5・古代の心と処女の巫女

 

 

どうしてこの国は、こんなにもしょうもない総理大臣がのさばっているのだろう……多くの人がそう思っているはずだが、べつにそれでもかまわないとやり過ごしている人がいて、選挙に行こうともしない。

この国の民衆社会は、心理的にはひとまず権力社会とは無縁に動いていて、権力社会の醜悪さもさして苦にしないようなところがあるらしい。

もしかしたらそれは、権力社会の上に天皇がいる、ということもあるのかもしれない。

天皇が美しく崇高な存在であればあるほど、権力社会のことはどうでもよくなってしまう。

右翼の者たちは、天皇は「大元帥閣下」で「国の家長」だなどといっているが、じっさいの天皇は「統治者=支配者」でもなんでもないし、民衆社会においては、「自分たちがお願いして天皇になってもらっている」という歴史の無意識が息づいている。そういう天皇がいてくれるのなら、権力社会が何であれ、自分たちは自分たちでときめき合いいたわり合う社会をいとなんでゆける、と思っている。もちろん現在においてはそんな美しい世の中にはなっていないのだが、それでもそんな世の中を実現するのに権力社会が手助けしてくれるとはとうてい思えないし、天皇がいてくれればいつかそんな世の中がやってくるかもしれないとも思う。いやべつに、こういうことを表立って意識しているわけではないが、まあささやかなりとも誰かとときめき合う関係が持てればそれでいいかな、という思いはある。

良くも悪くも日本列島の民衆は、ささやかで小さな社会を生きている。そしてそういう社会の関係からはぐれてしまった「嫌われ者」のネトウヨたちが、権力社会にすり寄り、民衆支配に加担したがっている。彼らは、「支配」という武器を手に入れなければ生きられないというか人との関係を結べないという強迫観念を抱えてしまっている。そうやって善良で気弱な人々を攻撃しにかかる。

もしかしたら、ネトウヨたちが人々を選挙に行かないようにさせているのかもしれない。あんな政治好きの醜い連中と同じことはしたくない。あんな醜い連中が空騒ぎしている政治や選挙に、どうして行く気になれようか。魅力的な候補者もめったにいないし、選挙をお祭りのような楽しいイベントにしてくれないことにはその気になれない。

少なくとも若者たちのあいだで選挙に行きたがるのは、ネトウヨと、コスパばかりが気になる日和見主義の連中がほとんどで、だから権力側の政党に投票する割合が高くなる。どちらも、自己保身の強迫観念に追い立てられて投票に行く。もちろんそうではない理由で投票に行く若者もいるし、行かない若者たちが無関心だからといって、単純に「意識が低い」と決めつけることもできない。そこには、政治に興味を持つことに対する微妙な拒否反応がはたらいている。

今どきの権力者たちとネトウヨたちが、政治を醜いものにしてしまっている。また、オールド左翼の野暮ったさも、なんだかなあ、という感じだし。

 

 

支配者がいない原始的な集団においては、民衆はみずからリーダーのカリスマを祀り上げる。そしてそのカリスマのリーダーは、政治的な能力の持ち主ではなく、人としてもっとも魅力的な存在を選ぶ。なぜなら政治という集団のいとなみは民衆自身でできるからであり、必要なことは集団が集団として存在することだけであり、そのための「象徴」として選ばれる。

これはサルではなくオオカミのリーダー選びと同じで、原初の人類は二本の足で立ち上がることによってサルから分かれ、知能の進化と引き換えに、より原始的な集団性になった。

オオカミのリーダーは、もっとも強いものが力で勝ち取るのではなく、だれからも好かれるもっとも魅力的なものが群れのみんなによって選ばれる。つまりその群れは、ボスのもとに「結束」してゆくのではなく、「連携」してゆく。彼らはそうしないと集団での狩りが成り立たない。そのとき全員がそれぞれ別の動きをしなければならないのだから、命令は不可能だし、命令を聞くよりも早く動かなければならないわけで、リーダーとともに戦っているというそのモチベーションが身体の動きや判断を早めている。

オオカミの集団の狩りは、じつによく「連携」がはたらいている。サルにはその「連携」はない。たとえばチンパンジーはコロブスという小さなサルを集団で襲って食べるといわれているが、その襲い方は、ほとんど「連携」していない。めいめいが勝手に襲っているだけだ。だから、その獲物は捕まえたものの「所有」になる。ほかのものも寄って行っておねだりしておすそ分けにあずかるが、「所有権」が消えるわけでも代わるわけでもない。それは、オオカミの群れが自分の体の何倍もある大きなシカやウシを倒してみんなで食べるというのとは全く違う。オオカミの場合はみんなで連携して倒したのだから、そのとき獲物の「所有権」は発生しない。

 

 

原初の人類は「所有」の意識を捨ててみんなで「共有」してゆくことによって、サルと分かたれた。ネアンデルタール人が集団で連携してマンモスなどの大型草食動物の狩りをするのも同じで、当然みんなで食べたし、力の強いものが尊敬されるわけでもなかった。したがって彼らの集団に「リーダー」はいても「ボス=支配者」はいなかったことになる。つまり、力で支配しようとする強いものではなく、この国の天皇のようにあくまでみんなから好かれるものが「リーダー」になっていた、ということだ。

原始時代の人類集団だって「連携」のモチベーションのための「象徴」として「リーダー」を必要としたし、それが未来における究極の「リーダー」のかたちでもある。

集団の動きをもっとも多彩に活性化させるのは、サルの群れのように強いリーダーの命令のもとに「結束」してゆくのではなく、オオカミの群れのように魅力的なリーダーとともにいるというモチベーションとともに「連携」してゆくことにある。そのようにして人類は、質量とともにサルのレベルを超えた集団をいとなむことができるようになっていった。

集団の「結束」なんてサルのレベルの話で、人間は「連携」してゆくことによって人間になった。人類拡散の歴史は、まさに「連携」の集団性が進化してゆく過程だった。だからその集団性は、人類拡散の行き止まりの地であるヨーロッパや日本列島において、もっとも高度に洗練発達していった。

オオカミ=イヌは、寒冷地の動物である、人類が最初にオオカミ=イヌとの親密な関係を持ったのはヨーロッパのネアンデルタール人で、それは関係性や集団性のメンタリティがとてもよく似ていたからだ。

ヨーロッパ人は、イヌと「連携」して狩りをする。集団からはぐれたサルはいつか群れに戻ってゆくが、「一匹狼」のオオカミは死ぬまではぐれたままでいる。だから人間と親密な関係を結ぶことができたわけだが、オオカミ=イヌも他者との親密な関係で連携してゆく生きものであるがゆえに集団に対する忠誠心がない。ネコは家に着きイヌは人に着く、などといわれているが、オオカミはサルのように集団で行動しているのではなく、鳴き声に呼応するなどしてどこからともなく集まってきて狩りをする。猿のように、強いボスのもとで結束しながら普段から集団で暮らしているわけではなく、集団に対する忠誠心はない。そういう忠誠心がないから、みんなでリーダーを選ぶ。

人間と最初に親密な関係を結んだオオカミは、おそらくはぐれオオカミだった。

人間の軍隊だって、集団に対する忠誠心の薄い者どうしでこそもっとも篤い友情が生まれる。それはきっと現在の会社内でも同じで、一般社会全般でいえる人類普遍の生態にちがいない。人間はその本質においてひとりぼっちのさびしい存在であるがゆえに、他愛なくときめき合い助け合い連携してゆく。

オオカミもヨーロッパ人も、もとはといえばまあ南からの「移民」である。だから現在のユーロ連合も、政治的にはかなりやっかいな問題があるにもかかわらず、「移民」を拒みきれないでいる。

人間はその本質において集団からはぐれた存在としての「移民」であり、そのはぐれた心を共有しながら集団をつくってゆく。それは、ときめき合い助け合い連携してゆく心を共有してゆくということであり、ときめく対象を共有してゆくということでもある。

人間の集団は、サルの群れのように強いものの下で結束してゆくという自然を持っていない。だから、強い支配者はやがて必ず滅びるという歴史を歩んできた。

 

 

肉食獣は、ウシやウマのような大きな群れはつくらない。基本的には、単独で狩りをする。だから、集団に対する忠誠心は持っていない。

オオカミ=イヌの場合は、体が小さいから、集団で狩りをしないとウシやウマを倒せない。だから、「連携」をするようになっていった。言い換えれば、集団に対する忠誠心がないからこそ「連携」ができる。

サルは、基本的に草食だから、大きな群れをつくることができる。

二本の足で立ち上がった人類は、猿が持っている集団に対する抽選心を失い、その代わりに「連携」能力を得た。サルの集団の「結束」と、人間の集団の「連携」。両者の集団性は同じではないというか、人間はサルの「結束」の集団性に加えて「連携」の集団性も獲得し、それによってサルよりもはるかに大きな集団をつくることができるようになっていった。

「連携」のダイナミズムがなければ、人間の集団は成り立たない。「結束」の集団性が強くなると停滞し、「連携」の集団性によって活性化してゆく。すなわち、現在のこの国のように、「連携」を失って「分断化」「階層化」が進む社会は停滞している、ということだ。

この国の総理大臣やネトウヨたちのように「連携」したがらない者たちがのさばれば、社会はどんどん停滞・衰弱してゆくに違いない。それはまた、集団に対する忠誠心が強くなると社会は停滞・衰弱してゆく、ということでもある。

「連携」のダイナミズムは、集団に対する忠誠心の薄さの上に成り立っている。それは、オオカミのように、普段はバラバラに暮らしていて、いざとなると一か所に集まってきて「連携」してゆく、という動きが基本になる。まあそのようなかたちで人類の「祭り」が生まれ、それが発展して現在のコンサートやスポーツ等のイベントになっているし、繁華街の商店に行って買い物をするとかレストランや飲み屋に行くということだって、ひとまずそのような生態だといえる。

現代社会の消費行動は、「連携」の関係の上に成り立っている。

この国の総理大臣やネトウヨたちは、この国を停滞・衰弱させている。彼らの存在が、選挙の投票率を低下させている。

ただこの国の民衆社会は、権力社会とは別に独自の「連携」の文化がひとまず機能しているから、その危機感があまり切迫してこないところがある。

左翼たちは、「天皇がいると民衆が精神的に自立できない」などとよくいうが、そうではない、みずから天皇を祀り上げながら権力社会から精神的文化的に自立してしまっているからやっかいなのだ。権力社会に魅力がなくなれば選挙に行かなくなるだけで、権力社会を変えようとは思わない。

この国では、民衆革命は起きない。全共闘運動が失敗に終わったのも、けっきょく民衆を巻き込むことができなかったからだ。それは民衆の意識が低かったからではない。低かったら、巻き込まれてゆく。政治権力なんか関係ない、という意識が高かったからだし、それはまあ、「連携」しても「結束・団結」することが苦手だった、ということでもある。民衆どうしが助け合うという集団性は発達しているが、だからこそ権力社会に干渉してゆくということはしたがらない。

現在においても、こんなひどい政権なのに、まだ無関心を決め込んでいる。

 

 

日本人は強権的な支配者にたやすく支配されてしまうが、同時にそれゆえにこそ心まで売り渡してしまうことはしない。敗戦後はあっさり大日本帝国憲法を捨てた。したがって現在においてそれが復活されようとしているとしても、いずれまたあっさりと捨ててしまうだろう。

現在のこの国の政権はますます強権的になってきていて、民衆ももどかしいくらい従順だが、深く洗脳されてしまっているわけではない。それでも民衆の実生活においては、強権支配のもとで結束してゆくのではなく、ときめき合い助け合い連携してゆく関係性・集団性を生きようとしている。だから現在の状況なんか、何かのはずみであっさりと変わる。それが、この国の伝統なのだ。

もともと日本列島では、生きてあることの「嘆き~かなしみ」を共有しながら「連携」してゆく関係性・集団性の文化をはぐくみながら歴史を歩んできたのであり、そのための「よりどころ=象徴」として天皇を祀り上げてきた。権力支配のもとで「結束」してゆくのではなく、無主・無縁の関係で「連携」してゆく、そのためのよりどころとして権力支配の上に「天皇」を置いて祀り上げてきた。

まあこの国に天皇という存在が必要かどうかはよくわからないのだが、この国の高度に洗練された「連携」の関係性・集団性の文化が守られてゆくのなら、どのような集団においても「リーダー」は誰からも好かれるもっとも魅力的なものをみんなで直接選んで祀り上げてゆくのが基本的伝統的な集団性であるのだろう。

国家であれ家族であれ、リーダーは、上から支配してゆくのではなく、下からみんなで祀り上げてゆくのが人間性の自然でありこの国の伝統でもあるはずなのだが、それが欧米の帝国主義を模倣する明治維新によって壊されていった。

しかしそれが「王政復古」という名のもとでなされたということは、日本列島では古代からすでに帝国主義的な社会システムを持っていたということを意味する。

 

 

たとえば、古代の関東の民衆が「防人」として九州に送られてゆく、などという理不尽なことが、どうして可能になったのだろう。

大和朝廷の支配権力が絶大だったからだろうか?ひとまずそれは帝国主義的な強固な支配システムのように見えるのだが、何しろ「国のあけぼの」の時代の話だ、そうそう強く支配システムが国の隅々まで及ぶはずがないし、関東のその先の東北は「まつろわぬもの」たちの地域だったのだから、関東だってそれほど強く支配されていたはずがない。

いやならちょいと足を延ばしてすぐ隣の東北に逃げ込めばいいだけのことだが、それでも人々はその命令に従っていった。

それはたぶん、権力が「支配した」ということだけでなく、民衆自身が「支配されていった」ということもあるのではないだろうか。そこがまあ日本的であり、日本列島の民衆にはそういう部分があるからこそ、権力者はやりたい放題のことをして歴史が流れてきた。古代や中世はもちろんのこと、明治以降の近代史だって、けっきょくはやりたい放題をされながら太平洋戦争のみじめな敗戦へとなだれ込んでいった。

おそらく、支配権力が絶大でなくてもかんたんに支配されてしまうメンタリティと社会のしくみが、この島国の伝統としてはたらいていたのだろう。

それと同時に、縄文以来の伝統として「旅心

にいざなわれる」ということがあり、死ぬほど嫌なのだけれどそれでも断り切れない、ということもあったのかもしれない。まあそういう「無常感」ゆえに、かんたんにあきらめて支配されてしまう。

それはもう、生きて故郷に帰ってくることができるかどうかわからない旅だった。彼らには「お国のため」などという意識はなかった。それでも、従容として旅立っていった。そのときおそらく、旅をすることそれ自体から誘われてゆく心がはたらいていた。青い空の流れる雲から誘われた、と言い換えてもよい。古代人の心の、その「おおらかな遠いあこがれ」こそがその制度を可能にしていた。彼らのシンプルでぎりぎりの暮らしに、現実的な損得勘定(=コストパフォーマンス)の意識は希薄だった。生きてあることはなやましくくるおしいことであり、その「かなしみ」は、この生の外に向いていた。見上げる青い空の流れる雲に向いていた。

石川啄木は「雲は天才である」といったが、それは古代人の心でもあった。

「防人」の制度を成り立たせていたのは、古代の大和朝廷の政治権力ではない、流れる雲に対する「遠いあこがれ」だったのだ。

 

 

さらに古代には「采女」や「舎人」といった朝廷の労働者が地方から派遣されてくるという制度があったわけだが、それらの多くは地方豪族の子女で、地方が中央に差し出すいわば「人質」のような存在だった。しかしそれだって、中央の権力がそれほどに強かったというよりも、地方のほうから差し出したくなるような何かがあったのだろう。

その「何か」とは、もちろん政治経済的な利害関係もあっただろうが、それ以前に「奈良盆地の魅力」というのがあったのだ。「古代のおおらかさ」などというなら、まずそのことを考えねばならない。「色ごと」の文化、すなわち「美意識」とともに時代や社会が動いてゆく風土、それがこの国における「古代のおおらかさ」だった。

とにかくそのころの奈良盆地はもっとも先進的な地域だったわけで、いわば「奈良盆地詣で」のような気分が全国に広がっていたのではないだろうか。弥生時代奈良盆地が日本列島でもっとも大きな都市集落になったのはまわりの地域からどんどん人が集まってきたからで、このことはさまざまな考古学の証拠がある。まず、そのころはほとんど湿地帯だらけだったこと、そしてそこを干拓するための土木工事の技術がとても発達していたこと、その結果としてもっともたくさんの人が集まってくる場所としての「纏向遺跡」がつくられていった。

おそらく古代以前から古代にかけての日本列島には「奈良盆地詣で」のムーブメントが続いていたのであり、「采女」や「舎人」の制度もその動きを基礎にして生まれてきたのではないだろうか。そしてそれは、結果的に極めて高度な中央集権的な支配システムになっていたわけだが、おそらく大和朝廷が強権的計画的に進めていったのではない。国家とは何かということもよくわかっていない「国家のあけぼの」の時代に、こんなことを強権的計画的に推し進める能力が大和朝廷にあったはずがない。

その制度は、古代人の心の「おおらかな遠いあこがれ」から生まれてきた。もちろん明治政府はそれを強権的計画的に推し進めていったのだし、古代の大和朝廷もまた、民衆のその「おおらかな遠いあこがれ」に寄生しながら「天皇を最高権力者であるかのように偽装する制度」を見出していった。明治政府がなんとしても復活させたかったのはこの制度であり、それをしなければ欧米列強に肩を並べる帝国主義国家は実現できないと考えた。

ともあれ、大和朝廷成立以前の原初の天皇は、古代人の「おおらかな遠いあこがれ」の対象として生まれてきたのであり、大和朝廷成立とともにそれが最高権力者であるかのように偽装され、「神武東征」などという神話がつくられていった。

まあ「神武東征」だって、「神武の奈良盆地詣で」と読み換えることもできなくはない。この話をつくったのは、民衆だったのか権力者だったのか、僕にはよくわからないのだが、それでもこんな話の中にさえ、時代状況としての古代人の心の「おおらかな遠いあこがれ」が宿っているように思える。

 

 

古代の「おおらかな心」は、もはや失われてしまったのか?

そんなことはあるまい。

それはこの国の「伝統」というか「歴史の無意識」として受け継がれているはずであり、そうやって天皇制が残ってきたのだし、戦後の憲法第九条が生まれ守られてきた。

古代以前の起源としての天皇は、「処女の巫女」だった。天皇制だろうと憲法第九条だろうと、おおらかといえばおおらかな能天気でお花畑の文化遺産なのだ。

伝統の本質的な性質は、「究極」を目指していることにある。真実だからとか本当に大切なものだからとか、そういうことじゃない。嘘っぱちだろうと、無駄なものであろうと、「究極」を目指しているがゆえに残ってきたのだ。憲法第九条だって、それが現在の平和を守るのに有効だとか、そんな話じゃない。ただの能天気なお花畑の思想さ。しかしそれが、人類の理想であり究極であるのも確かなことだろう。究極を目指していなければ、伝統として残ってゆくことはできない。

現在のこの国で生きてゆくためには、「日和見主義」の「コストパフォーマンス主義」になるのがいちばんだろう。しかしそれは、理想でも究極でもない。われわれの「日和見主義」や「コストパフォーマンス主義」は、いずれ必ず理想や究極によって滅ぼされる。われわれの心は、つねに理想や究極に照射されている。

もしも「古代のおおらかな心」が人類の理想であり究極であるのなら、われわれの心にも「伝統」という名の「歴史の無意識」として残っていないはずがない。

 

 

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『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。