山本太郎とれいわ新選組の敵

経済評論家による多くの経済予測が当てにならないように、山本太郎のれいわ新選組の獲得議席がいくつになるかなんて、ほんとうはだれにも予測がつく話ではない。

プロの評論家であろうとアマチュアのネット民だろうと、したり顔で予測している連中なんて、バカなやつらだと思う。

われわれが知りたいのは、今ここのこの世の中においてどんな空気が流れているか、そしてどんな風が吹き始めているかということだ。

また、それぞれの候補者の政治センスや人間的な魅力がどれほどのものであるか、ということだ。

この国の政治家には哲学がない、といわれている。れいわ新選組は、そんな底の浅い政治の世界に哲学を持ち込もうとしている。今のところそれを本格的に語れるのは東大教授の安富歩だけかもしれないが、他の候補者もそれぞれさまざまな社会問題の当事者であると同時にそれぞれ言葉の裏に哲学を秘めているし、また人間的な魅力を感じさせる人たちである。まあ、今までにはなかったタイプの政治集団であり、そのことに対して与党であれ野党であれ、既成の政治家たちは大きな警戒心を募らせているらしい。

彼らは民衆の大きな支持を獲得しつつあるが、それでもしかし、今回の選挙で多くの議席を得て国会の新しい政治勢力になるためには、現政権のあからさまなマスコミ規制に加え、みずからの資金不足のために、二年前の枝野旋風のときよりもずっと高い壁が立ちはだかっている。つまり、両翼から彼らを潰しにかかってきている。そこをどう突破するか?

たとえば今、民法のテレビでさえ、れいわ新選組の特集をしようとしたら番組ごと潰されてしまったり、まるで戦前戦中の言論統制のような状況になってきている。

 

 

「投票に行かない人々の奮起を促す政治的メッセージとはどのようなものだろうか。

それは、既成の政治認識や経済認識の外にあるはずだ。

既成のパラダイムを超えたメッセージでなければ、彼らの心に届かない。すなわち、既存の政治通程度の半端な「判断」をひっくり返すようなパラダイムが必要なのだ。

半端な認識で「判断」なんかしちゃいけない。虚心に耳を傾けるということ。半端な知識や認識で「MMTは胡散臭い」と「判断」するべきではない。

経済学者の安富歩は、れいわ新選組の候補者発表の記者会見の席でこういっていた。「こうすれば景気が良くなるという経済政策もこうしたらだめだという経済政策もない。どちらに転んでもたまたまのことでしかない。もしも子供の貧困をなくすためという目的でなされるのなら、すべての政策がなすに値する」と。

山本太郎だって、べつにMMTを正面切って主張しているわけではない。「今すぐ貧困層の底上げをしないといけない」と熱っぽく語っているだけだ。

「投票に行かない人たち」の心に響くメッセージこそが未来を切り開くのであって、彼ら政治通の眼鏡に叶うかどうかということなどたいした問題ではない。そのさかしらな「判断」こそが、新しい世の中が切りひらかれることの足を引っ張っているのだ。

 

 

人類の歴史は、その観念的な「判断」によって動いてきたのではない。無意識、すなわち良くも悪くも生きものとしての本能のようなものに動かされてきたのであり、それは、「生きられない弱いものを生きさせようとする」こと。親鳥が雛を育てるように、人類の歴史だって、その本能のようなものに動かされながら生き残り進化発展してきた。

人の集団は、「生きられない弱いものを生きさせようとする本能」を結集することによってもっとも熱狂し盛り上がる。

今回の山本太郎の、二人の重度障碍者を「特定枠」に据えて自分たちを三番目以下にするという決断はまさに、「生きられない弱いものを生きさせようとする本能」を結集しようとすることであり、人々はそこに感動し熱狂している。それは、素敵なムーブメントではないか。だれだって、生きられない弱いものにわが身の命を捧げたい、という願いを持っている。そこに響いているのだ。

山本太郎は、本人が自覚しているかどうかはともかく、人間の本性をちゃんと認識する「哲学」を持っている。今回の彼の行動や決断は、そのへんの政治通や経済通もずっと深い哲学を持っている。

 

 

バブル崩壊以後、あるいは東西冷戦の終結以後の世界は、だれもがさかしらな「判断」をしながら、どんどん歪んできてしまった。高度な頭脳による誠実で賢明な「判断」が人類を良い方向に導くのではない。むしろそれによってこそ人の世が歪んでいってしまう。そこが人の世のややこしいとこ炉だ。この世の中は、誠実で賢明な人たちのその「判断」によって歪んでゆく。

いまだに続いている議事堂前の原発反対集会だって、だれもがみずからの「判断」に酔って「自己満足」に浸っているだけで、人と人のつながりがまるで感じられない。その景色を見た安富歩は、「これじゃあ権力側に負けてしまうだろうな、とかなしくなってしまった」といっている。同感だ。これじゃあ「野火のように広がってゆく」という大きなうねりにはならない。

それに対してれいわ新選組のムーブメントは今、テレビマスコミから徹底的に締め出されながらも、野火のように広がっている。どこまで広がるかはわからないけど、最終的に、さかしらな政治通の山本太郎信者を小ばかにしたようなご立派な「判断」と、僕の他愛なくなくまさにおバカな「感動」と、いったいどちらを反映した結果になるのか、大いに楽しみである。

右翼であれ左翼であれ、彼らのれいわ新選組現象に対する批判記事を読んでいつも思うことは、「ダメだ、こいつは。思考のレベルが低すぎる。哲学がなさすぎる。人類の歴史や民衆の魂の純潔というものを何もわかっていない」ということ。安富歩じゃないけど、僕はかなしい。彼らだけですむことならいいけど、そういうしゃらくさい「判断」をして山本太郎の足を引っ張る者たちが、この世の中の歩みをもどかしいものにしてしまっているのだ。敵は、安倍晋三だけじゃない。政治に関心があってかならず選挙に行く者たちだけで盛り上がっていてもしょうがない。彼らが、どれだけ「選挙に行かない人たち」の心を揺り動かす言説を吐くことができたというのか。

くだらない。ほんとうにくだらない。この世の中は、インテリぶった中途半端な政治通や経済通によって動いてゆくのではない。

リベラルな政治通の人たちも、知ったかぶりしてしゃらくさいことばかり言うな。お願いだから、どうか選挙に行かない人たちの選挙行動の足を引っ張るようなことはしないでくれ。

今夜は、「れいわ祭り」というイベントが品川であるらしい。この週末の3日間でどれだけの盛り上がりが起きるのか、それがこの選挙戦の趨勢を占う試金石になるに違いない。

 

 

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キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。