「知らない」ということ

韓国叩きのヘイトスピーチとか関電賄賂事件とか消費税10パーセントとか、その他もろもろの人と人の関係がめちゃくちゃで、ほんとにひどい世の中になってしまったものだと思う。自分が楽しているからとか苦しいからとかというような問題ではない。ろくでもない人間ばかりの世の中で、ますます人間嫌いになってしまいそうだ。何より自分自身がいちばんろくでもない人間だからこそ、自分のことなど忘れて自分以外の人間の輝きにときめいていたいのに、うんざりさせられることのほうがずっと多い。

知らない人はみな美しい。しかし知ってしまうと、たいていの場合げんなりさせられる。世の中というのは、そういうものだろうか。家族のあいだだって、もう永久にさよならしたい、と思うことがあるし、家族だからこそ憎み合ったりもする。

世界や他者の輝きにときめく体験は大切だ。それがなければ人は生きられない。だれもが「今宵逢う人みな美しき(与謝野晶子)」というような気分で街を歩ける世の中になればいいと思う。

この国の総理大臣以下の多くのネトウヨたちは、人を憎み差別し嘲り笑うことを生きがいにしている。そうやってどんどん精神も顔つきも醜く歪んでいっているのであればもう、病んでいる、としか言いようがない。

現在のこの国は、醜い日本人が醜い総理大臣を支えて成り立っている。この醜さは総理大臣ひとりの問題ではないし、この醜さは今や世界中に知れ渡っている。

しかしそれでも、この国の人や景色は美しいといって、世界中から観光客がやってきている。美しい風土だから、醜いものをはびこらせてしまう。美しい風土は、醜いものを許してしまうというか、醜いものに関心がない。そうやって政治や経済の状況が醜くなればなるほど、無関心になってゆく。どんなに醜い政治経済の状況になっても、街を歩けば「今宵逢う人みな美しき」という気分を体験することができるのが日本的な風土であるらしい。人々は、このひどい政治経済の状況にうんざりしているが、絶望はしていない。なぜなら、絶望するほどの関心がないから。

まあ世界中どこでも見知らぬ人どうしはときめき合うようにできているし、一緒に暮らせば避けがたく鬱陶しくもなってくる。それが普遍的な人間性であり、そうやって人類は「旅の文化」を育て、地球の隅々まで拡散していった。

美しいものにあこがれるからこそ、醜いものとはかかわりたくない。そうやってこの社会に醜いものがはびこる。「今だけ、金だけ、自分だけ」とかいう、とても日本人社会とは思えないような醜い政治経済の状況がはびこる。

相手のことを知る必要なんかない。知ってしまってうんざりさせられることは多い。だから民衆は、国家の政治や権力者のことを知ろうとしない。

「知らない」ことの大切さというのもある。「知らない」から「知りたい」とも思うのだが、ひとつのことを知ることによってさらに三つの「わからない」ことがあるのに気づいたりする。そうやって人の心は、どんどん「知らない=わからない」ことに分け入ってゆく。「知らない=わからない」ことに引き寄せられてゆくのが人の心の常であり、古代人はそれを「学ぶ」といった。「学ぶ」とは「知らない」ことを知ろうとすることであり、「わからない」という「不思議」に驚きときめくことであって、「知る」ことではない。「知る」ことなんか、永遠にやってこないのだし、だからこそ人の心」から「ときめく」というはたらきも永遠になくならない。

なのに今どきの一部の日本人は、韓国人の何もかもをわかっているかのような顔をしながらあれこれ韓国叩きを繰り返している。おまえらのその薄っぺらな脳みそで韓国人の何がわかるというのか。もちろん韓国人にはどうしてもわからない「日本的なもの」もあるわけで、人と人は、その「わからない」というところでときめき合っているのであり、そうやって「今宵逢う人みな美しき」という体験をする。

 

 

見知らぬ人との出会いは、ひとつの救いである。

いま、「GYAO」という無料映画のネット番組で、『知らない、ふたり』(監督・脚本=今泉力哉)という映画が配信されている。これはきわめて良質な日本映画で、監督のセンスの非凡さに感心させられた。小津安二郎調、ということだろうか。淡々としたテンポで話は進んでゆくのだが、こういうタッチのおしゃれな映画というのは、いかにも日本的だなあという感じで、僕は嫌いではない。

話の筋としては、知り合いだったり見ず知らずだったりする3人の女と4人の男によるおとぎ話的な錯綜した恋の群像劇で、脚本がものすごくよくできている。話の展開が嘘っぽいといってもしょうがない。何しろおとぎ話なのだ。そして、さりげなくてしかも深いニュアンス(心理のあや)を含んだ会話もよく練られていて、まさしく日本映画ならではのあはれではかなくきめ細かい味わいがある。

韓国人の男三人女ひとりの俳優が起用されており、彼らだけの韓国語での会話の場面もあるのだが、そのタッチは大げさな喜怒哀楽がないきわめて日本的であいまいな心理で流れてゆき、三人とも上手に演じていたし、若い彼らには「日本的」ということを知るいい経験になったに違いない。

あまり有名ではないらしい日本人のふたりの女優も、すごく魅力的な演技をしていた。

この物語の主題はタイトルが示すとおり、知らない者どうしのあいだで一方的にときめいたりときめき合ったりすることにあるらしいのだが、同時に日本と韓国の関係が成り立つ可能性を探ろうとする意図も含まれているのだろう。そしてそれは、さかしらにわかったような気になるのではなく、「わからない」というそのことに対する率直な驚きやときめきこそが大切だ、ということだろうか。

登場人物はみな、それぞれの個性でそれぞれにひたむきで純粋な心を持って「知りたい」と願っている。おとぎ話なのだ。しかしこの監督の人間観はとても深く本質的で、「知る」ことよりも「知らない」ことや「知りたい」と思うその「イノセント」にこそ国境を超えた関係(=愛)の可能性があるということを、とてもおしゃれにさりげなく表現してみせている。「人情の機微」という小さな世界をただあいまいにきめ細かく描いているだけだが、だからこそ、やっぱり日本映画はいいなあ、と思わせてくれる。

「知らない」という言葉に込めたこの監督の思いは、おそらくとても深い。そして、今どきの知ったかぶりをした韓国叩きの醜さと愚かさを改めて思い知らされる。

現在の韓国と日本とどちらが正しいかとか、わかったような気になってしゃらくさいことばかり言うな。正しかろうと間違っていようと、嫌いであろうとあるまいと、そんなことはひとまず忘れて、まっとうな関係の可能性について考えるということがどうしてできないのか。

正しいとか間違っているとか好きとか嫌いとかの「判断」はすべて「過去」に対してのことであり、ほんとうの「現在」は未来に向かう「可能性」として成り立っている。そういう「可能性」を問う率直さとひたむきさすなわち「イノセント」を、この映画は日韓の若者たちの群像劇として描いている。そしてその「イノセント」こそがここでいう「処女性」であり、それがこの国の文化の伝統であると同時に普遍的な人間性の基礎=本質でもある。

知らない者どうしは、相手の存在そのものにときめき合っている。人間は、「知らない」ということを自覚しそのことにときめいてゆくことができる存在であり、そこにこそ人間としての「知」の可能性と「愛」の可能性がある。

人間は「知る」生きものではない。「知りたい」と願う生きものであり、ひとつのことを知れば、そこからさららに三つの「知りたい」という謎=問いが生まれてくる。そうやって「知る」ことには、永遠にたどり着けない。人間は、猿よりももっとたくさんの「知らない=知りたい」ことを抱えている。知れば知るほど「知らない」ことが増えてゆく。そうやって人間は、猿よりもたくさんの「可能性」を持っている。しかしだからこそ永遠に「可能性」を生きるほかない存在であり、「達成」の瞬間は永遠にやってこない。人類の歴史は、そうやって止むことなく進化発展してきた。

知ったかぶりの韓国叩きをしていい気になっているんじゃない。人間なら「知りたい」と願え。その永遠にかなえられない夢を見続けるのが人間であり、それを「愛」ともいう。

 

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初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

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