れいわ新選組の候補者が次々に発表されている

このブログの今回のシリーズは、令和という元号に代わったことを機会に、日本人にとって天皇とはどのような存在であるのか、ということ書いてゆこうとしたのだが、いつの間にか話が逸れてしまった。

知ったかぶりのネトウヨの人から難癖をつけられた、ということがきっかけだろうか。彼らの心に宿る「人間に対する憎しみ」は、現在のこの世界に蔓延している病理でもあるのではないか。新自由主義グローバリズムナショナリズムファシズム格差社会ヘイトスピーチパワハラやセクハラやDVも、つまるところは「人間に対する憎しみ」の上に成り立っている。

「人間に対する憎しみ」が現在の世界を動かしている。そうして「人間に対するときめき」を生きる者たちの多くが社会の底に沈んでゆく。

まあ、総理大臣をはじめとしてそのまわりに群がってこの社会を動かしている政治家や資本家や知識人がすでにそういう人種だし、そんなヒエラルキーの上層部にあこがれたり、世の中とはそういうものだとあきらめている庶民も少なくない。

しかし、ほんとに「そういうものだ」ですむのだろうか。それではすまなくてさまざまな混乱や矛盾が生まれてきて、もはや収拾がつかない段階まできているのではないだろうか。

戦前のようにあからさまな強権支配がまかり通る時代はすでに終わっているはずなのに、今ごろになってまた、支配者が先頭に立って扇動したり逆にまわりが進んでにじり寄っていったりしている。そうやってヘイトスピーチフェイクニュースやメディア統制等々の醜悪なアナクロニズムがよみがえってきた。

そしてこれはもう、総理大臣の首をすげ替えるだけではすまない。総理大臣は現在のこの社会の醜悪さのたんなる象徴にすぎないのであり、その醜悪さに対抗する勢力が目覚めて立ちあがっていかないといけないのだろうし、そうした動きは徐々に起こりつつあるような気がしないでもない。

人の世がこのままでいいはずがないし、もはやこのままでは立ちいかなくなってきてもいるのだろう。

そりゃあそうだ。不自然な政治や経済のシステムを無理に無理を重ねてここまで進めてきたのだもの、いずれは破綻をきたすに決まっている。

蛙の腹はいずれ破裂するし、人類はつねに「人類滅亡」を夢見ている。だから、行くところまで行かないと気がすまない。大日本帝国膨張主義が、大東亜戦争のあのみじめな敗戦で終わったように。

現在のこの国のひどい状況も、破滅を体験しないと改まらないのだろうか。

ともあれ現在は、社会のシステム疲労が限界に達していた幕末の状況と似ているともいえる。ただあのころの民衆には社会制度を変革することができる立場を与えられていなかったが、現在はひとまず民主主義の制度になっているのだから、民衆が目覚めれば何かのはずみで一気に変わる可能性もある。

民衆の支持を集めたヒーローのような政治家が登場して政権をとれば、たぶん一夜にして変わる。

すでに時代は、沸騰点(シンギュラリティ)に達しているのかもしれない。

 

 

ネトウヨがどんなに頑張って大騒ぎしても、世の中がネトウヨばかりになるときなど来るはずもなく、どこまで行っても一部のはた迷惑な「嫌われ者」でしかない。彼らは現在のこの社会のシステムや権力に対してきわめて従順な者たちであるが、それゆえにこそ、その思考や行動にはこの国の伝統も人間性の本質も宿っていない。

言い換えればこの国の民衆には、今すぐにでも民主主義をいとなむことができる資質を、伝統精神としてそなえている。民主主義とは、国家権力が民衆を「支配」するという秩序によるのではなく、「無主・無縁」の混沌とした関係のままにときめき合い助け合うかたちで集団をいとなむことをいう。

少なくとも江戸時代までの民衆社会では、国によってひとかたまりにさせられるのではなく、それぞれの地域で民衆どうしがときめき合い助け合いながらゆるーく繋がってゆく「民衆自治」のシステムで暮らしていた。これが日本列島の民衆社会の伝統であり、国歌や国旗を欲しがる民衆なんかひとりもいなかったし、国家制度に支配されても、今どきのネトウヨのように心も体も国家制度にもたれかかってゆくということなどしなかった。ちゃんと民衆自治のシステムを持っていた。

たとえば、山や海の禁猟(漁)期間とか狩場・漁場などは、お上の命令ではなく、村の「寄り合い」で決めていた。まあ、そういうこと。

この国の民衆は、「民衆自治」の伝統を持っているからこそ、政治に対する「無党派層」や「無関心層」がたくさんいるのであって、べつに世の中に対する関心が薄いとか集団運営の意識が低いとか、そんなことはない。

 

 

どんな集団であれ、好むと好まざるとにかかわらず、ひとまず「リーダー」の存在は必要だろう。日本列島の民衆は、その最高の「リーダー」として天皇を祀り上げてきた。天皇は民衆に対して何もしない。両者のあいだに直接的な関係は何もない。ただもう、国家の支配制度とは別の「民衆自治」を守るためのよりどころとして天皇を祀り上げてきたのであり、天皇の存在が民衆自治の伝統を支えてきた、ともいえる。

敗戦直後の戦災孤児や戦争未亡人などの救済活動は民衆社会が率先してやっていたし、東日本大震災のときでも、むやみな暴動や略奪が起きることなくだれもがときめき合い助け合いながら粛々とした民衆どうしの連携が盛り上がっていった。これが日本列島における「民衆自治」の伝統であり、そうした集団性を無意識のところで支えているのがじつは天皇が存在しているという風土なのだ。

民衆にとっての天皇なんかふだんは何も考えない対象であるのに、それでもいざとなったら神のように崇めたりすることができる存在であり、最終的には権力者の言葉よりも天皇の言葉のほうが説得力を持つ。だから、2016年に天皇が退位の意向を示したとき、権力者のだれもが反対したのに民衆のほとんどが賛同したために、そういう流れになっていった。

天皇は、まったく民衆を支配するということをしていないが、それでもじつは権力者よりももっと大きな権力=説得力を持っている。明治以来の大日本帝国は、その関係性に寄生しながら民衆支配を強化していった。そしてそれはきわめて狡猾な手法であるが、もともと古代に大和朝廷が発生したときの権力者たちの手法でもあり、この国では天皇が存在しなければ民衆を支配できない構造のまま歴史を歩んできた。

民衆は、無条件に天皇を許している。それは象徴天皇制の今でもそうで、天皇は民衆を支配する存在ではないのだもの、許さないはずがないし、それがこの国の民衆社会における人と人がときめき合い助け合うという集団性の伝統を担保している。

で、こうした天皇と民衆の関係や民衆社会の集団性の伝統は、けっして作為的観念的文明的なものではなく、人間性の普遍的な自然というか本質というか本能というか無意識というか原始性というか、そのようなメンタリティの上に成り立っている。

明治以来の大日本帝国によってつくられた国家神道天皇制はきわめて不自然で作為的で観念的なものであるが、民衆社会で古代以前から現在まで引き継がれてきたプリミティブな「神道天皇性」は、そのようなものとはまったく別の深い人間性の自然・本質の上に成り立っている。

 

 

民衆にとっての天皇はぜひともいてほしい存在であるが、かといって天皇に何がしてほしいというわけではない。そこにいてくれるだけでいい。それだけで、人々がときめき合い助け合う関係で「民衆自治」を進めてゆくためのよりどころになっている。

天皇の命令も援助も当てにはしていない。自分たちの暮らしは自分たちでやってゆく、ということ。天皇はその本質において「空虚」な存在である……ということはさんざん言われてきたではないか。少なくとも明治以前の千数百年の天皇制の伝統においては、民衆が「天皇陛下万歳」と叫ぶことなどなかったし、日常生活でいつも意識している対象ではなかった。ただ、人と人がときめき合い助け合う関係の集団をいとなむための心の「よりどころ=象徴」として、人々の無意識の底に天皇という存在が生き続けてきた、というだけのことだ。

平成天皇が退位の意向を表明したとき、江藤淳をはじめとする多くの右翼インテリたちは、「天皇のあるべき姿」などというようなことをさかんに吹聴していた。しかしそんなことは権力社会の論理であって、民衆社会の天皇像ではない。民主主義の社会であるのなら、民衆社会の論理で天皇を語るのが筋だろう。そういう意味で、江藤淳三島由紀夫も、天皇という存在の本質を何もわかっていない。天皇を表立って意識し崇拝しているというそのことが、天皇の存在の本質を何もわかっていない証拠なのだ。「天皇のあるべき姿」を語りたがるのは、歴史的に天皇をさんざん利用してきた権力社会の内輪だけで通用する論理であって、民衆社会においては、天皇なんか光源氏のようなただの女たらしでもかまわないし、天皇がだれであってもかまわない。もちろん、男であろうと女であろうと、どちらでもいい。ただもう「天皇という存在」がいてくれるだけでいいのだ。

万世一系」なんて、権力社会の中だけのたてまえであり、まあ明治政府が捏造したヘリクツにすぎない。民衆は、そんな嘘くさく安っぽい権威など求めていない。民衆の中の天皇像は、もっと高度で抽象的な思考や美意識の上に成り立っている。

権力者にとっての天皇と民衆にとっての天皇のイメージは違う。まったく違う。明治以降の民衆は権力者の安っぽい天皇像を押し付けられてきたのであり、それは民衆支配のために都合よくでっち上げられたたんなるデマゴーグであり、日本列島の伝統としての天皇の本質とは何の関係もない。

明治政府がでっち上げた天皇像と、徳川幕府がイメージしていた天皇と、どちらが本質的であったのか?明治政府の天皇像など、民衆支配のための方法論だけで作り上げられたもので、それに対して「大日本史」の徳川光圀国学本居宣長など、徳川幕府のほうがずっと深く本質的に天皇を畏れ敬っていたのである。

 

 

もしも「民主主義」が人類普遍の理想であるのなら、そんな社会を目指すためのよりどころとして天皇が存在しているのであり、天皇は何も命令しないしだれも救済しない、ただもう人類の理想の「象徴」として、架空の空虚な対象としてそこにいる。天皇は存在しない、と同時に存在しないというそのことが存在することの証しなのだ。

「理想を目指す」とはひとつのメタフィジカルな思考である。人は心の中に理想とか夢という「異次元の世界」を持っている。その「非存在の存在」という高度に抽象的な世界に天皇が住んでいるわけで、民衆はそのことをちゃんと実感しているし、それに対して江藤淳三島由紀夫をはじめとして権力や権威をありがたがる世の凡庸な右翼インテリたちの薄っぺらな脳みそで理解できる話ではない。

天皇は「かみ」である……ということは、天皇は「架空の存在」であるということだ。だから、天皇を支配することなんかできないし、天皇が何かをしてくれるということもないし、いつも意識し崇拝していることもできない。しかし、だからこそそれはめでたくありがたい対象になる。

人は、「この世に生まれ出てきた」という運命に支配されて存在している。人は先験的に支配されている存在であり、支配されることがうれしいはずがない。その嘆きからの解放のよりどころとして、古代以前の民衆は、「天皇」という「架空の存在」を見いだしていった。「空虚という名の架空」、そこにこそ天皇のありがたさとめでたさがある。こういうことを民衆は知っているし、天皇を支配する立場の権力者たちは何もわかっていない。彼らは、いつの時代も支配することすなわち権力の「免罪符」として天皇を利用してきただけであり、だから「天皇陛下万歳」と叫ぶのだ。

まあ、右翼の者たちと天皇の関係は、お母さんにまとわりついて離れない駄々っ子のようなものだろうか。彼らはなぜ、天皇を利用しようとするのか。利用しないと民衆を支配できないし、利用すればいっそう支配しやすくなる。彼らは天皇にひれ伏しているが、天皇に対して何もときめいていない。ときめいたら、利用できなくなってしまう。ときめいていないから平気で利用することができるのだし、利用することが正義だと思っている。それはまた文明社会の構造の問題でもあり、資本家たちだって、民衆から搾取するのは正当な権利であり正義だと思っている。彼らは「ときめく」ということを知らない者たちであり、だから天皇を崇拝しつつ平気で民衆を支配できるし、お金を神のように崇めながら平気で民衆から搾取してゆくことができる。

 

 

民衆は、ふだんは天皇のことなど何も考えていない。しかしひとたび天皇の姿を前にすれば、思い切りときめいてゆく。そうして天皇が被災地などに訪れたときには、よろこび勇んで天皇に語りかけていった。天皇を前にすれば畏れ多くて口もきけなくなるはずだという思い込みが強い右翼の者たちにとってこの景色はかなり苦々しいものだったらしく、阪神淡路大震災のころまでは、天皇に対しても民衆に対しても、「復興の進み具合の邪魔になる」などという大義名分を振りかざしながらさかんに批判していた。しかし東日本大震災のときにはもう、そうした天皇の献身的な行為と姿を称賛する世論の高まりに押されて、彼らも沈黙するしかなかった。

「ときめく」とは、心が日常を離れて「異次元の世界」に超出してゆくことである。いわゆる「ハレ」の体験なのだ。したがって、よろこび勇んで天皇に語りかけてゆくことこそが、この国の伝統としての「天皇=かみ」の「聖性=異次元性」という本質にかなっているのだ。

今どきの右翼インテリほど天皇をないがしろにしている存在もない。平気で天皇を批判し支配しにかかるその態度の、なんと傲慢で恥知らずなことか。「天皇はかくあらねばならない」というようなことを、いったいどの口でいえるのか。これもまた、一種のヘイトスピーチだろう。

天皇のあるべき姿など、どうでもいい。われわれ民衆にとって大切なことは、天皇天皇であるというそのことだけだ。そのことにこそ、民衆社会の歴史の無限の想像力とときめきが宿っている。

ともあれこの国における天皇という存在は、権力者がファシズムを推進するための原動力になると同時に、民衆社会が自立してゆくためのよりどころにもなっている。

この国の天皇制の歴史は、民主主義の絶望と希望の諸刃の剣として機能してきた。そこが、なんともなやましいところで、われわれは、右翼のように「天皇陛下万歳」と叫ぶことも、左翼のように「天皇制がなくなれば……」などと思うこともできない。

明治以来の大日本帝国天皇を利用してナショナリズムを培養していったが、江戸時代までの民衆社会にナショナリズムが根付かなかったのもまた天皇制ゆえのことでもあったし、そしてそれは歴史的に「民衆自治」の文化をはぐくんできたということの証しでもある。

この国に天皇が存在するということは、世の左翼がいうほどネガティブなことではないし、右翼がいうようなナショナリズムを担保する存在であるのでもない。本質的にはむしろ、ナショナリズムとは無縁の「民衆自治」、すなわち人と人がときめき合い助け合う集団性の文化をはぐくんでゆくための心のよりどころとして機能してきたのだ。

 

 

というわけで山本太郎は今、民衆社会のそうした「無党派層」におけるときめき合い助け合う心を結集しようとしてがんばっている。

れいわ新選組が次々に発表する候補者はみな、それなりに大きなインパクトをもって受け取られているが、しかしすべて政治の世界のアマチュアである。それが何を意味しているか。これからはアマチュアが政治をするということ、すなわち直接民主主義こそ民主主義の本質であり理想である、ということだ。

現在のこの世界は、政治や経済のプロに任せてめちゃめちゃにされてしまった。彼らの手法は「人間に対する憎しみ」の上に立っている。政治や経済のプロフェッショナルとはおおむねそういう人種で、その「憎しみ」の構造が民衆社会にまで浸透してきて、今や人々のあいだが分断され、ときめき合い助け合う関係がつくれなくなってきている。

政治や経済のプロフェッショナル達に先導されたその世界観や価値観などの思想そのものが腐ってしまっているわけで、そこを変更しなければならない。パラダイム・シフト、ということ。まあ、世界的にそのような流れになってきているらしい。なぜなら民衆のほうが人と人がときめき合い助け合う人間ほんらいの関係性や集団性のことをよく知っているし、民衆=アマチュアが参加しなければもうどうにもならない段階になってきているのだろう。

ポピュリズムなどというが、人と人のときめき合い助け合う関係性や集団性は、民衆社会においてより豊かに機能している。それを政治や経済界の世界にどのようにして掬い上げてゆくかということに、山本太郎は今挑戦している。

現在の世界の民主主義の未来は、既成の右翼も左翼も既成の経済論も、そうした世界観や価値観を置き去りにしていった先にある。おそらく、「無党派層」こそ民主主義が未来に向かう先頭ランナーであり、それがこの国の「民衆自治」の伝統でもある。

人間性の本質・自然・真実・尊厳は、「生きられないこの世のもっとも弱い者」のもとにこそ宿っている。

どうしてあんな醜悪な者たちが、正当な人間であるかのような顔をしてのさばっていなければならないのか。

 

 

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キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。