山本太郎は時代の「生贄」である

正月もすでに一週間が過ぎてしまった。

桜を見る会疑惑とか、カジノ疑獄とか、自衛隊のイラン派遣とか、野党のいじましい合流劇とか、ろくでもない政治状況のこの国は、この先いったいどうなってゆくのだろうか?

桜を見る会の追求とか、アメリカ軍によるイラン要人殺害に対する抗議とか、共産党ひとりががんばっている印象だが、国民の意識はおそらくそんなところになく、ちょっと気の毒だと思わないでもない。まあ、天皇制に対する批判を続けてきた歴史があるから、自業自得だという部分もないではない。

ほんらいの天皇制は、共産制と矛盾しない。彼らは、そのことに気づく必要がある。天皇は、民衆が真の共産制や民主主義を育ててゆくことを見守ってくれている。もともと天皇は「見守る」ということ以外には何もしないのであり、そういうかたちでこの国の「生贄」として存在している。

だったら、どうして天皇を責める必要があろうか。

資本主義とか共産主義とか、どんなかたちの社会であれ、「リーダー」は必要だ。ボスが支配する猿の集団と違って人間の場合は、集団の成員がみずからリーダーを祀り上げてゆく。そして祀り上げられているだけのリーダーは「何もしない=支配しない」のであり、集団の成員は、その「祀り上げている」という心を共有しながら自分たちで集団を運営してゆく。それが、原始時代の「共産制」であり、究極の未来の「民主主義」でもあるわけで、われわれはそういう歴史の途中にいる。

猿社会は上からボスの「支配」が下りてくるが、人間の集団性の自然・本質においては、下からリーダーを祀り上げてゆく。したがって祀り上げられている存在には、支配権力は発生しない。むしろ、祀り上げている者たちから「支配されている」ともいえる。これが人類史における「生贄」の起源であり、原初の天皇はまさしくそういう存在だった。

人類は「生贄」を祀り上げる。

「生贄を殺して神に捧げる」などというのは文明国家の呪術信仰が生み出した習俗であり、そのような「宗教」が存在しない原始時代の集団においては、みんなで祀り上げてみんなで「捧げもの」をして生きさせていただけである。「贈与=捧げもの=プレゼント」をするのは、現在まで続いている人間の本能のようなものだ。

人間は「ときめく」存在であり、そうやって「リーダー=生贄」を祀り上げてきた。

まあ今でも、政治家という名のリーダーであろうとする者たちは、さかんに自分が「生贄」であることを強調する。もちろんそんなものはただのポーズで、ほんとうに「生贄」の気配をそなえた政治家は山本太郎ひとりだけだ。

 

人類史においてなぜ「生贄」という存在が生まれてきたか……これは、人間性の自然・本質について考える上での大問題だ。

そして人はなぜみずから進んで「生贄」になろうとするのか。

「生贄」という存在の本質は、「殺して神に捧げる」というようなことではない。神などというものを知らない原始時代から人類は「生贄」を祀り上げてきた。「殺す」ことが「生贄」の本質であるのではない、「みんなして祀り上げる」ということにある。いずれにせよそれは集団運営のための「形見=象徴」としての存在であるわけだが、起源においては集団運営という目的のために生み出されたのではなく、人々のときめき合い助け合う関係の「賑わい」の中から自然に生まれてきただけであり、結果としてそれが猿のレベルを超えた大きな規模の集団を運営するよりどころになっていっただけだろう。

みんなして同じ対象にときめき祀り上げてゆくということ、それによって集団の「賑わい」が盛り上がった。

たとえば、ネアンデルタール人が狩りでマンモスを仕留めて集落に持ち帰れば、みんなは大いに盛り上がっただろう。そのときマンモスは「生贄」だったともいえる。そうしてその獲物を囲んで歌い踊ったかもしれない。盆踊りのようにみんなして踊ったのだろうか。それともだれかひとりが選ばれて踊ったのだろうか。はじめは、ひとりだ。それからだんだん盛り上がってきて全員の踊りになってゆく。その「ひとり」が集団から祀り上げられていったとすれば、それはきっと「処女=思春期の少女」だったにちがいない。

酔っぱらいのオヤジが勝手に浮かれて踊っているだけなら、みんなは笑って眺めているだけで、そこに参加しようとは思わない。ひとりで勝手に舞い上がっているから面白いのだ。

しかし、ひとりの少女の踊りはやがて二人三人の少女になり、最後はみんながそれに感動しながら参加してゆくことになる。ただ面白がるだけではだめだ。「感動」の輪が広がってゆかねばならない。「祭りの賑わい」の底には「感動=ときめき」がある。

人々の「感動=ときめき」の触媒になれる存在、それが「リーダー=生贄」になっていった。

おそらく原始時代の「リーダー=生贄」は、「処女=思春期の少女」だった。「処女=思春期の少女」の姿こそ、人類普遍の「感動」の対象となる他者の姿だった。

人類普遍のもっとも本質的な「他者」とはだれか……この問題は哲学で盛んに議論されているわけで、キリスト教徒やユダヤ教徒イスラム教徒は「それは神である」などというのだが、宗教心のない原始人や日本列島の古代以前の人々にとっては「処女=思春期の少女」だった。人類普遍の「他者」とは、「神=ゴッド」のように自分を支配してくる対象ではなく、その輝きに「感動=ときめき」を抱く対象のことだ。

人の心は、根源においてこの世界や他者の輝きに対する「感動=ときめき」を抱いている。そのことに気づかせてくれるのが「処女=思春期の少女」の姿の輝きであり、彼女ら自身がこの世でもっとも世界や他者の輝きに「感動=ときめき」を抱いている存在でもある。彼女らのその「感動=ときめき」が伝染して「祭りの賑わい」になり、ときめき合い助け合う原始共産制的民主主義的な集団運営のダイナミズムになっていった。

 

女の中の「処女性」こそ人類の集団性のダイナミズムの源泉である。人間性とは処女性のことで、処女性は女だけでなくだれの中にもある。

人類の集団は、みんなして祀り上げてゆく存在を持ったことによって、より豊かにときめき合い助け合う関係になってゆき、ついに猿のレベルを超えた大きな規模の集団を運営することができるようになった。それが、「原始共産制」だ。

僕は、この国やこの社会やこの人生をどうすればいいのかということなどわからないし、考える気もない。どうなっているのだろう、どうなってゆくのだろう、という思いがあるだけです。「判断」などできない。したがってどのように「行動」すればよいのかということもよくわからない。

それでも人は生きているし、たぶん生きてゆく。生きることをうながす何かがはたらいている。べつに生きたいわけでもないが、何かに生きることをうながされている。

生きてゆくことは、死んでゆくことだ。生きることをしたら、死んでゆかねばならない。死にたくなかったら、生きるのをやめるしかない。人間だけでなく、すべての生きものは、「生きたい」という本能を持っているわけではない。生きているなんて死にたいのか、という

話だし、死にたいということが生きたいということだ、ともいえる。

生きてあるということ、すなわち命のはたらきとは、ひとつのパラドックスだ。

「進化」とはひとつのパラドックスであり、生きられない、ともがき身もだえすることによってそれが起きてくる。

生きてあることはなやましくくるおしい。この「いたたまれなさ」が生きてあることをうながしている。この「いたたまれなさ」からの解放として「快感・快楽」がやってくるわけで、それは「いたたまれなさ」を抱きすくめてゆくことでもある。そうやって人類史の進化が起きてきた。

つまり人類史の進化は「死」に向かって生き急いできたことの結果であって、未来に対する計画を実現してきたのではない。

人類にとっての「未来」は、よりよい社会でもよりよい人生でもなく、「死」すなわち「人類滅亡」なのだ。

人類の歴史は、人類滅亡に向かって進化してきた。

 

 

民衆は現在のこのひどい政治状況に対してもっと怒らなければならない、香港の市民のように立ち上がらなければならない……などといわれたりするが、現在のこの国の支配状況はそれほどあからさまではないし、ひどくなればなるほどそのひどさを受け入れ沈黙してしまうという国民性もある。

ひどい権力であればあるほど、その恩恵にあずかって味方する者たちも必ず一定数いる。「悪貨は良貨を駆逐する」……そういう仕組みが出来上がってしまっている。アメリカだって、1パーセントの選ばれた者たちによって99パーセントの善良な市民が支配されている、ともいわれている。そしてそれはまた、この国の戦前の状況でもある。

であればもう、あの「敗戦」のような決定的な崩壊に出会わなければ事態は変わらないのだろうか。

しかしそのとき起きてきた人々の感慨は、「怒り」ではなく「かなしみ」であり、そこから生まれてくるこの国ならではのダイナミズムというものがある。

たとえば90年代にバブル景気が崩壊したとき、人々の「怒り」とか「混乱」というようなことは起きることもなく、その喪失感の「かなしみ」をもとにした「自殺」や「心中」や「人類滅亡」などがモチーフの映画やテレビドラマやアニメがたくさん生まれてきた。それがまあこの国の伝統の流儀で、敗戦のときに人々が渇望したのは、国に何かをしてもらおうというようなことではなく、自分たちの生きづらさをやり過ごすための「娯楽」だった。つまり、国は滅んだのだし、その「滅んだ」ということの「かなしみ=喪失感」を抱きすくめていった。そうした気分を共有していることが日本列島の民衆の集団性のダイナミズムであり、そこにこそ日本人の「進取の気性」がある。計画なんか立てない、ひたすら「滅びる」ということを抱きすくめてゆく……その「もう死んでもいい」という勢いとともに「祭りの賑わい」が生まれてくる。敗戦直後のこの国では、そういう映画や音楽やスポーツ等の「娯楽」を求める「祭りの賑わい」が生まれ、それによって目覚ましい戦後復興が起きてきた。

だから「よい国をつくろう」とした戦後左翼の「計画=プロパガンダ」は、けっきょく民衆を説得することができなかった。そりゃあ、そうだ。「よい国をつくろう」という「計画」のもとに戦争を遂行していったのだもの、そんなこざかしいプロパガンダはもうこりごりだ。「今ここ」でだれもが他愛なくときめき合い助け合う社会になれば、だれもが生きていられる。

また今どきの右翼の、天皇は「男系男子」であらねばならないというさかしらで声高な扇動だって、少しも民衆委の心に届いていない。

とりあえず「よい国をつくろう」というような正義・正論などどうでもいい。「死=滅亡」に対する親密な気分が共有された「祭りの賑わい」とともに民衆の動きのダイナミズムが起きてくる。原初の人類集団だってその「もう死んでもいい」という気分を共有しながら二本の足で立ち上がっていったのであり、そこにこそ人間性の自然・本質がある。

滅んでゆくことこそが、新しい時代が生まれてくる契機になる。日本列島の文化の伝統である「滅びの美学」は、じつは他愛なくときめき合い助け合ってゆく「祭りの賑わい」の集団性の上に成り立っている。

新しい時代が生まれてくることは、現在の時代が「滅びる」ことである。新しい時代が生まれてくるためには、その「滅びる」ということを抱きすくめてゆく気分が共有された「祭りの賑わい」が起きてこなければならない。

 

祭りとは「もう死んでもいい」という勢いで集団が盛り上がってゆくことであり、その集団性は、宗教も文明国家も存在しない時代から生成していた。いやもう、原初の人類が二本の足で立ち上がったときからはじまっていたともいえる。

人類史における「祭り」は、生き延びるための「呪術」や「政治経済」の問題から生まれてきたのではない。つまりそれは、人間の原始的かつ普遍的な集団性であり、文明社会の共同体の運営のために生み出されたのではない、ということだ。

祭りとは、どこからともなく人が集まってきて他愛なくときめき合い賑わってゆく場のこと。それは、集団の外のある一か所にいろんなところからいろんな人が集まってくるのだから、とうぜん見ず知らずどうしの「無主・無縁」の関係であり、しかしだからこそ他愛なくときめき合うことができる。つまり原初の祭りは集団の外で生まれてきたわけで、そこは集団の中に置かれてあることの居心地の悪さからの解放の場である、ともいえる。人類拡散は、そうやって集団の外に「祭り」の場が生まれる現象が無数に繰り返されていったことの結果にほかならない。

したがって祭りは、その本質において、共同体の運営のために生まれてきたということは論理的に成り立たない。だから村はずれの「鎮守の杜」で催されるのであり、そこには近郷近在から人が集まってくる。その「無主・無縁」の関係で他愛なくときめき合ってゆくことができるところに人間の集団性のダイナミズムがあるわけで、そうやってサルの集団性では考えられないような「都市」とか「国家」という無限に大きな集団をつくっている。

「祭り」においてこそ人間の集団性のダイナミズムがあらわれているし、人間の集団はすべて「祭り」だともいえる。

たとえば、コンサートやスポーツのイベントはもちろんのこと、われわれが学校や会社に行くことだって「どこからともなく人が集まってくる」ことだし、商店でものを売ったり買ったりすることもまたつまるところ人間的なそうした生態の上に成り立っている。

 

というわけで「新しい時代」は、どこからともなく人が集まってくる「無主・無縁」の関係で他愛なくときめき合う「祭りの賑わい」が盛り上がってこなければやってこない。

つまり今、山本太郎とれいわ新選組が生み出そうとしているのは、まさしくそうした人間性の本質に根差したムーブメントなのだ。

現在の政権は、経団連日本会議創価学会等の、利害関係の上に固定化された一部の組織票の上に成り立っている。それはまあ猿のボス社会の構造と同じで、少しも人間的ではないし、日本的でもない。で、それに対抗して山本太郎とれいわ新選組は、「どこからともなく集まってくる無主・無縁の人々の他愛なくときめき合い助け合う関係を結集した祭りの賑わい」を生み出そうとしている。そうやって山本太郎の街宣には、たくさんの人々が集まってくる。それはきわめて本質的であると同時に日本的でもあり、人間というはまだまだ捨てたものではないとも思わせてくれる。したがって山本太郎は勝たねばならないし、勝つにちがいないという希望を抱かせてくれてもいる。

山本太郎とれいわ新選組は、無党派層を呼び込んで投票率を上げることができるだろうか。

危ういのは、候補者と支持者との関係が固定化硬直化されてゆき、たとえば安富歩氏のツイッター炎上騒ぎのように支持者が「俺のいうことを聞け」といわんばかりに候補者の思考や行動を縛ろうとしたりすることにあり、そうなったら利害関係でつながった現在の政権と支持者の関係と同じになってしまう。そういう「組織票」だけでは現政権を凌駕することはできないし、無党派層を呼び込んで投票率が上がるというムーブメントは起きてこない。だから安富氏はツイッターで、「支持者」の正義と既得権益を主張するツイートに対して「<支持者>なんか消えてしまえ」と悪態をついてみせたわけで、それはまさにその通りなのだ。そんな排他的なことを繰り返していたら、「無主・無縁」の「祭りの賑わい」は生まれてこない。

「祭り」は集団(共同体)の外の「無主・無縁」の場に出ることによって生まれてくる。そうしてそこで新しい「集団=共同体=時代」になってゆく。それが原始時代の人類拡散以来の普遍的な人類史の伝統であり、それは、集団(共同体)の外に出てゆくことによって新しい集団(共同体)が生まれてくるということ、すなわち命のはたらきは「死=滅びてゆくこと」に向かうことによって活性化するという「進化のパラドックス」でもある。

新しい時代が生まれてくることは、人類滅亡論的に時代を超えてゆくことだ。敗戦後の日本人はまさにそれを実践したのだし、もともとそうやって歴史を歩んできた民族なのだ。

人類の歴史は、未来に向かう「計画」によって進化発展してきたのではない。「滅び」と「再生(あるいは新生)」を繰り返しながら歴史を歩んできたのだ。二本の足で立ち上がった原初の人類はいったんサルとしての能力を喪失し、サルであることから滅んでいったことによって人間になった。

「滅びる」ことに対する親密な感慨は普遍的な人間性であると同時に、日本列島の伝統でもある。

 

「祭り」の本質は、生きものの本能である「死=滅亡」に対する親密な感慨が共有された「集団の賑わい」にある。

人は生きられない弱いものに対してなぜこんなにも親密な感慨を寄せてゆくのだろう。その存在には、「死=滅亡」の気配が深く濃密に漂っている。生まれたばかりの赤ん坊であれ、死にそうな老人であれ、障碍者であれ病人であれ、生きられない命こそこの世のもっとも貴重なものである。

この世のもっとも貴重なものは、死のそばにある。冒険者はそれを探しに出かけるのだし、自殺者も殉教者もそこに引き寄せられてゆく。この世界に生まれ出てきたものはみな、この世界の「生贄」だともいえる。

この世界のヒーローとかリーダーというのは、この世界の「生贄」の気配の鮮やかに漂わせており、その気配をセックスアピールとかカリスマ性という。

だから、ただの善人のマイホームパパが政党の党首になっても国民的な人気は得られないし、どんなに頭がよくて正義・正論を並べ立てても民衆がついてくるとはかぎらない。

「賢人政治」とか「愚民政治」というようなことをいってもしょうがない。今どきはさかしらなインテリや人格者や成功者が、山本太郎のことを上から目線で「ただのポピュリズムだ」と揶揄し批判することも多いが、彼らの言説が山本太郎ほどの大衆に対する説得力を持つことはないし、彼らの思い描く通りに世の中が動いてゆくこともない。セックスアピールを持たない連中が何を言ってもダメなのだ。

この世界は、正義・正論で動いているのではない。セックスアピールこそがこの世界を動かしている。セックスアピールとは、「生贄=滅び=死」の気配のこと。どんなに華やかであっても魅力的なものには、そのような「消えてゆく」気配が漂っている。「消えてゆく」ことこそ快楽の本質だ。きらきら輝いていることは「消えてゆく」ことでもある。すなわちこの世界の「輝き=光」は、「異次元(=死)の世界」からやってきて「異次元(=死)の世界」に向かって消えてゆく。人類の無意識は、そういう「滅び」の気配にこそもっとも強く切実に引き寄せられている。

美しいものの輝き、それは死のそばにある。

山本太郎には、自分を捨てた「命がけ」の気配がある。人々はそこに引き寄せられて集まってくる。まあそれは、れいわ新選組のメンバーに共通した気配であり、山本太郎はそれを「本気の大人」といっていた。立憲民主党枝野幸男や国民民主党玉木雄一郎にはそれがないし、小泉進次郎にいたっては、自分をカッコよく見せようとする自意識ばかりで、しだいにメッキがはがれつつある。

 

柔らかく巧妙に人々を縛っている現代社会のシステムが劇的に変わるということはもはやないのだろうが、それでもこの社会を動かしている支配者たちがいかに愚劣で醜悪かということ気づいてくれば希望がないわけではない。

人間には、「幻滅」する力がある。それは、「ときめく」心の裏側に貼りついている。

山本太郎とれいわ新選組に対する「ときめき」が、現在の社会システムや権力者に対する「幻滅」に気づかせてくれた。

けっきょくこの世の中は人と人の関係の上に成り立っている。世の中なんていつの時代も「憂き世」に決まっているが、人間性の自然としての人と人のときめき合い助け合う関係を取り戻すことができるなら、このひどい社会のシステムも少しずつ改善されてくるのだろう。

この社会を「憂き世」と思い定めて「幻滅」してゆく感慨は女のほうが深い。そして女の幻滅」は、社会に対してだけではない。男に対しても幻滅しつつ、そして男も社会も赦している。女は、幻滅しつつときめいている。

女たちは今、社会に対する「幻滅」と山本太郎とれいわ新選組に対する「ときめき」を共有しつつ盛り上がってきている。

「幻滅」とは、熱く燃え上がるのではなく、ひんやりとした「消えてゆく」心地である。女は「消えてゆく=滅んでゆく」心地のエクスタシーを知っている。川端康成の小説に「しいんといい気持ち」という女のセリフ(『雪国』より)があるが、それは女の中の生きてあることそれ自体に対する「幻滅=かなしみ」でもあった。そのひんやりとした喪失感から、この世界や他者の輝きに対する深く豊かな「ときめき」が生まれてくる。

「幻滅」がなければ、「ときめき」もない。現在の政権や社会システムに対する「幻滅」が共有されていったことによって、そこから「山本太郎現象」という人々が他愛なくときめき合う「祭りの賑わい」が生まれてきた。その中心に、女たちがいる。女とは、深く「幻滅」し、他愛なく豊かに「ときめく」存在である。

山本太郎は、その「祭りの賑わい」の触媒にすぎないのであり、主役はあくまでそこに集まってきた女たちであらねばならない。女たちの「祭りの賑わい」が、この閉塞した社会を動かす。中世の「一揆」であれ、幕末の「ええじゃないか騒動」であれ、大正の「米騒動」であれ、主役はあくまで名もない女たちで、男たちはそこに引きずられていただけだった。この国の伝統においては、女たちが立ち上がらなければ時代は動かない。

 

この国の民主主義は、女たちが立ち上がらなければ実現しない。とはいえそれは、女の自立とか解放を叫ぶフェミニズムとはちょっと違う。女は女のために立ち上がるのではない。「消えてゆく」ことのエクスタシーを知っている女たちは、自分を捨てて男や子供たちのために立ち上がる。したがって、女と男の関係を分断してしまうフェミニズムがすべての女たちに支持されることはない。

言い換えれば、現在の社会の停滞・硬直化は、男たちが男としての既得権益を守ろうとして、女たちが立ち上がることを許さない仕組みになっていることにもあるのかもしれない。

新しい時代に飛び込んでゆく心意気は、女たちのほうがずっとラディカルにそなえている。その「もう死んでもいい」という勢いこそ、命のはたらきの本質なのだ。

格差社会になったといっても、貧しい男たちの意識だって、まだまだ男としての既得権益にしがみつき「現在の政権のままでいい」などという。どんなにひどい世の中になっても、男たちが立ち上がるということは、あまりあてにならない。男は、生まれたときからずっと社会のシステムに組み込まれて育ってしまう。どんなに威勢のいいことをいっても、知らず知らず時代に踊らされてしまっている。とくにこの社会のエリートである者たちがほんとに社会のシステムの外の「無主・無縁」の場に立とうとするなら、たとえば安富歩のように思い切って女性装をするくらいの決断が必要になる。それは、彼の人生におけるひとつの「自己処罰」だった。

女は「自己処罰」することができる。おそらくそれによって処女を喪失し、妊娠・出産・子育てをし、それによってセックスの深いエクスタシーを汲み上げている。

この世の多くの男たちは「自己処罰」ができない。この社会のシステムによって、この社会のシステムを守っている自分を守るように仕向けられている。だから女に比べると「幻滅」も「ときめき」も中途半端なのだ。

女は、幸か不幸か存在そのものにおいてすでにこの世界の外に置かれているわけで、そういう女たちが立ち上がって新しい時代が切りひらかれてゆく。

 

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初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたものです。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

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『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

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