選挙にいく理由

 

この数年間、選挙といっても大して面白いことも起きなかったし、関心なんか持たないほうが精神衛生にはいいのかもしれない。

ひどい世の中になってしまったものだと思う。そもそも社会のシステムそのものが腐っているのだろう。

多少なりとも自分に世の中を変える力があるのなら奮い立ちもするのだろうが、今さらそんな元気もない。ただただもう、かなしいやら情けないやら。

認知症になりたいとは思わないが、源氏物語の姫君たちのように、ひたすら嘆きかなしみながら衰弱して死んでゆくことができるのなら、それはきっと素敵なことにちがいない。

生きていてもしょうがない身であるのに、それでもまだ生きている。それはきっと世界が輝いているからだろうし、世界の輝きにときめく気持ちが消えないからだろう。だから、世界の輝きにときめきながら衰弱して死んでゆくことができたら、それがいちばんめでたいことにちがいない。

この生は、世界の輝きにときめきながら活性化し、ときめきながら衰弱してゆく。人は、そのはざまを生きている。

政治のことなんかどうでもいいといっても、べつに無知であるからでも愚かであるからでもなく、それ自体が世界の輝きにときめいていることの証しでもある。

それにしても、日本列島の住民は、どうしてこんなにも支配権力に従順な歴史を歩んできてしまったのだろう。まったく日本人というのは因果な民族だと思う。

どんなにひどい政治であっても、目の前の「あなた」や「世界」は輝いている。「うんざり」することと「ときめく」ことは一枚のコインの裏表のようなもので、「うんざり」することだけで生きることなんかできないわけで、いつの間にかそれを忘れて「ときめいて」いる。

政治の世界なんか、うんざりすることばかりだ。日本列島の民衆に「政治を変えよう」と呼びかけても、けっして大きなうねりにはならない。そもそも政治なんかに興味がない歴史を歩んできたわけで、政治の世界はいつの時代も醜かった。この社会をよくしたいと思うのなら、それは民衆自身の人と人の関係の問題であって、政治の世界を当てにすることなんかできない……という思いがどこかしらにある。

僕だって、いっとき選挙のことに興味を持ったが、それは「お祭り」としての選挙であって、「政治」としての選挙ではない。人は政治に動かされて生きているのだとしても、政治に動かされていない部分のことが知りたい。

日本人は政治に関心がないからだめだといわれても、知りたいのは「政治」のことではなく、「なぜ政治に関心がないか」ということだ。

天皇制のせいだろうか?

 

 

明治以来の大日本帝国主義においては、天皇は「現人神(あらひとがみ)」であり「大元帥閣下」であり「国の家長」であった。権力社会から下りてくるその思考の、なんと醜悪なことか。歴史の無意識として民衆の心の底に宿る天皇はそんな対象ではないのだが、何しろ歴史の無意識なのだから、それが表立った自覚にはなっていなかった。無自覚ゆえに、ひとまずその思考を受け入れていった。

国家の政治権力は、人の心を醜悪にしてしまう。民衆はみずからの歴史の無意識=伝統に無自覚だから、ひとまずその醜悪な思考を受け入れてしまい、ときにはそれが伝統だと思い込んでしまう。そう思い込ませたものと思い込まされたものが結託して「右翼」という勢力になってゆく。

しかし、地下水脈として民衆の心の底に流れる歴史の無意識が途絶えることはない。あの大日本帝国の治世下においても途絶えることはなかったからこそ、敗戦後には、人間宣言をした天皇とともにさっさと憲法第九条を掲げて歩み始めた。

たしかに戦前の民衆は、大日本帝国主義に身も心も染められてしまっている部分はあったのだが、それでも「ひどい政権だ」という思いもなかったわけではないし、その思いをなだめるのに天皇の存在が機能していた。どんなひどい政権のひどい時代であっても、天皇が受け入れているのなら、自分たちだって受け入れないわけにはいかない、と。

人々の暮らしの隅々まで国家権力によって統制されていったあの時代を、祭りの混沌とした賑わいを愛する日本列島の民衆が快く思っていたはずがない。

あのころもまた、きっとひどい時代だったのだし、それでも民衆は、民衆自身の集団性の文化を守って生きようとしていた。まあだから、「あのころはよかった」などという述懐も生まれてくるわけだが、それは政治制度の話ではない。

どんなひどい時代であれ、社会の片隅における輝きはある。

 

 

敗戦直後の日本列島の民衆は、「明るい明日の日本をつくろう」というスローガンのもとに結束していったのではなく、ただもう歌謡曲や映画やスポーツ等の娯楽産業を盛り上げながらの「祭りの賑わい」を盛り上げていっただけだった。そのとき人々の心は、みじめな敗戦に打ちひしがれていたと同時に、解放感で大いにはしゃいでもいた。明日に向かってがんばろうと結束していったのではない。結束することなんか、もうごめんだった。生き残った拾い物の命の中で、だれもが国家の制度や秩序など信じないという、その混沌の賑わいとともにときめき合い助け合うという豊かな「連携」を生み出し、それが戦後復興のダイナミズムになっていった。

日本列島の民衆は、伝統的に国家など信じていない。だから、国家制度とは別の民衆独自の自治の文化を育ててきたのであり、それが現在の、政治に対して無関心な無党派層が4割以上いるという状況を生み出している。そうやっていつの時代もどんなひどい政権でも受け入れてきたし、しかしそれは、そのぶんスムーズに時代の変化に対応してゆくことができるということでもある。この国の歴史においては、伝統を超えてゆくことが伝統になっており、それを「進取の気性」という。そうやって戦後復興がはじまった。

そして「進取の気性」は普遍的な人間性でもあり、そうやって人類の歴史は進化発展してきた。

「進取の気性」すなわち「進化」とは、生き延びようと計画することではなく、「もう死んでもいい」という勢いで異次元の世界に超出してゆくことだ。すべての生きものは、「もう死んでもいい」という勢いで生きている。

敗戦直後の日本列島だって、そういう「もう死んでもいい」という勢いのお祭り騒ぎのエネルギーで復興していったのだ。そのころ、笠置シズ子の『東京ブギ』とか美空ひばりの『お祭りマンボ』のような洋風モダンでにぎやかな歌謡曲もけっこう流行った。それを「アメリカかぶれ」といおうと、伝統を超えてゆくのがこの国の伝統であり、良くも悪くもおっちょこちょいで異次元の世界に超出してゆくのだ。

伝統とは「究極」を目指すことであって、ただ古いものを守るということではない。

法隆寺薬師寺を建てた宮大工たちは、千年後の姿を念頭に入れながら仕事をしていたという。寺院建築だけではない。日本列島の職人仕事には、職人の手を離れた後の五十年百年千年の自然の「風化」にさらして初めて完成する、というようなコンセプトの作品がいくらでもある。まあそれも「わび・さび」の文化だし、そもそも人類の歴史遺産というのがそのようなものだし、「廃墟の美」というのもある。

伝統を超えてゆくのは自然であり、自然が伝統なのだ。

 

 

現在の、このうんざりするような時代状況に出口はあるのだろうか。

出口なんかなくてもよい。とりあえず生きていれば、何かと出会うし、何かが起きる。それでも世界は輝いている。そういう小さな世界に「かわいい」とときめき、しみじみと癒されてゆくことがあるのなら、生きていられる。日本人が政治に無関心であるのはそういう感性というか世界観がはたらいているからだろうが、それでも生きてあるこの命のはたらきを無駄に放っておくことはできない。ちゃんと使い切らないことには、生きてあることとの折り合いがつかない。生きてゆくためではない。どうせ死んでゆくのだもの。使い切らないと、死んでゆくことができない。

死んでゆくことができない生き方なんかしたくない。

生きることは、エネルギーを消費するはたらきであり、死んでゆくいとなみである。死んでゆくことができない生き方なんかできない。死んでゆくというかたちでしか生きるいとなみは成り立たない。

そうやって人は、「もう死んでもいい」という勢いで何かをする。そうやって、この生のエネルギーを消費する。人間のすることはすべて、自分の命と引き換えの行為なのだ。そうやって、他者に命を捧げるようにして人はプレゼントという行為をする。命を捧げるようにして、赤ん坊を育てる……そんなことは、犬や猫や鳥でもやっている。

僕だって、だれかに捧げるようなつもりでこの文章を書いている。すべての生きものは、この世界の「生贄」なのだ。

生きることは「生贄」になることだ。「生贄になる」とは命のエネルギーを使い果たすということであり、命のはたらきとは生きるはたらきではなく死んでゆくはたらきなのだ。

このうんざりするような時代状況の出口が見えないのは人々が生き延びることを争っているからであり、争うことをやめて「生贄」として死んでゆくスタンスに立てば、「今ここ」が「出口」になる。

まあ現在のこの社会は、「階層化」とか「分断化」とか「閉塞状況」などのキーワードで語られる状況になっているらしく、その出口の先にある未来の新しい社会に向けて盛んに議論されているわけだが、そうやって「未来」を模索すること自体が「閉塞状況」から逃れられないことの証しで、未来に行っても新しい「閉塞状況」が待っているだけかもしれない。そうして、永遠に出口を探し続けていかなければならない。

人間にとっては生きてあることそれ自体が「閉塞状況」なのであり、未来に自由や解放が待っているのではない。この生の出口は、「今ここ」にある。「今ここ」に出口を見出すことが生きることであらねばならない。そうやって人は、遠くの青い空を仰ぎ、片隅の小さなものに「かわいい」とときめいてゆく。人の心のはたらきの「超越性」、それが「出口」を発見し、ときめいたりかなしんだりしている。

「未来」なんかあてにしないのが日本列島の伝統であり、それが普遍的な命のはたらきのかたちでもある。

生きてあること自体がひとつの「閉塞状況」であり、だから人はそれを受け入れるし、だからその状況の「今ここ」に出口を見出す。まあ日本人はそういうことが上手だからかんたんに支配されてしまうし、支配されるからこそなおのこと民衆独自の集団性の文化を守り育ててきた。

つまり、「支配されるもの」にしか「出口」を見出すことはできない、ということ。そして民衆は、この世界の「生贄」になる覚悟で支配されてゆく。「生贄になる」ということが、「出口を見出す」ということだ。

 

 

人類史において、文明国家の発生とともに「支配」と「被支配」の関係が生まれてきたのは、人々の心に「生贄」になろうとする衝動があったからだ。その心に乗じて、支配者が登場してきた。

だれもが「生贄」になろうとしている社会では支配と被支配の関係なんか生まれてこないし、だれもが「生贄」になろうとしているから支配者が生まれてくる。

そこで、支配者が生まれてくる状況がどこにあるかといえば、余剰の生産物ができてきてそれを手に入れようとする者があらわれてくることにあるのだろうか。

余剰の生産物が生まれてくるのは、集団の人口が増えみんなで農耕してたくさん収穫するということが起きてきたことの結果なのだが、それだけではまだ人々は平等だし、原始的な狩りや採集よりももっと平等になる。基本的にその段階では余剰のものなどつくらないのだが、人口が増えすぎて集団の運営に混乱が起きてくればまとまりをつくろうとするし、まとまるためのリーダーをみんなで選ぶようになる。そうして集団の運営をするリーダーは複数になってゆき、それでもまとまり切れなくなれば、もっとも美しく魅力的なカリスマをみんなで見出して祀り上げ、捧げものをしてゆくようになる。それが、祭りのときのアイドルである「処女の巫女」の集団であった。で、その捧げものや巫女の集団を管理運営するものとして「支配者」が現れてきた。少なくとも弥生時代奈良盆地ではそうだった。彼らには、力で民衆から搾取してゆくという能力はなかった。なぜならそこは外敵が攻めてくるようなところではなく、戦争の文化がなかった。であれば、外敵から民衆を守ってやる、という搾取のための理由がなかった。彼らにとっての支配のための大義名分は、巫女集団を庇護・管理し、その中もっとも美しく魅力的なカリスマの権威を高めてゆくことにあった。まあ、それによって民衆の捧げものが増えていった。

というわけで、古代の大和朝廷はたしかに支配者集団であったものの、それほど強い権力があったとも思えない。祭りのカリスマを祀り上げようとする民衆の側に支配される理由があっただけなのだ。

日本列島の民衆には、支配されやすい心がある。民衆には民衆独自の原始的な集団性の文化があり、異質な権力社会の政治に無関心になりがちだ。それに、「無常感」とか「あはれ・はかなし」や「わび・さび」とかの、いわばマゾヒスティックな美意識や世界観に付け込まれ、支配されてしまう。

古代の大和朝廷にそれほど強い権力などなかったのに、それでも民衆はたやすく支配されてしまった。日本列島の民衆には、この世界の「生贄」になろうとするマゾヒスティックな衝動がある。

 

 

日本人の政治に対する関心の薄さはもう、避けがたいことではないかと思える。

もちろん、直接的な利害関係があればその限りではないが、関心がないということ自体が日本人としての意識の高さになっている部分もあって、選挙にいかない知識人の人だってたくさんいる。

政治的な関心だけで日本人を選挙に行かせることはできない。どのようなニュアンスであれ立候補者の人間的な魅力で引き付けるとか、お祭り気分にさせるとか、そういうことが必要になる。

何しろ「色ごとの文化」の国なのだ。美しく魅力的なことや、無主・無縁の祭りの賑わいの要素がなければ、無関心層を政治の場に参加させることはできない。

しかし「色ごと」の醍醐味は「消えてゆく」心地にあり、そうやって人はだれもが、他者の「生贄」になって他者に手を差し伸べようとする衝動を持っている。無関心層の人に「自分の利益のために選挙に行こう」と呼びかけても無駄だ。そういう人には「あなたが選挙に行くことは困っている人に手をさしことになるのです」と訴えるべきなのだ。誰だって、困っている人に手を差し伸べることは気持ちのいいことだ。選挙に行くことは、権利でも義務でもない、「自己犠牲」なのだ。国の平和と繁栄のためではない、生きられない人を生きさせるためだ。それが、「色ごとの文化」の国の選挙に行く理由なのだし、その理由を人々に気づかせる候補者が現れてこなければならない。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

>> 

<span class="deco" style="font-weight:bold;">蛇足の宣伝です</span>

<< 

キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。