選挙の総括・その2

現在のこの国の選挙状況は、わりと単純である。投票率が低ければ組織票を持っている与党の側が有利になり、高ければ反対票として野党の支持が多く集まる。

今回は、与党の側に有利な、まったく無風の選挙だった。それでもれいわ新選組は2議席を獲得したのだから、大健闘だといえる。彼らはテレビ新聞の報道から完全に締め出されていたから、圧倒的に不利な戦い方を強いられた。そのために無党派・無関心層に彼らの名前が浸透することは難しく、社会現象といえるほどのどこよりも熱っぽい街宣現場が実現されていたのも関わらず、それが全体の投票率を上げる効果を生み出すことはできなかった。というわけでけっきょく彼らは、与野党問わず既成政党の票を奪っただけだったらしい。

しかし、ここからがスタートだともいえる。この熱っぽい盛り上がりを、どこまで無党派・無関心層にまで広げてゆくことができるか。

立憲民主党は、前回の衆議院選において、大きな風を呼び込んだ。その勢いのまま推移していれば、今ごろは与党と拮抗する支持率になっていたはずである。しかしじっさいには、じりじりと支持率を下げていった。それは、党首に人間的な魅力がなかったからだ。善良な市民の顔をまき散らしながら、いったん獲得した自分たちの世界を守ることばかりに終始してきたからだ。そんな小市民根性で、大多数の民衆の支持を得られるはずがない。いずれは飽きられ、幻滅されてゆく。

民衆が望んでいるのは、「新しい時代の到来」なのだ。たとえ「このままでいい」と思っていても、心の底では「新しい時代の到来」を夢見ている。人間とは、根源においてはそういう存在ではないないだろうか。だから、猿のレベルを大きく超えて進化発展してきたのではないか。

優れた政治家とは、「新しい時代の殉教者=生贄」なのだ。山本太郎はまさしくそんな気配を色濃く漂わせているし、枝野幸男にはまるで感じられない。

人類は、普遍的に「救世主=メシア」を待ち望んでいる。「メシア」の語源の意味は「出現する人」ということにある。

前回の衆議院選挙のときの枝野幸男は、「枝野立て!」という民衆の声に促されてようやく立ち上がったのだし、そのときすでに同調する現職議員が7~8人いた。それでは「メシア」とはいえない。真に「メシア」であるなら、前原が小池百合子希望の党と合流すると決めたときに、「だったら俺はひとりでも党を立ち上げる」と宣言するべきだったのだし、山本太郎はまさにそのようにして小沢から離れ、徒手空拳で立ち上がった。そこに、この二人の政治家としての資質の差がある。

政治は、善良な小市民根性でするものではない。良くも悪くも偉大な政治家とは、「やくざな時代の殉教者」なのだ。

 

 

今回の選挙で山本太郎は、自分を犠牲にして二人の難病患者と重度障碍者を国会に送り込だ。それによって彼は、「男を上げた」と民衆に評価されるのだろうか。

選挙中、テレビはまったくれいわ新選組のことは報道しなかった。選挙が終わって、ようやく少しずつ報道されるようになってきた。選挙中に報道されていたら、れいわ新選組の名は、もっとも魅力的な人材が集まった政治集団としてもっと広く拡散していたにちがいない。

山本太郎は全国比例区で最高の得票をしたが、テレビに登場したのは選挙が終わってからだった。つまりテレビマスコミは、今回の選挙の最大のスターのことを、まったく報道しなかったのだ。

テレビ局がたくさんの利益を上げるためには、政権の庇護を受け、スポンサーの利益の邪魔になる報道は避けなければならない。利益を上げるためには、れいわ新選組のブームがどんなに盛り上がっても報道してはならなかった。

正しく報道することより、利益を上げることのほうがテレビ局や新聞社の第一義的な使命であるらしい。

コストパフォーマンスの時代で、利益を上げることこそが正義なのだ。まあテレビ局や新聞社の上層部の年寄りはそんなことしか興味がないし、地位のある年寄りたちが若い者たちを支配することが正義の時代なのだ。たくさん収入があれば偉くて、そういうものが少ない収入の者を支配するという社会システムが出来上がっている。

年寄りがのさばる社会なんか、ろくなもんじゃない。

もともとこの国には、そんな社会システムはなかった。天皇がそうであるように、年寄りはみんなから「祀り上げられる」存在であって、「支配」する存在ではなかった。

むかしは人の寿命があまり長くなかったから、30歳代の者たちが中心になって社会を運営していた。江戸時代くらいまでは、50歳になったらもう息子に家督を譲って隠居するのが普通だった。

年寄りの価値は「長生きした」ことにあるのであって、「金がある」からでも「知恵がある」からでもない。そういう人類史の偉大な常識というか真実を、現在の高度資本主義社会は覆してしまった。

年寄りの価値なんて、「長生きした」ということ以外に何があるのか。しかしそれは、山本太郎がいうように「人は生きているだけで価値がある」ということでもある。すなわち、他者を生きさせようとすることこそ人間性の自然・本質であり、それによって人類の歴史は進化発展してきたのだ。れいわ新選組から二人の重度障碍者が国会に入ったことは、われわれにそういう人としての原点に気づかされるきっかけになるに違いない。そうしてここから、だれもがときめき合い助け合う新しい社会を生み出す動きが起きてくる。

今はまだ、新しい動きの兆しが生まれてきた、というレベルかもしれない。だったら、次の衆議院選挙こそが、れいわ新選組の正念場になる。

 

 

新しい時代の到来を信じる心は必要だ。

人の心が社会をつくるのでない、社会という環境世界が人の心をつくっている。

社会という環境世界が歪んでしまえば、人の心も歪んでしまう。逆にいえば、社会の環境が清らかになれば、人の心も清らかになる。

だから山本太郎は、清らかな社会環境にしようとして、まず重度障碍者の二人を国会に送り込んだ。彼はこのことを「国会に地雷を埋め込む」という言い方で表現したが、その本意はようするにそういうことだ。あの二人を前にして与党の議員たちは、これからも次々に出されてくるであろう弱者いじめの法案を堂々と正義面して強行採決することができるか。山本太郎は、ひとまずそういう挑戦状をたたきつけた。それでも強行採決するのだろうが、中にはいささかの後ろめたさを覚える人間的な感情を持った議員もいるだろうし、そこから少しずつ壁が壊れてゆく。

人間性の自然・本質とは何か?あの鈍感で冷血非道な議員たちにまっとうな人間らしい心を取り戻させなければならない。あるいは、そういう議員たちはみな退却していただかねばならない。

「三つ子の魂百まで変わらず」といい、人の心はなかなか変わらないが、いかようにも変わることができるのが「三つ子の魂」である、ともいえる。われわれは、自分の中に「三つ子の魂」を大切に守り育てているだろうか。まあ、人の心は社会環境によっていかようにも変わる、というのはそういうことだ。

社会の制度にフィットして生きてきた人間は、たとえ清らかな心を持った理想主義者の人であっても、社会が変わることに対してどうしても悲観的になってしまう。変わってほしいけどそうかんたんには変わらないだろう、と悲観してしまう。

一方、社会の制度からはぐれて生きてきた人間は、もともと社会の制度に縛られていないから、「社会なんか一夜にして変わる」と想像することができる。だから、新しい社会が生まれてくるためには、そういう「やくざ」な心を持った政治家を必要とする。

社会の制度にフィットして生きてきた人間は、どんなに清らかな魂を持った理想主義者であっても、新しい社会を構想することはできても、その実現を信じることはできない。そこが、「かたぎのマイホームパパ」である枝野幸男の限界と、「やくざな天才」である山本太郎の可能性の違いなのだ。それはもう、両者の行動力や決断力の差となってちゃんと表れている。

良き堅気の市民である枝野幸男の政治思想の基礎は、人間社会は民衆すなわち一般的な凡人がよりよく生きるために存在する、ということにある。

いっぽう山本太郎の思考や行動は、人間社会は「生きられないこの世のもっとも弱い者」を生きさせるために存在する、という直感的な認識の上に成り立っている。他者の命にわが身を捧げるということ、そこが彼の「やくざ」なところであり、人間はもともと「やくざ」な存在なのだ。まあそうやって生きものは子を産み育てているのだから、それはもうこの世界の普遍的な原理であり、人類はその能力を特化させることによって人口を増やしながら進化発展してきたのだ。

れいわ新選組の二人の障碍者の国会議員だって、社会のシステムからこぼれ落ちた「やくざ」な存在であり、彼らの新しい時代を切りひらこうとする心意気に期待したい。この国の伝統は、新しもの好きの「進取の気性」にあるし、彼ら自身が国会の新しい存在だ。

秀才のマイホームパパである枝野幸男ではだめだ。彼には「進取の気性」がなく、後ろ指をさされることを怖がっているところがある。いつだって「自分の世界」を守ろうとしているだけで、そんな小市民根性で新しい時代を切りひらくことなんかできるはずがないし、たぶん彼は小市民根性を守るのが政治だと思っている。

 

 

与党の醜悪さは言うまでもないが、立憲民主党にも、ほんとにがっかりさせられた。そんないじましい小市民根性で政治をしてくれるな。「心意気」を見せなきゃ、民衆の支持なんか得られるはずがない。

小市民根性の者たちは、みんな自民や公明や維新に投票しているのだ。

怒れる民衆は、たとえ「小市民」の身分であっても、小市民根性に閉じこもってなんかいない。小市民根性と庶民感覚は同じではない。たとえば、「江戸っ子かたぎ」とか「道産子魂」とか「九州男児」とか、それらの言葉は小市民根性を象徴しているわけではないだろう。また、日本列島伝統のメンタリティの基礎になっている「あはれ・はかなし」の美意識や「たおやめぶり」ということだって、いじましく「小市民」という自分の立場に執着しているのではなく、「寄る辺ない身」の「嘆き=かなしみ」の上に成り立っている。

この国の伝統においては、「男らしさ」であろうと「女らしさ」であろうと、わが身を投げ捨てて他者に献身してゆくことが理想とされているのであり、そこにこそときめき合い助け合う「庶民感覚」の神髄がある。

選挙が終わってれいわ新選組をヒステリックに攻撃しているチャンネル桜をはじめとする右翼たちも「何をそんなに焦っているのか」という感じだが、この国の左翼だって、どうやらもうすでにもう終わっているらしい。けっきょく彼らの小市民根性によるいじましくも正義ぶった市民民主主義の言説が、人々の政治離れを招いた。市民エゴ、そういうナルシスティックな自意識過剰の政治に、だれが参加しようとするものか。彼らは、選挙に行かない者たちを選挙に行かせることはできなかった。自分たちの正義を確認するために政府を非難しているだけだもの、だれがそんな運動に参加するものか。彼らには「他者」がない。「市民」という枠からこぼれ落ちた者たちに対する視線が希薄だった。

まあ左翼的市民運動のリーダーたちのほとんどは自意識過剰のナルシストばかりで、「市民」であることが正義だと思っている。

正義は、「自分」のもとにあるのではない。自分が手を差し伸べようとする「他者」のもとにある。

政治は、「市民」という名の「凡庸な健常者」のためにあるのではない。「生きられないこの世のもっとも弱い者」のためであらねばならない。そうやって山本太郎は、左翼的市民運動の限界を突破した市民運動を模索している。

たぶん山本太郎は、この次の衆議院選挙でも枝野幸男立憲民主党の立場を守ろうとして消費税減税の方針をとらないのなら、けっして手を組むことはしないだろう。そうしてN国党も国民民主党も与党にすり寄ってゆくのなら、れいわ新選組の立ち位置の鮮やかさはさらに際立ってくる。

孤立無援は、悪いことばかりではない。民衆の支持は、いっそう盛り上がる。

 

 

山本太郎は、人々の心の中の人間性の自然・本質に訴えてブームを起こした。その政策論の説得力もさることながら、何より彼をはじめとした候補者たちの人間的な魅力こそ、そのブームの原動力だった。

ただ残念なことに、この国の支配者たちの圧力によって、マスコミの報道からは完全に締め出されていた。だから、そのブームが起きていたことを知らない人がたくさんいた。マスコミが報道して知れ渡っていたら、もっと大きく躍進したに違いない。

今回、「市民連合」という左派リベラル的な全国組織は、既成の野党共闘に応援した。それでまあ「一定の成果はあった」などといっているが、そもそも投票率が5割を割ったということは、市民連合野党共闘も完全に失敗した、ということを意味する。既成の野党になんの魅力もなく、無党派層や無関心層を選挙に呼び込むことがまったくできなかった。

市民連合のリーダーたちは立憲民主党にはこれからも頑張ってもらいたい、などといっているが、彼らは、枝野幸男に代表される「善良な市民」のエゴイズムがいかにたちの悪いものかということをまるでわかっていない。それこそが戦後左翼の衰退の元凶であり、彼らが期待したのはおそらく民主党の再編成なのだろうが、枝野幸男玉木雄一郎も、わが身可愛さだけで、山本太郎のような自分を捨てて「状況」の中に飛び込んでゆこうとするような「心意気」など何もない。

女房子供を連れてカラオケに行って気持ちよさげにAKB を歌っているような人間に、命がけの政治なんかできるはずがない。

 

 

金融資本主義のせいかどうか知らないが、今や世界の構造そのものが狂ってしまい、人の心も歪んでしまっている。

歪んで狂ってしまっているのに、「このままでいい」と思っている人たちがいる。

たとえば現在の権力機構が10パーセントの最底辺の人々を切り捨てて国家を運営してゆこうとしているのだとすれば、それ以外の90パーセントの人々は「このままでいい」と思うことができる。そうやって醜悪なネトウヨたちが権力のお墨付きをもらったような顔をして騒いでいるわけだし、そういう思いは、濃淡はあるとしてもだれの中にもいくぶんかは巣食っている。おそらくそれが、このひどい状況を動かないものにしてしまっていたりするのだろうが、「このままでいいはずがない」という思いだって、同じようにだれの中にも息づいている。「このままでいい」というのが民意であるのなら、「このままでいいはずがない」というのも民意なのだ。最底辺の人々だって、「このままでしょうがない」というあきらめと、「このままでいいはずがない」という怒りの両方を抱えている。

人間の社会は、けっして「よい社会」にはならない。なぜなら「困っている」状態が生きてあることの正味のかたちで、「困っている」ことを受け入れてしまう存在だからだ。「困っている」ことが生きてあることなのだ。

だからつねに「よりよい社会」をつくろうとしているわけで、人間は永遠に困りつつ、永遠に「よりよい社会」を困ろうとしてゆく。

「このままでいい」なんて、とても非人間的な思いであると同時に、「このままでいい」と思ってしまうのが人間なのだ。

この社会が狂っていることはしょうがないことだが、「狂っている」と自覚しなければならない。自覚できるのが人間であり、自覚できないで充足しているなんて、とても非人間的なことだ。そして現代社会は、自覚できないで充足させてしまう構造になっている。自覚できなくさせるような制度が巧妙に張り巡らせている。そのようにしてネトウヨのような者たちが生まれてくるわけで、彼らは、狂っているのは社会ではなく、「狂っている」と自覚している者たちだ、という。

しかしどう考えても狂っているわけで、そう自覚している者たちが山本太郎の街宣に熱狂する。

人間の社会は、「よい社会」など永遠に実現しない。だからこそ、永遠に「よりよい社会」を目指し続ける。また、「ひどい社会」であっても受け入れるのが人間であるのだから、「ひどい社会」になってしまってもかまわないのだ。つまり、消費税を廃止したり国債を発行したりしたらひどいことになる、などといっても、それが「困っている」人を救うことになるのなら、するべきだし、してもいいのであり、ひどいことになってもいいのだ。

外国では、たえず政権交代が起きて、景気が良くなったり悪くなったりしている。それでいいのだ。たとえ景気が悪くなっても、人間の社会にはしなければならないことがある。それは、「生きられないもっとも弱い者」を生きさせることだ。それは人間社会の在り方の普遍的な大前提であり、山本太郎はそのことを訴え、民衆が拍手している。拍手するのが、人間性の自然・本質なのだ。

 

 

山本太郎は、「この社会の困っている人に手を差し伸べる政治をします」と誓って選挙活動をしてきた。ほんとに困っている人なんか5パーセントか10パーセントだといっても、じつはだれもが生きてあるというそのことに「困っている人」であり、ほんとに困っている人に手を差し伸べることはみんなに手を差し伸べることでもある。そして、だれもが「困っている人に手を差し伸べたい」という願いを心の底に持って生きている。みんなで助け合わなければ、人間の社会なんか成り立たない。

そこで、れいわ新選組が国会に送り込んだ重度障碍者すなわち「生きられないこの世のもっとも弱い者」である二人が、障碍者問題に対して「このままでいいはずがない」と主張すれば、人々はどのように反応するだろうか。「障碍者エゴ」だと反発するだろうか。それとも「その通りだ」と賛意の声を上げるだろうか。その主張にわれわれは、わが身のことのようにして受け止めることができるだろうか。そして彼らに対して「どうか生きてくれ」と願うことができるだろうか。

少なくともれいわ新選組の支援者たちは、「生きられないこの世のもっとも弱い者」としてのこの二人の当選を熱狂して喜んだ。彼らは、まさしくこの世界に突然出現した「メシア=救世主」だった。「メシア」とはこの社会の「生贄」であり、すべての「生贄」は「メシア」である。重度障碍者として生きて死んでゆかねばならないなんて、まさに人の世の「生贄」である。彼らは神の死者であると同時に神への捧げものである。現在のあのひどい国会のあのひどい議員たちは、彼らをどのように迎えるのだろう。

「生贄」がこの社会の存続のために死んでゆくものであるということは、彼らが他者に「どうか生きてくれ」と願いながら死んでゆく存在であることを意味する。だれのなかにもあるそういう思いの象徴=形見として、彼らは死んでゆく。われわれはこの二人の重度障碍者を前にして、自分の中にも他者に「どうか生きてくれ」と願う人間性の自然が息づいていることを確認している。

人類の歴史は、他者に対して「どうか生きてくれ」と願うことによって人口を増やしながら進化発展きたのだし、その人間性の自然・本質としての心を結集しながらみんなで投票に行けば、真にこの国の伝統にかなった新しい社会が生まれてくる出発点に立つことができるのだろう。

 

 

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キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。