天皇制と民主主義とれいわ新選組

天皇は、人間社会に対する「贈り物」であり「生贄」でもある。それはまた、人がこの世界に存在することの本質でもあり、天皇はそれをもっとも純粋に表している「象徴」的な存在なのだ。

日本人が天皇という存在を生み出したことは人類史の必然であり、天皇は人類共有の宝物である。だからこそ、「天皇は支配者として遠い昔の奈良盆地にやってきた」という嘘っぱちの物語をまことしやかに語るべきではない。それは、後世の権力者が、権力支配の都合のためにでっち上げたたんなる作り話にすぎない。

起源としての天皇は、古代以前の奈良盆地の人々が生み出し祀り上げていった奈良盆地の「宝物」のような存在だったのであり、支配者ではなく、「この世のもっとも美しい存在」であり「生贄」でもあった。

「生贄」とは、本質的には「神への捧げもの」であり、人間なら誰だって死んでゆく者を畏れ祀り上げる気持ちはある。罪人を処刑することだって、心の底ではそういう気持ちが起きている。だから、昔のさらし首や絞首台・断頭台に多くの人が集まってきたのだろう。ただ悪を排除してホッとしたいためだけではない。怖いもの見たさというか、死の尊厳に立ち会っている、という思いがどこかしらで疼いている。

したがって「生きられないこの世のもっとも弱い者」は、「死の尊厳」の象徴としてこの世に存在している。

さらには「美しいもの」もまたこの世の外の世界で生成しているのであり、「生きられないこの世のもっとも弱いもの」は、美の象徴でもある。

美しいものにときめくことは、心がこの世界の外に超出してゆく体験である。

人の心は、「この世」と「あの世」を往還している。人類は死を自覚する存在になったことによって、死者を埋葬するようになり、なおいっそう生きられない弱いものに手を差し伸べずにいられなくなり、さらには愛らしく美しいものに深くときめいてゆくようになった。それは、心がこの世の外の世界を夢見るようになった、ということだ。

 

 

原初の人類社会は、二本の足で立ち上がることによって、猿のようなボスリーダー制から決別し、無主・無縁の個体どうしのときめき合い助け合う関係をもとにしながらなりゆきのままに集団を運営してゆくようになった。つまり、ボスによって「庇護される」集団から、だれもが他者を「庇護する=庇護し合う」集団になっていったわけで、「庇護したい」という衝動によって人は人になっていったのだ。

まあ集団が100人200人の小さいときはよかったが、大きくなってくれば、さすがに集団をまとめるリーダーが必要になってくる。そのとき外からやってきた猿のボスのような支配者がいきなり命令してみんなを従わせるということなど、できるはずがない。何しろ、猿とは違う人間性の上に成り立った無主・無縁の集団なのだから、「命令に従う」という歴史など持っていない。であればそのとき、みんながあこがれやときめきを共有している対象をみんなで祀り上げていったのが、自然な歴史のなりゆきにちがいない。おそらく最初は、世界中どこでもそうだったのだ。

つまり、文明社会の発生以前のこと。文明社会になれば、呪術が生まれ、呪術師がリーダー=王になり、さらには戦争のときの軍隊のリーダーが王になっていった。しかしそれ以前の段階では、たとえばオオカミの群れのように、強くもなんともないが、みんながあこがれときめく対象がみんなによって選ばれていったはずだ。

縄文時代のように戦争などない時代に、猿の群れのような「強いものに従う」というような集団のかたちが生まれてくるはずがない。

人が人であることのゆえんは「庇護したい」という衝動を持っていることにある。

人は根源的にどのような対象にあこがれときめくか……これが、人類最初のリーダー像なのだ。それはおそらく、「現世的な強い者」ではなく、「庇護したい」対象としての「現世離れした愛らしく美しい者」だった。その「他界性=異次元性」こそ、人が根源においてあこがれときめく対象にほかならない。

人類の歴史が最初に選んだ集団のリーダーは、「もっとも強い者」ではなかった。そのとき人類には、「庇護されたい」という欲望などなかった。そんな欲望は、文明社会になって呪術や戦争が生まれてきてからのことだ。

原始社会は、「庇護したい」という衝動の上に成り立った「庇護し合う」社会だったのであり、そんな社会で人々があこがれときめく対象は、「愛らしく美しい者」であった。

「愛らしく美しい者」というなら、それは「処女=思春期の少女」であるにちがいない。現在の舞妓とか宝塚とかAKBとか、「処女=思春期の少女」は人類永遠の祀り上げる対象としての「女神」である。この時期の少女は、心がすでにこの世の外にさまよい出てしまっている。それはもう、原始人にもなんとなくわかるわけで、その気配を漂わせた姿に、彼女らの愛らしさと美しさと異次元性がある。彼女らは、この世のもっとも強いものよりもっと高貴で崇高な存在である。何より「庇護したい」対象でなければ、原始人は祀り上げはしない。彼女らの愛らしさと美しさは、はかない。人生の一瞬の輝きである。人は、それを「庇護したい」と思う。

「処女=思春期の少女」……人類の歴史が最初に祀り上げたリーダーは、「庇護してほしい」対象としての「もっとも強い者」ではなく、「庇護したい」対象としての「もっとも愛らしく美しい者」だった。

 

 

人類最初の集団のリーダーは、「処女=思春期の少女」だった。そしてその後の歴史においても「処女=思春期の少女」が「生贄」として選ばれ続けたのは、その名残だろうと思える。

ジャンヌ・ダルクを有名にした中世の「魔女裁判」とか、マリアの「処女懐胎」とか、人間世界の「処女」はつねに「女神」であり「生贄」でもあった。

ともあれ文明社会になって「支配=被支配」の関係が生まれてきたことによって、呪術の司祭である「王」が支配者として君臨するようになった。

しかし、もうひとつその前の段階がある。人類最初の支配者は、「母」である。

人類の集団が余剰のものを生産するようになれば、集団の象徴として選ばれた「処女」に人々が「捧げもの」をするようになってくる。そしてこの「捧げもの」を処女の「母」が管理するようになり、そのまま集団の支配者になっていった。

そういう愛らしく美しい娘を生んで育てたということは人々の尊崇を得ることになるし、この「母」によって、この「娘」を中心にした「祭り」などが仕切られるようになってゆく。

もともと「娘」にとっての「母」はいつだって「支配者」であり、「母」という女は先験的に「支配する」ということを知っている。

人類の集団が都市化してゆくときの、原始社会から文明社会に移ってゆく端境期においては、世界中どこでも「母」が支配者になっていたと思われる。

人類最初に「支配」の能力を身につけたのは「母」だったのであって、「王」ではない。「王」は、「母」の権力を模倣して登場してきたにすぎない。子供を庇護してやれば、子供を支配することができる。そうやって民衆を庇護することによって民衆を支配してゆくのが「王」である。彼は、民衆に「庇護されたい」という欲望=不安を植え付けることによって、民衆を支配してゆく。そして権力者のこの統治方法は現在まで続いているし、現在の歴史家はこの問題設定でリーダーの起源のかたちを考えることしかできていない。しかしそれ以前の歴史段階があったわけで、天皇の起源の問題は、文明発祥以前の歴史段階で考えられねばならない。何しろ日本列島の国家文明はどう長く見積もっても2000年以下なのだ。しかしそれ以前の弥生時代奈良盆地はすでに大きな都市集落を形成していたわけで、そこで祀り上げられていたリーダーは、民衆を庇護する「王=支配者」ではなく、民衆によって「庇護されるもの」であったに違いないのだ。

 

 

人間性の自然としての「庇護したい」という衝動……まあ鳥だってあたりまえのように雛を育てているし、若い雌の猿だって、生まれたばかりの子猿をかわいがることをしたがる。現在のこの社会は、そうした自然な衝動が健全に機能しているだろうか。そういう問題提起として、現在の若者たちのあいだから「かわいい」の文化のムーブメントが起きてきた。それはもう、人類史の必然だともいえる。だからそれが、「クールジャパン」として世界中に飛び火している。

現在のこの社会は、社会制度に「守られたい・庇護されたい・かわいがられたい・ちやほやされたい」という不安神経症的な欲望が満ち溢れている。それはもう、いちばん上の支配者から下層の庶民までみんなそうなのだし、もしかしたらこの国の総理大臣こそ、もっとも強いそうした不安神経症的な欲望の持ち主かもしれない。

まあ、今どきの右翼のナショナリズムなんて、「庇護されたい」という自意識の産物にすぎない。だから彼らは、どんなひどい国家も社会制度も、否定することはできない。否定しないことが彼らの存在基盤であり、国家や社会制度からこぼれ落ちていった人間は徹底的に否定し排除してゆくことによって、「自分は庇護されている」と確認している。

われわれは、現在の高度で複雑な文明制度によって植え付けられている「庇護されたい」という欲望を捨てて、人間性の自然としての「庇護したい」という衝動を取り戻さねばならない。

天皇は、「すでに庇護されている」存在であるがゆえに、けっして「庇護されたい」とは思わない。われわれもまた、そういう存在にならねばならない。誰もがそういう存在になるための社会のしくみとして天皇制が生まれ育ってきたのであり、天皇制はこの国の民主主義のよりどころなのだ。

われわれは、天皇ファシズムの道具にしようとする者たちから天皇を取り戻さねばならない。一部のオールド左翼のように「天皇なんかいらない」といっている場合ではない。天皇はこの国の民主主義にとってとても素敵な存在であり、われわれが愛らしく美しいものを愛でるような「庇護したい」という衝動を取り戻すための大切なよりどころなのだ。

天皇が愛らしく美しいのではない。愛らしく美しいものを愛でる心をもっとも深く純粋にそなえている存在なのだ。ほんとにそうかどうかということなどたいした問題ではない。この国は、天皇とはそういう存在であると思い定めて歴史を歩んできたのだ。

まあ「処女=思春期の少女」だって、この世でもっとも愛らしく美しいものを愛でる心を深く切実に抱えている存在であり、それが彼女らの表情やしぐさや立ち姿の愛らしさや美しさになっている。愛らしく美しいものは、この世の外の世界に存在する。天皇だって処女=思春期の少女だって、いわばこの世の外の存在なのだ。

 

 

人類の歴史が最初に祀り上げた集団のリーダーは、「この世のもっとも強い者」ではなく、「この世の外の世界の存在」だった。「この世の外の世界」こそ人類普遍の遠いあこがれであり、だから人は愛らしく美しいものを愛でたり祀り上げたりしてきた。

人は何かを「庇護したい」存在であって、「庇護されたい」のではない。まあ、幼児体験として「庇護されている」という実感が持てなかったからそういう欲望を持つようになる、という場合も多い。それは、ただたんに親から庇護されなかったというだけのことではない。「親に庇護された」という体験を大切な思い出のように執着すること自体がいじましいのであり、「庇護したい」という衝動を失っている証左であるともいえる。

この世の中には、さまざまな他者との関係において、「たがいに庇護し合う」という関係が生成しており、それは、「ときめき合う」という関係でもある。

人の心の「ときめき」は、「愛らしく美しいものを愛でる=庇護したい」というところから起きてくる。ときめき合う関係を持てないから、正義を振り回し、支配しようとしてくる。

ときめかれることなんかなくてもいい、ときめくことができるのなら、それで世界は輝いている。世界が輝いていれば、人は生きてゆける。人はだれもが一方的にときめいているのであり、「ときめかれている」ということなど確かめようもない。ときめく心を持っていることが、ときめき合っているということなのだ。

だれもが何かにときめいていれば、世界はときめき合っている、ということになる。

「庇護したい」という衝動は、「庇護されたい」という欲望の上に成り立っているのではない。それは、一方的な「ときめき」であり、無償の衝動なのだ。人の世は「交換」や「契約」の上に成り立っているのではない。無償の「贈与=ギフト」をせずにいられない「ときめき」が、人を人たらしめている。

親鳥が雛を育てて、どんな見返りがあるというのか。それは、自分の命を削っただけの行為だったのだ。しかし、この生を削ることの恍惚というものがある。この生を削ってこの生の外の世界を夢見ることなしに「ときめく」という体験は生まれない。「庇護する」ということには「この生を削る」ことの恍惚がともなっている。

「処女=思春期の少女」の「愛らしく美しいもの」に対する他愛ない「ときめき」は、自分を忘れて無意識のうちに自分の命を削っているひとつの自傷行為であり、彼女らは、存在そのものにおいてこの世界の「生贄」である。

「処女性」は人間性の根源のかたちであり、「処女性」はだれの中にもあるし、それこそが日本文化の伝統の本質なのだ。まあそういう意味で、国家や天皇に「庇護されたい」という今どきの右翼は「処女性」がなさすぎる。

「処女性」とは、「庇護したい」という衝動のことだ。だから小さな女の子はおままごとやお人形遊びをするのだし、思春期の少女は「愛らしく美しいもの」に他愛なくときめいてゆく。

今どきのネトウヨたちは、そういう「庇護したい」という衝動が希薄だから、無自覚に差別やヘイトスピーチに走ってしまう。

「対米従属」などといわれるように、現在のこの国では権力者がもっとも「庇護されたい」といういじましい欲望で生きているわけで、この悪しきというか倒錯した受動性は、下層の庶民や若者のあいだにも広がっている。

 

 

何度でもいう。「庇護したい」という衝動というか願いこそが人間性の自然であり、この国の伝統の本質なのだ。今回の参議院選挙で山本太郎が二人の重度障碍者を国会に送り込んだことは、もともとだれもが持っているはずの「庇護したい」という衝動を呼び覚ました。それだけでもう、社会制度に庇護され飼い慣らされながら停滞衰弱してゆくこの社会に風穴を空ける革命的な出来事だといえる。

国家制度に飼い慣らされて生きていた民衆に、意識の変化が起きはじめている。今がもっともひどい状況だが、だからこそ目覚めるときでもある。

「庇護されたい」などと思うな。国家など、どうでもいい。愛らしく美しい「小さな世界」を守ろう。その無数の「小さな世界」がきらきら輝いて集まっているのが国家であればいいのだし、そのために天皇制が機能しているのだとしたら、それはけっして否定されるべきものではないだろう。

人々の心に「庇護したい」という思いが共有されてゆくようにならなければ新しい社会は生まれてこないし、そうなってはじめて新しい社会になることの混乱にも耐えることができる。

新しい社会になれば、それまで既得権益に庇護されていた者たちがそれを失って大きな反撃を仕掛けてくるに違いない。それに負けたら、今よりもさらに強い反動化のファシズムが起きてくる。たとえば山本太郎が暗殺されて社会が一挙に暗転するとか、そんなこともあるかもしれない。

まあ今だって、保守系右翼によるれいわ新選組叩きは、かなりヒステリックだ。とはいえそういう反動勢力に勝てるのは、おそらく「愛らしくかわいいもの」や「小さな世界」を大切にしよう(庇護しよう)とする心の広がりであり、そのことにはどんな正義も正論も沈黙を余儀なくされる。それが日本列島の伝統であり、そのときのためにも、天皇制はあったほうがよい。

起源としての天皇は、「愛らしく美しいものを庇護したい」という人々の願いによって生まれてきたのであり、その願いとともに日本的な文化やメンタリティがはぐくまれてきたのだし、その願いこそがこの国の民主主義の推進力にならねばならない。

 

 

新しい社会を切りひらくためのリーダーは、「正しいもの」ではなく、「魅力的なもの」であらねばならない。

人類の文明制度は、「正義」という名の「正しいもの」に引きずられながら、こんなにも歪んだ世界を生み出してしまった。

文明社会における「正義」とは、「生き延びる」ことである。そうして近代の世界においては「生きものの本能は生きようとすることにある」と合意されてきた。

あのリチャード・ドーキンスでさえ「遺伝子のはたらきの根本原理は生き延びることにある」という問題設定をしているわけだが、おそらくそれは違う。命のはたらきの本質は、「命を消費する」ことにある。命を消費するために、個人の体においても生きものの世界においても、命はたえず再生産されてゆく。命のはたらきの最終的な目的は、命を消費することにある。そうやって生きものは死んでゆく。永遠に生き続けるなら「再生産する」ということになるのだが、死んでゆくのなら「消費する」ということが最終的なはたらきになる。「命を再生産する」こと自体が「命を消費する」というはたらきなしにはかなわない。ものを食うことは、口を動かし呑み込んで胃を動かすことであり、そうやって命を消費しなければならないわけで、それができなくなったら死んでしまう。

「庇護する」ことは、他者を生きさせるために「自分の命を消費する」ことである。鳥だって、そのようにして卵を温め雛を育てている。

「庇護する」ことは「ときめく」ことであり、「ときめく」ことは「自分の命を消費する」ことである。「ときめき」がなければ、「庇護しよう」という気にならない。「ときめき」こそが人類の人口を爆発的に増やしてきたのであり、学問の進化発展だって、問題を立てることの「ときめき」と答えを導き出すことの「ときめき」の上に成り立っている。「答えを導き出す」ことだって、本質的には「問題の中に隠された謎を救出する」という「庇護する」行為にほかならない。「ときめく」とは「庇護しよう」とする衝動なのだ。

まあ、山本太郎ほど「他愛ないときめき」と「庇護したい」という願いを深く豊かにそなえている政治家もいない。そうやって「生きられないこの世のもっとも弱いもの」である重度障碍者の二人を送り込んだわけで、彼は、民衆に向かって「みんなで<庇護したい>という願いを共有しよう」と呼びかけた。そうして民衆もまた、山本太郎のそんな人間的魅力に他愛なくときめき、それに応えていった。「応える」とは「庇護する」ということであり、相手の願いや呼びかけを「掬い上げる」ことだ。

ポピュリズムとは、「(国家に)庇護されたい」という民衆のいじましい欲望に付け込もうとすることで、それは「生きられない弱いものを庇護したい」という自分の思いを民衆に訴えた山本太郎の呼びかけとは真逆であり、そこに現在の政治のパラダイムシフトがある。

山本太郎は、ポピュリストではない。

 

 

れいわ新選組から立候補した安富歩はこういっている。

「れいわ新選組は左派ポピュリズム政党であるといわれているが、そうではない。れいわ新選組は、<左派>でも<ポピュリズム>でもないし、<政党>ですらない。それは、現在の社会システムからはぐれた<無縁者>の集まりである」と。

つまり、現在の社会システムを解体し新しく再生させるプランは、システムの外に立ってシステムを見ている者でなければ持てないし、だれもがシステムの外に立って「愛らしいもの=小さな世界」を見守る視線を持っている。彼の立候補の訴えは「子供を守る」ということで、「ポピュリズム」ではない、「普遍的」なのだ、ということだろうか。

山本太郎は「(現政権を)仕留めに行きます」といっていた。そして観衆が「おもしろい、やれ、やれー!」とはやし立てている。それくらい多くの民衆が現在の状況にうんざりしているし、彼らが求めているのは「正しい政治家」ではなく「魅力的な政治家」なのだ。枝野幸男から山本太郎へ……れいわ新選組を支持しているのは、庶民だけではない。多くの知識人からも評価されている。知識人だって、魅力的な政治家を待ち望んでいる。

人を動かすことができるのは、理性の上に成り立った「正義」ではない。マルクス主義は「正義」である。「正義」だからこそ、世界の社会主義国もこの国の戦後左翼も衰退していった。そうして皮肉なことに今や、保守とか右翼とか新自由主義を名乗る者たちがより声高に勝ち誇ったように「正義」を叫ぶ時代になっている。

つまり、「資本主義」という名の現在の社会システムは「正義」である、ということ。そのあげくに、ほんの一握りの富裕層によって世界全体が支配される仕組みになり、多くの民衆は心も体もそんな社会システムの奴隷になってしまっている。

こんなにも人間性の自然・本質から逸脱してしまったひどい社会システムなど壊してしまえ、と声を上げたらいけないのか?山本太郎とれいわ新選組はそう声を上げているわけで、そう声を上げたがっている民衆がたくさんいる。したがってそれは、何もSF未来的な「デストピア無政府状態」を目指しているわけではなく、「大きな政府」をつくりながら「人間性の自然・本質に帰ろう」と呼びかけているだけなのだ。そしてその「大きな政府」が、現在の右翼たちのように天皇を政治に利用しようとするのではなく、あくまで遠いあこがれととして祀り上げているだけであるかぎり、その「処女」のような他愛ない「ときめき」や純粋で誠実な政治スタンスは担保され続けるに違いない。

人間は「ときめく」生きものである。正義の時代は、終わった。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

>> 

<span class="deco" style="font-weight:bold;">蛇足の宣伝です</span>

<< 

キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。