ラストスパート、いよいよ最後のホームストレートに差し掛かった

7月18日、今日の山本太郎の福島街宣は面白かった。

福島は原発事故の起きた場所だ。

頭の中をすっかり現在の社会制度に汚染されてしまっている年寄りがマイクを渡され、正義ぶって散々品性下劣な難癖をつけまくっており、政権与党側から送られてきた刺客だというコメントもあった。

もちろん山本太郎はそれを見事に切り返していたし、何度もマイクを渡してその話をちゃんと聞いてやったのも立派だと思ったが、そのクレーマーの老人のなんと厚かましく浅はかで醜悪なことか。

山本太郎原発被害に対するケアをちゃんとしろと訴えることに対して、一部の福島県民のあいだには、「山本太郎の言説は風評被害をまき散らしている」という批判もある。それを代表してこの老人はがなり立てていたわけだが、これは、まさしく「住民エゴ」である。そんなことをいって原発事故をなかったものにしてしまっていいのか。被害者を切り捨ててしまっていいのか。それは、福島県民が等しく負わねばならない歴史の負の遺産ではないのか。そのうえで、福島の復旧や復興が模索されねばならないのではないのか。

老害……とにかくまあ、右翼であれ左翼であれ、政治的な老人というのはほんとに醜悪だなあ、と思った。

選挙はまあ「お祭り」なのだから、なるべくならみすぼらしい老人は表に立つことなく、縁の下で頑張っていたほうがよい。

表に立つのは、女や若者がいい。そのほうが華やかで盛り上がるし、頭の中を規制の社会制度に汚染されてしまっている年寄りの男たちにはもう、頭の中を切り替えて新しい時代に漕ぎ出すという能力も心意気もない。

 

 

れいわ新選組は、いったい何人が当選するのだろうか。僕にはわからない。ただ、10人全員が当選すればおもしろいのになあ、と思っているだけだ。そうなれば、この国の政治の世界だけでなく、人々の心にパラダイムの転換が起きるきっかけになる。

悪いのは政治家だけじゃない。だれもがこんなひどい社会システムに埋没してしまっている情況から、あのようなひどい政治家たちが生まれてくるのだろう。何はともあれ選挙で政治家を選ぶ民主主義の世の中であり、民衆に許されていない政治家が存在できるはずもない。あのようなひどい政治家が存在できないような社会の情況が生まれてこないことには、何も変わらない。

もともとこの国には、権力社会とは別の原理を持った民衆だけの社会システムが機能していたのに、民衆が権力社会の政治に参加できる時代になったことによって、皮肉なことに民衆社会のシステムが権力社会と同じ様相を帯びてきた。それはきっとわれわれがほんものの民主主義を獲得できるようになるまでの過渡期の現象であり、この国ほんらいの民衆社会のシステムを権力社会に持ち込むことができなければならない。差別や競争によるのではなく、人々が他愛なくときめき合い助け合う社会システムを。

まあ現在の政権は差別や競争や闘争の原理の上に成り立つ権力社会の本能をむき出しにしてきており、そこに巻き込まれ流されてしまっている民衆がたくさんいるわけで、そんな情況において山本太郎とれいわ新選組は、そこからはぐれてしまったり抵抗しようとしている者たちを呼び寄せようとしている。そんな集団が過半数いることはたしかなのだ。もしも投票率が70パーセント以上になったら、自民党が政権与党でいられるはずがない。

「寄らば大樹の影」は日本人の国民性だというが、そうではない。それはもともと、権力社会の様相を揶揄する言葉だったのだ。江戸時代までのこの国の民衆は、権力社会とは別の民衆自治の集団システムをずっと守り続けてきたのであり、「お上」という権力社会に支配されてもけっして洗脳されないのが民衆のメンタリティの伝統だったのだ。まあ古代には、そうやって権力社会が押し付けてくる「仏教」に対するカウンターカルチャーとして民衆のあいだから「神道」が生まれてきた。この国の歴史は、いろいろ紆余曲折はあったとしても、けっきょく民衆のメンタリティがこの国を覆ってゆくようになっている。

 

 

この国の民衆の多くは、「寄らば大樹の陰」が嫌だから、政治に無関心であり、選挙に行かないのだ。まだまだ民衆の潜在意識においては、国の政治は「大樹」であり、長い理不尽な支配を被(こうむ)ってきた歴史の無意識が残っているわけで、どうしても権力社会の政治に対する拒否反応がある。なのに、権力社会の一員になったような顔をして偉そうに語るネトウヨたちの「寄らば大樹の陰」そのものの態度の、なんとあさましいことか。「それでも日本人か」といいたいところだが、その当人たちほど「日本人に生まれてよかった」と声高に合唱しているのだから、笑わせてくれる。「寄らば大樹の陰」のネトウヨは、駆逐されなければならない。そこから、この国の民主主義がはじまる。

ネトウヨたちは、れいわ新選組の盛り上がりを怖がっている。その気持ちは、なんとなくわかる。れいわ新選組は、存在のかたちそのものにおいて、彼らの「憎しみ」や「差別意識」を駆逐しようとしている。

人の世の基本は、ときめき合い助け合う関係の上に成り立っている。したがってその外に出て暴れているネトウヨたちが「憎しみ=ルサンチマン」を共有しながら結束しても、それは狭い世界の中のことで大きくその外に広がってゆくことはない。

人と人がときめき合いコミュニケーションしてゆく関係こそが広がってゆくのであって、ネトウヨたちは「憎しみ=ルサンチマン」によって他者を差別し排除しているだけだから、広がってゆくはずがない。

ここにきてこの国のヘイトスピーチの勢いは衰退しつつある。それは、この国の伝統文化にそぐわない潮流だからだし、人の世の構造上の意味においてどこまでも広がるはずがないのだ。そうしてそれと入れ替わるようにして、ときめき合い助け合う社会を目指すれいわ新選組のムーブメントが起きてきた。

とはいえこんなにも人がたくさん集まっている社会なら、「憎しみ」を募らせた「嫌われ者」が現れてくることもひとつの必然であるわけで、それはもう文明社会の宿命であるのかもしれない。しょうがないことだがしかし、われわれは彼らを置き去りにして前に進んでゆかねばならない。そのためには、山本太郎とれいわ新選組を支持すること、それだけでいい。彼らが民衆の圧倒的な支持を得て政権につけば、世の中の景色は、がらりと変わる。

 

 

民衆社会の論理で国の政治がなされることを「民主主義」という。そのためには、権力社会に洗脳された民衆ではなく、民衆社会の真の伝統すなわち人間性の自然・本質の上に成り立つ人類700万年の歴史の伝統を体現した者たちの論理が必要なのだ。

老人が新しい時代を切りひらくということなどありえない。彼らの多くは、他者ととときめき合い語り合うという「コミュニケーション」の能力をすでに失っているのであり、そうやって老人はボケてゆく。

女や若者たちの他愛なくときめき合い助け合うというそのメンタリティこそが必要なのであり、そこにこそ人間性の自然・本質がある。権力者であれ民衆であれ、そういう人と人の関係に対する「憎しみ=ルサンチマン」をたぎらせた「嫌われ者」たちがどんな正義・正論を叫んでもどうでもいい話なのだ。

自己実現」など、どうでもいい。自分を忘れて他者との他愛なくときめき合い助け合う関係を持てたときに、はじめて人は「幸せ」というようなものを感じる。山本太郎とれいわ新選組は、そんな社会にしようではないかと訴えている。

「クチコミ」、すなわち他者とのときめき合い語り合うコミュニケーションによって広くつながってゆくこと、これは、縄文時代以来の日本列島の伝統であり、それを起こすものを「ことだま」といった。縄文時代に国家制度なかった。当然である。しかしそれでも、日本列島には同じような言葉や習慣文化が広がっていた。それほどに「クチコミ」が豊かに機能している場所だったのであり、その伝統がよみがえればれいわ新選組の奇跡が起きる。

 

 

原初の人類はこの生に対する「嘆き」や「かなしみ」とともに二本の足で立ち上がっていった。そうして世界や他者に対する「愛」や「ときめき」に目覚めていった。平たくいえば、そのとき人類は「感動する心」を持ったことによって猿であることから決別し、進化発展していった、ということだ。そういう原点に還れば新しい世界はきっとやってくるし、そういう人としてのプリミティブな感慨はいつの時代もだれの心にも息づいている。

人間社会の根源のかたちは、人と人がときめき合い助け合うことにあり、それは「生きられないこの世のもっとも弱い者」を生きさせようとすることであり、さらにいえば「この世のもっとも魅力的な人」を特権化して祀り上げてゆくことでもある。そうやってこの国では、古代以前の奈良盆地から「起源としての天皇」が生まれてきた。

起源としての天皇は、大陸の古代文明国家から生まれてきた「支配者=王」とはまったく性格が違う。違うのだが、大陸には存在しなかったというのではない。

 

 

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キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

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『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

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