新しい時代はやってくるのか

 

1

元号は変わったが、このひどい政権が交代する気配はまるでない。

民意の総体にかなった政権であるはずもないが、多くの民意がそれを許してしまっている。ひどいとわかっていてもしょうがないと思う人もいれば、積極的にそこにすり寄ってゆく人もいる。もちろんそんなの絶対だめだと思っている人も少なくはないのだが、全体から見ればけっきょく少数派でしかない。そうして、もっとも多いのは、「どうでもいい」と思っている人たちだろうか。

そうやって国が壊されてきた。

この国は、政治や経済の権力を持っている者のやりたい放題にされてしまうような歴史風土(=社会構造)になっている。

天皇がいる国だからだろうか。みんな天皇のようにやさしくてあきらめがよすぎるから、こんなひどいことになってしまう。

人は、ときめく対象を持っていなければ、生きにくい生を生きることができない。ときめく心の象徴として、天皇が存在している。だから、天皇がいたらいけない、とも言えない。天皇を支配し利用する者の存在が、この世界を生きにくいものにしてきた。

遠い昔には、権力者のいない時代があった。遠い昔に帰れ、というのではない。遠い昔があったということを知るべきであり、遠い昔のように天皇との直接的な関係を結ぶべきだということ。それは「魂の純潔に対する遠いあこがれ」を手放さないことであり、天皇は「魂の純潔」の象徴なのだ。

言い換えれば、「魂の純潔に対する遠いあこがれ」を生きることができるなら天皇はいなくてもよい、ということであり、だから民衆は天皇がいなくなることをけっして拒まない。天皇がいなくなるのを受け入れることは、天皇との直接的な関係を結ぶことであり、「魂の純潔に対する遠いあこがれ」を生きることだ。

この国の神道における「かみ」は「隠れている」のであり、もともと天皇は「隠れている」存在である。だから、天皇がいるところを、かつては「内裏(だいり)」といった。そうやって天皇がいなくなるのを受け入れることは、それ自体が天皇との直接的な関係を結ぶことであり、天皇を祀り上げることになる。

民衆は、普段から天皇のことを思い、天皇のことを生活の規範にして生きているわけではない。天皇は「隠れている」のであり、天皇を忘れて生きることが、天皇とともに生きることなのだ。忘れてはいるが、いつでも思い出すことができる、この世のもっとも美しく魅力的な存在として。

 

 

天皇は、日本人の歴史の無意識に宿っている。日本列島の歴史において、天皇を祀り上げることは、人と人がときめき合い助け合い連携してゆく集団になるためのよりどころになってきた。つまり民衆社会が独自に天皇との直接的な関係のもとでのそういう集団性を持っているからこそ、権力社会に好き放題のことをされてしまう。この国は、ひとまずそういう社会の構造になっているらしい。

この国の民衆社会では、だれもが天皇を祀り上げながら「魂の純潔に対する遠いあこがれ」を抱いているのに、それでもというかだからこそというか、あんな醜悪な政治や経済の支配者たちから好き題にされてしまう。

ともあれ、この国でほんとうに「民主主義」が機能したら、こんなにもひどい政治経済システムの世の中になるはずがないのだ。

選挙に行かない民衆がいけないのだし、そういう民衆の心を惹きつける魅力的な政治家や資本家があらわれてこないのがいけない。見かけの良さや弁舌の巧みさで人気になる政治家はいるだろうが、民衆の心の「魂の純潔に対する遠いあこがれ」に訴える力を持った政治家はなかなか現れてこない。それこそが民衆が民衆であることの根拠なのに、その心を揺り動かされないから、多くの民衆が選挙に行かない。

山本太郎は、民衆の中のその心を揺り動かして大きなムーブメントを生み出すことができるだろうか。注目はしているが、僕にはわからない。この国は、このまま壊れ続けてゆくのだろうか。

 

 

大事なのは、自分ではないし、家族でも国家でもないし、人類ですらない。人類滅亡はめでたいことであり、人類を超えた「魂の純潔」こそが大事なのだ。人は、「魂の純潔」持って生まれてきて、物心がつくにしたがってそれを失ってゆく。そうしてそれは、死ぬまで取り戻すことができないし、取り戻そうとすることが生きることだともいえる。

「もう死んでもいい」という勢いで人間性の自然としての「魂の純潔に対する遠いあこがれ」に殉じてゆくときにこそ、人の命や心は活性化する。それは人間性の悲願であり、そこのところで盛り上がらないと世の中は変わらないし、無関心層も投票には行かない。

「もう死んでもいい」という勢いで盛り上がるお祭りが必要なのだ。その勢いが、生き延びることに執着する政治家や資本家たちの策謀を凌駕しなければならない。たぶん、人々が搾取され続けるこの閉塞状況は、もはやそういうかたちでしか突破できない。

必要なのは、「正義」ではなく「お祭り」であり、人と人のときめき合う関係なのだ。そして、もともと天皇はその関係が生まれてくるよりどころとして上代奈良盆地で機能していたのであり、それが現代まで続く民衆社会の伝統になっている。

日本国憲法第九条などという能天気な法律は、人と人が他愛なくときめき合い助け合う社会でしか成り立たないのであり、日本列島にはそれを成り立たせる伝統がある。

たしかに日本人はかんたんにあきらめてしまうところがあるのだろうが、同時に他愛なくお祭り騒ぎで盛り上がってゆこともできるわけで、現在の右翼政治家と新自由主義の資本家が結託して作っている社会システムが盤石だともいえないのではないだろうか。

それとも、このままいくところまで行って、あの敗戦のときのように社会が完全に壊れてしまわなければ変わることもないのだろうか。

現在のこの国は、社会全体の資産(GDP)の成長は横ばいのまま、下層の庶民で貧困化が進み、上層部の企業資本家の資産は増えていっている。つまり、下から上に吸い上げるシステムが出来上がっている。

現在のこの社会は、壊れつつあるのか、それとも壊れてしまっているのか?壊れつつあるのなら、まだまだ変わらないのだろうし、壊れてしまっているのなら、変わってゆく動きが起きてきているにちがいない。

社会のシステムだけではない。人々も心も壊されている。

 

 

「バカ殿」がいる社会というのは困ったものだ。「総理大臣」という玩具さえ与えておけば、まわりの者たちは好き放題のことができる。彼らは、バカ殿に「忖度」しているのではない。バカ殿を「操っている」のだ。そうして、「バカ殿の命令」という名のもとに部下たちを徹底的に支配している。つまり、権力社会の内部そのものにおいて、天皇制の構造が悪用されている。

しかし、だから天皇制を廃止すればよいという話にはならない。「バカ殿」と「天皇」はまるで違う。天皇は、「権力」という玩具なんか欲しがらない。バカ殿が権力を欲しがらないで、天皇と民衆の直接的な親密な関係のように、権力者の部下たちとの直接的な親密な関係が結ばれていれば、バカ殿を操る権力者も部下たちの抵抗が強くて好き放題のことができなくなる。

たとえば2016年のあのとき、天皇が民衆とのあいだで「譲位=退位の意向」の合意を結んでしまえば、権力者ももうそれに反対できなくなった。それと同じことだ。総理大臣が取り巻きたちとの関係を飛び越えてその部下たちとの直接的な関係を結んでしまえば、部下たちは上司に支配されることなく率直に進言してゆくことができる。

しかし現在のバカ殿と取り巻きたちは、権力に執着しつつ、部下たちを徹底的に支配している。というか、社会全体がそうやって天皇制を悪用した構造になってしまっている、ということだろうか。

現在のこの国のバカ殿は、取り巻き連中の部下のことも民衆のことも、知ったことではないらしい。取り巻き連中に祀り上げられていたれそれで満足だし、この国の下流社会がどんなひどい状況になっているのかということなど、おそらく何も知らないし、興味もないのだろう。

生まれついての「嫌われ者」は、自分をちやほやしてくれる人間以外に対する興味はない。世の中には、そういう人間はたくさんいる。

 

 

たぶん現在の課題は、天皇制を廃止することではなく、ほんらいの天皇制を取り戻すことにあるのだろう。

この国においては天皇こそが権力者を縛る機能としての「憲法」であり、天皇は、権力者を支配するのではなく、民衆との直接的な「ときめき合う」関係を結ぶことによって、権力者と対峙している。それがまあ「象徴天皇」という起源以来の天皇の本質であり、今にして思えば平成天皇は、われわれの想像以上にそうした天皇像を深く大胆に問い続けた人だったのかもしれない。

天皇であることのラディカリズムというものがある。天皇は、無力な存在であって、無力な存在ではない。

昭和天皇に戦争責任がなかったとは言わないが、「いつ死んでもかまわない」という覚悟はA級戦犯になった権力者たち以上に確かに持っていたはずで、死んだ気になってというか、「死んでもいいのなら俺だってとっくに死んでいたさ」といいたい気持ちを呑み込んで戦後も天皇であることを引き受けたのだろう。

「俺は戦争責任を果たすことを許されなかった」……昭和天皇は、息子の皇太子(平成天皇)にそう語り伝えたに違いない。

天皇の戦争責任なんて、もうでもいい。そうやって天皇を裁いて処刑したら、ますます「天皇崇拝」が盛り上がって、右翼だけでなく民衆の心にも火をつけてしまうことだろう。

われわれ民衆が裁かなくても、平成天皇はみずから「贖罪」の旅を続けたし、それはきっと新天皇にも引き継がれるに違いない。

この国で戦争責任を感じていないのは右翼たちばかりで、それは天皇家の心とは正反対なのだ。

 

 

天皇は、人類普遍の夢としての「民主主義」の象徴でもある。天皇が存在するかぎり、日本列島の民衆は「魂の純潔に対する遠いあこがれ」をけっして手放さない。つまり平成天皇は、それによって権力社会と対峙してきた。天皇には政治権力など何もないから、平成という時代の停滞化・衰退化の流れをどうすることもできなかったが、民衆が「魂の純潔に対する遠いあこがれ」を手放さないことのよりどころにはなってきた。だから「かわいい」のムーブメントをはじめとするポップカルチャーが花開いて海外に発信されてもいったわけで、それは、本質的必然的に権力支配に対して無力であるほかないのだが、たとえば敗戦後の復興のときのように、権力支配が崩壊して新しく生きなおすときには大きな力になる。

日本列島の民衆は、その本質において「魂の純潔に対する遠いあこがれ」を生きているがゆえに権力支配に対して無力であるし、その無力さが戦後復興のダイナミズムを生み出した。それはつまり、心はいつだって「権力支配が崩壊した世界」を生きているということであり、だからこの国では「権力支配を奪い取る」という「革命」が起きない。

マルクス主義者は「労働者独裁」などというが、民衆が権力支配を奪って理想の社会が実現した例などひとつもない。だからといって政治家が権力を持てばいいという話でもない。「権力が存在しない社会」こそ理想であり、じつはそこにおいてこそ人間社会はもっともダイナミックに活性化する。そうやって、人と人が他愛なくときめき合い助け合う「祭りの賑わい」を基礎にした社会が生まれてくる。それが人間社会の起源のかたちであり、究極のかたちでもある。そして、そんな社会を目指すためのよりどころとして、この国では天皇が祀り上げられてきたし、ヨーロッパでは宇宙の支配権力者としての「神(ゴッド)」とはべつに、「処女マリア」とか「ヴィーナス」とか「聖母マドンナ」とか「ジャンヌ・ダルク」とか「自由の女神」とかのさまざまな「女神信仰」が生まれている。

 

 

天皇は無力であり、民衆もまた無力である。無力であることは理想を夢見ていることの証しであって、「意識が低い」のではない。むしろ、高すぎるのだ。

民衆が祀り上げるのは、「権力」でも「正義」でもない。「魂の純潔」なのだ。「魂の純潔」を象徴する存在を祀り上げて「祭りの賑わい」が盛り上がる。

「魂の純潔」は、この世界にはない。この世界を超えた「異次元の世界」で生成している。人の心は、「異次元の世界」の「魂の純潔」を夢見ている。つまり、この生は「もう死んでもいい」という勢いで活性化するということ。そういう勢いの気配を祀り上げるのであり、そういう勢いの気配をもっとも豊かにそなえているのは「処女=思春期の少女」である。そうやって「女神」や「天皇」が祀り上げられる。「女神」を祀り上げて「祭りの賑わい」が盛り上がる。

選挙の候補者のもっとも強力なアピールは、男であれ女であれ、「正義=政策」ではなく、「もう死んでもいい」という勢いの「処女性」なのだ。そうやって土下座までして情に訴えてゆく。良くも悪くもこの国は、理屈よりも情が優先する社会であり、たとえただの演技であっても、わが身を捨てて訴える姿勢は人の心を揺さぶる。

「もう死んでもいい」という勢いを持ったヒーローが登場してこなければ、無関心層を巻き込んだ投票行動は生まれてこない。山本太郎は、はたしてそんなヒーローになることができるだろうか。

民衆は「感動=ときめき」がなければ動かないし、お金だけでなく「感動=ときめき」も奪われている社会である。

右翼勢力はもう、人を選別し、国民の同一化の邪魔になる異分子を排除して国民を分断することばかり仕掛けてくる。政治家や資本家や知識人から下々の庶民にたるまで、「正義」を振りかざすしか能のない右翼たちが、人としてそんなにも美しく魅力的か。醜い「嫌われ者」ばかりではないか。どうしてそんな人間たちだけが選ばれねばならないのか。「嫌われ者」ほど声高で主張が激しく、人を支配しにかかる。彼らは、支配することによってしか他者との関係を結べない。

 

 

人類史において、人が一か所にたくさん集まってきて人と人の関係がややこしくなってくれば、とうぜん人を支配したがる嫌われ者が生まれてくる。そうやって人を支配することによってしか生きられない嫌われ者たちが集まって支配階級を構成するようになってゆく。これが、上代奈良盆地における「大和朝廷」の発生であり、べつに右翼たちが信じるような「神武東征」によって起こったことではないし、一般の凡庸な歴史家たちがしたり顔して語るような九州や出雲や吉備の豪族が集まってきてつくったというのでもさらにない。

大和朝廷発生の理由は、そのころの日本列島で奈良盆地にもっとも大きな都市集落があった、ということにある。それ以外に、どんな考古学的事実があるというのか。

人類史における国家権力の発生は、無際限に大きな集落が生まれてくればどのようなことが起こるかという問題なのだ。もともと集落が大きくなりすぎればそこからこぼれ落ちてゆく個体が生まれてきてそれによって人類拡散が起きるという歴史段階を何百万年も続けてきたわけで、こぼれ落ちてゆくものがいないままどんどん集落が大きくなってゆけば、そりゃあ排除しようとする衝動がたまってくるし、排除しようとする者が生まれてくる。しかし大多数は排除しようとしないし、したがってだれもこぼれ落ちてゆかない。そういう状況から、排除しようとする衝動が自家中毒を起こして国家権力が生まれてきたのだ。つまり民衆の、他愛なくときめき合い助け合う関係からこぼれ落ちていった「嫌われ者」たちが、国家権力をつくっていったのだ。

権力者は、本能的に民衆に対する悪意を持っている。その悪意=憎悪とともに支配欲や差別意識が膨らんでゆく。

 

 

天皇を担いで大和朝廷をつくった者たちなんて、ただの嫌われ者の集団だったのであり、現在の右翼政権だって何も変わりはない。この国の権力者は、民衆の代理・代表として天皇を崇拝してゆく。崇拝しつつ支配してゆく。まるで駄々っ子のように、天皇にすがりついて天皇を支配してゆく。天皇を自分たちのものにしつつ、民衆と天皇の直接的な関係を分断してしまう。そうして「天皇の命令」の名のもとに民衆を支配してゆく。彼らは、他者を支配することによってしか他者との関係を結べない。それが、彼らの本能であり、生きる流儀なのだ。 この世界の人と人の関係をすべて「支配=被支配」の関係にしてしまえば、支配欲の強い嫌われ者ほど階層の上位に上がってゆくという社会になってしまう。それが「国家」のシステムであり、そのカウンターカルチャーとして「民主主義」が生まれてきたし、日本列島では古代のときからすでに「神道」という民衆自治の思想が生まれていた。起源としての神道は、民衆が支配者との関係から離れて直接「かみ=天皇」との関係を結ぶという、いわば民主主義だったのだ。

とうぜんのことだが、嫌われ者ほど「自助努力」に熱心だ。そうやって階層をのぼってゆく。それに対して「民主主義社会」とはだれもがときめき合い助け合っている社会のことで、そこには「自助努力」という概念はない。だれもが「もう死んでもいい」という勢いで他者に手を差し伸べてゆくのだから、「自助」などという発想は生まれてこない。そしてそれが、原初以来の人類集団のかたちであり、そうやって進化発展してきたのだ。「民主主義」は、そういう原初のかたちに遡行しようとするコンセプトであり、それが人類社会の究極の理想でもある。

人は、だれもが心の底にそういう究極の理想を抱いている。だから、山本太郎のような純真無垢な熱血漢が生まれてくる。

だったら、応援する側だって、それなりに心意気を示さなければならない。あなたは、たとえこの国が滅びることになるとしても消費税はもう廃止するしかないのだ、という覚悟で応援してゆくことができるか?「もう死んでもいい」という勢いがなければ「お祭り」は盛り上がらない。「自分が生き延びるために」とか「国が存続するために」とか、もうそんな「正義」など、どうでもいい。誰もが目の前の「あなた」を救いたいという気持ちになってゆくことができるかどうか、それが問題だ。

2017年選挙のときの枝野幸男から2019年選挙の山本太郎へ……民衆の心はつねに「正義」以上の「感動=ときめき」を求めている。もしも山本太郎が動かなかったら、今回の選挙は何の盛り上がりもないまま自民党圧勝で終わってしまうことだろう。まあ一部で盛り上がってもトータルでは圧勝するのかもしれないが、「こんなひどい政治はもういいかげんにしてくれ」という世の中の機運は、たとえ少しずつでも確実に進行しているに違いない。なぜならそれは、間違っているという以前に、醜いからだ。

この国が天皇を祀り上げているかぎり、「醜いことには耐えられない」という人の心が消えてなくなることはない。その心を基礎にして、人は「感動」という体験をする。誰の心の中にも「美意識」は宿っているし、「美意識」を封じ込めて世の中の政治や経済が進行している。稀代の「バカ殿」のまわりにうごめく政治家も官僚も資本家も、自分がいかに醜いことをしているかという自覚がまるでない。彼らは、民衆との直接的な関係が生じない場に立って、民衆を支配し続けている。

そうして民衆の多くは、うんざりしながら途方に暮れている。もちろん民衆の中には、権力社会に洗脳されている者たちもいれば、反発している者たちもいる。しかし、どっちにしてもそれらは一握りでしかない。

世の中は、壊れてしまったのか、壊れつつあるのか。

現在、民衆の「感動」を熱く広範囲に組織できる政治家は、山本太郎ひとりかもしれない。彼のことを僕は、踊念仏の「一編」の再来だろうか、と思ったりする。江戸時代を通じて何度も散発的に出現した「おかげ参り」騒動とか、幕末の「ええじゃないか」騒動とか、明治以降にも何度も起きている「米騒動」とか、そのような民衆のお祭り気分のエネルギーは、この国の伝統として現在にもなお蓄えられてあるに違いない。

新しい時代は、到来するのだろうか。それを祝福するようにして「お祭り」が盛り上がってゆく。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

>> 

<span class="deco" style="font-weight:bold;">蛇足の宣伝です</span>

<< 

キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。