ネガティブキャンペーンの栄枯盛衰

なんのかのといっても韓国の民衆はパク・クネという大統領を自分たちの手で引きずり下ろしたし、香港では連日大規模デモが起きているし、フランスではイエローベスト運動が燃え盛っているというのに、この国の民衆はあの愚かで醜悪な総理大臣が居座り続けることを許してしまっている。それが、今回の参議院選挙の低投票率にあらわれている。べつに愚かとも醜悪だとも思っていないのだろうか。思っていても、政治なんてどうせそんなそのものだと無力感とともに冷ややかに眺めている人も多いのだろう。

僕も、いくぶんかはそう思っている。

でも、目をみはるほど魅力的な政治家が登場してくれば、そりゃあ応援したくもなる。それが、山本太郎とれいわ新選組だ。日本人にはがんばって国を変えようという気分はあまりないが、お祭り気分で盛り上がりたいというおっちょこちょいな気分はけっこう旺盛だ。けっして政治にも自分の暮らしにも満足しているわけではないが、そもそも「国家意識」というものが希薄なのだ。

われわれ民衆にとって日本列島は、「国家」というよりも、自分たちが住んでいる場所だというくらいの意識しかない。だって四方を海に囲まれて、ほかの国と国境を接していないのだもの、「国家」など意識しようがないし、「愛国心」といわれてもよくわからない。

とはいえ、現在の総理大臣をはじめとする今どきの醜悪な右翼たちは、「愛国心」といいながら、こんなにも国の品性を貶めるような言動や態度ばかりを繰り返して、よくも平気でいられるものだ。卑怯で嘘つきで傲慢で独りよがりで、醜悪そのものではないか。それでも日本人か、といいたくなる。韓国や中国だけでなく、世界中から幻滅されているということがわからないのだろうか。このあたりが島国の民族の悪しき伝統なのだ。外からどんな風に見られているかという意識がまるでない。日本人は日本人とは何かということがわかっていない民族であり、だからその不安を糧にして、外来文化を進んで受け入れてゆくし、外国人による日本人観に素直に耳を傾けてゆきもする。島国に生きてあることのその不安こそが、日本的な「進取の気性」の伝統にもなっている。

まあ世界中どこでも、ナショナリズムに凝り固まってしまうと、どうしても自分を客観視することができなくなる。そうしてそれに同調しないものはどんどん排除してゆくから、結束は強くなるが、集団の規模はとうぜん衰弱・縮小してゆく。人を思考停止に陥らせたあげくに、十把一絡げにナショナリズムという狭い箱に押し込めてしまう。「日本人に生まれてよかった」と合唱していても、十把一絡げに束ねられているだけで、ひとりひとりは孤立して横のつながりなど何もない。これはまさに現在のこの国の状況であり、新しい時代を待ち望む「進取の気性」など何もない。それでも日本人だといえるだろうか。

この国に、ナショナリズムの伝統などというものはない。ナショナリズムを持てないことの不安や嘆きやかなしみを共有しながら、その人恋しさでときめき合い助け合ってゆくのが伝統であり、それをここでは「処女性=たをやめぶり」といっている。

「処女=思春期の少女」ほど「進取の気性」を豊かにそなえた存在もいない。なぜなら、「処女」でなくなってしまうことができるのだもの。彼女らは、それをほとんど怖がっていないし、進んでその新しい世界に飛び込んでゆくことも多い。ここでいう「処女性=たをやめぶり」とは、そういうことだ。純潔だからではない、純潔という社会的正義を潔く捨てることができるからだ。

つまりナショナリズムとは「処女」という「純潔=社会的正義」にしがみついているのと同じであり、彼らは「新しい時代」を受け入れ飛び込んでゆく「進取の気性」と「潔さ」を持っていない。それでは、日本人とはいえない。

日本人とはいえない日本人たちが「日本人に生まれてよかった」と合唱している。

 

 

「やまとごころ」は「処女性=たをやめぶり」の、その「進取の気性」にある。

そして今や、古い政治体制や経済体制に抗して「新しい時代」を目指そうとする動きは世界的な趨勢になりつつあるが、外国と違ってこの国では、不満や怒りを煽ってもあまり大きな動きにはならない。

何しろ「処女性=たをやめぶり」の国だから、あまり大きな不満や怒りは沸いてこない。それよりも「新しいもの」に対するあこがれやときめきの盛り上がりが組織されてこなければならない。つまり、古い体制に抵抗・反抗するのではなく、それを置き去りにしてしまうようなポジティブな動きになることによって、はじめて何かが変わってくる。

この国の民衆の心は、新鮮な魅力に向かってときめき盛り上がってゆく。

立憲民主党をはじめとする既存の野党には、もはや新鮮な魅力はない。したがって現政権を退却させるためには、現在の野党のメンバーを総入れ替えするくらいのことが起きなければならない。そんな魅力はもはや山本太郎とれいわ新選組にしかない。だから、彼らの支持率が立憲民主党を超えて、彼らが主導して野党の再編をしなければならない。今の立憲民主党の支持率を超えることなんかそれほど困難なことでもないはずだし、越えられなければ話にならない。

次の衆議院選挙に向けて、山本太郎とれいわ新選組は、これからどのように活動してゆくのだろうか。

全国的な街宣をしっかりやってゆくというが、山本太郎ひとりでまわっても無駄だ。彼ひとりで獲得できる票数なんか、たかだか100万にすぎない。1500万票を目指すなら、チームで動いたほうがよい。ひとりでのこのこやってきて「横につながってください」と訴えても厚かましい話だ。せっかくあんなにも魅力的なメンバーを集めたのだし、彼自身がそれらのメンバーとゆるく心地よい友情でつながっていることを示すことによって、はじめて聴衆にも説得力を持って伝わってゆく。個人のカリスマ性だけでなく、「ああ、人と人のつながりというのはいいもんだなあ」と思う体験をさせてみせることによって、より大きなムーブメントになってゆく。

また、ひとりでまわっているから、「あいつは目立ちたがり屋のファシストだ」などと揶揄されねばならない。

現在の世相においてなぜ「SMAP」や「嵐」や「AKB」等のグループが大きな人気になるかといえば、横につながることが困難な世の中で、それでも横につながりたいという思いが人々のあいだで疼いているからだろう。

民衆は、ひとりの独裁者を待ち望んでいるのではない。人と人がときめき合い助け合う体験ができるきっかけを与えてくれるリーダーを待ち望んでいるのであり、そこにこそ人間社会の普遍的なかたちがある。

人類史の99・9パーセントの期間は、サル山のようなボス制ではなく、みんなでリーダーを庇護し祀り上げるということをしてきた。文明社会になってはじめて「支配統治者」という「ボス」が登場してきたにすぎない。

この国の天皇はあくまで原始的普遍的なみんなから庇護され祀り上げられている存在として歴史を歩んできたわけで、もともとそういうかたちでリーダーを選びたがる伝統があるのだ。この国の民衆は、歴史の無意識として、みんながときめき合い助け合うためのよりどころ(=象徴)になるリーダーを必要としているのであって、みんなを支配し結束させる「ボス」を待ち望んでいるのではない。

この国の民衆は、権力者に庇護されたいという望みはあまりなく、庇護されなくても仕方がない、と思ってしまうところがある。つまり権力者と民衆のあいだに、そういう「契約関係」がない。民衆が「契約関係」を結んでいるのは天皇であり、天皇はむしろ、民衆から庇護され祀り上げられている存在なのだ。

 

 

人間性の普遍としての人類社会のリーダーは、みんなに盛り立てられるような、あくまで魅力的な存在であらねばならない。それが基本であり、リーダーはまた、だれよりも深く切実に「生きられない弱いものを生きさせたい」という願いを抱いているものである。人類の歴史は、その願いを基礎にして進化発展してきた。この国の天皇が「民の安寧を祈る」とはまさにそういうことであり、そういう気配を深く豊かに漂わせている存在だから、世界中で人気があるのだろう。

この国の皇室は、毎日のように皇居内で「民の安寧を祈る」儀式をしているところであり、平成天皇は80歳を過ぎても欠かさずその儀式に立っていた。そういう日々の行いから漂ってくる気配というのはたしかにあるわけで、これを孔子は「礼」といったし、十字架のキリスト像だって究極の「民の安寧を祈る」姿として祀り上げられているのだろう。つまり、人間社会のもっとも本質的なリーダーは「生贄」であり、そうやって天皇やキリストが祀り上げられている。西洋人だって天皇を前にすれば、キリストを見ているような心地になっているのだ。

だから、山本太郎をこの国のリーダーにしようとみんなが盛り上がっている。彼は、みんなが盛り上がるための「生贄」であり、天皇だって本質的にはそういう存在なのだ。

N国党は徹底的なネガティブキャンペーンで、たしかにNHKに対する一部の国民の怒りはそうとう鬱積しているのだろうが、それが政治的に大きな広がりになるとも思えない。彼らのあの「気持ち悪さ」は今のところおもしろい見世物になっているが、なんだかその場しのぎの後ろ向きの娯楽でしかなく、「新しい時代」を切りひらくムーブメントになるとも思えない。まあ、ネガティブキャンペーンが流行する後ろ向きの時代で、その波にうまく乗っかっているということだろうか。けっきょくあの「鬼畜米英」というネガティブキャンペーンの模倣にすぎないのであり、いつの時代も権力者や権力志向の者たちはネガティブキャンペーンが好きだし、とくに新しい風だというわけでもない。こんなことくらい、現在の政府をはじめとするネトウヨたちがやっているのと同じだろう。

それに対して山本太郎とれいわ新選組の登場には、この歪んで停滞しきった現在の状況におけるまったく新しい感動があった。知識人も庶民も感動した。

N国党には「おもしろがる」ムーブメントだけがあって、「感動」などなかった。ただの憂さ晴らしなどいっときだけのことで、やがて飽きてくる。

この国では、前向きの「感動」がなければ大きなうねりにはならない。だれだって誰かとときめき合い助け合う関係になりたい……その思いを呼び覚ましてくれたのが、れいわ新選組だった。人の心の、だれかに手を差し伸べたいとかだれかを喜ばせたいとか、そういう願いは死ぬまで消えることはないし、その「贈与=ギフト」の衝動にこそ人間性の自然・本質がある。

 

 

バタイユの「蕩尽」ということでもいい。つまり「エネルギーを消費する」ということ。エネルギーがたまれば、それを消費する動きが起きてくるのは、この宇宙の法則だろう。それが「贈与=ギフト」の衝動だ。そうやって命のはたらきもこの世界の神羅万象のはたらきも起きている。

人の心の「贈与=ギフト」の衝動を組織できなければ、社会的な大きなうねりにはならない。それこそが、社会を動かす根源的な要素なのだ。

中世の一揆の首謀者たちはことごとく処刑されたのであり、それと引き換えに徳政令が出されたりした。彼らら「生贄」の役割をみずから選んだのであり、同調した百姓たちだって、女子供を飢えさせたくないという思いで立ち上がった。そこにはたらいていたのは「贈与=ギフト」の衝動だったのであり、自分のためだったらあきらめてしまうのがこの国の伝統風土なのだ。

ただの怒りや鬱憤だけなら大きなうねりにはならない。

あの東日本大震災のときだって、たくさんの人がボランティアに駆けつけたではないか。そういう「贈与=ギフト」の衝動こそ、人間社会の基礎であり究極の心のかたちなのだ。息をすることだって「エネルギーを消費する」いとなみであり、「贈与=ギフト」なのだ。

百姓一揆がそうであったように、「もう死んでもいい」という勢いがなければ大きなうねりにはならないし、「息をする=エネルギーを消費する」ことだって根源的には「もう死んでもいい」という勢いの行為なのだし、だれかに手を差し伸べたいとかだれかを喜ばせたいということもまた、必要以上にエネルギーを消費することなのだから、やっぱり「もう死んでもいい」という勢いの上に成り立っている。

「もう死んでもいい」という勢いこそ人間性の基礎であり、生きものの命のはたらきの根源なのだ。

 

 

ネガティブキャンペーンで憂さ晴らしをすることはあくまで自分が生き延びるためであり、そうやってひとりひとりが孤立してしまっているところに、現代社会の病理がある。N国党に投票した人たちには横の広がりはあっただろうか。ひとりひとりがおもしろがって憂さ晴らしをしていただけだろう。

だれもが「もう死んでもいい」という勢いで他者に手を差し伸べてゆくことによってはじめて横のつながり(=連携のネットワーク)が生まれてくるのだし、れいわ新選組にはそういうムーブメントが生まれてくる気配がある。

ポピュリズム」などといってN国党とれいわ新選組を一緒くたにして語られることも多いが、両者の性格はまったく真逆であり、新しい時代を切りひらく勢いはれいわ新選組にしかない。

NHKやマツコ・デラックスネガティブキャンペーンで憂さ晴らしをしていることと、二人の重度障碍者が国会に行ったことに感動しながらみんなで祝福していることが、同じであるはずがないではないか。

マツコ・デラックスが出演しているテレビ局に100人か200人が押し掛けて憂さ晴らしをしていること、香港の数万人の市民が視聴者に押しかけていることとのあいだには、自分の命にしがみついていることと「もう死んでもいい」という勢いで自分の命を捨てているくらいの違いがある。

「夢中になる」ということは大切だ。いつまでも「憂さ晴らし」に夢中になってなんかいられないだろう。そんなことはまあ、一回やれば気が済むだけの話だし、それを飽きずにエスカレートさせながらしつこく繰り返すとすれば、それはもう病気の範疇だ。

そういうネガティブキャンペーンヘイトスピーチは一過性のものに過ぎないことは世界の歴史が証明している。それを持続させるためには、つねに「戦争」というかたちでエスカレートさせねばならないし、「戦争」が終わったら消えてしまう。必ず消えてしまうから、権力者は、何度も何度も新しくでっち上げてくる。

 

 

現在、この国の権力者による「韓国憎し」のネガティブキャンペーンは、一定の成果を収めているらしい。まあ、売り言葉に買い言葉でおたがいの国の権力者がそうやって張り合っているし、文化や気質の伝統の違いというのもあるのだから、しょうがないという部分もある。しかし、心の底からそんな憎しみをたぎらせているのはほんの一握りだし、権力者に煽られ利用されているそういう者たちは不幸である。

けっきょくN国党だって現在の権力者のしていることを模倣しているだけであり、それに煽られている支持者にせよ、そういうネガティブな情念では、民衆によって新しい時代が切りひらかれてゆくエネルギーにはならない。

人が命がけで頑張ることができるのは「他者」のためであって、自分の憂さを晴らすためなどという後ろ向きの理由では、局地的瞬間的な激情にはなっても、社会的な大きな広がりになることも持続されることもない。

今どきの右翼勢力のネガティブキャンペーンヘイトスピーチなんて、だれもが「自分の憂さを晴らすため」とか「自分の利益のため」にやっているだけであって、「他者に手を差し伸べたい」という「ときめき」などほとんどない。

まあ、古いタイプの左翼勢力だって似たようなもので、現代社会は、人の心をそのように鬱屈させ停滞させてしまうようなシステムになってしまっているのかもしれない。個人であれ国家であれ、他者を攻撃するそんな「憂さ晴らし」など、いっときは盛り上がっても、けっきょくただの「自家中毒」にすぎない。

人間性の自然・本質は、他者に手を差し伸べようとする「贈与=ギフト」の衝動にある。それによって人類は進化発展してきたのだし、その衝動を組織できなければ大きな盛り上がりにならないし、その衝動は女や子供のもとにこそもっとも深く切実に宿っている。

たぶん、女たちが立ち上がらなければ新しい時代はやってこないのだろうし、女たちは、今どきの右翼や左翼の「憂さ晴らし」がしたいというようないじましい性根は持っていない。

大正末期から昭和初期にかけての米騒動の発端になったあの伝説的な「魚津の米騒動」は、名もない漁民の妻たちの「亭主や子供たちに米を食わせてやりたい」という井戸端会議からはじまった。

現在でも「ママ友」とか「公園デビュー」とかという言葉があるように、いつの時代も社会的な「クチコミ」の広がりの中心になっているのは女たちの「井戸端会議」であり、彼女らを魅了する政治家が登場してこなければ時代は変わらない。山本太郎とれいわ新選組は、その対象となることができるだろうか。

れいわ新選組の支持者は女のほうが多いらしい。それは、新しい時代への希望になりうる。

われわれのこの時代が、ネガティブキャンペーンヘイトスピーチに支配されたままでいいはずがない。れいわ新選組のブームは、人々の「生きられない弱いものを生きさせようとする衝動」すなわち「贈与=ギフトの衝動」を歓喜してさらに盛り上がってゆくことができるだろうか。

だれもが女子供のような「生きられない弱いものを生きさせたい」という願いを共有しながら暮らせる社会はやってくるだろうか。その願いを共有しながらゆるーく横につながってゆくこと。若者がストリートに集まってきてストリートダンスやコミケ等のグループが自然に生まれてくる。これこそが原初の人類拡散のかたちだったのであり、ゆるーく横につながってゆきたいという願いは、永遠普遍の人間性の基礎・本質なのだ。そのムーブメントが起きてくることが「人間を取り戻す」ということになるわけで。

 

 

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『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

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『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

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