選挙がはじまった

山本太郎が街宣のときに消費税減税とか財政出動とかの経済の話を延々とするのは、経済オンチの僕としては正直言ってちょっと鬱陶しかった。しかし世の中の多くの人はその話にこそ関心を寄せてくるのだから、それはまあしょうがない。

ただ僕は彼の人間的な魅力にとても興味があるし、他の候補者たちもそれぞれ既成の政治家にはないピュアなハートをそなえているように見える。それぞれが、それぞれに現在のこの国の矛盾を告発している。「類は友を呼ぶ」で、山本太郎同様に彼らの熱くひたむきな裏表のない人柄に人々が引き寄せられるのなら、大きな風になる。理屈よりも「情」に訴えるのが選挙の王道なのだ。

人の世は、良くも悪くも「情」の上に成り立っている。だから歴史は理屈道理には進まないのだし、AIだけでは制御しきれない側面がある。

人の世の動きは、即興のライブなのだ。

現在の大方の選挙通の分析によれば、れいわ新選組が獲得するのはせいぜい2~3議席だろうといわれているが、その予想を覆してほとんど全員が当選するということが起きる気配もないわけではない。

選挙がはじまった。

れいわ新選組の熱気は、どこまで広がるだろうか。

 

 

とにかくれいわ新選組の中心政策は経済的な格差・貧困問題にある。

というわけで今回はちょっと、お金のことについて考えてみたい。

世の中のしくみについて考えるとき、お金=貨幣の本質を問うのもひとつの方法かもしれない。

起源としての貨幣がきらきら光る石ころや貝殻だったということは、だれでも知っている。しかし原始時代のそれは、「交換」の道具ではなく、あくまで一方的な「贈与=プレゼント」の品物だった。だってそんなものは、人が生きてゆくための衣食住のことには何の役にも立たないのだから、衣食住のものと交換できるわけがない。海の魚と山の果実を交換するのとはわけが違う。

MMT(現代貨幣理論)によれば、貨幣によって負債がつくられるのではなく、負債によって貨幣が生まれるのだとか。銀行が持っている貨幣は何かの「もの」と交換するためのものではない。ただの「数字」だともいえる。それを誰かに貸し与えたときすなわ、すなわち「贈与」という行為が起きたときにはじめて、ただの「数字」ではなく、世の中に流通する「貨幣」になる。まあ、このようなことらしい。財政出動には国債を発行すればいいとか、ベイシックインカムとか、本質的には「贈与」の理論なのだ。

 

 

原始時代から現在まで、人は「きらきら光るもの」が好きで、それは生き延びるための衣食住のもの以上の価値を持っている。だから今でも、金やダイヤモンドこそが最大の価値になっている。そしてこのことは、人間性の自然・本質が「生き延びる」ことを目指すことにあるのではないことを意味している。「生き延びる」ことよりももっと大きな「価値」の象徴として金やダイヤモンドがある。

人間にとって「自分が生き延びる」ことよりもっと価値があるのは「他者が生き延びる」ことであり、そうやって女は子を産み育てているわけで、それは「他者に命を捧げる」ことだともいえる。つまり、人間は「贈与=プレゼント」をしたがる生きものだということで、きらきら光る貝殻や石ころはそのための形見として生まれてきた、ということだ。

2万5千年前の原始人(ロシアのスンギール)の遺跡においては、おびただしい数のビーズの玉を添えて死者が埋葬されていた。それはきっと村中からかき集めてきたものであったにちがいなく、彼らはそれを惜しげもなく死者に捧げた。原始人はしばしばそういうことをするわけで、そういう「贈与=プレゼント」の衝動こそ人間性の自然・本質なのだ。

それは「交換」という行為ではない。土の下に埋めてしまうのだから、それらはもうこの世から消えてなくなるのだ。それでも、そうせずにいられなかった。そしてそれは、死者のものになることによってはじめて「価値」になった。

文明社会は自分の持っているものを「価値=私有財産」とすることの上に成り立っているが、それでも自分のものに飽きて新しいものに買い替えようとするではないか。本質的には、自分のものになった瞬間から、それは「価値」ではなくなるのだ。

すべてのものは、他者に与えて他者が喜ぶことによってはじめて「価値」になる。現代社会においても、けっきょくのところそのことの上に「売買」という行為が成り立っている。どんなに素晴らしいものをつくっても、他人がよろこばないものなど売れるはずがないではないか。

 

 

「きらきら光るもの」は、衣食住には何の役にも立たない。ただ好きなだけで、なんの「価値」でもない。それでもそれが衣食住のものと「交換」できるようになるまでには、とても長い歴史の時間を要した。原始人が初めて貝殻の首飾りをつくってから文明国家で「交換」の道具としての「貨幣」が生まれてくるまでには、およそ10万年くらい経っている。

そのきらきら光る貝殻や石ころは、だれかが欲しがったりもらって喜んだりすることによって、はじめて「価値」になる。もともとは「価値」でもなんでもないのに、そのとき突然「価値」になる。

人間性の自然・本質は、他者に命を捧げることにある。

それはもともと「価値」ではないのだから、「交換」の道具にすることは原理的に不可能であり、それでも「交換」の道具となるための先見的な「価値」を持たせるためには、あるメタフィジカルな思考の「飛躍」を必要とする。人類は、そのメタフィジカルな「飛躍」を獲得するまでに10万年以上の歴史の時間を要したし、現在の貨幣経済だってこの「一方的な贈与」という本質をはらんでいる。

なぜそれが10万年以上もの歴史の時間を必要としたかといえば、人間はしんそこ「贈与=プレゼント」が好きな生きものであり、その「一方的な贈与」というかたちを失いたくなかったからだ。

まあ日本的な言葉でいえば「交換」などということはひとつの「けがれ」であり、原始人には人間性の自然としてその行為に対する後ろめたさがあったが、文明社会はそれを振り払ってそれを「正義」にしていった。つまり「神」という概念を持った文明人は、その思考法をもとにして「きらきら光る貨幣」もまた「神」のような全能のアイテムにしていった。

とはいえ人間が人間であるかぎり、「贈与=プレゼント」の本能から逃れることもできないわけで、現代社会の「貨幣」だって本質的にはそうした本能の上に成り立っているのであり、それがMMT(現代貨幣理論)であるらしい。

原初の貨幣は、「贈与=プレゼント」されることによってはじめて「価値」になった。そしてそれが、MMTにおける「貨幣は負債として発生する」ということでもある。おそらく貨幣の本質は、現代においても変わっていない。人間性の自然・本質としての「贈与の衝動」が豊かに機能していなければ、豊かな貨幣の流通もない。なんのかのといってもこの国の「戦後復興」が目覚ましかったのは、困っている人に手を差し伸べようという「贈与の衝動」が豊かに機能している社会だったからだ。とくに終戦直後はそうだったし、東日本大震災の直後だって、たくさんの寄付金やボランティアの人が集まった。

山本太郎のれいわ新選組が2か月で無名の民衆による2億円の寄付金を集めたのも、「贈与の衝動」が結集したことの証しにほかならない。少なくともそれは、「交換」の道具としての貨幣ではない。「交換」の道具であることは、文明社会における貨幣の属性のひとつであっても、本質ではない。

 

 

人類の「貨幣」が純粋な「贈与」の形見である段階から、文明国家の発生とともに「交換」の道具としての性格を加えていったその端境期の商業形態として「沈黙交易」というのがあった。

たとえばこれはアフリカのある地方でつい最近まで残っていた習俗であるらしいのだが、海の民が塩の入った袋を山の村まで運んでゆき、それを村の入り口に並べて帰ってゆき、すると次の日その袋の前にそれぞれお金が置かれてあり、戻ってきた海の民はその値段に納得した場合はお金だけをとり、納得しなければ塩の袋だけを引き取って帰ってゆく。このとき売り手と買い手はまったく顔を合わせない。

どうしてこんな面倒なことをしなければならないのか。「交換」というかたちにしたくないからだろう。とにかくどちらも、「一方的な贈与」として塩を差し出し、お金を差し出す。そういうかたちにしないと気持ちの収まりがつかない。これが原始的なメンタリティなのだ。そしてこの「交渉・交換をしない」という「沈黙交易」は、日本列島でも明治時代まで村と村の境の峠の茶屋や神社などを拠点にしてなされていたらしい。日本列島の場合は文明制度が発達してもなお、そのような「貨幣の本質は一方的な贈与にある」という原始性を色濃く残しているし、じつは世界的のその本質は変わっていないのではないだろうか。

 

 

奢ってもらうより奢ってやるほうが気持ちいいに決まっているし、だれだって困っているだれかに手を差し伸べたいという思いはあるわけで、それによって人間の世界の貨幣が流通してゆく。これが基本であるわけだが、現在においてはその基本が壊れてしまって一部のエゴイスティックな「嫌われ者」によって貨幣経済が動かされている。というか、だれもがエゴイスティックな「嫌われ者」になってお金を稼がないと生きてゆけない世の中になってしまった、ということだろうか。そうやって、世の中の「ときめき合い助け合う」という関係性や集団性が壊れてゆく。いや、すでに壊れてしまっているのかもしれないのだが、それでも人が人であるかぎり、人の心から「贈与の衝動」が消えることはないし、それがなければ「貨幣」という概念は成り立たない。

富裕な商人が土蔵の中に千両箱を100個も200個も積み上げてゆく……こんなことばかりしていたら、世の中に流通する小判はどんどん消えてゆく。現在の大企業の内部留保の増大という現象だっておそらくこれと同じだろうし、彼らに「贈与の衝動」や「ときめき合い助け合う関係性」を求めても無駄なのだろうか。無駄かもしれないがしかし、貨幣の本質は「贈与の衝動」ともに動いてゆくものであるがゆえにそこへと吸い上げられてゆくわけで、彼らそうした人間性の自然・本質に寄生して貨幣をため込んでいる。

人の心から「贈与の衝動」がなくなったら、「貨幣」など成り立たない。

国債などというものは、品物としてはなんの価値もない。これを一般の投資家が買う。買うといっても、なんの価値もないただの紙切れなのだから、「贈与=プレゼント」するのと同じだろう。もちろんそれは日本銀行で換金できるという保証があるわけだが、ひとまず「贈与」というかたちをとらないと気がすまない人間性の自然・本質があり、一部の資本家たちがその性格を利用し寄生しながらこの社会の経済システムをとてもややこしいものにしてしまっている。

貨幣の本質がただの「交換の道具」であるのなら、おそらくこんなややこしい社会にはなっていない。「贈与の形見」であるから、世の中に流通するし、ひとつのところに吸い上げられ、ため込まれて消えてしまうことにもなる。「交換の道具」ではないから消えてしまうのだ。「交換の道具」であったら、消えてしまうはずがない。

この世界のほとんどの貨幣は、1パーセントの金融資本家のもとに吸い上げられ、消えていってしまう。だから政府は、次々に貨幣を発行し続けねばならない。それは、貨幣の本質が「交換」ではなく「贈与」にあるからだ。

 

 

まあ、われわれが納める税金も本質においては「贈与=捧げもの」なのだし、商店で品物を売買するときでも、たがいに「贈与」されることの感謝やよろこびがなければ活性化しない。

もしかしたら共産主義社会が失敗したのは、貨幣のシステムがあまりにも合理的過ぎてというか、貨幣の機能が「交換の道具」だけになって、「贈与」という機能を失ってしまったからかもしれない。つまり、売るほうにも買うほうにも「贈与」されることの感謝もよろこびもない社会になってしまった。売ることのよろこび、買うことのよろこび、そういう感慨が起きてこなければ、経済が活性化するはずがない。

良い商品を差し出すことのよろこびと貨幣を差し出されることのよろこび、そして良い商品を差し出されることのよろこびと貨幣を差し出すことのよろこび、すなわち、贈与することのよろこびと贈与されることのよろこび、そういう関係がはたらいていなければこの社会の経済は活性化しない。

すなわち、「人情の機微」というものを無視したら商品経済は活性化しない。そして、「人情の機微」を無視して「贈与のよろこび」も「贈与されることのよろこび」もまったく感じない者たちによって貨幣が吸い上げられ消えていってしまう。「ホリエモン」や「ひろゆき」のような功利主義の根っからの「嫌われ者」はとても上手に貨幣を吸い上げてため込んでいるし、今やもう「嫌われ者」になって金を稼がないと生きられない社会でもある。

彼らは、貨幣の本質に寄生しているのであって、「贈与の形見」としての貨幣の本質を生きているのではない。

われわれはもう、「貨幣は<交換>の道具である」という既成観念を捨てるべきではないだろうか。MMTだって、もしかしたらそういうパラダイム・シフトというかコペルニクス的転回の認識の上に成り立っているのかもしれない。

MMTとは、「贈与の理論」、ということだろうか。人の世は、根源的には「一方的な贈与」の上に成り立っている。「助け合う社会」とは、「誰もがわが身を他者に捧げている社会」のことだ。いやもちろんそれは一年中というのではなく、いざとときはそういう関係になれるのが人間であり、そういう関係になれる心を持っていることの上に世の中が成り立っている。

ときめいたら自分のことなど忘れているの。「ときめく」とは「わが身を捧げる」ことだ。「助け合う社会」とは「ときめき合う社会」のことであり、そういう関係が希薄だから、経済が停滞する。因果なことにこの国の現在は、社会的な経済の停滞を基礎にして金持ちがより金持ちになってゆくことができるような仕組みが出来上がっている。

搾取の構造というか、貧乏人は金持ちから食い物にされていて、骨の髄までしゃぶりつくされている。まあ文明社会はいつの時代もそうだったともいえるわけだが、その理不尽を克服しようとするのがMMTであり民主主義である、ということだろうか。

 

 

「貨幣」の本質は、人間性の自然としての「贈与の衝動」の上に成り立っている。「交換の道具」ではない。「贈与の形見」だからこそ一部の資本家に一方的に吸い上げられてしまうということが起きる。しかもそれはもう文明国家の発生以来続いてきた現象なのだから、そうかんたんには解決できない。

人類史における貨幣の起源を語るとき、世の歴史家は、「物々交換」の習俗が発展して貨幣が生まれてきた、というが、そうではない。話が逆なのだ。

原初の人類はまず「きらきら光るもの」というなんの役にも立たないものを愛でることを覚え、それを「贈与=プレゼント」するようになっていった。この「贈与の衝動」は、たとえば親鳥が雛に餌を与えるように、生きものの本能だともいえる。この「贈与=プレゼント」の関係の上に「価値」が発生する。「価値」を感じるから、プレゼントしたくなるし、プレゼントされて喜ぶ。感じなければ、する気にならないし、されてもうれしくない。しかし、どちらか一方が感じるだけでは「価値」にはならない。したくなる気持ちとされて喜ぶ気持ちの「関係」が生じ、それが社会的に広がってゆくことによって、はじめて「価値=貨幣」になる。

「交換=交易」ということを覚えたからではない。貨幣を持ったから、「交換=交易」をするようになってきた。

原始人の社会では一方的に「贈与=プレゼント」をする関係があっただけで、その関係が発展して「貨幣」が生まれ、その後に「貨幣」を使って交換するようになったのであり、人類は「貨幣」という「価値」を生み出したことによって「交換」という行為を覚えていったのだ。

原始社会には、一方的な「贈与=プレゼント」という関係しかなかった。「沈黙交易」という歴史的習俗は、そのことの証明になっている。先験的に「物々交換」をしていたら、こんなややこしい交換の仕方なんかするものか。

 

 

人間性の自然は「贈与=プレゼント」をすることにあり、現代貨幣だって本質的にはそのことの上に成り立っている。

ただし資本家は、その本質に寄生しつつ、みずからはその衝動を持ってはならない存在でもある。

資本家が「贈与の衝動」に目覚めることはない。目覚めてはならない存在なのだ。この資本主義社会においては搾取をして蓄財することは正義であり栄光であり、その能力は、他者に対する無意識的な「悪意=憎しみ」とともに育ってゆく。資本家は、その「悪意=憎しみ」を隠し持ちながら民衆の「ときめき」に付け込んでゆく。

現代社会は、「悪意=憎しみ」が培養される構造になっている。もしかしたらそれは、民主主義の世の中になったからかもしれない。もともとそれは政治家や資本家の社会で特徴的なメンタリティだったが、今や民衆社会にも広がっている。原初以来の普遍的な人間性の自然としてときめき合い助け合うことを基礎にして動いていたはずの民衆社会も、今やまるで権力社会の権力闘争のように「悪意=憎しみ」をため込んで競争する社会になってしまっている。

ソ連の崩壊とともに東西冷戦の時代が終わり、一時は資本主義社会の正当性が証明されたようにいわれていたが、ここにきて資本主義の先頭ランナーだったアメリカの衰退がはじまり、かえって資本主義社会の矛盾が露呈してきた感がある。

競争だけの社会だからこそ、「悪意=憎しみ」が意識の底に沈殿しながら、取り除くことが不可能の状態で社会全体に広がってゆく。今やわれわれのこの社会は、目に見えぬ「悪意=憎しみ」が縦横に張り巡らされている。善人ばかりの世の中で、しかし誰の中にも「悪意=憎しみ」が潜んでいる。天国のような地獄……そんな世の中を自画自賛している権力者やネトウヨの気が知れない。

 

 

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キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。