処女性の人類学

日刊ゲンダイが「韓国叩きの卑しさ危うさ浅ましさ……」というような見出しの記事を一面トップに載せていたが、ほんとうにそうだと思う。

テレビの「ゴゴスマ」とか、「週刊ポスト」とか、韓国叩きのヘイトスピーチで商売をしようなんて、ほんとに醜く卑しく浅ましい。まあさっそくたくさんの批判の声で炎上してしまい、あいまいな言い訳の謝罪めいた態度を見せていたが、本音としては、視聴率をとれれば売り上げを伸ばせればこっちのものだ、ということだろうか。

民衆よりもマスコミのほうがずっと卑しさ浅ましさの自覚がない。本気で韓国叩きのヘイトスピーチがしたくてうずうずしている記者や編集者やタレントや評論家がいる。しかもそれは、みずからの思想信条というより、権力に守られたいという「保身」の潜在意識からきているのだろう。それが、卑しく浅ましい。

権力に守ってもらおうとするのではなく、民衆のひとりひとりがときめき合い守り合ってゆくということ、これが日本列島の民衆社会の伝統なのだ。つまり、「国家」とか「神」とかの「大きな庇護」ひとつを頼りにするのではなく、ひとりひとりの小さな世界のささやかな「庇護したいという願い」を無数に集めながら世の中を成り立たせてゆくということ、そういう流儀の権力社会とは別の民衆社会独自の歴史の流れがあったわけで、もともとはそのためのよりどころとして天皇制が機能してきたのだ。

 

 

まあ今のところは韓国叩きのヘイトスピーチが商売になる状況があるのかもしれないが、それがそのまま民衆の総意だというわけではない。そんな情報の消費者はせいぜい1割か2割くらいだが、彼らのその積極的な購買欲によって商売を成り立たせているらしい。ほとんどのものは静観・傍観だし、卑しくあさましいと反発している者だって1割か2割はいて、それが日刊ゲンダイの読者になっている。

現在、ヘイトスピーチとそれに対する反発との割合は五分五分なのだろう。ただ、反発のほうが先に仕掛けてゆくことはあり得ないし、ヘイトスピーチの側はとても熱心でヒステリックで声高だから、どうしてもそちらのほうが目立ってしまう。

したがって静観・傍観している者たちもいずれはヘイトスピーチに取り込まれてゆく危険性もあるわけで、その流れに反発する側からの魅力的なリーダーが出てくることが待ち望まれるのだろうが、既存のリベラル野党にそんなスターはいない。

立憲民主党枝野幸男は、2017年の衆議院選挙の後の一時期はスターになれるチャンスはあったのだが、けっきょく女房子供とカラオケに行ってよろこんでいるような善人のマイホームパパでは、華がないし話にならない。そうやって自分の世界を守ることに耽溺している人間では、命がけで民衆を守ろうとする気概が伝わってこない。それはもう、その後の彼の政治活動や言動にあらわれており、今や多くの民衆ががっかりしてしまっている。

いつの時代も、どんな分野でも、どんなかたちであれ、スターというのは「もう死んでもいい」という勢いを持っている。それを「華がある」というわけで、そういうやくざな気質の「無縁者」でなければスター=リーダーにはなれない。たとえ民衆が自分だけの世界を大切にする存在であっても、民衆と同じ人種ではスター=リーダーにはなれない。なれるのはあくまで「もう死んでもいい」という勢いで民衆社会の「生贄」になれる存在であり、「生贄」だからこそ民衆の側も祀り上げようという気になれる。

「生贄」とは「生きられない存在」であり、それを祀り上げてゆくことは、「生きられない弱いもの」を生きさせようとする人として生きものとしての本能に由来している。人間社会において「生贄」は聖なる存在であり、すべてのスター=リーダーはどこかしらにそういうやくざで悲劇的な気配を漂わせている。

お幸せなマイホームパパでは、どんなに清く正しく聡明であろうと、祀り上げようという気にはなれない。そこに、枝野幸男の決定的な限界がある。

というわけで、山本太郎野党共闘のリーダーにしないかぎり、政権交代など起きるはずがない。

 

 

天皇とはこの国の「生贄」であり、この国に天皇制が存在するかぎり、この国ではそのような気配を漂わせている者でなければスター=リーダーにはなれない。

古代以前の奈良盆地で生まれてきた起源としての天皇は、民衆社会の「生贄」として祀り上げられた「処女の巫女」だった。

原始的な社会が「生贄」を祀り上げることは、世界共通の習俗である。といっても原始社会には「神」という概念などなかったのだから、それは「神」に捧げられたのではない。そして「神」に捧げるためには殺して神の世界に送ってやらねばならないわけだが、「神」という概念などなかったのだから、ただもう集団運営のよりどころ(=象徴)として祀り上げ、みんなで庇護し生きさせていただけである。

原始社会が女優位の社会であったことは人類学の常識だが、女の中でももっとも「超越的」な存在は、「妊婦=母親」ではなく「処女=思春期の少女」だった。

原始人は「妊婦=母親」を崇拝していた、などというのは、凡庸な歴史家の勝手な思い込みにすぎない。縄文土偶は妊婦をかたどっている、とよくいわれるが、べつに乳房や腹が大きく膨らんでいるものなどほとんどない。ずんぐりした体形のものが多いのは、芸術的なセンスとしてのたんなるデフォルメだろう。それは女であることのなやましさやくるおしさを芸術的抽象的に表現したものであって、べつに妊婦をかたどっているのではない。

狩りをする男であれ子を産む女であれ、現実世界の「生産者」であるが、「処女=思春期の少女」は現実世界の外の存在であり、その浮世離れした存在感のなさにこそ人はもっとも「崇高=超越的」な輝きを見る。それは、生き延びるためにどんなに大切な衣食住のものより、まったく無用の金やダイヤモンドの輝きにより大きな価値を与えているのと同じで、人間とはそういう心の動きをする存在なのだ。つまり原始社会は、生き延びようとする欲望ではなく、「もう死んでもいい」という勢いでいとなまれていた、ということだ。

現代人にとって「大人になる」ということは「これから人生がはじまる」ということだろうが、30数年しか生きられなかったネアンデルタール人縄文人にとってそれは、「もうすぐ死ぬ」と覚悟することだった。まあ現代においても、少年少女の時代が人生の花だ、という思いは残っている。

原始社会の人々は処女の「不思議=超越的」な気配にあこがれていて、そこから女権社会になっていった。その社会は、「生き延びる」ことを目的にいとなまれていたのではない。なぜなら命のはたらきは「もう死んでもいい」という勢いとともに活性化するのであり、そういう勢いをもっとも深くラディカルにそなえているのは、けっして強く正しいものではなく、女でありとりわけ処女だからだ。

人は本能的に「処女」にあこがれているし、男であれ女であれ、だれの中にも「処女性」が宿っている。言い換えれば、処女のようなその勢いを持たなければ強いものにも正しいものにもなれない。

人間性とは「処女性」の別名にほかならない。

だから古代以前の奈良盆地の人々は、天皇の前身としての「処女の巫女」を祀り上げていた。

 

 

山本太郎人気の源泉は、「処女性」にある。山本太郎自身も支持者たちも、それぞれの内なる「処女性」を共有しながら盛り上がっている。みんなで他愛なくときめき合い助け合って生きてゆこうということ、それは、とても日本的であると同時に、人類普遍の盛り上がり方でもある。その政策が正しいかどうかということなど問うてもしょうがない。ただもう処女のように純粋でひたむきな山本太郎は人としてとても魅力的であり、そんな彼を中心あるいは先頭にしてみんなで盛り上がってゆこうとしている。

この国の天皇の本質は「処女性」にある。そのことをいちばんよく知っているのは、もしかしたら山本太郎かもしれない。国会議員になりたてのころの彼は、天皇に直訴状のような手紙を差し出した。それは、国会議員の慣習としては禁じ手であり、議員を含めた多くの右翼たちから「不敬だ」と大バッシングを浴び、一時は命の危険にまでさらされた。しかしそれを救ったのはじつは天皇であり、「彼を責めないでほしい」と国民に呼びかけたことによって、右翼からの脅迫行動も沈静化していった。

だから山本太郎天皇にとても感謝しているし、そのとき「政治家であるかぎり、命の危険にさらされても引くべきではない」ということを学んだ。そしてそういう覚悟をもっともラディカルにそなえているのは、「処女」である。

あのときの平成天皇はすでに退位しているが、もしも山本太郎が総理大臣になったら、今までのどの総理大臣よりも天皇との良好な関係を結ぶことができるにちがいない。今のところ彼は、天皇問題についてほとんど発言していないが、無策だということではない。とりあえず経済問題を最優先にして取り組まねばならないと考えているだけだろう。

外交においても、彼が無能であるということなどありえない。他国との友好関係を結ぶことにおいて、現在の総理大臣よりもはるかに有能に違いない。それは、何をどうするかということ以前に人格=人間力の問題なのだ。すべての政策は大臣・議員・官僚・有識者を含めた「チーム」でなされるのであり、リーダーに求められるのは人格=人間力なのだ。

現在は総理大臣が人格破綻者だから、国民までそのようになってしまっている。国家であれ会社であれスポーツチームであれ家族であれ、人間の集団の性格は、リーダーの人格に大きく左右されてしまう。

 

 

現在のこの国の権力社会は、政治の場であれ経済の場であれ教育の場であれ、日本人ともいえないような日本人が集まって運営されている。そうやって外交政策や企業の海外進出等で失敗ばかり繰り返している。

そして現在の世界もまた、社会全体のシステムを変更しないことにはどうにもならない段階に差し掛かっているのだが、そのためにはまず、人間が人間らしく日本人が日本人らしくあることを取り戻さねばならないわけで、それは、外国であれこの国であれ、「処女性」を取り戻す、ということにある。

政治や経済の世界が山本太郎のような純粋でひたむきな「処女性」をそなえた者によってリードされないことには変わるはずがないし、それは、民衆がほんらいそなえているみずからの「処女性」に目覚めるということでもある。

山本太郎とれいわ新選組の登場によって、女たちが目覚めつつある。全体がそうならなくてもよい。女たちが目覚めれば世の中は変わってゆく。

今どきの右翼権力者たちは、女を目覚めさせないために、あるときは家に閉じ込めようとしたり、またあるときは既存の政治経済活動の枠に取り込もうとしたりしているが、女が目覚めるとは、そのどちらでもなく、それらの既存の社会システムの外の、処女のような「無縁者」になることだ。人類は普遍的に、そういう異次元的な気配を色濃く持った存在にあこがれ祀り上げてきたのだし、そのあこがれこそが人類史の進化発展をもたらした。

人は、異次元的なものにあこがれ祀り上げてゆく。だから現実の暮らしになんの役にも立たないきらきら光る貝殻や石粒が貨幣になっていったのだし、子を産む能力もないがその表情やしぐさがきらきら輝いている「処女」が祀り上げられていった。

人類の世界においては、生きるのになんの役にも立たないものこそ、生きるのにもっとも大切で価値がある存在なのだ。なぜなら「もう死んでもいい」という勢いこそもっとも命のはたらきを活性化させるからであり、そのためのよりどころとなる対象が祀り上げられていったわけで、そもそも「祀り上げる」ということ自体が「もう死んでもいい」という勢いの心の動きなのだ。

すなわち「祝福する」ということ、そして「祝福する」心とともに、人は「贈与=ギフト」をする。それは、「もう死んでもいい」という勢いでなされる。

人類が最初に祀り上げていった対象は、「祝福」し「贈与=ギフト」をしたくなる対象だったのであって、自分を守ってくれる「強く正しいもの」だったのではない。その社会は、「守られたい」という欲望によってではなく、「守りたい」という「祝福=贈与=ギフト」の衝動の上に成り立っていた。

原始人には「守ってほしい」という欲望などなかった。なぜなら誰もがすでに他者から守られている存在だったのであり、そういう「もう死んでもいい」という勢いの他者を「守りたい」という衝動が豊かに生成している集団でなければ、「弱い猿」である人類が生き残るすべはなかったし、その勢いとともに進化発展してきた。

現在のこの国のように誰もが「守られたい」という欲望でうずくまっているだけの社会が進化発展するはずがないではないか。そもそも政府が、アメリカに守られたいという欲望でうずくまってしまっている。

 

 

人類史において最初に祀り上げられた対象は、強く正しい支配統治者だったのではない。「もう死んでもいい」という勢いを豊かにそなえた、集団の「生贄」のような存在だったわけで、そういう存在をみんなして生きさせることが集団の活力になった。まあ子供であれ病人であれ老人であれ障害者であれ、そういう存在をみんなして祝福し祀り上げ生きさせていったのだ。

山本太郎ほど深くひたむきに「生きられない弱いものを生きさせたい」という願いを抱いている政治家はいないし、多くの女たちがそこに賛同していった。彼女らは、そうやってみずからの中に宿る「処女性」に目覚め、この歪んだ社会に捧げられた「生贄」である山本太郎を生きさせようとしていった。

神が存在しなかった時代の「生贄」は、みんなして生きさせようとする対象だったのであり、根源的には、すべての「生きられない弱いもの」はこの世の「生贄」であり、この世のもっとも崇高な存在なのだ。

また、崇高な存在でなければ神への捧げものにならない。たとえ罪人であっても、すっかり「みそぎ」を果たさせて神に捧げたし、「死ぬ」ということ自体がひとつの「みそぎ」だともいえる。

人類史における「生贄」の本質は、人の心に宿る「もう死んでもいい」という勢いの形見であることにある。

「処女」とは、「もう死んでもいい」という勢いをもっともラディカルにそなえている存在である。彼女らは、世界や他者の輝きに他愛なくときめき祝福してゆく。「箸が転げても可笑(おか)しい」年ごろなのだ。それは、かんたんに心が「異次元の世界」に超出していってしまうということであり、その「他愛なさ」の中にこそ、人類普遍の「もう死んでもいい」という勢いや「生きられない弱いものを生きさせたい」という願いが宿っている。

そしてその「他愛なさ」にこそ、彼女らの表情やしぐさや姿を美しく輝かせている。

原初の奈良盆地の巫女の踊りなんか、とくに技巧的なものでもなかったに違いない。ただ動くだけといってもいいくらいのものだったのかもしれないが、だからこそ、見るものには、処女のしぐさや姿の美しさが際立って感じられた。現在の芸能・芸術としての舞踊なら技術がとても大きな要素になるが、原初の舞においては、存在(=姿)そのものの美しさが生に出る。現在のディスコダンスなどにおいても、若い娘が踊れば、たとえ下手くそでも、その下手さそのものの姿に、「生きられなさ」という悲劇的な気配が宿り、それなりの愛らしさや美しさを漂わせている。おばさんが下手くそであるのとはわけが違う。

 

 

根源的には、「生きられなさ」こそ、この世のもっとも崇高な姿である。したがってこの国で天皇が祀り上げられてきたことに人類としての普遍性があるとするなら、起源としての天皇は「強く正しい支配統治者」ではなく、その「生きられなさ=悲劇性=崇高さ」の気配によって人々に感動をもたらす存在であったと推察するほかない。

古代以前の奈良盆地の人々は、みんなして「生贄の処女=巫女」を祀り上げ生きさせ、それによって集団が活性化していった。

神が存在しなかった原始社会においては、みんなして「生贄」を生きさせていたのだ。

原初の人類の集団は、サル山のボス制度のように「強く正しいもの」が支配統治するのではなく、みんなして「美しく悲劇的な気配をまとった処女」を集団運営の「よりどころ=象徴=生贄」として祀り上げていった。それが人類普遍の集団性であり、だから文明社会の歴史がサル山のボス制度のような王権支配としてはじまったのであっても、けっきょく現在にいたって「民主主義」が模索されるようになってきている。原初の人類集団のかたちは、究極の未来の集団のかたちでもある。人間の集団は、そのようなかたちでしか活性化しないようになっている。

天皇の起源について考えるのなら、人は根源・本質において何を祀り上げるかということを問うてみなければならない。

われわれは、たまたまこの世に生まれ出てきただけのことで、この命に何の値打ちもない。だが、それでも世界は美しく輝いており、その輝きが自分を生かしているのだし、他者に「生きていてくれ」と願いもする。

人は世界の輝きによって生かされている。だから、美しく輝く対象は祀り上げずにいられない。それが、起源であると同時に究極でもある人の生態なのだ。天皇制はそういう人としての根源的本質的な生態の上に成り立っているから1500年以上続いてきたのだろう。

世界の輝きを祝福することが天皇制なのだ。したがってヘイトスピーチほど天皇制にそぐわないものはない。それがいかに醜いことであるかということが、どうしてわからないのだろう?狂っているとしか言いようがない。まったか、いやな世の中だ。

とはいえ、人が人の心を持っているかぎり、それでも世界は輝いているのだし、その輝きを祝福しようとする動きがこの世から消えてなくなることはない。

難しい話じゃない。たとえあなたが韓国が嫌いであっても、キムチを食えば美味いと思うだろう。それだけのことさ。「ときめき」がなければ人は生きられない。「憎しみ」だけで生きられるほど、生きるのはかんたんなことではない。

「ときめき」とは、「もう死んでもいい」という勢いで心が「異次元=非日常」の世界に超出してゆくこと。「生き延びたい」という欲望だけで生きられるほど、この生は幸せな事態ではない。

この生には「生きられなさ」という不幸が宿っており、それによってこそこの生が活性化する。それを、ここでは「処女性」と呼んでいる。

 

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キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。