風穴は空いたか?

選挙はライブであるということ、祭り(フェスティバル)であるということ。もしもれいわ新選組の奇跡が起きるとすれば、そのように「クチコミ」の人と人のときめき合う関係が大きく広がってゆくことによって起きるのだろうと思う。

もう、マスコミ報道は当てにできない。政権与党や経団連等の支配者たちの圧力によってみごとに黙殺・排除されてしまっている。

野党共闘のリーダーたちからも、自分たちの票を奪われるのではないのかと、かなり警戒され敵視されてもいる。四面楚歌だ。

しかし、もしもれいわ新選組が現れなかったら、この選挙はほとんど盛り上がらないまま、政権与党がほくそ笑む結果で終わっているに違いない。

れいわ新選組のムーブメントが盛り上がって投票率が上がれば、野党共闘だっていくぶんかはその恩恵にあずかることができる。

とにかく、投票率が上がらないことには、野党の側に勝ち目はない。そうして、このひどい社会状況はますます加速してゆくことになる。

多くの識者たちが指摘しているように、現在は、まるで昭和初期の戦争前夜のような社会状況なのだ。べつにそんな戦前回帰思想の持ち主が圧倒的多数であるわけでもないのに、多くの民衆が沈黙しているから、政治は停滞し、経済は冷え切って、エゴイスティックな支配層のやりたい放題になってしまっている。彼らは、民衆や労働者を寡黙で従順な存在にしてしまいたいのだし、その計画は着々と進んでいるかに見える。

そこで、山本太郎が立ちあがった。僕は、世の中がそうであるのならそれでしょうがない、と思っていたのだけれど、彼は政治家だから「しょうがないではすまされない」と考えて立ち上がった。勝算があるかどうかなど、考えなかったに違いない。考えてできるはずがない。そこが彼の純粋なひたむきさで、われわれ凡人と違うところだ。それを思えば、この状態で彼らが一体どれくらいの票を獲得できるかと予測するなど、彼らに失礼だしせんないことだ。あえていうなら、僕には希望的観測があるだけだ。10人が全員当選するということ。彼らの比例区獲得票数は、立憲民主党より多いだろう、と思っている。

多くの野党支持者が、立憲民主党にも国民民主党にもがっかりしているような気がする。野党は有権者と利害関係でつながっていることがあまりないから、魅力がなくなれば、たちまち見放されてしまう。逆にいえば、魅力的なら、またたく間に支持が広がる。

政治の中心的な機能はけっきょく「利益誘導」ということにあるのかもしれないが、人間にとってのもっとも本質的というか究極の「利益」は、「生きられないこの世のもっとも弱いものが生きられること」にあり、そしてそれは「誰もがときめき合い助け合う社会になる」ということでもある。つまり人間は「他者に命を捧げたい」と願っている存在であり、欲しいのは「自分の利益」ではなく「他者の利益」なのだ。たとえ現代時のほとんどが「自分の利益」を欲しがっているとしても、それでも無意識のところでは「他者の利益」を願っているのだし、だから「政治」という仕事が成り立つのだろう。

立憲民主党枝野幸男には、ちょっとがっかりした。それはわれわれに見る目がなかったということなのだが、彼は家族そろってカラオケに行ったりするマイホーム主義の良きパパであり良き夫であるらしい。それは、彼の美徳であると同時に、そうやって守るべき自分の世界があるということが政治家としての限界でもある。政治なんて、わが身を投げ打ってするものであり、そこに枝野幸男山本太郎の差がある。社会を変革しようとする政治家としての「怒り」と「かなしみ」が、山本太郎にはあって枝野幸男にはない。野党第一党の党首になって彼は、「守り」に入ってしまった。守るべきは「自分の党」ではないはずなのに、彼にとっては自分の党の支持者さえも「自分のファミリー」のように考えている。それは彼の「やさしさ」かもしれないが、その「やさしさ」は政治家としての「志」の低さでもあり、リーダーとしての資質というか魅力の限界なのだ。胎内回帰志向というか、まあ「自分の世界」の中でぬくぬくとしていたいのだ。だから、立憲民主党の支持率はどんどん下がっていった。彼は、民衆が待ち望んでいるリーダーではなかった。彼には、山本太郎ほどの「献身的な愛」はない。この世の「生贄」になろうというほどの覚悟はない。

さて、どのような開票結果が待っているのだろう。

 

 

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キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。