祭りの賑わい

僕は、インテリの頭脳だけが優秀だとは思っていない。どんな高級インテリだろうと、その思考の限界というのはある。

たとえ東大教授だろうと、知ったかぶりして偉そうなことをいわれても、その思考の浅さにほんとにむかつくときがある。

しかしどんなに気に入らなくても、それが正しいと思えるのなら、何も言えない。言えないから、学歴差別がはびこる。何のかんのいってもみんな、東大は正しくて偉いと思っている。むかつくなら、たとえ庶民でも「それは間違っている」といえる思考を持たなければならない。ただ感情的に東大という権威に反発しているだけなら、たんなるコンプレックスの裏返しにすぎない。

僕は東大教授より深く考えている部分を持っている。じっさい東大教授から「あなたに教えられた」といわれたことだってある。そりゃそうさ、だれだって人より優れた自分だけの知の領域を持っている。

僕は、先日の参議院選挙でれいわ新選組から立候補した安富歩東大教授の「子供を守る」という政治原理の思想にはげしく同意し、その研究領域の広さと深さと正確さには大いに尊敬し感服しており、現在のこの国の第一級のインテリだと思っている。とはいえ彼に対してだって、何を知ったかぶりして底の浅いことをいってるのか、と思うことはある。

彼は論語の新しい解釈を提唱する本を出しているのだが、当人が自負するほど斬新で画期的な解釈だとは僕には思えない。つまり、知ったかぶりして何を偉そうことを、東大教授なんてこの程度のものか、と。

僕は論語のことなんかほとんど興味もないが、そんな僕でさえ「それは違うだろう」と思ってしまうことがいくつもある。

たとえば論語の冒頭の「学びてときにこれを習う、またよろこばしからずや」という語句は有名だが、この一般的な解釈は「学んだことを復習するのはよろこばしいことだ」ということになっており、安富氏は、この最初の部分は「学んだことが身につくのは……」と訳すべきだといっているわけだが、まあどっちもどっちで薄っぺらな解釈だ。

「学」と「習」、中国だろうと日本列島だろうと古代人はそれらの言葉をどのように使っていたのかという時代的な考察がなさすぎる。

「学」といっても、本も学校も新聞もなかった古代には「お勉強」というようなものなどなかったのである。「学」をそのままあっさり「お勉強」ととらえてしまうのは、いかにも「勉強オタク」の東大脳が考えそうなことだ。小林秀雄は、「まなぶ」とは「まねる」ことだ、といったりしているが、これだって「勉強オタク」のセリフでしかない。

「学=まなぶ」の「まな」の語源は、「不思議なもの」あるいは「(不思議なものに)驚きときめくこと」をいい、中国語の「学(がく)」という音韻そのものも「愕然とする」といったりするように、語源的には同じようなニュアンスにちがいない。

つまり、古代における「学=まなぶ」は、「なんだろう?」と問うこと言ったのであって、「お勉強をして何かを知る」ことでも「まねる」ことだったのでもない。とくに論語では、「知ったかぶり」を戒めつつ「不知」という概念を肯定的に認識し、「不知を自覚して常に<問う>ということをせよ」と繰り返し説いている。

そして「習」は「習慣」「習練」の「習」で、「反復」を意味する。中国語の「習」であれやまとことばの「習う」であれ、それは「トライする」というようなニュアンスで、知るまでの「過程」のことをいうのであって「知る=身につく」ことを言っているのではない。中国だろうと日本列島だろうと、古代人の知の探究のテーマは「道」ということにあったわけで、それは「過程」を意味するのであって「知る=結果」のことなど感情に入っていなかった。ひとつのことを知れば、そこで三つの「問い=疑問」が生まれる。そうやって「知る」という「結果」には永遠にたどり着けないのだ。

安直に「知る」という概念をもてあそんで「知ったかぶり」をしたがるのを「東大脳」といい、それは現代人一般の傾向でもある。

したがって「学んで時にこれを習う」は、ようするに「つねに<疑問を抱く>ということをせよ」といっているのだ。

東洋的な「道」とは「問う」ことであって「わかる=決定する」ことではない……ということを、既存の論語研究者だけでなく、安富歩氏だってわかっていない。そしてそれは、無学な一般庶民の大工とか板前とかの職人ならみんな知っていることだ。

論語は昔からインテリのもっとも大切な教養のひとつになってきたが、その思想の素晴らしさは、知ったかぶりした注釈家の思考の底の浅さを浮かび上がらせてくれることにある。

僕は論語の思想なんかしょうもないとずっと思っていたが、それは孔子の思想ではなく注釈がしょうもないのだということがこのごろ分かった。

 

 

もうひとつ安富氏の論語解釈に対する異論・反論を書いておく。

学而1の1の3……人、不知にして不慍、また君子ならずや。

一般的な注釈では、この場合の「人不知而不慍」を「人に知られていないことを怒らない」となっているが、安富氏は「(何も)知らない人に対しても怒らない」と解説しているわけだが、僕はどちらもだめだと思う。

彼らの「不知」に対する解釈も「不慍」に対する解釈もおかしいというか、底が浅い。

論語における「不知」という概念はとても重要で、孔子はそれをつねに肯定的に語っている。にもかかわらず一般の注釈家も安富氏も、これをネガティブな意味にとらえており、それはあまりにも安直で不用意なのではないか。偏差値自慢のインテリの陥りそうな罠だ。そんな底の浅い解釈はしてくれるな。

孔子がここで言いたかったのは、ソクラテスと同じような不可知論で、「知らない」という自覚=認識こそが学問の道である、ということではないだろうか。ひとつのことを知ればそこに三つの「不知=疑問」が生じる……「知る」ということのパラドックス、それが学問の道だ、と孔子はいっている。

「道」とは「過程」のことで「解答=決定」など永遠に得られない……というのが東洋思想の肝であり、「知」とは「永遠の不知」のこと、そういうパラドックスこそ論語の底に流れる思想の姿なのだ。

そして「不慍」の「慍」は、仏教でいう「増上慢」のことで、「不慍」とは「いい気にならない」とか「知ったかぶりをしない」というようなことで、「怒らない」ということではない。「不知をよく認識してむやみに知ったかぶりをしない人」といっているのだ。

古代の日本人は、この「慍」に「ふつくむ」というやまとことばを当てた。「ふつくむ」とは、まあ「ふくらむ」の類似語で、「虚勢を張る」とか「居直る」というような意味で、古代の日本人のほうが世の注釈家よりずっと「慍」の意味を正確にとらえている。

古代の日本列島は2000年以上前の孔子の時代と同じように、「非文字文化」の時代から「文字文化」の時代に移ってゆく端境期にあった。新しい時代に踊らされて「知る」とか「知ったかぶりをする」ことの底の浅さがよくわかっていたのだろう。

「学ぶ」というのは「知らない」「知りたい」という衝動を募らせることだ、と孔子はいっている。だからここでは「不知(の自覚・認識)」こそ大切なのだと説いているわけで、「人に知られていないことを怒らない」とか「何も知らない人を怒らない」とか、そんな安っぽい説教をしているのではない。

インテリゆえの思考の底の浅さ、というのはやっぱりあるわけで、ほんとうは名もない民衆のほうがよほど深く考えていたりする。名もない民衆は「言葉」に対する知識が足りないからそれをうまく表現できないだけのことだ。しかし思考は「言葉」でするのではない。思考の結果が「言葉」になる。思考を言葉にできる能力はインテリのほうが圧倒的に優れているが、その思考の結果としての「言葉」が「人に知られていないことを怒らない」とか「何も知らない人を怒らない」では話にならないではないか。その思考は、あまりにも底が浅い。名もない民衆や古代人は、言葉にできなくても、じつはもっと深いところを考えている。

現在の「文字文化」に毒されたインテリでは、古代人の心に推参することはできない。現存の論語注釈なんか、中国だろうと日本だろうと文字文化に毒されたインテリのものばかりだから、原典の思想から逸脱してしまっている部分は少なくないにちがいない。

古代の心や人間性の自然・本質に迫る思考は、名もない民衆のほうがずっと深く確かにそなえている、ただ言葉がないだけで。

 

 

ほんとにひどい世の中になってしまったもので、安富氏は「この状況を変えるためには<子供を守る>という生命原理を政治原理として国民全員が再認識しなければならない」という。つまり、どんな政策でもかまわないからその「原理」だけは大切にしよう、と呼びかけて彼は立候補した。

世界は「多様」だが、「原理」はひとつだ。

今どきは「多様性の尊重」とか「表現の自由」という名のもとに、信じられないような「差別」や「ヘイトスピーチ」が横行している。しかし「差別」や「ヘイトスピーチ」など、自由でも多様性でもなく、人間性の自然・本質に照らせば、もともと存在するはずがないものだ。だから安富氏も「LGBTなど存在しない」といっている。差別する者も差別される者も、もともと存在するはずがないのだ。人としてもともと存在するはずがない「差別」や「ヘイトスピーチ」を繰り返しながら「自由」だの「多様性」だのと言って居直るのは、人として精神を病んでいる証拠であり、そんなものは「自由」でも「多様性」でもない。多少の後ろめたさがあるならまだしも、彼らはそれが正義であるかのように主張してくる。こんな醜悪な人間が横行している世の中とは、いったい何だろう。このようにして人類は滅んでゆくのだろうか。

しかし、もともと猿よりも弱い猿だった人類がここまで生き残ってきたのはときめき合い助け合う関係で集団をいとなんできたからであり、それによって「差別」や「ヘイトスピーチ」のような他者を排除しようとする醜悪な動きを洗い流してきたからだ。

人類は、その本性として、そうした醜悪な人間たちと戦って排除してゆくということはしない。醜悪な人間たちを置き去りにしてゆくことによって、彼らも醜悪ではいられないようにしてしまう。これが人間集団の基本原理であるのだが、排除しないから醜悪な人間はいつの時代も一定数いるし、いてもかまわない。ときめき合い助け合う集団のかたちが守られていればよい。まあそうやって、競い合い争い合う権力社会とは別の、ときめき合い助け合う民衆自治の集団性の文化を守り育ててきた。

というわけで日本列島の民衆はどんな醜悪な権力社会でも許してしまい、この国まるごと民衆社会の論理で運営しようという望みをなかなか持てない。そしてそれは、民衆は根源(=歴史の無意識)においてナショナリズムを持っていない、ということを意味する。

ともあれ「民主主義」とはときめき合い助け合う民衆社会の論理で国家を運営することであり、それを安富氏は、「子供を守る」ということを政治原理にしなければならない、といっているし、それはまたこのブログでさんざん言っている「人間としての尊厳は<生きられないこの世のもっとも弱いもの>のもとにある」というのと原理的には同じなのだ。

 

 

人間なら誰だって「尊厳」とか「崇高」とか「魂の純潔」というようなものにあこがれひざまずく気持ちはあるのだが、それが何かという認識は人それぞれに違うわけで、あの連中ときたら「魂の純潔」で韓国叩きをしているつもりでいるのだからやっかいだ。

ナショナリズムは醜い。そんなものは、根源において天皇にも民衆にもない。

今回の即位の礼天皇は、宣明スピーチにおいて「国民」という言葉を繰り返し何度も使ったが、「国」とか「国家」という言葉はついに一度も発しなかった。それは、素晴らしいことだ。天皇が愛しているのは「国民」であって「国家」ではない。

右翼の国家権力は天皇を支配する存在であり、そんなものを天皇が愛せるはずがない。天皇の味方は「国民」だけであり、令和天皇もそこのところをちゃんと自覚していたにちがいない。

「国」よりも「人」を愛せ、ということ。国家など「尊厳」でも「崇高」でもないし、ナショナリズムに「魂の純潔」が宿っているのでもない。

断っておくが僕は、国家などなくてもいい、と言いたいのではない。それはあるていど人類史の必然だろうし、そのことを否定するつもりはない。とはいえべつに「愛する」対象ではない。日本列島やそこに住む人々に興味は少なからずあるが、「日本」という「国家」に対する実感はほとんどない。実感がないのだから、愛しようがない。

吉本隆明は「国家は幻想である」といったが、「たしかに幻想だなあ」という実感がある。政府や議会という機関組織は実在するにちがいないが、いかようにも変化してきたしこれからも変化し続けてゆくわけで、人によってそれを評価したりしなかったりしているのだから、普遍的な愛の対象にはなりえない。

どんな国であれ、国を愛する者もいれば愛さない者もいるし、関心がない者だっている。とくにこの国ではそれが多様で、江戸時代までの民衆には愛国心などというものはなかった。海に囲まれた島国で異民族との軋轢のない歴史を歩んできたのであれば、もともと「国家」とは何かということがよくわかっていないのであり、愛国心があれば偉いというような土地柄ではないのだ。

そりゃあ民衆も天皇もこの国の存続が安寧であればと願っているが、それは「愛している」ということとはまた別の問題だ。われわれの愛する対象は、目の前に存在する「あなた」であり「世界」であって、「国家」という「幻想」ではない。

「国家」という現世的で通俗的な概念など「崇高」でも「尊厳」でもないのであり、それをどのようにして愛せというのか。

僕は、「国家」よりも「天皇」を愛するし、「天皇」は「国家」のものでない、「民衆」のものだ。

「国家」が「崇高」で「尊厳」である時代が、いったいいつにあったというのか。大和朝廷の発生以来、いつの時代においても「国家」などろくでもなかったのだ。ただ、それでも、いつの時代もときめき合い助け合う民衆社会は息をひそめるように存在してきたし、ときめき合い助け合う人々がたしかに存在してきた。天皇は、そういう人々を愛しているのであって、国家を愛しているのではない。

民主主義は多数決だというが、たとえ上から下まで精神が荒廃してどんなにひどい世の中になっても、1パーセントでもときめき合い助け合っている人々がいるかぎり、人間性の真実はそこにこそある。それでもまだそういう人々がいるという、そのことが真実の証しなのだ。多数の中に真実があるというのなら、とうぜんそれは全員に広がってゆくはずだが、真実ではないからけっしてそうはならない。それでもそうはならないそのところにこそ真実がある。そうしてその1パーセントが守られてゆくことを「伝統」というのであり、昔からいつの時代も荒廃した精神の持ち主ばかりがのさばる「憂き世」であったのだ。それは、そんな荒廃した精神の持ち主が集まって権力社会を構成してきたからだが、そんな荒廃した精神の持ち主が少しずつ淘汰されながら「民主主義」が提唱されるようになってきた。まあ、淘汰され、また増えてきて、ということを繰り返しながら時代は推移してきたのだが、そうやって長い歴史のあいだに何度も権力社会が交代してきたわけで、けっきょく荒廃した精神の権力亡者たちは必ず淘汰されるというのが歴史の法則なのだ。

 

 

「悪貨は良貨を駆逐する」というが、悪貨が貨幣の真実なのか。そうではないだろう。人類はできるだけ良い貨幣を持とうとして金貨や小判を生み出したのだし、そういう貨幣の真実を信じて紙幣が生まれてきた。貨幣だって進化論の法則に沿って発展してきたのだ。

紙幣はただの紙切れだし仮想通貨はただの数字だといっても、だれもが貨幣の「真実=意味・価値」を信じているからそれらが成り立つ。

悪貨には意味も価値もない。悪貨を淘汰してきた果てに紙幣や仮想通貨が生まれてきたのであり、紙幣や仮想通貨は悪貨ではない、ある意味で究極の良貨なのだ。だから現代社会はややこしいことになっている。それが悪貨なら淘汰すればいいだけだが、それが良貨であることに付け込んであれこれの企みをする人間が跳梁跋扈してくる。

お金(貨幣)には意味も価値もあるから、名もない庶民は安い給料でこき使われなければならない。意味も価値もないからいらない、というわけにはいかないではないか。

悪貨は必ず淘汰される。それが歴史の法則であり、同様に人間性の真実から離れたヘイトスピーチなどいずれ必ず淘汰されるし、いずれまたよみがえってくる。現在のヘイトスピーチや差別は、自由と平等を装い、良識や良心の嘘を暴く正義・正論として登場してきた。つまり、「良貨=真実」の顔をしてよみがえってきた。だから歴史はややこしく行ったり来たりしなければならないのだが、しかし行ったり来たりしながらようやく「民主主義」を目指す段階にたどり着いた。

なんのかのといっても人は、「良貨=真実」を信じている。

で、天皇制もまた古代の王制や中世の封建主義や近代の帝国主義のように淘汰される運命にあるのかといえば、そうとは限らない。天皇は「良貨」すなわち「人間性の真実の形見」であり、「民主主義の形見」にもなりうる存在なのだ。

起源としての天皇は、権力社会の頂点に君臨して登場してきたのではない、古代以前の「民衆自治=民主主義」の「形見=象徴」として民衆から祀り上げられた存在だったのであり、天皇制は人類の集団性の起源であり究極のかたちでもある。

「良貨としての天皇制」と、「悪貨としての天皇制」がある。悪貨としての天皇制は天皇が権力社会に支配され利用されている制度であり、民衆自治=民主主義の形見=象徴として機能することによってはじめて「良貨」になる。

起源であり究極でもあるところの「良貨としての天皇制」は、古代の大和朝廷から明治以来の大日本帝国の時代まで、何度も「悪貨としての天皇制」に駆逐されてきた。しかし悪貨はいずれ淘汰されるのであり、淘汰しなければ民主主義の未来はない。

 

 

「良貨としての天皇」には、権威とか権力とか万世一系とか男系男子というような「実体」はない。ただもう人間性の真実が信じられるところに天皇が存在する。つまり、天皇天皇であればそれでよいのだ。男でも女でもいいし、天皇に子供がいなければ養子をもらって育てればいい。民衆が「あの人が天皇だ」と信じればいいだけのこと。血筋などという「実体」はどうでもいい。天皇という存在の本質は、紙幣や仮想通貨のように抽象的なのだ。その異次元的な抽象性に、天皇という存在の尊厳と崇高さがある。

「世界は輝いている」とときめいて生きていられたらそれでよい。そのためのよりどころとして天皇が存在する。

「子供の愛らしい輝き」を守ることが政治の原点だ……安富歩氏はそう訴えてれいわ新選組から立候補した。世界や他者は存在そのものにおいて輝いている……そう信じることができるためのよりどころとして天皇制は生まれてきたのであり、それが、人と人が他愛なくときめき合い助け合う関係で集団をいとなんでゆくという民主主義社会の原点であり究極でもある。それが、天皇の願いであり、人類普遍の願いであり、この国の民衆社会の伝統でもある。

「祭りの賑わい」すなわち民主主義としての「集団の盛り上がり」は、人と人が他愛なくときめき合い助け合うことの上に成り立っている。そのコンセプトで山本太郎はれいわ新選組を立ち上げたのであり、彼ほどそれを深く豊かに体現している政治家はいないし、そんな彼が安富歩を候補者に選んだのもよくわかる。また、そうした「祭りの賑わい=集団の盛り上がり」が起きてこなければ投票率は上がらない。

今や、政治も人の心もまったくひどい状況になってしまっているが、それでも民衆社会の片隅には「民主主義=人間性の真実」としての人と人が他愛なくときめき合い助け合う関係性=集団性は息づいているのであり、それこそが天皇制の伝統であるのだし、そういう意味で僕は、山本太郎と今どきのギャルや女たちに期待している。

 

 

天皇制は、伝統的にギャル(処女=思春期の少女)や女たちを輝かせる制度であって、あの醜悪な右翼たちのためのものではない。

だれの心の中にも「真実」や「魂の純潔」に対する遠いあこがれが息づいている。天皇制は、そこから生まれ育ってきたのであって、神武なにがしとかいう権力者が生み出したのではない。

右翼は、権力にあこがれる。しかし女は、権力にあこがれたりはしない。なぜなら、女であることそれ自体が権力だからだ。権力とは「影響力」のこと、この国の文化の伝統は女が及ぼす影響力を基礎にしてはぐくまれてきた。たとえば「無常」とか「大和魂」とか「武士の潔さ」などといっても、その「いつ死んでもかまわない」という「潔さ」をこの世でもっともラディカルにそなえているのは女であり「処女=思春期の少女」なのだ。

「おんな=おみな」というやまとことばの「な」は「ときめき」をあらわし、「み」は「柔らかく充実している」ことをあらわしている。女とは、心身ともにそういう存在であるらしい。その認識・感動を基礎にして、他愛なくときめき合い助け合う民衆社会ならではの集団性が生まれ育ってきたし、もともとはそのための「祭り」であり「天皇制」だったのであり、「呪術」も「権力」とともにそれらが生まれてきたのではない。古代以前の日本列島に「呪術」も「権力」も存在しなかった。あくまで純粋に、他愛なくときめき合い助け合う集団性として「祭り」が生まれ、そこから起源としての天皇である「処女=巫女」が祀り上げられていった。

他愛なくときめき合い助け合うことが日本列島の集団性の伝統であることは、今回のラグビーワールドカップのチームの戦い方だけでなく各地域での外国チームのもてなし方等でもよくわかったではないか。ナショナリズムの強い土地柄ならこうまで他愛なく外国からの客にときめいてゆくことなんかできないし、外国人だってそこに人間性の真実と民主主義の未来を見ていたにちがいない。

日本列島1万年の歴史においては、にナショナリズムの伝統なんかない。少なくとも大和朝廷成立以前は、ただもう純粋に「真実」と「魂の純潔」にあこがれながら歴史を歩んできただけなのだ。それがまあ、世界中どこでも原始時代の人類の歴史だった。その歴史の記憶の上に古代のソクラテス孔子のような思索家が登場してきたわけで、彼らは、大陸で生まれた文明制度の文字化社会によって失われつつある「<世界の真実>と<魂の純潔>に対するあこがれ」を失ってはならないと説いたのであり、それは四方を荒海に囲まれたこの日本列島の島嶼性によって残されていた。

 

 

日本列島の伝統は、人類普遍の原始性を洗練させてゆくかたちで育ってきた。そうやって天皇制が生まれてきたのだし、現在のマンガ・アニメやギャルファッション等の「かわいい」のムーブメントが「ジャパンクール」といって世界でもてはやされるのも、そういう伝統の上に成り立っているからだ。

日本列島の伝統の「独自性」は「普遍性」でもある。だから「ジャパンクール」がウケるし、言い換えればそれは異民族に対する警戒感がない進取の気性でもある。だから、世界中の文化を他愛なく受け入れ世界中の病理にかんたんに感染してしまう。そしてそれはまた、ナショナリズムの薄さの証拠でもある。

ナショナリズムを持たないその軽薄さこそ、日本列島の「独自性」であり「進取の気性」なのだ。独自でないことが独自なのだ。その他愛なさと警戒心のなさが「ジャパンクール」なのだ。

今どきの右翼は、天皇制も含めて日本列島の伝統をことごとく壊してしまっている。ナショナリズムの薄さこそ「ジャパンクール」なのに、ナショナリズム愛国心)が無上のものであるかのように騒ぎ立てている。

日本列島の伝統なんて、難しい話じゃない。「(処女=思春期の少女のような)他愛ないときめき」、それが原点であり究極なのだ。「わび・さび」の美意識も、花と散る「武士道」の潔さも、つまるところそれが基礎になっているわけで、またそこにこそ普遍的な人間性の真実も息づいている。したがってこの国のあるべき政治のかたちも、それを信じてどこまで高度に洗練させてゆくことができるかにかかっているわけで、みんなが選挙に行くような民衆社会の盛り上がりもおそらくそのようにして起きてくるのだろう。

たとえば、この国の外交戦略は拙くてもっと欧米諸国のようなしたたかな駆け引きを見習わなくてはならない、などとよくいわれるが、僕はそうは思わない。「他愛ないときめき」すなわちそうした人間性の真実を愚直に信じて他者の存在そのものの輝きを他愛なく祝福してゆく態度が高度に洗練されてゆけば、したたかな駆け引きよりももっと有効な外交戦略になる。まあそれができる能力と人格をそなえた政治家は今のところ山本太郎以外にはいないわけだが、それができなければ戦争はなくならないし、民主主義の未来もない。

今や世界はこんなにひどい状況になってしまい、ようやく「人間性の真実とは何か」と問い始めているのかもしれない。そういう意味で僕は、れいわ新選組山本太郎や安富歩には大いに期待している。

 

 

安富歩氏の言説には、もうひとつ疑問がある。

彼は、れいわ新選組から立候補するときの記者会見の席で、「むかしの中国では、銅銭を造っても造ってもどんどん市場から消えてしまい、造らないとときには民衆の暴動が起きるほどだった」と語っていた。

この話を聞いて僕は、とても興味を抱かせられた。これは貨幣の起源と本質にかかわる問題だと思えた。

この銅銭がどこに消えていったかといえば、安富氏は、「庶民がタンス預金にしたりどこかに失くしてしまったりした」と語っておられたが、この説明はおそらく安富氏のたんなる憶測で、どう考えてもおかしい。「タンス預金」になるようなものなら、そうかんたんに失くしたりはしない。人は、そうかんたんにお金を失くしたりしないし、失くせばとても落胆する。

かんたんに失くしてしまうようなものを「もっと造れ」と騒ぐはずがないではないか。

安富氏がこのとき「庶民のタンス預金」といったのは、金持ちなら金貨や銀貨を蓄財すると考えたからだろう。日本列島の中世でも、貨幣に縁のない農民でさえいくばくかの銅銭をため込んでいたといわれている。しかしまあ、それくらいのことは世の中全体の量から見れば微々たるものにちがいない。

銅銭を溶かして銅鏡や銅剣や農具などをつくるといっても、銅の地金が銅銭より高いということなどありえない。だから銅銭で買えばいいだけのことだし、そんなことは大昔の日本列島をはじめとする銅の精錬技術のない周辺国でやっていただけで、この量もやっぱり微々たるもので、中国の庶民は銅銭で青銅器を買っていたにちがいなく、だったら銅銭が市場から消えるはずがない。

とにかく銅銭で何かを買うことができるかぎり、庶民のタンス預金が膨大になるはずがないし、かんたんに失くしてしまうはずもない。

安富氏はこのことを「貨幣がその本質において意味も価値もないことの証しである」といっておられるわけだが、それは、現代の庶民が貨幣の意味や価値を信じながら安い給料でこき使われていることをばかにしたセリフだ。人間は、貨幣がただの「紙切れ」や「数字」であってもまだその意味と価値を信じているのであり、それを何かと問うのが経済学者の仕事ではないのか。

貨幣はその本質において意味や価値持っている。だからこそ現在の経済状況がややこしいものになっているわけで、意味も価値もないのならとっくに歴史によって淘汰されている。

 

 

10

貨幣が持っている本質的な意味や価値とは何だろう。それが昔の中国の流通市場から消えていったということは、もともと何かを買うという「交換」のためのものではなかったことを意味する。「交換」の道具として手は大した意味も価値もなかったのだろうが、きっとほかに使い蜜があったわけで、そこにこそ貨幣の起源と本質の真実が隠されている。

そのとき中国の民衆社会から大量の銅銭が消えていったということは、彼らは銅銭を「何かを買う(=交換)」ためのものとして扱っていなかったということを意味する。

世界中どこでも昔の民衆は、ほとんどは自給自足と相互扶助で暮らしていたにちがいなく、極端にいえば貨幣経済なんてあってもなくてもよかった。それでも貨幣=銅銭をわざわざ貯め込み、しかもわざわざ貯め込んだそれらをどこかに消してしまっていたのだ。

彼らにとっての貨幣は、第一義的には商品を買うためのものではなかった。

この国の中世の貧しい農民がわずかばかりの貨幣を小さな壺に入れて貯め込んでいたのも、それで何かを買おうというようなことではなく、たとえば地元のお寺に寄進したり、旅芸人の芸に投げ銭をしたりするためのもので、それで何かを買うということはほとんどなかった。だからまあ、お金などなくてもなんとか生きていられる社会になっていたわけで、そういう役立たずの人間を村のみんなで生きさせていた。

つまり、世界中どこでも昔の民衆にとっての「貨幣」は、「交換」の道具ではなく「贈与=ギフト」の形見だったということで、その「贈与=ギフト」の衝動によって村という集団が成り立っていた、ということだ。

 

 

11

では、その「贈与=ギフト」の衝動はどこにいちばん強く切実に向けられていたかといえば、「死者」に対してである。

「死者」の「贈与=ギフト」を捧げるのは、原始時代から続いてきた人類普遍の伝統である。葬式をしない民族などないし、そのときには必ず何かを供える。

5万年前のネアンデルタール人だって、死者の埋葬に際して花を捧げていたという考古学の証拠もある。そしてロシアのスンギールで発見された2万年前の遺跡では、死者の棺におびただしい数のビーズの玉が添えられていた。そしてそれは、被葬者が所有していたものではなく、集落中のみんながかなしみの形見として持ち寄り捧げたものだった。原始時代には文明社会のような身分制度などなく、そして死者を弔う気持ちは現在まで続く人類普遍の感情である。

まあそのころのビーズの玉はきらきら光る宝石であり、人類はもともときらきら光るものが大好きだった。だからその数万年前からきらきら光る貝殻や石粒で首飾りなどを作っており、それが貨幣の起源であるともいわれている。古代メソポタミア都市国家においても、精錬された銀や陶器のかけらなどが貨幣として使われていた。

銅銭だって「きらきら光るもの」だったから貨幣になったのだし、真新しい十円玉を見ればそれがよくわかる。

今でも金メダル銀メダル銅メダルというのがあるわけで、それは、勝者に捧げられる「贈与=ギフト」の形見である。すなわち、原始時代から現代まで、人類はつねに「貨幣=きらきら光るもの」を「贈与=ギフト」の形見として意識してきた。それで何か物が買えるという「交換」の機能は二義的なことで、第一義的には何ものにも代えられない「意味と価値」を持った「贈与=ギフト」の形見として意識されているのだ。だからこそそれは、ただの紙切れや数字にも代替できるし、貧しい庶民は安い給料欲しさにこき使われねばならない。

現在もなお貨幣は、第一義的本質的には「贈与=ギフト」の形見として流通している。MMT理論だって、せんじ詰めれば、まあそういうことだ。僕は経済学者ではないから細かいことの説明はできないが、旧来の経済理論が「天動説」だとすればMMTは「地動説」のようないわばコペルニクス的転回の理論である、などといわれている。だから僕も、旧来の経済学者はみな貨幣の本質的な機能は「交換」の道具にあるというが、じつは、本質的には「贈与=ギフト」の形見としてこの社会に存在している、といわばひとつの地動説として提唱したい。

彼らは、お金なんてただの紙切れや数字で本質的には何の意味も価値もないというが、そうじゃない。ただの紙切れや数字でもかまわないくらいに、意味も価値もあると信じられているのだし、じっさいそのようなものとして発生し、そのようなものとして歴史を歩んできたのだ。

 

 

12

というわけで、昔の中国の銅銭がなぜ市場から消えてしまったかといえば、それが貨幣の本質としての「贈与(=ギフト)」の形見として使われたからであり、消えてしまったのはその相手が「死者」だったからだ。つまり、スンギールの遺跡のように、死者への捧げものとして埋葬の棺に納める習俗になっていたからではないだろうか。

中国や台湾は、今でもレプリカの紙幣を棺に納める習俗がある。貨幣経済が発達して庶民でも貨幣が必要な暮らしになっていったために、いつの間にかレプリカの紙幣でそれを代替するようになったのだろう。

中国の銅銭の外側の円形は「天」をあらわし、真ん中の四角い穴は「地」をあらわすといわれている。つまり銅銭は、現世と来世をつなぐものでもあったのだ。

「月」という漢字は、銅銭を束ねた形をあらわしているらしい。古代の中国において月は「天」の象徴であり、呪術の対象でもあった。そのような月の超越性は、そのまま貨幣の超越性でもあった。彼らは、貨幣が持つ超越性と呪術性を信じて、死者の埋葬に際しては惜しげもなく銅銭の束を供えたのではないだろうか。そうやって市場から銅銭が消えていったのではないだろうか。これは、ネアンデルタール人が死者の埋葬に際して野の花を供えて以来の、人類普遍の伝統ではないだろうか。

まあこれはあくまでたんなる仮説ではあるが、ともあれ人類にとっての貨幣は因果なことに好むと好まざるとにかかわらず特別な「意味と価値」を持っているのであり、そこのところを「貨幣には意味も価値もない」と説いておられる安富氏は見落としているのではないかと思える。意味も価値もないから市場から消えていったというのでは、研究者として思考が安直すぎる。意味も価値もあるから消えていったのだ。

山本太郎が「国債を発行してでも困窮している民衆の暮らしを底上げしなければならない」と訴えるのは、彼の中の「他者に対する他愛ないときめき」であり「他者に手を差しのべたいという衝動」であり、それはそのまま人類普遍の「贈与=ギフトの衝動」でもある。そしてそういうことは子を産み育てる存在である女たちにはとてもよくわかるらしく、先日の神奈川県海老名の街宣では、幼い子を連れたお母さんがたくさん聞きに来ていた。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

>> 

<span class="deco" style="font-weight:bold;">蛇足の宣伝です</span>

<< 

キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。