない。「不可能」という「解答」を出すか、永遠に「解答」に向かって作動し続ける。コンピュータは「解答」の向こうの世界を知らないが、人間はそれを知っている。

人間の脳は、「不可能」に向かう。「女の気持ちはわからない」といってよろこんでいるなんて、コンピュータの趣味ではないだろう。わかるまで計算し続ける。コンピュータに不思議=神秘はないし、人間の脳は不思議=神秘に引き寄せられる。なぜならそれは、「OFF=0」に向かうはたらきだからだ。それが、人類の知能を進化発展させてきた。

原初の人類が地球の隅々まで拡散していった契機はあの山やあの地平線の向こうには「何があるのだろう」という「好奇心」だったという説があるが、厳密にいうと、そうではない。彼らは、あの山の向こうは「何もない」と思っていた。この世界は大きな数頭の象の背中に支えられた丸い円盤だと思っていた。われわれ現代人の無意識だって、水平線の向こうは「何もない」と思っている。知識としては何があるか知っているが、心の底では「何もない」という気分が疼いている。しかし人の心は、その「何もない」というそのことに引き寄せられる。

あの山の向こうに何があるのだろうと思ったら、たとえば幽霊やお化けを想像するのと同じで、気味が悪くなって行けなくなってしまう。「何もない」と思ったからこそ、強く引き寄せられていったのだ。

人間の脳は、「だんだん消えてゆく」過程においてはたらいている。それがたぶんコンピューターとの違いで、人間は不思議=神秘について考えるが、解き明かす装置であるコンピュータに不思議=神秘はない。

解き明かす装置であるコンピュータには、必然的な帰結としての「解答」があるだけで、根拠のない「偶然の飛躍(=ひらめき)」というものがない。

良くも悪くも、人間は根拠のないことを考える。誰がどう見てもブスに決まっている女を心底「美人」だと思って惚れてゆく男の気持ちが、コンピュータにわかるだろうか。わかるはずがない。根拠が「ない」のだもの。これを、現象学では「超越論的主観性」という。それは、「ない」に向かって「だんだん消えてゆく過程」で考えられている。それは、「解答」ではない。まったく根拠のない思い込み、コンピュータは、それをどう説明してくれるのだろうか。

コンピュータは、何を好きになるかということはすべてわかっても、好きになることはできない。好きになることに、根拠はない。「だって好きなんだもの、しょうがないじゃないの」という気持ちの根拠をどんなに細かく分析しても、分析しきれないものが必ず残る。「好きになる」ということは、「解答」ではない。ある種の「決断」であり、「判断停止」に陥ることだ。そうやって「ない」に向かって消えてゆく。「解答」を消去してゆくこと、つまり、考えなくなってゆくこと。そうやって「自分」が消えてゆくことの心地よさがあり、心=意識は自分から離れて対象に張り付いている。何かの音を聞いているとき、鼓膜の振動として自覚しているのではなく、心=意識はあくまで対象に張り付いている。だから、そこから聞こえてくるように聞こえる。テレビ画面を見ながらイヤホンでその音を聞いているとき、音はイヤホンからではなく、テレビ画面から聞こえてくるように感じている。そのとき耳は、「聞く」能力を失うというかたちで聞いている。「聞いている」のではない。そこで音が鳴っているのを感じているだけだ。「聞く」というはたらきの「超越論的主観性」というものがある。

「好き」という心を失うことが「好きになる」ことだ。そのとき心は、すでに自分から離れて対象に張り付いている。

人の心は、人の中にはない。それに対してコンピュータの心は、あくまでコンピュータの中のものでしかない。コンピュータの心は、コンピュータから離れない。コンピュータには「超越的主観性」はない。

コンピュータは、コンピュータ以下の存在になれるだろうか。コンピュータ以上の存在になれるだろうか。コンピュータではない存在になれるだろうか。

コンピュータが人間になってゆくシンギュラリティはあるのだろうか。コンピュータがコンピュータでなくなって、それでもまだコンピュータであることができるのだろうか。

人間の心=意識は、「ない」に向かってはたらいている。なくなるはずがないのだが、「ない」に向かっているから、「ない」という心地になることができる。そうやって音は、自分の鼓膜ではなく対象のもとで鳴っている……ように感じる。

快楽とは「自分が消えてゆく」心地のこと。そうやって「われを忘れて」夢中になってゆく。

コンピュータには、コンピュータであることの「かなしみ」はあるだろうか。それがなければコンピュータでなくなってゆくきっかけは生まれないし、なくなってゆくことの快楽もない。

コンピュータは、自分が消えてゆくことを体験することができるだろうか。それができなければ、好きになることもない。好きになる理由を無限に察知することはできても、「好きになる」ことはできない。

 

 

人類の視線の先には「人類滅亡=消えてゆく」という「カタストロフィ(=悲劇的終末)」があり、時代はつねにそういう「消失点」に向かって生成している。永遠に栄える時代や権力などないし、「栄えることを目指す」というそのことが人間性の自然に矛盾しており、だれもがそういう欲望をたぎらせて生きるとかだれもが幸せになるとかという世の中など原理的にあり得ない。だからいろんな意味で社会的格差はどうしても生まれてくるし、格差の低い落ちこぼれが人間として劣っているともいえない。ある意味で、落ちこぼれることのほうが自然だともいえる。なぜなら人類は、人類滅亡を夢見て生きている存在だからだ。そうやって進化発展してきたのであり、そうやって知性や感性を花開かせ社会的に活躍してゆきもする。

人の心や命のはたらきも、時代や社会の動きも、「人類滅亡」すなわち「カタストロフィ=消失点」に向かって活性化する。けっきょく社会的に落ちこぼれることも活躍することも差異がないといえばないわけで、たとえば日本列島の精神風土の伝統においても、さっさとあきらめる潔さと死ぬまであきらめないひたむきさが同居しており、どちらも「カタストロフィ=消失点」に向かう心の動きにほかならない。人間は本質において怠惰な生きものであるといわれており、それはひとつの消失願望だが、と同時にこの国の職人の「死ぬまで修行です」という探求心だって、わが身を捨てて技術に命を捧げるという消失願望以外の何ものでもない。

どれほど闘争や競争のさかんな社会でも、いつかきっと沈静化してゆくというかバーン・アウト(=滅び)のときがやってくる。人類史は、幾度となくマンネリズムの時代を繰り返してきた。どんな時代の栄華も、けっきょくは人間性の自然としての「消失願望」に抗えない。

いやもう、生きものの命のはたらきそのものが「消失願望」の上に成り立っているのであり、だから「生物多様性」になるわけで、どんな強い生きものも無限に生息域を広げることはできない。

そして人間だけは無限に生息域を広げてきたといっても、人間の場合はさらに「消失願望」が強く、ひとりひとりが「消えてゆく快楽」の上に存在しており、まあそうやって原初の人類は二本の足で立ち上がった。それは、四本足の猿が地上におけるみずからの身体のスペースを最小限にする姿勢だったし、この上なく危険で不安定な姿勢でもあった。その消えてゆこうとする孤立性や悲劇性を携えて集団からはぐれ出てゆき、また新しい集団をつくってその不安やかなしみをなだめ合うように連携していった。そうやって無限に生息域を広げてゆき、さらには無限に大きな集団になっていった。

じつは人間こそ、もっとも深く切実に「消失願望」を生きている存在なのだ。したがって人間の世界もまた「生物多様性」のかたちで棲み分けているのであり、国の中にもいくつかの県があり、さらにその中にもたくさんの市町村に分かれている。そしてその村の中だって、集落ごとに郷や字の区別がある。そうして小さな単位の集団になればなるほど、集団どうしの連携が濃く生成している。

 

 

人間の集団性の本質は、国家であれ村であれ、中央集権的に「結束」してゆくのではなく、小さく分かれながらそれぞれが「連携」してゆくことにある。

家族という集団の本質だって、親が子を支配するというような家父長的中央集権的なかたちではなく、それぞれが「消失願望」とともにみずからの「テリトリー」を狭くしながら他愛なくときめき合い助け合い連携してゆくことにある。

父親が最大限に「テリトリー」を広げて家族を支配してゆくという家父長制度など、まったく非人間的だといえる。

昔の大家族制度であれば、両親の上に祖父母という「大旦那」「大奥様」がいたわけで、権力がひとつのところに集中しない仕組みになっていた。これは、天皇制に似ている。最上位は権力者ではない、というシステムはこの国の集団性の伝統であり、国家だけでなくどんな小さな集団にも及んでいる。

戦国時代の武士軍団の最高指揮官は、たとえば軍師と呼ばれ、大将の下にいたし、ときには軍師が大将を罷免することもあった。つまり軍師は、大将の下というよりも、大名=総大将の直接の部下だった。日本的なこの集団システムのしくみはいろいろとややこしく、権力=責任の所在がつねにあいまいで、それはもう、戦時中の軍部だろうと現在の企業だろうと、ほとんど変わっていない。

いちばん上に天皇がいて、じっさいに支配統治する権力を握っているのは政治家であるということ。これはもう、古代の大和朝廷の発生のときからずっとそうだったのであり、天皇がじっさいの権力者であった時代など一度もない。権力者によって、ずっとそのように偽装されてきただけで、そのように偽装された古文書が残っているだけのこと。

この国の権力者は、民衆と天皇のあいだに立って民衆と天皇の両方を支配する存在である。それはもう、明治以来の近代史においても大和朝廷発生の古代においても同じであり、今どきの右翼政権は「天皇崇拝」のスローガンを掲げながら大手を振って天皇を支配束縛し、民衆支配の道具として利用している。こんなことはもう、大和朝廷がはじまったときからそうなのだ。彼らが天皇を崇拝しているということは、天皇と民衆の関係に寄生するように登場してきたことを意味するわけで、天皇がいなくても民衆を支配できるのなら、とっくに天皇を殺している。

権力者による天皇支配は、古代のほうがずっとあからさまで、たとえば大津皇子とか有間皇子とか、権力者が平気で次期天皇候補に浮上してきた別の皇太子を殺していたのであり、しかもそれは天皇の命令であるという大義名分の上になされていた。つまり、権力者どうしで、どちらを次の天皇にするかと争っていたのであり、強い勢力は「天皇の命令である」という勅書を天皇に書かせることができた。天皇がじっさいの権力者ならそんな命令をするはずがないし、どちらかひとりがナンバー2になればいいだけだが、ナンバー2の実権者は天皇の息子であってはならなかった。次期天皇候補は、殺されるか天皇になるかのどちらかの人生しかなかった。

そしてそのころの天皇の仕事は、次期天皇候補をつくる色ごとが中心だったわけで、多くの権力者が女を差し出してくるし、天皇自身もそういうことには積極的だったし、色ごとこそがそのころの文化風土の基盤になっていた。そのあたりのことは、古事記万葉集源氏物語によくあらわれている。色好みの光源氏は、まさに一般的な天皇のイメージだったのだ。だから光源氏の息子たちも、恋に生きる男として描かれている。

 

 

色ごとが文化風土のお国柄だから天皇制が成り立っていた、ともいえる。

天皇は権力者ではないからこそ、すなわち美しく魅力的な存在だからこそ、民衆も進んで祀り上げていった。何しろ色ごとが文化風土のお国柄なのだから、強いことよりも美しく魅力的であることのほうが、祀り上げるべき「権威」になりえていた。

天皇は、古代のときからすでに自分を捨てた無私の精神の持ち主で、そうでなければ天皇になれなかったし、それもまた、この国においてはこの世でもっとも美しく魅力的な心にほかならなかった。

天皇は歴史の初めからそういう存在だったのであって、「神武東征」などという勇ましい物語で登場してきたのではもちろんないし、権力社会にはそういう物語を捏造しなければならない必然的な理由があった。

古代および古代以前の日本列島では、だれもが色ごとに明け暮れて生きていた。古事記万葉集を読めば、そうとしか考えられない。そしてその集団性というか共同性が色ごとの文化の上に成り立っていたということは、ただ単に下世話であったということではなく、人と人のときめき合う関係を大事にする社会であったということを意味する。だからこそ、社会においてもっともも権威をそなえた存在は、もっとも強い存在の権力者ではなく、もっとも美しく魅力的な存在としての天皇であらねばならなかった。

まあ「源氏物語」に描かれた色好みの光源氏は、その当時の特殊な天皇像ではなく、理想の天皇像だった。そのとき天皇が実質的な権力者であったのなら、許されるような話ではなかった。古代の日本人にとっての天皇は、神武天皇のような「征服者・統治者」が理想であったのではではないし、歴史的に天皇はそんな遺伝子をそなえた存在ではなかった。

天皇は色ごとに明け暮れる能力を持っていなければならなかったし、そんな天皇であればこそ、みんなが祀り上げてゆく存在でありえた。

 

 

現在の天皇のことを考えればよくわかることだが、この国においてもっとも高潔な精神は、「無私」であることにあり、そこに天皇のキャラクターの本質がある。自己を消去すること、しかしこの国においてそれは、仏教的な悟りの境地とかというようなことではなく、その「消えてゆく」ことこそが快楽の本質であり色ごとの醍醐味だからだ。

色ごとこそ、この国の文化の伝統の基盤なのだ。

僕は天皇制がいいのか悪いのかということはよくわからない。しかしこの国の歴史において天皇が「支配・統治者」として登場してきたと考えるのは間違っているし、そんな存在であったことなど一度もないのだ。

上代天皇が名君だったとか暴君だったとか、さまざまな毀誉褒貶の伝説があるが、すべてはただの作り話だし、けっきょくは色ごとにまつわるエピソードを中心に語り伝えられてきた。まあ名君だろうと暴君だろうと、古代人が歴史を語るのにそんなことはどちらでもよかった。もともと権力を持っていないのだから、それによって現実の歴史がどうなったわけでもない。

そして、天皇の色ごとのことを語っても、それが天皇を貶めることにはならなかった。

古代および古代以前の日本列島は「色ごと」の文化の上に成り立っており、そのことの象徴として天皇が祀り上げられていた。

これは、人間としてとても本質的なことだ。人類は昔にさかのぼればさかのぼるほど人間として本質的であったに決まっているし、四方を荒海に囲まれた日本列島では世界のどこよりもそうした原始性を色濃く残して歴史を歩んできたのであり、その原始性の上に成り立った文化をどこよりも高度に洗練・発達させてきた。

人間であることや命のはたらきの本質は「ない」に向かうことにある。「消えてゆく」ことのカタルシス(快楽)、すなわち「消失願望」こそが色ごとの本質であり、そのことの上に「無常」や「あはれ・はかなし」や「わび・さび」の文化の伝統が育ってきた。

原始的であることは、それこそが人としての「究極」のかたちでもある。なんのかのといっても歴史は、「命のはたらき」の本質によってつくられている。人が人であるかぎり命のはたらきの本質を超えることはできないし、命のはたらきの本質は命のはたらきを超えてゆこうとすることにある。それが、「ない」に向かう、ということだ。

 

 

人も生きものも、命のはたらきの「消失願望」とともにみずからの「権力=責任=テリトリー」を縮小してゆこうとする衝動を持っており、それによって「生物多様性」が成り立っているのだし、その「消失願望」こそがつまるところ人類普遍の「贈与=献身」の生態になり、時代や権力者の栄華もいつかは滅びるという歴史の法則になっている。そしてそうした時代の推移は、ゆっくり変わるとはかぎらず、あるとき劇的に変わることもある。

風が吹けば、時代は一気に変わる。われわれにその予測はできない。ともあれ人は「今ここ」に生きてあることの「嘆き」の上に存在しているのだから、変わらないはずがない。命のはたらきは命のはたらきを超えてゆこうとすることにあり、それは「ない」に向かうことにある。

人間社会は、命のはたらきを超えて「永遠の命」に向かおうとする動きと、「ない」に向かおうとする動きとのせめぎ合いとして動いており、前者はつねに栄えつついずれは滅びるということを繰り返してきた。そうして後者は、けっして途絶えることのない地下水脈として流れ続けてきた。つまり、いつの時代も栄耀栄華を誇る者がいて、いつの時代も置きざりにされ途方に暮れている者たちがいる、ということ。そして、地下水脈である後者のほうが、つねにマジョリティなのだ。

いずれにせよ人間であることの自然・本質は生きてあることの「嘆き=かなしみ」にあるわけで、それがなければ「富」も「幸せ」も欲しがらない。

「嘆き=かなしみ」が人間的な魅力を生み、人間的なときめきを生む。「嘆き=かなしみ」がこの生を活性化させ、人間的な色ごとを豊かにしている。

日本列島の「色ごとの文化」の伝統は、生きてあることの「嘆き・かなしみ」の上に成り立っている。

コンピュータに、生きてあることの「嘆き=かなしみ」はあるか?もともと生きていないのだからあるはずもない。「嘆き=かなしみ」の何たるかをどれだけ深くたくさん知っていようと、それは「嘆きかなしむ」ということとは違う。「嘆きかなしむ」という心の動きが、人間的な思考の「超越性」を担保している。

コンピュータの思考に「超越性」はない。どこまで行ってもこの世界と地続きなのだ。

同様に、宗教が教える「天国」や「極楽浄土」だって、この世界と地続きのものでしかない。宗教には、「超越性」はない。

あの山やあの水平線の向こうに何があるのだろう、と思うことも地続きの思考でしかない。しかし原初の人類は、その向こうには「何もない」というそのことに引き寄せられながら地球の隅々まで拡散していった。そこにこそ、人間的な思考の「超越性」がある。

 

 

コンピュータは、「答えがない」ということに向かって計算し続けることができるか?「答えがない」という「嘆き=かなしみ」を生きることができるか?

この国の浄土真宗では「死んだら極楽浄土に行けるということなどいっさい考えるな、そんなことはすべて阿弥陀如来にお任せせよ」と説く。これは「何もない」ことに向かって思考する態度であり、古代の神道が「死んだら何もない真っ暗闇の黄泉の国に行く」と説いていたのと同じ思考であり、そこに日本的な思考の伝統がある。

セックスの醍醐味は「消えてゆく」心地のエクスタシー=オルガスムスにあり、それは「何もない」世界に向かう行為である。原初の人類は、そういう人間的な思考の「超越性」とともに地球の隅々まで拡散していった。

日本列島の文化の伝統・本質は「色ごと」にあり、そこにこそ人間的な思考の「超越性」のダイナミズムがある。

古代の日本列島の文化土壌が「色ごと」にあったということは、人々の思考が宗教以上にというか非宗教的なまでに「超越的」であったということを意味するのであり、その「超越性」の象徴として天皇が祀り上げられていた。

まあ、いかにも地上的現世的な政治支配に天皇が深くかかわっていたことなど、あるはずがないではないか。たとえば光源氏のように、色ごとに夢中になっている天皇こそ、もっとも天上的超越的なのだ。

古代の日本列島では近親相姦も不義密通もなんでもありで、そこにこそ古代文化の「超越性」があり、それを天皇という「かみ」が率先してやっていた……ということが古事記万葉集源氏物語を読めばよくわかる。

古代の日本列島においては、政治のことは政治家(権力者)に任せ、天皇も民衆も「色ごと」に熱中していた。その伝統があるから現在でも「無党派層」とか「無関心層」が大半を占めているわけだが、「無党派層」や「無関心層」であるためには選挙に行って権力の暴走にひとまずブレーキをかけておく必要がある。それを「民主主義」というのだろう。

われわれ民衆にとっては、政治や経済がこの生の最重要テーマではない。そして最重要のテーマではないという生き方をするためにはひとまず最低限はかかわる必要がある、ということだろうか。

「一期は夢よ、ただ狂え(閑吟集)」……コンピュータは、狂うだろうか?狂うことを生きることができるだろうか?

「かわいい」とときめくこと、たったそれだけのことにだって、コンピュータにはない人の心の「超越性」がはたらいている。それはまあ、ひとつの「消失願望」であり、「人類滅亡」を願う心でもある。そのようにして心は癒され、活性化してゆく。

 

 

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『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。