奇跡の美少女……愛子天皇待望論の行方

今や日韓関係はこじれにこじれてしまっているが、何かのはずみで大きく改善されたりする可能性もある。人間なんて他愛ない生きものだし、他愛なさは大切だ。

かたくなな心が解きほぐされることは、世の中にいくらでもある。

韓国人は韓国人だが、人間でもある。

日本人は日本人だが、人間でもある。

人間なんて、他愛ない生きものだ。

どちらもかたくなであるととうぜんこじれてしまうわけだが、この国にはかたくなな態度をとってもいい資格や権利があるのだろうか。多くの右翼は、あの植民地支配は正義だった、慰安婦や徴用工の強制連行などなかった、と民衆を扇動しているわけだが、強制連行があったかなかったかということ以前に、そうやって「正義」を振りかざすこと自体が醜悪なことだし、民衆もまたどうしてかんたんに扇動されてしまうのだろう。彼らは、日本人が悪いことをするはずがないのだからなかったことにしてしまいたいと思い、民衆もまたそう思いたがっている。そうやって現在のこの国は、病んでしまっている。

そう思いたければ、そう思い込むことができる……それは、知的な好奇心や探求心をすでに失っている、ということでもある。

お人好しで洗脳されやすい民族で、なんといっても「性善説」が伝統の国だから、扇動・洗脳したもの勝ちだ、ということだろうか。

性善説の国だから、歴史修正主義に走りたがるし、民衆を扇動・洗脳することもたやすくなるのだが、いっぽう、性善説の国だからこそ醜いことに耐えられないとか、理想を見失わないでいられるということもある。

天皇は、遠い昔の日本人の「魂の純潔に対する遠いあこがれ」から生まれてきたのであって、共同体の支配統治者として登場してきたのではない。

正義を欲しがるだけの今どきの右翼なんか最低だ。彼らは天皇の何たるかということを何もわかっていないし、天皇を崇拝すれば天皇に愛されると思っているのなら大きな間違いだ。天皇は崇拝されることなんか何も望んでいない。そんな執着はありがた迷惑なだけで、天皇の民衆に対する思いはあくまで一方的な、いわば「無償の愛」なのだ。だから民衆も「無償の愛」で応えるだけであり、どちらもたがいに、たとえば道端で拾ってきた子猫を慈しむような心で愛しているだけであり、人と人がそういう心でときめき合い助け合う社会でありたいという願いとともに、遠い昔の日本列島で天皇が生まれてきたのだ。

日本人はというより人類は根源において「魂の純潔に対する遠いあこがれ」を共有しながらときめき合い助け合っている存在であり、たとえ相手が嫌いであっても、コミュニケーションが成り立つ道はあるのだ。たとえ相手がそれを拒んでも、その努力をするのが天皇を祀り上げている国の民のたしなみたしなみというものだろう。

 

 

僕はここ数年、天皇の起源のことをずっと考えてきた。

起源としての天皇がどこかからやってきた支配統治者だったなんて嘘だ。

天皇は、もともとあはれではかない存在であり、今だってそうだ。

男であった、ということもおそらく嘘で、僕は「処女=思春期の少女」の「巫女」のような存在だったのだろうと考えている。「巫女」といっても、卑弥呼のような「呪術師」だったのではない。古代以前の日本列島に「呪術」などなかった。あくまで純粋な「美少女」だったのだ。民衆から庇護され祀り上げられる存在は「処女=たをやめ」こそもっともふさわしいし、これは人類史の普遍でもある。

天皇は、本質的には大陸の「王」のような民衆を「庇護(=支配統治)している」存在ではなく、民衆から「庇護されている」存在なのだ。だから歴代の権力者は天皇を抹殺することができなかったし、抹殺する必要もなかった。

したがって起源としての天皇が支配統治者であったということなどありえないし、「男系男子」も「万世一系」もどうでもいい。この国の家系図なんて、すべていい加減なのだ。途中でまったく別の血脈が混じっていようと捏造しようとぜんぜんかまわないのであり、それでも「万世一系」ということにしておくのがこの国の流儀なのだ。

天皇家だろうと武士の家だろうと、実際問題として「万世一系」なんて不可能であり、途中でまったく別の血脈になってしまうことなど何度でもあるにちがいない。

しかしそれでもかまわない。この世に天皇が存在するというその事実だけで尊くありがたいのだ。それは、この国の社会のかたちというか、人々の天皇を思う心のかたちの問題であって、極端にいえば天皇はだれでもよい。

だれが天皇にふさわしいかということは、もともと権力者が決めていたのではなく、民衆のみんなが「あの人がふさわしい」と思って決めていたのだし、もしくは天皇家に任せていたことだ。

したがって現在の次期天皇候補を民衆のみんなが天皇の娘がふさわしいと思うのなら、そうすればいいだけのことで、権力者の口出しすることであってはならない。そうして天皇の娘がだれと結婚しようと、たいした問題ではない。民衆のみんなが祝福すればそれでよい。

遠い昔の天皇制は、民主主義のよりどころとして生まれてきた。われわれ民衆は、権力者の手から天皇を救出しなければならない。

平成天皇と皇后は、私的な子育てから公的な仕事まで、できるかぎり権力社会から距離を置こうとしてきた。「象徴天皇」として、自分たちは民衆からら庇護され祀り上げられている存在である、という自覚があったのだろう。だったら今度は民衆が、その自覚に応える番ではないか。民意によって権力を動かさねばならない。権力に洗脳されてはならない。それが民主主義というものだ。

 

 

起源としての天皇は、純粋な「美少女」だった。とすれば、現在の天皇の娘は、その資格がじゅうぶんにある。まあ、典型的な古代の美少女の顔をしているし、その姿や表情が漂わせている品性のようなものは格別なものがある。天皇の弟の娘たちとは、明らかに「格」が違う。モダンな顔のつくりではないということも、その品性を高めることを助けており、彼女はもう、「品性」だけで輝いている。そういう意味で、「奇跡の美少女」という言い方さえできるのかもしれない。この先ますます「愛子天皇待望論」が民衆のあいだで起きてくることだろう。

そのとき権力者たちは、どう対応するのだろうか。「男系男子」にこだわっていたら、民衆の支持を失う。それでもそれを強引に押し通すだろうか。そのとき、この国の伝統と民主主義が試される。

天皇制は、ファシズムにもなるし、民主主義にもなり得る。そういう諸刃の剣であるのかもしれない。権力者の手に渡れば、ファシズムになってしまう。

天皇は、男であろうと女であろうと「処女=たをやめ」のような存在であるのがこの国の伝統なのだ。江戸時代の天皇なんか、毎日たくさんの女官に囲まれて遊んでいるだけだったという。それでいいのだ。そうやって完全に政治の世界から遠ざけられていたのに、それでも幕末には大きな尊王思想が起きてきた。つまり、それでも日本人は天皇の存在を忘れてしまったわけではなかった。

天皇は、日本人の歴史の無意識に深く浸透している。そして男でも女でもいいのであり、本質的には「処女=たをやめ」のような存在なのだし、「処女性=たをやめぶり」こそ「やまとごころ」の本質なのだ。

日本人は、現在の天皇の娘を祀り上げずにいられない歴史の無意識を持っている。彼女は、2000年のときを隔ててよみがえった起源としての天皇の再来なのだ。

「愛子天皇待望論」は、現在でもすでに70パーセントを超えているらしい。

現在のこの国の民衆がなぜ彼女を祀り上げずにいられないのかという問題は、もう少しちゃんと考えてみたほうがいいのではないだろうか。

 

 

このブログなどは見る人もほとんどいないから静かでいられるのだろうが、もしも著名な知識人が一冊の本として「愛子天皇正統論」を発表したら、あの「表現の不自由展・その後」のように、右翼たちからの総バッシングにあうのだろうか。

しかし、「処女=思春期の少女」を祀り上げることは、支配統治者にひれ伏すことなどよりも、人間としてはるかに敬虔で根源的普遍的な態度なのだ。

この世でもっとも崇高なものは、強大な権力なのか。だったら、天皇なんかいらない。平清盛織田信長でいいし、ヒットラーを祀っていればよい。

徳川将軍がどんなに偉くて栄耀栄華を誇ろうとも、その間の天皇がどれほど窮迫した隠遁生活を強いられようとも、天皇はいつだってもっとも崇高な存在としてすべての日本人の無意識によって祀り上げられていたわけで、そうでなければ幕末の「尊王論」など起きてくるはずがない。

人間がもっとも深く切実に祀り上げずにいられない対象は、現世的な「もっとも強いもの」ではなく、現世の外、すなわちこの世のものとは思えないような対象である。それが「愛らしく美しい処女=思春期の少女」であり「生きられないもっとも弱いもの」で、それらは文明社会が「神」という概念を発見する前は世界中で普遍的に祀り上げられていた。

人類史における「神」という概念は、文明国家の権力が世界を支配するためのよりどころとして見出されていったものにすぎない。

まあここでは、「神」という概念が普遍的な人間性の上に成り立っているとは考えていない。人類700万年の歴史の99・9パーセントは「神なき世界」を生きてきたのだ。

言い換えれば、この国の「神」は「あはれ・はかなし・わび・さび」の存在であって、キリスト教ユダヤ教イスラム教のそれのような「強く偉大な支配者」でもなんでもない。そうやって起源として天皇が愛され祀り上げられ、今なおそれが続いているわけで、この国の天皇はそういう原始的で普遍的な「神なき世界の神」である、ということだ。

したがって、この世界の愛らしく美しい生贄そのものであるかのような気配を漂わせた天皇の娘を次期天皇として待望する現在のこの国の民衆の声は、人類史の普遍的な願いの上に成り立っているともいえる。

現在の世界がもし変わろうとしているのなら、それは、人間性の自然・本質としての「小さなもの」や「弱いもの」や「はかなく愛らしいもの」を慈しみ祀り上げようとする心の動きとともに起きてくるのだろう。人としての「人間らしく生きたい」という願いはそこにこそ息づいているわけで、そのための天皇制であるのなら、べつに拒否する理由はない。

 

 

もはや、今風の政治思想や社会思想を表面的になぞっているだけでは、時代は変わらない。人間としての自然・根源・本質に立ち返り、「人間とは何か?」と問い直し、人間であることを取り戻そうとするところからしか新しいムーブメントは起きてこない。もちろん多くの人々はそれを表立って意識しているわけでもなく、それを表現する言葉を持っているわけではないが、時代の無意識として、世界的にそういう動きは起きてきているのではないかと思えるし、そういう動きでなければ新しい時代を切りひらくことはできない。

「弱いもの」たちだけで新しい時代を切りひらくことはできない。「弱いもの」であろうとあるまいと、だれの中にも息づいている「生きられない弱いものを生きさせようとする願い」が結集されて新しい時代が切りひらかれてゆく。

今回、そうやって山本太郎とれいわ新選組のブームが起きた。山本太郎ほど「生きられない弱いものを生きさせようとする願い」の純粋で切実な政治家はいないし、それは仲間の候補者たちに共通の願いでもあり、それによってとても魅力的なグループになっている。

そして、今回の選挙で投票したのは、困窮している人たちだけだったのではない。困窮していない人たちだって山本太郎とれいわ新選組の心意気に熱く共鳴していった。

「生きられない弱いものを生きさせたいという願い」は人間の本性であり、その願いを基礎にして「ときめき」や「人恋しさ」が生まれ、人と人は繋がってゆく。彼らの登場によって、人々は人間的な心を呼び覚まされた、ということだろうか。ただそれは、人間としてのそういう心を失っていたということではなく、現代社会のシステムに飼い慣らされながらだれもがそれを胸の奥に封じ込めて生きているということで、いつの時代もだれだって人間らしい心で生きていたいと願っている。そうやってこの世に芸術や哲学や文学が存在しているのだろうし、政治経済もそのためのものであってほしいのはとうぜんのことにちがいない。

 

 

資本主義とは「利益」を追求することだろうか。

今や、「リベラリズム」だって「利益」を追求している。

フランスのマクロンは、右翼のルペンに勝って大統領になったのだからひとまず「リベラル」派」といえるのかもしれないが、最近の反政府階級闘争としての「イエローベスト運動」は収まる気配がない。

マクロンだって、けっきょく資本主義のシステムに潜り込んで「利益」を追求している者でしかない。

利益を得ることは、だれかの利益を奪うことでもある。そのようにして資本主義社会が動いているのだろう。彼らは、利益を追求することが正義であり、人間の本性だと信じている。そういう社会であるのなら、貧富の格差が大きくなってゆくのは当然のことかもしれない。

だれもが利益を享受するものでありたいと願っている。

しかしそれは、ほんとうに人間の本性だろうか。

赤ん坊を育てることは、赤ん坊に利益を与えることであり、それには女親だけでなく男親だって参加するし、孤児になった子は地域で育てるということなど昔からずっとしてきて、現在でも養護施設というのがちゃんとある。家族という単位がなかったネアンデルタール人の社会だって、集団で子供を育てるのが当たり前だった。原始時代は、世界中どこでも家族というものなどなかったのだし、子供を育てることは人間社会の基礎になっていた。つまり、「利益を与える」ということが人間であることの基礎になっていたのだ。

プレゼントをすること、老人や病人や障碍者の介護をすること。物を売ることだって基本的には「贈与=ギフト」の行為であり、よりよいものを提供しないと買ってもらえない。金儲けのために芸術をしている人もいるのだろうが、お金のことなんか度外視してでもなんとか人々を喜ばせ感動させたいとがんばっている芸術家や職人はいるし、才能がある人ほどそういうがんばり方をする。人を喜ばせたり感動させたりすることは、ひとつの「贈与=ギフト」である。その関係がなければ、人間の社会なんか成り立たない。根源的には、それは「他者に自分の命を差し出す」ということだ。

どんなに「利益を得る=収奪する」ことが資本主義の原則だといっても、人類の世界にはちゃんと「贈与=ギフト」のシステムが張り巡らされている。こんなにも停滞し汚れてしまった社会において、山本太郎とれいわ新選組は、人間ほんらいの「贈与=ギフト」のシステムを再構築しようとして立ち上がった。人間復興……もしかしたらこれはまったく新しいムーブメントかもしれない。

そして、もしもあの「奇跡の美少女」が次の天皇になったら、日本人はもっと日本人らしく人間らしくなるのだろう、と思う。

 

 

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それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

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