「天皇陛下万歳!」だってさ

先日、令和天皇即位の礼の儀式で、総理大臣が大仰な万歳三唱をこれ見よがしにやってみせていた。とんだ茶番劇の猿芝居、顔をそむけたくなるような醜悪そのものの風景だったが、同席した外国人たちはどう見ていたのだろう。

だいいち、天皇自身がどう思っていたのか。そのとき彼は例によってあのかすかなアルカイック・スマイルを浮かべているだけだから、内心のことなど伺うべくもない。

平成天皇の退位のとき以来、現政府は天皇家の行事に干渉しすぎる。彼ら右翼の権力者たちは、天皇を最大限に崇めてみせつつ、腹の底では天皇が自分たちの支配下にあることを見せつけようとしている。われわれの大好きな天皇を、安倍晋三一味ごとき右翼に奪われたままでいいのか。

万歳三唱なんて、よけいなお世話ではないか。「天皇陛下万歳!」と大真面目に叫ぶなんて軍国主義の滑稽でアナクロシュプレヒコールにすぎないのであって、戦後生まれの者たちは恥ずかしくてようしない。そんな習俗が明治以前の日本列島にあったはずもなく、千年以上の長い歴史の伝統を背負っている天皇からしたらよけいなお世話だろう。その長い歴史の伝統において天皇がつながりたいのは、民衆であって、権力者ではない。われわれ民衆は、天皇を権力社会の手から取り戻さなければならない。

なんのかのといっても天皇制は日本列島の長い歴史の伝統であり、それを否定することはできない。天皇制がいけないのではなく、天皇が権力社会に幽閉されてあることが異常な事態なのだ。

この国の長い歴史においては、天皇は民衆自治=民主主義の大切なアイコンとして生まれてきたのであり、その「伝統」を取り戻さねばならない。民衆自治=民主主義の大切なアイコンだったから、長い歴史において権力者は天皇家を滅ぼすことができなかったし、しかしだからこそ民衆支配のためのもっとも都合のいいアイコンにもなっていった。それにまんまとのせられて「天皇陛下万歳!」と叫ぶ、そんな愚劣で滑稽な猿芝居なんか、僕にはできない。

 

 

僕は共産党のシンパでもなんでもないが、今回共産党即位の礼に欠席したのはひとつの見識として肯定できなくもない。彼らはその理由として「即位した天皇を前にして総理大臣が天皇陛下万歳!と叫ぶなんて政教分離に反するし愚の骨頂だ」といっている。それはたしかにそうだ。神道が宗教であるかどうかはともかく、天皇を政治利用するべきではないし、それに付き合わされるのは共産党だっていい迷惑に違いない。

ただ共産党が僕の認識と違うのは、彼らは天皇制を否定していて、天皇制が民主主義を阻害している、といっていることにある。まあこれは共産党だけではないすべての左翼の共通認識かもしれないわけで、そんな底の浅い短絡的思考に凝り固まっているから、一般の民衆の支持がいまいち伸びないのだし、左翼革命など絶対に起きない。

この国では、天皇制を肯定しない限りリベラル左翼が多数派になることはない。

ほんらいの天皇制と民主主義は矛盾しないのであり、天皇制こそが民主主義の実現を可能にするわけで、そのためには大和朝廷成立以前すなわち権力者の道具にされてしまう以前の、民衆自治のよりどころ(=アイコン)であった起源としての天皇について考えてみなければならない。

起源としての天皇は、大和朝廷の成立以前の奈良盆地で生まれてきた。それはおそらく、歌と踊りの祭りの賑わい主役である「処女=巫女」であった。すなわち起源としての天皇を生み出したのは、日本列島1万年の歴史の伝統である「処女崇拝」にあった。したがって天皇という存在の本質は、たとえそれが男であれ女であれ「処女性」にあり、「処女性=たをやめぶり」こそ日本列島の伝統精神なのだ。

 

 

「処女性」とは「異次元性」のこと。処女の心は、いつの時代も「この世の外=死の世界」に向いており、「この世の外=死の世界」に超出してゆくことができる。そしてその「異次元の世界」への遠いあこがれこそが普遍的な人間性の基礎であり、そうやって人類の歴史は進化発展してきたわけで、進化発展とは「異次元の世界への超出」なのだ。

天皇は、権力社会によってその頂点の存在のように偽装されてきたが、本質的には権力の外にいるだけでなく、この世の外の存在なのだ。

日本列島の文化の伝統のもっとも主要な主題は「異次元性」にあり、天皇の存在の本質もそこにあるのであって、現世的な権力の頂点に立っているのではない。権力の頂点に立っていないという、その「異次元性=処女性」ゆえに、歴代の権力者たちはついに天皇を滅ぼすことができなかった。

だから、総理大臣がこれ見よがしにわざとらしく「天皇陛下万歳!」などと叫んだりしてはいけない。権力者には、そんなことをする資格はない。権力者は天皇を民衆のもとに戻さねばならない。それが、明治以降の戦争ばかりしていた時代を反省する、ということだ。

左翼は「天皇の名で戦争をしたではないか」というが、そういうかたちで戦争をする権力社会のしくみがあっただけのことで、天皇の意思でそういうしくみをつくったのではない。大日本帝国がつくった「天皇の命令にはだれも逆らってはいけない」という規範は、「天皇は命令しない」という歴史的原則の上に成り立っている。天皇は伝統的本質的に「命令をしない」存在で、そのことゆえにこの国のカリスマであり続けてきたのであり、明治政府の大日本帝国はそのことを狡猾に利用し、彼らの命令を天皇名で民衆のもとに下ろしてゆくという制度をつくった。これはまあ古代の大和朝廷発生いらいの権力社会の伝統でもあり、そういうかたちの「王政復古」だったのだ。

 

 

日本列島の「伝統」とは何か?このことを世の中の右翼は何もわかっていない。小林秀雄や西部進だって全然わかっていない。

小林秀雄は、「なぜ天皇制が大切なのか」という学生たちの質問に対して「だれだって天皇陛下に対しては<懐かしい>という思いを心の底に持っているでしょう。それが<伝統>というものですよ」と語っていた。そう言われれば何となく深い物言いのように聞こえてしまうが、ではその「なつかしさ」はどのようなものか、ということはちゃんと語っていない。そんな明治生まれの年寄りのセンチな気分でざっくり語られても困るのだ。

はたしてその「なつかしさ」は、明治以来の歴史=伝統なのか?古代の大和朝廷成立以来のものか?そんなものは、権力者によって捏造されたまやかしの伝統なのだ。

ほんらいそれは、さらにそれ以前からの歴史の記憶としての「なつかしさ」なのだ。

つまり、この国の歴史においては、権力社会の歴史における天皇に対する「なつかしさ」と民衆社会のそれとでは「なつかしさ」の位相が時間的にもその切実さにおいてもまったく違うのであり、そういうことを小林や西部はきちんと考えただろうか。考えているはずがない。彼らの常日頃の言説から、それをうかがえるような痕跡はない。なんとなくの思い込みの自己満足でざっくりとそう語っているだけなのだ。

日本列島の民衆の天皇に対する「なつかしさ」は、日本列島1万年の歴史の「なつかしさ」であると同時に、原初の人類が二本の足で立ち上がって以来の700万年の歴史の記憶でもある。「なつかしさ」というなら、そこまで検証してから語ってくれ、という話である。まあお二人とも、そのへんにごろごろ転がっているような凡庸なインテリ連中とは違うのだから。

その「なつかしさ」は、人類普遍の「異次元の世界」に対する遠いあこがれに由来しているのであり、その「あこがれ」は700万年前の原初の人類が二本の足で立ち上がって遠くの青い空を見上げたときからはじまっている。その「あこがれ」と「なつかしさ」を思うのなら、小林秀雄のいう「なつかしさ」など右翼的上級インテリのただのセンチでナルシスティックな思い込みにすぎないのであり、安倍晋三の「天皇陛下万歳!」もまた、ただの愚劣で滑稽な猿芝居でしかない。

僕は、天皇制を大いに肯定する者だが、右翼の天皇崇拝なんか認めない。下品で俗物の右翼の連中の権力志向こそが、この国の真の伝統である民衆社会における天皇に対する純粋な「あこがれ」と「なつかしさ」を蹂躙してしまった。

 

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初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

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