人類の夢と希望と願い

現在のこの国の総理大臣のように無知で無教養で性格の悪い人間が、自分がちやほやされる状況を確保しておくためには、自分に逆らったり自分を軽蔑したりする相手は徹底的に叩きつぶしてしまおうとする。総理大臣を含めたすべてのネトウヨに共通した生きる流儀である。彼らは、愛やときめきによってではなく、みずからの「憎しみ」をよりどころにして生きている。だから彼らは「嫌われ者」として人生を歩んできたし、「嫌われ者」であることから逃れていられるその充足した世界に対する執着はことさらに強く、同時に、それゆえにこそ充足の外の世界に対する「憎しみ」はなお激しくなる。彼らは、「嫌われ者」であることの「憎しみ」というか「恨みつらみ」というか「ルサンチマン」を糧として、その充足した世界を構築してゆく。

彼らは一種の偏執狂だろうと思えるが、現在はそういう人間ほど成功できる社会のシステムになっているし、現代人は多かれ少なかれみな偏執狂だともいえる。自分だけは清らかで健康だとはだれもいえないし、因果なことにそういう傾向の強い人間ほど自分だけは清らかで健康だと思っている。偏執狂とは、みずからの存在の正当性に執着することだ。

この世に正義など何もないはずなのに、どうして彼らはそんなものに執着できるのだろう。他者を排除したいのなら「正義」こそがもっとも有効なカードであり、人殺しも戦争も、「正義」の名のもとになされる。

他者とときめき合うことのできない飢餓感が、みずからの存在の正当性に執着してゆく。

「結束」しようとすることと「排除」しようとすることは一枚のコインの裏表であり、第三者を「排除」してゆくことによって「結束」が生まれてくる。「結束」してゆく集団は、「憎しみ」の上に成り立っている。

どうして「日本人に生まれてよかった」などと思うのか。そのいじましい優越感や自己の正当性に対する執着は、いったい何なのだ。それは、日本人ではないものに対する優越感や侮蔑や憎しみと一体なのだ。

自分が生きてあることなんか正当なことでもなんでもないし、自分が日本人であることなんか素晴らしいことでもなんでもない。それは、われわれの「運命」なのだ。その「運命」を「嘆き=かなしみ」とともに肯定し抱きすくめてゆくのがこの国の伝統であり、命や心はそこから活性化してゆく。

 

 

人は、「憎しみ」にとらわれたまま生きてゆくことができるだろうか。その埋め合わせとして、下は「日本人に生まれてよかった」とか上は「社会的な成功をした」というような「充足感」や「幸福感」に潜り込んでゆくのだろうが、それは心がときめき飛躍してゆくという生き生きした動きを失い停滞し澱んでいる状態でもある。

明治維新から太平洋戦争の敗戦までのこの国は、そうした「憎しみ」と「充足感」を基礎にした不幸な歴史を歩んできた。その停滞し澱んだ「国体=国柄」の果てに自家中毒を起こし、侵略と戦争を繰り返すことにのめり込んでいったあげくに、あのみじめで無残な敗戦を迎えねばならなかった。おそらくそれはもう、歴史の必然的な運命だった。

明治維新以後のこの国は、内乱の歴史としてはじまった。元下級武士による反乱や、民衆による一揆のような米騒動などが、野火のように列島中に広がっていった。それはまさしく国として自家中毒を起こしている状態だったのであり、そのことは夏目漱石のような本格的な知識人から名もない庶民まで、多くの人々が気付いていることでもあった。そしてその混乱状態に一気にけりをつけたのが、日清戦争を起こして国民を結束させてゆくという事態だったのであり、そこからはもう、たえず戦争していないと国が成り立たないというような自家中毒の連鎖に陥っていった。

明治維新以後のこの国は自家中毒の歴史だったのであり、それは、あのみじめな敗戦を迎えるまで収束することはなかった。

そうして敗戦直後のこの国は、経済的な困窮を極めた上にナショナリズムのもとに結束してゆくという「充足感」も失った代わりに、「憎しみ」を糧にして生きるという自家中毒からも解放された。

関東大震災のときは、人々の心がヘイトスピーチの流言飛語によって自家中毒を起こし、「朝鮮人虐殺事件」のようなことがあちこちで起きた。しかし戦後の東日本大震災のときは、一時的にせよ、だれもがときめき合い助け合い連携してゆく関係が生まれた。同じ日本人なのに、どうしてこんな違いが生まれるのか。誰だって、あんな日本人にはなりたくないし、日本人であるだけで素晴らしいなどということはない。百田尚樹とか櫻井よしことか杉田水脈とか、あんな狡猾で執念深い日本人のどこが素晴らしいのか。日本人だって、「嫌われ者」はいくらでもいる。

何が「日本人に生まれてよかった」か?ばかばかしい。

彼らは、「日本人に生まれてよかった」といわない日本人のことを「反日」などといって排除しようとする。日本人を嫌いな日本人が「日本人に生まれてよかった」などというのは、とんだお笑い草だ。そういいたければ、すべての日本人を愛せ。

 

 

現在のこの国の政治経済の支配層の多くは右翼思想の持主らしく、戦前回帰志向の言説が幅を利かせている。彼らは、「憎しみ」と「充足感」の自家中毒の中で生きている。自分の充足が大事であるのなら、他人の不幸など知ったことではない。むしろ他人が不幸であることによって、みずからの優越・充足をより確かに実感できる。まあそういうサディズムが、支配階層だけでなく、支配される者たちのあいだにまで蔓延してしまっている。サディズムを培養するような社会の構造になってしまっているのだろう。このままではだめだ、多くの人々がますます不幸になってゆく……と気づいていても、そうかんたんには変わりそうもない、という絶望的な気分が先に立つ。とはいえ、人の世が人の世であるかぎり変わらないはずがない、とも思える。

そりゃあ、いつになったら変わるのか、という暗澹たる気持ちもないわけではないが、人はつねに心の底で「究極の未来(あるいは理想)」を夢見ている存在であり、そうやってたえず「現在」が否定されながら時代は移り変わってゆく。究極の未来を夢見ながら現在の不条理に異を唱える者は必ず現れてくるし、それにみんなが賛同するお祭り騒ぎのムーブメントも起きてこないはずがない。

人はみな、戦争のない世界を夢見ている。それがどれほど現在の状況にそぐわないものであったとしても、人として究極の未来を夢見ることを宣言した日本国憲法第九条は尊いのだ。

それは人類の悲願であり、世界にひとつくらいは究極の未来=理想を夢見る憲法があってもいいではないか。

究極の未来を夢見るのは人間の本性なのだし、人はみな究極の未来から試されて生きている。究極の未来を夢見ることを失ったら、人間ではなくなってしまう。

どんなにいびつな社会になったとしても、人の心から人間性の本質というか究極のはたらきが消えてなくなることはない。なんのかのといっても、人類の文明社会の歴史は、さまざまな紆余曲折はあったとしても、けっきょくは「民主主義」に向かって流れてきた。なぜなら原始時代は直接民主主義だったし、それが、いつの時代も人が夢見ている究極の社会のかたちでもある。

 

 

人の心はつねに、究極の未来=理想から照射されている。それは、社会のかたちだけの話ではない、誰の心の中にも夢や希望や願いはある。

では、人としての根源にして究極の夢や希望や願いとは何か?もちろん誰ってこんな大問題の答えなんかそうかんたんに導き出せるものではないが、ひとまずわれわれが必ず死ぬことを自覚している存在であるということにおいては、「今ここ」に生きてある事態をどう取り扱うかということはそのひとつだといえるのかもしれない。

「生き延びたい」ということではない。なぜならわれわれは「すでに生きてある」のであり、「すでに生きてある」状態においてしか意識がはたらかないのだから、「生き延びたい」という夢や希望や願いが根源的な無意識としてはたらいていることは原理的に成り立たない。

それはあくまで「今ここに生きてあることをどう取り扱うか」という問題なのだ。そしてそれは、「どう死んでゆくか」という問題でもある。

われわれは「必ず死ぬ」ということはわかっているが、「死とは何か」という問題は永久に解くことはできない。この世でもっとも知りたいことなのに、永久にわからない。その「わからない」ということとどう和解してゆくことができるか。

それは、「わかりたい」ということではない。「わかる」ことは、あらかじめ断念されている。「わかりたいのにわかることができない」という、その「わからない」ことと和解したいのだ。おそらく人類は、そうやって「無=ゼロ」という概念を発見した。

であれば、人類の根源にして究極の夢や希望や願いは、「死」がわかることであると同時に、「永久にわからない」ことと和解することでもある、ということになる。

「わからない」ことほど人の心を惹きつけるものはない。すなわち「不思議」「神秘」「謎」、人の心の夢や希望や願いは、そういうところに向かってはたらいているし、そこにおいてこそ心が活性化する。

自分が「消えてゆく」心地であるという女のオルガスムスは、ようするに「何もかもわからなくなる」心地であり、その「不思議」「神秘」「謎」に引き寄せられてゆく体験だ。だから、昔の人は「死んだら何もない黄泉の国に行く」といった。それは「色ごとの文化」の国の死生観であり、どうせ「死後の世界」などわからないのだし、そういうことにしておくことこそがもっとも「死=わからない」ことと和解できる思考法であり、もっとも深く腑に落ちるイメージだった。

彼らは、「死後の世界」など問わなかった。彼らにとってのもっとも切実な問題は「死んでゆく」ことにあり、そのもっとも心地よい体験として、自分が「消えてゆく」ビジョン(=オルガスムス)をイメージしていった。

古代人にとっての「黄泉の国」は「オルガスムス」のイメージであり、そこで「消えてゆく」ということを果たす。「消えてゆく」ことは「『かみ』になる」こと。神道における「かみ」は「存在しない」のであり、「存在しない」ことが「かみ」であることの証しなのだ。もともとの神道は、そういう逆説的な思考の上に成り立っている。

必ず死んでゆく存在である人の夢や希望や願いは、根源的には「無=ない」ということに向かってはたらいている。

 

 

人がお金を欲しがるのはそれを使うためだし、使うことはお金が無くなってしまうことだ。そうやって「無=ない」に向かう。そして、自分がお金を使ってしまうことはそれがだれかの収入になるということであり、このことを大げさにいえば、自分の命を差し出して他者の命を救う、ということになる。つまり、たったこれだけのことにだって、人の夢や希望や願いの根源かつ究極のかたちがはたらいている。

人の夢や希望や願いの根源かつ究極は、自分が「消えてゆく」ことであり、他者や世界が「存在する=出現する」ことにある。そうやって人は、セックスをし、子供を産む。世界や他者の出現に驚きときめき感動することは、自分が「消えてゆく」心地とともに体験される。

世界や他者の輝きにときめくことは、自分が消えてゆく体験である。そうやって自分が消えてゆく体験がエクスタシーになっている。自分が消えてゆくことのエクスタシーには、世界や他者の輝きにときめいてゆく体験がともなっている。そうやって人は、自分が消えてゆくエクスタシーとして、他者の輝きにときめき、他者を助け生きさせようとする。

人の夢や希望や願いの根源かつ究極は、いわゆる「自己実現」ではなく、「自分が消えてゆく」体験とともに、他者の輝きにときめき助け生きさせようとすることにある。すなわち他者に手を差し伸べることこそ夢や希望や願いの根源かつ究極のかたちであり、そこでこそもっとも深く豊かなエクスタシーが体験されている。

「自分が死んでゆくことと引き換えに他者を生きさせる」……それはべつに倫理道徳の話でもなんでもなく、生きものの命のはたらきの本質の問題なのだ。

息を吸うことはひとまず命のいとなみであるが、それによって息を吸うという命のいとなみをする必要がなくなるわけで、そのとき生きものは「生きていない状態になっている」ともいえる。生きものは、死に向かう夢や希望や願いとともに「息を吸う」といういとなみをする。息を吸えば、生きてあることを忘れてしまっている。それは、死んでいる状態だともいえる。生きものは、生きてあることを忘れるために、生きるいとなみをする。すなわち夢や希望や願いの本質は、「死に向かう」ことにある。

「生き延びるため」などと安直にいってもらいたくない。命のはたらきも心のはたらきも、「死に向かう」かたちで活性化してゆく。そうやって人類の歴史は進化発展してきたのであり、進化とは「死に向かう」動きなのだ。

八百屋で大根を買うことだって、「死に向かう」いとなみなのだ。

人は、夢や希望や願いを持たないですむ状態に向かって夢や希望や願いを抱く。

神社でおみくじを引いたり絵馬に願い事を書いたりするのは、夢や希望や願いを抱くことから解放されたいからであり、それほどに病気や受験勉強が苦痛だからだろう。生きてあることの「苦痛」が夢や希望や願いを語らせる。そして、死んだらすべての苦痛から解放される。

 

 

「消えてゆく」ことは「救済」なのだ。だから日本列島の古代人は、死んだら何もない「黄泉の国」に行く、といった。小林秀雄は「そう考えることがよりよく生きるための作法である」というようなことをいったが、そんな単純な話ではない。古代人にとって「黄泉の国」は「死んでゆく過程」であり、そこを通過することによってはじめて「死=消えてなくなる」ということにいたる、と考えた。

古事記の「イザナミ」の話はもちろんのこと、能の「怨霊」の話にせよ、それは死んでゆく過程としての「黄泉の国」のことであって、「死後の世界」を語っているのではない。

「もがり」は、日本列島のもっとも古い埋葬方法のひとつであるといわれている。それは、死体をいったん山の中等に放置しておいて骨だけになってから埋葬する、というものであるが、「黄泉の国」というイメージはおそらくそこからきている。彼らにとって「死体」はまだ「死」そのものではなかった。「死体」が「けがれ」であると認識されていたのはそのためであり、「死体」がこの生の延長であるということは、この生そのものが「けがれ」であると認識していたことを意味する。生きることは苦痛にあえいだり夢や希望や願いを語ったりすることであり、そのこと自体が「けがれ」なのだ。そうして、「きれいさっぱり消えてなくなる」ことを「みそぎ」といった。彼らにとって「死体」は「けがれ」であるが、何もかも消えてなくなる体験としての「死」そのものは「みそぎ」だった。そしてこれは、「消えてゆく」ことのエクスタシーの上に成り立った「色ごとの文化」でもある。

古代人は「言挙げしない」といった。そんなことにも「無=ない」に向かって「消えてゆく」ことに対する夢や希望や願いが託されている。

 

 

「色ごと」と「セックス」、すなわち「情交」と「性交」、この二つは、同じであって同じではない。「色ごと=情交」は「人情の機微」の上に成り立っている。

今どきのネトウヨたちは「人情の機微」に鈍感だから、無神経なヘイトスピーチに熱中する。彼らは「正義」を振りかざして人を裁くようなことばかりいう。そんなことをいっても「人情の機微」というものがあるだろうという話だが、彼らには通じない。彼らは、「人情の機微」の世界を生きることができない。「嫌われ者」として生きてきたから、「人情の機微」の世界を憎んでいる。彼らは、日本列島の「民衆社会の伝統」から逸脱してしまっている者たちであり、逸脱して「権力社会の伝統」にすり寄っていっている。

日本列島の民衆社会における人と人の関係の伝統は「人情の機微」の上に成り立っているから、「正義」を振りかざすことが流儀の権力社会に対して無関心無抵抗になりがちで、大和朝廷の発生から現在までの1500年を、権力社会のやりたい放題に支配されてきた。ともあれその間民衆は、権力社会にたやすく支配されても、権力社会にすり寄ってゆくということはしなかった。

まあネトウヨなんか、この国の伝統でもなんでもなく、明治以降の近代合理主義の洗礼を受けたことによって産み落とされた極めていびつな鬼っ子のような存在なのだ。

江戸時代以前の日本列島には、ネトウヨのように「憎しみ」を糧にして生きている民衆なんてほとんどいなかった。

ネトウヨが集まって「わび・さび」の文化が生まれてくることはあり得ない。彼らは、みずからの「憎しみ」を消し去るすべ、すなわち「みそぎ」の作法を持っていない。だから、歴史修正主義を掲げて中国・朝鮮を憎み続けることをやめない。そうしないと生きられないのだから気の毒ではあるのだが、大いにはた迷惑でもある。日本人は、彼らのように生きる伝統を持っていない。

中国・朝鮮に謝るべきかどうかはわからない。江戸時代以前の武士は、謝って許しを乞う代わりに、腹を切った。それは、もっと過激で本質的な「贖罪」の方法だった。そこのところは、「神に懺悔して許してもらう」という西洋の伝統とはちょっと違う。日本列島には、そういう「神」はいない。

日本列島の「かみ」は、許すことも裁くこともしない。何もしない。「かみ」は、隠れている。すなわち「存在しない」対象なのだから、何もしない。「消えてゆく」ことのエクスタシーを基礎にした「色ごとの文化」においては、そのようにして「かみ」がイメージされていた。

 

 

ネトウヨは「自己充足=自我の拡大」を求める。それが彼らの夢や希望や願いであるらしい。彼らの思考は、バブリーだ。空疎な張りぼての虎、砂の楼閣。軍備拡大に突き進んだ明治以降の大日本帝国もまさにそのような動きで、夏目漱石をはじめとする良識的な人々はうんざりしていた。こんなことでは日本列島の伝統が壊れてしまう、と嘆いた。

日本列島の伝統としての「色ごと」の文化においては、「消えてゆく=自己消失」のエクスタシーが夢や希望や願いになっている。一方ネトウヨたちの思考様式はもう、根本的にそこから外れてしまっている。そういう者たちが今、「日本人に生まれてよかった」と大合唱しているのだから、笑わせてくれる。

人としての夢や希望や願いの根源と究極すなわち本質は、「自己充足=自我の拡大」にあるのか?そうではないだろう。この世界が輝いていることこそ人としての根源かつ究極の夢や希望や願いであり、心は、その輝きとの「出会いのときめき」や「別れのかなしみ」として活性化する。それは、自己が「消えてゆく」体験なのだ。人としての夢や希望や願いの本質は、「消失点(カタストロフィ)」に向かってはたらいている。世界の輝きは、そこから現れ、そこに向かって消えてゆく。まあこの話はちょっとややこしくて、「日本人に生まれてよかった」などと合唱している連中に説明するのはとても困難であるのだが、とにかくそういうことなのだ。彼らのように「憎しみ」を基礎にして生きている者たちの夢や希望や願いの対象は「正義」であり、彼らが願う日本人であることも生き延びることも社会的に成功することも、すべては正義の側に立つことの自己の充足や拡大にある。それに対して世界や他者との出会いや別れにときめいたりかなしんだりして生きている者たちは、「世界や他者の輝き」それ自体が夢や希望や願いになっている。

今どきのネトウヨや右翼政治家や多くの資本家たちは、自己の充足や拡大を目指して生きている。彼らにとって世界や他者はくすんでいるほうが満足なのだし、そういう存在だとみなしたがる。だから、民衆が貧困や差別であえいでいるといってもなんとも思わない。それどころか、それこそが彼らの望むところだというか、その自己の充足や拡大の根拠になっている。

民衆を貧困におとしいれ差別してゆくことは、彼らの正義なのだ。だから、消費税を上げ年金や生活保護費を削る等々の民衆を抑圧する施策を進めることに、何のためらいもない。彼らの心の底には、民衆に対する悪意=憎しみが巣食っている。民衆の中にも、民衆に対する悪意=憎しみをもっとあからさまに抱いている者がいる。それがネトウヨで、彼らは排除することの自己充足に耽溺しているばかりで、「別れのかなしみ」というものがない。「別れのかなしみ」がないから「出会いのときめき」もない。「日本人」というすでにある予定調和の世界で自己充足していたいらしい。権力者や富裕層の社会でも「参入障壁」をつくって、つねに排他的である。

まあ「日本人」であることはもっとも手軽で確実な「既得権益」で、それだけは貧しい民衆にも与えられている。

自分が他人よりも優位であることを確認して安心を得ようとするなんてまったくいじましい話だが、差別があり競争がある社会に生きていれば、だれだってそういう視線がまったくないとはいえない。ないとはいえないがしかし、そのことを生きるためのよりどころにしているとしたら、それは病んでいる。

 

 

たとえごく少数であっても、ひたむきに世界や他者が輝いていてほしいと願っている人はいるし、そこにこそ人間性の本質がある。だから少数意見は大切だし、だれの心の奥にもそういう願いは息づいている。世界や輝いていなければ、心は活性化しない。

学問や芸術や芸能や職人技等々、人類の文化はつねに「無用者」であるマイノリティにリードされて進化発展してきた。そして人類の普遍的な悲願は赤ん坊や病人をはじめとする「生きられないこの世のもっとも弱いもの」を生きさせることにあり、人類の歴史そのものがそうしたマイノリティにリードされて流れ、進化発展してきたのだ。

人類の夢や希望や願いの根源は、わが身が「消えてゆく」ことのエクスタシー=カタルシス、とともに、生きられない他者に手を差し伸べようとすることにある。

多くの人は、あのネトウヨたちのようなどんよりした心で生きたいとは思わない。どんよりした心で生きている当人だって、そんなことは願っていない。

人は根源において自己の充足を願っているのではない。充足できないでくるおしくなやましく動いているのが人の心の本質で、どうしてそうなってしまうかというと、自分を忘れて世界や他者の輝きにときめいてしまう性質を持っているからだ。どうして自分を忘れてときめいてしまうのかといえば、人はだれもが存在そのものにおいて「受苦性」を追っているからだ。だから。「消えてゆく」ことがエクスタシーになる。

人はだれもが「消えてゆきたい」存在であり、人としての根源的な夢や希望や願いはそこにこそある。

大震災で生き残ったおばあさんが、死んでいった若い人のことを思って「私が代わってやりたかった」という。これこそもっとも根源的で本質異的な夢や希望や願いなのだ。江戸時代の女房が、子供や亭主のために必死に「お百度参り」をする。夢や希望や願いのために「酒断ち」や「茶断ち」をする。これだって、「消えてゆこうとする衝動」の上に発想されている。

人が人であるかぎり、「誰かに手を差し伸べたい」という衝動は、どんなに貧しく弱いものにも宿っている。この生は、そんな「夢や希望や願い」が生まれてくるような仕組みになっているのだ。それこそが人類の根源にして究極の「悲願」であり、それをどれだけ結集し組織してゆくことができるか、と山本太郎が今がんばっている。

 

 

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『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。