消えてゆくお金の意味と価値……現代貨幣理論は正しいか?

ここで貨幣の起源と本質について考えようとしたきっかけは、経済学者の安富歩氏のある発言がとても気になったからだ。

彼は、「お金(貨幣)はほんらい意味も価値もない」といった。

僕は、東大教授である彼の研究がいかに幅広く高度で深いものであるかということに異論をさしはさむつもりなどないし、人間的にもとても魅力的だと大いに好感を抱いてもいるのだが、庶民に向けたそのもっと基礎的な貨幣の本質についての説明には、大いに疑問がある。

まあ彼だけでなく、世の中の多くの研究者や評論家がこのような前提で貨幣や経済のことを語っていて、インテリ世界の常識だ、といってもいいのだろう。

1万円札がただの紙切れだというくらいはだれでもわかるが、歴史の無意識としての「貨幣」という概念に対する人々の思い込みというか信憑は、「本質においては意味も価値ない」というような認識ではすまない何かがある。これは、人間存在の本質にかかわる問題だ。

見かけはただの紙切れでも本質において意味も価値もあるからこそ、それが今なお「貨幣」として流通しているのだし、今やただの数字でも「貨幣」になりえているのだ。

安富氏は、こういう。

「たとえば昭和31年(=60年前)の十円玉は今やどこかに消えてなくなってほとんど流通していない、それは貨幣が本質において意味も価値もないことの証しである」と。

そりゃあ、どんどん消えてなくなるだろう。だれだって一年に一枚や二枚の10円玉は失くしてしまう。一人一枚失くせば、日本中で1億枚の10円玉が消えてなくなることになる。それに10円玉のようにものすごい勢いで世の中に流通している貨幣なら、その途中のまぎれで必ず一定数はどこかに消えてなくなってしまう。そういう「自然消滅」は、「貨幣には意味も価値もない」などということとはまったく別の次元のことだ。少なくとも10円分は大切だし、意味も価値もある。

そして安富氏はもうひとつの例を挙げる。

「昔の中国の銅銭は王朝政府が作っても作ってもどこかに消えてしまい、作らないと民衆の反乱が起きるほどだった」と。

これだって「貨幣には意味も価値もない」ということの証拠にはならない。

昔の中国の銅銭は、現在のこの国の10円玉よりははるかに大きな貨幣価値があったし、現在の10円玉ほど猛スピードで市場に出回るものでもなかった。民衆がそれを使う機会は今よりはずっと限られていたし、彼らはそれを大切に扱い、しっかり貯め込んでいた。

それでもどこかに消えてなくなったわけで、それが問題だ。

 

日本列島の中世においても、貨幣で買い物をする機会などほとんどない貧しい農民でも、しっかりと銅銭を床下の小さな壺に入れて貯め込んでいたという。ただ彼らはそれを、まったく使わなかったというのではなく、ときに寺に寄進をしたり旅芸人や旅の僧や乞食などに差し出す「浄財」として使っていた。

貨幣の本質は、「浄財」であることにある。それが、貨幣の起源が「きらきら光る」貝殻や石ころだったときから引き継いできた歴史的普遍的な性格である。

鎌倉には「銭洗い弁天」と呼ばれるお寺があり、参拝者は小銭をざるに入れて清らかな湧き水に浸して洗うという習俗が今でも残っている。それは、世の中に出回って汚れてしまった貨幣を新しく清らかな状態に戻してやるという作法であり、起源としての貨幣が「きらきら光るもの」であったことの歴史の無意識のあらわれなのだ。

いずれにせよそれは、「消えてなくなるもの」であると同時に「大切に貯め込まれているもの」でもあった。まあ今でもそれが貨幣の第一義的な存在意義になっているわけで、貨幣で商品を買うことは、貨幣が「消えてなくなるもの」であると同時に「大切なもの」でもあるという、起源のときから引き継がれてきたその歴史的普遍的な性格の上に成り立っている。商品を買うことは貨幣が「消えてなくなる」ことだし、「大切なもの」だからこそ交換の形見になる。

貨幣が「消えてなくなるもの」であることには、「意味も価値もない」というようなこととは違う、もっと深いわけがある。太陽が「異次元の世界」から現れ出てきてまた「異次元の世界」に向かって消え去ってゆくように、その「きらきら光るもの」である「貨幣」は、人類の「異次元の世界に対する遠いあこがれ」の形見として存在している。

そこは「神の世界」であると同時に「死者の世界」でもある。

中国の貨幣=銅銭はまさにそうした「神の世界=死の世界」の形見として生まれてきたわけで、銅銭の外側の円は「宇宙の果て」で実質的な銅の部分は「神の世界=死者の世界」をあらわしている。そしてその内側の四角い穴が、「地上の世界=現世」をあらわしているのだとか。

だから彼らは、死者の埋葬に際しては、棺の中にたくさんの銅銭を添えた。おそらくそのようにして消えていったのだろう。今でも中国には、たくさんのレプリカの紙幣を添える風習が残っている。

 

貨幣には意味も価値もあるがゆえに「消えてゆく」という属性を負っている。「消えてゆく」ものであるがゆえに、意味も価値もある。その「喪失感=かなしみ」に、生きてあることのカタルシスがある。

貨幣には意味も価値もないのではない。意味も価値もないのはこの生だし、意味も価値もないのがこの生の意味と価値だ。

中国だけではない。2万年前のロシアのスンギール遺跡では、死者の棺におびただしい数のきらきら光るビーズの玉が添えられてあった。凡庸な考古学者たちはこれを「身分の高い被葬者のものだ」などというのだが、原始共産制の社会に身分などあるものか。そのきらきら光るビーズの玉の多さは、生き残った者たちのかなしみの深さを物語っている。おそらく、集落中のビーズの玉が捧げられたのだろう。もしかしたら、人が死ぬたびにそのようなことをしていたのかもしれない。そうして、普段からだれもがせっせとビーズの玉をつくり続けていた。それはとても大切なもので、だれもがせっせとため込んでいたし、それでも死者が出るたびにそれを惜しげもなく差し出した。彼らにとって「ビーズの玉=貨幣」は「死者」のものであり、みずからの死が安らかであることの形見であり、「もう死んでもいい」という勢いでこの生を活性化させるよりどころでもあった。つまり貨幣は、この生のもっとも深い「快楽」の形見として生まれ、じつは今なおそういう前提の上に成り立っているのだ。

「快楽」とは「消えてゆく心地」のこと。だから貨幣も、「消えてゆく」ことが存在の証しになっている。「消えてなくなる=失う」こと、すなわち「贈与=捧げる」ことが貨幣であることの属性なのだ。「大切なもの」であればあるほど、「失う=消えてゆく」ことの「快楽」も深くなる。

ある北米インディアンの部族の長は、あるとき突然自分の財産のすべてをみんなの前で焼き捨ててしまうということをする。それによって彼はみずからの「聖性」を示す。このことは貨幣の本質と通底しており、昔の中国の民衆は、まさにそのようにして銅銭の束を惜しげもなく死者に捧げていったのだ。

原初の貨幣は「聖なるもの」であったし、そういう歴史の無意識は現代社会においてもはたらいている。だから人はそれを貯め込もうとするし、捧げようともする。

貨幣の「消えてゆく」という属性は、「贈与=捧げもの」であることにあらわれているのであって、意味も価値もないからではない。

 

原初の貨幣は、すべて一方的な「捧げもの」としての「浄財」であった。

人類の集団や関係を成り立たせている基礎が「ときめき合う」ことにあるとすれば、それは一方的なときめきを捧げ合うことであって、「贈与と返礼」とか「等価交換」というようなことではない。他者の心なんかわからない。言葉が「伝達の不可能性」の上に成り立っているように、貨幣もまた「等価交換の不可能性」の上に成り立っている。等価交換を成り立たせるために貨幣があるのではなく、等価交換を超えてゆく形見として貨幣が生まれ進化してきたのだ。

貨幣とは商品の価値を消去する存在であり、そのとき貨幣だけが価値として商品の前に存在している。そうやって貨幣の価値で商品の価値を消去してしまうことの上に売買が成り立っているわけで、それによって売る側は商品を「捧げもの」として差し出している。人間の商品売買という行為には、深層においてそういうややこしい心理学がはたらいている。

人類の歴史は、「等価交換の不可能性」を貨幣によって超えていった。それは一朝一夕でなったものではないし、今でもその不可能性を負って人の世の経済が動いており、そうやって「浄財」が集められることもあれば、「搾取」や「利潤」という理不尽で不公平な関係も生まれている。

貨幣だけに価値があるのだ。したがって商品を買うときの貨幣の価値は、商品の価値=価格を消去するために、商品の価値=価格よりも高くなければならない。そして資本家が労働者に支払う給与は、それが貨幣であるという理由によって、労働者の働いた対価より低くても労働者を納得させることができる。

政治家や資本家は、民衆の心の中に宿る歴史の無意識としての「贈与=捧げものの衝動」に付け込んで、さまざまな理不尽で強欲な支配や搾取をしかけてくる。現代社会は、それが目に見えないかたちで高度にシステム化されている。

その理不尽で強欲な支配や搾取を超えてゆくのもまた、民衆の中の「贈与=捧げものの衝動」であり、それをもっとも豊かにそなえた民衆、とりわけ女たちが立ち上がらなければ、このあくどいシステムを超えた「新しい時代」は生まれてこない。

「贈与=捧げものの衝動」とは、「消えてゆこうとする衝動」であり、それは女の中の「処女性」においてもっとも深く豊かに息づいている。人類の貨幣は、まさにそうした「快楽=死の衝動」を抱きすくめるようにして生まれてきたのだ。

貨幣は「消えてゆく」ものである、ということ。それは、人としての「実存」の問題であり、「快楽=生きた心地」の問題でもある。

お金=貨幣には意味も価値もない……そういうスノッブな議論は聞きたくない。

それは、意味も価値もないから消えてなくなるのではない。大切にして貯め込む意味も価値もあるものだからこそ消えてなくなるのであり、「消えてなくなる」ことこそ、この生のもっとも大切な意味や価値なのだ。

 

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蛇足の宣伝です

キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたものです。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。

山本太郎は時代の「生贄」である

正月もすでに一週間が過ぎてしまった。

桜を見る会疑惑とか、カジノ疑獄とか、自衛隊のイラン派遣とか、野党のいじましい合流劇とか、ろくでもない政治状況のこの国は、この先いったいどうなってゆくのだろうか?

桜を見る会の追求とか、アメリカ軍によるイラン要人殺害に対する抗議とか、共産党ひとりががんばっている印象だが、国民の意識はおそらくそんなところになく、ちょっと気の毒だと思わないでもない。まあ、天皇制に対する批判を続けてきた歴史があるから、自業自得だという部分もないではない。

ほんらいの天皇制は、共産制と矛盾しない。彼らは、そのことに気づく必要がある。天皇は、民衆が真の共産制や民主主義を育ててゆくことを見守ってくれている。もともと天皇は「見守る」ということ以外には何もしないのであり、そういうかたちでこの国の「生贄」として存在している。

だったら、どうして天皇を責める必要があろうか。

資本主義とか共産主義とか、どんなかたちの社会であれ、「リーダー」は必要だ。ボスが支配する猿の集団と違って人間の場合は、集団の成員がみずからリーダーを祀り上げてゆく。そして祀り上げられているだけのリーダーは「何もしない=支配しない」のであり、集団の成員は、その「祀り上げている」という心を共有しながら自分たちで集団を運営してゆく。それが、原始時代の「共産制」であり、究極の未来の「民主主義」でもあるわけで、われわれはそういう歴史の途中にいる。

猿社会は上からボスの「支配」が下りてくるが、人間の集団性の自然・本質においては、下からリーダーを祀り上げてゆく。したがって祀り上げられている存在には、支配権力は発生しない。むしろ、祀り上げている者たちから「支配されている」ともいえる。これが人類史における「生贄」の起源であり、原初の天皇はまさしくそういう存在だった。

人類は「生贄」を祀り上げる。

「生贄を殺して神に捧げる」などというのは文明国家の呪術信仰が生み出した習俗であり、そのような「宗教」が存在しない原始時代の集団においては、みんなで祀り上げてみんなで「捧げもの」をして生きさせていただけである。「贈与=捧げもの=プレゼント」をするのは、現在まで続いている人間の本能のようなものだ。

人間は「ときめく」存在であり、そうやって「リーダー=生贄」を祀り上げてきた。

まあ今でも、政治家という名のリーダーであろうとする者たちは、さかんに自分が「生贄」であることを強調する。もちろんそんなものはただのポーズで、ほんとうに「生贄」の気配をそなえた政治家は山本太郎ひとりだけだ。

 

人類史においてなぜ「生贄」という存在が生まれてきたか……これは、人間性の自然・本質について考える上での大問題だ。

そして人はなぜみずから進んで「生贄」になろうとするのか。

「生贄」という存在の本質は、「殺して神に捧げる」というようなことではない。神などというものを知らない原始時代から人類は「生贄」を祀り上げてきた。「殺す」ことが「生贄」の本質であるのではない、「みんなして祀り上げる」ということにある。いずれにせよそれは集団運営のための「形見=象徴」としての存在であるわけだが、起源においては集団運営という目的のために生み出されたのではなく、人々のときめき合い助け合う関係の「賑わい」の中から自然に生まれてきただけであり、結果としてそれが猿のレベルを超えた大きな規模の集団を運営するよりどころになっていっただけだろう。

みんなして同じ対象にときめき祀り上げてゆくということ、それによって集団の「賑わい」が盛り上がった。

たとえば、ネアンデルタール人が狩りでマンモスを仕留めて集落に持ち帰れば、みんなは大いに盛り上がっただろう。そのときマンモスは「生贄」だったともいえる。そうしてその獲物を囲んで歌い踊ったかもしれない。盆踊りのようにみんなして踊ったのだろうか。それともだれかひとりが選ばれて踊ったのだろうか。はじめは、ひとりだ。それからだんだん盛り上がってきて全員の踊りになってゆく。その「ひとり」が集団から祀り上げられていったとすれば、それはきっと「処女=思春期の少女」だったにちがいない。

酔っぱらいのオヤジが勝手に浮かれて踊っているだけなら、みんなは笑って眺めているだけで、そこに参加しようとは思わない。ひとりで勝手に舞い上がっているから面白いのだ。

しかし、ひとりの少女の踊りはやがて二人三人の少女になり、最後はみんながそれに感動しながら参加してゆくことになる。ただ面白がるだけではだめだ。「感動」の輪が広がってゆかねばならない。「祭りの賑わい」の底には「感動=ときめき」がある。

人々の「感動=ときめき」の触媒になれる存在、それが「リーダー=生贄」になっていった。

おそらく原始時代の「リーダー=生贄」は、「処女=思春期の少女」だった。「処女=思春期の少女」の姿こそ、人類普遍の「感動」の対象となる他者の姿だった。

人類普遍のもっとも本質的な「他者」とはだれか……この問題は哲学で盛んに議論されているわけで、キリスト教徒やユダヤ教徒イスラム教徒は「それは神である」などというのだが、宗教心のない原始人や日本列島の古代以前の人々にとっては「処女=思春期の少女」だった。人類普遍の「他者」とは、「神=ゴッド」のように自分を支配してくる対象ではなく、その輝きに「感動=ときめき」を抱く対象のことだ。

人の心は、根源においてこの世界や他者の輝きに対する「感動=ときめき」を抱いている。そのことに気づかせてくれるのが「処女=思春期の少女」の姿の輝きであり、彼女ら自身がこの世でもっとも世界や他者の輝きに「感動=ときめき」を抱いている存在でもある。彼女らのその「感動=ときめき」が伝染して「祭りの賑わい」になり、ときめき合い助け合う原始共産制的民主主義的な集団運営のダイナミズムになっていった。

 

女の中の「処女性」こそ人類の集団性のダイナミズムの源泉である。人間性とは処女性のことで、処女性は女だけでなくだれの中にもある。

人類の集団は、みんなして祀り上げてゆく存在を持ったことによって、より豊かにときめき合い助け合う関係になってゆき、ついに猿のレベルを超えた大きな規模の集団を運営することができるようになった。それが、「原始共産制」だ。

僕は、この国やこの社会やこの人生をどうすればいいのかということなどわからないし、考える気もない。どうなっているのだろう、どうなってゆくのだろう、という思いがあるだけです。「判断」などできない。したがってどのように「行動」すればよいのかということもよくわからない。

それでも人は生きているし、たぶん生きてゆく。生きることをうながす何かがはたらいている。べつに生きたいわけでもないが、何かに生きることをうながされている。

生きてゆくことは、死んでゆくことだ。生きることをしたら、死んでゆかねばならない。死にたくなかったら、生きるのをやめるしかない。人間だけでなく、すべての生きものは、「生きたい」という本能を持っているわけではない。生きているなんて死にたいのか、という

話だし、死にたいということが生きたいということだ、ともいえる。

生きてあるということ、すなわち命のはたらきとは、ひとつのパラドックスだ。

「進化」とはひとつのパラドックスであり、生きられない、ともがき身もだえすることによってそれが起きてくる。

生きてあることはなやましくくるおしい。この「いたたまれなさ」が生きてあることをうながしている。この「いたたまれなさ」からの解放として「快感・快楽」がやってくるわけで、それは「いたたまれなさ」を抱きすくめてゆくことでもある。そうやって人類史の進化が起きてきた。

つまり人類史の進化は「死」に向かって生き急いできたことの結果であって、未来に対する計画を実現してきたのではない。

人類にとっての「未来」は、よりよい社会でもよりよい人生でもなく、「死」すなわち「人類滅亡」なのだ。

人類の歴史は、人類滅亡に向かって進化してきた。

 

 

民衆は現在のこのひどい政治状況に対してもっと怒らなければならない、香港の市民のように立ち上がらなければならない……などといわれたりするが、現在のこの国の支配状況はそれほどあからさまではないし、ひどくなればなるほどそのひどさを受け入れ沈黙してしまうという国民性もある。

ひどい権力であればあるほど、その恩恵にあずかって味方する者たちも必ず一定数いる。「悪貨は良貨を駆逐する」……そういう仕組みが出来上がってしまっている。アメリカだって、1パーセントの選ばれた者たちによって99パーセントの善良な市民が支配されている、ともいわれている。そしてそれはまた、この国の戦前の状況でもある。

であればもう、あの「敗戦」のような決定的な崩壊に出会わなければ事態は変わらないのだろうか。

しかしそのとき起きてきた人々の感慨は、「怒り」ではなく「かなしみ」であり、そこから生まれてくるこの国ならではのダイナミズムというものがある。

たとえば90年代にバブル景気が崩壊したとき、人々の「怒り」とか「混乱」というようなことは起きることもなく、その喪失感の「かなしみ」をもとにした「自殺」や「心中」や「人類滅亡」などがモチーフの映画やテレビドラマやアニメがたくさん生まれてきた。それがまあこの国の伝統の流儀で、敗戦のときに人々が渇望したのは、国に何かをしてもらおうというようなことではなく、自分たちの生きづらさをやり過ごすための「娯楽」だった。つまり、国は滅んだのだし、その「滅んだ」ということの「かなしみ=喪失感」を抱きすくめていった。そうした気分を共有していることが日本列島の民衆の集団性のダイナミズムであり、そこにこそ日本人の「進取の気性」がある。計画なんか立てない、ひたすら「滅びる」ということを抱きすくめてゆく……その「もう死んでもいい」という勢いとともに「祭りの賑わい」が生まれてくる。敗戦直後のこの国では、そういう映画や音楽やスポーツ等の「娯楽」を求める「祭りの賑わい」が生まれ、それによって目覚ましい戦後復興が起きてきた。

だから「よい国をつくろう」とした戦後左翼の「計画=プロパガンダ」は、けっきょく民衆を説得することができなかった。そりゃあ、そうだ。「よい国をつくろう」という「計画」のもとに戦争を遂行していったのだもの、そんなこざかしいプロパガンダはもうこりごりだ。「今ここ」でだれもが他愛なくときめき合い助け合う社会になれば、だれもが生きていられる。

また今どきの右翼の、天皇は「男系男子」であらねばならないというさかしらで声高な扇動だって、少しも民衆委の心に届いていない。

とりあえず「よい国をつくろう」というような正義・正論などどうでもいい。「死=滅亡」に対する親密な気分が共有された「祭りの賑わい」とともに民衆の動きのダイナミズムが起きてくる。原初の人類集団だってその「もう死んでもいい」という気分を共有しながら二本の足で立ち上がっていったのであり、そこにこそ人間性の自然・本質がある。

滅んでゆくことこそが、新しい時代が生まれてくる契機になる。日本列島の文化の伝統である「滅びの美学」は、じつは他愛なくときめき合い助け合ってゆく「祭りの賑わい」の集団性の上に成り立っている。

新しい時代が生まれてくることは、現在の時代が「滅びる」ことである。新しい時代が生まれてくるためには、その「滅びる」ということを抱きすくめてゆく気分が共有された「祭りの賑わい」が起きてこなければならない。

 

祭りとは「もう死んでもいい」という勢いで集団が盛り上がってゆくことであり、その集団性は、宗教も文明国家も存在しない時代から生成していた。いやもう、原初の人類が二本の足で立ち上がったときからはじまっていたともいえる。

人類史における「祭り」は、生き延びるための「呪術」や「政治経済」の問題から生まれてきたのではない。つまりそれは、人間の原始的かつ普遍的な集団性であり、文明社会の共同体の運営のために生み出されたのではない、ということだ。

祭りとは、どこからともなく人が集まってきて他愛なくときめき合い賑わってゆく場のこと。それは、集団の外のある一か所にいろんなところからいろんな人が集まってくるのだから、とうぜん見ず知らずどうしの「無主・無縁」の関係であり、しかしだからこそ他愛なくときめき合うことができる。つまり原初の祭りは集団の外で生まれてきたわけで、そこは集団の中に置かれてあることの居心地の悪さからの解放の場である、ともいえる。人類拡散は、そうやって集団の外に「祭り」の場が生まれる現象が無数に繰り返されていったことの結果にほかならない。

したがって祭りは、その本質において、共同体の運営のために生まれてきたということは論理的に成り立たない。だから村はずれの「鎮守の杜」で催されるのであり、そこには近郷近在から人が集まってくる。その「無主・無縁」の関係で他愛なくときめき合ってゆくことができるところに人間の集団性のダイナミズムがあるわけで、そうやってサルの集団性では考えられないような「都市」とか「国家」という無限に大きな集団をつくっている。

「祭り」においてこそ人間の集団性のダイナミズムがあらわれているし、人間の集団はすべて「祭り」だともいえる。

たとえば、コンサートやスポーツのイベントはもちろんのこと、われわれが学校や会社に行くことだって「どこからともなく人が集まってくる」ことだし、商店でものを売ったり買ったりすることもまたつまるところ人間的なそうした生態の上に成り立っている。

 

というわけで「新しい時代」は、どこからともなく人が集まってくる「無主・無縁」の関係で他愛なくときめき合う「祭りの賑わい」が盛り上がってこなければやってこない。

つまり今、山本太郎とれいわ新選組が生み出そうとしているのは、まさしくそうした人間性の本質に根差したムーブメントなのだ。

現在の政権は、経団連日本会議創価学会等の、利害関係の上に固定化された一部の組織票の上に成り立っている。それはまあ猿のボス社会の構造と同じで、少しも人間的ではないし、日本的でもない。で、それに対抗して山本太郎とれいわ新選組は、「どこからともなく集まってくる無主・無縁の人々の他愛なくときめき合い助け合う関係を結集した祭りの賑わい」を生み出そうとしている。そうやって山本太郎の街宣には、たくさんの人々が集まってくる。それはきわめて本質的であると同時に日本的でもあり、人間というはまだまだ捨てたものではないとも思わせてくれる。したがって山本太郎は勝たねばならないし、勝つにちがいないという希望を抱かせてくれてもいる。

山本太郎とれいわ新選組は、無党派層を呼び込んで投票率を上げることができるだろうか。

危ういのは、候補者と支持者との関係が固定化硬直化されてゆき、たとえば安富歩氏のツイッター炎上騒ぎのように支持者が「俺のいうことを聞け」といわんばかりに候補者の思考や行動を縛ろうとしたりすることにあり、そうなったら利害関係でつながった現在の政権と支持者の関係と同じになってしまう。そういう「組織票」だけでは現政権を凌駕することはできないし、無党派層を呼び込んで投票率が上がるというムーブメントは起きてこない。だから安富氏はツイッターで、「支持者」の正義と既得権益を主張するツイートに対して「<支持者>なんか消えてしまえ」と悪態をついてみせたわけで、それはまさにその通りなのだ。そんな排他的なことを繰り返していたら、「無主・無縁」の「祭りの賑わい」は生まれてこない。

「祭り」は集団(共同体)の外の「無主・無縁」の場に出ることによって生まれてくる。そうしてそこで新しい「集団=共同体=時代」になってゆく。それが原始時代の人類拡散以来の普遍的な人類史の伝統であり、それは、集団(共同体)の外に出てゆくことによって新しい集団(共同体)が生まれてくるということ、すなわち命のはたらきは「死=滅びてゆくこと」に向かうことによって活性化するという「進化のパラドックス」でもある。

新しい時代が生まれてくることは、人類滅亡論的に時代を超えてゆくことだ。敗戦後の日本人はまさにそれを実践したのだし、もともとそうやって歴史を歩んできた民族なのだ。

人類の歴史は、未来に向かう「計画」によって進化発展してきたのではない。「滅び」と「再生(あるいは新生)」を繰り返しながら歴史を歩んできたのだ。二本の足で立ち上がった原初の人類はいったんサルとしての能力を喪失し、サルであることから滅んでいったことによって人間になった。

「滅びる」ことに対する親密な感慨は普遍的な人間性であると同時に、日本列島の伝統でもある。

 

「祭り」の本質は、生きものの本能である「死=滅亡」に対する親密な感慨が共有された「集団の賑わい」にある。

人は生きられない弱いものに対してなぜこんなにも親密な感慨を寄せてゆくのだろう。その存在には、「死=滅亡」の気配が深く濃密に漂っている。生まれたばかりの赤ん坊であれ、死にそうな老人であれ、障碍者であれ病人であれ、生きられない命こそこの世のもっとも貴重なものである。

この世のもっとも貴重なものは、死のそばにある。冒険者はそれを探しに出かけるのだし、自殺者も殉教者もそこに引き寄せられてゆく。この世界に生まれ出てきたものはみな、この世界の「生贄」だともいえる。

この世界のヒーローとかリーダーというのは、この世界の「生贄」の気配の鮮やかに漂わせており、その気配をセックスアピールとかカリスマ性という。

だから、ただの善人のマイホームパパが政党の党首になっても国民的な人気は得られないし、どんなに頭がよくて正義・正論を並べ立てても民衆がついてくるとはかぎらない。

「賢人政治」とか「愚民政治」というようなことをいってもしょうがない。今どきはさかしらなインテリや人格者や成功者が、山本太郎のことを上から目線で「ただのポピュリズムだ」と揶揄し批判することも多いが、彼らの言説が山本太郎ほどの大衆に対する説得力を持つことはないし、彼らの思い描く通りに世の中が動いてゆくこともない。セックスアピールを持たない連中が何を言ってもダメなのだ。

この世界は、正義・正論で動いているのではない。セックスアピールこそがこの世界を動かしている。セックスアピールとは、「生贄=滅び=死」の気配のこと。どんなに華やかであっても魅力的なものには、そのような「消えてゆく」気配が漂っている。「消えてゆく」ことこそ快楽の本質だ。きらきら輝いていることは「消えてゆく」ことでもある。すなわちこの世界の「輝き=光」は、「異次元(=死)の世界」からやってきて「異次元(=死)の世界」に向かって消えてゆく。人類の無意識は、そういう「滅び」の気配にこそもっとも強く切実に引き寄せられている。

美しいものの輝き、それは死のそばにある。

山本太郎には、自分を捨てた「命がけ」の気配がある。人々はそこに引き寄せられて集まってくる。まあそれは、れいわ新選組のメンバーに共通した気配であり、山本太郎はそれを「本気の大人」といっていた。立憲民主党枝野幸男や国民民主党玉木雄一郎にはそれがないし、小泉進次郎にいたっては、自分をカッコよく見せようとする自意識ばかりで、しだいにメッキがはがれつつある。

 

柔らかく巧妙に人々を縛っている現代社会のシステムが劇的に変わるということはもはやないのだろうが、それでもこの社会を動かしている支配者たちがいかに愚劣で醜悪かということ気づいてくれば希望がないわけではない。

人間には、「幻滅」する力がある。それは、「ときめく」心の裏側に貼りついている。

山本太郎とれいわ新選組に対する「ときめき」が、現在の社会システムや権力者に対する「幻滅」に気づかせてくれた。

けっきょくこの世の中は人と人の関係の上に成り立っている。世の中なんていつの時代も「憂き世」に決まっているが、人間性の自然としての人と人のときめき合い助け合う関係を取り戻すことができるなら、このひどい社会のシステムも少しずつ改善されてくるのだろう。

この社会を「憂き世」と思い定めて「幻滅」してゆく感慨は女のほうが深い。そして女の幻滅」は、社会に対してだけではない。男に対しても幻滅しつつ、そして男も社会も赦している。女は、幻滅しつつときめいている。

女たちは今、社会に対する「幻滅」と山本太郎とれいわ新選組に対する「ときめき」を共有しつつ盛り上がってきている。

「幻滅」とは、熱く燃え上がるのではなく、ひんやりとした「消えてゆく」心地である。女は「消えてゆく=滅んでゆく」心地のエクスタシーを知っている。川端康成の小説に「しいんといい気持ち」という女のセリフ(『雪国』より)があるが、それは女の中の生きてあることそれ自体に対する「幻滅=かなしみ」でもあった。そのひんやりとした喪失感から、この世界や他者の輝きに対する深く豊かな「ときめき」が生まれてくる。

「幻滅」がなければ、「ときめき」もない。現在の政権や社会システムに対する「幻滅」が共有されていったことによって、そこから「山本太郎現象」という人々が他愛なくときめき合う「祭りの賑わい」が生まれてきた。その中心に、女たちがいる。女とは、深く「幻滅」し、他愛なく豊かに「ときめく」存在である。

山本太郎は、その「祭りの賑わい」の触媒にすぎないのであり、主役はあくまでそこに集まってきた女たちであらねばならない。女たちの「祭りの賑わい」が、この閉塞した社会を動かす。中世の「一揆」であれ、幕末の「ええじゃないか騒動」であれ、大正の「米騒動」であれ、主役はあくまで名もない女たちで、男たちはそこに引きずられていただけだった。この国の伝統においては、女たちが立ち上がらなければ時代は動かない。

 

この国の民主主義は、女たちが立ち上がらなければ実現しない。とはいえそれは、女の自立とか解放を叫ぶフェミニズムとはちょっと違う。女は女のために立ち上がるのではない。「消えてゆく」ことのエクスタシーを知っている女たちは、自分を捨てて男や子供たちのために立ち上がる。したがって、女と男の関係を分断してしまうフェミニズムがすべての女たちに支持されることはない。

言い換えれば、現在の社会の停滞・硬直化は、男たちが男としての既得権益を守ろうとして、女たちが立ち上がることを許さない仕組みになっていることにもあるのかもしれない。

新しい時代に飛び込んでゆく心意気は、女たちのほうがずっとラディカルにそなえている。その「もう死んでもいい」という勢いこそ、命のはたらきの本質なのだ。

格差社会になったといっても、貧しい男たちの意識だって、まだまだ男としての既得権益にしがみつき「現在の政権のままでいい」などという。どんなにひどい世の中になっても、男たちが立ち上がるということは、あまりあてにならない。男は、生まれたときからずっと社会のシステムに組み込まれて育ってしまう。どんなに威勢のいいことをいっても、知らず知らず時代に踊らされてしまっている。とくにこの社会のエリートである者たちがほんとに社会のシステムの外の「無主・無縁」の場に立とうとするなら、たとえば安富歩のように思い切って女性装をするくらいの決断が必要になる。それは、彼の人生におけるひとつの「自己処罰」だった。

女は「自己処罰」することができる。おそらくそれによって処女を喪失し、妊娠・出産・子育てをし、それによってセックスの深いエクスタシーを汲み上げている。

この世の多くの男たちは「自己処罰」ができない。この社会のシステムによって、この社会のシステムを守っている自分を守るように仕向けられている。だから女に比べると「幻滅」も「ときめき」も中途半端なのだ。

女は、幸か不幸か存在そのものにおいてすでにこの世界の外に置かれているわけで、そういう女たちが立ち上がって新しい時代が切りひらかれてゆく。

 

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蛇足の宣伝です

キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたものです。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。

女はなぜ強姦魔を許して泣き寝入りをしてしまうのか

強姦をした後に、「ごめん、やりたくてたまらなくなってしまったんだよ」と何度も誤れば、女は許してくれるだろうか……?

伊藤詩織レイプ事件の民事裁判で、現在の総理大臣と親交のあった山口何某という元TBSワシントン支局長の被告に有罪判決が出た。

どう考えても有罪になるのが当然の事案のはずだが、刑事裁判では官邸からの圧力があったらしく不起訴になり、そのとき彼女はもう、勝ち誇ったように正義ヅラした右翼の連中からの執拗なセカンドレイプの嵐にさらされ、そりゃあ、ひどいものだった。右翼の政治家から右翼系のジャーナリスト、さらには一般のネトウヨまで、はしゃぎまくって彼女を貶める言論をまき散らしていた。

美人を辱め引きずりおろすのは、一部の男にとっても一部の女にとっても気持ちのいいことらしい。

とはいえ、それが人間のすることだろうか、と思うし、それが日本人のすることだろうか、とも思う。そんな連中が「日本人に生まれてよかった」と大合唱しているなんて笑止千万であり、醜悪極まりない。

そのレイプ犯に対する逮捕状の取り消しには官邸からの圧力があったのはだれもが感じていることだし、TBSに就職させてやるよという餌をまかれたあげくにレイプをされ、しかも就職もかなわなかった彼女の絶望的な屈辱のことを思えば、せめて第三者はそっとしておいてやるのが人情というものだろう。おまえらには「惻隠の情」というものがないのか?それでも日本人か?こんな腐り果てた日本人と一緒にどうしてわれわれが「日本人に生まれてよかった」などと大合唱しなければならないのか。

レイプをした当人の卑劣さはもちろんのことだが、薄っぺらな屁理屈を振り回しながらいい気になってセカンドレイプのバッシングを繰り返していたまわりの右翼たちだって、ほんとにうんざりするくらい醜悪だ。

 

 

また、リベラルな良識派を自認する人が、「だまされて罠にはめられた被害者にも反省の余地はある」というようなことをいっていたが、だまされて何が悪いのか?

その人に問いたい。「あなたは、かんたんに騙される無垢な女と、だまされないしたたかな女と、いったいどちらが好きか?」と。

人間は騙される生きものであり、このことには人間性の真実についての深い意味が隠されている。子供はみんな騙されるし、科学の真実はつねに変更されてゆく。知ることは騙されることだ、ともいえる。太陽や満月が平べったい円盤のよう見えたらいけないのか?騙されないことがそんなに偉いのか?

ある日突然舞い降りてきたコネという偶然の幸運にすがって、何が悪いのか。そうやって就職した女なんかこの世にいくらでもいるし、それが普遍的な社会の実相だともいえる。金持ちの家に生まれた幸運、美人やハンサムに生まれた幸運、賢く育てられた幸運、そして貧乏な家に生まれた不運、美人でも賢くもない不運、世の中や人生なんて幸運と不運の綾織のようなものだろう。

「馬には乗ってみよ、人には添うてみよ」ということわざがあるように、彼女だって、いやな男だとわかっていても、ひとまず我慢してその話に乗ってみよう、と思った。それのどこがいけないのか。そして、もしそれで就職ができるのならレイプのことも許そう、と思った。だから事件の後に彼女は、「就職の件はどうなりましたか?」というメールを男に送っている。就職を餌に肉体関係を要求されることは世の中にいくらでもあることだし、それを甘んじて受け入れるか彼女のように無理やり受け入れさせられるかの違いがあるだけだ、と思い定めた。その「許そう」と覚悟した心根はむしろいじらしいとも潔いともいえる。世の中にはそういうことを自分のほうから仕掛けてゆく女もいるが、彼女の場合はそうではなかった。「就職させてやる、俺にはそれだけの力がある」と餌をまいたのは、あくまで男のほうなのだ。

まあワシントン支局長といえどももともとそんな権限はないらしいが、ひとまず有能なジャーナリスト候補として上司か人事部長に紹介することくらいはできただろうし、そうして面接の末に特別枠で採用されたかもしれない。しかしこの男は、それをしたくなかったのだ。「レイプをした」という弱みを握られている女を同じ会社に置いておくつもりはなかった。たぶん、総理大臣とも親しかったのだし、積極的に動き回ればほかの会社で何らかの仕事の場は与えてやることだってできたはずだが、いっさい動こうとしなかった。それくらい卑劣だったのだ。後ろめたさなどかけらもなかったし、どうせ黙って泣き寝入りするだけだろう、とタカをくくっていた。まあ、そういう成功体験が過去にいくらでもあるのかもしれない。

何しろ相手は、上品で誇り高い美人のお嬢様なのだ。わざわざ自分の人生の傷を世間にさらすようなことはするまい、と思った。

しかし彼女は、敢然と立ち上がった。上品で誇り高い美人のお嬢様だからこそ、そういう卑劣さや醜悪さを許すことができなかった。レイプそのものよりも、男の下品な人格というか、事後の身勝手で卑しい振舞いが許せなかった。

まあ、千歩譲ってレイプをしたことを許すとしても、したからには彼女の就職に責任を持とうとするのが当たり前の人情だろう。それすらもしないで、逆に無視し排除しようとしたというのは、いくらなんでも卑劣すぎる。

また、その後に逮捕状が直前で取り消されるという権力社会の不条理と出会って、ジャーナリストとしての使命感も刺激され、あえて実名も顔も世間にさらした。

 

 

この事件のいきさつを最初から最後まで男と女の問題として考えるのは間違っている。

彼女が就職をお願いし、男がそれを引き受けるそぶりを見せながら寿司屋に誘ったところまでは、たとえ男に下心があったとしても、彼女にとっては純粋な就職活動であり、そんなことは世間にいくらでもある話だ。たとえ相手が女であっても、彼女は同じような行動をとっただろう。短大卒の女が大手のマスメディアに就職しジャーナリストとして活躍しようとしたら、たとえ有能であってもそれなりに大きな壁が立ちはだかっている。

それが道徳的に何であれ、そこまではあくまで純粋な就職活動なのだ。

そのあとに彼女を酔わせてホテルに引きずり込み無理やりセックスをしたところから男と女のややこしい関係になってゆき、男はその関係の事後処理からも逃げた。彼は、二重に卑劣だった。

まあ、事後処理をしようとするような男なら最初からレイプなんかしない、ということかもしれないが。

とにかく彼女は、いったん男を許そうとした。就職を頼んだのは自分なのだし、そういうリスクはもう引け受けるしかない、と腹をくくった。そこは美人のお嬢様のプライドかもしれないし、女としての本能のようなものもはたらいたのかもしれない。

男は「やりたくてたまらない」生きものだし、女は最終的には「やらせてあげてもいい」と思ってしまう本能のようなものを持っている。オスの求愛行動とそれを受け入れるメス、犬でも猫でも鳥でも魚でも、みんなそうやってセックスしているわけで、それが生きものの世界の生殖のしくみだ。

ただ、彼女の場合は、「やらせてあげてもいい」という気持ちなしにやられてしまった。それはきっと、「上品で誇り高い美人のお嬢様」としては耐え難い屈辱だったにちがいない。それでも、ひとまず自分のプライドと女の本能として許そうとした。いったん起きてしまったことはもう取り消せない、と自分に言い聞かせた。そして、相手はきっとレイプをしたことの責任を取って自分に就職をあっせんしてくれるだろう、と思った。それをたんなる打算の損得勘定だけだといってしまうことはできない。女には、レイプを許してしまう本能的な「女のかなしみ」がある。そこに、世のレイプ事件のやっかいさがあり、男はそこに付け込む。

とにかく彼女は、相手は社会的な地位のある大人なのだから、それなりのけじめはつけるだろうと思った。

ところが男は、あくまで知らんぷりを決め込もうとしてきた。

そこでようやく彼女は、世の中にはこんな卑劣な男もいるのか、と気づいた。おそらく彼女は多くの男からちやほやされて生きてきたのだろうし、そんな仕打ちをされるなんてレイプに続いて二重に思いもよらないことだった。つまり、二重にレイプをされた。セカンドレイプは、すでにそこで起きていた。

レイプは、身体的なダメージよりも精神的なダメージのほうがずっと大きい。

女は、男に対する本能的な「やらせてあげてもいい」という信頼を持っている。それはまあ人間そのものに対する信頼でもあり、レイプによってそこのところを打ち砕かれる。娼婦はすべての男にセックスをさせてやることができるが、レイプの被害者はもう、ひとりの男にすらさせてやることができなくなってしまう。彼女は、「やらせてあげてもいい」という女としての本能を破壊され蹂躙された。

女は、男に対して「やらせてあげてもいい」という本能を持っているがゆえに、レイプをされることが決定的なダメージになってしまう。

だれだって人に対する信頼(=愛)の上に立って生きている。とくに「やらせてあげてもいい」と受け入れる本能を持った性存在である女にとって、レイプをされることはもう、もはや生きてゆくことができないくらいの決定的なダメージになる。

「やらせてあげてもいい」という本能が壊れていないのなら、すべての男とセックスをすることができる。しかしそれが壊れたらもう、好きなひとりの男とセックスすることもできなくなる。さらには、この世のすべての人間が怖くなってしまう。

 

 

レイプによってもたらされるのは、主に精神的なダメージであるのだろう。

したがって、セカンドレイプだって、まぎれもなく「レイプ」という犯罪行為なのだ。

花田なんとかという右翼雑誌の編集長とか、百田尚樹とか杉田水脈とか、世のネット界隈にうごめくあまたのネトウヨとか、好き放題に彼女に対するバッシングを繰り返してセカンドレイプをしてきた者たちだってまさに「レイプ魔」であり、ある意味で、ただ押し倒して無理やりセックスすることよりもっと罪深いともいえる。

彼女は、肉体的なレイプには耐えることができたが、精神を蹂躙してくる世の右翼たちが繰り返すセカンドレイプによって死の淵まで追い詰められ、ついには自殺未遂に至った。

セカンドレイプは口=言葉だけだから罪はないと思って彼らは頭(ず)に乗って情け容赦もなく繰り返してくるが、じつはそれが肉体のレイプ以上にひどい暴力であることも多く、それこそが被害者の生の根拠を根底的に蹂躙し破壊するものになっていたりする。

彼女が世間に顔や名前をさらしてでも男を告発しようとしたのも、男の事後の態度の卑劣さというセカンドレイプだったし、それが権力の中枢の「ブラックボックス」を告発するものでもあったから、そのまわりの醜悪な右翼たちによる際限のない凄惨なセカンドレイプへとエスカレートしていった。

しかし同時にそれは世の多くのレイプ被害者の共感を呼ぶことになり、セカンドレイプのすさまじさと同じだけ彼女の中の人に対する愛と信頼を取り戻すきっかけにもなった。

彼女がなぜ顔や名前をさらしてまで立ち上がったのかといえば、おそらく美人のお嬢様のプライドだったのだろうし、世間的な打算を超越した「少女=処女」のようなひたむきさと率直さがあったのかもしれないし、そこまでしないともう自分の中の「人に対する愛や信頼」を取り戻せないと思い詰めたからだろう。

女は「やらせてあげてもいい」という本能を持っている。そこがレイプ被害のやっかいなところで、それによって肉体以上にその本能が蹂躙され破壊されてしまうことにある。世の中にはSMプレイがあるように、無理やりレイプされてエクスタシーを感じることだってあるし、ただ上手に騙され脱がされ犯されだけのことでこの上ない深いエクスタシーに達したとしても、事後の充足などまるでなく、泥のような疲れと無力感にさいなまれることだってある。そうやって女は「やらせてあげてもいい」という本能を巧妙に残酷に踏みにじられたのだ。

女は本能的に男を許している。やりたい一心の男の本能を許している。レイプ犯を許しつつ自己否定の座敷牢に幽閉されてしまう女の本能とかなしみ……そこから抜け出すためにはもう、自分を捨てるしかない。そうやって伊藤詩織は、顔と実名を世間にさらして立ちあがった。それにおそれをなした男根主義・家長主義の右翼たちがいっせいにヒステリックなバッシングをはじめた。彼らは、本能的にレイプをしてもいいと思っている。そういう思いがなければ、戦争を賛美したり侵略を正当化したりすることはできない。まあこのあたりの病的な心理について考え出すときりがなくなってしまうが、とにかくそういうことだ。

「女だってよがっていたじゃないか」という言い分だけで許されるものではない。被害者はそれによって、「愛と信頼」という女としての根拠も人間としての根拠も失ってしまう。

 

 

今どきの右翼の心には、レイプの衝動がうごめいているらしい。

戦前のこの国がレイプのように朝鮮を侵略したということに対して、「朝鮮だってよがっていたじゃないか」と歴史修正主義の右翼たちはいう。彼らにとって他者を凌辱し支配することは、ひとつの理想であるらしい。彼らにはきっと、人間に対するルサンチマンがある。だから「国家」という共同幻想を実体であるかのように思い描いて執着してゆく。「人間(=他者)」よりも「国家」のほうが大事なのだ。右翼の男たちには女に対するルサンチマンがあるらしく、そんな男根主義の男たちが持つ権力に寄っていく女もいて、そこで「右翼」という閉鎖的な村社会が形成され、女たちもはしゃぎまくって彼女に対するセカンドレイプに邁進していった。

レイプはひとつのヘイト思想であり、レイシズムでありファシズムである。21世紀のこの国は、そんな権力によってそんなメンタリティが蔓延するようになってきた。そこに風穴を空けたのが今回の伊藤詩織レイプ事件の判決であった。それは、逮捕令状が権力によって握りつぶされるなどの政治的な事件でもあり、それに対する抵抗運動として彼女は顔も実名も晒して立ち上がった。そうして多くのレイプ被害者の女たちをはじめとする一般の女たちから支持され、ひとまず外国のメディアからも「ME・TOO運動」のひとつとして注目され評価されているらしい。

まあこれは、大正時代の「米騒動」と同様に、女たちが立ち上がることによって時代に風穴を空けるという現象だった。女の本能的な「愛と信頼」の情が結集して盛り上がること、これによってあの卑劣で醜悪な右翼たちが跳梁跋扈するという悪夢のような現在の状況が退潮してゆくのだろうか。

この判決を受けて彼女は、「これまで私をバッシングしてきた人たちに対する名誉棄損の告訴も考えている」と発言した。

すると今、杉田水脈や有本香をはじめとするネトウヨの女たちが、告訴されるまいとして、過去のツイートを消去するなどしていっせいに逃げ腰になってきている。少なくとも民事裁判においてはもう、あの女たちに勝ち目はない情勢であるのだろうし、現政権の威光にも陰りが見えてきている。おそらく総理大臣をはじめとする権力者たちは、わが身を守るためにはあの女たちをさっさと切り捨てるだろうし、あの女たちもそれを承知しているにちがいない。

またあの女たちだって、山口なんとかというレイプ犯の男がまるでセックスアピールも人格的な清廉さもない男だというくらい、女の本能としてわかりすぎるくらいわかっているにちがいない。

とにかくどんなかたちであれ、女たちが立ち上がらなければ新しい時代は生まれてこない。

女の中の「愛と信頼」こそが人の世の基礎になっているのであり、それを守らなければ人の世の未来はない。

 

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『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたものです。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。

女はなぜ強姦魔を許して泣き寝入りをしてしまうのか

強姦をした後に、「ごめん、やりたくてたまらなくなってしまったんだよ」と何度も誤れば、女は許してくれるだろうか……?

伊藤詩織レイプ事件の民事裁判で、現在の総理大臣と親交のあった山口何某という元TBSワシントン支局長の被告に有罪判決が出た。

どう考えても有罪になるのが当然の事案のはずだが、刑事裁判では官邸からの圧力があったらしく不起訴になり、そのとき彼女はもう、勝ち誇ったように正義ヅラした右翼の連中からの執拗なセカンドレイプの嵐にさらされ、そりゃあ、ひどいものだった。右翼の政治家から右翼系のジャーナリスト、さらには一般のネトウヨまで、はしゃぎまくって彼女を貶める言論をまき散らしていた。

美人を辱め引きずりおろすのは、一部の男にとっても一部の女にとっても気持ちのいいことらしい。

とはいえ、それが人間のすることだろうか、と思うし、それが日本人のすることだろうか、とも思う。そんな連中が「日本人に生まれてよかった」と大合唱しているなんて笑止千万であり、醜悪極まりない。

そのレイプ犯に対する逮捕状の取り消しには官邸からの圧力があったのはだれもが感じていることだし、TBSに就職させてやるよという餌をまかれたあげくにレイプをされ、しかも就職もかなわなかった彼女の絶望的な屈辱のことを思えば、せめて第三者はそっとしておいてやるのが人情というものだろう。おまえらには「惻隠の情」というものがないのか?それでも日本人か?こんな腐り果てた日本人と一緒にどうしてわれわれが「日本人に生まれてよかった」などと大合唱しなければならないのか。

レイプをした当人の卑劣さはもちろんのことだが、薄っぺらな屁理屈を振り回しながらいい気になってセカンドレイプのバッシングを繰り返していたまわりの右翼たちだって、ほんとにうんざりするくらい醜悪だ。

 

 

また、リベラルな良識派を自認する人が、「だまされて罠にはめられた被害者にも反省の余地はある」というようなことをいっていたが、だまされて何が悪いのか?

その人に問いたい。「あなたは、かんたんに騙される無垢な女と、だまされないしたたかな女と、いったいどちらが好きか?」と。

人間は騙される生きものであり、このことには人間性の真実についての深い意味が隠されている。子供はみんな騙されるし、科学の真実はつねに変更されてゆく。知ることは騙されることだ、ともいえる。太陽や満月が平べったい円盤のよう見えたらいけないのか?騙されないことがそんなに偉いのか?

ある日突然舞い降りてきたコネという偶然の幸運にすがって、何が悪いのか。そうやって就職した女なんかこの世にいくらでもいるし、それが普遍的な社会の実相だともいえる。金持ちの家に生まれた幸運、美人やハンサムに生まれた幸運、賢く育てられた幸運、そして貧乏な家に生まれた不運、美人でも賢くもない不運、世の中や人生なんて幸運と不運の綾織のようなものだろう。

「馬には乗ってみよ、人には添うてみよ」ということわざがあるように、彼女だって、いやな男だとわかっていても、ひとまず我慢してその話に乗ってみよう、と思った。それのどこがいけないのか。そして、もしそれで就職ができるのならレイプのことも許そう、と思った。だから事件の後に彼女は、「就職の件はどうなりましたか?」というメールを男に送っている。就職を餌に肉体関係を要求されることは世の中にいくらでもあることだし、それを甘んじて受け入れるか彼女のように無理やり受け入れさせられるかの違いがあるだけだ、と思い定めた。その「許そう」と覚悟した心根はむしろいじらしいとも潔いともいえる。世の中にはそういうことを自分のほうから仕掛けてゆく女もいるが、彼女の場合はそうではなかった。「就職させてやる、俺にはそれだけの力がある」と餌をまいたのは、あくまで男のほうなのだ。

まあワシントン支局長といえどももともとそんな権限はないらしいが、ひとまず有能なジャーナリスト候補として上司か人事部長に紹介することくらいはできただろうし、そうして面接の末に特別枠で採用されたかもしれない。しかしこの男は、それをしたくなかったのだ。「レイプをした」という弱みを握られている女を同じ会社に置いておくつもりはなかった。たぶん、総理大臣とも親しかったのだし、積極的に動き回ればほかの会社で何らかの仕事の場は与えてやることだってできたはずだが、いっさい動こうとしなかった。それくらい卑劣だったのだ。後ろめたさなどかけらもなかったし、どうせ黙って泣き寝入りするだけだろう、とタカをくくっていた。まあ、そういう成功体験が過去にいくらでもあるのかもしれない。

何しろ相手は、上品で誇り高い美人のお嬢様なのだ。わざわざ自分の人生の傷を世間にさらすようなことはするまい、と思った。

しかし彼女は、敢然と立ち上がった。上品で誇り高い美人のお嬢様だからこそ、そういう卑劣さや醜悪さを許すことができなかった。レイプそのものよりも、男の下品な人格というか、事後の身勝手で卑しい振舞いが許せなかった。

まあ、千歩譲ってレイプをしたことを許すとしても、したからには彼女の就職に責任を持とうとするのが当たり前の人情だろう。それすらもしないで、逆に無視し排除しようとしたというのは、いくらなんでも卑劣すぎる。

また、その後に逮捕状が直前で取り消されるという権力社会の不条理と出会って、ジャーナリストとしての使命感も刺激され、あえて実名も顔も世間にさらした。

 

 

この事件のいきさつを最初から最後まで男と女の問題として考えるのは間違っている。

彼女が就職をお願いし、男がそれを引き受けるそぶりを見せながら寿司屋に誘ったところまでは、たとえ男に下心があったとしても、彼女にとっては純粋な就職活動であり、そんなことは世間にいくらでもある話だ。たとえ相手が女であっても、彼女は同じような行動をとっただろう。短大卒の女が大手のマスメディアに就職しジャーナリストとして活躍しようとしたら、たとえ有能であってもそれなりに大きな壁が立ちはだかっている。

それが道徳的に何であれ、そこまではあくまで純粋な就職活動なのだ。

そのあとに彼女を酔わせてホテルに引きずり込み無理やりセックスをしたところから男と女のややこしい関係になってゆき、男はその関係の事後処理からも逃げた。彼は、二重に卑劣だった。

まあ、事後処理をしようとするような男なら最初からレイプなんかしない、ということかもしれないが。

とにかく彼女は、いったん男を許そうとした。就職を頼んだのは自分なのだし、そういうリスクはもう引け受けるしかない、と腹をくくった。そこは美人のお嬢様のプライドかもしれないし、女としての本能のようなものもはたらいたのかもしれない。

男は「やりたくてたまらない」生きものだし、女は最終的には「やらせてあげてもいい」と思ってしまう本能のようなものを持っている。オスの求愛行動とそれを受け入れるメス、犬でも猫でも鳥でも魚でも、みんなそうやってセックスしているわけで、それが生きものの世界の生殖のしくみだ。

ただ、彼女の場合は、「やらせてあげてもいい」という気持ちなしにやられてしまった。それはきっと、「上品で誇り高い美人のお嬢様」としては耐え難い屈辱だったにちがいない。それでも、ひとまず自分のプライドと女の本能として許そうとした。いったん起きてしまったことはもう取り消せない、と自分に言い聞かせた。そして、相手はきっとレイプをしたことの責任を取って自分に就職をあっせんしてくれるだろう、と思った。それをたんなる打算の損得勘定だけだといってしまうことはできない。女には、レイプを許してしまう本能的な「女のかなしみ」がある。そこに、世のレイプ事件のやっかいさがあり、男はそこに付け込む。

とにかく彼女は、相手は社会的な地位のある大人なのだから、それなりのけじめはつけるだろうと思った。

ところが男は、あくまで知らんぷりを決め込もうとしてきた。

そこでようやく彼女は、世の中にはこんな卑劣な男もいるのか、と気づいた。おそらく彼女は多くの男からちやほやされて生きてきたのだろうし、そんな仕打ちをされるなんてレイプに続いて二重に思いもよらないことだった。つまり、二重にレイプをされた。セカンドレイプは、すでにそこで起きていた。

レイプは、身体的なダメージよりも精神的なダメージのほうがずっと大きい。

女は、男に対する本能的な「やらせてあげてもいい」という信頼を持っている。それはまあ人間そのものに対する信頼でもあり、レイプによってそこのところを打ち砕かれる。娼婦はすべての男にセックスをさせてやることができるが、レイプの被害者はもう、ひとりの男にすらさせてやることができなくなってしまう。彼女は、「やらせてあげてもいい」という女としての本能を破壊され蹂躙された。

女は、男に対して「やらせてあげてもいい」という本能を持っているがゆえに、レイプをされることが決定的なダメージになってしまう。

だれだって人に対する信頼(=愛)の上に立って生きている。とくに「やらせてあげてもいい」と受け入れる本能を持った性存在である女にとって、レイプをされることはもう、もはや生きてゆくことができないくらいの決定的なダメージになる。

「やらせてあげてもいい」という本能が壊れていないのなら、すべての男とセックスをすることができる。しかしそれが壊れたらもう、好きなひとりの男とセックスすることもできなくなる。さらには、この世のすべての人間が怖くなってしまう。

 

 

レイプによってもたらされるのは、主に精神的なダメージであるのだろう。

したがって、セカンドレイプだって、まぎれもなく「レイプ」という犯罪行為なのだ。

花田なんとかという右翼雑誌の編集長とか、百田尚樹とか杉田水脈とか、世のネット界隈にうごめくあまたのネトウヨとか、好き放題に彼女に対するバッシングを繰り返してセカンドレイプをしてきた者たちだってまさに「レイプ魔」であり、ある意味で、ただ押し倒して無理やりセックスすることよりもっと罪深いともいえる。

彼女は、肉体的なレイプには耐えることができたが、精神を蹂躙してくる世の右翼たちが繰り返すセカンドレイプによって死の淵まで追い詰められ、ついには自殺未遂に至った。

セカンドレイプは口=言葉だけだから罪はないと思って彼らは頭(ず)に乗って情け容赦もなく繰り返してくるが、じつはそれが肉体のレイプ以上にひどい暴力であることも多く、それこそが被害者の生の根拠を根底的に蹂躙し破壊するものになっていたりする。

彼女が世間に顔や名前をさらしてでも男を告発しようとしたのも、男の事後の態度の卑劣さというセカンドレイプだったし、それが権力の中枢の「ブラックボックス」を告発するものでもあったから、そのまわりの醜悪な右翼たちによる際限のない凄惨なセカンドレイプへとエスカレートしていった。

しかし同時にそれは世の多くのレイプ被害者の共感を呼ぶことになり、セカンドレイプのすさまじさと同じだけ彼女の中の人に対する愛と信頼を取り戻すきっかけにもなった。

彼女がなぜ顔や名前をさらしてまで立ち上がったのかといえば、おそらく美人のお嬢様のプライドだったのだろうし、世間的な打算を超越した「少女=処女」のようなひたむきさと率直さがあったのかもしれないし、そこまでしないともう自分の中の「人に対する愛や信頼」を取り戻せないと思い詰めたからだろう。

女は「やらせてあげてもいい」という本能を持っている。そこがレイプ被害のやっかいなところで、それによって肉体以上にその本能が蹂躙され破壊されてしまうことにある。世の中にはSMプレイがあるように、無理やりレイプされてエクスタシーを感じることだってあるし、ただ上手に騙され脱がされ犯されだけのことでこの上ない深いエクスタシーに達したとしても、事後の充足などまるでなく、泥のような疲れと無力感にさいなまれることだってある。そうやって女は「やらせてあげてもいい」という本能を巧妙に残酷に踏みにじられたのだ。

女は本能的に男を許している。やりたい一心の男の本能を許している。レイプ犯を許しつつ自己否定の座敷牢に幽閉されてしまう女の本能とかなしみ……そこから抜け出すためにはもう、自分を捨てるしかない。そうやって伊藤詩織は、顔と実名を世間にさらして立ちあがった。それにおそれをなした男根主義・家長主義の右翼たちがいっせいにヒステリックなバッシングをはじめた。彼らは、本能的にレイプをしてもいいと思っている。そういう思いがなければ、戦争を賛美したり侵略を正当化したりすることはできない。まあこのあたりの病的な心理について考え出すときりがなくなってしまうが、とにかくそういうことだ。

「女だってよがっていたじゃないか」という言い分だけで許されるものではない。被害者はそれによって、「愛と信頼」という女としての根拠も人間としての根拠も失ってしまう。

 

 

今どきの右翼の心には、レイプの衝動がうごめいているらしい。

戦前のこの国がレイプのように朝鮮を侵略したということに対して、「朝鮮だってよがっていたじゃないか」と歴史修正主義の右翼たちはいう。彼らにとって他者を凌辱し支配することは、ひとつの理想であるらしい。彼らにはきっと、人間に対するルサンチマンがある。だから「国家」という共同幻想を実体であるかのように思い描いて執着してゆく。「人間(=他者)」よりも「国家」のほうが大事なのだ。右翼の男たちには女に対するルサンチマンがあるらしく、そんな男根主義の男たちが持つ権力に寄っていく女もいて、そこで「右翼」という閉鎖的な村社会が形成され、女たちもはしゃぎまくって彼女に対するセカンドレイプに邁進していった。

レイプはひとつのヘイト思想であり、レイシズムでありファシズムである。21世紀のこの国は、そんな権力によってそんなメンタリティが蔓延するようになってきた。そこに風穴を空けたのが今回の伊藤詩織レイプ事件の判決であった。それは、逮捕令状が権力によって握りつぶされるなどの政治的な事件でもあり、それに対する抵抗運動として彼女は顔も実名も晒して立ち上がった。そうして多くのレイプ被害者の女たちをはじめとする一般の女たちから支持され、ひとまず外国のメディアからも「ME・TOO運動」のひとつとして注目され評価されているらしい。

まあこれは、大正時代の「米騒動」と同様に、女たちが立ち上がることによって時代に風穴を空けるという現象だった。女の本能的な「愛と信頼」の情が結集して盛り上がること、これによってあの卑劣で醜悪な右翼たちが跳梁跋扈するという悪夢のような現在の状況が退潮してゆくのだろうか。

この判決を受けて彼女は、「これまで私をバッシングしてきた人たちに対する名誉棄損の告訴も考えている」と発言した。

すると今、杉田水脈や有本香をはじめとするネトウヨの女たちが、告訴されるまいとして、過去のツイートを消去するなどしていっせいに逃げ腰になってきている。少なくとも民事裁判においてはもう、あの女たちに勝ち目はない情勢であるのだろうし、現政権の威光にも陰りが見えてきている。おそらく総理大臣をはじめとする権力者たちは、わが身を守るためにはあの女たちをさっさと切り捨てるだろうし、あの女たちもそれを承知しているにちがいない。

またあの女たちだって、山口なんとかというレイプ犯の男がまるでセックスアピールも人格的な清廉さもない男だというくらい、女の本能としてわかりすぎるくらいわかっているにちがいない。

とにかくどんなかたちであれ、女たちが立ち上がらなければ新しい時代は生まれてこない。

女の中の「愛と信頼」こそが人の世の基礎になっているのであり、それを守らなければ人の世の未来はない。

 

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蛇足の宣伝です

キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたものです。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。

13歳

安倍晋三というその人の醜悪さ以上に、そのまわりに群がる者たちの恥知らずな意地汚さは、醜悪を通り越して凶悪でさえあると思う。

今の政治状況は、ほんとうにひどい。一部の者が権力を独占してそこに群がってゆく者たちがいて、それが現在の日本人の多くが望むところではないことはたしかなのに、みんな諦めたまま事態は硬直化して変わる気配は一向にやってこない。投票率はどんどん下がって、前回の参議院選挙ではついに50パーセントを割った。

投票率を上げないといけないのだが、そのための有効なアイデアはまだ聞こえてこない。

日本人はもともと国の政治には関心の薄い民族であり、関心を持たせれば投票率が上がるとか、そんなかんたんな問題ではないし、そもそも政治に関心が薄いのはいけないことかという問題がこの国にはある。

国の政治に対する関心の薄さはこの国の伝統であり、それによって洗練してきた集団性も美意識もある。もともと法制度によって支配しようとする文明国家の政治なんて、無主・無縁の関係のままに他愛なくときめき合い助け合うという人間の集団性の本質とは矛盾したものであり、だから民衆の関心が薄くなってしまう。

したがって、政治に無関心であることを否定するべきではない。そのうえで投票率を上げながら民主主義を実現してゆかねばならない。

今どきこの国で投票に行くのは、知ったかぶりの政治オタクか利害関係が絡んで損得勘定をしているかのどちらかがほとんどだろう。現在の政治は、人間の集団性の本質から大きく乖離してしまっている。だから民衆はどんどん無関心になってゆくし、政治とはそういうものだと思えば投票に行く気になんかなれない。つまり、民衆の集団性の本質においては、国家の政治に関心を持って投票に行くということに必然性がないのであり、もし行くとすれば、選挙が祭りのイベントになったときか、困っている人に手を差しのべたいという願いが理由になったときだ。

 

 

山本太郎の全国街宣では、投票率を上げるための方法として、よく「家族や友人とも政治の話をしてください」と訴えたりするが、それははたして有効だろうか?

そんなことをいわれてもこの国の民衆の多くは政治の話なんかしたくないのだし、それはもうこの国の伝統であり、本能のようなものだ。だから、政治の話をしたくなるように説得するための有効な言葉などない。この国の民衆社会の伝統においては、政治の話をしないことがひとつの美徳になっている。

家族とは愛について語り合う場であって、政治の話をする場でない……と反論されて山本太郎は、何と答えるだろうか。

しかし「愛について語り合う場」だからこそ、国のためでも自分のためでもなく、この世の困っているだれかのために選挙に行く、という話は成り立つ。民衆社会には、そういう想像力が育つ空気がある。

この国の民衆社会の基本的な関係性=集団性は、「無主・無縁」の「原始共産制」にあり、それが、どこからともなく人が集まってきて村人もよそ者もやくざも浮浪者も分け隔てなく他愛なくときめき合う「鎮守の森の祭り」の伝統なのだ。

家族や友人と政治の話をしないことを否定するべきではない。この国の家族や友人関係をはじめとする民衆社会は、政治権力に閉じ込められてあるがゆえに、心は政治=現実世界の外の「異次元の世界」に対する「遠いあこがれ」を紡いでいる。そうやって祭りや芸能・芸術や物づくりの技術等の文化を洗練させてきた。そしてそれはまた、人類普遍の、あの山の向こうやあの水平線の向こうやあの空の向こうなどの「異次元の世界」に対する「遠いあこがれ」であり、人類史を進化発展させてきた「進取の気性」でもある。

日本人は政治の話をしないがゆえに「進取の気性=好奇心」が旺盛なのだし、その心映えを共有しながら「祭り」が盛り上がってゆくところにこそ、日本的な集団性の文化の真骨頂がある。日本人の「国家=公共」に対する意識は薄い。というか、そんな現実の世界は「憂き世」だと思い定め、それを超えた「異次元の世界」に思いを馳せてゆく。そうやって「見知らぬ人」に他愛なくときめいてゆく。

「袖すり合うも他生の縁」ということわざがあるように、そうやって「無主・無縁の見知らぬ人どうしが他愛なくときめき合う祭りの賑わい」を基礎とした集団性の文化が育ってきた。日本人の国家意識や公共意識や政治意識は薄いが、それを超えた次元の集団性の文化を持っている。

だから、選挙だって「祭りの賑わい」にならなければ盛り上がらない。われわれが選挙に行くのは、国家のためでも自分のためでもない。この世界のどこかで困っている見知らぬ誰かに手を差しのべたいからだ。自分が選挙に行かなければその人がもっと困ることになってしまう。そういう「異次元の世界」に対する想像力こそ、この国の文化の伝統であり、困っている人を助けることができないのなら国なんか滅んでしまってもかまわない。もともと国家意識など薄い民族であり、国家制度とは別の民衆だけの集団性、すなわち人と人がときめき合う助け合う人類普遍の集団性を守って歴史を歩んできたのだ。

 

 

国家など滅びてもかまわないというか国家や政治のことなんか知ったことではないというその政治意識の薄さにこそ、人と人が他愛なくときめき合い助け合う人類普遍の集団性の真実が息づいている。

この国の民衆の集団性は、もともと文明国家の発生より先に生成していたものであり、国家制度を模倣して生まれてきたのではない。西洋では両者のあいだに「契約」が結ばれていて、両者の集団性も融合している部分も多く、だから民衆の政治意識や公共心も高い。しかしもともと異民族の外圧がなかった日本列島においては、そうした「契約」がないまま一方的に国家制度がつくられていったわけで、だから民衆は、国家に支配されつつもみずからの原始的な集団性もまた守ってくることができた。そうしてその他愛なくときめき合い助け合う原始的な集団性にこそ、人類の民主主義の未来がある。なぜならそれこそが、二本の足で立っている猿である人類の普遍的本質的な人間性にほかならないからだ。人類の歴史は、そこからはじまり、そこに還ってゆく。そのようにして、数千年の文明国家の歴史の果てに「民主主義」という概念が生まれてきた。

人類はまだ真の「民主主義」を実現していない。しかし歴史はそこに向かって動いている。そして「そこ」は、果てしなく遠い未来であると同時に、「今ここ」の「遠いあこがれ」としてだれの心の中にも息づいている。すなわち日本列島の「伝統」においては「今ここ」とはあの青い空の向こうの「異次元の世界」のことであり、われわれはそういう「遠いあこがれ」を共有しながら歴史を歩んできたのだ。いや、それはもう人類普遍の「歴史の無意識」として、世界中の人の心に共有されているのかもしれない。

原初の人類は二本の足で立ち上がったときに、猿よりも弱い猿になってしまったことの「絶望」とともに「青い空」を見上げた。人類の歴史はそこからはじまっているわけで、その「絶望」の果てに抱いた「遠いあこがれ」を基礎にして爆発的な進化発展を遂げてきた。人類が「万物の霊長」になったことはそうした「逆説」の上に成り立っているわけで、人類の集団性のダイナミズムだって、そうした「逆説」として起きていることにちがいない。

国家=政治のことなど知ったことではないという心模様が集まって、国家=政治の運営がもっとも活性化する。それが、この国の民衆社会の伝統である「他愛なくときめき合い助け合う原始共産制」の上に成り立った集団性なのだ。

原始共産制」とは、「青い空の向こうの異次元の世界に対する遠いあこがれを共有しつつ他愛なくときめき合ってゆく集団性」のこと。それは、人類史の起源であると同時に究極の集団性でもある。もっとも原始的な集団こそ、もっとも高度で未来的な集団のかたちにほかならない。

民主主義の理想は、原始共産制にある。人は、だれもが他愛なくときめき合い助け合う社会を夢見ている。それさえあれば生きてゆけるし、それがなければ生きてゆけない。

 

 

選挙に行こう。そして新しい時代を迎えよう。選挙は「政治」ではない、新しい時代を迎える「お祭り」なのだ。

この世界にはたくさんの「お祭り」があるが、すべてに通じるその本質は「新しい時代を迎える」ということにある。人間とはそのように、この生のいたたまれなさから逃れて「異次元の世界」に超出してゆこうとしている存在であり、その衝動の切実さと豊かさが人類史の進化発展をもたらした。そうやって「イノベーション」が起きてくる。

村の鎮守の杜の秋祭りや田植え祭だろうと、皇室の新嘗祭大嘗祭だろうと、正月や盆祭りだろうと、ミニスカートの流行だろうと、すべては「新しい時代を迎えるお祭り」であり「異次元の世界への超出」にほかならない。

正月が来たからといって何が変わるわけでもない、といって「冷笑系」を気取ってみせてもしょうがない。正月になれば、人の気分も新しくなる。「平成」から「令和」になって、もしかしたら人々の気分も少しずつ変わりはじめているのかもしれない。

これまでは「べつにこのままでいい」という気分で現政権の腐敗を許してきたわけだが、令和になって山本太郎とれいわ新選組も登場してきたことだし、ようやく「新しい時代を迎えよう」という気分が芽生えつつあるのかもしれない。

桜を見る会疑惑」がマスコミに取り上げられてこんなにも大きな話題になるとは、国会で質問した当の田村智子議員も予想していなかったらしい。政権側は今、必死にマスコミを抑え込みにかかっているが、いったん民衆の中に芽生えた現政権に対する幻滅は、少しずつ少しずつ、しかし確実に広がりはじめているのかもしれない。

正月が来れば、だれもが「新しい時代を迎えよう」という気分になる。そして日本人は、桜の花が咲くのを指折り数えて待っている。であれば、桜疑惑もそのときまで引き延ばされるかもしれない。桜が咲けば、いやでも疑惑を思い出すだろうし、来年も再来年も忘れないにちがいない。

安倍晋三とその取り巻きたちによって桜の花の純潔が汚された……その記憶は、多くの民衆の心の中に残された。

桜を見る会」では、開園前に安倍晋三の地元支援者たちだけを呼び入れて盛大に飲み食いさせ、一般の招待客が入っていったときにはほとんど食い物が残っていなかったのだとか。このすさまじい「ハイエナ」ぶりは、いったい何だろう。これが日本列島の美しい伝統なのだろうか。地元下関の支援者たちだけではない、そもそも総理大臣とその周辺の権力者たちが「ハイエナ」以上の貪欲さでこの国のあらゆる利権をしゃぶりつくそうとしている。

しかし今ようやく、そのことに気づいてうんざりしはじめている民衆が増えてきたのだろうか。桜を見る会疑惑報道や伊藤詩織事件勝訴に象徴されるように、司法やマスコミに対する政権からの締め付けも少しずつかげりがあらわれてきている。

民衆の気分は時代の気分であり、その「新しい時代」を待ち望む「気分」から山本太郎現象が生まれてきたのだろうし、政治家や資本家やマスコミも最終的にはそれを無視することはできなくなるにちがいない。だから彼らは情報操作をしようとするのだし、民衆の気分が「べつにここのままでいい」というような無気力であれば状況は何も変わらない。

新しい時代は、民衆の中の「新しい時代の到来を夢見る気分」から生まれてくる。政治家や資本家等の既得権益者がそれを夢見るはずがないし、多くの民衆がそこに巻き込まれる時代もある。それが、戦争ばかりしていたあの帝国主義の時代であり、現在のバブル以降の「失われた20年(あるいは30年)」だったのかもしれない。

 

 

政治なんかに興味はない。

でも、選挙は政治ではなく、人と人が他愛なくときめき合い助け合う場を生み出すための「祭り」なのだ。だから、われわれにも選挙に行く理由はある。

政治のことをやまとことばで「まつりごと」という。古代および古代以前の人々は、「政治」のことをどのようなものだと考えていたのだろうか。彼らは、「まつり=まつる」という言葉にどんな意味を込めていたのだろうか。

古代には、大和朝廷の支配に従わない九州や東北の辺境の者たちのことを「まつろわぬもの」と呼んでいた。だから「まつる」とは「支配する」ことだと歴史家によって解釈されることが多い。そしてその延長として古代の「祭り」は「呪術によって支配する場」だと考えられていたりする。

しかし「まつる=まつらふ」という言葉のほんらいの語義は、「支配する」ということにあるのではない。それは、大和朝廷という人を支配する文明国家が生まれる前から存在していた言葉であり、人も自然(神羅万象)も支配しないでそれらと「調和」してゆくのが日本文化の伝統であるのなら、もともと「支配」という概念などなかったし、「呪術」という「支配のための道具」も存在しなかったことを意味する。大和朝廷成立以前の日本列島は「原始共産制」の社会だったのであり、そういう集団運営の作法のことを「まつる=まつらふ」といった。

ここでいう「原始共産制」とは、「支配」など存在しない「だれもが他愛なくときめき合い助け合ってゆく直接民主主義的な集団運営」のことであり、そういう無主・無縁の「混沌」の中で賑わってゆく催しの場を「祭り」といった。

「まつり」という言葉のほんらいの語義は「支配」ではなく「調和」ということにある。

「まつらふ=まつり合う」とは誰もが他愛なくときめき合い助け合うことを意味していたわけで、そういう無主・無縁の混沌の中でだれもが他愛なくときめき合い助け合ってゆく「原始共産制」の集団運営のことを「まつる=まつらふ」という。大和朝廷成立以前の社会ではその「混沌」こそが「調和」だったわけで、大和朝廷もたてまえ上ひとまずそのニュアンスを踏襲して政治のことを「まつりごと」といった。

着物やズボンやスカートの裾を折り返して縫うことを「まつる」という。それは「整える=調和」という意味だ。

「語り合う」ことを昔は「語らふ」といったように、「まつらふ」は「まつり合う」であり、みんなで集団の関係を「整え合う」ことを「まつりごと」という。ひとりもしくは少数が全体を「支配」すること「まつりごと」といったのではない。

「まつる」という言葉の語源は、「支配する」という意味だったのではない。

「まつろわぬもの」とは「ときめき合い助け合う<祭り>に参加してこないもの」ということ、そういう意味で今の政権も右翼たちも「まつろわぬもの」たち、すなわち「反社会的勢力」なのだ。

 

 

だれもが他愛なくときめき合い助け合ってゆく集団運営の作法のことを「原始共産制」という、それのどこがいけないのか。現在の共産党員がどんな思想を持っているのか、僕はよくわからないが、少なくとも「共産制」という集団のかたちを全否定することはできない。むしろそれこそが人類の理想であり、理想であるがゆえに今すぐ実現するのは困難だという現実の状況があるだけのことだろう。

ともあれ、古代以前の日本列島の人々にとっての「まつりごと」とはだれもが他愛なくときめき合い助け合う「原始共産制」で集団を運営することだったのであり、「支配」を意味していたのではない。そしてその集団性を担保するよりどころとして「起源としての天皇」が「祭り」の場で祀り上げられていった。そうやってみんなで「祭り」のカリスマアイドルを選んで盛り上がってゆくことを「祀り上げる」という。

この国ではもともと人が「かみ」だったのであり、だから今でも家庭の主婦(=山の神)も旅館の女主人(=女将)も「かみ」というのだし、起源としての天皇という「かみ」もおそらく女だったのだ。

選挙が「祭り」にならなければ、投票率は上がらない。今どきはつまらない政治家ばかりなのだもの、盛り上がるはずがない。

現在において、民衆がみんなで祀り上げる「カリスマ=かみ」となりうる政治家なんかどこにもいない……そういう状況から、ようやく山本太郎が登場してきた。

山本太郎が何をしてくれるかではない。山本太郎をみんなで祀り上げることによって、みんなが他愛なくときめき合い助け合う空気が醸成されてくる……そうやってみんなで社会をつくるということ、古代以前の民衆は、そうやってみんなで天皇という「かみ」を祀り上げてゆくことによって、だれもが他愛なくときめき合い助け合う社会をつくっていった。天皇は、何もしてくれないし、民衆を支配しているのでもない、ただもう純粋に民衆の存在を祝福しているだけだ。それが原始時代以来続いてきた人間社会ほんらいのリーダーの姿であり、だからこそ、みんなで天皇を祀り上げてゆくことによってだれもが他愛なくときめき合い助け合う関係の社会が生まれてくる。

山本太郎だって、ただもう純粋にひたむきに民衆を祝福しているだけであり、天皇制のこの国にはそういう存在をリーダーに祀り上げようとするメンタリティの伝統があるわけで、それはまた「原始共産制」を基礎とし究極の理想ともしている人類の集団性の伝統でもある。

人間性の本質においては、何かをしてくれる「支配者」をリーダーとして祀り上げるのではなく、何もしてくれないがひたすら魅力的で「そこにいてくれるだけでいい」と思える対象をリーダーとして祀り上げてゆく。そこがボス支配のサル社会の集団性とは違うところであり、そうやって人類は無限に大きな集団をつくることができるようになった。

 

 

政治に興味なんかなくてもいい。みんなでお神輿を担いで「わっしょい、わっしょい」とやるのは楽しい。そうやってみんなが山本太郎のように他愛なくときめき合い助け合う存在になれれば、その「祭りの賑わい」とともに投票率が上がってゆく。

山本太郎の人気と政策とその活動の基礎には、だれとでも他愛なくときめき合い助け合うことができるその純粋無垢なキャラクターが隠れている。彼はそういう生まれたばかりの子供のような魂の持ち主であるらしいのだが、それはまただれの心の底にも息づいているものでもある。だれもが赤ん坊である時代を体験している。そういう「なつかしさ」を呼び覚ましてくれる存在として山本太郎が登場してきたのだし、それはまた天皇に対する「なつかしさ」でもある。

この国には天皇が存在するから、山本太郎のようにひたむきで純粋なキャラクターの政治家が登場してきたのだと思う。そういう意味で彼もまた「ジャパンクール」な存在であり、だから欧米のインテリからも注目されているのだろう。

ベルギーの若い映画監督は3年がかりで山本太郎の政治活動を記録した「ビヨンド・ザ・ウェイブス」という映画を撮ったし、前回の参議院選挙におけるれいわ新選組の活動を追いかけた原一男の『れいわ一揆』という記録映画はロッテルダム映画祭に招待されたし、彼は世界的にも珍しいタイプの政治家であるのかもしれない。いい意味で「子供っぽい」のだ。マッカーサーは「日本人は13歳から成長しない」といったそうだが、そういう少年のようなひたむきさと無鉄砲のままで政治の世界に挑んでいっている。おそらく天皇制が、そういう日本人とそういう政治家を生み出す。

13歳の少年少女は、自分を忘れて何かに熱中してゆく。「腹切り」や「特攻隊」だって、けっきょくそういうメンタリティであるのかもしれない。

天皇は、この国の「家長」でも「支配者」でもなく、みずからの命も人生も投げ捨てた「生贄」であり、山本太郎もまたそういう存在であろうとしているし、だから多くの民衆が賛同し拍手している。

良くも悪くも日本人は成熟しない。それが天皇制の風土であり、それが「ジャパンクール」だ、ともいえる。

また、民衆の国家意識や公共心が成熟しないから、ずる賢い政治家や官僚や資本家に好き勝手なことをされてしまうという現在の社会状況になっている。そのひどいモラルハザードに抗って山本太郎が立ち上がった。しかし、彼が何をしてくれるというのではない。彼はたんなる「神輿=生贄」であり、多くの民衆が担ぎ上げることによって、はじめて新しい時代に向けて動き出す。

「今のままでいい」と思ってしまったら「あの連中」の思うつぼであり、あなたが投票に行かなかったせいで、この世の生きられない人がもっと生きられなくなってしまう……山本太郎はそう訴えている。新しい時代を夢見る心を失ったら人間ではなくなってしまう、と。

 

 

今どきのエセ右翼たちは「日本人に生まれてよかった」などと大合唱しているが、日本人は日本人であろうとなんかしない。「新しい日本人」になることを夢見ている。そういう「13歳」が日本人なのだ。

日本人は成熟しない。公共心も国家意識も薄い。それが日本人というか日本列島の民衆の伝統なのだもの、しょうがないじゃないか。政治に関心がなくて何が悪い?「大人なんか、みんな腐っている」と思って何が悪いのか?

また、死にたがる思春期の少年少女や生活や人生に疲れ果てた大人たちに対して、リベラルな知識人たちがよく「自分には生きる価値がある」という「セルフリスペクト」を持ちなさい、などというが、僕は「自分なんか生きる値打ちもない人間のクズだ」と思っている。それが日本人なのだもの、そう思って何が悪い?「セルフリスペクト」とやらを持つことができるほど成熟できないのが日本人なのだ。だから自殺率が高いのだろうが、しかしだからこそ自分のことなど忘れて他愛なく世界や他者の輝きにときめいてゆくこともできるわけで、その「他愛なさ」で人と人がときめき合い助け合ってきたのが日本列島の民衆の歴史にほかならない。

「自分なんか生きる値打ちもない」と思っていても、だれかが自分に対して「生きていてくれ」と願ってくれているし、自分だってだれかに対して「生きていてくれ」と願わずにいられない。その関係性こそが、人を生かしている。

だれもが「自分には生きる値打ちがある」と思っている世の中なら、だれも他者に「生きていてくれ」と願う必要なんかないではないか。

自分の生が正当であるのなら、自分の生の邪魔になる相手は排除しなければならなくなる。そうやってネトウヨは、差別やヘイトスピーチを繰り返している。

いや、人類そのものの歴史がその「向こう見ずな他愛なさ」によって進化発展してきたともいえるわけで、それが「ジャパンクール」として世界中の若者の共感を呼んでいるのではないだろうか。

原初の人類は、二本の足で立ち上がることによって成熟することをやめた。そして成熟するのをやめたことによって、新しい世界を夢見つつさまざまなイノベーションを起こしながら進化発展してきた。

「このままでいい」とか「日本人に生まれてよかった」とか「セルフリスペクト」ということなど、人類の伝統でも日本人の伝統でもない。

「セルフリスペクト」なんて、アホなネトウヨたちの「日本人に生まれてよかった」という大合唱と同じではないか。

 

 

人間とは「人間とは何か?」と問い続ける存在であり、日本人とは「日本人とは何か?」と問い続ける存在であり、したがってわれわれ日本人は永遠に「日本人」になることができない。つまり「日本人として成熟することなんかできない」ということで、それが「日本人」なのだ。なんといっても、死ぬまで「13歳」であるわけで。

日本人の人生は、13歳で終わっている……それは、死ぬまで夢見る13歳のままだということであり、死ぬまで日本人になり切れないのが日本人だ、ということでもある。

人間とは死ぬまで人間になり切れない存在であり、そうやって死ぬまで「人間とは何か?」と問い続けてゆく。

13・14・15歳、すなわち思春期は、人生でもっとも勢いよくペニスが勃起する年ごろであり、そこで人生が終わったからといって、けっして不幸なことだともいえない。

13・14・15歳の少女は、「(セックスを)やらせてあげてもいい」という気分を本能的に持っている。それは、体形や体質が急激に変わりはじめていることに対するとまどいやおそれからくるものであり、セックスをやらせてあげることはそこからの解放であると同時に、ひとつの自傷行為でもある。彼女らにとってそれはひとつの「死」であり、だからこそ「やらせてあげてもいい」と思ってしまう。まあ日本人の女は死ぬまでそういう気分で生きてゆくわけで、だから主婦も平気で不倫をするし、女子大生だってフーゾクで働くことを厭わない。いつまでたっても13・14・15歳の「処女」の気分を引きずっているからこそ、そういうことをしてしまう。日本人の女は、死ぬまで「女」になれないで、死ぬまで「女とは何か?」と問い続けてゆく。

問うこと、すなわちその解答はひとつの「異次元の新しい世界」であり、それが日本人の「好奇心=探求心=進取の気性」の伝統になっている。

 

 

10

「13歳」こそこの世でもっとも人間的で哲学的な存在である。人間なんてそのあとはもう、俗っぽく汚れてゆくだけだろう。「人間とは何か?」ということがわかったつもりになって、その根源的な問いをどんどん失ってゆく。

「人間とは何か?」とか「日本人とは何か?」とか「男とは何か?」とか「女とは何か?」と問わずにいられない、その「愚かさ」や「未熟さ」を否定するべきではない。そこにこそ人間性の真実がある。

政治に無関心であることも、自分なんか人間のクズだという嘆きも、人間存在の本質・自然に照らせば否定することはできない。人はそこから生きはじめ、この世界や他者の存在の不思議に驚き、その輝きに他愛なくときめいてゆく。

「13歳」の日本人は、政治よりも「色ごと」に興味がある。「色ごと」とは、世界や他者の輝きに他愛なくときめてゆくこと。そして「色ごと」のよろこび(=快楽)は、死と背中合わせのところで汲み上げられる。だから「13歳」は死に急ぐし、「自分には生きる価値がある」などとは思っていない。しかしわれわれ大人はそのことを否定するべきではない。なぜならその「絶望=嘆き」から、この生のもっと豊かな輝きが現れてくるからだ。

「13歳」の輝きは、人類普遍の輝きである。古代以前の奈良盆地では、その輝きにみんなしてときめきながら「起源としての天皇=処女の巫女」を祀り上げていった。

人類は、文明国家の発生とともに人間性の真実としての「他愛なさ=愚かさ=未熟さ」をしだいに失ってきた。失いつつ、しかしつねに失うまいと四苦八苦してきた。だから現在においても、その「他愛なさ=愚かさ=未熟さ」=「処女性」が「ジャパンクール」として世界中から評価されている。

「処女性」は、男であろうと女であろうと「人間性の真実」としてだれの中にもある。

政治に無関心であってもかまわない。それでもわれわれが投票に行く理由はある。そのイベントが「人間性の真実」を守り取り戻そうとする民衆社会ほんらいの「祭り」になれば、投票率はきっと上がる。

山本太郎の街宣にあんなにもたくさんの人が集まってくるのは、まぎれもなく人類集団の普遍的な生態としての「祭りの賑わい」であり、おそらくそこで人々は、他愛なくときめき合い助け合おうとする「人間性の真実」を取り戻そうとしているのだ。

 

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キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。

13歳

安倍晋三というその人の醜悪さ以上に、そのまわりに群がる者たちの恥知らずな意地汚さは、醜悪を通り越して凶悪でさえあると思う。

今の政治状況は、ほんとうにひどい。一部の者が権力を独占してそこに群がってゆく者たちがいて、それが現在の日本人の多くが望むところではないことはたしかなのに、みんな諦めたまま事態は硬直化して変わる気配は一向にやってこない。投票率はどんどん下がって、前回の参議院選挙ではついに50パーセントを割った。

投票率を上げないといけないのだが、そのための有効なアイデアはまだ聞こえてこない。

日本人はもともと国の政治には関心の薄い民族であり、関心を持たせれば投票率が上がるとか、そんなかんたんな問題ではないし、そもそも政治に関心が薄いのはいけないことかという問題がこの国にはある。

国の政治に対する関心の薄さはこの国の伝統であり、それによって洗練してきた集団性も美意識もある。もともと法制度によって支配しようとする文明国家の政治なんて、無主・無縁の関係のままに他愛なくときめき合い助け合うという人間の集団性の本質とは矛盾したものであり、だから民衆の関心が薄くなってしまう。

したがって、政治に無関心であることを否定するべきではない。そのうえで投票率を上げながら民主主義を実現してゆかねばならない。

今どきこの国で投票に行くのは、知ったかぶりの政治オタクか利害関係が絡んで損得勘定をしているかのどちらかがほとんどだろう。現在の政治は、人間の集団性の本質から大きく乖離してしまっている。だから民衆はどんどん無関心になってゆくし、政治とはそういうものだと思えば投票に行く気になんかなれない。つまり、民衆の集団性の本質においては、国家の政治に関心を持って投票に行くということに必然性がないのであり、もし行くとすれば、選挙が祭りのイベントになったときか、困っている人に手を差しのべたいという願いが理由になったときだ。

 

 

山本太郎の全国街宣では、投票率を上げるための方法として、よく「家族や友人とも政治の話をしてください」と訴えたりするが、それははたして有効だろうか?

そんなことをいわれてもこの国の民衆の多くは政治の話なんかしたくないのだし、それはもうこの国の伝統であり、本能のようなものだ。だから、政治の話をしたくなるように説得するための有効な言葉などない。この国の民衆社会の伝統においては、政治の話をしないことがひとつの美徳になっている。

家族とは愛について語り合う場であって、政治の話をする場でない……と反論されて山本太郎は、何と答えるだろうか。

しかし「愛について語り合う場」だからこそ、国のためでも自分のためでもなく、この世の困っているだれかのために選挙に行く、という話は成り立つ。民衆社会には、そういう想像力が育つ空気がある。

この国の民衆社会の基本的な関係性=集団性は、「無主・無縁」の「原始共産制」にあり、それが、どこからともなく人が集まってきて村人もよそ者もやくざも浮浪者も分け隔てなく他愛なくときめき合う「鎮守の森の祭り」の伝統なのだ。

家族や友人と政治の話をしないことを否定するべきではない。この国の家族や友人関係をはじめとする民衆社会は、政治権力に閉じ込められてあるがゆえに、心は政治=現実世界の外の「異次元の世界」に対する「遠いあこがれ」を紡いでいる。そうやって祭りや芸能・芸術や物づくりの技術等の文化を洗練させてきた。そしてそれはまた、人類普遍の、あの山の向こうやあの水平線の向こうやあの空の向こうなどの「異次元の世界」に対する「遠いあこがれ」であり、人類史を進化発展させてきた「進取の気性」でもある。

日本人は政治の話をしないがゆえに「進取の気性=好奇心」が旺盛なのだし、その心映えを共有しながら「祭り」が盛り上がってゆくところにこそ、日本的な集団性の文化の真骨頂がある。日本人の「国家=公共」に対する意識は薄い。というか、そんな現実の世界は「憂き世」だと思い定め、それを超えた「異次元の世界」に思いを馳せてゆく。そうやって「見知らぬ人」に他愛なくときめいてゆく。

「袖すり合うも他生の縁」ということわざがあるように、そうやって「無主・無縁の見知らぬ人どうしが他愛なくときめき合う祭りの賑わい」を基礎とした集団性の文化が育ってきた。日本人の国家意識や公共意識や政治意識は薄いが、それを超えた次元の集団性の文化を持っている。

だから、選挙だって「祭りの賑わい」にならなければ盛り上がらない。われわれが選挙に行くのは、国家のためでも自分のためでもない。この世界のどこかで困っている見知らぬ誰かに手を差しのべたいからだ。自分が選挙に行かなければその人がもっと困ることになってしまう。そういう「異次元の世界」に対する想像力こそ、この国の文化の伝統であり、困っている人を助けることができないのなら国なんか滅んでしまってもかまわない。もともと国家意識など薄い民族であり、国家制度とは別の民衆だけの集団性、すなわち人と人がときめき合う助け合う人類普遍の集団性を守って歴史を歩んできたのだ。

 

 

国家など滅びてもかまわないというか国家や政治のことなんか知ったことではないというその政治意識の薄さにこそ、人と人が他愛なくときめき合い助け合う人類普遍の集団性の真実が息づいている。

この国の民衆の集団性は、もともと文明国家の発生より先に生成していたものであり、国家制度を模倣して生まれてきたのではない。西洋では両者のあいだに「契約」が結ばれていて、両者の集団性も融合している部分も多く、だから民衆の政治意識や公共心も高い。しかしもともと異民族の外圧がなかった日本列島においては、そうした「契約」がないまま一方的に国家制度がつくられていったわけで、だから民衆は、国家に支配されつつもみずからの原始的な集団性もまた守ってくることができた。そうしてその他愛なくときめき合い助け合う原始的な集団性にこそ、人類の民主主義の未来がある。なぜならそれこそが、二本の足で立っている猿である人類の普遍的本質的な人間性にほかならないからだ。人類の歴史は、そこからはじまり、そこに還ってゆく。そのようにして、数千年の文明国家の歴史の果てに「民主主義」という概念が生まれてきた。

人類はまだ真の「民主主義」を実現していない。しかし歴史はそこに向かって動いている。そして「そこ」は、果てしなく遠い未来であると同時に、「今ここ」の「遠いあこがれ」としてだれの心の中にも息づいている。すなわち日本列島の「伝統」においては「今ここ」とはあの青い空の向こうの「異次元の世界」のことであり、われわれはそういう「遠いあこがれ」を共有しながら歴史を歩んできたのだ。いや、それはもう人類普遍の「歴史の無意識」として、世界中の人の心に共有されているのかもしれない。

原初の人類は二本の足で立ち上がったときに、猿よりも弱い猿になってしまったことの「絶望」とともに「青い空」を見上げた。人類の歴史はそこからはじまっているわけで、その「絶望」の果てに抱いた「遠いあこがれ」を基礎にして爆発的な進化発展を遂げてきた。人類が「万物の霊長」になったことはそうした「逆説」の上に成り立っているわけで、人類の集団性のダイナミズムだって、そうした「逆説」として起きていることにちがいない。

国家=政治のことなど知ったことではないという心模様が集まって、国家=政治の運営がもっとも活性化する。それが、この国の民衆社会の伝統である「他愛なくときめき合い助け合う原始共産制」の上に成り立った集団性なのだ。

原始共産制」とは、「青い空の向こうの異次元の世界に対する遠いあこがれを共有しつつ他愛なくときめき合ってゆく集団性」のこと。それは、人類史の起源であると同時に究極の集団性でもある。もっとも原始的な集団こそ、もっとも高度で未来的な集団のかたちにほかならない。

民主主義の理想は、原始共産制にある。人は、だれもが他愛なくときめき合い助け合う社会を夢見ている。それさえあれば生きてゆけるし、それがなければ生きてゆけない。

 

 

選挙に行こう。そして新しい時代を迎えよう。選挙は「政治」ではない、新しい時代を迎える「お祭り」なのだ。

この世界にはたくさんの「お祭り」があるが、すべてに通じるその本質は「新しい時代を迎える」ということにある。人間とはそのように、この生のいたたまれなさから逃れて「異次元の世界」に超出してゆこうとしている存在であり、その衝動の切実さと豊かさが人類史の進化発展をもたらした。そうやって「イノベーション」が起きてくる。

村の鎮守の杜の秋祭りや田植え祭だろうと、皇室の新嘗祭大嘗祭だろうと、正月や盆祭りだろうと、ミニスカートの流行だろうと、すべては「新しい時代を迎えるお祭り」であり「異次元の世界への超出」にほかならない。

正月が来たからといって何が変わるわけでもない、といって「冷笑系」を気取ってみせてもしょうがない。正月になれば、人の気分も新しくなる。「平成」から「令和」になって、もしかしたら人々の気分も少しずつ変わりはじめているのかもしれない。

これまでは「べつにこのままでいい」という気分で現政権の腐敗を許してきたわけだが、令和になって山本太郎とれいわ新選組も登場してきたことだし、ようやく「新しい時代を迎えよう」という気分が芽生えつつあるのかもしれない。

桜を見る会疑惑」がマスコミに取り上げられてこんなにも大きな話題になるとは、国会で質問した当の田村智子議員も予想していなかったらしい。政権側は今、必死にマスコミを抑え込みにかかっているが、いったん民衆の中に芽生えた現政権に対する幻滅は、少しずつ少しずつ、しかし確実に広がりはじめているのかもしれない。

正月が来れば、だれもが「新しい時代を迎えよう」という気分になる。そして日本人は、桜の花が咲くのを指折り数えて待っている。であれば、桜疑惑もそのときまで引き延ばされるかもしれない。桜が咲けば、いやでも疑惑を思い出すだろうし、来年も再来年も忘れないにちがいない。

安倍晋三とその取り巻きたちによって桜の花の純潔が汚された……その記憶は、多くの民衆の心の中に残された。

桜を見る会」では、開園前に安倍晋三の地元支援者たちだけを呼び入れて盛大に飲み食いさせ、一般の招待客が入っていったときにはほとんど食い物が残っていなかったのだとか。このすさまじい「ハイエナ」ぶりは、いったい何だろう。これが日本列島の美しい伝統なのだろうか。地元下関の支援者たちだけではない、そもそも総理大臣とその周辺の権力者たちが「ハイエナ」以上の貪欲さでこの国のあらゆる利権をしゃぶりつくそうとしている。

しかし今ようやく、そのことに気づいてうんざりしはじめている民衆が増えてきたのだろうか。桜を見る会疑惑報道や伊藤詩織事件勝訴に象徴されるように、司法やマスコミに対する政権からの締め付けも少しずつかげりがあらわれてきている。

民衆の気分は時代の気分であり、その「新しい時代」を待ち望む「気分」から山本太郎現象が生まれてきたのだろうし、政治家や資本家やマスコミも最終的にはそれを無視することはできなくなるにちがいない。だから彼らは情報操作をしようとするのだし、民衆の気分が「べつにここのままでいい」というような無気力であれば状況は何も変わらない。

新しい時代は、民衆の中の「新しい時代の到来を夢見る気分」から生まれてくる。政治家や資本家等の既得権益者がそれを夢見るはずがないし、多くの民衆がそこに巻き込まれる時代もある。それが、戦争ばかりしていたあの帝国主義の時代であり、現在のバブル以降の「失われた20年(あるいは30年)」だったのかもしれない。

 

 

政治なんかに興味はない。

でも、選挙は政治ではなく、人と人が他愛なくときめき合い助け合う場を生み出すための「祭り」なのだ。だから、われわれにも選挙に行く理由はある。

政治のことをやまとことばで「まつりごと」という。古代および古代以前の人々は、「政治」のことをどのようなものだと考えていたのだろうか。彼らは、「まつり=まつる」という言葉にどんな意味を込めていたのだろうか。

古代には、大和朝廷の支配に従わない九州や東北の辺境の者たちのことを「まつろわぬもの」と呼んでいた。だから「まつる」とは「支配する」ことだと歴史家によって解釈されることが多い。そしてその延長として古代の「祭り」は「呪術によって支配する場」だと考えられていたりする。

しかし「まつる=まつらふ」という言葉のほんらいの語義は、「支配する」ということにあるのではない。それは、大和朝廷という人を支配する文明国家が生まれる前から存在していた言葉であり、人も自然(神羅万象)も支配しないでそれらと「調和」してゆくのが日本文化の伝統であるのなら、もともと「支配」という概念などなかったし、「呪術」という「支配のための道具」も存在しなかったことを意味する。大和朝廷成立以前の日本列島は「原始共産制」の社会だったのであり、そういう集団運営の作法のことを「まつる=まつらふ」といった。

ここでいう「原始共産制」とは、「支配」など存在しない「だれもが他愛なくときめき合い助け合ってゆく直接民主主義的な集団運営」のことであり、そういう無主・無縁の「混沌」の中で賑わってゆく催しの場を「祭り」といった。

「まつり」という言葉のほんらいの語義は「支配」ではなく「調和」ということにある。

「まつらふ=まつり合う」とは誰もが他愛なくときめき合い助け合うことを意味していたわけで、そういう無主・無縁の混沌の中でだれもが他愛なくときめき合い助け合ってゆく「原始共産制」の集団運営のことを「まつる=まつらふ」という。大和朝廷成立以前の社会ではその「混沌」こそが「調和」だったわけで、大和朝廷もたてまえ上ひとまずそのニュアンスを踏襲して政治のことを「まつりごと」といった。

着物やズボンやスカートの裾を折り返して縫うことを「まつる」という。それは「整える=調和」という意味だ。

「語り合う」ことを昔は「語らふ」といったように、「まつらふ」は「まつり合う」であり、みんなで集団の関係を「整え合う」ことを「まつりごと」という。ひとりもしくは少数が全体を「支配」すること「まつりごと」といったのではない。

「まつる」という言葉の語源は、「支配する」という意味だったのではない。

「まつろわぬもの」とは「ときめき合い助け合う<祭り>に参加してこないもの」ということ、そういう意味で今の政権も右翼たちも「まつろわぬもの」たち、すなわち「反社会的勢力」なのだ。

 

 

だれもが他愛なくときめき合い助け合ってゆく集団運営の作法のことを「原始共産制」という、それのどこがいけないのか。現在の共産党員がどんな思想を持っているのか、僕はよくわからないが、少なくとも「共産制」という集団のかたちを全否定することはできない。むしろそれこそが人類の理想であり、理想であるがゆえに今すぐ実現するのは困難だという現実の状況があるだけのことだろう。

ともあれ、古代以前の日本列島の人々にとっての「まつりごと」とはだれもが他愛なくときめき合い助け合う「原始共産制」で集団を運営することだったのであり、「支配」を意味していたのではない。そしてその集団性を担保するよりどころとして「起源としての天皇」が「祭り」の場で祀り上げられていった。そうやってみんなで「祭り」のカリスマアイドルを選んで盛り上がってゆくことを「祀り上げる」という。

この国ではもともと人が「かみ」だったのであり、だから今でも家庭の主婦(=山の神)も旅館の女主人(=女将)も「かみ」というのだし、起源としての天皇という「かみ」もおそらく女だったのだ。

選挙が「祭り」にならなければ、投票率は上がらない。今どきはつまらない政治家ばかりなのだもの、盛り上がるはずがない。

現在において、民衆がみんなで祀り上げる「カリスマ=かみ」となりうる政治家なんかどこにもいない……そういう状況から、ようやく山本太郎が登場してきた。

山本太郎が何をしてくれるかではない。山本太郎をみんなで祀り上げることによって、みんなが他愛なくときめき合い助け合う空気が醸成されてくる……そうやってみんなで社会をつくるということ、古代以前の民衆は、そうやってみんなで天皇という「かみ」を祀り上げてゆくことによって、だれもが他愛なくときめき合い助け合う社会をつくっていった。天皇は、何もしてくれないし、民衆を支配しているのでもない、ただもう純粋に民衆の存在を祝福しているだけだ。それが原始時代以来続いてきた人間社会ほんらいのリーダーの姿であり、だからこそ、みんなで天皇を祀り上げてゆくことによってだれもが他愛なくときめき合い助け合う関係の社会が生まれてくる。

山本太郎だって、ただもう純粋にひたむきに民衆を祝福しているだけであり、天皇制のこの国にはそういう存在をリーダーに祀り上げようとするメンタリティの伝統があるわけで、それはまた「原始共産制」を基礎とし究極の理想ともしている人類の集団性の伝統でもある。

人間性の本質においては、何かをしてくれる「支配者」をリーダーとして祀り上げるのではなく、何もしてくれないがひたすら魅力的で「そこにいてくれるだけでいい」と思える対象をリーダーとして祀り上げてゆく。そこがボス支配のサル社会の集団性とは違うところであり、そうやって人類は無限に大きな集団をつくることができるようになった。

 

 

政治に興味なんかなくてもいい。みんなでお神輿を担いで「わっしょい、わっしょい」とやるのは楽しい。そうやってみんなが山本太郎のように他愛なくときめき合い助け合う存在になれれば、その「祭りの賑わい」とともに投票率が上がってゆく。

山本太郎の人気と政策とその活動の基礎には、だれとでも他愛なくときめき合い助け合うことができるその純粋無垢なキャラクターが隠れている。彼はそういう生まれたばかりの子供のような魂の持ち主であるらしいのだが、それはまただれの心の底にも息づいているものでもある。だれもが赤ん坊である時代を体験している。そういう「なつかしさ」を呼び覚ましてくれる存在として山本太郎が登場してきたのだし、それはまた天皇に対する「なつかしさ」でもある。

この国には天皇が存在するから、山本太郎のようにひたむきで純粋なキャラクターの政治家が登場してきたのだと思う。そういう意味で彼もまた「ジャパンクール」な存在であり、だから欧米のインテリからも注目されているのだろう。

ベルギーの若い映画監督は3年がかりで山本太郎の政治活動を記録した「ビヨンド・ザ・ウェイブス」という映画を撮ったし、前回の参議院選挙におけるれいわ新選組の活動を追いかけた原一男の『れいわ一揆』という記録映画はロッテルダム映画祭に招待されたし、彼は世界的にも珍しいタイプの政治家であるのかもしれない。いい意味で「子供っぽい」のだ。マッカーサーは「日本人は13歳から成長しない」といったそうだが、そういう少年のようなひたむきさと無鉄砲のままで政治の世界に挑んでいっている。おそらく天皇制が、そういう日本人とそういう政治家を生み出す。

13歳の少年少女は、自分を忘れて何かに熱中してゆく。「腹切り」や「特攻隊」だって、けっきょくそういうメンタリティであるのかもしれない。

天皇は、この国の「家長」でも「支配者」でもなく、みずからの命も人生も投げ捨てた「生贄」であり、山本太郎もまたそういう存在であろうとしているし、だから多くの民衆が賛同し拍手している。

良くも悪くも日本人は成熟しない。それが天皇制の風土であり、それが「ジャパンクール」だ、ともいえる。

また、民衆の国家意識や公共心が成熟しないから、ずる賢い政治家や官僚や資本家に好き勝手なことをされてしまうという現在の社会状況になっている。そのひどいモラルハザードに抗って山本太郎が立ち上がった。しかし、彼が何をしてくれるというのではない。彼はたんなる「神輿=生贄」であり、多くの民衆が担ぎ上げることによって、はじめて新しい時代に向けて動き出す。

「今のままでいい」と思ってしまったら「あの連中」の思うつぼであり、あなたが投票に行かなかったせいで、この世の生きられない人がもっと生きられなくなってしまう……山本太郎はそう訴えている。新しい時代を夢見る心を失ったら人間ではなくなってしまう、と。

 

 

今どきのエセ右翼たちは「日本人に生まれてよかった」などと大合唱しているが、日本人は日本人であろうとなんかしない。「新しい日本人」になることを夢見ている。そういう「13歳」が日本人なのだ。

日本人は成熟しない。公共心も国家意識も薄い。それが日本人というか日本列島の民衆の伝統なのだもの、しょうがないじゃないか。政治に関心がなくて何が悪い?「大人なんか、みんな腐っている」と思って何が悪いのか?

また、死にたがる思春期の少年少女や生活や人生に疲れ果てた大人たちに対して、リベラルな知識人たちがよく「自分には生きる価値がある」という「セルフリスペクト」を持ちなさい、などというが、僕は「自分なんか生きる値打ちもない人間のクズだ」と思っている。それが日本人なのだもの、そう思って何が悪い?「セルフリスペクト」とやらを持つことができるほど成熟できないのが日本人なのだ。だから自殺率が高いのだろうが、しかしだからこそ自分のことなど忘れて他愛なく世界や他者の輝きにときめいてゆくこともできるわけで、その「他愛なさ」で人と人がときめき合い助け合ってきたのが日本列島の民衆の歴史にほかならない。

「自分なんか生きる値打ちもない」と思っていても、だれかが自分に対して「生きていてくれ」と願ってくれているし、自分だってだれかに対して「生きていてくれ」と願わずにいられない。その関係性こそが、人を生かしている。

だれもが「自分には生きる値打ちがある」と思っている世の中なら、だれも他者に「生きていてくれ」と願う必要なんかないではないか。

自分の生が正当であるのなら、自分の生の邪魔になる相手は排除しなければならなくなる。そうやってネトウヨは、差別やヘイトスピーチを繰り返している。

いや、人類そのものの歴史がその「向こう見ずな他愛なさ」によって進化発展してきたともいえるわけで、それが「ジャパンクール」として世界中の若者の共感を呼んでいるのではないだろうか。

原初の人類は、二本の足で立ち上がることによって成熟することをやめた。そして成熟するのをやめたことによって、新しい世界を夢見つつさまざまなイノベーションを起こしながら進化発展してきた。

「このままでいい」とか「日本人に生まれてよかった」とか「セルフリスペクト」ということなど、人類の伝統でも日本人の伝統でもない。

「セルフリスペクト」なんて、アホなネトウヨたちの「日本人に生まれてよかった」という大合唱と同じではないか。

 

 

人間とは「人間とは何か?」と問い続ける存在であり、日本人とは「日本人とは何か?」と問い続ける存在であり、したがってわれわれ日本人は永遠に「日本人」になることができない。つまり「日本人として成熟することなんかできない」ということで、それが「日本人」なのだ。なんといっても、死ぬまで「13歳」であるわけで。

日本人の人生は、13歳で終わっている……それは、死ぬまで夢見る13歳のままだということであり、死ぬまで日本人になり切れないのが日本人だ、ということでもある。

人間とは死ぬまで人間になり切れない存在であり、そうやって死ぬまで「人間とは何か?」と問い続けてゆく。

13・14・15歳、すなわち思春期は、人生でもっとも勢いよくペニスが勃起する年ごろであり、そこで人生が終わったからといって、けっして不幸なことだともいえない。

13・14・15歳の少女は、「(セックスを)やらせてあげてもいい」という気分を本能的に持っている。それは、体形や体質が急激に変わりはじめていることに対するとまどいやおそれからくるものであり、セックスをやらせてあげることはそこからの解放であると同時に、ひとつの自傷行為でもある。彼女らにとってそれはひとつの「死」であり、だからこそ「やらせてあげてもいい」と思ってしまう。まあ日本人の女は死ぬまでそういう気分で生きてゆくわけで、だから主婦も平気で不倫をするし、女子大生だってフーゾクで働くことを厭わない。いつまでたっても13・14・15歳の「処女」の気分を引きずっているからこそ、そういうことをしてしまう。日本人の女は、死ぬまで「女」になれないで、死ぬまで「女とは何か?」と問い続けてゆく。

問うこと、すなわちその解答はひとつの「異次元の新しい世界」であり、それが日本人の「好奇心=探求心=進取の気性」の伝統になっている。

 

 

10

「13歳」こそこの世でもっとも人間的で哲学的な存在である。人間なんてそのあとはもう、俗っぽく汚れてゆくだけだろう。「人間とは何か?」ということがわかったつもりになって、その根源的な問いをどんどん失ってゆく。

「人間とは何か?」とか「日本人とは何か?」とか「男とは何か?」とか「女とは何か?」と問わずにいられない、その「愚かさ」や「未熟さ」を否定するべきではない。そこにこそ人間性の真実がある。

政治に無関心であることも、自分なんか人間のクズだという嘆きも、人間存在の本質・自然に照らせば否定することはできない。人はそこから生きはじめ、この世界や他者の存在の不思議に驚き、その輝きに他愛なくときめいてゆく。

「13歳」の日本人は、政治よりも「色ごと」に興味がある。「色ごと」とは、世界や他者の輝きに他愛なくときめてゆくこと。そして「色ごと」のよろこび(=快楽)は、死と背中合わせのところで汲み上げられる。だから「13歳」は死に急ぐし、「自分には生きる価値がある」などとは思っていない。しかしわれわれ大人はそのことを否定するべきではない。なぜならその「絶望=嘆き」から、この生のもっと豊かな輝きが現れてくるからだ。

「13歳」の輝きは、人類普遍の輝きである。古代以前の奈良盆地では、その輝きにみんなしてときめきながら「起源としての天皇=処女の巫女」を祀り上げていった。

人類は、文明国家の発生とともに人間性の真実としての「他愛なさ=愚かさ=未熟さ」をしだいに失ってきた。失いつつ、しかしつねに失うまいと四苦八苦してきた。だから現在においても、その「他愛なさ=愚かさ=未熟さ」=「処女性」が「ジャパンクール」として世界中から評価されている。

「処女性」は、男であろうと女であろうと「人間性の真実」としてだれの中にもある。

政治に無関心であってもかまわない。それでもわれわれが投票に行く理由はある。そのイベントが「人間性の真実」を守り取り戻そうとする民衆社会ほんらいの「祭り」になれば、投票率はきっと上がる。

山本太郎の街宣にあんなにもたくさんの人が集まってくるのは、まぎれもなく人類集団の普遍的な生態としての「祭りの賑わい」であり、おそらくそこで人々は、他愛なくときめき合い助け合おうとする「人間性の真実」を取り戻そうとしているのだ。

 

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キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。

レイシズムとファシズムに関する雑感

高橋洋一という財務官僚出身の評論家が、「石垣のり子は私のことをレイシストだと批判した、名誉棄損だ、許せない!」と息巻いているらしい。

そうして石垣のり子は今、ネット界隈でネトウヨたちから「硬直した左翼原理主義者だ」というような集中砲火を浴びているのだとか。

知ったかぶりの、薄っぺらな批判だ。レイシストレイシストといって、何が悪い?

ネトウヨとは、レイシストのことではないのか。「われわれはレイシストではない」だなんて、笑わせてくれる。

嫌韓ヘイトに熱中している連中なんて、みんなレイシストだろう。他人を冷笑しつつ自分が正しく賢い人間であるかのような顔をして悦に入っている人間なんかレイシストだろう。高橋洋一もすべてのネトウヨも、世の中の多くの人からそのように見られている。

レイシストを毛嫌いして何が悪い?

表現の自由」の名のもとにレイシズムを振りまいて正義ヅラするのは、人間としてとうぜんの権利なのか?

嫌韓ヘイトをレイシズムと呼んで何が悪い?冷笑系の人間をレイシストと呼んで何が悪い?これだって「表現の自由」だろう。

レイシストほど、自分のことをレイシストだとは思っていない。現在の総理大臣も百田尚樹櫻井よしこ杉田水脈青山繁晴も上念司もなんとかという名古屋市長も大阪市長も、そうした「ネトウヨ」と呼ばれている連中はみんなそうだ。まあ彼らは時代に踊らされているだけのただの軽薄才子で、時代が変われば彼らもいなくなるし、彼らの心も変わる。

レイシズムはだれの中にもある。しかし世の中には、それを自覚してできるだけつつしもうとしている人と、自覚がないままそれを野放図にさらけ出してしまっている人がいる。彼らをレイシストだと思っている人間は世の中にたくさんいて、そんなに嫌なら言われないようにしろ、というだけの話だ。何が名誉棄損か。

 

 

現在の与党支持者たちだって、多くはべつにあの総理大臣が大好きだというわけでもない。現在の社会のしくみが変わってほしくないだけなのだろう。セクハラやいじめ等の陰湿な暴力がはびこることも、ヘイトスピーチとともに差別感情(レイシズム)が野放しにされていることも、歴史を修正して大日本帝国ファシズムを賛美することも、共犯者である彼らにとっては極めて都合のいいことらしい。つまり、「新しい時代」が来ることを怖がっているその強迫観念で与党を支持している。

まあ、レイシズムファシズムも、ひとつの強迫観念の産物であり、文明社会はその起源以来つねにそうした強迫観念を抱えて歴史を歩んできた。強迫観念によってつくられたものを「制度=法」という。吉本隆明はこのことを「恐怖の共同性」といった。

とすれば文明社会に生きる人間にとっての「自由」とはそうした強迫観念から解き放たれることであり、日本列島の民衆社会は、その「自由」のための形見として天皇を祀り上げ、権力社会とは別の民衆社会独自の「他愛なくときめき合い助け合う関係」による「無主・無縁」の集団性を確保し洗練させてきた。そしてこの伝統の上に立てば、あの連中がそろって大騒ぎしているようなレイシズムファシズムなど生まれてくるはずがない。

この世で「他愛なくときめき合い助け合う関係」をもっとも深く豊かに体験しているのは女たちであり、女たちが立ち上がらなければレイシズムファシズムを払拭した「新しい時代」はやってこない。世の男たちのさかしらな正義・正論を超えた、その純粋でひたむきな「他愛なさ」こそ日本列島の集団性の伝統なのだ。そういう意味で石垣のり子が高橋洋一を批判し毛嫌いした態度は、それなりに日本列島の伝統にかなっているわけで、これぞ「消費税廃止の女神」ならではの純潔と輝きだ、と称賛されてもよい。

 

 

「社会の分断」は、「対立」から生まれるのではなく「差別」から生まれてくる。「対立」は、たんなる「多様性」の問題であり、たとえばミニスカートを穿きたがる女と穿きたがらない女の関係のようなものだ。地動説と天動説の議論とか、緊縮財政と積極財政とか、憲法改正か護憲かという議論をしたらいけないということもないだろう。新しい時代が生まれてくるときは、とうぜんそうした「対立」は生まれてくるし、人の世はつねに「対立」をはらんでいるともいえる。

レイシズムと反レイシズムは「対立」しているが、この世にレイシズムが存在してよいという理屈など成り立たないし、レイシスト自身が「私はレイシストではない」と人一倍強く主張してくる。この社会にレイシズムを許すような「分断」は存在しない。レレイシズム表現の自由」の範疇には入っていない。レイシストは「これはレイシズムではない」といってレイシズムを差し出すわけで、彼ら自身がレイシズムに「表現の自由」はないことをよく知っている。

レイシズムはこの社会の病理であり、治癒され淘汰されてゆかねばならない。

「分断」は、社会全体で起きているのではなく、一部のレイシストが勝手に「差別」を煽り立て分断線を引いているだけのこと。「差別」とは文明社会で起きている「排除の衝動」であり、相手に対する「恐怖」や「被害妄想」から生まれてくるひとつの「強迫観念」にほかならない。その強迫観念からの解放として、民衆社会は、他愛なくときめき合い助け合う関係の集団性を守り育ててきた。レイシズムを淘汰してゆく集団性こそ、日本列島の伝統なのだ。

嫌韓ヘイトなんか、いずれは淘汰されてゆく。今は権力者たちが煽り立ているからそれに流されているというか踊らされている者たちが一定数いるというだけのことで、日本列島の伝統はそんなことで盛り上がるようにはなっていない。というか、人間性の自然として、世界中の「民衆」はたがいに関心を寄せあっている。

したがって、嫌韓ヘイトなど、日本列島の伝統を大切にする者のとるべき態度ではない。そりゃあ政治外交やスポーツ・芸能や人間関係の文化等の場面で「対立」することもあろうと思うが、韓国人を怖がって「差別」するというのはあまり健康的なことではないし、第三者の外国人から幻滅されることにもなりかねない。

他愛なくときめき合っている日韓両国の若者たちだっている。他愛ないときめきこそ、普遍的な人間性の基礎であり、ひとまずそのことを胸に刻んでおく必要がある。それは、人としてもっともかんたんなことであると同時に、もっとも困難なことでもある。

世の中からレイシズムがなくなることはないが、レイシズムを抱えていることから解き放たれようとする動きがなくなることもない。レイシズムという強迫観念から解き放たれてある、その「他愛ないときめき」こそ、人間性の原点であり究極なのだ。原初の人類はそれとともに二本の足で立ち上がり、地球の隅々まで拡散してゆき、ついには猿のレベルをはるかに超えた大きな集団をいとなむことができるようになっていった。

原初の人類は、二本の足で立ち上がろうと計画して立ち上がったのではない。気がついたらいつの間にか立ち上がっていただけのこと。同様に、大きな集団をつくろうと計画したのではない。みんなが他愛なくときめき合い助け合っているうちに、気がついたら大きな集団になっていただけのこと。

弥生時代から古墳時代にかけての奈良盆地が大きな都市集落になっていったのも、まあそういうことで、べつに「神武東征」の結果などではない。他愛なくときめき合い助け合ってゆく原始的な集団性こそ、この国の民衆社会の伝統なのだ。

 

 

この国には、民衆社会と権力社会との「契約関係」がない。だから両者の集団性に大きな隔たりがあり、前者の原始的な集団性と後者の文明国家の集団性との二重構造の社会になっている。そこがやっかいなところで、大和朝廷の発生以来、民衆社会の集団性はつねに片隅に追いやられてきた。その「他愛なくときめき合い助け合う関係性=集団性」は、つねに「片隅」で生成している。だから民衆社会でも、権力社会から下りてくるレイシズムファシズム等の集団性に踊らされる者も生まれてきてしまう。

しかしこの国の民主主義は、その「片隅」の「関係性=集団性」が洗練し充実しているということこそが希望になるわけで、そのためには「片隅」の存在である「女」たちが立ち上がらねばならない。中世の「一揆」も幕末の「ええじゃないか」も大正の「米騒動」も、「片

隅」から起きてきたのだ。

それは、女が子供を守り育て、そして男とセックスをするという「片隅」の現場から起きてきた……ということだろうか。これが日本列島の伝統の「色ごとの文化」であり、「色ごとの文化」に右翼は似合わない。レイシズムファシズムは似合わない。大日本帝国は似合わない。しかしこの「片隅」の「色ごとの文化」から天皇制が生まれてきたわけで、歴史的な事実としては「神武東征」がはじまりであるのではない。

まあ世界には「アダムとイヴ」の話を本気で信じている人がたくさんいるのだから、この国で「神武東征」を信じて疑わない人が一定数いても仕方がない。そういう「思い込み=迷信」は、じつは原始人や古代人よりも現代人のほうがずっと深い。原始社会に「思い込み=迷信」などというものはなかった。それは文明国家の発生とともに生まれてきたのであり、それを生み出す社会制度(=共同幻想)に縛られながら、そういう病的で錯乱した「観念」を発達させてきたのだ。

右翼であれ左翼であれ、現在の政治思想のほとんどは、そういう病的で錯乱した「観念」から生まれてくる。そんな「宗教」を打ち破ろうとしてマルクスは、「原始共産制」の精神を取り戻そう、と唱えた。

現在のグローバル資本主義は、「みんなで他愛なくときめき合い助け合う」という「原始共産制」の精神をすっかり駆逐してしまったかのように見える。しかしこの島国には、それが権力社会から離れた「片隅」に「色ごとの文化」としてしっかり残されている。今どきの「主婦の不倫」も「ギャルのフーゾク買春や援助交際」も、そうした貞操観念の薄さはひとつの「原始共産制」であり、「色ごとの文化」の伝統なのだからしょうがない。「片隅」の女たちの、そういう「他愛なさ」こそが「新しい時代」が生まれてくる原動力になる。

 

 

現在の大阪の政治状況は、在日朝鮮人差別の本場であるせいか、レイシズムファシズムにまみれた維新の党によって席巻されている。しかしそれとは真逆の政治姿勢である山本太郎とれいわ新選組にもっとも熱い風が吹いているのも大阪である。

大阪には「片隅の文化」が根付いている。そこから、山本太郎とれいわ新選組に対する熱い支持の狼煙が上がり始めている。

山本太郎の全国街宣もいよいよ後半戦に差し掛かり、不思議なことにというかおもしろいことにというか、参議院の選挙中よりももっと盛り上がってきている。

普通、選挙が終われば、いったん風は沈静化する。しかし今回の山本太郎とれいわ新選組に対する風に限っては、逆に選挙が終わってなおいっそう熱くなってきた。それは、参議院の選挙中にはまったくマスコミに報道されず、選挙が終わってようやくれいわ新選組を知ったという人が多いからということもあるかもしれない。また、ここに来てやっと現政権の腐敗が知れ渡り、なおかつ既存の野党に対する幻滅も広がってきた、ということもあるのかもしれない。

さらには、経団連をはじめとする富裕層と結託した政治権力の腐敗に、多くの庶民がなおいっそう追いつめられてもいる。

既存の与党や野党は、このれいわ現象をどう思っているのだろう。放っておけばおくほど、れいわ新選組に対する支持は熱くなってゆく。そうして、たとえ立憲民主党と国民民主党が合流しても、やがてはれいわ新選組に支持率を逆転されてしまうかもしれない。

民衆の既存野党に対する支持は、減ることはあっても、もはやこれ以上増えない。彼らには、「華=セックスアピール」がない。「新しい時代」を夢見る民衆の心は、ことごとくれいわ新選組に向いてゆく。

「片隅」の民衆は、「正しい政策」に賛同するのではない。「新しい時代」を夢見ているだけなのだ。何が正しい未来なのかということなど、だれにもわからない。すべてのことは、やってみないとわからない。彼らの無常感は、世の中とはそういうものだということをちゃんとわかっている。

人類の進化は、未来を計画しながら達成されてきたのではない、われを忘れて夢中になっていった結果として気がついたらそうなっていただけなのだ。

既存の野党には、民衆がわれを忘れて夢中になってゆけるような魅力などない。だから、れいわ新選組と共闘すれば人気をそこに持っていかれてしまうし、しなければなお自分たちの人気は上がらない。進むも地獄、逃げるも地獄……そういうダブルバインドに陥っているらしい。

消費税10パーセントが民衆の暮らしを圧迫していること、すなわち「景気が悪くなりそうだ」ではなく「景気が悪くなってしまった」ということは、今やもう日本中で周知のことになりつつある。あれこれの経済理論が何であれ、現在の野党が大きな支持を得るためには、「消費税を下げる(あるいはなくす)」という旗を上げる以外にすべはない。とにかく現政権を下野させないことには、この腐敗した政治状況も社会状況も変えられない。

僕は天皇制を大切なものだと思っているのだから、べつに左翼ではないはずだが、今どきの右翼なんかインテリから庶民までろくなもんじゃない、といいたい。どいつもこいつもただのレイシストファシストではないか。

僕は自分のことを人間のクズだと思っているが、「日本人に生まれてよかった」と大合唱している今どきの右翼も、ほんとうに愚かで不潔で醜悪だ。

石垣のり子、がんばれ。あなたは「消費税廃止の女神」なのだから、それでよい。女神がさかしらな「正論」に従う必要はない。

女たちが立ち上がらなければ、「新しい時代」はやってこない。処女のように凛として、そしてたをやかに、女の中の「純潔」を守って立ち上がれ。

 

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キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。