選挙に行こう

先の参議院選挙で山本太郎とれいわ新選組は、「生きられないこの世のもっとも弱いもの」としての重度障碍者を先頭に祀り上げて戦った。この態度は、人としてきわめて本質的である。つまりそれは、生きられない存在としての生まれたばかりの赤ん坊をかわいがり生きさせようとするのと同じであり、人類の歴史はそうやって進化発展してきた。

吉本隆明は「大衆の原像」などといって「大衆」を祀り上げる思想を展開したが、人の世でもっとも大切なのは「大衆」ではなく「生きられないこの世のもっとも弱いもの」であり、彼らこそこの世のもっとも崇高な存在なのだ。

また、吉本をはじめとして「市民(=大衆)」とか「生活者」などという言葉が思想上の金科玉条のようによく語られるが、人間の思考の本質は「市民主義」にあるのでも「生活主義」にあるのでもない。人はつねに「生活=この生」の外に対するあこがれ抱いて生きている存在であり、だから「生きられないこの世のもっとも弱いもの」を祀り上げ生きさせようとするし、そうやって「生活の外」に向かってこの生も時代もつねに新しく変化してゆく。

人は、この生に戸惑い幻滅し、途方に暮れている存在である。だからこそ人類の歴史は進化発展してきたのだし、この世でもっともこの生に戸惑い幻滅し途方に暮れている存在は「処女=思春期の少女」であり、その浮世離れした気配を漂わせた姿にこそ彼女らの普遍的な愛らしさと世界中の人類が祀り上げずにいられない崇高さがある。

「愛らしい」とか「いとおしい」と思うことは、「崇高である」と思うことだ。この世のすべての愛らしく愛しいものは崇高である。そして「崇高である」とは、この生の外の「超越的」な存在であるということだ。

人類世界のもっとも謎めいた超越的天上的な存在は「処女=思春期の少女」である。それはもう「心ここにあらず」というようなその表情によくあらわれているし、じっさいにそういう心の状態になってしまう年ごろなのだ。彼女らは、この世に生きてあることに深く幻滅していると同時に、この世界や他者の輝きにもっとも深く豊かにときめいてもいる。そしてそれは、人の心のもっとも自然で本質的なかたちでもある。

今ここの自分やこの生が大切なものであるのなら、人類の歴史に進化も変化もないではないか。生きものは今ここに生きてあることがいたたまれない存在だから、その身体が動くようにできているのだ。

 

 

起源としての天皇は、この世のもっとも天上的な存在として祀り上げられた。そう解釈するのは古事記の上巻の神話と何も矛盾しないはずだし、今でもそのような存在として民衆から愛されている。

中巻以降に奈良盆地の「征服者」であるかのように記されてあるのはおそらく権力社会=大和朝廷がみずからの正当性を誇示するために脚色された話であり、民衆はあくまで遠い昔の神々の世界に対する「あこがれ」を語り伝えていただけだろう。

今どきの右翼は「天皇は国家の家長である」などというが、天皇は、そんな俗っぽい存在ではない。古代以前の奈良盆地の民衆にとっての天皇は、自分たちみずからが祀り上げ生み出していった「生贄」の「かみ」だったし、それを「神々の世界からやってきた征服者」であるということにするのも、ひとまず異存はなかった。どうせ、だれも知らない遠い昔の話なのだから。

人は普遍的に他界=天上界を夢見る存在である。なぜならこの世に生きてあることに幻滅し絶望しているからであり、それと同時にこの世界の輝きにときめいている存在だからである。この世界の輝きは、他界=天上界からもたらされる……人類の神話は、普遍的にそのような世界観で発想されている。だから大和朝廷の権力者たちたちは「天皇は神の末裔である」といったのだし、そうやって権力の正当性を示そうとした。

断っておくが、僕はべつにオカルトやスピリチュアルに興味なんかない。他界=天上界が存在するかどうかという問題ではない。人はなぜそのように発想するか、という問題であり、青い空を見上げたらだれだって天上の世界を思うだろう。それだけのことだし、そういう思考というか心の動きは、原初の人類が二本の足で立ち上がったときからすでにはじまっていたのだ。

起源としての天皇は、この世のもっとも「崇高」な存在として古代以前の奈良盆地の民衆に祀り上げられていたのであって、もっとも強い権力をそなえた「王=支配統治者」として君臨していたのではない。

 

 

奈良盆地のもっとも古い巨大前方後円墳である「箸墓」の被葬者は、三輪山の「かみ」と契りを交わした天皇家の娘ということになっている。つまり、起源としての天皇は、「かみ」と契りを交わした娘、ということになっていたのだ。この話が生まれたのは平安時代以降だという説もあるのだが、とすれば、そのときまでは起源としての天皇はそういう娘だったという認識が民衆のあいだに残っていたことになる。そして江戸時代の天皇だって、ふだんから女の化粧をして生活していたという。「天皇の処女性」こそ古代以来の天皇家の伝統だったのだ。

まあ現在の天皇即位の儀式である「大嘗祭」にも、「<かみ>と契りを交わす」というかたちが残されている。そういう「色ごとの文化」こそ日本列島の伝統の本流であり、この国の歴史においては「色ごと」にもっとも崇高な精神が宿ると認識されてきたわけで、古代以来の天皇の仕事は「色ごと」にあった。

「色ごとの文化」を深く豊かに汲み上げる能力は女の中にある。とりわけ「処女」の「色ごと=初体験」こそこの世のもっとも深く崇高な体験であるということは、人類普遍の共通認識である。

セックスの快感とか、そういう俗っぽい問題ではない。処女にとっての「色ごと=初体験」はひとつの悲劇であり、その悲劇性に崇高さが宿っている。初体験であれ、今どきの若い娘が手首を切ることであれ、集団の生贄になるという歴的な役回りであれ、処女とは悲劇の中に飛び込んでゆくことができる存在なのだ。

女にとってセックスはひとつの悲劇であり、そうやって嘆きつつあえぎつつカタルシス=エクスタシーを汲み上げてゆく。おそらく、すべての女の中に「初体験」の精神性が残っているのだろうし、その「もう死んでもいい」という勢いで悲劇の中に飛び込んでゆく精神性こそが、男も女もない普遍的な人間性の基礎=本質なのだ。

つまり日本列島の「切腹」や「特攻隊」の習俗であれ、そうした普遍的な人間性としての「色ごとの文化」の伝統の上に成り立っているわけで、それは思想や観念の問題ではなく、因果なことに良くも悪くも日本人の「歴史の無意識」なのだ。

「色ごと」を深く崇高な精神性にまで昇華していったところに、日本列島の「色ごとの文化」の伝統がある。

「色ごとの文化」とは、「もう死んでもいい」という勢いで「悲劇」の中に飛び込んでゆく「処女性の文化」でもある。

 

 

戦後のこの国は、戦後復興の高度経済成長で社会がうまく動いているころは70パーセントくらいの投票率があった。しかし現在はこんなにもひどい世の中になってしまって誰もがそれをわかっているのに、それでも投票率が50パーセント前後になっている。

投票率が低いからみんなが満足しているというのではない。日本列島の民衆は、「満足していない」というその「嘆き=悲劇性」に浸って生きてしまうところがある。だから権力者はいい気になって搾取し支配してくるし、民衆は「堪忍袋の緒が切れたとき」にようやく「一揆」のようなかたちで立ち上がる。

現在のこの国の50パーセントの有権者が投票に行かないのは、現状に満足しているからではない。現状を嘆いていて、その「嘆き=悲劇性」を抱きすくめてしまっているからだ。

この国の伝統においては、この生やこの社会に対する嘆きを共有してゆくことによって集団を活性化させてきた。それが「あはれ・はかなし」という美意識であり、「憂き世」という世界観になっている。

つまり民衆は、ひどい世の中だからろくでもない権力者があらわれてくると思っているのであって、ろくでもない権力者がひどい世の中にしているとは思っていない。権力者が世の中をつくっているとは思っていない。世の中は自分たちがつくっている、と思っている。これは歴史の無意識であり、日本列島の民衆は、権力社会とは別の民衆社会独自の集団性の文化をはぐくみながら歴史を歩んできた。

日本列島の民衆は、「国家」などという概念を信じていない。人の集まりとしての「世(よ)」という意識があるだけだ。

おそらく投票に行かなかった層のほとんどは「ひどい世の中だ」と嘆いている者たちであり、彼らは自分のためにも国家のためにも投票所に行かない。この世に自分のためになすべきことなど何もない。人の心や行動をうながしているのは他者との関係であり、彼らは他者との関係にうながされて、はじめて投票所に向かう。自分の一票など無意味で無力だと思う。それはたしかにそうだし、彼らは自分のためにも国のためにも動かない。彼らを投票所に向かわせる契機は、他者との関係にある。だれだって「生きられない弱いもの」に手を差し伸べたいし、「生きられない弱いもの」だってほかのだれかに手を差し伸べたいと願っている。そうやってときめき合い助け合おうとするのは人間性の自然だし、それが日本列島の集団性の文化、すなわち「色ごと」の文化の伝統でもある。

 

 

中世の百姓一揆にしろ明治・大正の米騒動にしろ、べつに国や藩のために立ち上がったのではない。「他者=生きられない弱いもの」を生きさせたいという願いがあっただけだ。

そうして「国や藩など滅びてもかまわない」という覚悟で徳政令を出すことによって国や藩が再生し活性化するということが起きる。一揆も徳政令も、まあ人類普遍の習俗としての一種の「祭り」であり、それは、「もう死んでもいい」という勢いでなされる「再生」のイベントにほかならない。

社会など滅びてもかまわないと覚悟することによって社会は再生し活性化する……これが人類史の法則であり、そうやって「祭り」という習俗が生まれ育ってきた。

したがって、たとえば今どきの消費税を上げるに際しての、その「国を守るため」という思考こそ国を亡ぼす原因になる国なのであり、国など滅びてもかまわないという覚悟で消費税を廃止することこそが再生と活性化につながる。人類の歴史は、「生きられない弱いものを生きさせる」というコンセプトのもとに進化発展してきたのだし、そういうかたちでしか進化発展しないようにできている。

人類の社会は、だれもが「もう死んでもいい」という勢いで自分の命と引き換えに他者を生きさせようとする関係になること、すなわちそうやってときめき合い助け合うことによって進化発展してきたわけで、それが「色ごと=祭り」の文化の本質でもある。

命のはたらきとは、不断の再生、すなわち点滅するはたらきであって、飴の棒のように伸びて繋がっているのではない。そういう命のはたらきから、人類史における「祭り」という「再生」のイベントが生まれ育ってきた。

 

 

選挙に行かない人間のほとんどは、現在の状況に満足しているわけではないし、「このままでいい」とも思っていない。だから投票率が上がれば与野党逆転が起きるわけだし、現在はほんとにひどい状況で暴動が起きても不思議ではないくらいなのに、それでも投票率が上がらない。

日本列島の伝統というかいわば民族性として、日本列島の民衆はひどい状況=悲劇を受け入れ抱きすくめてしまう傾向がことのほか強い。「憂き世」という言葉があるように、世の中はもともと理不尽なものだ、と思っている。その理不尽さを受け入れ共有しながらたがいにときめき合い助け合ってゆくのが、民衆社会の伝統になっている。

この国では、権力が理不尽を押し付けても許される……現在の政権与党は、そのことに気づいてしまったらしい。理不尽を押し付ければ押し付けるほど投票率は下がり、支配は安定してゆく、と。そしてそれはまさに戦前の大日本帝国の統治形態だったわけで、だから戦前の侵略戦争の歴史を強引に修正して正当化し、あからさまに「教育勅語を復活する」などともいってきたりしている。ほんとにひどい。やりたい放題ではないか。民衆はなめられているというより、権力者たちは支配することが正義=秩序だと思っている。支配者が強くて支配される者たちが弱く従順であれば、秩序は安定する。彼らはそれを目指しているし、人類の歴史はそうやって社会が衰退し滅んでゆくということを繰り返してきた。

このままでは社会が滅びる……と多くの人が思っているのに、それでもますます世の中が衰退してゆく。そして、民衆社会が衰退している分だけ、権力社会は元気になってゆく。彼らにとっては権力社会が元気であればそれでよいのであり、大和朝廷の発生以来、民衆なんかそのための消耗品だというくらいにしか思っていない。

ひとまず戦後の民主主義によって権力者の暴走に歯止めがかかったように見えたが、ここにきてまた元の木阿弥になりつつある。

日本列島は伝統的に権力社会とは別の民衆だけの集団性文化を持っているから、どうしても権力社会の政治に無関心になりがちだし、権力社会のやりたい放題の理不尽を許してしまったりする。

50パーセントの投票に行かなかった者たちのほとんどは現在の総理大臣など好きではない。むしろ嫌いである者たちが多い。それでも「どうでもいい」と許してしまっている。

 

 

投票率さえ上がれば、おそらく現在の政権などかんたんにひっくり返る。

だから現在の政権も大企業や金融の資本家たちも投票率を上げさせないように画策しているし、テレビや新聞などのマスコミがそれに抵抗する力と意欲を失っている。そうやってもともと政治に無関心な民衆をますます無関心にさせている。

投票率が上がらないような社会のしくみになりつつあるのだろうか。

現在の世界は政治的にも経済的にもさまざま行き詰まりの状況を抱えているが、少なくとも投票率の低さだけはこの国特有の問題である。

日本列島の民衆は政治の話をしたがらない。わわれわれにとって権力社会は「異世界」であり、ただ隔絶しているというだけでなく、集団性の文化そのものが根本的に違う。権力社会が競争し排除し合う世界であるなら、民衆社会ではときめき合い助け合いながら歴史を歩んできた。

日本人は会議が好きだし、けっして政治に疎い民族であるのではない。古代から村の運営は村の「寄り合い会議」で決めてきたし、権力社会とは別の思想でその会議が成り立っていた。権力社会の会議ではどちらが主導権を持つかとかどちらが正しいかということを争うが、村の寄り合い会議では、だれもが頭の中が白紙の状態になるまでだらだらと話し合う。そうして、だれもがなんとなくの全体の「なりゆき」に従ってゆく。つまり「多数決」で決着をつけるのではなく、「全員一致」になるまでだらだらと話し合う。それが村の寄り合い会議の作法であり、日本列島の民衆の集団性の伝統においては、正しいとか間違っているとかというような「判断=裁き」などしない。「水に流す」ということ、すなわちすべてが無になって消えてゆくカタルシスこそ民衆社会の伝統であり、「色ごと」の文化なのだ。

投票率を上げるためには、それこそ「セクシー」な盛り上がりがなければならない。日本列島の選挙は何が正しいかというようなことを判断する場ではない。ひとつの「祭り」であり、お祭り気分が盛り上がってこなければ投票に行く気になれない。そしてそれは、自分のためでも国のためでもない、「生きられない弱いもの」という他者のためであり、自分も選挙に参加しなければそういう者たちに申し訳ないという気分で行く。「生きられない弱いもの」こそこの世のもっとも崇高な存在であり、みんなしてそういう存在を祀り上げる気分で選挙に行く。つまり、この世界や他者の輝きを祝福し祀り上げる気分で選挙に行く。

そして「生きられないこの世のもっとも弱いもの」はこの世に存在しないということ。まだ生きているのなら、「生きられない」というわけではない。すでにこの世に存在しないもの、すなわち「死者」こそが、「生きられないこの世のもっとも弱いもの」なのだ。

「祭り」の本質はこの世に存在しない「死者」を祝福し祀り上げることにあり、そのように「もう死んでもいい」という勢いで盛り上がってゆくことによって人の心も集団も活性化する。

人としてのこの世界や他者の輝きを祝福し祀り上げる心映えの本質は、「死者」を祝福し祀り上げることにある、それが、人間性というか人の世の成り立ちの基礎になっている。

 

 

この世を「憂き世」と思い定めて生きている日本列島の民衆は、伝統的に権力社会の理不尽な支配をかんたんに許してしまう。

それはもうしょうがない……と思ってしまう。したがって、野党や知識人がそれを批判して扇動しても、なかなか投票率は上がらない。このことは、ここ数年の自公政権による傍若無人な政治支配を覆せなかったことで証明されている。もともと権力社会に興味がないのだから、どんなひどいことをされても恨みも怒りも湧いてこない。

投票率を上げるためには、民衆どうしのときめき合い助け合おうとする関係が盛り上がってこなければならない。

人々のあいだから祝福し祀り上げる思いが起きてこないことには、この国の選挙は盛り上がらない。国のためでも自分のためでもない、みんなで「生きられない弱いもの」としての「他者」を生きさせようとする願いで盛り上がってゆくことが起きてこなければならない。「生きられない弱いもの」は、この社会のシステムの外の存在である。そういう存在を祝福し祀り上げ、みんなしてこの社会のシステムの外に超出してゆくこと、すなわちみんなして新しい時代に飛び込んでゆこうとする動きが起きてくること。その「もう死んでもいい」という勢いによって、はじめて投票率が上がる。

新しい時代に飛び込んでゆこうとする心意気は、男よりも女のほうが豊かにそなえている。なぜなら文明社会における男は、既存の社会システムにはめ込まれて育つからだ。男たちは現在の世の中が変わることを嫌がっているし、女たちは新しい世の中を待ち望んでいる。いつの時代も「憂き世」なのだもの、「新しい世の中」を待ち望むのが日本人の心なのだ。もちろん新しい世の中だって「憂き世」に決まっているが、そうやって永遠に「新しい世の中」を夢見てゆくのが人間なのだ。

女、とりわけ「処女」のような「もう死んでもいい」という勢いを持たなければ新しい時代に飛び込んでゆくことはできない。そういう処女のような非現実的で超越的な「夢見る心」こそがじつは人類史に進化発展をもたらした人間性の本質であると同時にこの国の伝統でもあり、それをここでは「色ごとの文化」といっている。

セックスなんか嫌いだという男や女たちだって「もう死んでもいい」という勢いを持っているし、それがこの国ならではの「色ごとの文化」であり「処女性の文化」であり、そういう「祭りの賑わい」が生まれてこなければ投票率は上がらない。言い換えれば、景気が良くても悪くても、「祭りの賑わい」が生まれてくれば投票率は上がる。

「祭り」の主役は、昔は旅の僧や芸能民や乞食などの「無縁者」だった。今だってけっきょく人々は、この社会の外にはぐれていった者たちを追いかけて「新しい時代」というこの社会の外に超出してゆくのだ。

 

 

1960年代の後半、最初にミニスカートを穿いて街に登場してきた娘たちはこの社会の「はぐれもの=無縁者」すなわちこの社会の「生贄」だったのであり、しかしみんながそれを追いかけて流行という名の「新しい時代」が生まれてきた。

「新しい時代」は、体制側のエリートや権力者によってつくられるのではない。体制からこぼれ落ちた者たちによって切りひらかれてゆくのであり、こぼれ落ちていったん体制の外に出なければ「新しい時代」なんか見えてくるはずがない。

体制の中にいたら、どんなに賢くて誠実だろうというか、賢くて誠実だからこそというべきか、世の中をどんどん身動きできない袋小路に連れて行ってしまう。そうやって戦前のこの国は、侵略戦争を繰り返す泥沼に入り込み、みじめな敗戦を迎えるまで足を抜くことができなかった。

現在のこの国の権力者たちだって、大真面目に正義を主張しながら、この国の空気やシステムをますます澱んで停滞したものにしてしまっている。まあ、総理大臣をはじめとして嘘つきでこすっからくて恨みがましい連中ばかりで、たとえば韓国は許せないとかなんとか、「やめてくれよ」と思う。「正義を主張する」というそのこと自体が醜悪なのだ。

この社会からこぼれ落ちた「無縁者」はけっして正義を主張しないし、そのニュートラルな思考からしか「新しい時代」に向けた清新な風は吹いてこない。

日本人であることは、今どきの右翼が考えるほど単純なことではない。日本人は、日本人であることからこぼれ落ちてゆく。日本人であることができないのが日本人なのだ。だからわれわれは、日本人とは何かということを外国人に問い続けるし、外国人から指摘されてハッとすることは多い。

日本人は日本人であることの外部にあこがれている。そしてそれは、人間であることやこの生やこの世界の外部にあこがれている、ということだ。そうやって人は「超越的」な思考をするのであり、そうやって美しいものや崇高なものにあこがれるのだし、そうやって人と人はときめき合い助け合う。そうやって、自分の命を投げ出すようにして、他者に手を差しのべる。

人が人に「贈り物」をするのは、根源的には自分の命を差し出す行為であり、ひとつの「超越的な思考」なのだ。

日本人が日本人であることは、たんなる「事実」であって、素晴らしいことでもなんでもない。日本人であることから落ちこぼれてゆくのが日本人であり、そうやって他者にときめき、他者に手を差しのべる。

他者に手を差しのべるのは、他者がかわいそうだからではなく、他者にときめいているからだ。「生きられない」という「悲劇」は、崇高で美しい。崇高で美しいものは、この世の外にある。人は崇高で美しいものに対する遠いあこがれを抱いている。

日本列島の民衆社会は、伝統的に権力社会の理不尽な政治に対する「怒り」を組織することができない。それはもう、あの全学連全共闘運動の挫折が証明している。その革命運動は、ついに民衆社会を巻き込むことができなかった。

日本列島の民衆社会の動きが盛り上がるためには、「ときめき」を組織できなければならない。それが「色ごとの文化」の伝統であり、「ときめき」というその「超越的」な心の動きこそが、民衆社会における人や集団を活性化させる。中世の「踊念仏」とか幕末の「ええじゃないか騒動」とか、日本人の心はそうやって「新しい時代」に分け入ってゆく。それはとても猥雑で下品で通俗的に見えて、じつはそこにこそ「死」という崇高で美しいものに対する人類普遍の遠いあこがれが息づいている。

 

 

10

この世でもっとも超越的な存在は、「処女=思春期の少女」である。その代表的な存在はジャンヌ・ダルクだということになるわけだが、「処女=思春期の少女」はみんなジャンヌ・ダルクであり、時代はそこから変わり始める。もっと広くいえば、すべての女の中に宿る「処女性」こそが時代を変える、ということだ。

たとえば、この国の中世の「無常感」は鎌倉武士のあいだから生まれてきたといわれているが、じつはそれ以前の平安朝の女たちはすでに「無常感」の上に成り立つ「あはれ・はかなし」の美意識を生きていたし、それはもう日本列島の民衆社会全体の世界観・生命観でもあったわけで、権力社会の貴族の男や僧侶たちだけが「永遠」を手に入れようとあくせくしていただけなのだ。だから貴族は武士によって滅ぼされたし、権力と結びついた既存の仏教も、「無常感」を基礎とする新興の浄土宗や禅宗に取って代わられていった。

もしも古代から中世への時代のイノベーションがあったとしたら、それは「女の中の処女性」が生み出したのだ。既存の社会制度の外に立っている存在である女でなければ、「無常感」を深く確かに汲み上げることはできないし、「新しい時代」に飛び込んでゆく勇気も潔さも持てない。

何はともあれ「女の中の処女性」が目覚めなければ投票率は上がらないし、「新しい時代」は生まれてこない。「女の中の処女性」は、既存の権力や社会制度にしがみついている今どきの右翼なんか大嫌いだし、不潔(=潔くない)だと思っている。もちろん、まったく色気のない既存の左翼勢力にもがっかりしているのだが。

「色ごとの文化」のこの国においては、色気のない政治家ばかりでは投票率は上がらないし、「新しい時代」は生まれてこない。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

>> 

<span class="deco" style="font-weight:bold;">蛇足の宣伝です</span>

<< 

キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。