れいわ新選組のブームは終息するのか

こんなにもひどい世の中になってしまったのに、多くの人がそれを実感していない。それが、投票率の48・8パーセントという数字に表れているのだろう。正直言って僕も、山本太郎の街宣を聞くまでは、よくわかっていなかった。彼の街宣は、4~5年前から彼の人間的な魅力にひかれてYouTubeで追いかけていたが、お金の話は面倒くさいので聞き流していた。しかしそれが、じつは階級格差や社会制度の歪みや国民的な精神の退廃の問題だということが、このごろようやくわかってきた。

まったく、史上最悪の政権だと思う。あの総理大臣が中身の薄っぺらなただのいいカッコしいだということは初めてテレビで見たときから感じていたが、まわりに群がる政治家や官僚や大企業や広告代理店やマスコミ知識人やネトウヨたちの卑劣さや醜悪さもさらに目を覆うばかりだ。総理大臣なんて、そういう連中に踊らされているだけだろう。もともと何の見識もヴィジョンもなくただ総理大臣でいたいだけの男なのだから、まわりが多少なりともまともならこんなことにはならなかったに違い。彼らだけではない、この国の制度そのものが狂ってしまっている。

僕は今、このことをちゃんと認識しなかった自分が、ほんとにうかつだと思う。多くの人がすでに認識しているし、認識しはじめている。

僕は、山本太郎に教えられて、はじめてわかった。最初は「まあ、そんなものだろう」というくらいにしか思っていなかったが、今では「どうしようもなく狂っている」というやりきれなさが募ってくる。

とにかく、総理大臣のバカさ加減は今にはじまったことではないが、なんといってもまわりの者たちやこの社会のシステムが狂ってしまっていることが、なんとも不気味で醜悪だ。

 

 

生まれたばかりの赤ん坊は、まわりの「庇護しよう」とするはたらきかけがなければ生きられない。この「志向性」こそ人間性の自然・本質であり、生きものとしての本能でもある。この「志向性」を特化させることによって人類は、爆発的に人口を増やし、地球の隅々まで拡散していった。そしてこの「庇護しよう」とする「志向性」がなければ、猿のレベルをはるかに超えた人間ならではの大きな社会集団をいとなむことはできない。

まあ現代の文明社会の人々は、複雑で高度に発達した社会システムに庇護され支配されて生きている。だから多くの人が庇護され支配されることを当然のように受け止めているが、そのシステムからこぼれ落ちた者たちはどんどん切り捨てられてゆくようになってきた。

だから、けんめいに庇護されたいと願い、庇護されようとがんばる。それはつまり、支配されたいと願い支配されようとがんばる、ということでもあるわけで、そうなれば支配者にとってはとても都合がいいし、今さらいやだといっても文明社会のシステムは本質的にそのようにできている、ということだろうか。そうやって人々は、人間性の自然・本質としての「庇護したい」という願いを失ってゆく。

支配者にとってもっとも都合のいい社会は、人々が「庇護されたい」という思いを募らせながら「庇護したい」という願いを失ってゆく社会であり、しかしそれは、ほんらいの人間集団のダイナミズムを失って社会が衰退してゆくことのあらわれでもある。文明社会の歴史は、そうやってさまざま支配システムの社会が衰退し滅んでゆくということを繰り返してきた。

現在もまた、そういう衰退の時代なのだろうか。だから、投票率が48・8パーセントだった。この国が高度経済成長で元気だったころは70パーセントを超えていたのである。東西冷戦の時代で右翼と左翼の力が拮抗して政治に緊張感があったから、ということもあるかもしれない。

 

 

現在のこの国の人々は、国家権力や社会システムに「庇護されたい」という欲望ばかり募らせて、生きられない弱いものを「庇護したい=生きさせたい」という願いを失いつつある。そうやって国ごと衰退しつつある。

現政権は、民衆を貧困に陥らせ、「庇護されたい」という欲望を募らせることによってファシズムを押し進めてゆこうとしている。そして現政権のパートナーになっている広告会社は、ナチス・ドイツの広告戦略を研究して成長してきた。

ファシズムの影が忍び寄っていることは、だれもが感じている。

そこで、だれよりも深く純粋に生きられない弱いものを「庇護したい」という願いをそなえた山本太郎が、民衆社会のヒーローとして登場してきた。人が人であるかぎり、その願いが消えてなくなることはないし、それが活発に生成しないことには社会のダイナミズムは生まれてこない。

「庇護する(=他者に命を捧げる)」ことのカタルシスが人を生きさせている。これは、ただのきれいごとではない。根源においてそういう関係性がはたらいていなければ、人間の集団が無限に大きくなってゆくということなど起きるはずがないではないか。

今どきのネトウヨたちのように、他者を排除しようとする憎しみばかり募らせていて集団が大きくなっていくことなどできるはずがない。こんな小さな島国に1億人以上がひしめき合っていて、「現在の政権はよくない」とか「戦争はするべきではない」とかと考える人間はぜんぶ「反日」だと言って排除しようとするなら、この国の人口はどんどん減ってゆくに決まっている。

現在の政権が、貧しい者たちから搾り取って富裕層をより富ませるというような政策をしていることだって、タコが自分の足を食っているのと同じだろう。

「庇護しよう」とする衝動が生成していない社会が活性化すするはずがないし、少しも美しくない。醜悪さ丸出しでこじつけの「正義」とやらを振り回しながら、何が「日本人に生まれてよかった」か。醜悪そのものだ。

 

 

集団に庇護されるポジションを得ようとして他者を排除してゆく。そうやってみんながポジションを奪い合っているのが現代社会であるのかもしれない。そんなことばかりしていたら社会はどんどん分断され、格差も開いてゆくし、人口が増えるはずがない。

他者と「庇護し合う=助け合う」のではなく、だれもが国家や社会制度に庇護されるポジションを得ようとするなら、ひとりひとりがどんどん孤立してゆく。人と人のつながりをつくらせないのが、国家権力にとっていちばん支配しやすいことかもしれない。

戦前は、すべての国民は天皇の「赤子(せきし)」である、というプロパガンダによって国民を分断していった。つまり、ふだんの暮らしのプライベートな関係よりも天皇との関係が優先されていた。しかしほんらいの天皇は「みんな」との関係の上に成り立っている存在であって、ひとりひとりと関係を結んでいるのではない。ほんらいの天皇は「みんな」という関係が豊かに成り立つためのよりどころとして祀り上げられているのだ。すなわち、弥生時代奈良盆地の都市集落における民主主義を担保するために起源としての天皇が祀り上げられていった、ということだ。

天皇は、国民を庇護している存在ではない。国民が天皇を庇護し祀り上げているのであり、もともとはそうやって人としての「庇護したい」という願いを担保するためのよりどころとして祀り上げられてきたわけで、古代王朝の権力者たちによっていったんは民衆を「庇護する」存在として偽装されていったが、中世から近世にかけてしだいにもとの姿に戻っていった。そうして明治政府の「王政復古」の号令によって、また「庇護する」存在として偽装されてゆき、太平洋戦争の敗戦によってまたまた起源の姿に戻った。

ともあれ天皇が実質的な「庇護する」存在としての「権力者」であったことなど一度もないのであり、民衆の中の歴史の無意識における天皇は、あくまで「みんなで庇護しながら祀り上げてゆく存在」なのだ。

 

 

人類の歴史は、「生きられない弱いもの」を「生きさせたい=庇護したい」という願いとともに進化発展してきた。そういう人類普遍の願いの象徴として、この国では天皇が祀り上げられてきた。

天皇は、人類史の悲願の形見として存在しているのであり、だからこの国で2000年近く祀り上げられてきた。

天皇制が滅びることは、人類の悲願が滅びることだ。

人類の悲願とは、「生きられない弱いものを生きさせたいという願い」のこと。たったそれだけのことだが、それがなければ人類社会のダイナミズムも人類史の進化発展もない。

であれば、今回の選挙でれいわ新選組が二人の重度障碍者を国会に送り込んだことは、まさにそうした「人類の悲願」とかかわる重大な問題を提示していることになる。

重度障碍者にどれほどの議員活動ができるのか、というような批判の声もあるが、さかしらなそういう物言いがいかに下品で浅はかであるかということを何も自覚できない者が存在するということが、この国が狂っていることの証しなのだ。それに対して一般の民衆の多くは「どうかがんばってくれ」と祈っている。その祈りこそが人としての普遍的な知性・感性のはたらきであり、彼らがその仕事を果たせるようにまわりの者たちが配慮し努力するのが人類の使命なのだ。

まあ、何とかやりくりしながらできるようにしてしまうのがこの国の文化の伝統であり、たとえばそうやって大陸から輸入した漢字から「ひらがな」を生み出していったのだし、文楽人形にあれほどスムーズな動きと細やかなニュアンスを表現させてしまうことができるのなら、障碍者が活躍できる場を整えることくらいそれほど難しくもないにちがいない。まわりにそういう心掛けがあるかないか、それだけのこと。

おそらく重度障碍者の二人が国会に入ったことはもう、世界中に発信されていることだろう。そうして世界中の人々が、固唾を飲んでその成否を見守っている。

それは、世界の優生思想や新自由主義に対する挑戦であり、と同時に山本太郎は、「人類の悲願」を背負って21世紀の日本列島に登場してきた、ということになる。

 

 

1989年にベルリンの壁が壊れたとき、そのときの次期総理大臣候補で政界きっての優秀な頭脳の持ち主だといわれていた自民党宮澤喜一は、テレビのインタビューに答えて「これからは東側の人たちに<競争>ということを教えてあげなければならない」と語っていた。

それを聞いて僕は、なぜだか知らないがかすかな違和感を覚えた。だから今でもその一言を覚えているわけだが、今だったらその違和感のわけがわかる。そうやって西側の指導者たちが勝ち誇ったようにのうのうと「競争」などとほざいていたから、現在の世界の政治経済の混乱が起きているのだろう。そのとき西側の人たちと東側の人たちが共有しなければならなかったのは、「競争」ではなく「助け合う」ということだったのだ。

宮澤喜一は嫌いな政治家ではなかったが、今にして思えば、どうやら彼には「哲学」というものが決定的に欠落していたらしい。もとは財務省のとびきり優秀な官僚だったというが、官僚などという人種は、しょせんその程度のものかもしれない。

人の世の存在基盤は、古代だろうと現代だろうと、いつだって「助け合う」ということにある。道徳の問題ではない。それがなければ人の世の動きのダイナミズムは起きてこないということは、人類史の普遍の原理である。

そして「助け合う」ことの基礎には、「ときめき合う」ということがある。

現在は、世界的に「ときめき合う」という関係が希薄になってきている。それはきっと、ベルリンの壁の崩壊とともに共産主義が退潮し、「新自由主義」とか「金融資本主義」というような思考がのさばってきたせいだろうが、とにかくそうやって世界的に「政治原理」が崩壊してしまっている。

ベルリンの壁の崩壊のそのとき、宮澤喜一をはじめとするこの国の支配者たちが「資本主義の原理である競争こそ人間の本性であり、その意識を人々の頭の中に植え付ければ世界はよくなる」と思い込んだことによって、こんなにもおかしな世の中になってしまった。彼らは決定的に愚かだったのであり、その愚かさに多くの民衆が洗脳されてしまった。

資本主義だろうと共産主義だろうと、人間社会の基礎は「助け合う」ことにあり、人の心の「助けたい」という願いをかなえようとすることにある。政治原理というなら、そこにこそ置かれなければならない。

 

 

人間社会の基礎は、「贈与=ギフト」にある。「返礼」なんかいらない。一方的な「贈与」だけですでに世界は完結しているのであり、そのカタルシスが人を生きさせている。

これは、「言葉」や「貨幣」の本質の問題でもある。

起源としての言葉は、ある感動(=ときめき)とともに思わず発してしまった音声だったのであり、「伝達」しようとか「返答」を期待するとか、そんな意識は一切なかった。「やあ」とか「あら、まあ」とか「おはよう」とか「なあんだ」とか「うっそー」とか、起源であれ現在であれ、基本的に言葉とは「思わず発してしまう音声」なのだ。

吉本隆明は「言語にとって美とはなにか」という著作で、言葉の起源は「たとえば海を見て思わず<うっ>という音声を漏らしてしまったようなこと」といっているが、これは、個人の内面世界を至上のものとする彼のナルシズムから出た発想で、そういうことではない。起源としての言葉は、あくまで人が「他者」とともにこの世にいるということの上に成り立ったある感動(=ときめき)から他者に向かって発せられたのであり、それは「伝達」も「返答」も期待しないあくまで一方的な「贈与=ギフト」だったのだ。つまり、他者がこの世に生きてあることを「祝福」する音声だったのであり、それ自体無意識的には「他者を生きさせようとする衝動」がはたらいている。

人類の言葉は、他者とともにこの世に存在することの「ときめき」から生まれ育ってきた。他者が存在しなければ、言葉が発せられる契機など存在しない。海を見て感動すれば「言葉にならない」思いが湧いてくるだけであり、そんなところから言葉が生まれてくることなど原理的にあり得ない。

吉本は「言葉の本質は<沈黙>の中にある」ともいっているが、個人の内面世界の思考や感情は「言葉」として生成しているのではない。その「言葉にならない」思考や感情を、すでにこの世界にある「言葉」「に当てはめているだけなのだ。言葉は、個人の内面世界に存在しているのではない、人と人が生きているこの世の中で生成し流通しているのだ。だれともなく思わず発してしまった音声を、みんなが「これは<ときめき>をあらわしている」とか「<かなしみ>をあらわしている」というように解釈し合意しながら言葉になっていったのだ。

言葉は、他者に対する一方的な「贈与=ギフト」として社会で生成し流通しているものであって、個人の内面世界に存在しているのではない。そしてそれはもう、「貨幣」が社会に流通していることと同じなのだ。

 

 

「貨幣」の起源は、「きらきら光る貝殻や石ころ」だったといわれている。それはもう、数万年前の原始時代から愛されていたもので、一方的な「贈与=ギフト」として原始人の社会に流通していたわけで、二万年前のロシアのスンギール遺跡からは死者の埋葬に際しておびただしい数のビーズの玉が添えられていた。つまり、相手が死者だから「伝達」の意図も「返礼」の期待もない。ただもう一方的な「贈与=ギフト」なのだ。そうしてこれが、文明社会が生まれてきたころになると物をもらったことの返礼に使われたり、貨幣をもらったことの返礼に物が差し出されたりしながら、「交換の道具」になっていった。

人類は貨幣を持ったから物々交換をするようになったのであって、物々交換の延長として貨幣が生まれてきたのではない。

ともあれ「貨幣」は、現代においても、本質的には一方的な「贈与=ギフト」の形見であり、そのような使われ方をしている例は無数にあるし、そういう性格のものだから世の中に出回ることができる。

言い換えれば、貨幣が「贈与=ギフト」の形見であることを忘れることによって、偏ったところでむやみに貯め込むということが起き、社会の停滞や衰退を招いている。

人がお金を使うのは「贈与=ギフト」の精神によるのであり、現代の貨幣がただの「紙切れ」であることによって、なおいっそう「金離れ」がよくなる。そうしてそれが、たえず一部の富裕層のもとに吸い上げられてゆく。

支配者たちは、人々の「贈与=ギフト」の精神に付け込んで貨幣をただの「紙切れ」にしてしまった。そうしてそれをどんどん吸い上げてゆく。

銀行は「預金」というかたちで人々からお金を吸い上げ、それを債務者に貸すときは、ただ金額の数字を書き記すだけであり、実体なんか何もない。数字を書き記すことによって、そこでお金が発生する。まさに「贈与=ギフト」である。したがって、それで人々の預金が減るわけではない。人々が預金を下ろさないかぎり、銀行は貸した金が返ってこなくても何も損をしないということになる。

お金=貨幣の本質は、一方的な「贈与=ギフト」であることにある。それによって世の中に流通し、一部のところに吸い上げられ退蔵されていたりする。その本質を利用して一部の者が大金持ちになっている。金融資本主義とは「贈与=ギフト」を受け取り合うゲームであり、お金=貨幣だけがあって、実体は何もない。1億円を吐き出したからといって、そのぶんの何か実体が得られるわけではないし、実体が失われるのでもない。たんなる「贈与=ギフト」のゲームなのだ。

金融資本主義という名の椅子取りゲーム。そこではだれもが「贈与=ギフト」の精神を失って、「贈与される=庇護される」ことばかり欲望している。

お金=貨幣の本質を知り抜いたユダヤ人がこのような社会のシステムをつくったのか、それとも人類史の必然的ななりゆきなのか、僕にはよくわからない。ともあれいつの時代も人の世は「贈与=ギフト」の衝動の上に成り立っているのだ。そこに立って人類は、「新しい時代」に漕ぎ出してゆく。

 

 

既存の社会制度に庇護されながら「新しい時代」なんかいらない、といってもダメなのだ。人が人であるかぎり、それがいつのことになるかは知らないが、「新しい時代」は必ず生まれてくる。

ネトウヨとかチャンネル桜とか虎ノ門ニュースとか、そうした既存の社会制度に「庇護されたい」という欲望を募らせた者たちが今、きわめてヒステリックに「新しい時代に漕ぎ出そう」と願う勢力を攻撃し続けているが、人はいつかはその醜悪さに気づくのだし、この国の伝統はそういう醜悪さになじまないようになっている。

「庇護したい」という願いは、女の中にこそ豊かに息づいている。なぜなら、それがなければ子を産み育てるということなどできないのだもの。そしてその根底には、他愛なく豊かな「ときめき」と生きてあることに対する深い「かなしみ」があるわけで、それはだれの中にもある人間の本性でもあり、女それがよりラディカルな存在なのだ。

現在のこの閉塞・停滞した状況から抜け出す新しい時代は、女が切りひらくのだろう。

彼らはきっと、女たちから見捨てられるだろうし、そのときこそが「新しい時代」の幕開けであるのかもしれない。

新しい時代や環境を怖がるのは、いつだって男や老人たちなのだし、それをむやみに怖がらないのがこの国の伝統としての「進取の気性」である。この国の文化やメンタリティの伝統は、なんのかのといってもじつは女にリードされて培われてきたのだ。

「処女性=たをやめぶり」……それがこの国の文化の伝統の基礎であり、その象徴として「天皇」が祀り上げられてきた。まあこれが現在のこのブログの主題であり、現在においてこれだけ天皇が多くの民衆からよろこんで祀り上げられているのなら、天皇制の本質において明治の大日本帝国に後戻りすることはあり得ない。現在の天皇の祀り上げ方は戦前とはまったく違うし、ほんらいの天皇制は国家主義に陥らないためのよりどころとして機能してきたのだ。江戸時代までのこの国の民衆に国家意識などというものはなかったわけで、だから国歌も国旗もなかったのだし、江戸時代に天皇の存在感があまりにも薄くなってしまったために明治の「王政復古」が起きてきたともいえる。

 

 

10

もしも今、天皇制を廃止したら、戦前よりももっとひどいファシズムのクーデターが起きるかもしれない。天皇を権力者の手に渡してはならない。天皇はあくまで民衆によって庇護され祀り上げられる存在であらねばならない。天皇によって担保されているこの国の伝統とは、権力者が扇動する「大和魂」などというものではなく、ときめき合い助け合って生きようとする民衆が共有している「庇護したい」という願い、すなわち「処女性=たをやめぶり」なのだ。まあ、赤ん坊や小さな生き物そして小さな世界を守ろうとする心こそこの国の伝統であり、人間性の普遍的な自然・本質でもある。そういう女の中の「処女性=たをやめぶり」によってこそ、新しい時代は切りひらかれる。女が目覚めたら、時代は変わる。女こそが、真の民主主義を担える可能性をそなえている。

古い右翼も左翼も、いずれ女たちから見捨てられる。なぜなら彼らは、国家の「庇護」みずからの自意識を満足させたいだけで、「他者」に対する思いが欠落している者たちだからだ。しかし国家はほんらい、みずからの「庇護したい」という願いをかなえてくれる機関であり、国家が庇護しなければならないのは自分ではなく「生きられないこの世のもっとも弱いもの」たちなのだ。

食うに困っていない善良な市民は、「このままでいい」と思っている。それでも権力者が許せないのは「生きられないこの世のもっとも弱いもの」を庇護しようとしないからであり、それをしなければ人間の社会ではなくなってしまうと思えるからだ。それをして、はじめて人と人がときめき合い助け合う社会になる。

 

 

11

現在のこの国の総理大臣は、セックスアピールがなさすぎる。彼がリーダー失格である理由は、そういう単純な問題でもある。彼がリーダーであるかぎり、世の中は明るく元気にならない。すなわち、人と人がときめき合い助け合う社会にならない、ということ。

あなたは、安倍晋三に抱かれたいと思うか……?

余談ではあるが、男として人間としてのセックスアピールのことは、マツコ・デラックスがよく知っている、と思う。人と人がときめき合い抱きしめ合うことは、男どうしであろうと女どうしであろうと男と女だろうと、根源的には違いはない。

セックスアピールとは、つまるところ人間としての魅力のことだ。

マツコ・デラックス安倍晋三小泉進次郎のことを「気持ち悪い」といっていたが、それはきっと、男としてというより人間としてということだろう。彼らの顔の造作がどうのというより、顔つきとかしゃべり方とかしゃべることの中身が「気持ち悪い」のだろう。男の値打ちは、娼婦とオカマがいちばんよく知っている。とくにマツコ・デラックスは、現在の人の世の「リトマス試験紙」の役割を果たしている。だれよりも人恋しくてだれよりも人に幻滅しているこのオカマの視線を、多くの民衆が称賛している。

まあ、安倍晋三小泉進次郎も、民衆という他者に「庇護されたい=ちやほやされたい」という自意識に凝り固まっているだけで、民衆という他者を「庇護したい=救いたい」という「人恋しさ」などさらさらなく、それがあの自己陶酔した顔つきやしゃべり方によくあらわれている。彼らは、人の心を支配しようとしているだけで、人の心に寄り添うという感受性がまったく欠落しているわけで、それが「気持ち悪い」のだ。

「気持ち悪い」人間がたくさんいる世の中で、それでも「人恋しさ」は多くの人の中に疼いている。その中でもだれよりも人恋しい心が逆なでされて「気持ち悪い」とつぶやき、そうやってマツコ・デラックスの「毒舌」が受けている。

安倍晋三小泉進次郎のような自己執着を捨てるためには、オカマになることはとてもいい方法のひとつにちがいない。だれもが自己執着を手放さない世の中だから安倍晋三小泉進次郎が許されるのだし、だれもが自己執着を手放さない世の中だからこそ、それを捨てたマツコ・デラックスが異彩を放って輝いている。

道端の小さな花を愛でるとか、秋風の気配にふと心が鎮まるとか、拾ってきた子猫をかわいがるとか、幼い女の子がお人形遊びをするとか、だれにだって「小さな弱いものを庇護したい」という願いはあるではないか。そういう心のよりどころとしてこの国では天皇が祀り上げられてきたのだし、そういう心の持ち主が、安倍晋三小泉進次郎のことを「気持ち悪い」とつぶやいている。自意識に凝り固まった彼らは、他者を支配しつつ、他者の「心のあや」に気づく想像力がまるでない。そのつくりものじみた表情しかできないニヒリスティックな人間味のなさが、「気持ち悪い」のだ。

 

 

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いったい「他者性」とは何だろう?80年代のニュー・アカデミズムブームのころの柄谷行人は、「他者性とは差異=異質性のことだ」といっていた。その延長で現在では「多様性(ダイバーシティ)」などというようなったのだろうが、あのころのヨーロッパでは「他者とは神である」という議論もあった。

では「神」とは何か?

原始時代だろうと現在だろうと、世界中のどんな地域だろうと、人間社会の普遍的な「神」は「生きられないこの世のもっとも弱いもの」であり、そういう存在を生きさせ祀り上げてきたのがこの国の伝統であり、人類史はそうやって爆発的に人口を増やし、知能を進化発展させてきた。

人の心のもっとも純粋で本質的な「他者」とは、「生きられないこの世のもっとも弱いもの」である。

政治的に正しいとか正しくないとかと知ったかぶりして議論しながらいい気になっているだけでは、右翼であろうと左翼であろうと、民衆の心をひきつけることはできない。そんなことの前に、魅力的かどうかということが問われなければならない。

だれの中にも「人間性の尊厳とか美しさに触れたい」という思いはあるし、その思いを共有してゆくことの上に人の世が成り立っている。現在のこの社会はそうなっていないといっても、「その思い」を結集しないことには新しい社会は生まれてこない。既成の野党のように「政治的な正しさ」を競っていてもだめなのだ。

政治的な正しさを競って安倍晋三枝野幸男に代わっても世の中はたいして変わらないということを、民衆はもう直感的に悟ってしまった。人々は今、「人間性の尊厳や美しさに触れたい」という思いを共有させてくれるリーダーを待ち望んでいる。

だから、山本太郎とれいわ新選組のブームが起きた。それは、弱者救済の経済政策を前面に打ち出したといっても、だれの中にもある人間の本性としての「小さく弱いものを庇護したい」という思いに響いたからであって、困窮している人々だけが支持したのではない。また、困窮している人々にだって「庇護したい」という心は疼いている。

そうやってあの二人の重度障碍者が国会に行ったことに、みんなが拍手している。

人間性の自然・本質の上に立った人類普遍の政治原理は、「生きられないこの世のもっとも弱いものを生きさせる」ということにある。山本太郎とれいわ新選組はそのことを提起し、民衆がそれに賛同しながらブームが起きていったわけで、これはけっして一過性のバブル人気などではない。

そのブームは、選挙が終わった今でも続いているし、さらに拡大しつつある。この国のあちこちの場所で、今なお山本太郎が街宣に来てくれることを待ち望んでいる。

 

 

13

だれだって人間らしい心で生きたいという思いはあるし、山本太郎とれいわ新選組はそのことに気づかせてくれた。それを応援すれば、自分があたりまえの人間になったような心地になれる。あたりまえの人間でいれば生きられない社会にこうして彼らは、あたりまえの人間になろうよ、あたりまえの人間として生きられるような社会をつくろうよ、と呼び掛けている。

これは「人間とは何か」ということを問い直そうとする運動であり、時代はもう、そういう段階に差し掛かっている。

日本中が都市化してだれもがうまいものを食ってきれいな服を着て快適な暮らしをできるようになったが、同時にだれもが社会制度の歯車であるだけの存在になって、人間であることができなくなってしまっている。新しい時代を待ち望んでいるのは、困窮している者たちだけではない。

山本太郎とれいわ新選組のブームは、人間の人間でありたいという願いが結集して起きてきた。その勢いが、このあと既存の政治経済のシステムを信奉する者たちによって押し返されてしまうのかどうか。

れいわ新選組は、支持者の熱っぽさと同じくらい、右左問わず既存の勢力によるバッシングが今なお続いている。

勝者であろうと敗者であろうと現在はだれもがシステムの歯車であるほかない状況に置かれているわけだが、人間という生きものはそれですむのだろうか?「人間とは何か?」「人間の心とは何か?」……そういう問いは、だれもがその胸のどこかしらで抱いている。

われわれは、「人間であること」を取り戻せるのだろうか?

 

 

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キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。