バブル景気の継続と崩壊

 

われわれ日本人は、あのバブル景気の時代に何を得て、何を失ったのか?

1980年代のあのころの活気は、今はもうない。90年代初頭のバブル崩壊とともに時代の景気状況は一変したのかもしれない。

1950年代の高校大学出の初任給は、おおよそ1万円くらいだった。それが60年代には3万円くらいになり、70年代には10万円くらいまで跳ね上がり、80年代になると20万円前後になった。それが高度経済成長の時代だったわけだが、90年代に入ってバブル崩壊が起き、その後の30年はもう、ほとんど増えていない。今の60歳のお父さんの若いころの初任給と息子の今の初任給がほとんど同じであるらしい。30年間のデフレ状況が続いているということで、バブル景気までのあのころとはまるで違う時代状況になっている。違うのだが、しかし、今なおバブル景気のままで生きている者たちもいて、下層の者たちの資産がどんどんそこに吸い上げられてゆくような社会の構造になっている。社会全体の景気は悪くなったが、消費税増税や非正規雇用の増加や高所得者の優遇税制等々によって、富裕層においては今なおバブル景気が続いている。

富裕層であることが悪だということもないが、権力者と資本家が結託して徹底的に貧しい者たちから搾り尽くして平気でいられるその心や社会状況は「病んでいる」としかいいようがない。

たとえば、「生き延びる」ことや「所有権を守る(追求する)」ことが正義であると合意されている社会になれば、富裕層というポジションを守ろうとしたり、より富裕になろうとすることは正義であるし、貧困層から搾り取ることだって平気になってしまう。

人は、「正義」の名のもとに戦争や人殺しだってしてしまうのだもの、貧乏人から搾り取るくらいなんの後ろめたさもない。貧乏人を殺すわけではない。貧乏人が勝手に死んでゆくだけのこと。

 

 

バブル崩壊以後の貧乏人にとってのこの30年は悪夢のような年月だったはずだが、因果なことに人々はあまり骨身にしみていない。というか、自分が貧乏であるのは国の政治のせいだとは思っていない。

政治に無関心であるのはこの国の伝統だ。また、どんな運命でも受け入れてしまうのは、普遍的な人間性である。そのようにして国の政治はかんたんには変わらないのだが、何かのはずみであっさりと変わったりもする。何しろ民主主義なのだから、2019年のときのように政治に無関心な者たちが投票行動を起こせば、あっさり政権が交代してしまう。

そしてあのときの民主党支持は、自民党に対する幻滅とセットになっていた。

ときめく心は、幻滅する心でもある。民衆社会はときめく心の上に成り立っているからこそ「嫌われ者」が生まれてしまうし、そのようにして権力社会に幻滅してもいる。

現在のこの国の総理大臣は、人から幻滅され嫌われながら生きてきた典型であるし、そういう者たちが寄り集まって権力社会を構成している。だから彼らは、執拗にマスコミや民衆に対する言論規制を仕掛けてくる。普通にしていれば人から幻滅され嫌われてしまう者たちだもの、それはもう彼らの本能的な処世術なのだ。

ネトウヨたちが現在の政権にすり寄ってゆくのも、幻滅され嫌われて生きてきた者たちの本能なのだろうし、そのような者たちが出世する世の中になってしまっている。

ネトウヨたちだけでなく、資本家や政治家たちだって、一般の民衆のことを「何も考えていない」というよりも「悪意=憎しみ」を持っているのだ。口では愛やいたわりがどうのといっても、本能的な部分においては「悪意=憎しみ」が作動している。だって彼らは「嫌われ者」として生きてきたのだもの。「嫌われ者」としてのルサンチマンとして生きてきて、その中の一部が出世の階段を上ってゆく。

もちろん、みんなから好かれて生きてきた人だって、その魅力や能力によって出世する。

しかしこの社会のシステムそのものにおいて「嫌われ者のルサンチマン」が作動しているのであり、多かれ少なかれだれもがそうした醜さというか病理を抱えてしまっている。

生まれたばかりの子供のように純粋で清らかな人なんて、めったにいない。と同時に、だれの中にもそうした「魂の純潔」に対する遠いあこがれが宿っているのであり、人はそこにおいて感激し涙している。

生きてゆくことは汚れてゆくことであり、その「かなしみ」のもとに「魂の純潔に対する遠いあこがれ」が息づいている。

だから僕は、「憎しみ」よりも「かなしみ」を生きる者でありたいと願っている。

 

 

ネトウヨヘイトスピーチに対する幻滅の声はどんどん高まっているし、世界的にも一部の富裕層が多数の貧困層から搾取し続ける現在の新自由主義的な社会システムを拒絶する民衆の動きもあちこちから起きてきた。

貧しい者たちはますます貧しくなって、富裕層はますます富裕になってゆく……こんな世の中が健全であるはずがない。一部のユダヤ人資本家をはじめとして、彼らは「嫌われ者」であることのルサンチマンをバネとして富裕層であり続けているわけで、彼らに人類愛などというものを求めても無駄な話で、彼らの存在の根拠は「人間に対する憎しみ」の上に成り立っている。そうしてその「憎しみ」は、ネオナチとかネトウヨと呼ばれる貧困層にまで及んでいる。

人間社会の基本は、「生きられない弱いものを生きさせようとする」ことの上に成り立っている。そうやって人類の歴史は進化してきたのであり、べつに心や体が強くなってきたのではない。現代人の心や体は、昔の人よりずっと脆弱ではないか。心も体も、かんたんに傷つき病んでしまう。人間の赤ん坊は、猿や犬や猫よりもずっと生きる能力を持たない存在である。それでも人間は、それらの存在を生きさせることができる。そうやって人類史は進化発展したのだ。

「生きられないこの世のもっとも弱いもの」を生きさせることができないで、どうして人間と呼ぶことができようか……まあ山本太郎はそう主張しているのであり、それこそが人類普遍の「夢や希望や願い」なのだ。それは、いつどんな時代においても、人類普遍の「本能=無意識」として、あるいは社会の「通奏低音=地下水脈」として、絶えることなく流れ続けている。

 

 

けっきょく人がいちばん感動するのは、ひたむきに他者に手を差し伸べようとしている姿なのだし、だれだってそういうことをしたいと心の底で思っている。少なくとももっとも魅力的な政治家とはそういう存在であり、自分に利益を与えてくれるとか、そういうことではない。

言い換えれば、自分に利益があるとかないとか、そんな損得勘定(=コスト・パフォーマンス)で政治家を選ぶなよ、という話である。選挙民は感激できる心を持つべきだし、政治家は感激させる心意気をみせてみろ、ということだ。

現在の投票行動のほとんどが損得勘定でなされているのだとしたら、それをしない者たちは良くも悪くもそういう意識が薄いことを意味する。言い換えれば、近代的な合理精神が薄い、ということ。それが日本文化の伝統、すなわち「色ごとの文化」であり、それが普遍的な若者の気質だともいえる。

損得勘定では動かない者たちの心を動かすことができなければ、投票率は上がらない。もちろんだれの中にも損得勘定はあるが、日本人の多くはそれを政治に求めていない。損得は自分の運命の範疇のことだと思っている。だからどんなに損得のことが気になっても、政治に対する関心は最初から薄い。

世の「無関心層」や「無党派層」は、「感激する」という体験がなければ選挙に参加しない。山本太郎は今、その「誰かに手を差し伸べたい」という純粋でひたむきな心を込めた演説によって、選挙に行かない人々を感激させている。新聞の調査によれば、「れいわ新選組」の支持率が10パーセントになろうとしているらしい。選挙がはじまれば、もっと増えるに違いない。

世の右翼や左翼が慌てているらしい。

民衆の動きが盛り上がるのは、「損得勘定=コストパフォーマンス」によってではない。「もう死んでもいい」という勢いで人と人が他愛なくときめき合い助け合う「祭りの賑わい」に向かって盛り上がってゆく。そういう勢いが起これば、損得勘定に終始していた既成の選挙システムを凌駕してしまう。

消費税廃止の政策を掲げながら山本太郎は、「みんなでときめき合い助け合ってゆく社会をつくろうよ」と訴えている。損得勘定の政策を掲げながら、損得勘定を超えてゆこうとしている。その政策が正しいかどうかはやってみないとわからない……ということは、だれもが思っている。人々がそれでもそれを信じるのは、「みんなでときめき合い助け合う社会」が実現することを願っているからだ。

この世にごく少数の富裕層と多数の貧困層が存在するのは、社会全体のシステムとして、「憎しみ」とともに他者を排除しながら生き延びようとする損得勘定がはたらいているからだ。「憎しみ」による「分断」ということがはたらいていなければ、派遣社員を大量に生み出す社会などつくれるはずがない。

「正義」とは、「憎しみ」の別名なのだ。

この国の総理大臣が息を吐くように嘘を並べ立てることができるのも、官僚たちが統計を改竄したり文書を破棄したりすることができるのも、自分たちのもとに「正義」があると思っているからだ。

人と人が他愛なくときめき合い助け合う社会は「正義」の彼方にあり、そこに向かって「祭りの賑わい」が盛り上がってゆく。

前回の衆議院選挙のときの枝野幸男と今回の選挙の山本太郎と、二度続けて一人で立ち上がった政治家に向かって風が吹いている。それが何を意味するかといえば、人々は今、あのフランス革命のときの先頭に立って民衆を率いた「自由の女神」のような存在を求めている、ということだろうか。

この国の民衆は、大和朝廷の発生以来の1500年を国の政治に無関心な歴史を歩んできた。そうしてようやく今、民主主義というものに目覚めつつあるのだろうか。

 

 

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初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

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