ヘイトスピーチの彼方へ

 

言論の自由は守られねばならない。

だから、ヘイトスピーチだって許される。しかしそれは、限りなく醜いし、それによって傷つく人がたくさんいる。人の世は、その醜さと暴力性に耐えられない。耐えられる人間や世の中は異常だ。

ヘイトスピーチが自由であるのなら、ヘイトスピーチなんか許さないと叫ぶのも自由だろう。そういう叫びが存在しない社会は、健全とはいえない。

ヘイトスピーチの醜さと暴力性に支えられている権力なんか異常だ。

それは、社会の分断の象徴になっている。

ヘイトスピーチは、騒々しい。そして執念深く狡猾だ。彼らは、それによって「結束」してゆく。結束するためには、多様で緩やかに「連携」してゆく社会は認めてはならない。彼らは「嫌われ者」だから、そういう関係性を生きることができない。彼らには「ときめく」感受性がない。だから「嫌われ者」になる。そうしてヒステリーを起こし、ヘイトスピーチを吐き出す。「結束」する社会こそ彼らの理想であり、そういう約束された関係性を生きようとする。そこに参加してこないものは徹底的に排除してゆく。排除するためにはヘイトスピーチが必要だし、排除することによって「結束」してゆく。

「日本人」という約束された関係、そこに彼らの生きる場があり、「日本人に生まれてよかった」と合唱している。だから在日外国人を攻撃するし、日本人あることを嘆いたり政府を批判したりする日本人にも「反日」という呪詛を浴びせかける。

人間社会の「結束」は、権力支配によって生まれてくる。「結束」の上に成り立つ集団行動や戦争は、ファシズム国家や宗教団体の得意とするところだ。

あの戦争のときは、「鬼畜米英」や「非国民」というヘイトスピーチが流行った。その愚かさが今、ネトウヨというかたちでよみがえっている。ともあれそれは権力による強制がなければ国民全体に浸透することはないわけで、総理大臣から下層の庶民まで彼らは権力の亡者たちなのだし、現在の政権が続くかぎりこの騒々しさは収まらないのだろう。

彼らには、人としてのあたりまえの感慨や思考を共有してゆく能力はない。彼らは、支配し支配される関係の中でしか生きられない。ヘイトスピーチは、支配し支配される関係の中でしか共有できない。

人間であれ猿であれ、集団は支配し支配される関係の中で「結束」してゆくのだし、原初の人類は、二本の足で立ち上がることによって猿の集団性と決別し、他愛なくときめき合いながら緩やかに「連携・連帯」してゆく集団性を身につけていった。

ヘイトスピーチが生まれてくるということは、この社会の基礎に多様で緩やかに連携・連帯してゆく関係性が生成しているということでもある。いつの時代もどこにでも、人間性の自然としての人と人のときめき合う関係がなくなることはない。

現在は、戦時中のようなヘイトスピーチに同意しなければ権力によって罰せられるということはない。少しずつ、ネトウヨに対する包囲網が生まれつつある。ネトウヨの騒がしさはもう、飽和点に達している。

 

 

日本会議ネトウヨたちを背にした現在の支配者たちは、国民や家族はかくあらねばならないということ徹底的に押し付けようとしてきている。彼らは、支配するにせよされるにせよ、「かくあらねばならない」という「規範」の中でしか生きられない。しかしその支配=被支配の関係性は猿の集団性であり、人類の集団の基礎は、無主・無縁の混沌のままに他愛なくときめき合い助け合いながら緩やかに連携・連帯してゆくことにある。そういう関係性が担保されていれば、家族だろうと国家だろうと、なんとなくの「なりゆき」でなんとかなってゆく。二本の足で立ち上がった原初の人類はともかくそうやって今日までの歴史を歩んできたのであり、そういう関係性=集団性を担保しようとするのはもう、人類の本能のようなものだ。

だから、1945年の敗戦後のこの国の民衆は、大日本帝国憲法による国家神道の呪縛によって人々を「結束」させようとする関係性=集団性をあっさりと捨て去った。そしてそこから、より豊かにときめき合い助け合い連携してゆく関係性=集団性のダイナミズムを生み出し、戦後復興を実現していった。

あのころのこの国は極限まで貧窮していたが、それでもベビーブームが起きた。とすれば、現在の少子化問題は、単純に経済的な理由だけでは語れない。もちろん経済的な困窮はもっとも大きな問題に違いないが、「格差社会」とか右翼主導の「教育制度」等に加えて人と人の関係や集団性が壊れてしまっていることもある。現在の経済システムや右翼政権によってそうした関係性=集団性が壊されてしまっている。その関係性=集団性が豊かに機能していれば、どんなに貧窮しても、子供はどんどん生まれてくる。

子供がどんどん生まれてくるのが、原初以来の人間性の自然なのだ。

何はともあれ、人と人の関係性が壊されてしまっている世の中なのだもの、子供が増えるわけがない。

政府が「人づくり革命」などと言い出したのは、いつごろのことだったろうか。彼らの醜悪な人間観によって、いったいどんな「人づくり」ができるというのか。総理大臣とか日本会議とかネトウヨとか、今どきの右翼の無知で恥知らずで醜悪なだけの「規範」を大きな顔をしてどんどん押し付けてくる政治支配によって、家族も教育も社会もすべて壊されてしまった。この国の伝統である「人と人が他愛なくときめき合い助け合い連携してゆく関係性=集団性」がすっかり壊されてしまった。われわれは、それを彼らから取り戻すことができるだろうか。取り戻すことができるはずだ。われわれが日本人であるかぎり、人間であるかぎり、そういう関係性=集団性がこの世から消えてなくなることはない。

 

 

「他愛なさ」こそ美しく偉大だ。他愛なくてしかも聡明で勇気のあるヒーローが待ち望まれている。他愛ない心は、美しいものに憑依する。美しいものは、この世の外にある。他愛ない心は、この世の外に向かって飛躍してゆく。そうやって人の心の「もう死んでもいい」という勢いが生まれてくる。そうやって、心や命のはたらきが活性化する。人類の歴史は、生き延びようと欲望し計画して生き残ってきたのではない。「もう死んでもいい」という勢いで命や心を活性化させながら生き残ってきたのであり、そんな「他愛なさ」を持ったヒーローが待ち望まれている。

だから、山本太郎、なのですよ。

われわれ民衆は今、山本太郎をヒーローにすることができるか、と試されている。できなければ、この国のひどい状況はますます加速してゆき、右翼が高笑いする。

このひどい状況を切りひらくのは、あの凡庸な左翼たちではない。右翼でも左翼でもないおバカで「他愛ないもの」たちが切りひらくのだ。

僕は、こざかしい右翼も左翼もごめんだ。この世界や他者の輝きに他愛なくときめいてゆくものたちを信じる。問題は単純だ。困っている人に手を差し伸べようとするのか、それとも支配し排除しようとするのか、それだけのことだ。お国のためだか何だか知らないが、あなたたちは、貧乏人から金を搾り取ってよく平気でいられるものだ。消費税をなくしたら国の経済が危うくなる、というような議論もあるらしいが、危うくなったっていいではないか。困っている人を助けることができない国なんか、滅びたっていいのだ。

「滅びてもいい」と覚悟したところから、心も命も経済も活性化する。それはもう、この宇宙の原理なのだ。

たとえば国債を発行し紙幣を刷って低所得者層の底上げをすることが国の経済の自殺行為だというのなら、それは「もう死んでもいい」という覚悟をしなければできないことだろう。だったら、覚悟をすればいいではないか。覚悟をしなければ何もできないし、社会は活性化しない。

この社会に「誰かに手を差し伸べたい」という思いが生成していなければ、この社会は活性化しない。もともと人類は、そうやって歴史を歩んできたのであり、ネアンデルタール人はみんなそう思って生きていたし、縄文人だって同じだ。彼らは、「原始呪術=アニミズム」などというものにすがりながら、生き延びようとあくせくしていたのではない。

 

 

「もう死んでもいい」という勢いで生きることは、人生の最後に死を迎えたときに慌てふためかないでそれを受け入れるための大切なトレーニングでもある。原始人や古代の民衆はみな、そのトレーニングをして生きていた。そして現代社会は、そのトレーニングを怠って動いている。

自分が生き延びることを最優先にして生きている資本家や政治家に「手を差し伸べることをしろ」といっても無駄な話だし、だまされる民衆が悪い、ということもある。

古代の民衆は、権力支配に従順であったが、そうかんたんには騙されなかった。民衆社会は、権力社会から下りてくる支配制度とは別の、民衆だけの自治のシステムや思想=世界観をちゃんと持っていた。だから、権力社会が押し付けてくる仏教に対抗して「神道」をつくっていったし、権力社会も神道と仏教を習合させる策を講じなければならなかった。

村は、村独自の自治のシステムを持っていたし、村と村の連携のシステムも機能していた。

古代の民衆は、現代の民衆よりももっと賢明で、そうかんたんには権力社会に洗脳されなかった。これはまあ世界中どこでもそうで、権力支配のことがよくわからない歴史段階であれば、そうかんたんに洗脳されようがない。

ヨーロッパでなぜ民衆革命が起きたかといえば、権力者と民衆が同じ世界観を持っていたからだろう。だから、容易に権力の座を交代することができる。

しかし古代の日本列島では、権力社会と民衆社会の世界観や集団運営のシステムが違っていた。だから、かんたんに支配されてしまうが、かんたんには洗脳されない。そういう伝統があるから、今でも「無党派層」や「無関心層」の民衆がたくさんいる。で、ひとまず民主主義の社会であるのなら、そうした洗脳されない層を結集させることができれば、政権なんかかんたんに倒すことができるに違いない。

僕も「無党派層・無関心層」のひとりであり、既存の左翼や右翼には大いに違和感がある。

とはいえ現在の状況においては、右翼・保守を名乗る者たちは押しなべて醜悪に見えるし、魅力的な知識人は左翼・リベラルの側の人が多いように思われるのだが、自分としてはこの国の伝統や天皇のことに関心があるのだから、どちらというと右翼かもしれない。だから、元一水会代表の鈴木邦男氏に対しては、そこはかとないシンパシーがないわけではない。

ただ、彼らのように、天皇に対して崇拝するほどの気持ちは僕にはない。天皇に対してだって、ひとりの民衆としてそれなりのシンパシーがあるだけであって、それは崇拝ではない。

日本人としての誇りもとくにない。日本人ではあるのだけれど、日本人や日本という国を外から眺めているような気分のほうが強く、「日本人に生まれてよかった」という気分はさらさらない。僕にとって日本人であることは、僕の運命であって、べつに誇りなんかではない。

 

 

「日本讃歌」とか「生命賛歌」とか「人間賛歌」とか「生活讃歌」とか「家族讃歌」とか、そういうバブリーな思考は趣味じゃない。人恋しくはあっても、人間にうんざりもしている。

「嘆き」や「かなしみ」を抱きすくめてゆくのが、日本列島の文化の伝統の基礎原理になっている。そこから、他愛なくときめいてゆく。無知蒙昧だから他愛ないのではない。赤ん坊が無邪気であるのは、ひといちばい深く切実に「嘆きとかなしみ」を生きている存在だからだ。

猿にこの「他愛なさ」があるか……?ないのですよ。

「他愛なさ」は、「魂の純潔」であり、「魂の純潔に対する遠いあこがれ」である。いずれにせよそれは、「嘆きとかなしみ」の上に成り立っている。

「日本人に生まれてよかった」と合唱している右翼たちの、その充足しきって弛緩してしまっている表情には「嘆きとかなしみ」がなく、「それでも日本人か」と思わせられる。

彼らの、あの気味悪い「うすら笑い」はいったい何なのだ。「腹にいちもつ」とは、まさにあのことだ。

総理大臣をはじめとする今どきの右翼たちのその「うすら笑い」と、山本太郎が街頭演説や国会質問で見せるあの純粋でひたむきな表情と、いったいどちらが人々の共感を得るだろうか。そんなの、問うまでもないことだ。

今回山本太郎が『れいわ新選組』という旗を立ち上げたことによって彼は、与党からも野党からも攻撃されて四面楚歌に陥っている。野党の面々からすれば「野党共闘に水を差す」ということだろうが、山本太郎にすれば「野党の経済政策も気に入らない」と思っているのだからしょうがない。孤立無援を恐れない、というその心意気を、おそらく多くの民衆が拍手しているのだろうし、そうやってお祭り騒ぎが盛り上がるなら、それがいちばんなのだ。「お祭り騒ぎ」こそ、この国の伝統なのだ。

山本太郎はべつに、野党共闘の足を引っ張ろうとしているのではない。有権者の四割以上、いるという、選挙に行かない「無党派層・無関心層」にその心意気を訴えているだけだろう。だから、僕のようなノンポリのミーハーも注目するようになった。

もう野党共闘なんかどうでもいい。とにかくお祭り騒ぎになって投票率が上がり、それで結果がどうなるかということを僕は見てみたい。

選挙に行かない「無党派層・無関心層」が主役になることこそ、日本列島の民衆社会の伝統なのだ。古代から祭りの賑わいの主役はいつだって、共同体の外の存在すなわちマイノリティである乞食や旅芸人や旅の僧だった。まあ、そのようなこと。彼らはマイノリティではあったが、権力社会に対するカウンターカルチャーを民衆と共有していたというか、そこにおいて民衆をリードする存在だった。

古代以来の民衆社会の歴史は、日常のいとなみではなく、非日常の「祭り」を基礎にして流れてきた。彼らにとって飯を食ったり働いたりする日常は仮のいとなみであり、そこから超出してゆく非日常の「祭り」こそが生きてあることを実感する節目節目になってきた。日本人の生は、非日常の「祭り」の上に成り立っている。それが、伝統としての「色ごとの文化」なのだ。

人々に「心の華やぎ」をもたらすのは、食うことや働くことではない。心を非日常の世界にいざなってくれる「天皇」や神社の「巫女」や「旅芸人」や「旅の僧」や「乞食」等のいわば「無用者」こそが、民衆社会の歴史をリードしてきた。

山本太郎だって出自は「芸能の民」という「無用者」であり、古代以来そういう非日常的な存在こそが民衆社会のリーダーだったのであれば、彼にはその資格があるし、民衆の心を動かすその能力と魅力がある。

あと二か月、どこまで盛り上がるだろう。

 

 

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『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

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