女子大生だって、やがてOLになる

たしかに現在のこの国の政府とマスコミや民衆の世論まで巻き込んだ韓国叩きというのは醜悪そのものなのだが、もともと扇動に流されやすいおっちょこちょいのナイーブな国民性なのだから仕方がない。政権が代われば、民意だってあんがいかんたんに変わってくる。

もともと四方を荒海に囲まれた島国で歴史を歩んできたのだから、異民族に対する直接的な関係意識は薄い。たとえ嫌いであっても、離れ離れであるならべつにかまわない。日常的に付き合うのなら耐えられないし憎しみもどんどん膨らんでくるのだが、日本人にとって異民族はそういう相手ではない。そこのところが、国と国が地続きになっている大陸諸国とは少し違う。韓国が嫌いといっても、それほど根の深い感情でもない。それに、日本人どうしだって憎しみあわないために「水に流す」という文化を育ててきたのだし、そもそも「憎む」ということを突き詰めることが苦手な民族なのだ。

韓国人の日本に対する憎しみがどの程度のどのようなものかということなどわれわれにはよくわからないし、現在の韓国叩きなんか、それほど本格的な憎しみも伴わないまま、政府のプロパガンダに煽られながら尻軽にぎゃあぎゃあわめいているだけのこと。とはいえそれはきっと危険なことなのだろうが、思想の違う政権と交代して鎮めるようなプロパガンダをすればあっさり鎮まってゆく。

良くも悪くも、おっちょこちょいの民族なのだ。だからまあ、正しいことよりも面白いことに飛びついたりもするわけで、現政権がどんなに強力だろうと、とても魅力的なリーダーが反対側から登場してくれば、一気にそちらのほうに動いてゆくということも起こりうる。

山本太郎は、華があって誠実でひたむきで、現在これほど魅力的な政治家はいないし、まったく新しいタイプのリーダーである。無邪気でおっちょこちょいなのだけれど、誠実でひたむきで、しかも聡明な思考と豊かなアイデアもそなえている。そうして、今回の参議院選挙で自分を犠牲にして重度の障碍者二人を国会に送り込んだことにより、だれよりも「生きられない弱いものを生きさせたい」という願いを熱くひたむきに抱いていることを見せた。

 

 

山本太郎には、たくさんのOLのファンがいるらしい。彼女らはまあ、とくに政治に関心があるわけでもなく、ふだんは政治家の街宣や政治的なデモや集会などには参加しない。それがどうして、会社帰りなどに山本太郎の街宣と出会うと思わず足を止めてしまうのか。

彼女らは、女子大生とは違う世界を生きている。キャンパスライフののどかな気分で会社勤めなどできるはずもない。半分以上は非正規の不安定な身分だし、そうでなくてもひとまずこの社会の現実の風にさらされている。そして恋をするにしても、よほどの大きな企業でないかぎり、たくさんの同世代の男たちと出会える環境ではない。極端な言い方をすれば、恋をするくらいしか楽しみがないし、結婚のことも考えるようになっている。そんな状況で、女子大生のころよりもはるかに、世の男たちやサラリーマンに対する幻滅を体験させられている。たとえ大好きな恋人がいたとしても、そのまわりには社会のシステムに飼い慣らされてすでに輝きを失ってしまったたくさんの男たちがいる。世の中とはこんなものかと思えば、働く気も萎えてくる。

この生を活性化させるのは、物質的な豊かさでよりも、この世界や他者が輝いていると感じることができるかどうかということのほうが大きい。

たとえさしあたって生活に困っていなくても、現在の多くの女たちがこの社会や男たちに幻滅している。いや、うんざりしている、というべきだろうか。どんなに物質的に豊かであっても、それがいい社会だといえるだろうか。

そんな彼女らの前に、大人になってもなおみずみずしいひたむきさと輝きを持った山本太郎が登場した。

山本太郎がOLに人気があるということは、現在の社会の大人たちが若者たちからいかに深く幻滅されているかということのあらわれであり、彼らの意識が後ろ向きで選挙に行きたがらないのも、自分がどんな大人になれるかという希望やビジョンが持てないために、けっきょく「今ここで漂っていられたらそれでよい」という気分になってしまうのだろう。

ひどい世の中だと思うからこそ、このままでよい、と思ってしまう。そしてその責任は、総理大臣をはじめとする現在の権力者たちだけでなく、すべての大人たちにある。

それにしても、この国の現在の政治家たちの、そろいもそろってなんとブサイクなことか。国会中継なんか、エンターテインメントとして何の値打ちもないどころか、げんなりするばかりで、だれがわざわざそれを見ようとするものか。贅沢すぎる望みかもしれないが、やはり魅力的な大人をウオッチできる場でなければ、その気になれない。

魅力的な政治家が登場してこなければ、投票率は上がらないし、現在のこの国は投票率が上がれば野党が確実に勝つわけで、べつに右傾化しているのではない。右翼ばかりが騒々しく元気だというだけのこと。民衆が後ろ向きになって、新しい時代に対する希望を見失っている。大人たちがみなブサイクなのだもの、若者たちが「大人になりたい」という希望なんか持てるはずがない。

しかしそんな時代状況だからこそ、山本太郎とれいわ新選組に対する支持はますます増えてゆくに違いない。なんといってもこの国の伝統も人類史の伝統も、みんなでときめき合い助け合って生きてゆこうとする願いとともにあるのだから。

 

 

みんなでときめき合い助け合って生きてゆくということ、そして生きられない弱いものを生きさせようとする願いを持つこと……それが日本列島の伝統であり、人類普遍の根源的な願いでもある。われわれの歴史の無意識に息づくこの心を、われわれは山本太郎とれいわ新選組によって呼び覚まされたのだ。

だから山本太郎は今どきのOLに人気があるわけで、女たちが立ち上がらなければこの国は変わらない。

今どきのOLや(OL時代に結婚した)主婦たちは、現在のこの国の社会制度に飼い慣らされた男たちやサラリーマンに対する幻滅をもっとも深く抱いている者たちである。こんな世の中だもの、女も大人になれば、男に対する幻滅からは逃れられない。しかし幻滅は、女がもっとも深いところで抱いている男に対する愛でもある。

とすれば、今どきの女子大生には、男に対する幻想がまだ残っていることになる。幻滅していないレベルでは、まだまだ愛が薄いのだ。学生どうしの関係で日々の暮らしが完結している彼女らは、まだ大人の男たちのみすぼらしさを知らない。彼女らが選挙に行かないのは男のことも世の中のこともよく知らないからであり、男子の学生たちも、まあ似たようなものかもしれない。したがって彼ら彼女らが「このままでいい」とか「自民党でいい」とかといっていても、10年先20年先も同じだとは限らない。いずれ世間の風に晒されて幻滅を深くしてゆけば、そういうわけにもいかなくなる。

大人たちに幻滅しているOLや主婦たちが山本太郎とれいわ新選組のような大人たちと出会って「こんな大人たちもいるのか」と感動すれば、投票行動を起こし、世の中も変わってくる。

ともあれ人が人であるかぎり、山本太郎とれいわ新選組のような純粋でひたむきな大人たちは、いつの時代にも必ずどこかにいる。もともと人間とはそういう生きものなのだもの、だから進化発展してきたわけで、そういう大人たちがリードすれば、きっと新しい時代が開かれてくる。

「とりあえずこのままでいい」と思いながら、この世界は衰退し壊れてゆく。それはもう、栄枯盛衰を繰り返してきた文明社会の歴史の法則かもしれない。

 

 

今どきの若者たちが「とりあえずこのままでいい」と思うのは、いい世の中だからではない。それはただの思考停止であり、いい人ぶった大人たちから大人たちに幻滅したらいけないように育てられたからであり、「このままでいいはずがない」と思って新しいオルタナティブな答えを探すような思考訓練をしてこなかっただけのこと。

現代社会はすべてのことに答えが用意されてあり、あらかじめ用意された以外の答えには興味を持たないように教育される。なぜならそれが、もっとも社会システムにフィットしている人間だからだ。そのように育てられた彼らは、「幻滅する」とか「疑う」ということを知らない。

それでもしかし、世の中に出れば多くの者たちがいやおうなく幻滅や疑問を体験させられる。いつまでも「とりあえずこのままでいい」とも思っていられるほど世の中は甘くない。とくに女たちは幻滅という心の動きなしに生きられる生きものではないのだし、幻滅や疑問のないところにオルタナティブイノベーションは生まれてこない。

幻滅することと憎むこととは違う。この社会や自分が生きてあることに幻滅したり疑問を持ったりすればもう、まわりの他者意外に信じられるものなんかなくなる。そうやって人恋しくならずにいられなくなるのだ。

幻滅とは、愛の別名なのだ。

ハンバーガーショップの女子高生たちは同級生の男子の悪口で盛り上がっているし、それによって男子に対する親密な感慨をあたため合っている。つまりそれは、男に対する愛の芽生えでもある。

しかし女子大生になると、しだいに怠惰な感性になってくる。女どうしの関係にライバル意識が強くなってくるから、おたがいにけん制し合って無邪気に盛り上がることができなくなるのだろうか。まあ、女子大生だってさまざまだろうが、自分の人生に対する執着が出てくると、世界や他者に対して「反応」する感受性が鈍くなってくる。就活の面接なんか出たとこ勝負でやればいいだけなのに、むやみにマニュアル本にすがったりする。女子高生に比べると、社会制度が高度に発達した今どきの女子大生は生きることに対する「ライブ感覚」が希薄なっている場合が多い。そうやって社会制度におびえながら取り込まれながら、「自民党でいい」と思ったり、選挙にまったく関心がなくなったりしてゆく。

 

 

女子高生であることを卒業した女子大生が何を失ったかというと、それはおそらく「処女性」なのだ。

「処女性」はすべての女の中に宿っているし、根源的な人間性そのものとして男も含めただれの中にも宿っているものでもある。

処女とは、「非処女」という「新しい世界」に飛び込んでゆくことができる存在である。そういう「潔さ」が「新しい時代=社会」を切りひらく。それに対して多くの女子大生が選挙に行きたがらなかったり自民党に投票してしまったりするのは、自分の現在に対しても将来に対しても、「変わる」ことを嫌がっているからだろう。処女を捨てることができない処女なんか、処女じゃない。処女が処女を捨てることができなかったら、人類の歴史なんか成り立たない。彼女らは、この生に対してもこの世界に対しても、「幻滅」がなさすぎる。

「幻滅」こそ「処女性」であり、「愛」の源泉であり、その「潔さ」によって他者との関係が結ばれ、新しい時代が切りひらかれてゆく。つまり「処女性」とは、この世界や他者に対する豊かな「反応」のことであり、それが女子高生やOLや主婦にはあって、女子大生にはない。彼女らにこの社会の不条理を説いてもほとんど反応がない、と今どきの大学教授がいっている。

しかし彼女らだって、そのままではいられない。卒業してOLになれば、世間や男対する感じ方はもっと切実になる。学生時代の人間関係なんかわりと楽にリセットボタンを押すことができても、世間に出ればそうもいかなくなる。

女は、男よりもずっと深く豊かに世界や他者にときめくことができる存在であると同時に、ずっと深くラディカルに幻滅している存在でもある。女子大生は自分の世界に執着し、OLや主婦たちは、自分の外の世界や他者に幻滅しつつときめいてもいる。

というわけで、20代の若者の多くが自民党支持だといっても、彼らの10年後20年後も同じだとは限らない。

 

 

男や社会に幻滅したOLや主婦は、毎日の同じような繰り返しを大切にして生きながら、それでも「このままでいいはずがない」と「新しい時代」を夢見ている。

保守主義とは、今ここにとどまろうとすることではなく、新しい時代を夢見ることなのだ。

「習慣」とか「習俗」とか「伝統」などということを大切にするのが保守だとしても、それは、今ここを守るためではない。それがなぜ繰り返されているかといえば、新しい時代を夢見ているからであり、新しい時代を夢見続けることが「習慣」とか「習俗」とか「伝統」になっている。

たとえば、村で毎月の寄り合い会議をするのは、問題を解決して新しい時代を切りひらいてゆくためであって、「このままでいい」ならそんなことをする必要もない。なんの理由もなく続けられている習慣や習俗や伝統などないし、昔に帰るためでもない。習慣や習俗の「習」は「練習」の「習」である。伝統文化だって、続けられていれば、どんどん高度に洗練されてゆく。

保守とは探求であり、いわば荒野に分け入ってゆくようなことでもある。「温故知新」という言葉もあるくらいで、それが保守であり伝統である。

保守主義者こそ開拓者(フロンティア)なのだ。新しい時代は、女という保守主義者たちによって切りひらかれてゆく。そんな、社会のステムや男たちに幻滅した女たちが今、山本太郎とれいわ新選組に関心を寄せつつある。彼女たちが立ち上がれば、時代はきっと新しい局面に入ってゆく。

れいわ新選組の安富歩は、「子供を守る」ということを政治原理にしよう、と訴えたが、すなわちすべての女たちの中に宿る「生きられない弱いものを生きさせようとする人間性の自然であり生きものとしての本能でもある衝動」が呼び覚まされて広がってゆけば、きっと新しい時代がやってくるに違いない。もちろん現在のこの腐りきった時代状況においてそんなことが起きるのはほとんど奇跡のようなことだが、ほんの一ミリでも風穴を空けることができれば、希望は持てる。そこから数十年数百年かけて変わってゆけばいいわけで。

れいわ新選組のムーブメントは本質的だからこそ、国家だの正義だのと叫びたがる既成の政治勢力の右翼からも左翼からも攻撃されねばならない。

現在の世界は狂っている。素直に人間らしくあろうとすると、まわりから排除されたり無視されたりしなければならない。人間らしくないことが人間らしいことだと信じられている世の中だから。

人々の思考があまりにいびつになって、人間らしさとは何か、と問いなおさねばならない時代になっている。

 

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キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。