人類の悲願

山本太郎現象は本物か」という記事が最新の週刊プレイボーイに載った。やはり確実に世評は盛り上がってきている。最貧層の底上げをするために今は大幅な財政出動をする必要があると主張する彼は、アメリカのサンダース大統領候補と同様に、最近話題の「MMT(モダン・マネタリー・セオリー=現代貨幣理論)」を肯定しているらしい。それが正しいかどうかということなど僕にはわからないし、判断しようというつもりもない。多くの学者の間で賛否両論に分かれているのだから、けっきょくやってみないとわからない、ということだろうし、やる度胸があるかないかの問題でもあるのだろう。

すべての予見の成否は後になってからわかるだけで、あらかじめの否定論はいつだって出てくる。

経済学者のいうことなんか当たるも八卦で、ほとんどは予測通りになっていないし、たとえ不景気になっても自分たちの現在の既得権益を守ろうとする者たちだっていて、確信犯で不景気にしているということもある。

日本中に大型店舗の進出を展開しているグローバル企業によって、地元の小売店がどんどん倒れてゆき、シャッター街が増える一方の地方はすっかり疲弊してしまっている。そうして人口が減少してゆけばやがて大型店舗も撤退してゆき、寒々とした景色があとに残る。その延長で今、水道民営化とかカジノ法案等々、さらに外国資本に国を売り渡している。この国は、バブル崩壊後の30年を、そんなことばかり繰り返してきた。その結果として人の心はますます内向的になってゆき、ヘイトスピーチが幅を利かせ、「日本人に生まれてよかった」などという愚にもつかない感想を合唱するようになってきた。

ここでいう「内向き」とは、自意識過剰になって自分が生き延びることに執着しているということであり、山本太郎流にいえば、そうやって愚かな国の政治に追い詰められながらだれもが愛を喪失してしまっているからこそ、ときめき合い助け合う愛こそが現在のこのひどい状況をひっくり返す力になる、ということだろうか。

何はともあれ、人々の心から人間性の自然としての「ときめき合い助け合う心」が消えてなくなることはない。

 

原初の人類が二本の足で立ち上がったことは、「生き延びるため」ではなく、逆にその目的を捨て、みんなで「ときめき合い助け合う」というかたちで起きてきたのであり、そういう集団性にめざめていったのが「直立二足歩行の起源」という体験だったのだ。まあこのことを説明しようとするときりがなく長くなってしまうのだが、とにかくそういうことだ。

現在の山本太郎の街宣活動が人々の心を揺さぶるのは、その純粋でひたむきな心映えが伝わるからであり、それは、人間性の自然としてだれの中にも「ときめき合い助け合う」社会であればという願いが息づいていることを意味する。また、そういう願いが避けがたく起きてくるようなひどい状況もある。

現在は、総理大臣から下層のネトウヨまでの、人と人の関係を差別し分断するヘイトスピーチやデマのフェイクニュースが許されるひどい状況であったほうがいいと思うような者たちも一定数いるわけで、そこがなやましいところだ。

ヘイトスピーチフェイクニュースが存在するということは、「表現の自由」とか「趣味の問題」とか「寛容な多様性」というような名のもとに許されるべきことではない。それらは極めて不自然で非人間的な現象であり、ないほうがいいに決まっている。ましてやそれらが支配権力に守られて存在しているなんて異様・異常な事態だ。

ヘイトスピーチフェイクニュースは、許されることではない。徹底的に抵抗しなければならない。抵抗しなければ、戦争や虐殺に邁進するナチスドイツや大日本帝国主義のような世の中になってしまう。そういう支配権力にもたれかかったヘイトスピーチフェイクニュースがはびこっていいはずがないだろう。

山本太郎の人気が高まっているということは、この世界からヘイトスピーチがなくなることの希望にもなる。もしも彼が総理大臣になったら、今のネトウヨはたよるべき権力を失って、半分以上はどこかに消えてしまうにちがいない。

いじめをするものは、いじめをしてもいいのだという思いがあるし、現在の権力はいじめの装置になっている。資本家が自己利益を追求して貧しいものから搾取するのが正当な権利として横行している世の中で、いじめやヘイトスピーチをするなといってもせんない話ではないか。それは、世の中の空気感の問題でもある。彼らはそうやって人を憎んだりさげすんだりすることを、「正当な権利=正義」だと思っている。

何が「寛容な心を持て」か。この世の中からヘイトスピーチがなくなることを願ったらいけないのか?僕はべつにだれを憎むというわけでもないが、ネトウヨたちのヒットラー的なあの醜悪極まりない言説や扇動なんかこの世から抹殺してしまえばいいのに、と思う。それこそが人類の悲願ではないか。

山本太郎が総理大臣になればというか、だれもが彼の街宣に感動し応援するようになれば、少しはましな世の中になるのだろうな、と思う。彼の存在の向こうに人類の悲願が横たわっている。

差別のない世界を願ったらいけないのか?

戦争のない世界を想像したらいけないのか?

人と人が他愛なくときめき合い助け合う世界を夢見たらいけないのか?

夢見ることができなくなってしまったこの世界の中で、「現実を直視せよ」と上から目線でさかしらにのたまうことが、そんなに偉いのか?

言葉で人を殺しにかかるようなヘイトスピーチが許されていいのか?

彼らの言説は、新自由主義の政治経済の支配権力にもたれかかってゆくことの上に成り立っている。

われわれがあんな醜悪で凶暴な差別主義者に負けることは、人間の魂の尊厳が滅びることだし、貧しい者たちが富裕層からいいように簒奪される現在の世界の状況が永遠に続くということでもある。それでいいのか……?

 

 

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キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。