人は美しいものに感動する

人が美しいものに感動するのはあたりまえのことで、それこそがこの世の無上のものだろう。なのに明治以来の大日本帝国や古代の大和朝廷は、天皇をサル山のボスに仕立て上げた。それによって民衆の支配は強化されたわけだが、僕が知りたいのは、それ以前のあくまで美しい存在としての天皇像なのだ。

令和という新しい時代になり、天皇とは何者か?ということを改めて問い直してみたいと考えている。

元号が代わっただけのことだが、それでも人々の中には、新しい時代を待ち望む心が芽生えてきているのではないだろうか。

僕は自分が天皇のことをどう思っているのかということはよくわからないし、興味もない。知りたいのは、日本人が歴史の無意識として共有している天皇の姿とは何か、ということであり、まあおぼろげに目星はついている。

元号が代わって人々の心があんなにも華やいだということは、日本列島の伝統としての新しもの好きの心は天皇の存在によって担保されている、ということを意味する。新しもの好きの心、すなわち進取の気性、進取の気性とは、新しいものを祝福する心である。

人は、祝福する心の形見として、贈り物をする。

天皇は「贈与=ギフト」の人である。

だから民衆も、一方的な無償の「贈与=ギフト」として天皇を庇護し祀り上げてゆく。

もともと日本列島の民衆は、「天皇はかくあらねばならない」というような議論などしてこなかった。天皇天皇であればそれでよい、これが基本だ。「万世一系」だとか「男系男子」であらねばならないとか、そんなくそ厚かましいこだわりは権力社会の中だけの話で、われわれ民衆はもう、無条件で天皇を祀り上げている。天皇は「天皇である」というそれだけでこの上なく尊い存在なのだ。天皇家のことにいちいち口をはさむなんて、はなはだ不純・不敬であり、天皇を支配し利用したい連中がそんなことにこだわっているだけだろう。天皇をそういう連中の支配下に閉じ込めてしまってはいけない。彼らの汚れた手から天皇を救出しなければならない。

天皇家のことは天皇家で決めてくれればいい、それこそがほんとうの意味での「万世一系」だともいえる。権力社会がいちいち干渉してゆくことによって、天皇家の血筋も伝統文化も壊されてゆく。

国家の存続のために天皇が存在するのではない。天皇は、国家(=大和朝廷)成立以前の奈良盆地ですでに存在していたのであり、国家を持たない歴史段階の都市集落におけるシンボル的存在としてみんなから祀り上げられながら生まれてきたのだ。

まあ世界中どこでも国家の成立以前はそのようなシンボル的存在が祀り上げられていたのであり、そういう意味で天皇は、「日本的」というよりも、「原始的」であると同時に「普遍的世界的」な存在でもあるといえる。

天皇は、その本質において「国家護持」のために存在しているのではない。民衆社会のときめき合い助け合う関係のよりどころとして生まれてきたのであり、今でもそれは民衆の歴史の無意識として引き継がれている。

 

 

今どきの歴史家たちに問いたい。

あなたたちは原始社会がどのようにいとなまれていたのかということを、人間性の自然・本質に沿ってちゃんと考えているのか。アニミズム=呪術に支配された社会だったとか、階級社会だったとか、そんなことは国家制度とともに起きてきたことであり、現代社会がいかに呪術的で階級差別的であるかということを考えれば、それを原始社会にも当てはめることなんかできるはずがない。呪術や階級差別がどんどん高度で複雑になってきたのが、文明社会の歴史なのだ。国家制度がはじまった古代社会は呪術性や階級制が強かったのではなく、プリミティブで単純だっただけであり、現代社会のほうがずっとそうした観念が高度に複雑に発達している。

原始社会には、陰謀論も都市伝説もカルト宗教もなかった。人間の集団がどのようにすればスムーズに活性化するかといえば、みんなでときめき合い助け合うこと以上に有効な方策など何もない。それだけのこと。世界中のどこの地域でも過酷な条件下で生きていた原始人は、みんなで助け合う以外に生き延びるすべはなかったのであり、彼らはそのことを追求しながら歴史を歩んでいたに決まっている。

みんなで助け合う社会になるためにはどんなリーダーが必要かといえば、サル社会のような強いボス(=支配者)ではなく、オオカミの群れのようなみんなから慕われ選ばれる存在であらねばならない。それによってみんなの心が通じ合い、ときめき合い助け合う関係が生まれてくる。

原始社会は、ひとりの強いリーダーによって守ってもらえるような生易しい環境ではなく、みんなで助け合わねば生きられなかった。

氷河期が明けて一か所にたくさんの人々が定住するようになり、農業などが発達して余剰のものを生産できるようになると、それを収奪し合う争いが内部で起きてくるし、集団どうしが戦争をするようにもなってくる。これが文明国家の発生であり、そうなってはじめて集団を統制する強いボスが必要になった。

文明国家の発生までの人類700万年の歴史の99・9パーセントの期間は、ときめき合い助け合わないと生きられなかったし、そういう関係を進化発展させたことによって、猿のレベルを大きく超えていったのだ。

もともと人類は「猿よりも弱い猿」だった。二本の足で立ってふらふらうろつきまわっている猿が、強いはずがないではないか。だからアフリカのジャングルという住処を追われ、地球の隅々まで拡散していったのだが、しかしそれによって「ときめき合い助け合う」とか「生きられない弱いものを生きさせる」という関係の集団性は飛躍的に発展していったわけで、それこそが人が人であることのアイデンティティというか存在証明なのだ。

 

 

今どきの歴史家は、人類700万年の歴史のわずか0・1パーセントにすぎない文明社会の歴史の尺度で人間の本性を測ってしまっている。

だから、原始時代にも呪術や階級があった、というような決めつけをする。人類の歴史はあるとき呪術や階級が生まれてくるような「状況」に置かれたのであって、ほおっておいても自然にそれが生まれてくるような人間性を持っているのではない。

人間性とは何か?

凡庸な政治学者や社会学者が、れいわ新選組はただの左派ポピュリズムであり、そのブームも一過性のものとしてすぐにしぼんでしまうだろう、というとき、その現象が深く人間の本性にかかわっているということに気づいていないし、無意識のところで気づいているから怖がってヒステリックに攻撃したり蔑んだりする。

しかしれいわ新選組はまさに、人間性の自然・本質としての「生きられない弱いものを生きさせる」とか「ときめき合い助け合う」という関係の集団性に訴えてブームを起こしているのであり、状況しだいではさらに盛り上がってゆく可能性もなくはない。

これは、人類の歴史の無意識の問題であり、同時に日本人の歴史の無意識としての天皇制の本質の問題でもある。

起源としての天皇制は、人々がときめき合い助け合う社会をいとなむためのよりどころとして生まれてきたわけで、今どきの歴史家が、そうではなく「支配者として登場してきた」という問題設定に終始しているのも、けっきょく原始社会にもアニミズムや階級があったという先入観にとらわれているからだろう。

天皇によって支配統制される社会なんか、この国の伝統でもなんでもない。天皇はほんらい、支配統制する存在ではなかった。われわれ民衆が歴史の無意識として祀り上げている天皇という存在は、そのような「支配者」の姿をしているのではない。右翼は「支配者」だからありがたいといい、左翼は「支配者」だからよくないという。どちらも間違っている。天皇は長くじっさいの権力者によって「支配者」であるかのように偽装され続けてきたが、実質的にそうだったことなど一度もない。

たとえば、歴史教科書的には聖武天皇が大仏建立を祈願したということになっているが、じっさいはまわりの権力者たちがそのように偽装しただけであり、そうしないと全国から人や金を集めることができなかったからだろう。明治天皇聖徳太子は、偉大な統治者のように言われているが、とてもそれが真実だとは思えないし、聖徳太子にいたっては実在しなかったという説もある。歴史なんか、ときの権力者によっていくらでも捏造できるし、この国には捏造しても許されるような精神風土がある。

九州の山奥の小さな村落があるとき「われわれは平家の落人の子孫だ」ということにしてそれを代々伝承してゆけば、いずれはまわりからもそれが真実であるかのように思われてくる。

火焔土器」といえばなんだか呪術めいたイメージを持たれがちだが、その複雑な模様は川の流れの渦巻きやしぶきに由来しているのではないかという説もあり、縄文時代に呪術が存在していたという明確な根拠など何もない。歴史家が勝手にそう決めつけているだけであり、国家も戦争も本格的な農業もない非文明制度的な社会から呪術が生まれてくることなどありえない。呪術とは、つまるところ「自然=運命」を支配しようとする文明制度的な思考から生まれてくる作法であり、それに対して原始人は、「自然=運命」と和解しようとしていただけだろう。その、人としての率直な心映えの上に原始社会が成り立っていた、と考えるべきではないだろうか。

 

 

少なくとも原始時代の衣食住に関しては、余剰のものなど何もなかった。したがって文明社会的な支配関係から生まれてくる「搾取」や「階級」など存在するはずもなく、みんなで貧乏してみんなで助け合いながら暮らしていただけだろう。

だれも余分なものは持っていないのであれば、「交換」という行為もなかった。あるのは、親鳥が雛に餌を与えるような、「贈与=ギフト」という行為があっただけだろう。そして余剰のものはなかったのだから、それはとうぜん「自分を犠牲にして他者を生きさせる」というかたちになっていたに違いない。集団で獲得した食べ物は、まず子供や病人や老人から食べさせた。

起源としての貨幣であるきらきら光る貝殻や石粒はだれもが大切にしているものであったが、それを衣食住のものと交換したかといえば、だれも余剰のものは持っていないのだから交換しようがない。しかし「贈与=ギフト」の形見としては最高のものになった。だから、死者の埋葬に際しては、惜しげもなくそれを捧げた。2万年前のロシア・スンギール遺跡で村中のビーズの玉が死者の棺に収められていたのはそういうことの考古学的証拠であるし、古代の中国で銅銭がどんどん市場から消えていったのも、まあ同じ理由にちがいない。だから中国・台湾では、今でも葬式にはレプリカの紙幣を棺に収める習俗が残っている。

貨幣の機能の起源と本質は「贈与=ギフト」にあるし、それが普遍的な人間性でもあり、原始社会はそれによって成り立っていた。彼らは、「交換」という文明社会的な駆け引きなど知らなかった。

貨幣は、物々交換の不足を補完する道具として生まれてきたのではない。文明社会において貨幣が交換の道具になってきたことによって「交換」という観念が発達し、やがて物々交換をするようになってきただけのこと。

現在の未開の民族が貨幣を持たず物々交換しているといっても、彼らだって「交換」という観念が発達した現在の世界の一員なのだ。人と人が争ったり駆け引きしたりするようになって、はじめてそういう観念が芽生えてくる。人間世界の観念は、なんとなくいつの間にか地球の隅々まで伝播してゆく。それが人間という種の生態であり、その現象をリチャード・ドーキンスは「ミーム」といった。

今やもう、地球の隅々まで文明制度の観念に染まっているわけで、未開の民族だって例外というか無傷ではない。

とにかく原始社会には文明制度などなかったのであり、そこで人がどのように思い、どのように考え、どのように行動するかということに対する想像力が、今どきの歴史家たちにどれほどあるのだろうか。

原始社会は、文明として未熟だったのではない。文明制度そのものがなかったのだ。彼らは、今どきの歴史家が考えるような未熟な戦争や未熟な呪術をしていたのではない。戦争も呪術もなかったのであり、文明人よりももっと純粋に率直にこの生やこの世界と向き合って生きていたのだ。

縄文人ネアンデルタール人も、余分な衣食住など何もないぎりぎりのところで生きていたのであり、そのうえで奪い合っていたら、人類はとっくに滅びている。しかも平均寿命は30数年で、乳幼児の死亡率もとても高かった。それでも生き残ってくることができたのは、だれもが与え合いときめき合い助け合っていたからであり、だれもが「生きられない弱いもの」をけんめいに生かそうとしていたからだ。そうして、たくさんセックスしてたくさん子を産んでいったからだ。

「原始社会を文明社会の物差しで計量すべきではない」とは、ほとんどの歴史家がいっていることだが、そういいながら彼らの人間観や世界観は、文明社会の通念から一歩も抜け出ていない。だから原始的な戦争や階級や呪術があったといい、貨幣の本質は「交換」にあるといい、起源としての天皇は支配統治者だったという。原始人の率直で人間的な心がどのようにして集団のリーダーを選んでいたかということは、現在の文明制度にからめとられた思考回路からは見えてくるはずがない。

 

 

けっきょく原初的な心とは「生きられない弱いものを生きさせたい」という願いのことであり、それによって人類の歴史は進化発展してきた。

山本太郎は、原始人である。心が文明制度に汚されていない。ひたむきでまっすぐで、裏表がない。頼りになるかどうかはわからないが、信用することはできる。頼りにならなくてもいいのだ。信用できるのなら、安心してみんなで盛り上げてゆくことができる。盛り上げてやれば、本気で突っ走るにちがいない。それがまあ、人類普遍のリーダーの選び方で、サル山のボスとは違う。だれだって元気になりたいし、まわりとときめき合い助け合ってゆきたい。人々は、おそらくそのような気持ちで彼の演説に感動していたのだろうし、そのときだれもが原始人の心を呼び覚まされていた。

原始人の心を取り戻さなければ、現在の高度な文明社会のシステムに囲い込まれたこの閉塞した状況は変わらない。

そして、れいわ新選組のほかの候補者たちもみな、そのような気配を漂わせている。山本太郎は「本気の大人たちを選んだ」といっているが、彼のいう「本気」とは、「原始人の心」すなわち「ひたむきで純粋な心を失っていない」ということで、たいていの大人たちは文明制度に呑み込まれてそれを見失っている。

いや、若者や子供たちの心だって、現在の高度で複雑な文明制度に呑み込まれて停滞し荒廃しかかっているのかもしれない。こんなひどい世の中になってこんなにも愚劣な総理大臣が登場してくるなんて、なんと皮肉な歴史のめぐりあわせであることか。このままではこの国が沈没してしまうという声も多いが、このままでいいのだと居直る者たちが権力の中枢にいて、民衆の多くは途方に暮れている。

山本太郎とれいわ新組は、そういう途方に暮れている者たちの心を呼び覚ました。だれの心の中にも息づいている「生きられない弱いものを生きさせたい」という原初の願いを呼び覚ました。

そしてそれは、この国の天皇制の問題でもある、ということ。

 

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