消えてゆくお金の意味と価値……現代貨幣理論は正しいか?

ここで貨幣の起源と本質について考えようとしたきっかけは、経済学者の安富歩氏のある発言がとても気になったからだ。

彼は、「お金(貨幣)はほんらい意味も価値もない」といった。

僕は、東大教授である彼の研究がいかに幅広く高度で深いものであるかということに異論をさしはさむつもりなどないし、人間的にもとても魅力的だと大いに好感を抱いてもいるのだが、庶民に向けたそのもっと基礎的な貨幣の本質についての説明には、大いに疑問がある。

まあ彼だけでなく、世の中の多くの研究者や評論家がこのような前提で貨幣や経済のことを語っていて、インテリ世界の常識だ、といってもいいのだろう。

1万円札がただの紙切れだというくらいはだれでもわかるが、歴史の無意識としての「貨幣」という概念に対する人々の思い込みというか信憑は、「本質においては意味も価値ない」というような認識ではすまない何かがある。これは、人間存在の本質にかかわる問題だ。

見かけはただの紙切れでも本質において意味も価値もあるからこそ、それが今なお「貨幣」として流通しているのだし、今やただの数字でも「貨幣」になりえているのだ。

安富氏は、こういう。

「たとえば昭和31年(=60年前)の十円玉は今やどこかに消えてなくなってほとんど流通していない、それは貨幣が本質において意味も価値もないことの証しである」と。

そりゃあ、どんどん消えてなくなるだろう。だれだって一年に一枚や二枚の10円玉は失くしてしまう。一人一枚失くせば、日本中で1億枚の10円玉が消えてなくなることになる。それに10円玉のようにものすごい勢いで世の中に流通している貨幣なら、その途中のまぎれで必ず一定数はどこかに消えてなくなってしまう。そういう「自然消滅」は、「貨幣には意味も価値もない」などということとはまったく別の次元のことだ。少なくとも10円分は大切だし、意味も価値もある。

そして安富氏はもうひとつの例を挙げる。

「昔の中国の銅銭は王朝政府が作っても作ってもどこかに消えてしまい、作らないと民衆の反乱が起きるほどだった」と。

これだって「貨幣には意味も価値もない」ということの証拠にはならない。

昔の中国の銅銭は、現在のこの国の10円玉よりははるかに大きな貨幣価値があったし、現在の10円玉ほど猛スピードで市場に出回るものでもなかった。民衆がそれを使う機会は今よりはずっと限られていたし、彼らはそれを大切に扱い、しっかり貯め込んでいた。

それでもどこかに消えてなくなったわけで、それが問題だ。

 

日本列島の中世においても、貨幣で買い物をする機会などほとんどない貧しい農民でも、しっかりと銅銭を床下の小さな壺に入れて貯め込んでいたという。ただ彼らはそれを、まったく使わなかったというのではなく、ときに寺に寄進をしたり旅芸人や旅の僧や乞食などに差し出す「浄財」として使っていた。

貨幣の本質は、「浄財」であることにある。それが、貨幣の起源が「きらきら光る」貝殻や石ころだったときから引き継いできた歴史的普遍的な性格である。

鎌倉には「銭洗い弁天」と呼ばれるお寺があり、参拝者は小銭をざるに入れて清らかな湧き水に浸して洗うという習俗が今でも残っている。それは、世の中に出回って汚れてしまった貨幣を新しく清らかな状態に戻してやるという作法であり、起源としての貨幣が「きらきら光るもの」であったことの歴史の無意識のあらわれなのだ。

いずれにせよそれは、「消えてなくなるもの」であると同時に「大切に貯め込まれているもの」でもあった。まあ今でもそれが貨幣の第一義的な存在意義になっているわけで、貨幣で商品を買うことは、貨幣が「消えてなくなるもの」であると同時に「大切なもの」でもあるという、起源のときから引き継がれてきたその歴史的普遍的な性格の上に成り立っている。商品を買うことは貨幣が「消えてなくなる」ことだし、「大切なもの」だからこそ交換の形見になる。

貨幣が「消えてなくなるもの」であることには、「意味も価値もない」というようなこととは違う、もっと深いわけがある。太陽が「異次元の世界」から現れ出てきてまた「異次元の世界」に向かって消え去ってゆくように、その「きらきら光るもの」である「貨幣」は、人類の「異次元の世界に対する遠いあこがれ」の形見として存在している。

そこは「神の世界」であると同時に「死者の世界」でもある。

中国の貨幣=銅銭はまさにそうした「神の世界=死の世界」の形見として生まれてきたわけで、銅銭の外側の円は「宇宙の果て」で実質的な銅の部分は「神の世界=死者の世界」をあらわしている。そしてその内側の四角い穴が、「地上の世界=現世」をあらわしているのだとか。

だから彼らは、死者の埋葬に際しては、棺の中にたくさんの銅銭を添えた。おそらくそのようにして消えていったのだろう。今でも中国には、たくさんのレプリカの紙幣を添える風習が残っている。

 

貨幣には意味も価値もあるがゆえに「消えてゆく」という属性を負っている。「消えてゆく」ものであるがゆえに、意味も価値もある。その「喪失感=かなしみ」に、生きてあることのカタルシスがある。

貨幣には意味も価値もないのではない。意味も価値もないのはこの生だし、意味も価値もないのがこの生の意味と価値だ。

中国だけではない。2万年前のロシアのスンギール遺跡では、死者の棺におびただしい数のきらきら光るビーズの玉が添えられてあった。凡庸な考古学者たちはこれを「身分の高い被葬者のものだ」などというのだが、原始共産制の社会に身分などあるものか。そのきらきら光るビーズの玉の多さは、生き残った者たちのかなしみの深さを物語っている。おそらく、集落中のビーズの玉が捧げられたのだろう。もしかしたら、人が死ぬたびにそのようなことをしていたのかもしれない。そうして、普段からだれもがせっせとビーズの玉をつくり続けていた。それはとても大切なもので、だれもがせっせとため込んでいたし、それでも死者が出るたびにそれを惜しげもなく差し出した。彼らにとって「ビーズの玉=貨幣」は「死者」のものであり、みずからの死が安らかであることの形見であり、「もう死んでもいい」という勢いでこの生を活性化させるよりどころでもあった。つまり貨幣は、この生のもっとも深い「快楽」の形見として生まれ、じつは今なおそういう前提の上に成り立っているのだ。

「快楽」とは「消えてゆく心地」のこと。だから貨幣も、「消えてゆく」ことが存在の証しになっている。「消えてなくなる=失う」こと、すなわち「贈与=捧げる」ことが貨幣であることの属性なのだ。「大切なもの」であればあるほど、「失う=消えてゆく」ことの「快楽」も深くなる。

ある北米インディアンの部族の長は、あるとき突然自分の財産のすべてをみんなの前で焼き捨ててしまうということをする。それによって彼はみずからの「聖性」を示す。このことは貨幣の本質と通底しており、昔の中国の民衆は、まさにそのようにして銅銭の束を惜しげもなく死者に捧げていったのだ。

原初の貨幣は「聖なるもの」であったし、そういう歴史の無意識は現代社会においてもはたらいている。だから人はそれを貯め込もうとするし、捧げようともする。

貨幣の「消えてゆく」という属性は、「贈与=捧げもの」であることにあらわれているのであって、意味も価値もないからではない。

 

原初の貨幣は、すべて一方的な「捧げもの」としての「浄財」であった。

人類の集団や関係を成り立たせている基礎が「ときめき合う」ことにあるとすれば、それは一方的なときめきを捧げ合うことであって、「贈与と返礼」とか「等価交換」というようなことではない。他者の心なんかわからない。言葉が「伝達の不可能性」の上に成り立っているように、貨幣もまた「等価交換の不可能性」の上に成り立っている。等価交換を成り立たせるために貨幣があるのではなく、等価交換を超えてゆく形見として貨幣が生まれ進化してきたのだ。

貨幣とは商品の価値を消去する存在であり、そのとき貨幣だけが価値として商品の前に存在している。そうやって貨幣の価値で商品の価値を消去してしまうことの上に売買が成り立っているわけで、それによって売る側は商品を「捧げもの」として差し出している。人間の商品売買という行為には、深層においてそういうややこしい心理学がはたらいている。

人類の歴史は、「等価交換の不可能性」を貨幣によって超えていった。それは一朝一夕でなったものではないし、今でもその不可能性を負って人の世の経済が動いており、そうやって「浄財」が集められることもあれば、「搾取」や「利潤」という理不尽で不公平な関係も生まれている。

貨幣だけに価値があるのだ。したがって商品を買うときの貨幣の価値は、商品の価値=価格を消去するために、商品の価値=価格よりも高くなければならない。そして資本家が労働者に支払う給与は、それが貨幣であるという理由によって、労働者の働いた対価より低くても労働者を納得させることができる。

政治家や資本家は、民衆の心の中に宿る歴史の無意識としての「贈与=捧げものの衝動」に付け込んで、さまざまな理不尽で強欲な支配や搾取をしかけてくる。現代社会は、それが目に見えないかたちで高度にシステム化されている。

その理不尽で強欲な支配や搾取を超えてゆくのもまた、民衆の中の「贈与=捧げものの衝動」であり、それをもっとも豊かにそなえた民衆、とりわけ女たちが立ち上がらなければ、このあくどいシステムを超えた「新しい時代」は生まれてこない。

「贈与=捧げものの衝動」とは、「消えてゆこうとする衝動」であり、それは女の中の「処女性」においてもっとも深く豊かに息づいている。人類の貨幣は、まさにそうした「快楽=死の衝動」を抱きすくめるようにして生まれてきたのだ。

貨幣は「消えてゆく」ものである、ということ。それは、人としての「実存」の問題であり、「快楽=生きた心地」の問題でもある。

お金=貨幣には意味も価値もない……そういうスノッブな議論は聞きたくない。

それは、意味も価値もないから消えてなくなるのではない。大切にして貯め込む意味も価値もあるものだからこそ消えてなくなるのであり、「消えてなくなる」ことこそ、この生のもっとも大切な意味や価値なのだ。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

蛇足の宣伝です

キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたものです。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。