今宵逢ふ人みな美しき

新しい天皇・皇后即位の祝賀パレードは、ずいぶん盛大で華やかだった。たしかに車の上のご両人は美しく輝いていたし、それ見守る群衆の目もいきいきと輝いていた。

この光景を見たら、権力者だって改めて天皇の人気を認識し、ますます政治利用しようという野心を膨らませたにちがいない。

現在の総理大臣は天皇家にあまりよく思われていないとのもっぱらの評判だが、鈍感なご当人が気づくはずもないだろうし、天皇を政治利用することに対するつつしみも後ろめたさもさらさらないにちがいない。そうしてこのごろは取り巻き連中も、あれほど頑迷に反対していた「(次は)愛子天皇」という案を容認しはじめているらしい。

まあ民衆の8割以上がその案を支持しているのだから、それを無下に踏みつけにすると政権がひっくり返りかねない、と心配しているのだろう。

もともと「男系男子」とか「万世一系」などということが歴史的事実であるという根拠など何もないのだし、そういういじましい作為性を離れた人の世の自然としての「なりゆき」を大切にする文化の伝統によって天皇制が長く引き継がれてきたのだ。

いちおう「政教分離」のたてまえであるのなら、そんなことは天皇家宮内庁で決めればいいだけのことで、いちいち政治が口をはさむことではない。そういう「不敬」なことはつつしむのが日本人としてのたしなみなのだ。

極端なことをいえば、次期天皇はどこかからもらってきた養子でもかまわない。大切なことは「血筋」ではなく「天皇家で育った」ということであり、それがほんとうの「歴史=伝統の継承」というものだろう。それはまあ「三代続けば江戸っ子」というのと同じで、もとはアメリカ人でも三代続けて日本列島に住めば、まぎれもなく日本人なのだ。

何はともあれ素敵な人が天皇であればそれでよい。

いつの時代も人の世は「憂き世」で、せめてこの世のどこかに素敵な人がいてほしい。そういう「遠いあこがれ」の形見として天皇が存在するわけで、「遠いあこがれ」が息づいている心によって世界の輝きに対する「出会いのときめき」が体験されるのだし、「出会いのときめき」がなければ人は生きられない。

天皇は、この世のどこかに存在するであろう素敵な人であり、身近な対象であってはならないし、ましてや支配するべき対象ではさらにない。だから、「万世一系」だの「男系男子」だのと厚かましいことをいうべきではない。

天皇はその本質においてミステリアスな存在であり、同時にだれにとってもこの世界もすべての他者もその本質においてはミステリアスな対象であるのだし、そういう「不思議」にときめく心の形見として天皇が祀り上げられている。

 

 

不思議すなわち非日常の祝祭……そこから天皇が生まれてきた。だから民衆は即位の礼の祝賀パレードに熱狂するわけだが、政治に無関心な民衆がこんなにも熱狂するということは、天皇を政治的な存在だとは思っていないことを意味する。だから戦後の民衆は、左翼のインテリたちがどれほど「天皇の戦争責任」を煽っても、それを問おうとしなかった。

戦後左翼の蹉跌……50年代の全学連や60年代の全共闘学生運動がけっきょく民衆を巻き込むことができないまま成功できなかったのも、天皇制を否定したからだし、民衆がもともと国の政治に関心がない存在だったからだ。

日本列島の民衆の心を政治に向けさせることは難しい。だからこんなひどい政治がまかり通ってしまうし、政治的な関心をどれほど啓蒙しても投票率は上がらない。選挙が「非日常の祝祭」になって、はじめて盛り上がる。

つまり、ひどい政治を批判するだけでは投票率は上がらない。日本列島の民衆は、みずからのひどい人生を受け入れるようにして、ひどい政治も受け入れてしまう。もしも投票に行くとしたら、他者のために行く。他者に手を差しのべることだって本質的には他者の輝きを祝福する行為であり、そのような気分で投票に行く。

たとえば、山本太郎の街頭宣伝には、たくさんの聴衆が集まってくる。そうして彼がけんめいに「困っている人に手を差しのべたい」と訴えるとき、聴衆は山本太郎が自分を救ってく

れると期待するのかといえば、そうではない、自分も山本太郎のように誰かに手を差しのべたいと思う、そういう祝祭の場として盛り上がっているのだ。

言い換えれば、現在のひどい状況は、人々の心から「誰かに手を差しのべたい」という願いがどんどん失われていっている、ということだろうか。

日本列島の民衆はもともと右翼でも左翼でもなく、たんなるノンポリである。伝統的に「国家」というものを信じていない。それは、四方を荒海に囲まれた島国で「異民族」という存在を意識しない歴史を歩んできたこととともに、国家という政治権力の組織の上に政治権力とは無縁な「天皇」という存在がいる構造になっていたからでもある。

天皇はその本質において、たとえば源氏物語光源氏のように国家の政治権力よりも「色ごと」すなわち「人と人のときめき合う関係」のほうに大きな関心があり、だから今でも「民の安寧を祈る」ということを第一の仕事にしている。そして天皇は「国民」という存在ではなく、「国家の外」の存在である。というわけで天皇を慕っている民衆もまた、国家の政治権力に関心がなく、伝統的に「国民」という意識が薄い。

現在は、50パーセントの民衆が選挙に行かない。彼らに政治的な関心を持たせることは難しいし、彼らは自分のためなんかでは選挙に行かない。彼らは、他者に手を差しのべる、すなわち他者の存在の輝きにときめき祝福する行為として選挙に行く。そういう「非日常の祝祭」の気分の盛り上がりがなければ、投票率は上がらない。

 

 

まったくひどい世の中になってしまったものだと思う。

韓国叩きのヘイトスピーチとかろくでもない大臣ばかりだとか関電賄賂事件とか消費税10パーセントとかセクハラとかパワハラとかいじめとか、その他もろもろ現在の政権のみならず日本人の精神の荒廃は惨憺たるもので、ほんとにひどい世の中になってしまったものだと思う。安楽な人生だからとか苦しいからとかというような問題ではない。苦しい人生でも豊かな「ときめき」を体験して生きている人はいる。

しかしまあそれ以上にろくでもない人間ばかりの世の中で、ますます人間嫌いになってしまいそうだ。何より自分自身がいちばんろくでもない人間だからこそ、自分のことなど忘れて自分以外の人の輝きにときめいていたいのに、うんざりさせられることのほうがずっと多い。

知らない人はみな美しい。しかし知ってしまうと、たいていの場合げんなりさせられる。世の中というのは、そういうものだろうか。家族のあいだだって、もう永久にさよならしたい、と思うことがあるし、家族だからこそ憎み合ったりもする。

世界や他者の輝きにときめく体験は大切だ。それがなければ人は生きられない。だれもが「今宵逢う人みな美しき(与謝野晶子)」というような気分で街を歩ける世の中になればいいと思う。

この国の総理大臣以下の多くのネトウヨたちは、人を憎み差別し嘲り笑うことを生きがいにしている。そうやってどんどん精神も顔つきも醜く歪んでいっているのであればもう、病んでいる、としか言いようがない。

現在のこの国は、醜い日本人が醜い総理大臣を支えて成り立っている。この醜さは総理大臣ひとりの問題ではないし、この醜さは今や世界中に知れ渡っている。

しかしそれでも、この国の人や景色は美しいといって、世界中から観光客がやってきている。

美しい風土だから、醜いものをはびこらせてしまう。

美しい風土は、醜いものを許してしまうというか、醜いものに関心がない。そうやって政治や経済の状況が醜くなればなるほど、無関心になってゆく。どんなに醜い政治経済の状況になっても、街を歩けば「今宵逢う人みな美しき」という気分を体験することができるのが日本的な風土であるらしい。人々は、このひどい政治経済の状況にうんざりしているが、絶望はしていない。なぜなら、絶望するほどの関心がないから。

 

 

まあ世界中どこでも見知らぬ人どうしはときめき合うようにできているし、一緒に暮らせば避けがたく鬱陶しくもなってくる。それが普遍的な人間性であり、そうやって人類は「旅の文化」を育て、地球の隅々まで拡散していった。

美しいものにあこがれるからこそ、醜いものとはかかわりたくない。そうやってこの社会に醜いものがはびこる。「今だけ、金だけ、自分だけ」とかいう、とても日本人社会とは思えないような醜い政治経済の状況がはびこる。

相手のことを知る必要なんかない。知ってしまってうんざりさせられることは多い。だから民衆は、国家の政治や権力者のことを知ろうとしない。

「知らない」ことの大切さというのもある。「知らない」から「知りたい」とも思うのだが、ひとつのことを知ることによってさらに三つの「わからない」ことがあるのに気づいたりする。そうやって人の心は、どんどん「知らない=わからない」ことに分け入ってゆく。「知らない=わからない」ことに引き寄せられてゆくのが人の心の常であり、古代人はそれを「学ぶ」といった。「学ぶ」とは「知らない」ことを知ろうとすることであり、「わからない」という「不思議」に驚きときめくことであって、「知る」ことではない。「知る」ことなんか、永遠にやってこないのだし、だからこそ人の心」から「ときめく」というはたらきも永遠になくならない。

なのに今どきの一部の日本人は、韓国人の何もかもをわかっているかのような顔をしながらあれこれ韓国叩きを繰り返している。おまえらのその薄っぺらな脳みそで韓国人の何がわかるというのか。もちろん韓国人にはどうしてもわからない「日本的なもの」もあるわけで、人と人は、その「わからない」というところでときめき合っているのであり、そうやって「今宵逢う人みな美しき」という体験をする。

 

 

現在の韓国と日本とどちらが正しいかとか、わかったような気になってしゃらくさいことばかり言うな。正しかろうと間違っていようと、嫌いであろうとあるまいと、そんなことはひとまず忘れて、まっとうな関係の可能性について考えるということがどうしてできないのか。

同じ家族どうしならけんかもするし、夫婦が別れたりもする。しかし向こう三軒両隣のご近所が相手なら、たとえ好き嫌いはあっても、付き合いの作法というかたしなみというものがある。道で出会えば、「おはよう」とか「こんにちは」と笑って会釈をする。これは世界共通だろうし、このことの基礎には、「今宵逢う人みな美しき」すなわち「見知らぬ人との出会いはひとつの救いである」という人間性の基礎としての体験がある。「知り合い」だから微笑んで会釈をするのではない。見知らぬ人との出会いのような気分で微笑み合うのが「知り合いどうし」のたしなみなのだ。たとえ夫婦であっても、そういう気分がなければ「ときめき」はない。朝目覚めれば、生まれ変わってこの世のすべてが見知らぬ人との新しい出会いになる……そういう気分で人は「おはよう」という。

見知らぬ人が相手なら、その人格の善悪を裁くことなんかできない。そうやって相手の存在そのものを祝福してゆくことができる。

人の心は、根源において他者の存在を祝福している。

であれば、今どきの右翼のヘイトスピーチなんか、「表現の自由」と「多様性の容認」などという問題ではない。人間性の本質においてあるはずのないいわば病理であり、いずれはすべて治癒・淘汰されねばならない。淘汰してもすぐまたヘイトスピーチが湧いてくるのが文明社会の歴史であるが、そのつど治癒・淘汰してきたのも人間性の歴史なのだ。

人間社会に心の病気の種は尽きないし、病気であれば、いつかきっと治癒される。三島由紀夫は「美しい病気」といったが、人間性の真実は、病気ではない。しかしヘイトスピーチまみれの世の中になったら、人間性の真実が病気にされてしまうわけで、それが、「鬼畜米英」というヘイトスピーチにまみれていた末期の大日本帝国だったのだろう。

あのころの「鬼畜米英」も今どきの「韓国叩き」も、そっくりそのまま同じではないか。韓国が善か悪かという問題ではない。善か悪かと「裁く」ことが病気なのだ。

見知らぬ人を裁くことなんかできない。人間性の真実は、他者の存在そのものにときめき祝福している。世界は輝いている。なのに、こんなくすんだ世界にしてしまったのは、いったい誰なのか。

文明社会に飼い慣らされて生きていれば、制度的な「観念」や「欲望」がどんどん膨らんできて、人間ほんらいの「ときめき」や「あこがれ」や純粋で切実な「衝動」が希薄になってくる。そうして、世界はくすんだ色になってゆく。

しかし世の中は、いつだって文明社会の制度に飼い慣らされた人間と飼い慣らされていない人間がいる。

人間性の真実はけっして滅びないし、だれだって他愛なくときめき合うことができる心はどこかしらに持っている。

 

 

正しいとか間違っているとか好きとか嫌いとかの「判断」はすべて「過去」に対してのことであり、ほんとうの「現在」は「未来に向かう可能性」として成り立っている。そういう「可能性」を問う率直さとひたむきさすなわち「イノセント」こそがここでいう「処女性」であり、それがこの国の文化の伝統であると同時に普遍的な人間性の基礎=本質でもある。人類の知能は、その「イノセント」によって進化発展してきた。

たとえば、現在のもっとも高度な学問は、数学や哲学をはじめとする「基礎学問」である。表面的な現象の分析ではなく、その「本質」を探究すること、その「イノセント」こそもっとも高度な知能なのだ。だから、東大教授であると同時にれいわ新選組の候補者でもあった安富歩は、「子供を守ろう」と訴えた。

「未来」のヴィジョンなど思い描く必要などない。「現在=今ここ」の「細部」に愛着する「イノセント」にこそ、未来に向かう可能性が宿っている。つまり、ただ他愛なくときめき合っていればいいだけのこと、そこにこそ未来に向かう可能性が宿っている。

たとえば、名もない平凡な主婦がある日しょうもない亭主を捨ててシングルマザーになる……たとえそのために貧困に陥ったとしても、政治はそれを応援しなければならない。この国の未来の可能性は、そこにこそ宿っている。

まあ家庭内でセックスレスの主婦がSNSで知り合った相手と不倫をすることだってひとつの「イノセント」であり、そこには、凡庸な政治家や知識人が描く凡庸な「未来のヴィジョン」などよりもずっと確かで切実な「未来に向かう可能性」が宿っている。

知らない者どうしは、相手の存在そのものにときめき合っている。人間は、「知らない」ということを自覚しそのことにときめいてゆくことができる存在であり、そこにこそ人間としての「知」の可能性と「愛」の可能性がある。

人間は「知る」生きものではない。「知りたい」と願う生きものであり、ひとつのことを知れば、そこからさららに三つの「知りたい」という謎=問いが生まれてくる。そうやって「知る」ことには、永遠にたどり着けない。人間は、猿よりももっとたくさんの「知らない=知りたい」ことを抱えている。知れば知るほど「知らない」ことが増えてゆく。そうやって人間は、猿よりもたくさんの「可能性」を持っている。しかしだからこそ永遠に「可能性」を生きるほかない存在であり、「達成」の瞬間は永遠にやってこない。人類の歴史は、そうやって止むことなく進化発展してきた。

知ったかぶりの韓国叩きをしていい気になっているなんて、グロテスクだ。人間なら「知りたい」と願う。その永遠にかなえられない夢を見続けるのが人間であり、それを「愛」ともいう。

 

 

現在の安倍政権下の政治はどうしようもなくひどいものだと思う。しかし、ひどいのは総理大臣だけではない。政治経済を中心とする社会の腐敗と停滞は、今や世界中に広がっている。ほとんどの民衆はそれを望んでもいないのに、避けがたくそうなってしまうようなシステムが出来上がっている。とくにこの国では、政治も経済もいっそうの腐敗と停滞が進んでいる。しかしわかりすぎるほどの停滞と腐敗だから、みんなが選挙に行けば現在の政権なんかかんたんにひっくり返るのに、そういう動きが起きてこない。

この国の民衆は、この国の政治経済を牛耳る者たちの腐敗を許し社会の停滞に甘んじてしまっている。権力社会の腐敗と硬直化した思考が民衆社会にも及んでいて、共犯関係になってしまっている。とくに大人の男たちの思考が完全に骨抜きにされてしまっている。

女たち、とくに主婦や若い娘たちにアピールできなければ、投票率は上がらないし、社会は変わらない。なぜなら彼女らは、社会システムの外の、この世の「細部=辺境」を生きている者たちだからだ。

「女三界に家なし」というように、女はその本質において社会システムの外の「無縁者」である。

「細部」を大切にしなければならない。社会は「細部」から変わってゆく。「細部」とは、たとえば「おはよう」とあいさつすること、人と人が他愛なくときめき合う関係が宿る「細部」を大切にしなければならない。家庭内でセックスレスになった主婦が「不倫」に走るのもそういう「細部」に対する愛着があるからだし、まあこの国の伝統は「色ごとの文化」であり、そんなことはじつは大昔からずっと続いてきたことで、娼婦こそ神(仏)であるという文化なのだ。

彼女らは、政治の未来に対するヴィジョンなど持てないまま、「今ここ」の「細部」に対する愛着=祝福を生きている。「神は細部に宿る」などというが、人間性の真実は彼女らにこそもっとも深く確かに宿っているのであり、いつだって社会はそこから変わってゆく。

言い換えれば、未来は「今ここ」の「細部」に宿っている、女の中にこそ「未来の可能性」が宿っている、ということだ。嫌みな女もたくさんいる世の中だけれど、希望は捨てない、「遠いあこがれ」は人類普遍の心模様なのだから。

 

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キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。