天皇と民主主義とEUと

 

 

ブログを書くといっても、どうやら僕は、その時々のネタを拾いながらそのつど目先を変えて書いてゆく、ということには向いていないらしい。

どうしても一つのテーマを際限なくあれこれ考えていってしまう。

それでまあ直近の関心事としては、元号も変わることだし、イギリスはブレグジットで大揺れだし、「天皇制」と「民主主義」と「EU」の三題噺であれこれ行き当たりばったりに書いていってみようかと思っています。

 

 

とりあえず「令和」という元号名なんか好きじゃないということを前回書きました。

「令和」なんて、万葉集から取ったといっても「やまとことば」でもなんでもないし、中国古典の孫引きだということがわかってしまった。

やまとことばにするなら、「あをによし」の「青丹」でも「ちはやぶる」の「千早」でも、いくらでもつくれるのに、なぜそんな中国古典の孫引きというような野暮ったいことをしないといけないのか。

まあ「令和」なんて、いかにも右翼の好きそうな権力的権威的な意味の文字だが、一般の民衆は意味なんかどうでもよくて、ただ「れいわ」という音の響きだけを聞くぶんにはべつに不愉快でもない。「きれい」の「れい」なのだもの。

とにかくそんなものはただの「記号」なのだから、そのうち慣れる。

この元号で「日本人に生まれてよかった」などと再確認しているのは鈍感で頭の悪い右翼だけだし、世界中が今、日本には頭の悪い右翼がたくさんいると気づき始めているらしい。

こんな元号なんか日本の恥さらしだということを、右翼の者たちはわかっていない。もっとも、アメリカもイギリスもフランスもドイツもアラブ諸国も中国も韓国もそれなりに恥をさらしているのだから、世界中が病んでいるともいえる。

 

EU(ユーロ連合)の具体的な運営のことについては何も知らないが、その根本的な精神は「戦争のない世界をつくる」ということにあるに違いない。だったらそれは、この国の憲法第九条と同じだろう。

EUの経済がドイツの一人勝ちでEUの運営システムが一部のグローバリストに牛耳られているとか、いろいろやっかいな問題はあるのだろうが、とにかく人類が「戦争のない世界」をつくろうとする一歩を歩み始めたことにまったく意味や意義がないともいえないだろう。

人々の「もう戦争はしたくない」という心模様に付け込んで、ドイツやグローバリストたちがのさばってきてしまった。

またドイツだって、ナチス時代の贖罪を果たすためには移民受け入れのグローバリズムを推進するしかなかった。

この国であれヨーロッパであれ「移民反対」を叫ぶ右翼は少なからずいるが、そんなことをいっていたら「戦争のない世界」などつくれない。とうぜん迷惑な移民もいるだろうが、人が旅して移住してゆくのは原始時代以来の人類普遍の生態であり、もとをただせば世界中のみんながどこかからやってきた移民である。

とくに近代に入ってからの移民であるアメリカ人やオーストラリア人が、どうして移民を拒否することができようか。ヨーロッパ人や日本人だって原始時代の人類拡散の果てにその地にたどり着いた移民であるわけで、人類の歴史を考えたなら、移民を拒否できる理由なんか成り立たない。

 

 

先日の平成天皇は「戦後の日本人の多くが南北アメリカ大陸に移住して受け入れてもらったのだから、現在のわれわれもアジアの各地からやってくる移民と仲良くできるようにしよう」と、涙声で国民に呼びかけた。

今どきの右翼は、そんな天皇の心とは真逆のことを主張しているわけで、それは昔なら「不敬罪」であるのだが、彼らはそのことをわかっているのだろうか。

天皇は日本人としての「姓」を持たない存在であり、日本人ではないと同時に日本人を超えた日本人である。そのように日本人であることのアイデンティティを超えてゆくのがほんらいの日本人であり、今どきの右翼も少しはそれを見習ったほうがよい。

天皇であることの「かなしみ」というものがある。天皇アイデンティティを持たないいわば「無私」の人であり、彼らのような「日本人に生まれてよかった」などといういじましい自己撞着の心は持っていない。

そうしてまた「私は憲法に定められた<象徴>としての役割に殉じたい」という感慨も漏らしていた。

天皇が「象徴」であるとはつまり、天皇はもっとも日本人らしい日本人であるということ、われわれは天皇から「日本人とは何か」ということを学ぶのであって、「日本人に生まれてよかった」という気分をまさぐるために天皇を祀り上げてきたのではない。

江戸時代までの日本列島の民衆に、「日本人」という自覚などなかったのであり、だから、国旗も国歌もなかった。

 

 

われわれ日本列島の民衆には、歴史の無意識(=記憶)としての「日本人という自覚」はない。

日本人は、日本人であることを「知っている」のではなく「学ぶ」のだ。われわれは「日本人とは何か」ということを知らない。日本人は、永久に「日本人とは何か」ということを学び続ける。われわれは、日本人であって日本人ではない。大和朝廷が生まれてからすでに1500年以上たっているが、その間の1400年は日本人という自覚を持たないまま歴史を歩んできた。日本人という自覚など持たないのが、日本人なのだ。

われわれは、日本人という以前に、生きてあるというそのことを「あはれ」とも「はかなし」とも「無常」とも思って歴史を歩んできたわけで、そんな者たちがどうして「日本人である:と自覚することができよう。

天皇という「無私の人」は自分が日本人だとは思っていないし、戸籍上の日本人であるとい身分も持っていない。われわれは、天皇からその「無私」を学ぶ。だからわれわれだって日本人という自覚に執着なんかしないし、ナショナリズムも持たない。そうして日本人ではない天皇は、けんめいに日本人のことを想う。

日本列島で暮らしていれば、自分以外はみな日本人だ。われわれだって日本人のことを想うが、自分が日本人だとか日本人に生まれてよかったなどということは思わない。天皇とともにあるからこそ、そんなことは思わない。

わかるかなあ、ばかな右翼にはわからないだろうなあ。

われわれは「日本人である」のではなく「日本人になる」ということ、それを天皇から学ぶのであり、百田尚樹櫻井よしこから学ぶことなんか何もない。

われわれは「日本人であることを超えてゆくことによって初めて日本人になる」ということを天皇から学ぶのであり、そうやってこの国の天皇制が1500年以上続いてきた。したがって、「日本人であることのアイデンティティ」とか「日本人に生まれてよかった」などということは日本列島の伝統の精神風土にはない。

 

 

移民が「日本人になる」のならそれはめでたいことで、この国ではみんな「日本人になる」ということをして生きている。日本人には「日本人であること」のアイデンティティなどない。そういう寄る辺ない身のよりどころとして天皇を祀り上げる歴史を歩んできた。移民がアイデンティティの喪失者だとしたら、日本人だってじつは同じ身の上であり、天皇がいなければ日本人になれない。そして日本人であることは日本人であることを超えていることであり、日本人であることを守るために移民を拒否するという理屈は成り立たない。

日本人であることのアイデンティティなど持たないのが日本人であり、そのためにわれわれは天皇を必要としている。

天皇の「権威=尊厳=超越性」は、アイデンティティを持っていないことにある。その人は、ひたすら我が身を捨てて民の暮らしの安寧を願っている。また、日本人としてのアイデンティティを持っていないのだから、彼の願いは日本人に対してというより人類全体に向いている。だから天皇は、移民を拒否しない。

人類は移民を拒否しない。みんな移民の末裔であり、移民を歓迎する歴史を歩んできた。

それなのに、なぜ今移民を拒否するのか。拒否せずにいられないような社会にシステムがあるし、歓迎されないものを持ち込んでゆく移民もいる。歓迎してやらなければ彼らはそれを手放さないだろうし、手放さないから歓迎されないということもある。

宗教とか政治経済のシステムとか、のどかな原始時代と違って現在の文明社会には、さまざまなややこしい問題が立ちはだかっている。

 

 

「出会いのときめき」とともに移民が歓迎されるような社会はどのようにしてつくられるのだろうか。

ただもう他愛なくときめき合っていればいいだけなのに、そんなことくらい小学生でもできるのに、それができない。

子供でもできることが、なぜ大人にはできないのか。

歓迎できないこと、歓迎しないことが正義のつもりの大人たちがたくさんいる。

歓迎されないものを抱え込んでやってくる移民もたくさんいる。

人類史の伝統においては、移民は歓迎されるはずの存在だが、現代社会においてはどうしてもその関係が築けない。誰が悪いといってもせんないことで、この世界のシステムがすでに病んでしまっている。

移民が怖いとか鬱陶しいと思う人が少なからずいることは仕方のないことであるが、しかし移民を拒否することが正義であるかのようにいうのは、ほんとにくだらない。そういう人たちが政治権力を握ればそれは正義になるが、しかしそれが人間性の普遍的な自然であるとはいえない。

移民受け入れの政策が間違っているとはいえない。それは人類史の自然であり理想であるのだが、現在の状況としてそれができない要素があることもまた否定できない。移民は受け入れねばならないと同時に、受け入れてはならない。TO BE OR  NOT TO BE……つまり、神の審判はどこにあるか、ということだろうか。ヨーロッパはいつも、そうやって歴史を歩んできた。

 

 

権力(=王)の上に神がいる。それはアラブ移民も同じで、イスラムの神は、イスラムの神を捨ててはならないと命じている。それは、権力=国家よりももっと絶対的なものなのだ。ユダヤ人だって二千年のあいだユダヤ教を捨てなかったのだから、現在のアラブ人だってアラーの神を捨てるはずがない。

アラブ移民が迷惑であるのは、何はともあれ彼らがイスラム教徒であることあり、イスラム教を信じることは正当だと思っているその態度にある。

ユダヤ教徒は、「この世界はエホバの神のものでありわれはその神に選ばれている」と信じている。それはもう、イスラム教徒だって同じだ。

ヨーロッパ人は、二千年たってもユダヤ人と和解できなかった。だったら、アラブ人とも永遠に和解できるはずがない。宗教というのは、ほんとうにやっかいだ。人と人が和解することはできても、宗教と宗教はけっして和解しない。「宗教の自由」などというのは、和解するなといっているのと同じなのだ。

ヨーロッパ人と和解できないアラブ人と、ヨーロッパ人はなぜ和解しなければならないのか。和解しないのは宗教的な正義だが、人としての道というか自然から外れている。外れてはいるが、移民が怖いとかいやだという気持ちも人としての自然な感情にちがいない。

現在のヨーロッパはまさにまさに、そうした「TO BE OR NOT TO BE」の状況に立たされている。この地球上に宗教というものがなければこんな煩悶などしないですむし、政治経済上の理由で反対したってゆえなきことだとはいえない。

しかしそれでも移民を受け入れることは人類史の自然であり伝統であり、移民ということが起きない歴史など、これからもきっとありえない。

政治経済上の理由で移民をするといっても、欧米や日本にあこがれて移民をするということもあるわけで、その部分だけは否定できないし、あこがれで移民するなら宗教なんか捨ててこい、ともいえる。民族性というか、たんなる祭りの行事や習慣としての宗教なら許すことはできても、われわれまでもアラーの神に支配されることや、われわれの職業を奪われたりわれわれまでも安い給料で働かさされるのはごめんだ。ただ他愛なくあこがれて来るだけなら歓迎するが、そんな子供や原始人のような話が今どき成り立つはずもないし、しかし成り立ってしかるべきであるのが人類の理想なのだ。

 

 

そりゃあ、もろ手を挙げて歓迎するというわけにはいかない。

宗教を捨ててくるのなら歓迎する。しないのならなら受け入れないし許さない……そういってもかまわないと僕は思うのだが、そうなったらみんな「隠れキリシタン」のようになってしまうのだろうか。宗教は本質的で大切なものだという合意があるからやっかいなのだ。世界中が「宗教などどうでもいい」と思うようになればそんなことにはならないだろうが、そんなことはもう永遠に不可能なのだろうか。

そんなような気もするが、しかし日本列島には非宗教的な思考や態度の伝統があるように思える。なぜなら神道の本質は宗教ではないからだ。国家神道なんか中世以降のものだし、大和朝廷が成立する以前のたんなる祭りの行事としての神道は宗教でもなんでもなかったし、その伝統は各地の鎮守の森のお祭りとしてちゃんと引き継がれている。「五穀豊穣」とか「国家安泰」や「健康祈願」などというのは後の時代に付け加えられたことで、最初はただみんなでワイワイガヤガヤと賑わっているだけの行事だったのだし、それがいちばん大事なことだという気分が日本列島の伝統の精神風土としてあるわけで、そのためのよりどころとして天皇が祀り上げられてきた。

大和朝廷成立以前から奈良盆地の民衆に祀り上げられていた起源としての天皇は、もちろん神武天皇などという架空の人物ではなく、たんなる祭りのアイドルとしての「巫女」という舞の名手だった。まあこのことを語ろうとすると話はとてつもなく長くなってしまうのだけれど、とにかく古代の奈良盆地の民衆は宗教として神道を生み出したのではなく、仏教という宗教に対するカウンターカルチャーの非宗教として、ただの祭りの習俗に過ぎなかったものを神道というかたちにしていったのだ。

だから日本人は、今でも宗教心が薄い。昔の人は信仰心が篤かったなどというのは嘘だ。昔から、それこそ仏教伝来のときからずっと、じつは思考も態度もとてもいいかげんだったのだし、いいかげんだったから世界的にはちょっと風変わりな日本文化が洗練発達してきたわけで、戦前だろうと江戸時代だろうと中世だろうと古代だろうと、じっさいにはとてもいいかげんだったのだ。

 

 

とにかく、そういうことをこれからどう書いてゆこうかと今思いあぐねているわけだが、べつに日本賛歌がしたいわけではない。僕は「日本人に生まれてよかった」などとは思っていない。人類普遍の本質や自然が知りたいだけだ。

僕は、日本人であること以前に生きてあることそれ自体に途方に暮れているし、宗教というよりどころを持たない寄る辺ない心で途方に暮れているのが日本人だと思っている。そして、その心を抱きすくめながら生きるためのよりどころとして日本人は天皇を祀り上げてきた、と考えている。それはつまり、他愛なくときめき合う人と人の関係で生きてゆきたい、ということ。

というわけで、ここでは「いかに生きるべきか」とか「幸福とは何か」というようなことは書かない。生きることなんかしんどいばかりでわけがわからないよ、という愚痴ばかり書いていこうと思っている。生きてあることの「嘆き」や「かなしみ」を知っている人と対話ができればと願っている。

 

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『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

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