昭和=平成=令和

 

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令和という新しい時代になって、マスコミはもう、新天皇の話題ばかりで、平成天皇のことは何も語らなくなるのだろうか。

何しろ今の総理大臣は、平成天皇のことを煙たがっていたらしく、マスコミもそこのところを「忖度」するのだろう。

平成天皇とはどのような天皇だったのだろうか、と考えることなどあの総理大臣の趣味ではないだろうし、考えることができる頭もないに違いない。彼の頭の中にあるのは、お祭りムードを盛り上げて政治利用することだけだろう。そうやって国民を思考停止に陥らせながら参議院選挙に突入してゆきたいのだろう。

でも僕は、考えたい、平成天皇のことを。べつに崇拝なんかしていないが、それなりに確かな存在感の記憶をわれわれの脳裏にしるして去っていった人だった。

そして今だからこそ、「天皇とは何か」とか「日本人とは何か」という議論がちゃんとなされてもいいのではないだろうか。

令和という元号名が素晴らしいなんてさらさら思わないが、なってしまったことはしょうがない。われわれはもう、その元号名を受け入れるし、受け入れるしかない。しかし、思考停止してやすやすと政権のたくらみに踊らされているだけが能ではないだろう。

少なくとも平成天皇は、即位してからずっと、「天皇とは何か」「日本人とは何か」ということを自身に問い、国民に問い続けてきた。いや、皇太子のころからずっと、地方を回って地元民との対話を繰り返してきた。ときには机を並べて2時間以上語り合うこともあったのだとか。3・11のときは何度も被災地に足を運び、ひざまずいて民衆の話を聞いてやっていた。

天皇とは何か……?

平成天皇は、昭和天皇とはまったく違う天皇像を模索してきた。昭和天皇は、民衆との対話など、戦前はもちろん戦後においてもほとんどしなかった。雲の上の人として屹立しているのが役目だと心得ていたらしく、園遊会などで著名人と会っても「あ、そう」というだけだった。

しかし平成天皇は、「国民の安寧を祈り、国民の思いに寄り添ってゆくのが象徴としての私の役目だ」といっていた。おそらくそれが天皇であることの本質で、古代以前の天皇奈良盆地(あるいは畿内)限定であったから、もっと日常的に民衆と接していたに違いない。万葉集には、ひとりで奈良盆地を歩いていている天皇が美しい村娘と出会って言葉を交わす、というようなエピソードが語られている。

そのころの天皇は、権力者というクッションを置かずに、民衆が直接祀り上げている対象だった。

もともと天皇は民衆ととても近い存在であり、天皇の言葉は、いまでも民衆に対して権力者よりももっと大きな影響力・説得力を持っている。

2016年にテレビから民衆に向かって退位の意向を語りかけたとき、右翼や権力者たちはこぞって反対の意向を示したが、それに同意する民意の盛り上がりを押しとどめることができずにしぶしぶ承諾した。まあ、それなのに今となっては徹底的に政治利用して祝賀ムードをあおっているのだから、いい気なものである。

ともあれ、天皇家から天皇を出さないといっているわけではないのだから、いつ交代しようと天皇家の勝手なのだし、民衆の天皇に対する親近感と祀り上げる心映えには、右翼権力社会から押し付けてくる「神」とか「大元帥閣下」というようなイメージはない。

民衆にとっての天皇は「魂の純潔」の象徴であり、「魂の純潔に対する遠いあこがれ」とともに天皇を祀り上げている。

人は、だれもが「魂の純潔に対する遠いあこがれ」を抱いている。人類の歴史は、そこから照射されて流れてきた。

人類社会が「民主主義」を究極として目指しているとしたら、それは「魂の純潔に対する遠いあこがれ」の上に成り立っている。

 

 

天皇だって人間であり、天皇のもとに「魂の純潔」があるのかどうかはわからない。しかし、「魂の純潔」に殉じようとしている人ではあるに違いない。そうやって「無私の人」になり、「民の安寧を祈り、民の思いに寄り添う」ということをしようとしているのだろう。だから85歳の最後まで、毎日のように行われている宮中祭祀は必ず出ていたのだとか。そうして、民の安寧を祈る宮中祭祀と民と対話する行幸が体力的にできなくなることは天皇であることができなくなることと同じであると判断して退位を決断したのだろう。

彼にとっての平成は「天皇とは何か」と問い続ける日々だった。昭和20年の敗戦は、天皇の意味が大きく変わる出来事でもあった。そのことにもっとも戸惑い苦悩したのが昭和天皇だったのだろうし、それをもっとも身近で目撃していたのが当時皇太子であった平成天皇だった。そして昭和天皇は、その答えを見出せないまま死んでいった。彼は、「天皇とは何か?」という問いを昭和天皇からバトンタッチされたのだ。だから、皇太子のときからずっと全国を回って国民との対話を続けてきたのだし、自分が天皇になってはじめて気づくこともあったに違いない。

昭和天皇は、敗戦の無条件降伏を決断し実行した人であったのかもしれないが、権力を持たない身でそれを決断し実行しなければならない立場に置かれ、心にどれほどの重圧と混乱を負わねばならなかったのか、われわれにはわからない。できることなら、最後まで何も決めない立場のままでいたかったことだろう。この国の天皇の権威は、何も決定しないがすべてを受け入れる、ということにあり、それが天皇であることだと思い定めて生きてきたのに、最後の最後で決定・決断をしなければならなくなった。それは、天皇であることを放棄することだった。

権力者たちは、勝手に戦争をはじめておきながら、最後の最後になって天皇に丸投げしてしまった。ぶざまな話ではないか。天皇の権威を重んじるなら、どんなことがあっても天皇に決断させてはならなかったのだ。

その敗戦前の御前会議の席での天皇の腹の内はみんながわかっていた。今流行りの言葉でいえば、それでもそれを忖度しようとしないものが半数いた、ということだ。良くも悪くも「忖度」はこの国の伝統であり、明治以来の権力者は、天皇を無視しつつ天皇に対する「忖度」ということにして権力を押し付けてきていた。

戦後の昭和天皇が「あ、そう」としかいわなくなったことに、どれほど深い心の闇があったことか。おそらく皇太子だけは、それを知っていた。

 

 

昭和から平成、そして令和へ。天皇家にとってそれは、何だったのか。昭和天皇の心の闇とかなしみは、新しい令和天皇にも引き継がれているに違いない。そして、皇太子の妻になった美智子妃にしろ雅子妃にしろ、なぜあのように心の失調を抱え込まねばならなかったのか。彼女らが民間社会の出身ということもあろうが、やはり戦後の天皇家が抱えてしまっている「闇」というか「疵」というようなものが空気として流れていて、それに感染してしまったという部分もあるのだろう。ドーキンス流にいえば、「戦後の天皇家ミーム」ということだろうか。さらには、その失調が愛子内親王にまで伝染してしまっている。彼女らには、何かあの世とこの世の境目に「宙吊り」にされているような心地があるのだろうか。

天皇は「神」で天皇家は「あの世」の世界だということであれば、そう割り切って生きることもできるだろうが、現在の天皇家にはそれが当てはまらない。かといって、ここが「現世」だという確証もない。

戦後の昭和天皇はもちろんのこと、平成天皇にだって、「人間天皇」というアイデンティティをしんそこ実感することは完全ではなかったに違いない。

平成天皇や令和天皇が皇太子の嫁探しのときにあくまで民間の女にこだわったのは、「地上に降りてゆかねばならない」とせかされる思いがあったからかもしれない。

そして宮内庁の職員たちには、男も女も、権力社会の論理としての「天皇家は支配して天上世界に押し込めておかねばならない」という歴史の無意識がはたらいている。だから皇太子の妻たちは、そのような職員たちと「地上に降りてゆかねばならない」という夫の願いとのあいだに挟まれて、心が身動きできなくなってしまう。

伝統的に権力社会は、ことに皇太子に対しては支配的になる。古代には、権力者たちの権力闘争に巻き込まれて殺された皇太子がたくさんいた。

令和天皇の皇太子時代は、弟よりもはるかに自由がなかった。

ともあれ平成天皇も令和天皇も、最初から妻に対して「天上世界の住人」になることを要求しなかった。むしろ「地上の女」でいてくれることを望んだ。なのにまわりの職員たちは、あくまで「天上世界」の論理を押し付けてくる。

そして愛子内親王だって、そんな母親の「宙吊り」になった心が伝染しないはずがない。秋篠宮の娘たちは天上世界のそばにいることの選民意識を謳歌することはできても、愛子内親王にあっては、なまじ敏感で聡明であるがゆえになおさら心は途方に暮れてしまう。地上でもっとも選民として扱われる身でありながら、つねに選民意識をもってはならないという強い戒律がはたらいている。

 

 

天皇にとって権力者から支配されることは「天上世界に押し込められる」ことを意味している。したがってそれは、「不敬罪」にはならない。権力者にとっては、天皇を支配することが天皇を神として崇めることだからだ。民衆が権力者の命令に逆らうときに、はじめて不敬罪になる。権力者の命令は天皇の命令だし、天皇を神として崇めればあがめるほど、みずからの権力が正当化される。

右翼の天皇崇拝は、清らかな心でもなんでもない。権力欲に凝り固まっていることの証明なのだ。彼らの思い描く天皇像なんか、ほんとの天皇でもなんでもない。平成天皇は、ずっと「ほんとの天皇とは何か」と問い続けてきた。

天皇を崇拝する右翼たちは、難が天皇かということなどすでに分かっているつもりでいて、自分たちが望むような天皇であれと要求する。それは、天皇に対して失礼である。天皇がどんな天皇になろうと天皇の勝手だし、天皇が「天皇とは何か」と問い続けているのなら、おまえらも問い続けろ。考え続けろ。考えなくてもわかっているかのような、そのぶざまな態度はいったい何なのか。総理大臣をはじめ右翼としてのプライドがあるのなら、「なんだろう?」と、身もだえしながら考え続けてみせろ。ろくに考えることもしないで、知ったかぶりばかりするな。

こんなぶさいくな総理大臣でも受け入れる日本人とはいったい何なのか、と僕は問わずにいられない。

こんなぶさいくな総理大臣を受け入れることができなくてうんざりしている僕は、日本人ではないのだろうか?そうかもしれない。きっとそうなのだろう。僕は日本人ではない、日本人とは何かと問い続けるものだ。天皇だってそうなのだから、僕もそうする。日本人とは何かと問い続けるのが日本人なのだ、ともいえる。

天皇とは、右翼の者たちがいうような、人を支配・統治する権威・権力のことではない。

天皇とは何か」と問うことは、「魂の純潔とは何か」ということだ。平成天皇も美智子妃殿下も、たぶんそのことを問うて旅を続けてきた。天皇も人間であるのなら、それは永遠にかなえられないことであるが、「魂の純潔とは何か」と問うことが「魂の純潔だ」ともいえる。人はだれもが心の底でそれを問うているのだし、それに対する「遠いあこがれ」を抱いている。

人類の歴史は「魂の純潔に対する遠いあこがれ」とともに流れてきた……まあ、いきなりこんなことをいっても「なんのこっちゃ」と思われるだけに決まっていて、そこがなやましいところだが、これこそがこのシリーズの主題であり、自分としてはかなり本気でそう信じている。とはいえ、何をいっても誰にも通じないような気もしてかなりくだくだしい書きざまになってしまいそうだが、しばらく続けてみようと思う。平成天皇の旅路の後を追うようにして。

 

 

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