れいわ新選組は新しい時代を切りひらくことができるか

れいわ新選組は今回の選挙の台風の目になれるだろうか。

政治や選挙に詳しい人たちは、わかったような顔で、せいぜい2~3議席とるのがやっとだろう、と口をそろえていっている。

しかし世の中は、すべて彼らのいう通りに動いているわけではない。

明日のことなんか、だれにもわからない。

2年前に枝野旋風が起きた選挙のときでも、最初は現職以外に当選するのは数名程度だろうといわれていた。だが、いざふたを開けてみれば40人以上の新人が当選し、比例票も1千万を超えていた。このことを、いったい世の選挙通の誰が予想しただろうか。選挙期間中にどんどん支持率が上がってゆき、彼らはその数字をもとに最終的な予測をしたに過ぎなかった。

まああのときの立憲民主党には最初から大物の現職議員が数人いて正式な「政党」として認められていたから選挙期間中もそれなりにマスコミに露出していたが、今回の現職議員が山本太郎ひとりだけのれいわ新選組は、今のところネット界隈で騒がれているだけでマスコミからはほとんど無視されている。そういうハンデキャップはあるが、しかし、前回の枝野幸男よりも山本太郎のキャラクターのほうが外見的にも人柄的にもずっと華があるし、演説の説得力においても負けていない。そして他の候補者たちもそれぞれが既成の政治家にはない人間的な魅力をそなえており、聴衆の心をわくわくさせてくれている。そういう意味で、まったく新しい選挙の風を吹かせているともいえる。

というわけで、この国のネット情報網がどれだけ定着しているかということが試されてもいる。

フランスのイエローベスト運動も香港の100万人デモも、ネット情報を基礎にして起きている。

 

 

現在の世界の政治や経済を支配する者たちは、腐り果てている。どうしてこんなになってしまったのだろう。この国はとくにひどいのかもしれない。民衆が権力に従順で選挙にも行かないお国柄だから、支配者たちのやりたい放題になっている。総理大臣も資本家も官僚も、まともな人間とは思えない。人間はもともとそんな存在ではないはずなのに、この世の中に人間に対する憎しみと支配欲が蔓延してしまっている。憎しみが駆動していなければ、こんなにひどくなるはずがない。今やその憎しみはだれの中にもしみ込んできている。だからあのような人間たちが登場してくるのだろうし、民衆社会の中にだって、憎しみに駆り立てられたセクハラやパワハラやDV等が渦巻いている、

憎しみの水源は、「恐怖」にある。だから彼らは、人々に恐怖を植え付けて支配しようとする。

彼らにとって何が恐怖なのか?それは、人から見放されることだ。

親に愛されていない子供は、親から見放されることにおびえている。

嫌われ者にとって一番怖いのは、人から見放されることだ。それはもう、集団をつくる生きものである人間においては、普遍的根源的本能的な恐怖であるのかもしれない。その恐怖をもとにして近代文明は、競争社会を加速させてきた。競争に勝たなければ人から見放される……という恐怖。

と同時に、集団をつくる生きものである人間は、普遍的根源的本能的に人から見放されることを怖がっていない存在であるともいえる。それが人間性の自然であるのかもしれない。

だれの中にも、人から見放されることの恐怖・警戒心と、見放されることを何も心配していない他愛なく無防備な心の両方が混在している。まあ、友達や恋人と一緒にいれば無防備になれるし、それでも警戒心を捨てきれないのは病んでいる状態だろう。そして警戒しているぶんだけ心も体もこわばって世界にうまく反応できない。

シマウマは、ライオンのそばで悠然と草を食んでいる。しかし無防備だからこそ素早く豊かに反応することができる。これはまあ、人間の武道の達人も同じに違いない。

日本列島の伝統である「色ごとの文化」においては、無防備になることの醍醐味を称揚してゆくことにあり、セックスのエクスタシーはそうやって汲み上げられる。人と人が他愛なくときめき合う文化なのだ。

日本人は権力に対して無防備だから他愛なく支配されるし、支配されつつすでに他愛なくときめき合う民衆だけの小さな世界に逃げ込んでもいる。だから政治に対して無関心であり、江戸時代までは国歌も国旗もないまま村社会の豊かな民衆自治の習俗を育ててきた。

山本太郎は、そういう「民衆自治」の伝統を、現在の議会制民主主義の場に持ち込もうとしている。そういうかたちで「直接民主主義」の集団性を反映させようとがんばっているわけで、それは、現在の世界のもっとも前衛的な民主主義思想なのだ。

 

 

直接民主主義は、支配者や富裕層をはじめとするこの世の「嫌われ者」の敵である。

多様性の社会がどうとかというが、差別主義やファシズムももう一方の思想だといえるはずがない。差別主義やファシズムをこの世から失くすことは人類の悲願なのだ。差別主義者やファシストはこの世から抹殺しなければならない。しかしそれは、彼らを殺せというのではない。彼らが差別主義者やファシストでなくなればいいだけの話で、それだけのことだ。それだけのことだがしかし、「嫌われ者」がのさばるこんな世の中であれば、遠い遠い悲願でしかないのかもしれない。

彼らは「正義=法」によって人を支配する。「嫌われ者」は、人を支配しないことには、この人の世では生きられない。

まったく、この国の総理大臣なんて、絵にかいたような「嫌われ者」である。どうしてこんな醜悪な人間がのさばっているのかとうんざりするが、彼のような頭の悪い「嫌われ者」を担ぐことこそ、民衆を支配するためにはもっとも有効なのだ。彼個人にはものを考える能力はまるでないが、差別主義者やファシストの進言によろこんで同意できる人格や出自を持っている。彼らにとって、こんな都合のいい操り人形もない。この操り人形に最大の「権力=正義」を持たせれば、それを担ぐ者たちはやりたい放題のことができる。

総理大臣自身には、やりたいことなど何もない。彼には、そんな思考力も想像力もない。ただ、総理大臣でいたいだけであり、みんなにちやほやしてもらいたいだけ、「嫌われ者」はそれが人生最大の目標なのだ。

まあ彼は、天皇とは対極の存在だといえる。天皇は、すでにだれからもちやほやされているから、そんなことは何も望まない。ひたすら民衆をちやほやしたいというか、ひたすら民衆の安寧を願っている。それに対して彼は、自分がちやほやされていられるのならそんなことはどうでもいい。野垂れ死にする民衆がいれば「お気の毒です」といっておけばいいだけのこと、心なんか何も痛めていない。知ったことではない。おそらく病的なくらいそう思っている。

まあ「嫌われ者」というマイノリティである世のネトウヨたちだって、病的なくらい自分が「マジョリティ」の立場を欲しがり、「日本人に生まれてよかった」と合唱しつつ朝鮮人LGBT等を差別してゆく。それは、総理大臣とほぼ同じメンタリティなのだ。

「総理大臣」という正義の立場、「日本人」という正義の立場。そんなものは正義でもなんでもない、というのではない。そうやって「正義」という「人を支配する装置」にしがみつくことが醜悪ではた迷惑なのだ。

 

 

「嫌われ者」は「正義」を目指す。

現代社会におけるお金は、「正義」であり、「神」である。

貨幣の本質は「贈与=プレゼント」にある。だから世の中に貨幣が流通する。持てば使いたくなるのが本質である貨幣を、それでも守銭奴のように貯め込みたがるのは、それがその人にとっての「正義」であり「神」であるからだ。

現代社会においては、守銭奴が経済を支配しており、「正義」も「神」も守銭奴のもとにある。ユダヤ金融資本家に代表される守銭奴のもとにどんどん貨幣が吸い上げられ貯め込まれてゆくから、世の中の貨幣は不足してゆくばかりで、政府はどんどん貨幣を発行しなければならなくなる。

守銭奴によって支配される社会とは、「正義」と「神」によって支配される社会でもある。守銭奴は、「正義」と「神」のもとにあるという自覚で充足している。「正義」と「神」は選ばれた者のもとにあらねばならない。だから彼らは、他者が貨幣を持つことを許さない。あの手この手で奪いにかかる。彼らの「選民思想」は、「人間に対する憎しみ」の上に成り立っている。使い切れない金をため込んでもしょうがないじゃないかと思うのは貧乏人の発想で、彼らは、世の中に出回っている金は残らず自分のもとに引き寄せたいのであり、出回っていることが許せないのだ。出回っていれば、自分が「選ばれたもの」であることの根拠が危うくなる。そうして自分が「神」や「正義」から見放されるのではないかという恐怖が起きてくる。「嫌われ者」だから、自分は「神」や「正義」から見放されているのではないかという不安がいつもある。そしてこの不安は、ネトウヨというか世のレイシストファシストの不安でもある。

現代社会は、「神」や「正義」によって「選ばれた者」であろうとする者たちのその強迫観念に支配され、こんなにも歪んだものになってしまっている。

その歪みを克服するためには、彼らから「神」や「正義」を取り戻すのではなく、「神」や「正義」を屠り去らねばならない。というか、「神」や「正義」などというものは、もともと存在しないのだ。

にもかかわらず彼らは、ひたすら「神」や「正義」に執着してゆく。「嫌われ者」である彼らを守ってくれるのは、「人間」ではなく、人間を支配する「神」や「正義」であり、「人間に対する憎しみ」を抱いている彼らは、人間を支配する「神」や「正義」に激しくすがりついてゆく。「貨幣」という名の「神」や「正義」や「権力」に。

貯め込まれた貨幣など、「価値」でもなんでもない。彼らは「価値」をため込んでいるのではない。「神」や「正義」や「権力」などのほんらいあるはずのないものを貯め込んでいるにすぎない。そうやって「嫌われ者」であることの恨みを晴らしているというか、そうやってこの世界から排除されることの不安と恐怖に急き立てられている。

 

 

まあ「金の世の中だ」ということは、だれもが「神」や「正義」や「権力」を欲しがっているということになるわけだが、「金=貨幣」の本質は「与える」ものであって「貯め込む」ものではない。つまり金であろうと命であろうと、人はそのもっとも大切なものが消えてなくなってしまうことにこそ、もっとも深いカタルシスを覚える、ということだ。だから貨幣は世の中に出回るのだし、人はみずからの命を他者に捧げようとする。

起源としての貨幣であるきらきら光る貝殻や石粒は原始人にとっていちばん大切なものだったのであり、だからこそそれを他者にプレゼントした。現代人が宝石のエンゲージリングをプレゼントすることだって何も変わりはない。貨幣の本質は、今なお「贈与=プレゼント」の形見であることにある。人はそれを、命の形見として捧げる。

何ごとにおいても、命がけでやることほど楽しいことはない。そうやって原初の人類は二本の足で立ち上がったのだし、地球の隅々まで拡散していった。それは、たとえば諏訪の御柱祭や岸和田のだんじり祭りなどに象徴されるような、ひとつの命がけの「祝祭」だった。

貨幣の流通だって、その本質は「祝祭」なのだ。原始時代だろうと現代だろうと、貨幣は「祝福の形見」として存在している。お気に入りのセーターを買うことは、貨幣によってそのセーターを祝福する行為であり、そのセーターに貨幣を捧げる行為なのだ。ネアンデルタール人クロマニヨン人が、死者の埋葬に際して花やビーズの玉を捧げたように、他者を祝福し捧げものをすることは人間の本能なのだ。

こんなことをいうと、能天気な性善説だといわれそうだが、文明社会は権力者や資本家の悪意が民衆のそうした支配を受け入れてしまう本性を利用することによって動いているのであり、現在のこの国の権力社会は性悪説という非人間的な「嘘」の上に成り立っていると考えている。しかもこのごろは、民衆の中にもその悪意が深くしみ込んできている上に社会システムがとても複雑になっているから、なおさらどうにもならなくなっているのだろう。

この閉塞感……とにかくこの複雑に絡み合った社会システムは、人間性の自然から大きく逸脱した「嘘」によって支配されている。ここを突破することは容易ではないし、おそらく「性善説」によってしか突破できないに違いない。

世の中はきれいごとじゃない、などと性悪説に居直り知ったかぶりをしていたら、彼らの思うツボなのだ。

それでも人間の本性は、他愛なくときめき合いわが身を捧げ合うことにある。「現代貨幣」だって、本質的にはそういうことの上に成り立っている。

 

 

ここ数年、何度選挙しても傍若無人にでたらめなことばかりしている自民党が勝つということは、いろんな「時のいたずら」が重なって起きているのだろうが、このままでは取り返しのつかないことになってしまう……その危機感に迫られて山本太郎はれいわ新選組を立ち上げ、これでいいのか、と訴えている。

いいはずがない。いいはずがないのに、この世の中には「このままでいたい」と思う人がたくさんいる。この、真綿で首を絞められているような奇妙な閉塞感と隣り合わせの充足感のことを、れいわ新選組の立候補者のひとりである安富歩は「ラグジュアリーな地獄」といった。

「このままでいい」と思っている人は、まだまだたくさんいるのだろう。この停滞した状況をもとにした既得権益をむさぼっている富裕層はもちろん「このままがいい」のだろうし、既得権益にあずかれない民衆の中にも今より悪くならないのなら「このままでいい」と思っている者たちがいる。何しろもっとひどい状態の餓死寸前の人たちがたくさんいる世の中で、それを知ればこそ今の状況が変われば自分もそうなってしまうかもしれないという不安がある。まったく、うまい具合に仕組まれているものだ。彼らは、餓死寸前の人たちに手を差し伸べようという意欲などない。「自助努力」とか「自己責任」というプロパガンダが横行している新自由主義の競争社会なのだもの、手を差し伸べないことが正義で、手を差し伸べることは競争を放棄することを意味する。そうやって多くの民衆が、じわじわと真綿で首を絞められている。安富歩によれば、「オーガニックな真綿」だってさ。

このように逼塞した社会状況からネット界隈に噴出してきているネトウヨと呼ばれる者たちはもう、在日外国人や性的マイノリティはもちろんのこと身体障碍者にまであからさまなヘイトスピーチをぶつけて恥じない。世の中狂っている、としか思えない。この国は、いつからこんな恥ずかしい国になってしまったのだろう。こんな醜悪な人間たちが、正義は自分たちのもとにあると信じて疑わないのだ。なぜなら彼らは権力社会にすり寄る者たちであり、権力社会から容認されている存在だからだ。この国の総理大臣のまわりに集まっている多くの議員や官僚とか資本家とか百田尚樹とか櫻井よしことか、みなネトウヨと同じ人種なのだ。どうしてそんなふうに権力にすり寄って充足を得ようとするのか。その意地汚さが醜悪なのだ。

かつての右翼は、反権力で少数者の味方だった。彼らは国家など信じていなかった。天皇を信じていたのだ。

この国の民衆社会は、権力社会とは別の、ときめき合い助け合う民衆自治の習俗を持っていた。今どきの右翼たちは、その伝統を捨てて、どうして権力社会にすり寄り、差別やヘイトスピーチを繰り返すのか。彼らは民衆社会の「嫌われ者」であり、そのルサンチマンを推進力にしながら権力社会の側に立って民衆社会を呪っているのだ。

民衆社会がときめき合い助け合う社会であるのに対し、権力社会は憎み合い排除し合う闘争社会であり、それがネトウヨたちの性に合うのだろう。そういう権力社会のメンタリティが民衆社会にも浸透してきているのが現代であり、民主主義というなら、ときめき合い助け合う民衆社会のメンタリティこそが権力社会に浸透してゆくように変えてゆかねばならない。そのような時代の転換を目指して、山本太郎は今立ち上がった。果たしてこのムーブメントは、どこまで広がってゆくことができるのだろう。

 

 

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キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。