みんなひとりぼっち

右翼であろうと左翼であろうと、何が正しいとか間違っているとかと「判断」するのは、僕の趣味じゃない。おもしろいものに「おもしろいなあ」と心を動かされるだけだし、嫌いなものは嫌いだし、この国の総理大臣やネトウヨのような気味悪いものにつき合わされるのはごめんだ。

僕は、さかしらに「判断する」というようなことはしたくない。人間としての自分の生理にしたがって生きていたいと願っている。

というわけで、そんなネトウヨ百田尚樹が、山本太郎のれいわ新選組を思いきりディスっているらしい。

一時の「右傾化」の勢いはだんだん衰えてきている。だから、焦っているのだろうか。「金持ち喧嘩せず」の言葉の通り、余裕をかまして無視していればいいだけなのに。

1990年代初頭のバブル崩壊以後、あるいは東西冷戦の終結以後、世界のグローバル経済の隆盛とともにこの国の右傾化の傾向もどんどん進んできたかのように見える。

グローバル経済と右翼的なナショナリズムは、けっして矛盾しない。グローバル経済とは、近代の帝国主義によるエゴイスティックな植民地支配のバリエーションというか生まれ変わりのようなもので、心理学的にいえば、自意識の無際限の肥大化とともに推進されている。つまりそれは、この世の「嫌われ者」による他者に対する無際限な支配欲のあらわれなのだ。イギリスを世界の冠たる大英帝国に押し上げた原動力はヨーロッパの「嫌われ者」として歴史を歩んできたことのルサンチマンにあったのだし、安倍晋三ヒットラーもまた「嫌われ者」として生きてきたことのルサンチマンをバネにして権力の頂点にたどり着いた。彼らの、他者を差別し排除し支配しようとする熱情・情念のすごさは、われわれにはとてもまねできない。

グローバリズムナショナリズムファシズムは、けっして矛盾していない。

ヒットラーナチス・ドイツは、ユダヤ民族を徹底的に差別しつつゲルマン民族の優位を称揚していった。「日本人に生まれてよかった」などと合唱しながらネトウヨ在日朝鮮人をはじめとするこの社会のマイノリティに対するヘイトスピーチをまき散らすのも、ヒットラーナチス・ドイツと同じなのだし、そうした差別やファシズムをこの世界から失くしてしまいたいというのは人類の悲願だろう。にもかかわらず彼らがそれを正義のような顔をして大合唱できるのは、現在の支配権力に許されているからだし、現在の新自由主義のメンタリティとどこかで通底しているからだ。

現在は、避けがたくレイシズムファシズムナショナリズムグローバリズムが生まれてくるような状況になってしまっている。それらはみな、根は同じなのだ。「嫌われ者」には色濃くそういう思想が宿る。現在の世界には、人間に対する「憎しみ」が蔓延している。

 

 

人間に対する「憎しみ」が、現在の世界の政治経済を動かしている。そういう社会の構造に人々が流されてしまっている。

ネトウヨにしろ政治経済の支配者たちにしろ、彼らは、この世のあらゆる「ときめかれる人=魅力的な人」に対して「憎しみ」を向ける。美しい人、賢い人、心が清らかな人、そういう美徳や能力にあこがれつつ、それらをすべて「正義」の名のもとに支配しにかかる。そうやって時代の文化が停滞衰弱してゆくし、美しい人や賢い人や心の清らかな人を支配してもいいのだという世の風潮が出来上がってゆく。

まあ、美しい人や賢い人や特殊な能力のある人や心の清らかな人はみな、この世の「マイノリティ」である。「憎まれ者」である彼らは、人と人がときめき合い助け合う人間社会の本質そのものに対する「憎しみ」がある。そうやって現在のグローバル社会やヘイトスピーチが横行する社会が成り立っているのだし、それはもう戦前の軍国主義社会だって同じだったし、いやもう文明社会の普遍的な病理的側面だともいえる。

文明社会はいつの時代も「嫌われ者」が出世するようにできているし、同時に、人の世であるかぎりいつの時代も「魅力的な人」は存在し、ときめき合い助け合う関係はどこかで生成している。

人は根源においてときめき合い助け合う存在であるがゆえに、「嫌われ者」が生まれてきて世の中を牛耳ってしまう。彼らだって猿の社会であるのなら嫌われないですむものを、ときめき合い助け合うことが基本の人の世であるから「嫌われ者」になってしまう。

安倍晋三であれドナルド・トランプであれ金融マフィアのロスチャイルドであれ、そのような「嫌われ者」によって牛耳られている現在の政治経済の状況を覆す勢力は、人間に対する「愛」や「ときめき」を組織して起きてくるのだろうし、またそれは人としてのこの生に対する「嘆き」や「かなしみ」を組織することでもある。

彼らには生きてあることの「かなしみ」がなさすぎる、だから、「ときめき」もまた体験することができない。

人の心の「ときめき」は、「かなしみ」を種として花開く。人間に対する「愛」や「ときめき」は、この生に対する「嘆き」や「かなしみ」に宿っている。

彼らは、この世の少数者である「魅力的な人」をうらやみつつ、支配したり排除したりしてゆく。なぜなら彼らは、人と人のときめき合い助け合う関係を許さないからだ。彼らにとって人と人の関係は、支配=被支配の関係であらねばならない。「嫌われ者」は、そういうかたちでしか他者との関係を結べない。

 

 

「魅力的な人」とは、「ときめかれる」能力と「ときめいてゆく」能力を同時にそなえている人のことである。人の世のときめき合う関係の象徴として「魅力的な人」が存在している。そうやって「魅力的な人」には「特権」が与えられる。それはダイヤモンドが高価であるのと同じで、「魅力的な人」はつねに「マイノリティ」である。そして赤ん坊や老人や貧しい者や病んでいる者などの「生きられない弱い者」もまた、この世の「マイノリティ」である。人は「生きられない弱い者」を生きさせようとするし、「生きられない弱い者」が存在する社会においてこそ、人と人のときめき合い助け合う関係が豊かに生成している。そうやって「生きられない弱い者」には「特権」が与えられる。与えられるのが人間社会の自然であり、それもまたダイヤモンドが高価であるのと同じなのだ。

「生きられない弱い者」としての死にそうな病人から治療費を徴収したり、貧しい者に生活保護の特権を与えなかったりするのは、人間社会の不自然なのだ。にもかかわらず現在の政治経済は、そうしたマイノリティを支配したり排除したりしながら生き延びてゆこうとすることの上に成り立っている。そういうことができるのは、マイノリティに対する「憎しみ」であり、人と人がときめき合い助け合う関係になることに対する「憎しみ」なのだ。

「憎しみ」でしか生きられない者たちは、「憎しみ」で生きることを謳歌している支配権力の社会にあこがれており、それを「ネトウヨ」という。差別支配のヘイトスピーチファシズムが正義の顔をしてのさばっている社会なんて病んでいるし、ネトウヨだけが病んでいるのではない、ネトウヨを生み出す社会の構造そのものが病んでいる。そういう「憎しみ」によって駆動している社会の構造そのものが病んでいる。

 

 

現在の権力者や資本家が民衆を抑圧し支配し搾取し続けて平気であるのは、それがこの社会の正義だからであり、その正義が他者に対する「憎しみ」の上に成り立っているからだ。憎しみは正義を培養し、正義は憎しみを培養する。それはとてもかなしくやりきれないことであるが、現代社会においては、他者を憎むことは正義なのだ。だから彼らに、そんな醜悪で暴力的なことをするなといっても、まるで通じない。彼らは、その「憎しみ」から生まれてくるみずからの金銭欲や権力欲や暴力性にこそ人間性の自然と尊厳があると思っている。だからアメリカでは銃規制ができないし、世界中の国が軍隊を持っている。それは、戦争だけの問題ではなく、経済システムの問題でもあるし、基本的な人と人の関係の問題でもある。われわれ人類は、そのような文明社会の構造を変えることができるだろうか。価値の根底的な転換というかパラダイム・シフトというか、そういう目新しい変化はなかなかあらわれてこない。

こんなにも愚劣極まりないネトウヨ言説の政権や金融資本家がのさばっている社会が、「ポストモダン」ともいえないだろう。

この国の1980年代には、「ニュー・アカデミズム」のブームとともに「ポストモダン」の新しい時代の到来が多くの知識人によって華々しく語られていたのだが、彼らは現在のこの時代状況を予測していたのだろうか。

たとえば、中央集権的なファシズムのような古い制度的な「物語」は一掃される、と彼らはいったが、じっさいには逆にそれがゾンビのようによみがえってきた。また、大学や知識人の権威がなくなりだれもが知識を持つことができるようになってゆくとも言われていた。たしかにだれもが大学に行くようになり、しかもインターネットの普及によって、大学に行かなくても多くの知識や情報を持つことができるようになった。しかしそれによって「権威」が失墜したかといえばそうではなく、だれもが知識という権威を振りかざすようになっただけだった。そうしてネトウヨたちは、ネット情報だけの一知半解の知識を振りかざしながら、大学教授と対等の権威・権力を手にしたつもりになって偉そうなことをいったりしている。権威・権力にすがるとか振り回すとか、そういうメンタリティは、30年前よりもむしろもっとあからさまになってきている。

あのころに制度的な「物語」や「権威」が失墜すると予言していた「ポストモダン」のインテリたちは、その後に世界中で勢いを増してきた差別主義者たちによるヘイトスピーチナショナリズムファシズムをなんと思うのだろうか。一部のエリートに握られていた「物語」が失墜したことによって、皮肉なことに上から下まで手垢にまみれた凡庸で醜悪な「物語」であふれかえってしまった。

 

 

今のところ、東西冷戦の崩壊やコンピュータ文化の隆盛によって新しい時代が生まれてきた、ということにはなっていない。むしろ、時代は後戻りしてしまった、ともいえる。

ネトウヨという名のファシストレイシストの群れが、大手を振ってそれが正義だと叫んでいる。そして彼らがなぜそんなにも傍若無人に振舞えるかといえば、それが世の中を動かしている一部の特権階級の政治家や資本家の考えでもあり、そうした支配権力に庇護されているという潜在意識を持っているからだ。つまりそれは「時代に庇護されている」ということであり、彼らには「新しい時代を切りひらく」意欲も能力もない。彼らにとっては、時代が変わってもらっては困るのだ。時代の甘い汁を吸っていない底辺のネトウヨたちだって、その「庇護されている」という「充足」があれば、「嫌われ者」であることの心もとなさというか欲求不満を忘れることができる。彼らに与えられている既得権益は「日本人である」ということだけだし、だからこそ激しくそれに執着しつつ、「在日」の朝鮮人や中国人をはじめとするマイノリティを差別し排除しようとしている。

ともあれ、新しい時代を夢見ないなんて、日本列島の伝統ではない。「日本人に生まれてよかった」と合唱しながら現在の支配構造に潜り込もうとしているネトウヨたちは、日本人として病んでいる。「日本人に生まれてよかった」と思わないのが日本人なのだ。だから江戸時代以前は、国歌も国旗もなかった。

自分の人生を屠り去ることを自分の人生のよりどころにする……それが、この国の伝統としての「みそぎ」の精神であり、人はそうやって他者や世界に献身してゆく。女が子を産み育てることはまさにそのようないとなみだし、自分の人生を屠り去ることの恍惚というものがある。「消えてゆく心地」としての女のオルガスムスはまあそのような体験であり、これも日本的な「色ごとの文化」だといえる。

日本人は「日本人に生まれてよかった」などとは思わない。

 

 

日本人はつねに、新しい時代を夢見て歴史を歩んできた。まあそうやって「初がつお」や「初なす」等の「初もの」を珍重してきたのだし、正月を「初春」として祝ってきた。

「初=はつ」は「果つ」でもある。「正月=初春」のめでたさは、すべてが「洗い流される=終わる」ことのめでたさでもある。そうやって「既得権益」に執着しない心で「新しい時代」を祝ってゆく。そうやって伊勢神宮は、20年ごとに本殿を新しく建て替える。

やまとことばの「初=はつ」は、「別れのかなしみ」と「出会いのときめき」を同じ心の裏表として抱きすくめてゆくことの上に成り立っており、日本人はそうやって新しい時代を夢見ながら歴史を歩んできた。

なのに現在のこの国の状況は、既得権益に執着する者たちに牛耳られたまま新しい時代に漕ぎ出すエネルギーを失い、身動きできなくなってしまっている。すなわちそれは、他者に対する「憎しみ」をため込んで自家中毒を起こしている状態であり、そうやって「日本人に生まれてよかった」と合唱しながら「日本人」であることができなくなってしまっている。

「日本人」は「日本人」であることを脱ぎ捨てながら新しい時代に分け入ってゆくことを夢見ているのであり、そうやって伊勢神宮は20年ごとに新しい本殿を建て替えることを繰り返してきたのだし、まあこの世のすべての人間は、「別れのかなしみ」を胸の奥に抱きながらたえず「出会いのときめき」を汲み上げて生きている存在なのだ。

原初の人類は、二本の足で立ち上がることによって猿であることから決別し、人としての新しい歴史を歩みはじめた。日本列島の伝統はそういう人間性の自然の上に成り立っているのであり、ようするに「原始的」であるということだが、「原始的」であることこそもっとも高度に文化的だともいえる。

 

 

ホリエモンが、山本太郎やそのファンたちのことを「情弱」なやつらだといって冷笑していた。しかしその「情弱」という「原始性」から生まれてくる「心意気」こそが新しい時代を切りひらくのであり、彼のような功利主義コスパ野郎の低劣な脳みそで理解できる話ではない。その「かなしみ」や「ときめき」こそが新しい時代を切りひらくのであり、そういう「人情の機微」を失い、人間に対する「憎しみ」を基礎にした功利主義が正義の世の中になってしまったからこそ、ホリエモン安倍晋三のような「嫌われ者」が跋扈していられるのだ。

人は、他者を憎み、他者を押しのけて得をしようとする欲望が膨らんでゆけば、生き延びる能力は発達する。「生き延びたい」という欲望は、人間に対する「憎しみ」から生まれてくる。

現在は、「嫌われ者」たちが、その生き延びるための「既得権益」を手放すまいと必死になっている。そうして、ときめき合い助け合って生きようとしている「情弱」な者たちを、ますます抑圧し、搾取し続けいる。

そりゃあ山本太郎のように、ひたむきに他者の前に命を差し出してゆく者があらわれてくれば、ホリエモンネトウヨも大いに不愉快にちがいない。彼は、「芸能人」という自分の人生を屠り去って政治の世界に飛び込んできた。そうして今、現在の汚れ切った社会システムに深く幻滅しながら新しい時代を切りひらこうとしているのであり、この社会のあらゆる既得権益を壊そうとしている。まさに「ポストモダン」である。そしてその戦いは多くの民衆から支持されているとはいえ、あらゆる既得権益の立場からの攻撃に晒されている。ネトウヨや与党政治家や資本家だけでなく、野党政治家や連合という労働組合だって、その既得権益を守ろうとして彼を攻撃している。しかし彼は、ひるまない。孤軍奮闘、喧嘩上等、仁義なき戦いはすでにはじまっている、這いつくばってでも戦う、という。

 

 

バブル経済が崩壊したとき、これからは「もの」ではなく「心」の時代になるといわれた。「コンクリートから人へ」などといわれたりもした。そうやって「生命賛歌」が叫ばれた結果、「生き延びる」ことが正義になり、「生き延びる」ための競争が激しくなっていった。そうして、政治の世界でも経済の世界でも知識人の世界でも、「生き延びる」能力に特化した「嫌われ者」が次々に表舞台に登場してきた。で、この30年は、どの世界においても何も進展がなかった。政治や経済は支配する側のやりたい放題になり、本屋の棚からは本格テクな哲学書が消えて、スピリチュアルとか生き方の啓蒙書というかハウツー本ばかりになっていった。

まあ、「生き延びる」ことが正義の世の中なのだから、そうなるに決まっている。

しかし、人に対する「ときめき」を生きている者は、つねにみずからの命を他者に捧げているのであり、「生き延びたい」という欲望など持っていない。そこにこそ人間性の自然があり、その「ときめき」とともに人類の歴史は進化発展してきた。

まあ人類の世界において「生き延びる」ことは他者とのときめき合い助け合う関係の上に成り立っているのであり、自分ひとりで生き延びる能力を持つことにあるのではない。人間とは「生きられない」存在であり、「生きられない」存在だから生き延びることができる。人類の歴史の進化発展は、生きられない者どうしがけんめいに他者を生きさせようとすることによって実現してきた。

「情けは人の為ならず」などいうが、それは「人に情けをかけておけばまわりまわって自分のもとに返ってくる」というような損得勘定のことをいっているのではない。もともとは「困っている人に情けをかける(=手を差し伸べる)ことほど気持ちのいいことはない、自分のためにしているだけなのだ」というようなニュアンスだったわけで、そこにこそ日本列島の伝統と人類史の進化発展のわけがあるのだし、だからこの国では「倍返し」という返礼の習俗も生まれてきた。誰もが他者に命を捧げたがっているのが、人の世の根源のかたちなのだ。そして山本太郎は、まさにそのことを体現する存在として、現在のこの社会に登場してきた。

ホリエモンは、「情弱」なやつらの「感激」するさまが気に入らないらしい。「嫌われ者」が、人と人のときめき合う関係に嫉妬し憎んでいるのだ。彼にとっては「嫌われ者」の生き延びる能力が称賛される世の中がいつまでも続いてほしいのだろうが、そうはいかない。人と人が他愛なくときめき合い助け合う新しい時代はきっとやってくる。それがこの国の伝統であり、人類史の普遍なのだ。

 

 

人は、たとえ世の中がどれほど荒んでいようとも、せめて自分のまわりだけは他者との他愛なくときめき合い助け合う関係を生きたいと願っている。そういうものたちが山本太郎の街宣に感激して何が悪いのか。どうしてホリエモンごときに冷笑されねばならないのか。「情弱」でけっこう、「情弱」であることこそ人が人であることの証しであり、人間的な集団の本質はそれによってこそ成り立っているのだ。

感激して涙を流したこともないような人間が、どうしてえらいのか。生き延びるための損得勘定が上手なことを称賛しなければならない義理など、われわれにはない。「嫌われ者」である彼らは称賛してほしくてうずうずしているのだろうし、称賛する同類もいるのだろうが、彼らが人間社会のマジョリティになることも基準になることもない。もともと人の心はそのようにはできていないからだ。彼らは「嫌われ者」の帝国をつくろうとしている。

自分のことを嫌う相手とは、支配することによってしか関係を結ぶことはできない。

「嫌われ者」の支配される社会はあり得ても、「嫌われ者」がマジョリティになる社会は、論理的に成り立たない。なぜなら、「嫌われ者」に「支配される者」が少数であるのなら、「嫌われ者」どうしの椅子取りゲームが起きて、多くの「嫌われ者」が抹殺されてしまう。「嫌われ者」とは他者に対する「憎しみ」が強い者であり、つねに他者を排除しようとする。そうやって古代以来権力社会ではつねに権力闘争が起きてきたのだし、現在の世界で超富裕層は全人類の1パーセーントだというのも、彼らがつねにライバルを排除し続けてきた歴史の結果だろう。

人間の社会で、他者を排除しようとするものがマジョリティになることはあり得ない。そういう社会は、つねに他者を排除しながら、とうぜん縮小してゆく。

人類の世界がこんなにも人口を増やしたのは、他者を憎しみ排除しようとすることをしない集団だったからだ。そしてそういう集団だから一部の「嫌われ者」に支配されてしまうのだし、そういう構造を克服しようとするかたちで長い歴史の果てに「民主主義」が追求される社会になってきた。

ネトウヨたちは、しつこく陰険に在日朝鮮人をはじめとするマイノリティを攻撃する。それは、自分たちが「嫌われ者という名のマイノリティ」だからであり、在日朝鮮人やLGBTを攻撃したり「日本人に生まれてよかった」と合唱したりしていれば自分たちがマジョリティであるかのように思えるからだろう。

「嫌われ者」が社会のマジョリティになることなどありえない。彼らほど日本列島の伝統から遠い者たちもいない。「日本人に生まれてよかった」だなんて、日本人になれないブサイクな日本人が日本人になりたがっている、というだけの話である。

 

 

10

この世の「嫌われ者」も「魅力的な人」もひとまずマイノリティであるが、後者がそのことを受け入れることができるのに対し、前者はどうしても受け入れることができない。何が何でもマジョリティであろうとして大騒ぎをするというか、悪あがきを繰り返している。自分がマイノリティであることの屈辱を感じているから、在日朝鮮人やLGBTにもそれを味わわせてやりたくなるし、味わわせることによって自分がマジョリティティであることを確認しようとしている。

人間なんかみんなひとりぼっちのマイノリティであるほかない存在であり、「その他大勢」のマジョリティになって何がうれしいのか。人類の集団は、だれもが心の底に「ひとりぼっち」の「かなしみ」を抱えているから、無限に膨らんでゆくことができるのだ。

2年前の枝野旋風も現在の山本太郎現象も「ひとりで立ち上がる」というのが共通点で、そうやって誰の中にもある「ひとりぼっち」の心を揺さぶっている。つまり、「結束する」のではなく「だれもがひとりで立ち上がる」というかたちで風が吹くのだろう。

既成の勢力は「結束」して既得権益を守ろうとするし、「新しい時代」は「だれもがひとりで立ち上がる」というかたちで起きてくる。

まあ、スポーツイベントやコンサートでどこからともなくスタジアムに大観衆が集まってくることだって同じで、みんな「ひとりぼっち」だし、祭りが終わればやっぱりひとりずつばらばらに帰ってゆく。

人間はだれもが「ひとりぼっち」の存在だからこそ、大集団になることができる。

日本人は、日本人だからこそ、「日本人である」という既得権益に執着なんかしていない。「日本人である」という以前にみんな「ひとりぼっち」なのであり、その「かなしみ」を共有しながら他愛なくときめき合い助け合ってゆくのが「やまとごころ」であり、この国の民衆社会の集団性の伝統なのだ。

孤軍奮闘は、選挙のときに風が起きる大きな要素のひとつである。

日本的であると同時に人間的でもある集団は、大勢がひと固まりになるのではなく、「ひとりぼっち」の者どうしがゆるーく繋がり合ってゆくことにある。

 

 

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キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。