バブリーな思考と民主主義

 

ひと昔前は5月のことをよく「行楽のシーズン」といった。気候はいいし、連休はあるし、ともあれ行楽地としては、どちらかというと暑苦しい海よりもさわやかな風が吹く北海道や信州に人気があった。

が、それもバブルの時代までのことで、バブル崩壊とともに北海道の巨大リゾートホテルの倒産のことがその象徴的な出来事として大きな話題になった。

信州の清里といえばもともとただのさびしい小さい村だったのに,バブルのころにはなんだか西洋のおとぎの国というかドイツのロマンチック街道のような雰囲気の建物を並べて一大観光地のようになっていた。しかし今やもう、見る影もなく、もとの限界集落になってしまっているらしい。いかにもバブリーなあだ花だった。おそらく東京の企業やマスコミが寄ってたかってそういう場所に仕立てていったのだろう。

ともあれ今年も多くの観光地が賑わうのだろうが、やっぱり歴史を持っている場所は人気が安定している。

奇をてらったようなことをしても、すぐにメッキがはがれる。現在の政治や経済の権力者たちは、実質のともなわない空騒ぎに民衆を巻き込んで支配してしまう、ということを常套手段にしている。メッキがはがれても、しれっとしてすぐ次の手を打ってくる。そういう反復によって民衆をますます愚かにしてゆけば、ますます支配はしやすくなる。もしかしたらそれは、明治維新から敗戦までの社会システムと本質的にはそう変わりないのかもしれない。

おそらくそこには、日本人の民族性というような問題でもあるのだろう。おっちょこちょいな民族なのだ。ときにはそれが果敢な「進取の精神」にもなる一方で、あっけなく権力者に支配されてしまう歴史にもなってきた。

 

 

ともあれ太平洋戦争の敗戦は、明治以来のメッキがはがれた体験だったのだろうか。この国のバブリーな思考は、明治維新のときからすでに始まっていたのだろうか。

いったん身に付いたバブリーな思考は、そうかんたんには捨てられない。国のかたちもそうだが、個人の人生においても死ぬまで成功体験の記憶にしがみついて生きてゆく人は多い。バブルを体験した世代、すなわち現在の50歳以上の世代がすべていなくなったら、少しはましな世の中になるのだろうか。

現在のこの国は、老人や貧乏人などの多くの弱者を切り捨てながら、あの手この手でバブリーな動きを続けようとしているらしい。

表面的にはひとまずバブリーな動きはあるとしても、ほんとに人の世として活性化しているのだろうか。富裕層はたくさんいてわが世の春を謳歌し、そこにあこがれている人も少なからずいるのかもしれないが、明日食う米もないという人や生ける屍のようになってしまっている老人もどんどん増えてきていて、しかも政治はそこに手を差し伸べようとしないし、資本家は知らんぷりをするどころかさらにそこからも搾り取ろうとしている。

バブリーに生きるのが価値で、バブリーに生きている人間が大手を振ってのさばっている。

政治家は「国民を豊かにするのが私の仕事だ」といけしゃあしゃあという。そんな理屈が通じたのはバブル時代のことで、現在の政治家のなすべき喫緊の仕事は、「困っている人に手を差し伸べる」ということだろう。そんなことをしたら景気が冷え込むとかというのだけれど、困っている人が助かるのなら、冷え込んだっていいではないか。

今どきは、緊縮財政とやらで、維持にお金のかかる国の財産はどんどん民間に売り飛ばしている。そうなったらお金のない人はますますサービスを受けられなくなるのだが、そんなことは知ったことではない。彼らのいう「国民を豊かにする」とはつまり、豊かになれる人間だけが大事で、豊かになれなれない人間なんか粗大ごみと一緒でどうでもいい、ということだ。新自由主義、そんなことは自分でなんとかしろ、という。そうやって人と人の関係がどんどん壊れてしまっている。彼らには、豊かになれない人間に対する愛がない。「悲劇」に対する感受性がない。「悲劇」を意図し無感受性がなくて、どうして人間といえるだろうか、日本列島の伝統を大事にしているといえるだろうか。「あはれ。はかなし」や「わび・さび」の美意識とは、「悲劇」をいとおしみ抱きすくめてゆく感受性のことだ。

バブルのときのように国の財政を安定化させ豊かにすることがそんなに大事か?富裕層の既得権益の維持安定のために、貧しい者たちからどんどん搾り取る。富裕層はどんどん資産を増やし、最貧層はますます貯蓄ができなくなってゆく。

 

 

「家貧しうして孝子あらわる」ではないが、国民のだれもが貧しかった終戦直後は、それなりに人と人のときめき合い助け合う関係が機能していたし、豊かな娯楽文化も花開いていった。今どきは「少子化」とか「人口減少」などというが、あのころは貧しくてもどんどん結婚しセックスしまくっていたから、どんどん人口が増えていった。

いろんな少子化対策があるのだろうが、とにかく人と人の関係が健全に機能している社会でなければ、何も始まらない。あんまり正義ぶった顔はするな。正義ぶることこそが、人と人の関係を分断してしまう。

誰もが他愛なくときめき合うことができる社会こそ、人類史の原点であり、究極の理想なのだ。

孔子が「家貧しうして……」というときの「孝子」とは、「親孝行する子」という意味ではない。一般的にはそのように解釈されているが、そうではない。「孝」とは、親子であれ何であれ、「人間のプリミティブな情愛・心映え」のことをいうわけで、「孝子」とは、親が思い切り愛情を注ぐことのできる子のことであり、深く親を慕っている子のことであり、つまり、ほんものの人としての情愛は貧しい家ではぐくまれている場合が多い、ということだろうか。

まあ、親とってかわいくてしょうがない子を「孝子」というのだし、無条件い親を慕っている子を「孝子」という。親孝行がどうのというような話ではない。「ばかな子ほどかわいい」ということわざもあるが、この場合の「ばかな子」だってまぎれもなく「孝子」であり、とにかく孔子は「人としての情愛が豊かに生成している家」のことを語りたかったのだ。

今どきは出世することが親孝行であり、それを「孝子」といったりしているわけだが、論語はべつに出世することの素晴らしさというような、そんなバブリーな思想を説いているのではない。

孔子の時代なんか、貧しい家の子は貧しいまま一生を終えるのが当たり前だったのだし、貧しい家からは人としての情愛の豊かな人間が育ってくる場合が多い、といっているだけなのだ。孔子は、「立身出世」を説いたのではなく、「人としての情愛」すなわち「人情の機微」を説く達人だったのであり、そこにおいて普遍的な評価を確立しているのだ。

「家貧しうして」ということは、バブリーなことを考えていたら孝子なんかあらわれてこない、といっているのと同じだろう。まあ心というか感受性が豊かであれば、「孝子」にちがいない。そうやって君主と家臣であれ、君主と民であれ、親と子であれ、「人情の通い合う関係」を説いているのであり、それゆえにこそ長く読まれ続けてきたわけで、それが人の世の基礎であり究極のかたちだからだ。

現在のこの国の人々は、「人情の通い合う関係」になっているだろうか。通い合っているところもあれば、通い合っていないところもあり、ぶんだんしゃかいというなら、全体としては通い合っている状況になっていない、ということだろうか。

「人情が通い合う」とは、どういうことだろうか。おたがいに相手のことが好きでも、人情が通い合っているかどうかはわからない。好きになるなんて、かんたんなことだ。自分の得になるなら、好きでいられる。自己愛として相手を好きになる、という関係がある。

「人情が通い合う」ことは、あんがいかんたんではない。何かを飛び越えてゆく「心意気」が必要になる。つまり「感受性」が欠落していたら、そんな関係にはなれない。

現在のこの国は、そういう「感受性」が豊かに育つような仕組みになっていない。

こんな不景気な時代になっても、われわれはまだバブリーな思考から抜け出せないでいる。状況的には貧しいのに、「孝子」があらわれにくい。物理的な状況は貧しくても、精神的な状況がバブル時代からあまり変わっていない。

 

 

日本人は状況に流されやすい……それはまあ、そうかもしれない。しかしだからこそ、知性や感性が豊かな「孝子=ヒーロー」があちこちからあらわれてくれば、精神的な状況も変わってくる。

けっきょく、日本列島の伝統的な精神風土とは何か、という問題だろうか。日本人は、バブリーなことを考えたがる民族だろうか。

バブリーな思考とは、ようするに「死んだら天国(あるいは極楽浄土)に行く」という思考であり、それに対してこの国の神道では「死んだら何もない真っ暗闇の黄泉の国に行く」と考えられてきた。それは、みごとにバブリーではない。日本人が思い描く死の世界に何の価値もないのに、それでもほかの国以上に死に対して親密なところがある。その「何もない」というそのことに引き寄せられているのであり、それはまさしく「家貧しうして」の世界観であり生命観である。

「あはれ・はかなし」「わび・さび」の美意識・世界観は、バブリーな思考とは対極にある。

「生命賛歌」というバブリーな思考は、日本列島の伝統にそぐわない。生きてあることに価値を置く文化ではない。「あはれ・はかなし」や「わび・さび」は、生きてあることの「嘆き=かなしみ」から生まれてくる。そうやって「悲劇」をいとおしみ抱きすくめてゆく。

天皇が「現人神」であるとか「大元帥閣下」であるとか「国の家長」であるとかという思考はきわめてバブリーな思考であり、もともとは政治なんかとは無縁「内裏(だいり)」の奥に隠れているのが存在だった。ほんらいの天皇は、けっしてバブリーな存在ではない。天皇は「美しい」存在であるが、「偉大」な存在であるのではない。

日本列島の「色ごとの文化」は、「ない」に向かって「消えてゆく」ことの醍醐味(エクスタシー)の上に成り立っている。そうやってもともと自意識を消してゆく文化であるがゆえにすっかりバブルの色に染められてしまったが、それゆえにこそ、何かのはずみであっさり忘れてしまう可能性もある。

 

 

この国に「神の教え」などないのであり、神道の「かみ」は、教えを持たない。「教え=規範=戒律」を持たない宗教などないのであり、ほんらいの原始的な神道は、宗教とはいえない。すなわち、無原則の文化なのだ。原則を持たないことが原則の文化なのだ。だから、大日本帝国教育勅語にも、バブル思考にも、新自由主義グローバル資本主義にも、あっさり染められてしまう。しかしだからといってそれらが日本列島伝統の思考様式だというわけではない。どんな価値観もひとまず受け入れるというのが伝統であるのだが、それはどんな価値も信じていないのと同じであり、何でもかんでも受け入れつつ、何でもかんでもアレンジ・デフォルメしていってしまう。

価値なんか信じない。価値を壊したり捨てたりしてゆくことにカタルシスがある。そのカタルシスを体験するために、ひとまず価値を受け入れる。価値がいらないというのではない。価値が「消えてゆく」その「過程」にカタルシスがある。「消えてゆく」ためには、まず「存在」しなければならない。

その「消えてゆく過程」を、「あはれ・はかなし」とか「わび・さび」という。

敗戦直後には、大日本帝国主義の価値観が消えてゆくカタルシスがあった。バブル崩壊のときにもそれはあったし、阪神淡路大震災のときや東日本大震災のときにもあったし、そういうときにこそ人々の心は高揚し、ときめき合い助け合ってゆく。

孔子が「家貧しうして孝子あらわる」といったのも、まあそういうことなのだ。

したがってこれは、日本列島の伝統であると同時に、人類普遍のカタルシスのかたちでもある。

 

 

現在のこの国の状況であるこの鬱陶しいグローバル資本主義や右翼ヘイト騒動は、いつ崩壊してゆくのだろうか。

グローバル資本主義の世の中であっても、われわれのふだんの暮らしにおいては、そんなシステムが無意味であるかのようなかたちでときめき合ったり助け合ったりということをしている。なぜならそこにこそこの生のカタルシスがあるわけで、人々が嫌だと思ってそういう暮らしをしていれば、そのシステムはいずれきっと崩壊してゆく。

それを崩壊させるのは、人間性の自然なのだ。

あなたは人間性の自然を信じることができるか?

原初の人類が二本の足で立ち上がったとき、ひとりのボスの統治支配のもとに集団として結束してゆくという生態を失い、ボスのいない混沌のなりゆきのままにときめき合い助け合い連携してゆくという生態の集団になっていった。そのとき二本の足で立つ姿勢を常態にして生きるということは、姿勢の安定や俊敏さを失うと同時に、胸・腹・性器等の急所を外にさらしてしまうことであり、さらには腰や足にとても負荷がかかるために、とうぜん寿命も短くなってしまった。そのとき人類はいったん猿として「死んだ=滅びた」のであり、猿よりも弱い猿になってしまったのだ。つまり、だれもひとりでは生きられない存在になってしまったのであり、しかしだからこそ、助け合い連携してゆく関係が生まれてきた。そして助け合い連携してゆく関係が生まれてくるためには、ときめき合っていなければならない。

そのとき人類は、猿として生きる能力を失った。天敵から逃げる能力も、同じ猿どうしでテリトリー争いをする能力も、味方どうしで争って順位を決めたりボスになったりする能力も失い、おまけのその不安定で大きく負荷のかかる姿勢のために寿命も短くなった。だがそれによって、ときめき合い助け合うという猿にはない能力を身に着けてゆき、さらには一年中発情しているようになって爆発的に人口を増やしていった。

人類の直二足歩行の起源はまさに「家貧しうして孝子あらわる」という体験だったのであり、そしてさらに、それこそが「民主主義の起源」だったのだ、ともいえる。

人類の歴史は民主主義としてはじまり、それこそが究極の理想にもなっている。文明社会の政治形態の歴史はさまざまに推移してきたが、けっきょくはそこに還ってゆくのだろう。

人類社会の伝統は「民主主義」にあり、すべての支配体制は「民主主義」によって淘汰されてきた。

現在の世界の人々が何に支配されているのかということは、あれこれ錯綜していてとてもなやましい問題ではあるのだが、いかなる支配もいずれは「民主主義」によって淘汰される、と僕は信じている。それは、人間を信じる、ということだ。

人間とはときめき合い助け合い連携してゆく生きものである、と僕は信じている。

 

 

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初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

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