最後の大逆転=サプライズ=奇跡?はあるか?

7月12日、品川での「れいわ祭り」は、やはりすごい数の観衆で盛り上がっていた。2年前の衆議院選挙における枝野旋風のとき以上だった。もしかしたら、史上最高の選挙街宣かもしれない。というか、選挙街宣という以上に、まさにひとつのお祭り(=フェスティバル)として盛り上がっていた。

立候補した10人は、みな政治家としては未知数だが、ひとりひとりがそれぞれ人として魅力的(チャーミング)だった。観客は、そこに拍手して盛り上がっていった。

6年前に山本太郎が当選したときのサプライズだって、その政策がどうのいうよりも彼の人間的な魅力に票が集まったのだった。

とはいえ今のところテレビマスコミは、これを社会現象として報道することはしない。これも、異常だ。民主主義になったはずの戦後社会において、これほどあからさまな報道規制がなされたことはない。

現在の政権与党や資本家たちは、このムーブメントを封じ込めてしまおうと躍起になっている。都合の悪いことはなかったことにしてしまう……彼らは、それが正義だと思っているから、どんな卑劣な手を使っても潰しにかかる。その先兵が、ネトウヨと呼ばれる者たちだ。彼らは民衆社会の「嫌われ者」で、民衆に対する「憎しみ」で動いているから、その手口や言動はきわめて卑劣で執拗だ。

山本太郎とれいわ新選組のムーブメントを潰そうとする勢力は、この国の支配層だけでなく、民衆の中にもいる。そして、既存の野党勢力からも敵視されている。まさに四面楚歌。彼らそこからの突破を試みているわけで、それを支持する民衆の数はどんどん増えていっている。

このまま盛り上がっていって、最終的には1000万以上の票を獲得するのだろうか。それとも大方の予想通り2~300万票程度の小波乱で終わるのだろうか。

いずれにせよ、まったく無風のままで選挙が終わればこの国は完全に壊されてしまう、という意見は多い。現政権は信任されたという空気になり、憲法は変えられ、消費税をはじめとする庶民にかけられる税負担はますます重くなり、「もう生きてゆけない」と悲鳴を上げる者はさらに増える。だが、そうなっても、権力者や富裕層は少しも困らない。無知で無力な者たちほど支配しやすい相手もいない、そして百人の貧乏人がより貧乏になることはひとりの金持ちがより金持ちになることであり、今の世の中のお金はそうやって動いている。

 

 

どうしてこんなひどい仕組みの世の中になってしまったのか。まあ、いろんな「歴史のいたずら」が重なってのことだろうが、支配されやすい日本列島の民衆の民族性ということもあるし、世界的にはソビエト共産主義が崩壊したことによって資本主義が暴走してしまったということもあるのだろう。つまり、「金が天下」の世の中になり、拝金主義が旺盛なほんの一握りの富裕層によって世界の富が独占されてしまっている。

すでに出来上がってしまったこの仕組みを変えるのは、おそらくかんたんなことではないに違いない。現在において金を稼ぐことは正義だし、みんなが稼ぎたがっている。

資本主義が、共産主義に勝利したのだ。その勢いで金持ちは、いかに効率よく金を稼ぐかということをひたすら追求している。その情熱を、われわれ人類は冷ますことができるか。それはもう、人類全体の価値観や世界観や人間観を変えなければ実現しないことなのだろう。その絶望に立って変えていかないといけない。権力者を引きずり下ろすとか、そんな政治的な綱引きだけで変えられることではない。権力者だって、現在のこの社会システムの歯車の一つにすぎない。とくにあの総理大臣なんか、頭の悪いただの操り人形にすぎない。そのまわりに、無数のシステムの従僕たちが群がりのさばっている。

選挙戦最後の一週間。現在のマスコミは、はたしてこの山本太郎現象を報道するだろうか。報道されなければ、奇跡が起きて現在の政治状況に大きく風穴を開けるということにはならない。ネット社会という、コップの中のささやかな空騒ぎに終わってしまう。そうして、一部の既得権益者たちの安堵と高笑いとともに、この社会の地獄への行進はさらに加速してゆくことだろう。

狂っている。まったく狂っている。そんなこの社会のシステムを変更することは可能だろうか。それには、人々が心を入れ替える、ということが起きねばならない。あの連中だけでなく、われわれだって狂ってしまっている。みんなでこの拝金主義的資本主義社会の狂ったシステムを動かしているのだ。

パラダイムチェンジが起きないといけない。しかしそんな社会が実現するのは、われわれみんなが死に絶えてからのことだろうか。絶望しなければならない。みんな間違っていた、と絶望しなければならない。絶望の向こうにこそ希望がある。

 

 

ひどい世の中だ、と絶望しないといけない。

われわれ大人たちは、子供の前にひざまずかねばならない。生きられないこの世のもっとも弱いものにひざまずかねばならない。美しいものは絶望の向こうのこの世の外で生成している。感動するとは、心がこの世の外に超出してゆくことだ。生きられないこの世のもっとも弱い者たちは、絶望してこの世の外の世界を見ている者たちであり、この世の外の世界からの使者=贈り物なのだ。そうやって山本太郎は、二人の重度障碍者を「特定枠」に据えた。やまとことばでその心意気を「祀り上げる」という。

祀り上げるということをしないと、人の世はまとまりがつかない。「まつる」とは「まとめる」こと。みんなの昂揚感=心意気がひとつになってゆくことを「祭り」という。

人の心は、この世の外に超出してゆくときにもっとも昂揚する。そういう昂揚感が起こる場を「祭り」といい、その体験をもとにして人の集団は無限に膨らんでゆく。その本質においては、原始時代だろうと現代だろうと同じなのだ。

俗にまみれていない天皇を祀り上げることと、俗にまみれた権力者を祀り上げることと、いったいどちらが世の中を美しく豊かにまとめ上げることができるだろうか。天皇は国民統合の象徴である、という。じつはそれこそが起源としての天皇の姿だったのであり、それは、この国の現在の民主主義にとってもけっして悪いことではないだろう。

人間は、何かを祀り上げて生きている存在であり、それによって猿のレベルを超えた大きな集団を成り立たせている。だったら、俗にまみれていない「天皇」や「生きられないこの世のもっとも弱い者」を祀り上げようではないか、美しく豊かな人の世であるために。

今回の選挙で山本太郎がしていることは、まさに天皇制にかなっていると同時に民主主義そのものでもある。「美しい人の世」は、絶望の向こうに存在しているのであり、人は永遠にその世界を夢見て歴史を歩んでゆく。

絶望するとは、自分が自分であることに絶望することであり、人間であることに絶望することであり、生きものであることに絶望することだ。そうやって人は、自分のことなど忘れて(消し去って)世界や他者の輝きにときめいてゆく。言い換えれば、自分のことを忘れて(消し去って)いるときにはじめて世界は輝いて立ち現れる、ということだ。人間なら誰の心の底にもそういう絶望が疼いているのであり、だからこそ自分を忘れて世界の輝きにときめくという心の動きも起きてくる。

山本太郎の演説は、自分をかなぐり捨てて言葉に憑依し、他者に手を差し伸べようとしている。そのラディカルなひたむきさと熱さが人の心を揺さぶる説得力になっている。

山本太郎のれいわ新選組は、だれもが自分を後回しにして二人の「特定枠」を祀り上げている。もしかしたらこの二人しか当選できないかもしれないような状況なのに、それでもほかの者たちのだれも不足をいわなかったし、そうやって「祀り上げる」対象を共有してゆくことによってより豊かな「まとまり」が生まれてくる。もっとも強いものではなく、もっとも弱いものを祀り上げてゆく……それが、ほんらいの天皇制の精神なのだ。

 

 

今回のれいわ新選組の選挙戦は、マスコミから完全に無視されてきたから、大きなハンディキャップを負っている。他の政党を凌駕するその街頭宣伝活動の盛り上がりをどれだけ広げることができるか、それがカギになる。つまり、「クチコミ」がどれだけ広がるか、ということ。それだけであと1週間のうちに全国的な認知度を高めるというのはほとんど至難の業であり、多くの選挙通が「ありえない」と評している。もしもそれが起きたら「奇跡」以外の何ものでもない。

しかし人間の世界ではしばしばその「ありえない」ことが起きるわけで、それを起こさせるのが人間ならではの「コミュニケーション」のダイナミズムなのだ。

人間的な「コミュニケーション」とは、たんなる「伝達」のことではない。「ときめき=感動」が伝わり広がってゆく、ということだ。まあ「怒り」や「かなしみ」もひとつの「ときめき=感動」であり、そういう「人情の機微=感慨」が広がり共有される範囲において「国家」という名の「言語圏」が成り立っている。

人間は良くも悪くも猿以上に豊かな「心の動き」とそれにともなう「言葉」を持っている生きものであり、人の世ではそういう「人情の機微=感慨」が「クチコミ」によってたちまち広がり共有されてゆく「奇跡」がしばしば起きる。

現在のこの国の情況は、金儲けが正義であるかのような新自由州主義や差別主義等の社会システムにどんよりと覆われ、人と人の「コミュニケーション」の関係が希薄なってしまっているわけで、今回のれいわ新選組現象は、われわれ日本列島の伝統であるそういう人としての「コミュニケーション」の関係を取り戻すことができるかという「戦い=試金石」だともいえる。

「ことだま」という言葉のほんらいの意味は、「コミュニケーション」であり、「人と人のときめき合う関係を生み出すもの」を指している。つまり、人と人の「語らい」を豊かにするものが「ことだま」なのだ。「ことだま」は、言葉の中にではなく「語らい」の中に宿っている。そうやって日本列島では、古くから人や物や文化の往還が全国的に広がっていた。わけで、古事記によれば、当時の奈良盆地の人々は列島中の様々なことを知っていたことがわかる。そこは、列島中から人や物や文化が集まっている場所だったわけで、奈良盆地が一種の「聖地」であることを列島中の人々が知っていた、ということだ。

民衆の「クチコミ」が広がれば、思わぬ票が集まる。この部分においては、どんな選挙通もマスコミも、まだ読めていない。現在のこの国の民衆に広がる空気感、リチャード・ドーキンスは、これを「ミーム」といった。

金持ちや権力者がのさばり、差別や憎しみがはびこる……いい加減もう、こんな殺伐とした世の中はごめんではないか。

やさしさや人恋しさは、だれの心にも宿っているではないか。

 

 

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キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

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『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

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