非武装中立という処女性

れいわ新選組共産党が、連合政権構想の話し合いを始めるという記者会見があった。

市民たちは、それを歓迎するだろうか。

両党はそれを立憲民主党や国民民主党とのあいだまで広げてゆきたいというが、立憲・国民には共産党アレルギーの議員も少なからずいるし、それが向こう側の主導するかたちになれば、けっきょくあいまいなままいつまでたっても前に進まないということになりかねない。なぜなら、共産党アレルギーの議員たちのほとんどはたぶん、自分が議員でいられるのなら野党のままでいいと思っているし、党首たちも自分が党首であり続けることを優先して考えているからだ。

であれば、れいわ・共産は、いざとなったら袂を分かつという意気込みを示し、なおかつ両党を合わせた支持率が立憲・国民を上回って相手に危機感を抱かせるようにならねばならない。

ほんらいなら、議員でいたいだけとか党首であり続けたいだけという連中は全員追い出すくらいの勢いがなければ前に進まない。

たぶん、国民の男の多くは共産党に対する拒否反応を残していて、立憲・国民の男の議員たちは共産党を排除しなければ国民の支持を得られないと思っているようだが、世の中の女や若者たちはそれほどでもない。

それに、立憲・国民は共産党と敵対関係にある連合の支持を当てにしているという事情もある。現在の連合の幹部たちのほとんどは既得権益をむさぼる「労働貴族」化していて、ときに自民党寄りの政策を要求してきたりする。連合は主に大企業の労働組合によって成り立っており、自民党は大企業だけが繁栄する政策をとり続けている。

もしも現在において、選挙に行かない無関心層の民衆を巻き込んで政権交代を起こそうとするなら、立憲・国民はもはや、連合と決別して共産党と手を取り合う覚悟をしないといけない。連合の資金や票の援助はありがたいのかもしれないが、名もない民衆のほうがはるかに大きな票の塊を持っているのだし、そこを掘り起こさなければ政権交代にはならない。

もちろん共産党天皇制に対する考えは大いに疑問だが、貧しい民衆を掬い上げたいという政治姿勢においては山本太郎と一致している。それに対して立憲・国民は、党首をはじめとして場当たり的な損得ずくで動いている印象があり、今や多くの民衆から幻滅されている。

損得ずくで動く連中をなだめすかして手を組んでゆこうというのだから、れいわ新選組共産党も大変である。

 

 

状況しだいではれいわ新選組だけの独自路線で衆議院選挙に挑む可能性も残されている。そうなったらとうぜん政権交代は遠のくが、立憲・国民両党は大きく議席数を減らし、その後の野党共闘はれいわ新選組中心に傾いてゆくことになる。

じっさいのところ、今や与党も野党も大手術が必要なのかもしれない。政治家が腐りすぎているし、日本人全体もあたりまえの人間らしさを失っている。

だからこそ、人間らしさを取り戻そうとするムーブメントとして、山本太郎とれいわ新選組が熱く支持されている。

今のところ支持者以外は、右翼も左翼もれいわ新選組を「ポピュリズム」などといって過少に評価する傾向があり、そのブームが人間性の本質に由来していることを見ようとしていない。

「生きられない弱いもの」を生きさせようとするのは人間性の本質であり、それは「そうするべきこと」ではなく「そうせずにいられないこと」であり、その「思いの丈」こそが人間性の本質であって、「正しい」とか「賢い」というようなことではない。

立憲民主党枝野幸男は、「正しい」とか「賢い」とかということにとらわれすぎており、そこが彼の政治家としての限界である。民衆はというか人は普遍的にそんなことを第一義にして生きているのではない。山本太郎のような、生きられない弱いものを生きさせようとせずにいられないその熱い思いの丈がなければ、民衆はリーダーとして祀り上げようという気にならない。

「熱い思い」こそが新しい時代を切りひらくのであって、「正しさ」や「賢さ」によってではない。それはもう歴史の法則であり、歴史は人間の計画した通りに動いてきたのではない。

ことに日本列島の民衆社会の伝統においては、「生きられない弱いものを生きさせようとせずにいられない思いの丈」が大切にされてきたのであり、その「思いの丈」のよりどころとして天皇が祀り上げられてきた。

 

 

もともと天皇は、民衆社会の「生贄=生きられない弱いもの」として生まれ育ってきた。

「生贄」を祀り上げることは、人類社会普遍の伝統である。まあ、「生贄」を殺すことも生きさせることも、「祀り上げる」という行為なのだ。

世界の輝きが人を生かしている。だから人は何かを祀り上げずにいられない存在であり、人類社会は昔も今もつねに祀り上げる対象としての「生贄」を必要としている。

「生贄」とは、生きられない悲劇的な存在である。人はその「生きられなさ」を祀り上げる。この世のすべての崇高なものや美しいものや魅力的なものは、この世のものとは思えないような「生きられなさ=生贄」の気配を宿している。だから、冒険活劇の映画のクライマックスでは主人公が死にそうになる。英雄だろうと美女だろうと障害者や病人だろうと、「生きられなさ」の気配においてもっとも崇高に美しく輝く。

人は根源において生き延びるための「正しさ」や「賢さ」や「強さ」を祀り上げるのではない。「生贄」としての「生きられなさ=悲劇性」こそこの世のもっとも崇高で美しい姿であり、そのようにして天皇が祀り上げられてきた。人間社会は普遍的に、そのようにして人と人がときめき合い助け合いながら活性化してゆく。

現在のこの国のヘイトスピーチまみれの社会なんか停滞し病んでゆくだけだし、それは天皇制からもっとも遠い社会状況なのだ。彼らは天皇を賛美しつつ、もっとも天皇を冒涜している。

天皇が、ヘイトスピーチを望んでいるか?総理大臣から名もないネトウヨの民衆まで、その醜く卑しい態度を喜んでいるか?まあそんなことに血道を上げているのは国民の1割か2割くらいのものだが、そういう連中ばかりが時代の表層に立って大騒ぎしているからややこしいことになってしまっている。彼らは、そのことにうんざりしている民衆の多くが目覚めて選挙に行ったりすることをとても恐れている。だからなおさら声高になるわけだが、そうやって異質な他者や「生きられない弱いもの」としてのマイノリティを排除しようとするのは、世界を祝福する装置である天皇制のもとの国民がとるべき態度ではない。

 

 

「祝福」すれば、「贈り物=ギフト」をしたくなる。人の世は、「贈り物=ギフト」の衝動の上に成り立っている。まあ、お母さんが赤ん坊を育てようとすることは「贈り物=ギフト」の衝動であり、そこにこそ人間性の自然も生きものとしての自然もあるわけで、それはだれの中にも宿っているところの、命のエネルギーを消費しようとするごくあたりまえの命のはたらきでもある。

親鳥が雛に餌を与えることは、命のはたらきの自然にかなっている。本能がどうのという必要もない。

もともと猿であった原初の人類は、「贈り物=ギフト」の衝動を特化させることによって「人間」になったわけで、それは、「世界の輝き」に深く豊かにときめく存在になった、ということでもある。

「ときめき」がなければ、人は生きられない。だって、生きていてもしょうがないこの命を生きているのだもの。

物を売ることだって本質的には「贈り物=ギフト」の行為であり、だれもが他者にときめき、だれもが他者を喜ばせようとし、だれもが「生きられない弱いもの」に手を差し伸べようとする社会になれば、もはやあのネトウヨたちに出る幕はないし、そういう社会にさせてなるものかと彼らはがんばる。

彼らは、生きることは競争であり敗者を排除してゆくことだと思い込んでいる。それがまあ現在の社会システムであるし、他者とときめき合うことができないものはそこで生きようとする。しかし人が人であるかぎり、ときめき合い助け合って生きようとする衝動というか願いはあるわけで、ヘイトスピーチまみれの人の世であり続けることはできない。

だれだって、道路を渡れない子供やおばあさんがいれば、手を引いて渡ってやろうとするだろう。それだけのことで、その「贈り物=ギフト」の衝動こそが人間であることを成り立たせているのだし、その衝動が豊かに生成していなければ社会は活性化しない。

現在のこの国の社会は停滞し病んでいる。そんなことくらいはだれもが知っているのだが、それでも「このままでいい」と思っている民衆や「このままでいたい」と思っている既得権益の中にいる支配者やエリートのネトウヨたちがいて、このままのシステムに参加しておこぼれを頂戴しようとしている者もいれば、とにかくヘイトスピーチがしたいだけの理由で現在のシステムを肯定している下層のネトウヨもいる。しかしそんな者たちは、たとえこの社会を動かしていようとこの社会のごく一部であり、ほとんどの者たちは、うんざりしているかあきらめて途方に暮れてしまっているかのどちらかだろう。

 

 

無党派層のほとんどが選挙に行かないのは、それが社会のシステムに参加することだという認識があり、それを拒否しているからだ。意識の高い者たちはもちろんのこと、おバカな若者たちだって潜在的にはそういう認識を持っている。

現在のこの社会のシステムは、参加するに値しない。会社や学校に行くことは仕方ないとしても、選挙にまで参加したくない……彼らはそう思っている。

したがって、「このシステムを壊してしまおう」と呼びかけるものが登場してこなければ、彼らは選挙に参加しない。その呼びかけをしたのがまあ「NHKをぶっ壊そう」というN国党であり、「消費税廃止」を訴える山本太郎とれいわ新組だったわけだが、残念ながら選挙期間中はマスメディアに扱われることがなかったから、ほとんどの無党派層は眠ったままだった。

ともあれ両方とも、今回の選挙結果によってひとまず政党要件を満たした。

れいわ新選組がさらに広く認知されるためには、これからの活動にかかっている。彼らは現在のシステムにしがみついている者たちの反感を大いに買ったが、庶民だけでなく多くの知識人の支持も獲得している。ただのポピュリズムではない。N国党と違って、人としての本性に訴える哲学というか普遍性をそなえている。

民衆の中の人としての本性は、ヘイトスピーチにうんざりしている。人は、人としての本性を置き去りにしてヘイトスピーチに熱中してゆく。

人としての本性は世界の輝きを祝福してゆくことにある。そしてそれをもっとも豊かにそなえているのは女たちであり、現在のこの社会を支配する男たちは、女が目覚めることをもっとも怖れている。男女同権でシステムに参加してくる女はかまわない。しかし女とは本質においてこの社会の外に立っている存在であり、そういうところから「この社会のシステムを変えよう」と声を上げてこられることを、彼らは怖がっている。だから自民党には女の議員が少ないし、今どきの右翼たちは激しく女および女の論理を攻撃する。

まあ戦前の教育勅語は「女の論理」を圧殺するかたちで成り立っているし、現在の小中学校の道徳教育だってそのコンセプトを踏襲している。

 

 

僕はいつだって自分にはない「女の論理」について考えている。そこにこそ人間性の自然・本質というか真実があると思えるからだ。だれも自分の中に真実があるなどと考えるな。それほどご立派な人間なんか、この世のどこにもいない。

「女の論理」の本質は「処女性」にある。まあほとんどの女はすでに処女ではないのだが、だれもがかつて処女であったし、だれもがどこかしらで処女の心でものを考えている。

処女とは「自分の中に真実はない」と考えている者たちだ。そうやって「もう死んでもいい」という勢いで処女を捨てるのであり、すでに「無邪気な少女」であることすなわち「人としての真実」を喪失していることの「かなしみ」を生きているから捨てることができる。

「処女」は、セックスを「したい」のではない。「やらせてあげてもいい」と思うだけであり、彼女らこそもっとも豊かな「贈り物=ギフト」の心の持ち主なのだ。

処女を捨てることは、「もう死んでもいい」という勢いで男に「贈り物=ギフト」をすることである。とはいえそれは、男を愛しているからというようなことではない。そうせずにいられないようなみずからの命に対する幻滅とかなしみを抱えて存在しているからであり、その幻滅とかなしみは、彼女らほどではないにせよ、だれの中にも宿っている。人は、死ぬまでみずからの命に対する幻滅とかなしみを抱えて生きてゆく。

男であれ大人の女であれ、だれの中にも「処女性」は宿っている。それは、だれの中にも人としての真実を喪失していることの「かなしみ」が宿っている、ということだ。その「喪失感=かなしみ」を共有しながら、人と人はときめき合い助け合ってゆく。

そしてわれわれ民衆は、その「喪失感=かなしみ」ゆえに、かんたんに権力者から支配されてしまう。人間なんて、迷子の子供のような存在だ。どうせいつかは死ぬのだし、死が何かということは永久にわからない。その「わからない」ということを背負って生きている存在なのだし、その「わからない」ということに対する愛着こそが豊かな好奇心を生み、この生を活性化させる。

けっきょく男は、女のことなんか「わからない」から、女に愛着や興味を抱く。女のことだけではない、人の心なんかわからないからこそ、人の心を知りたがり人の心に寄り添おうとする。そうやって社会が活性化してゆく。

「わからない」ということと和解し、それを抱きすくめてゆく……それが人の心だ。わかったようなことをいっても、だれの心の底にもそういう「かなしみ」が宿っている。

男には男の「かなしみ」があるし、女には女の「かなしみ」がある。韓国人には韓国人の「かなしみ」があるし、アメリカ人にはアメリカ人の「かなしみ」がある。

とりわけ「処女」の「かなしみ」こそが、もっとも深く純粋で本質的だ。そこのところで男なんか、どんなバカギャルにもかなわない。彼女らの「かなしみ」は深く純粋で本質的だから、男に「やらせてあげてもいい」と思うことができる。

 

 

憲法第九条の「非武装中立」の議論に関して、「人を殺すくらいなら殺されてもかまわないということなどありえない」などというが、処女が処女を捨てるときはまさしくそういう心の動きであり、それは「ありえる」のだ。「ありえない」といえばなんだが正義・正論のように聞こえるが、そういう思考こそ醜く病んでいるのであり、「処女」のように「こんな命などなくなってもかまわない」と思って何が悪い?それでも世界は輝いているし、他者に生きていてほしいと願ってしまう。そういう心が豊かに生成している社会でなければ活性化しない。

生命賛歌とともに自分の命や国に執着しながら「非武装中立はありえない」と信じているほうが、よほどお花畑なのだ。自分の命も自分の国も滅びてしまっていいのであり、そう思うことによって自分の命も国も活性化する。

非武装中立はありえる」ということを、女は本能的処女的に知っている。そういう女たちが目覚めることを、今どきの右翼や支配者たちは怖れている。女たちの「もう死んでもいい」という勢いを怖れている。

たとえそれがどれほど困難なことであっても、それは「ありえる」のだ。「ありえる」とひとまず認識するのが、人としてのたしなみなのだ。

たとえ現実の社会システムを変更して新しい時代を迎えることがどれほど困難であっても、それは「ありえる」のだ。処女が処女を捨てるように、「もう死んでもいい」と勢いで新しい時代に分け入ってゆくのが人間性の自然・本質なのだから。

 

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キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。