女はなぜ強姦魔を許して泣き寝入りをしてしまうのか

強姦をした後に、「ごめん、やりたくてたまらなくなってしまったんだよ」と何度も誤れば、女は許してくれるだろうか……?

伊藤詩織レイプ事件の民事裁判で、現在の総理大臣と親交のあった山口何某という元TBSワシントン支局長の被告に有罪判決が出た。

どう考えても有罪になるのが当然の事案のはずだが、刑事裁判では官邸からの圧力があったらしく不起訴になり、そのとき彼女はもう、勝ち誇ったように正義ヅラした右翼の連中からの執拗なセカンドレイプの嵐にさらされ、そりゃあ、ひどいものだった。右翼の政治家から右翼系のジャーナリスト、さらには一般のネトウヨまで、はしゃぎまくって彼女を貶める言論をまき散らしていた。

美人を辱め引きずりおろすのは、一部の男にとっても一部の女にとっても気持ちのいいことらしい。

とはいえ、それが人間のすることだろうか、と思うし、それが日本人のすることだろうか、とも思う。そんな連中が「日本人に生まれてよかった」と大合唱しているなんて笑止千万であり、醜悪極まりない。

そのレイプ犯に対する逮捕状の取り消しには官邸からの圧力があったのはだれもが感じていることだし、TBSに就職させてやるよという餌をまかれたあげくにレイプをされ、しかも就職もかなわなかった彼女の絶望的な屈辱のことを思えば、せめて第三者はそっとしておいてやるのが人情というものだろう。おまえらには「惻隠の情」というものがないのか?それでも日本人か?こんな腐り果てた日本人と一緒にどうしてわれわれが「日本人に生まれてよかった」などと大合唱しなければならないのか。

レイプをした当人の卑劣さはもちろんのことだが、薄っぺらな屁理屈を振り回しながらいい気になってセカンドレイプのバッシングを繰り返していたまわりの右翼たちだって、ほんとにうんざりするくらい醜悪だ。

 

 

また、リベラルな良識派を自認する人が、「だまされて罠にはめられた被害者にも反省の余地はある」というようなことをいっていたが、だまされて何が悪いのか?

その人に問いたい。「あなたは、かんたんに騙される無垢な女と、だまされないしたたかな女と、いったいどちらが好きか?」と。

人間は騙される生きものであり、このことには人間性の真実についての深い意味が隠されている。子供はみんな騙されるし、科学の真実はつねに変更されてゆく。知ることは騙されることだ、ともいえる。太陽や満月が平べったい円盤のよう見えたらいけないのか?騙されないことがそんなに偉いのか?

ある日突然舞い降りてきたコネという偶然の幸運にすがって、何が悪いのか。そうやって就職した女なんかこの世にいくらでもいるし、それが普遍的な社会の実相だともいえる。金持ちの家に生まれた幸運、美人やハンサムに生まれた幸運、賢く育てられた幸運、そして貧乏な家に生まれた不運、美人でも賢くもない不運、世の中や人生なんて幸運と不運の綾織のようなものだろう。

「馬には乗ってみよ、人には添うてみよ」ということわざがあるように、彼女だって、いやな男だとわかっていても、ひとまず我慢してその話に乗ってみよう、と思った。それのどこがいけないのか。そして、もしそれで就職ができるのならレイプのことも許そう、と思った。だから事件の後に彼女は、「就職の件はどうなりましたか?」というメールを男に送っている。就職を餌に肉体関係を要求されることは世の中にいくらでもあることだし、それを甘んじて受け入れるか彼女のように無理やり受け入れさせられるかの違いがあるだけだ、と思い定めた。その「許そう」と覚悟した心根はむしろいじらしいとも潔いともいえる。世の中にはそういうことを自分のほうから仕掛けてゆく女もいるが、彼女の場合はそうではなかった。「就職させてやる、俺にはそれだけの力がある」と餌をまいたのは、あくまで男のほうなのだ。

まあワシントン支局長といえどももともとそんな権限はないらしいが、ひとまず有能なジャーナリスト候補として上司か人事部長に紹介することくらいはできただろうし、そうして面接の末に特別枠で採用されたかもしれない。しかしこの男は、それをしたくなかったのだ。「レイプをした」という弱みを握られている女を同じ会社に置いておくつもりはなかった。たぶん、総理大臣とも親しかったのだし、積極的に動き回ればほかの会社で何らかの仕事の場は与えてやることだってできたはずだが、いっさい動こうとしなかった。それくらい卑劣だったのだ。後ろめたさなどかけらもなかったし、どうせ黙って泣き寝入りするだけだろう、とタカをくくっていた。まあ、そういう成功体験が過去にいくらでもあるのかもしれない。

何しろ相手は、上品で誇り高い美人のお嬢様なのだ。わざわざ自分の人生の傷を世間にさらすようなことはするまい、と思った。

しかし彼女は、敢然と立ち上がった。上品で誇り高い美人のお嬢様だからこそ、そういう卑劣さや醜悪さを許すことができなかった。レイプそのものよりも、男の下品な人格というか、事後の身勝手で卑しい振舞いが許せなかった。

まあ、千歩譲ってレイプをしたことを許すとしても、したからには彼女の就職に責任を持とうとするのが当たり前の人情だろう。それすらもしないで、逆に無視し排除しようとしたというのは、いくらなんでも卑劣すぎる。

また、その後に逮捕状が直前で取り消されるという権力社会の不条理と出会って、ジャーナリストとしての使命感も刺激され、あえて実名も顔も世間にさらした。

 

 

この事件のいきさつを最初から最後まで男と女の問題として考えるのは間違っている。

彼女が就職をお願いし、男がそれを引き受けるそぶりを見せながら寿司屋に誘ったところまでは、たとえ男に下心があったとしても、彼女にとっては純粋な就職活動であり、そんなことは世間にいくらでもある話だ。たとえ相手が女であっても、彼女は同じような行動をとっただろう。短大卒の女が大手のマスメディアに就職しジャーナリストとして活躍しようとしたら、たとえ有能であってもそれなりに大きな壁が立ちはだかっている。

それが道徳的に何であれ、そこまではあくまで純粋な就職活動なのだ。

そのあとに彼女を酔わせてホテルに引きずり込み無理やりセックスをしたところから男と女のややこしい関係になってゆき、男はその関係の事後処理からも逃げた。彼は、二重に卑劣だった。

まあ、事後処理をしようとするような男なら最初からレイプなんかしない、ということかもしれないが。

とにかく彼女は、いったん男を許そうとした。就職を頼んだのは自分なのだし、そういうリスクはもう引け受けるしかない、と腹をくくった。そこは美人のお嬢様のプライドかもしれないし、女としての本能のようなものもはたらいたのかもしれない。

男は「やりたくてたまらない」生きものだし、女は最終的には「やらせてあげてもいい」と思ってしまう本能のようなものを持っている。オスの求愛行動とそれを受け入れるメス、犬でも猫でも鳥でも魚でも、みんなそうやってセックスしているわけで、それが生きものの世界の生殖のしくみだ。

ただ、彼女の場合は、「やらせてあげてもいい」という気持ちなしにやられてしまった。それはきっと、「上品で誇り高い美人のお嬢様」としては耐え難い屈辱だったにちがいない。それでも、ひとまず自分のプライドと女の本能として許そうとした。いったん起きてしまったことはもう取り消せない、と自分に言い聞かせた。そして、相手はきっとレイプをしたことの責任を取って自分に就職をあっせんしてくれるだろう、と思った。それをたんなる打算の損得勘定だけだといってしまうことはできない。女には、レイプを許してしまう本能的な「女のかなしみ」がある。そこに、世のレイプ事件のやっかいさがあり、男はそこに付け込む。

とにかく彼女は、相手は社会的な地位のある大人なのだから、それなりのけじめはつけるだろうと思った。

ところが男は、あくまで知らんぷりを決め込もうとしてきた。

そこでようやく彼女は、世の中にはこんな卑劣な男もいるのか、と気づいた。おそらく彼女は多くの男からちやほやされて生きてきたのだろうし、そんな仕打ちをされるなんてレイプに続いて二重に思いもよらないことだった。つまり、二重にレイプをされた。セカンドレイプは、すでにそこで起きていた。

レイプは、身体的なダメージよりも精神的なダメージのほうがずっと大きい。

女は、男に対する本能的な「やらせてあげてもいい」という信頼を持っている。それはまあ人間そのものに対する信頼でもあり、レイプによってそこのところを打ち砕かれる。娼婦はすべての男にセックスをさせてやることができるが、レイプの被害者はもう、ひとりの男にすらさせてやることができなくなってしまう。彼女は、「やらせてあげてもいい」という女としての本能を破壊され蹂躙された。

女は、男に対して「やらせてあげてもいい」という本能を持っているがゆえに、レイプをされることが決定的なダメージになってしまう。

だれだって人に対する信頼(=愛)の上に立って生きている。とくに「やらせてあげてもいい」と受け入れる本能を持った性存在である女にとって、レイプをされることはもう、もはや生きてゆくことができないくらいの決定的なダメージになる。

「やらせてあげてもいい」という本能が壊れていないのなら、すべての男とセックスをすることができる。しかしそれが壊れたらもう、好きなひとりの男とセックスすることもできなくなる。さらには、この世のすべての人間が怖くなってしまう。

 

 

レイプによってもたらされるのは、主に精神的なダメージであるのだろう。

したがって、セカンドレイプだって、まぎれもなく「レイプ」という犯罪行為なのだ。

花田なんとかという右翼雑誌の編集長とか、百田尚樹とか杉田水脈とか、世のネット界隈にうごめくあまたのネトウヨとか、好き放題に彼女に対するバッシングを繰り返してセカンドレイプをしてきた者たちだってまさに「レイプ魔」であり、ある意味で、ただ押し倒して無理やりセックスすることよりもっと罪深いともいえる。

彼女は、肉体的なレイプには耐えることができたが、精神を蹂躙してくる世の右翼たちが繰り返すセカンドレイプによって死の淵まで追い詰められ、ついには自殺未遂に至った。

セカンドレイプは口=言葉だけだから罪はないと思って彼らは頭(ず)に乗って情け容赦もなく繰り返してくるが、じつはそれが肉体のレイプ以上にひどい暴力であることも多く、それこそが被害者の生の根拠を根底的に蹂躙し破壊するものになっていたりする。

彼女が世間に顔や名前をさらしてでも男を告発しようとしたのも、男の事後の態度の卑劣さというセカンドレイプだったし、それが権力の中枢の「ブラックボックス」を告発するものでもあったから、そのまわりの醜悪な右翼たちによる際限のない凄惨なセカンドレイプへとエスカレートしていった。

しかし同時にそれは世の多くのレイプ被害者の共感を呼ぶことになり、セカンドレイプのすさまじさと同じだけ彼女の中の人に対する愛と信頼を取り戻すきっかけにもなった。

彼女がなぜ顔や名前をさらしてまで立ち上がったのかといえば、おそらく美人のお嬢様のプライドだったのだろうし、世間的な打算を超越した「少女=処女」のようなひたむきさと率直さがあったのかもしれないし、そこまでしないともう自分の中の「人に対する愛や信頼」を取り戻せないと思い詰めたからだろう。

女は「やらせてあげてもいい」という本能を持っている。そこがレイプ被害のやっかいなところで、それによって肉体以上にその本能が蹂躙され破壊されてしまうことにある。世の中にはSMプレイがあるように、無理やりレイプされてエクスタシーを感じることだってあるし、ただ上手に騙され脱がされ犯されだけのことでこの上ない深いエクスタシーに達したとしても、事後の充足などまるでなく、泥のような疲れと無力感にさいなまれることだってある。そうやって女は「やらせてあげてもいい」という本能を巧妙に残酷に踏みにじられたのだ。

女は本能的に男を許している。やりたい一心の男の本能を許している。レイプ犯を許しつつ自己否定の座敷牢に幽閉されてしまう女の本能とかなしみ……そこから抜け出すためにはもう、自分を捨てるしかない。そうやって伊藤詩織は、顔と実名を世間にさらして立ちあがった。それにおそれをなした男根主義・家長主義の右翼たちがいっせいにヒステリックなバッシングをはじめた。彼らは、本能的にレイプをしてもいいと思っている。そういう思いがなければ、戦争を賛美したり侵略を正当化したりすることはできない。まあこのあたりの病的な心理について考え出すときりがなくなってしまうが、とにかくそういうことだ。

「女だってよがっていたじゃないか」という言い分だけで許されるものではない。被害者はそれによって、「愛と信頼」という女としての根拠も人間としての根拠も失ってしまう。

 

 

今どきの右翼の心には、レイプの衝動がうごめいているらしい。

戦前のこの国がレイプのように朝鮮を侵略したということに対して、「朝鮮だってよがっていたじゃないか」と歴史修正主義の右翼たちはいう。彼らにとって他者を凌辱し支配することは、ひとつの理想であるらしい。彼らにはきっと、人間に対するルサンチマンがある。だから「国家」という共同幻想を実体であるかのように思い描いて執着してゆく。「人間(=他者)」よりも「国家」のほうが大事なのだ。右翼の男たちには女に対するルサンチマンがあるらしく、そんな男根主義の男たちが持つ権力に寄っていく女もいて、そこで「右翼」という閉鎖的な村社会が形成され、女たちもはしゃぎまくって彼女に対するセカンドレイプに邁進していった。

レイプはひとつのヘイト思想であり、レイシズムでありファシズムである。21世紀のこの国は、そんな権力によってそんなメンタリティが蔓延するようになってきた。そこに風穴を空けたのが今回の伊藤詩織レイプ事件の判決であった。それは、逮捕令状が権力によって握りつぶされるなどの政治的な事件でもあり、それに対する抵抗運動として彼女は顔も実名も晒して立ち上がった。そうして多くのレイプ被害者の女たちをはじめとする一般の女たちから支持され、ひとまず外国のメディアからも「ME・TOO運動」のひとつとして注目され評価されているらしい。

まあこれは、大正時代の「米騒動」と同様に、女たちが立ち上がることによって時代に風穴を空けるという現象だった。女の本能的な「愛と信頼」の情が結集して盛り上がること、これによってあの卑劣で醜悪な右翼たちが跳梁跋扈するという悪夢のような現在の状況が退潮してゆくのだろうか。

この判決を受けて彼女は、「これまで私をバッシングしてきた人たちに対する名誉棄損の告訴も考えている」と発言した。

すると今、杉田水脈や有本香をはじめとするネトウヨの女たちが、告訴されるまいとして、過去のツイートを消去するなどしていっせいに逃げ腰になってきている。少なくとも民事裁判においてはもう、あの女たちに勝ち目はない情勢であるのだろうし、現政権の威光にも陰りが見えてきている。おそらく総理大臣をはじめとする権力者たちは、わが身を守るためにはあの女たちをさっさと切り捨てるだろうし、あの女たちもそれを承知しているにちがいない。

またあの女たちだって、山口なんとかというレイプ犯の男がまるでセックスアピールも人格的な清廉さもない男だというくらい、女の本能としてわかりすぎるくらいわかっているにちがいない。

とにかくどんなかたちであれ、女たちが立ち上がらなければ新しい時代は生まれてこない。

女の中の「愛と信頼」こそが人の世の基礎になっているのであり、それを守らなければ人の世の未来はない。

 

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