レイシズムとファシズムに関する雑感

高橋洋一という財務官僚出身の評論家が、「石垣のり子は私のことをレイシストだと批判した、名誉棄損だ、許せない!」と息巻いているらしい。

そうして石垣のり子は今、ネット界隈でネトウヨたちから「硬直した左翼原理主義者だ」というような集中砲火を浴びているのだとか。

知ったかぶりの、薄っぺらな批判だ。レイシストレイシストといって、何が悪い?

ネトウヨとは、レイシストのことではないのか。「われわれはレイシストではない」だなんて、笑わせてくれる。

嫌韓ヘイトに熱中している連中なんて、みんなレイシストだろう。他人を冷笑しつつ自分が正しく賢い人間であるかのような顔をして悦に入っている人間なんかレイシストだろう。高橋洋一もすべてのネトウヨも、世の中の多くの人からそのように見られている。

レイシストを毛嫌いして何が悪い?

表現の自由」の名のもとにレイシズムを振りまいて正義ヅラするのは、人間としてとうぜんの権利なのか?

嫌韓ヘイトをレイシズムと呼んで何が悪い?冷笑系の人間をレイシストと呼んで何が悪い?これだって「表現の自由」だろう。

レイシストほど、自分のことをレイシストだとは思っていない。現在の総理大臣も百田尚樹櫻井よしこ杉田水脈青山繁晴も上念司もなんとかという名古屋市長も大阪市長も、そうした「ネトウヨ」と呼ばれている連中はみんなそうだ。まあ彼らは時代に踊らされているだけのただの軽薄才子で、時代が変われば彼らもいなくなるし、彼らの心も変わる。

レイシズムはだれの中にもある。しかし世の中には、それを自覚してできるだけつつしもうとしている人と、自覚がないままそれを野放図にさらけ出してしまっている人がいる。彼らをレイシストだと思っている人間は世の中にたくさんいて、そんなに嫌なら言われないようにしろ、というだけの話だ。何が名誉棄損か。

 

 

現在の与党支持者たちだって、多くはべつにあの総理大臣が大好きだというわけでもない。現在の社会のしくみが変わってほしくないだけなのだろう。セクハラやいじめ等の陰湿な暴力がはびこることも、ヘイトスピーチとともに差別感情(レイシズム)が野放しにされていることも、歴史を修正して大日本帝国ファシズムを賛美することも、共犯者である彼らにとっては極めて都合のいいことらしい。つまり、「新しい時代」が来ることを怖がっているその強迫観念で与党を支持している。

まあ、レイシズムファシズムも、ひとつの強迫観念の産物であり、文明社会はその起源以来つねにそうした強迫観念を抱えて歴史を歩んできた。強迫観念によってつくられたものを「制度=法」という。吉本隆明はこのことを「恐怖の共同性」といった。

とすれば文明社会に生きる人間にとっての「自由」とはそうした強迫観念から解き放たれることであり、日本列島の民衆社会は、その「自由」のための形見として天皇を祀り上げ、権力社会とは別の民衆社会独自の「他愛なくときめき合い助け合う関係」による「無主・無縁」の集団性を確保し洗練させてきた。そしてこの伝統の上に立てば、あの連中がそろって大騒ぎしているようなレイシズムファシズムなど生まれてくるはずがない。

この世で「他愛なくときめき合い助け合う関係」をもっとも深く豊かに体験しているのは女たちであり、女たちが立ち上がらなければレイシズムファシズムを払拭した「新しい時代」はやってこない。世の男たちのさかしらな正義・正論を超えた、その純粋でひたむきな「他愛なさ」こそ日本列島の集団性の伝統なのだ。そういう意味で石垣のり子が高橋洋一を批判し毛嫌いした態度は、それなりに日本列島の伝統にかなっているわけで、これぞ「消費税廃止の女神」ならではの純潔と輝きだ、と称賛されてもよい。

 

 

「社会の分断」は、「対立」から生まれるのではなく「差別」から生まれてくる。「対立」は、たんなる「多様性」の問題であり、たとえばミニスカートを穿きたがる女と穿きたがらない女の関係のようなものだ。地動説と天動説の議論とか、緊縮財政と積極財政とか、憲法改正か護憲かという議論をしたらいけないということもないだろう。新しい時代が生まれてくるときは、とうぜんそうした「対立」は生まれてくるし、人の世はつねに「対立」をはらんでいるともいえる。

レイシズムと反レイシズムは「対立」しているが、この世にレイシズムが存在してよいという理屈など成り立たないし、レイシスト自身が「私はレイシストではない」と人一倍強く主張してくる。この社会にレイシズムを許すような「分断」は存在しない。レレイシズム表現の自由」の範疇には入っていない。レイシストは「これはレイシズムではない」といってレイシズムを差し出すわけで、彼ら自身がレイシズムに「表現の自由」はないことをよく知っている。

レイシズムはこの社会の病理であり、治癒され淘汰されてゆかねばならない。

「分断」は、社会全体で起きているのではなく、一部のレイシストが勝手に「差別」を煽り立て分断線を引いているだけのこと。「差別」とは文明社会で起きている「排除の衝動」であり、相手に対する「恐怖」や「被害妄想」から生まれてくるひとつの「強迫観念」にほかならない。その強迫観念からの解放として、民衆社会は、他愛なくときめき合い助け合う関係の集団性を守り育ててきた。レイシズムを淘汰してゆく集団性こそ、日本列島の伝統なのだ。

嫌韓ヘイトなんか、いずれは淘汰されてゆく。今は権力者たちが煽り立ているからそれに流されているというか踊らされている者たちが一定数いるというだけのことで、日本列島の伝統はそんなことで盛り上がるようにはなっていない。というか、人間性の自然として、世界中の「民衆」はたがいに関心を寄せあっている。

したがって、嫌韓ヘイトなど、日本列島の伝統を大切にする者のとるべき態度ではない。そりゃあ政治外交やスポーツ・芸能や人間関係の文化等の場面で「対立」することもあろうと思うが、韓国人を怖がって「差別」するというのはあまり健康的なことではないし、第三者の外国人から幻滅されることにもなりかねない。

他愛なくときめき合っている日韓両国の若者たちだっている。他愛ないときめきこそ、普遍的な人間性の基礎であり、ひとまずそのことを胸に刻んでおく必要がある。それは、人としてもっともかんたんなことであると同時に、もっとも困難なことでもある。

世の中からレイシズムがなくなることはないが、レイシズムを抱えていることから解き放たれようとする動きがなくなることもない。レイシズムという強迫観念から解き放たれてある、その「他愛ないときめき」こそ、人間性の原点であり究極なのだ。原初の人類はそれとともに二本の足で立ち上がり、地球の隅々まで拡散してゆき、ついには猿のレベルをはるかに超えた大きな集団をいとなむことができるようになっていった。

原初の人類は、二本の足で立ち上がろうと計画して立ち上がったのではない。気がついたらいつの間にか立ち上がっていただけのこと。同様に、大きな集団をつくろうと計画したのではない。みんなが他愛なくときめき合い助け合っているうちに、気がついたら大きな集団になっていただけのこと。

弥生時代から古墳時代にかけての奈良盆地が大きな都市集落になっていったのも、まあそういうことで、べつに「神武東征」の結果などではない。他愛なくときめき合い助け合ってゆく原始的な集団性こそ、この国の民衆社会の伝統なのだ。

 

 

この国には、民衆社会と権力社会との「契約関係」がない。だから両者の集団性に大きな隔たりがあり、前者の原始的な集団性と後者の文明国家の集団性との二重構造の社会になっている。そこがやっかいなところで、大和朝廷の発生以来、民衆社会の集団性はつねに片隅に追いやられてきた。その「他愛なくときめき合い助け合う関係性=集団性」は、つねに「片隅」で生成している。だから民衆社会でも、権力社会から下りてくるレイシズムファシズム等の集団性に踊らされる者も生まれてきてしまう。

しかしこの国の民主主義は、その「片隅」の「関係性=集団性」が洗練し充実しているということこそが希望になるわけで、そのためには「片隅」の存在である「女」たちが立ち上がらねばならない。中世の「一揆」も幕末の「ええじゃないか」も大正の「米騒動」も、「片

隅」から起きてきたのだ。

それは、女が子供を守り育て、そして男とセックスをするという「片隅」の現場から起きてきた……ということだろうか。これが日本列島の伝統の「色ごとの文化」であり、「色ごとの文化」に右翼は似合わない。レイシズムファシズムは似合わない。大日本帝国は似合わない。しかしこの「片隅」の「色ごとの文化」から天皇制が生まれてきたわけで、歴史的な事実としては「神武東征」がはじまりであるのではない。

まあ世界には「アダムとイヴ」の話を本気で信じている人がたくさんいるのだから、この国で「神武東征」を信じて疑わない人が一定数いても仕方がない。そういう「思い込み=迷信」は、じつは原始人や古代人よりも現代人のほうがずっと深い。原始社会に「思い込み=迷信」などというものはなかった。それは文明国家の発生とともに生まれてきたのであり、それを生み出す社会制度(=共同幻想)に縛られながら、そういう病的で錯乱した「観念」を発達させてきたのだ。

右翼であれ左翼であれ、現在の政治思想のほとんどは、そういう病的で錯乱した「観念」から生まれてくる。そんな「宗教」を打ち破ろうとしてマルクスは、「原始共産制」の精神を取り戻そう、と唱えた。

現在のグローバル資本主義は、「みんなで他愛なくときめき合い助け合う」という「原始共産制」の精神をすっかり駆逐してしまったかのように見える。しかしこの島国には、それが権力社会から離れた「片隅」に「色ごとの文化」としてしっかり残されている。今どきの「主婦の不倫」も「ギャルのフーゾク買春や援助交際」も、そうした貞操観念の薄さはひとつの「原始共産制」であり、「色ごとの文化」の伝統なのだからしょうがない。「片隅」の女たちの、そういう「他愛なさ」こそが「新しい時代」が生まれてくる原動力になる。

 

 

現在の大阪の政治状況は、在日朝鮮人差別の本場であるせいか、レイシズムファシズムにまみれた維新の党によって席巻されている。しかしそれとは真逆の政治姿勢である山本太郎とれいわ新選組にもっとも熱い風が吹いているのも大阪である。

大阪には「片隅の文化」が根付いている。そこから、山本太郎とれいわ新選組に対する熱い支持の狼煙が上がり始めている。

山本太郎の全国街宣もいよいよ後半戦に差し掛かり、不思議なことにというかおもしろいことにというか、参議院の選挙中よりももっと盛り上がってきている。

普通、選挙が終われば、いったん風は沈静化する。しかし今回の山本太郎とれいわ新選組に対する風に限っては、逆に選挙が終わってなおいっそう熱くなってきた。それは、参議院の選挙中にはまったくマスコミに報道されず、選挙が終わってようやくれいわ新選組を知ったという人が多いからということもあるかもしれない。また、ここに来てやっと現政権の腐敗が知れ渡り、なおかつ既存の野党に対する幻滅も広がってきた、ということもあるのかもしれない。

さらには、経団連をはじめとする富裕層と結託した政治権力の腐敗に、多くの庶民がなおいっそう追いつめられてもいる。

既存の与党や野党は、このれいわ現象をどう思っているのだろう。放っておけばおくほど、れいわ新選組に対する支持は熱くなってゆく。そうして、たとえ立憲民主党と国民民主党が合流しても、やがてはれいわ新選組に支持率を逆転されてしまうかもしれない。

民衆の既存野党に対する支持は、減ることはあっても、もはやこれ以上増えない。彼らには、「華=セックスアピール」がない。「新しい時代」を夢見る民衆の心は、ことごとくれいわ新選組に向いてゆく。

「片隅」の民衆は、「正しい政策」に賛同するのではない。「新しい時代」を夢見ているだけなのだ。何が正しい未来なのかということなど、だれにもわからない。すべてのことは、やってみないとわからない。彼らの無常感は、世の中とはそういうものだということをちゃんとわかっている。

人類の進化は、未来を計画しながら達成されてきたのではない、われを忘れて夢中になっていった結果として気がついたらそうなっていただけなのだ。

既存の野党には、民衆がわれを忘れて夢中になってゆけるような魅力などない。だから、れいわ新選組と共闘すれば人気をそこに持っていかれてしまうし、しなければなお自分たちの人気は上がらない。進むも地獄、逃げるも地獄……そういうダブルバインドに陥っているらしい。

消費税10パーセントが民衆の暮らしを圧迫していること、すなわち「景気が悪くなりそうだ」ではなく「景気が悪くなってしまった」ということは、今やもう日本中で周知のことになりつつある。あれこれの経済理論が何であれ、現在の野党が大きな支持を得るためには、「消費税を下げる(あるいはなくす)」という旗を上げる以外にすべはない。とにかく現政権を下野させないことには、この腐敗した政治状況も社会状況も変えられない。

僕は天皇制を大切なものだと思っているのだから、べつに左翼ではないはずだが、今どきの右翼なんかインテリから庶民までろくなもんじゃない、といいたい。どいつもこいつもただのレイシストファシストではないか。

僕は自分のことを人間のクズだと思っているが、「日本人に生まれてよかった」と大合唱している今どきの右翼も、ほんとうに愚かで不潔で醜悪だ。

石垣のり子、がんばれ。あなたは「消費税廃止の女神」なのだから、それでよい。女神がさかしらな「正論」に従う必要はない。

女たちが立ち上がらなければ、「新しい時代」はやってこない。処女のように凛として、そしてたをやかに、女の中の「純潔」を守って立ち上がれ。

 

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キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

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『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

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