金が仇の世の中で

 

 

世の中は金で動いている……それはまあたしかにそうで、世の中を動かしているのは資本家であり、民衆は金に動かされている。そして今どきの権力者もまた、経団連という資本家たちに動かされている。

今や権力者は資本家の使い走りの犬に成り下がっていて、国会の山本太郎はこれを「『保守』と名乗るな、『保身』と名乗れ」と発言した。

まあ、「保守」と名乗れば商売になる世の中らしい。

山本太郎は、「政治家は、金と票の匂いのするところに寄って来る」ともいっていた。

そりゃあ誰だって金がないと生きてゆけない世の中なのだから、金を欲しがることがいけないとはいえない。

しかし、お金=貨幣とは、いったい何なのだろう。

人類史における起源としての金=貨幣は、きらきら光る貝殻とか石ころとかの「この世のもっとも魅力的なもの」として生まれてきたわけで、欲しがるのは当然だともいえる。人類の心には、そういう歴史の無意識が埋め込まれてある。

金を欲しがるのはいけないことじゃない。しかし、「生きてゆくために」という、その目的が不純なのだ。われわれは「お金を使うために」お金を欲しがっているのであって、「生きるため」じゃない。そしてお金を使うことには大なり小なりの「喪失感」がともなうわけで、それはお金がもともと「この世のもっとも魅力的なもの」であったという歴史の無意識がはたらいているからだろう。

原初のお金はただの「きらきら光るもの」で、それは生きるための衣食住よりももっと大切なものだった。だからそれは、衣食住の物との「交換の道具」になってゆくことができた。

お金を使うことは生きるためのエネルギー源を「消費」してしまうことであり、それは「死んでゆく」体験だともいえるし、「死んでゆく」体験は楽しい。だからわれわれはお金を使う。われわれは「死んでゆく」体験をするためにお金を欲しがっているのであって、「生きるため」じゃない。まあ「死んでゆく」体験をすることが生きることなのだから、「生きるため」といえなくもないのだが、「死んでゆく」体験の楽しさを知らないと、お金をどんどんため込むようになる。それはきっと、健康なことではない。

資本家とは本能的にお金をため込みたがる人種で、その点においては健康ではない。しかしお金を使うことによってお金を稼いでため込んでいるのだから、彼らはわれわれよりもずっとお金を使うことの醍醐味を知っているともいえる。お金を湯水のように使って遊ぶ競馬や自動車レースは、もともと貴族や資本家たちの遊びだった。

世の中は、まことにややこしい。人間の生きるいとなみは、生きることから逸脱してゆくことにある。いや、生きものの生きるいとなみそのものが、そのような仕組みになっているのだ。

人がお金を欲しがるのは「この世のもっとも魅力的なもの」に引き寄せられているからであり、お金を使いたがるのは「死んでゆく」体験に引き寄せられているからであり、単純に「生きるため」ともいえない。生きることそれ自体が、「死んでゆく」体験の果てしない繰り返しなのだ。

江戸っ子が「宵越しの銭は持たねえ」といってお金をため込むことを嫌がったのは、「死んでゆく」体験の楽しさをよく知っていたからだ。

この世でもっとも楽しいことは「死んでゆく」体験であり、「死んでゆく」体験がなければ生きられない。人は、「もう死んでもいい」という勢いで生きている。

お金は、死の世界からの旅人である。「きらきら光るもの」すなわち「光」とは、異次元の世界からこの世界に現れ出て、また異次元の世界に向かって消え去ってゆく現象である。原初の人類は、その不思議=神秘に魅せられ、「お金=貨幣」を生み出していった。それは、「死」に魅せられる体験でもあった。つまり、「もう死んでもいい」という勢いでときめいていった。

だからまあ、自分のことを語るのに、あまりかんたんに「生きるため」などといわないほうがいい。それは、人として不健康だ。人が「生きていてほしい」と願うのはあくまで「他者」であり、「自分」ではない。江戸っ子は、「他者」が生きてゆくために奢るのであり、そのとき「自分」が「死んでゆく」という体験を楽しんでいる。「他者」が生きるための「生贄」になることほど楽しいこともないのであり、そういう衝動はだれの中にも息づいている。もともとお金=貨幣は、そういう衝動の上に成り立ち、この世に流通している。

つまり、人類滅亡はめでたいことであり、人類はその願いとともにこの生を活性化させ、進化発展の歴史を歩んできた。

 

 

資本主義の欲望は、人類を破滅の方向に向かわせるのかもしれない。しかし人類滅亡は人類普遍の夢であり、それもいいのだろう。おそらく問題は、それまでのあいだをどう生きるかということにあり、それでも人は、原初から人類滅亡のときまで、つねに心のどこかしらですべての「主義」や「価値」を超えて人と人が他愛なくときめき合う世界を夢見て生きてゆく。

この国の中世の「末法思想」においては、「この滅びゆく世界を阿弥陀如来大日如来が救いに来る」と僧侶たちが語ったそうだが、民衆たちの気分においては、「滅びのときまでのあいだをどれだけおもしろおかしく生きるか」ということにあった。それが『閑吟集』の「一期は夢よ、ただ狂え」という「無常感」であり、明日死ぬかもしれないという状況において、仏の救済もくそもないではないか。

中世の民衆は、権力社会と結託した僧侶や神官のおためごかしの説法に洗脳されてなどいなかった。

中世は、民衆が「私有財産」を持ち始める過渡期にあったわけで、「私有財産」とはこの世界が存続するという前提の上に成り立っているのだから、それを持てば、この世界が滅びてしまっては困る。まあ「文字」というのもこの世界の存続の上に成り立っている道具であるし、民衆も文字を読み書きすることを覚えてきて、文字社会に移行してゆく時期でもあった。

そんな過渡期において民衆は、それでも「無常」という感慨とともに「今ここ」を抱きすくめて生きようとしたわけで、その伝統の上に「江戸っ子は宵越しの銭は持たねえ」という習俗文化が生まれてきた。

この国の民衆社会には、不健康な権力社会の思想に洗脳されたくない、という伝統がある。

 

 

もしも資本主義の原則が「私有」ということにあるのだとすれば、「贈与」とは「私有」とか「価値」を放棄することなのだから、資本主義に反する行為になる。そして、「贈与」こそが資本主義もこの世界も活性化させる。資本主義もこの世界も、滅亡に向かって活性化してゆく。

なぜなら「貨幣」の本質は、交換可能な「債券」としてあるのではなく、一方的な「贈与」の形見としてあるからだ。貨幣の流通は、本質的には、一方的な「贈与」の衝動の上に成り立っている。それは、「私有」や「価値」を放棄することなのだから、人類滅亡の衝動だともいえる。

なんのかのといってもお金を使うことには「喪失感」がともなっているわけで、人は、その「喪失感」を抱きすくめながらお金を使う。

原初のきらきら光る貝殻や石粒は「この世のもっとも美しいもの」であったからこそ、それを差し出すことの「喪失感」には、もっとも深いカタルシス(快楽)があった。

人が旅人や訪問者を歓待するのは一方的な「贈与」の行為であり、旅人や訪問者もまた一方的な「捧げもの」として何かを差し出す。ここに「交換」という意識はなく、ただもう一方的な「捧げもの」を差し出し合っているだけである。それは「人恋しさ=ときめき」の形見であり、人は本能的に「捧げもの」をしようとする衝動を持っている。それが「お金=貨幣」の起源のかたちであり、べつに「交換」という意図があったわけではない。土産を持ってこなければ歓待しないというわけではないし、歓待してほしくて訪れたのではなく、ただもう人恋しかっただけであり、出会いたかっただけだ。

起源としての貨幣はきらきら光る貝殻とか石粒だった。それはとうぜんたんなる「贈与=プレゼント=捧げもの」だったわけで、それで何かと交換できるわけではなかった。リンゴと魚なら、多少は交換可能かもしれないがきらきら光るものなんか、生きてゆくためには何の役にも立たない。それはもともと交換不可能なものだったのであり、それを交換の道具にしていったところに人間的な思考の「超越性」がある、

2万年前の原始人の埋葬に無数のビーズの玉が添えられていたという考古学の証拠がある。これは、もっとも古い起源としての貨幣だともいえる。それは、何と「交換」したのでもない。死者に対して一方的に「贈与」し「捧げた」だけであったが、これが時代を経て貨幣になっていったのだ。

太平洋のある島にはバカでかい貨幣の形をした石を結納金替わりとして花嫁の家に贈るという風習があったらしいが、これだってべつに「交換」のための通貨として使うのではなく、ただ家の前に飾っておくだけで、花婿の感謝を表すためのものだった。

現在だって、一方的な「贈与=プレゼント」としてお金が使われている例はいくらでもあるし、そこにこそ貨幣の起源と本質がある。誰だって、奢られるよりも奢ったほうが気持ちいいに決まっている。

ハンバーガーショップの店員が「いらっしゃいませ」といって愛想を振りまくことに値段はついていない。今どきのその態度に心がこもっているかどうかはともかく、本質的には「人恋しさの形見」として「訪問者」を歓待しているのだ。

貨幣の本質は「人恋しさの形見」であることにある。それが近代の資本主義のシステムとともに大きく変質してしまっているとしても、とにかく本質的にはそういうことで、金が仇の世の中でも、人の心から「人恋しさ」が消えてなくなったわけではない。

 

 

われわれは、貨幣と商品を交換しているのではなく、たがいに「贈与」し合っているのだ。商品は、「贈与=サービス=捧げもの」の性格を持つことによって商品になる。

人の世は、そういう「人恋しさ」の上に成り立っている。

国家も企業も個人も、「自己愛」に陥った瞬間から混迷・停滞してゆく。国家は自己愛によって戦争をし、企業だってライバル企業と経済戦争をする。そして個人においても、自己愛で競争や闘争をしながら「献身」や「連携」の関係を失ってゆく。

コミュニケーションの本質は「伝達の意思」ではなく「人恋しさ=ときめき」にある。それを失ったら、集団の活性化もおぼつかない。

現在の世界は、競争や闘争に明け暮れながら混迷に陥っている。今や資本主義全盛の時代だといわれているが、それによって人々の命や心のはたらきが活性化しているとはいえない。そうやって現代人は社会の動きに巻き込まれながら心や体が病んでいったりしているのだが、それでも誰もが一方では非資本主義的な「献身」や「連携」の関係を生きようとしているわけで、そこから新しい時代が現れてくるのだろう。たとえそれがただたんに新しい資本主義社会だというだけのことだとしても、文明社会の歴史にはつねに「人間性の自然」という抑止力がはたらいているし、それこそが心や命のはたらきも集団も活性化させている。

文明社会で生きるためにはもちろん「お金=貨幣」が必要だが、人は消費するためにそれを稼ぐのであって、稼ぐことだけを目的にしているのはいつだってごく一部のものに過ぎない。だから「ユダヤの商人」やこの国の「士農工商」のように、昔から商人の身分は低かったし、現在の「資本家=富裕層」の身分が高いといっても、多くの人はやっぱりそれを第一義の目的にして生きるということはできない。

「金儲け」という汚れ仕事は国家が引き受けてそれを国民に分配するというシステムは今なお人類社会の理想であり、そこに税制度の本質があるのだろう。金儲けというややこしいことより、できることなら学問や芸術・芸能やスポーツや恋愛やセックス等々の遊びに夢中になって生きていたいというのが人の心の本質・本音であり理想であるのだろう。

多くの人々は、金儲けを人生第一の目的にして生きることはできない。だからどうしても資産格差は生じてしまうし、商人から富が零れ落ちてくること(=トリクルダウン)はない。

お金は国が稼がねばならないし、国は税制度や紙幣の発行などのそのための最も有利な条件をそなえている。

金儲けをしないと生きていられないが、だれだって心の底では「金儲けをしているどころではない」という気持ちも同時にある。つまり、遊んで暮らしたい、ということ。そしてその「自己を開放する」という人間的文化的な行為の本質は、「贈与=献身」にある。

「遊び」とはともあれ「他愛なくときめく」という体験のことであり、「献身=贈与」とは「他愛なくときめく」という体験の表現にほかならない。

自己愛で遊びはできない。資本家は自己愛という自己実現の目的で金儲けをし、私有財産を増やしてゆく。そうやってつねに自己完結しているのだから、「贈与=献身」としてのトリクルダウンなんか起きるはずがない。金持ちほどケチだということは、昔からずっといわれてきたことだ。貧乏人のほうがずっと金離れがいいし、ずっと助け合い連携して生きている。それは、「贈与=献身」の衝動の問題だろう。

「贈与=献身」の衝動がなければ移民を受け入れることなんかできないし、現在の世界にはその衝動をなくさせる社会の構造がある。

 

 

われを忘れて何かにかに夢中になってゆく「遊び」とは自己愛を引きはがす行為であり、そこから「献身=贈与」の衝動が生まれてくる。誰だって自己愛=自意識を持っているが、それを引きはがすことが「快楽」になる。人類の歴史は、「快楽」に流されてゆく。人の一生も、つまるところ「快楽」に流されながら、気がついたら死期が目の前に迫っている。そんなものだろう。大昔からずっと人はそんなふうに無駄で虚しい人生を生きてきたのであり、それはもう、どんな偉人・英雄であろうと虫けらのように死んでいった名もない民衆であろうと同じなのだ。生きてあることは時間を喪失し続けることであり、その喪失感を人は生きているのだしその喪失感を抱きすくめながら生きてあることを実感し、死と和解してゆく。けっきょくのところ、生まれてきたことと生まれてこなかったことは同じなのだ。そういう虚しさを「生命賛歌」という観念で否定しても、無意識のところではちゃんとわかっているし、最終的な人の思考や行動はその「認識=かなしみ=喪失感」の上に成り立っている。なぜだかわからなくても、歴史はそういうかたちで動いてゆくし、人もそういうかたちで生きている。だれもが心の奥のどこかしらでそうした感慨を疼かせながら生きている。

人がこの世に生まれ出てくることはひとつの「不条理」であり「悲劇」であり、その「嘆き」こそが人類史に進化発展をもたらしたのだし、その嘆きを抱きすくめている部分があるがゆえに、「生命賛歌」や「幸せ」や「金儲け」を追求するだけではすまない生き方をしてしまう。

今どきの若者はコストパフォーマンスのことばかり考えているといわれるが、自分をコントロールしながら社会のシステムに順応してゆく訓練をさせられながら育ってきたのだから、コストパフォーマンスを度外視して生きることなんかできない。つまり、コストパフォーマンスに強くこだわる社会のシステムが出来上がってしまっている。以前は500円1000円出さないと買えなかったものが、今や100円ショップで買えるようになった。100円ショップで買えるものを500円出して買うなんて、コストパフォーマンスが悪すぎる。そんなことはしたくない。CDなんか買わなくても、ネットでいくらでも聞くことができる。わざわざ映画館で観なくても、ビデオを買わなくても、ツタヤで借りれば間に合う。辞書もいらない。コストパフォーマンスで動いている世の中なのだもの、それを考えるなといっても無理がある。

 

 

この世に、お金に換えられないくらい魅力的な価値を持ったものが存在するか?

この命を差し出すに足る他者は存在するか?

それはまあ、こちらがわの愛と心意気の問題でもあるわけだが、そういう関係が生まれにくい社会のシステムになっている。大人と若者、男と女、どちらが悪いかといっても、どちらも悪いし、どちらもこの社会のシステムの犠牲者でもある。

けっきょく、今どきのグローバル資本主義や金融資本主義とともに「お金=貨幣」の価値や性格が変質してしまった、ということだろうか。良くも悪くも日本人は、社会の変化にたやすく順応してしまう傾向がある。

われわれは「お金=貨幣」の起源と本質に立ち返ることができるだろうか。

この命を他者に捧げるということができるだろうか。

まあ、コストパフォーマンスが気になるということは「生き延びたい」ということであり、それは「もう死んでもいい」という勢いを持たなければ超えられないし、その勢いは「ときめく」というかたちで生まれてくる。それだけのことだが、それだけのことができない世の中になってしまっている。それだけのことだからだれでもできるし、だれの中にもその衝動はあるのだが、できない人間ほど上手に生きてゆける社会のしくみになってしまっている。

われわれは、ときめき合い助け合う、という関係を取り戻すことができるだろうか。「自分が大事」で「命が大事」ということが正義の世の中であるのなら、なかなかそうはならない。

大事なのは、「他者の命」であって、「自分の命」ではない。

生きることなんか、うんざりだ。しかしそれでも世界や他者は、せつないほどにきらきら輝いている。

ともあれこの国においては、「きらきら輝く」ことにこんな絵文字=☆彡やこんな絵文字=°˖✧◝(⁰▿⁰)◜✧˖°をつくって楽しんでいるのだから、希望がないわけではない。どんな時代になろうと、そういう心映えが人々のあいだから消えてなくなるわけではない

人間は、猿よりももっと他愛なく世界の輝きにときめいてゆくおバカな生きものなのだ。

貨幣の起源においては、「いちばん大切なもの」を一方的に差し出してよろこんでいたのであり、貨幣の本質は一方的な「捧げもの」であることにある。そういう「おバカ」なところにこそ、人の心(=人間性)のダイナミズムがある。

 

 

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キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。

令和の生贄

 

 

山本太郎の「れいわ新選組」のことは書いておかねば、と思った。

僕は政治オンチだから、彼のその行動がどれほどのインパクトを世間にもたらすのかはよくわからないし、その政策の是非を分析できる能力もない。

ともあれさっそくネトウヨたちが寄ってたかっていちゃもんをつけにかかっているが、どれもこれも程度の低いものばかりで、山本太郎にとっては痛くも痒くもないだろう。

「ただの悪趣味のパフォーマンスに過ぎない」といったって、わざとそうしているのだもの、「これはアイロニーです」とちゃんといっている。わざと悪趣味のおちゃらけをやって、令和フィーバーに水を差している。そうやって「ノイズ」というかたちの警鐘を鳴らして人々の関心を喚起しようとしているのだし、そのうえで現在の停滞した時代の「生贄」になろうとする彼の決死の覚悟を届けようとしている。

彼ほどに清純で熱い心を持ったネトウヨなんか、この国の総理大臣以下ひとりもいない。

この世に、死に物狂いほど美しいものはない。とはいえ彼は、困っている人に手を差し伸べようとしているだけであり、そんな当たり前の心が情け容赦なく踏みにじられているのが現在の政治状況なのだ。

信号のない道路を横断することができなくて立ち往生している子供や年寄りを見つけ、車を止めて渡らせてやるのはとても気持ちがいいことだろう。まあ山本太郎の「れいわ新選組」がしようとしているのはそういうことであり、現在の政治経済の支配層にはそういう精神がすっかり失われている。たったそれだけのことだが、それだけのことを取り戻すことが果てしなく困難な状況になってしまっている。

 

 

去年はクイーンの『ボヘミアンラプソディ』という映画が大ヒットしたが、そのクイーンに『ウィ・アー・ザ・チャンピオン』という歌がある。この場合の「チャンピオン」とは「メシア(救世主)」というような意味で、それを「ウィ・アー」というとき、「われわれは神に捧げられる生贄である」という自覚が込められている。

その当時のクイーンは、正当なロックアーチストというより、「トリックスター」という感じで評価されていた。まあセクシーな美声とともにファッショナブルで女子を中心に絶大な人気があったが、どちらかというとまあトリックスターであり、彼ら自身にも「本流ではない」という自覚はつねにあったはずで、おまけにリードボーカルフレディ・マーキュリーパキスタン系のマイノリティで、しかもゲイだった。彼らがチャンピオンのヒーローであるゆえんは、「人類の生贄」であることにあった。

山本太郎だって、もとはといえば政治家を目指していたわけではない高校中退の芸能人だったし、演説するときには「私は永田町のイロモノです」といつも言っている。イロモノ、すなわちトリックスター、気取ってなんかいられないという「生贄」としての自覚が彼の政治活動のダイナミズムを担保している。彼こそが「チャンピオン」であり、そのへんの低脳なくせに正義・正論を気取ってばかりいるネトウヨたちとはモノが違うというか、志の高さが違う。

彼が政治の世界でビッグスターになればおもしろいのになあ、と思う。

 

 

ろくでもない世の中だと思う。

今の政権が醜悪であることなんかだれでも知っているのだが、みんなが醜悪であれば、それが正義になる。それによって自分のずるさとかいじましさとかが許されるのなら、今の政権こそ正義だ。醜悪さこそ正義だ。今の政権は、ずるくいじましく醜悪に生きろと教えてくれている。それはとても安心することだ。それによって仲間内の関係が安定するし、醜悪な世の中なら醜悪に生きなければ認められない。

現在の権力者たちの醜悪さもさることながら、それにもたれかかって生きようとしている者たちがたくさんいることも大きな問題に違いない。権力者だけでこの世の中の動きをつくっているとは限らない。

まあ現在のこの社会は、こずるくいじましく生きてゆくことが正義であるかのように動いてゆくシステムになっている。システムから外れたら、うまく生きられない……そういう強迫観念を世界中が共有している。

生きることは大切だ、という強迫観念。醜悪にならなければ生きることはできないし、醜悪になることは正義だ。

いやまあ、そんなふうに生きたければそうすればいいのだけれど、それでこの生が輝き活性化するわけではない。

世界(他者)の輝きにときめいていなければ、人は生きられない。つまりそれは、「ときめき」は生きることよりも大切だということであり、「もう死んでもいい」という勢いで世界の輝きにときめいてゆくことが人間の普遍的な生のかたちである、ということだ。そうやって原初の人類は地球の隅々まで拡散していったのだし、われわれが小さな野の花を見つけて思わずときめくことにだって、そういう「もう死んでもいい」という勢いの「心の飛躍(=超越性)」がはたらいている。

あなたの心の「かわいい」というときめきを、はたしてAIに体験することができるだろうか。

政治や経済がどうのといっても人はだれもがときめき合う世界を願っているのだし, ときめき合わなければ政治も経済も安定しない。仲間内だけで「空気」という名の正義を旗印に結束しているだけでは、「ときめき合う」という関係は生まれない。結束して「空気」の外の第三者を忌み嫌い排除する。それは、忌み嫌い排除する心を共有しながら結束しているだけで、ときめき合い連携しているのではない。そんなことばかりしていたら、「ときめく」心はどんどん摩滅してゆく。

ときめく心を摩滅させなければ、あの醜悪な権力者たちのようには生きられない。醜悪にならなければ生きられないような社会のシステムが出来上がっている。生きることが大切であるのなら、醜悪になるほかない。「生きるため」とか「生活のため」といえば、どんないじましさや意地汚さも正義になる。

しかしそれでも人が人であるかぎり「もう死んでもいい」という勢いは持っているのであり、「もう死んでもいい」という勢いでときめいてゆかなければ生きられない。

 

 

世の中は、正しい方向に動いてゆくのではない。「感動=ときめき」がなければ新しい社会は生まれてこない。

戦前の大日本帝国は正義を生きようとして戦争の時代に突入してゆき、最後は惨めな敗戦で終わった。

とすれば戦後のこの国は、そうした正義の呪縛から解き放たれ、「感動=ときめき」を生きようとしていったのかもしれない。社会はこの上なく困窮していたが、人と人のときめき合う関係や映画や歌謡曲などの娯楽のムーブメントは大いに盛り上がっていった。そうやって東京や大阪などの荒廃した都市にどんどん人が集まってきたし、未曽有のベビーブームが起きた。そのとき多くの人々が、食糧や住居が確保されている田舎から、あえて不自由な暮らしを余儀なくされる大都市へとどんどん移住していった。それは、「滅びる」ことを覚悟してというか、「もう死んでもいい」という勢いで感動すなわち人と人のときめき合う関係を生きようとする態度だったのであり、その決意として憲法第九条が生まれてきた。

この生を活性化させるのは、この生に執着することではなく、この生を超えてゆこうとすることにある。

この生の尊厳は、「生命賛歌」によって証明されるのではない。

世界の輝きにときめき感動する体験が人を生かしている。生きることなんかろくでもないが、それでも世界は輝いている。人はこの生を嘆きかなしんでいる存在であるがゆえに、この世界の輝きにときめき感動する。

現代人は、この生の嘆きやかなしみを抱きすくめてゆくことができないがゆえに、この世界の輝きに対するときめきが希薄になっている。

この世界の輝きにときめき感動する体験は、この生に対する嘆きやかなしみから生まれてくる。敗戦直後の人々がなぜ世界の輝きに深く豊かにときめいていたかといえば、この生に対する嘆きやかなしみを深く切実に抱きすくめていたからだろう。

生きてあることを深く切実に問うなら、いつどんな時代であれ、嘆きやかなしみは沸いてくる。そのようにして人間は存在している。

 

 

人は、むやみな生命賛歌やナショナリズムを振りかざしながらヘイトスピーカーや右翼になる。移民を排斥しようとすることは人間性を喪失している態度だが、宗教を手放そうとしない移民もまた、新しい世界や人との出会いに対するときめきや感動を喪失している。彼らは、神との関係に潜り込んで出てこようとはしない。そして移民を排斥しようとする者たちもまた、みずからの生にしがみついている。

みずからの生や神との関係にしがみつけば、「出会いのときめき」はない。

この生を嘆きかなしむところには、神も生命賛歌もない。神は何もしてくれないし、この生はろくなものではない。しかしそこに立つことによってこそ、世界や他者は輝いて立ち現れる。

もちろんイスラム教徒がみずからの宗教を手放すことなどありえない。それはもう、ユダヤ教徒のヨーロッパ移住2千年の歴史が証明している。ヨーロッパ人の苦悩と受難は永遠に続くのか。宗教を携えた移民は排斥しなければならないと同時に、移民それ自体は排斥してはならない。

彼らにとってイスラム教を手放すことは生きることも死ぬこともできなくなってしまうことだが、その生きることも死ぬこともできない途方に暮れた心を抱きすくめて生きるのが人間性の自然・本質なのだ。

ヨーロッパ人にしても、イスラム教を手放さないことを許すとしても、それを当然の権利だと思われたら困る。そう思っているから、イスラム教徒やユダヤ教徒は迫害される。

宗教を携えて生きることが許されてしかるべきことであるとしても、それはけっして尊く美しい態度であるのではない。そんなところに人間性の尊厳があるのではないし、尊厳を意識するということ自体が卑しいのだ。

生きてあることに途方に暮れているのが人間であり、そこに立ってこそ世界や他者は輝いて立ち現れる。

 

 

ヨーロッパ人とアラブ人も、日本人と韓国人も、たがいに憎み合っている側面があるとしても、それでも「他者」は輝いている。

「他者は輝いている」という人間性の自然・本質を、たがいに受け止めなければならない。それは、生きてあることを嘆きかなしむ存在にならねばならないということであり、どちらも「自分は正しい」と思ってはならない、途方に暮れていなければならない。

正義にしがみついていたら、「許す」ということはできない。ナショナリストたちは、正義にしがみつきながら「他者」を「許さない」ことによって結束してゆく。国家とは「許さない」装置だ。正義とは「許さない」ことだ。とすれば「許す」とは、国家=法の外に出ることにちがいない。「生の外に出る」と言い換えてもよい。「もう死んでもいい」という勢いで許してゆく。そりゃあ「敵」を許すことはできないが、だれだって「人間」は許している。それは、他者に「生きていてくれ」と願うこと。他者が生きるためには自分が死なねばならないとしても、それでも「生きていてくれ」と願う。そしてそのように「もう死んでもいい」と思うとき、この生やこの心は活性化している。「許す」ことは心地よいことだし、それは、生きてあることを嘆きかなしんでいることによって可能になる。

つまり、「許す」ことは可能だし、そこにこそ人間性の自然・本質がある、ということだ。

おたがいいつまでも嫌いであったり許さなかったりするとしても、「許す」ことが人間ほんらいの心の動きである、という認識だけは持つことができるのではないだろうか。

「許さない」ことは、人間性の真実でも正義でもない。

人は、「この生」や「自分」を許していないが、「人間」は許している。なのに今どきは、「この生」や「自分」を許して、「人間」を許していない。

性悪説」というのだろうか。人間はもともと醜悪な生きものであるが、それを克服して正しい人間にならねばならない、という。そうじゃない。人間は醜悪な生きものになってゆくのだ。今どきのヘイトスピーチは、「野生の心」によるのでもあるまい。社会のシステムに侵されながら、そうやって歪んでゆくだけだろう。

人間的な「野生の心」は、生きてあることの嘆きやかなしみにある。なぜなら、この生を嘆きかなしむことが、この生を活性化させることだからだ。

 

 

まあ他者を「許さない」という感情は、後天的な権力志向の心から生まれてくる。それは、他者を支配ししようとしている感情である。他人が何をしようと何を思おうと、他人の勝手ではないか。人は「人間」を許している。「人間」に対して、「生きていてくれ」と願っている。だから原始人は遠来の旅人を歓迎した。それは、旅に疲れて死にそうになっている者だからであり、赤ん坊を育てようとするのと同じことだ。

死にそうになっているものほど美しく尊い存在もない。すべての基本はここにある、と僕は思っている。そういう存在に対して「ざまあみやがれ」と思うのか、「自己責任でなんとかしろ」と思うのか。生まれたばかりの赤ん坊に対しても、そう思うのか。思わないだろう。犬や猫や鳥だってそう思わない。子育てするなんて、とてもリスキーなことだ。ときには、自分の命を差し出すくらいの覚悟をしないとできなかったりする。しかしそれは、とても心地よいことでもある。自分の命を差し出して「生贄」になることの恍惚というものがある。なぜならわれわれは、生きてあることを嘆きかなしんでいる存在であるからだ。だから死にそうなものを美しいと思うし、死にそうなものに対して自分が「生贄」になろうとも思うし、「もプシンでもいい」という勢いで生きてしまったりする。というか、命のはたらきそのものが「もう死んでもいい」という勢いのことだ。

命がけの行為に対してはだれしも感動するし、だれにとっても生きてあることそれ自体が命がけの「死んでゆく」行為なのだ。息をすることは、そのぶん生きるエネルギーを消費しながら死に近づいてゆくことだろう。誰だって命がけで生きているし、よりあからさまに命がけであることに遭遇すれば、そりゃあ感動する。

「野生の心」は、死にそうなものに対して、「ざまあみやがれ」とか「自己責任だ」などとは思わない。ときには自分の命を差し出してでも生きさせようとする。生きてあることを嘆きかなしんでいる存在である人間にとって、自分の命を差し出すことはひとつの「快楽」であり、その勢いのもとでこそ命のはたらきは活性化する。

「許す」とは、他者に対して「生きていてくれ」と願うこと。それは、他者に向かって自分の命を差し出すということであり、そこにこそ人間性の自然・本質がある。

まあここでは、「神の許し」とか「神の裁き」とか、そんな次元のことをいっているのではない。人と人のあいだの「人情の機微」の基本的なところを問うているだけである。基本的に人は「人間を許している」存在であり、「憎しみ」とか「許さない」とか、そういう他者を裁こうとする心の動きは、文明社会のシステムから生まれてくる後天的なものに過ぎない。それは「野生の心」ではない。そんなややこしい心の動きが人間の本性などであるものか。

自分の中に人を憎む心があるのはそれが人間の本性(=原始的な感情)だからだ、とか、何をくだらないことをいっているのだろう。今どきのネトウヨたちはまあそんなところかもしれないが、そんなものはただの発達障害であり、文明病に過ぎない。この世のすべての人間がおまえと同じように醜悪な潜在意識をたぎらせているわけではない。

 

 

僕には、山本太郎ほどの清らかな心はないが、そのひたむきで命がけのふるまいを「美しい」と感動する心くらいはある。現在のこの国の「生贄」になろうとしているその心こそ、まさに「野生の心」なのだ。

原初の人類は、だれもが集団の「生贄」になってゆくようなかたちで二本の足で立ち上がっていった。そのようにして、猿とは別の生きものになった。

「生きる」いとなみとはエネルギーを消費する「死んでゆく」いとなみでもあり、「生贄」になろうとすることはすべての生きものの命のはたらきだともいえるわけだが、「進化」とは「生贄になる」ということであって、生きるためのコストパフォーマンスを拡大するということではない。原初の人類は、二本の足で立つというきわめて危険で不安定な姿勢を常態にすることによって猿よりも弱い猿になったのであり、それは、コストパフォーマンスを大きく失う事態だった。しかしそれが、結果的に目覚ましい進化へとつながっていった。

新しい時代が生まれてくる契機は、コストパフォーマンスを失うことにある。この国の太平洋戦争の敗戦が、まさしくそうだった。戦前の朝鮮・満州。台湾を植民地にしていた当時さえGDPは世界の6位くらいだったが、日本列島だけに閉じ込められて世界の最貧国のひとつになった戦後は、そこからたった40年でたちまち世界の2位にまで上り詰めていった。

現在のこの国は、コストパフォーマンスを失うことをとても嫌う傾向にあり、ネトウヨのようにすべての邪魔者をどんどん排除してゆけばコストパフォーマンスはよくなるだろうが、新しい時代に向かうダイナミズムは逆にどんどん減少衰退してゆく。つまり、だれも「生贄」になりたがらない世の中になっている。そうして多くの弱者がさらに追い詰められていっている。

そこで山本太郎の「れいわ新選組」が、われわれが「生贄」になる、と立ち上がった。ただ彼は、自分たちだけでも「生贄」になれば世の中は変わるかもしれないと期待しているのだろうが、それだけではだめだ。誰もが「生贄」にならなければ世の中は変わらない。

J・F・ケネディは、大統領就任演説で、「アメリカ市民のみなさん、国歌がみなさんに何をなしうるのかを問わないでいただきたい、みなさんが国家のために何をなしうるかを問うていただきたい」と語った。この文言の意図をどう解釈するかはさまざまだろうが、とにかく「皆さんが応援してくれるのなら私は死に物狂いで頑張る」という意味であるのなら、それはそのまま山本太郎の宣言でもある。

われわれのなすべきことは、山本太郎の「れいわ新選組」を応援したくさん当選させることだけであり、それが、われわれもまた「生贄になる」ことであるに違いない。

今は、賢い政治家よりも、死に物狂いで頑張る政治家が求められている。その「もう死んでもいい」と勢いに感動しながら、「祭りの賑わい」が生まれ、新しい時代が生まれてくる。

山本太郎のそのチャレンジが実を結ぶかどうかは、僕にはわからない。ただ、その姿勢は美しく感動的だと思うし、人間なら誰だって困っている人に手を差し伸べようとする衝動は持っている。僕としては、これによって現在の政権やネトウヨたちの醜悪さがいっそうあからさまに露呈される時代状況になってゆけばいいのになあ、と思う。

 

 

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キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。

人恋しさの集団性

 

 

「令和」という新元号名を聞いても、なんだかなあ、と思うばかりで、もう飽きた。

あんなセレモニーなどただのこけおどしで、それが成功したのか失敗したのか、よくわからない。

もうどうでもいい。

統一地方選挙の結果もなんだか低調で、人々は、どうしてこんな愚劣な政権を許してしまうのだろう。さしあたって自分が困っていなければ政治のことなんかどうでもいい、ということだろうし、困っていないのだから政権が代わってほしくないとも思うのだろう。とくに若者は。彼らは、スケジュールが代わることやコストを払うことを嫌がるし、ちょっとまあ自閉症的なところがある。余計なことにかかわりたくない。

もちろんそんな若者ばかりではないし、若者であれば、そんな気分も何かのはずみでかんたんに変わってしまうこともあるだろう。

世の中が変われば、若者の気分も変わってくるのだろうが、今は、若者を自閉的にさせる社会のシステムが上手にきつく出来上がっている。

若者が投票に行くか行かないかは、政策の問題ではない。お祭り気分にさせてやることができるかどうかだ。お祭りとして盛り上がらなければ、投票になんか行かない。

その点は右翼のほうがよく心得ている。元号のセレモニーやオリンピックはまさにそんなことだし、ヘイトスピーチで騒ぎ立てることだってひとつのお祭りであり、それが正義かどうかとか真実かどうかということなど、彼らの知ったことではない。

僕だって、現在の政権が間違っているかどうかということなどわからない。ただもう耐えがたく「醜い」と思うだけなのだ。

元号はすばらしい、という右翼の者たちの感動なんてまったくいじましいかぎりだが、それでもないよりはましでお祭り気分にさせてくれるし、それが投票行動につながる。

とにかく集団行動のダイナミズムはお祭り気分とともに起きてくるわけで、そういう感動を与えてくれないことには野党に風は吹かない。

 

 

日本列島の歴史だって、まさにお祭り気分とともに動いてきたのだ。

たとえば、起源としての天皇が九州から奈良盆地にやってきた征服者だったいうのは、後世になって捏造されたたんなる伝説に過ぎないのであり、そんなことくらいこの国のだれもが知っている。

まあ、それでもその裏に史実が隠されていると考える歴史家が多いし、右翼たちはひとまずそれを史実であることにしようといういじましく意地汚い合意で結束している。

そんなことは、史実とは何の関係もない。そういう伝説をつくりたがるのは世界中の共同体の普遍的な習俗であるが、原初以来の人類の歴史に照らして考えれば、まずどこらともなくたくさんの人が集まってきて大きな集団がつくられていったということ、そんなことは、あたりまえすぎるくらいあたりまえのことではないか。そんな安っぽい物語をまさぐっている前に、なぜ人間の原初的で普遍的な集団性について考えようとしないのか?

この国の起源としての天皇は、奈良盆地の民衆がみんなで仲良く暮らしてゆくための「象徴=シンボル」として祀り上げっていった、まあ「巫女」のような「カリスマ・アイドル」だったのだ。それが、奈良盆地の都市化とともに天皇という存在になっていった。それだけのことさ。それだけのことだが、今どきの凡庸な歴史家たちにはそれを考えるだけの想像力も探求心もない。

「そこに史実が隠されている」ということにすればかんたんだしおもしろくもあるのだろうが、そういう起源伝説が根も葉もない作り話であることは世界史の普遍的な法則であり、そこに考える余地があるとすれば、そういう根拠のない作り話が生まれてくる時代状況を問うことにある。

たとえばその伝説がつくられた6・7世紀ころの奈良盆地には日本中からたくさんの人が集まってきていて、九州に高天原という秘境があることを人々が知っていた、ということであり、その千年前の高天原に王国があったという考古学的証拠など何もないし、文字のない社会の千年前のことを一体だれが覚えているというのか。そんな話は一寸法師や桃太郎の「貴種流離譚」と同じで、世界中どこでも起源伝説は根も葉もないことにこそ存在意義があるのだ。

まあ日本人は歴史を修正したり消してしまったりすることが好きな民族で、それが「水に流す」という精神風土の伝統で、そうやって九州の山奥の村では「自分たちは平家の落人の末裔である」という起源伝説を語り継いできた。平家の落人の子孫が代々庄屋を務めてきた、ということがあるにせよ、その前には無人の山野だったという証拠は何もない。

古代ローマはオオカミに育てられた双子の子供が建国したとか、起源伝説は、根も葉もないというその「超越性」にこそ値打ちがある。まあこの話をすると長くなってしまうが、この「超越的な思考」で言葉や神という概念が生まれてきたのだし、人類の歴史は「超越的な思考」とともに進化発展してきたともいえる。

 

 

お祭り気分が盛り上がらなければ集団のダイナミズムは起きてこない。弥生時代奈良盆地がその当時の日本列島でもっともダイナミックな人口爆発が起きた土地だったすれば、それはお祭り気分で賑わっていたということであり、それによって人々の.生殖活動が盛んになっていっただけでなく、周辺から訪れてくる旅人もたくさんいたということを意味している。旅人が持つ熱い心やせつない心というかその「人恋しさ」は祭りの盛り上がりにはとても役に立つ。

まあ終戦直後の東京や大阪だって同じようなムーブメントが起きていたのであり、そこは、田舎と違って極めて食糧事情が悪く、日本列島でもっとも困窮している土地だったのに、もっともたくさんの人が集まってきてもっとも賑わっていた。人類史における都市は、祭りの賑わいとともに生まれてきたのであって、政治経済的な理由によるのではない。

もしも「神武東征」という征服者伝説をつくったのが奈良盆地の民衆だったとすれば、じっさいの権力者だって天皇の家来にすぎない、ということにしたかったからだろうし、権力者にとってもそのほうが民衆支配に都合がよかったのだろう。この国のように権力者と民衆との「契約関係」のない社会では、そういう「構造」が必要だった。

われわれ民衆は契約関係もない権力者になぜこうもかんたんに支配されてしまうのかといえば、それが「天皇の命令」として下りてくるからだろうし、まあ世界史的にも民衆支配は「神の命令」として出来上がっていったのだ。

征服者は、まず神との関係の仲介役として民衆との「契約関係」を結ぶことによって権力支配を確立する。神は人類を支配するが、同時に救ってもくれる。だから西洋の支配者は民衆を救う義務を負っている。

しかしこの国の天皇は支配もしなければ救ってもくれない。ただ一方的に民衆を祝福しているだけであり、民衆もまた一方的に天皇を祝福している。もともとこの国の民衆と天皇とのあいだには、利害関係で結びついた「契約」などというものはない。だからその「契約」を偽装するために支配者たちは「神武東征」という物語を捏造したのだし、民衆もひとまずそれを受け入れた。なぜならそのとき民衆の祭りがすでに大規模・広域に拡大していたから、祭りを管理運営することが必要になっていたわけで、その「まつりごと」するものとして、天皇と民衆のあいだに立った支配者が登場してきたのだ。

この国の最初の「王=天皇」は、征服者ではなかった。そのとき天皇は民衆が勝手に祀り上げている存在であり、民衆が天皇という王を殺して革命を起こすということはあり得ないし、支配者にしても、天皇を殺したら民衆支配が成り立たなくなる。天皇制が1500年以上続いてきたというこの国の歴史的な社会の構造は、起源としての天皇が「征服者」でなかったことを物語っている。征服者としての王は殺してもかまわないが、神としての王は殺すわけにいかないし殺すことができない。

なんのかのといっても天皇制がこんなにも長く続いてきたのは、天皇が征服者ではなく「神」のような存在だったからだ。しかも、支配しない神だったというか、支配しないことによって神であることができた。この国と西洋やアラブとは、神という概念そのものが違う。

この国の「神=かみ」は、支配しないし、救いもしてくれない。なぜなら、もとはといえば、ただの祭りのアイドルだったのだもの。

江戸時代の吉原の花魁は菩薩という神のような存在だったし、今どきの舞妓やAKBや宝塚や初音ミクだって、ひとまず「巫女」であり「かみ」なのだ。

 

 

征服者は、かならず別の征服者に滅ぼされる。そうやって藤原氏も平家も源氏も北条も足利も織田も豊臣も徳川も、すべて別の征服者に滅ぼされた。それが歴史の法則だ。

天皇家は、最初から征服者ではなかったから1500年以上続いてきた。天皇は、支配者ではない。民衆によって一方的に祀り上げられているいわば「生贄」であり、「象徴」であるとは「生贄」であるということで、天皇はその立場を受け入れている。

丸山真男をはじめとする戦後左翼は「天皇が存在するかぎり日本人の精神的自立はない」などとよく言ってきたが、その自立できない「寄る辺ない心」こそ日本列島の伝統的な精神風土であると同時に人類史の普遍でもある。原始人は、「寄る辺ない心」を携えて地球の隅々まで拡散していったし、人類はその心を共有しながら際限なく大きな集団をつくってきた。

結束すれば邪魔者を排除しようとするし、大きな集団になってゆくことはできない。寄る辺ない心で緩くつながり連携してゆくから、際限なく大きな集団になってゆくことができる。

「結束」ではなく「連携」、この「無主・無縁」の「祭りの賑わい」こそが人類の集団性の起源であり究極のかたちなのだ。

「祭り」とは旅人との出会いの場であり、同時にだれもがどこからともなく集まってきた旅人になっているわけで、その「寄る辺ない心」の「人恋しさ」とともに祭りの賑わいが生まれてくる。その「人恋しさ」こそが、人類の集団ならではの「連携」のダイナミズムを生み出す。

最初からくっついて「結束」していたら、「人恋しさ」も「ときめき」も「連携」も生まれてこない。

 

 

因果なことに「移民」は原初以来の人類普遍の生態であり、文明社会だって、「移民」を成り立たせるためにはどうすればいいかという方策をあれこれ講じてきた。たとえばこの国の村社会の新しい移住者は、村の掟や慣習に従うことをきつく約束させられ、ときに数年間は村の最下層の身分に甘んじていた。移民=移住者の作法というものがあったし、そのうえで温かく迎えられもした。それはたぶん島国だから成り立っていた慣習で、昔も今も外国からの移民にとってはけっして楽なことではないのだが、三世代住み続ければみんな日本人になってしまう。そして「日本人になる」とは、何か日本人であることの基準があるのではなく、アイデンティティも原則もない「寄る辺ない身」になるということだ。

「寄る辺ない身」とは、故郷を喪失したものであり、故郷を「遠きにありて思う」もののことであれば、「移民」であることこそ「日本人」であることだともいえる。

人類拡散の行き止まりの地である日本列島では、だれもが移民である集団として歴史を歩みはじめ、そういう「寄る辺ない心」を基礎にした文化や集団性をはぐくんできた。

人は誰もが、胎内という故郷を喪失してこの世界に生きている。あるいは、「無=非存在」という故郷を喪失してこの「存在」の世界に現れ、やがてまたそこに還ってゆく、ということかもしれない。ともあれこの世界に生きて存在しているということは「寄る辺ない」ことであり、そういう「喪失感」による「かなしみ」や「もどかしさ」や「とりとめなさ」や「不安」や「いたたまれなさ」は誰の中にも宿っている。

人は「喪失感」を抱きすくめながら生きて存在している。誰もが生まれながらに故郷を喪失した「移民」であり、人間性の自然に立ちかえれば、移民を温かく迎え入れようとする心は誰の中にも宿っている。

 

 

たとえば小学校のクラスに移民の子供が転校してくれば、大歓迎するのが子供の世界の自然だろう。子供にはナショナリズムなんかないし、植え付ける必要もないだろうし、子供は「寄る辺ない心」を携えて生きている。子供から子供の心を奪っていいわけもないし、子供の心のまま成熟してゆくことこそ人類の理想であり切実な願いであるのかもしれない。まあこの国の天皇はそういう存在として長く祀り上げられてきたわけで、そういう理想のもとに寄り添い合ってゆくのがこの国の集団性の作法になってきた。誰もがそういう「寄る辺ない心」を携えた移民のような身であれば、そういう「理想=願い」を共有してゆかなければ集団は成り立たなかった。いや、いつの間にか自然にそういうかたちの集団になっていった、というべきだろうか。ともあれ、そのようにして長く天皇制が続いてきた。

人と人が他愛なくときめき合い助け合い連携してゆく社会をつくることは、もっともかんたんなことであると同時にもっとも困難なことでもある。文明社会には、国家主義とか宗教主義とか競争主義とか経済優先主義とか、いろいろそんなややこしいことがそれを阻んでいる。大人になるとはまあ、そんな文明制度に染まってゆくことで、だから子供や若者は「大人になりたくない」と思うのだし、とくにこの国にはそういう精神風土の伝統があり、「負うた子に教えられ」といったり「若衆宿」がつくられたりしてきた。子供や若者には、子供や若者特有の文化や集団性がある。そこから何かを学ぼうとするのが、すなわちこの国の天皇制のかたちなのだし、けっきょくつねに時代はそこに還ってゆくのが人類世界の普遍的な歴史のなりゆきなのではないだろうか。

 

 

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『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。

天皇と民主主義とEUと

 

 

ブログを書くといっても、どうやら僕は、その時々のネタを拾いながらそのつど目先を変えて書いてゆく、ということには向いていないらしい。

どうしても一つのテーマを際限なくあれこれ考えていってしまう。

それでまあ直近の関心事としては、元号も変わることだし、イギリスはブレグジットで大揺れだし、「天皇制」と「民主主義」と「EU」の三題噺であれこれ行き当たりばったりに書いていってみようかと思っています。

 

 

とりあえず「令和」という元号名なんか好きじゃないということを前回書きました。

「令和」なんて、万葉集から取ったといっても「やまとことば」でもなんでもないし、中国古典の孫引きだということがわかってしまった。

やまとことばにするなら、「あをによし」の「青丹」でも「ちはやぶる」の「千早」でも、いくらでもつくれるのに、なぜそんな中国古典の孫引きというような野暮ったいことをしないといけないのか。

まあ「令和」なんて、いかにも右翼の好きそうな権力的権威的な意味の文字だが、一般の民衆は意味なんかどうでもよくて、ただ「れいわ」という音の響きだけを聞くぶんにはべつに不愉快でもない。「きれい」の「れい」なのだもの。

とにかくそんなものはただの「記号」なのだから、そのうち慣れる。

この元号で「日本人に生まれてよかった」などと再確認しているのは鈍感で頭の悪い右翼だけだし、世界中が今、日本には頭の悪い右翼がたくさんいると気づき始めているらしい。

こんな元号なんか日本の恥さらしだということを、右翼の者たちはわかっていない。もっとも、アメリカもイギリスもフランスもドイツもアラブ諸国も中国も韓国もそれなりに恥をさらしているのだから、世界中が病んでいるともいえる。

 

EU(ユーロ連合)の具体的な運営のことについては何も知らないが、その根本的な精神は「戦争のない世界をつくる」ということにあるに違いない。だったらそれは、この国の憲法第九条と同じだろう。

EUの経済がドイツの一人勝ちでEUの運営システムが一部のグローバリストに牛耳られているとか、いろいろやっかいな問題はあるのだろうが、とにかく人類が「戦争のない世界」をつくろうとする一歩を歩み始めたことにまったく意味や意義がないともいえないだろう。

人々の「もう戦争はしたくない」という心模様に付け込んで、ドイツやグローバリストたちがのさばってきてしまった。

またドイツだって、ナチス時代の贖罪を果たすためには移民受け入れのグローバリズムを推進するしかなかった。

この国であれヨーロッパであれ「移民反対」を叫ぶ右翼は少なからずいるが、そんなことをいっていたら「戦争のない世界」などつくれない。とうぜん迷惑な移民もいるだろうが、人が旅して移住してゆくのは原始時代以来の人類普遍の生態であり、もとをただせば世界中のみんながどこかからやってきた移民である。

とくに近代に入ってからの移民であるアメリカ人やオーストラリア人が、どうして移民を拒否することができようか。ヨーロッパ人や日本人だって原始時代の人類拡散の果てにその地にたどり着いた移民であるわけで、人類の歴史を考えたなら、移民を拒否できる理由なんか成り立たない。

 

 

先日の平成天皇は「戦後の日本人の多くが南北アメリカ大陸に移住して受け入れてもらったのだから、現在のわれわれもアジアの各地からやってくる移民と仲良くできるようにしよう」と、涙声で国民に呼びかけた。

今どきの右翼は、そんな天皇の心とは真逆のことを主張しているわけで、それは昔なら「不敬罪」であるのだが、彼らはそのことをわかっているのだろうか。

天皇は日本人としての「姓」を持たない存在であり、日本人ではないと同時に日本人を超えた日本人である。そのように日本人であることのアイデンティティを超えてゆくのがほんらいの日本人であり、今どきの右翼も少しはそれを見習ったほうがよい。

天皇であることの「かなしみ」というものがある。天皇アイデンティティを持たないいわば「無私」の人であり、彼らのような「日本人に生まれてよかった」などといういじましい自己撞着の心は持っていない。

そうしてまた「私は憲法に定められた<象徴>としての役割に殉じたい」という感慨も漏らしていた。

天皇が「象徴」であるとはつまり、天皇はもっとも日本人らしい日本人であるということ、われわれは天皇から「日本人とは何か」ということを学ぶのであって、「日本人に生まれてよかった」という気分をまさぐるために天皇を祀り上げてきたのではない。

江戸時代までの日本列島の民衆に、「日本人」という自覚などなかったのであり、だから、国旗も国歌もなかった。

 

 

われわれ日本列島の民衆には、歴史の無意識(=記憶)としての「日本人という自覚」はない。

日本人は、日本人であることを「知っている」のではなく「学ぶ」のだ。われわれは「日本人とは何か」ということを知らない。日本人は、永久に「日本人とは何か」ということを学び続ける。われわれは、日本人であって日本人ではない。大和朝廷が生まれてからすでに1500年以上たっているが、その間の1400年は日本人という自覚を持たないまま歴史を歩んできた。日本人という自覚など持たないのが、日本人なのだ。

われわれは、日本人という以前に、生きてあるというそのことを「あはれ」とも「はかなし」とも「無常」とも思って歴史を歩んできたわけで、そんな者たちがどうして「日本人である:と自覚することができよう。

天皇という「無私の人」は自分が日本人だとは思っていないし、戸籍上の日本人であるとい身分も持っていない。われわれは、天皇からその「無私」を学ぶ。だからわれわれだって日本人という自覚に執着なんかしないし、ナショナリズムも持たない。そうして日本人ではない天皇は、けんめいに日本人のことを想う。

日本列島で暮らしていれば、自分以外はみな日本人だ。われわれだって日本人のことを想うが、自分が日本人だとか日本人に生まれてよかったなどということは思わない。天皇とともにあるからこそ、そんなことは思わない。

わかるかなあ、ばかな右翼にはわからないだろうなあ。

われわれは「日本人である」のではなく「日本人になる」ということ、それを天皇から学ぶのであり、百田尚樹櫻井よしこから学ぶことなんか何もない。

われわれは「日本人であることを超えてゆくことによって初めて日本人になる」ということを天皇から学ぶのであり、そうやってこの国の天皇制が1500年以上続いてきた。したがって、「日本人であることのアイデンティティ」とか「日本人に生まれてよかった」などということは日本列島の伝統の精神風土にはない。

 

 

移民が「日本人になる」のならそれはめでたいことで、この国ではみんな「日本人になる」ということをして生きている。日本人には「日本人であること」のアイデンティティなどない。そういう寄る辺ない身のよりどころとして天皇を祀り上げる歴史を歩んできた。移民がアイデンティティの喪失者だとしたら、日本人だってじつは同じ身の上であり、天皇がいなければ日本人になれない。そして日本人であることは日本人であることを超えていることであり、日本人であることを守るために移民を拒否するという理屈は成り立たない。

日本人であることのアイデンティティなど持たないのが日本人であり、そのためにわれわれは天皇を必要としている。

天皇の「権威=尊厳=超越性」は、アイデンティティを持っていないことにある。その人は、ひたすら我が身を捨てて民の暮らしの安寧を願っている。また、日本人としてのアイデンティティを持っていないのだから、彼の願いは日本人に対してというより人類全体に向いている。だから天皇は、移民を拒否しない。

人類は移民を拒否しない。みんな移民の末裔であり、移民を歓迎する歴史を歩んできた。

それなのに、なぜ今移民を拒否するのか。拒否せずにいられないような社会にシステムがあるし、歓迎されないものを持ち込んでゆく移民もいる。歓迎してやらなければ彼らはそれを手放さないだろうし、手放さないから歓迎されないということもある。

宗教とか政治経済のシステムとか、のどかな原始時代と違って現在の文明社会には、さまざまなややこしい問題が立ちはだかっている。

 

 

「出会いのときめき」とともに移民が歓迎されるような社会はどのようにしてつくられるのだろうか。

ただもう他愛なくときめき合っていればいいだけなのに、そんなことくらい小学生でもできるのに、それができない。

子供でもできることが、なぜ大人にはできないのか。

歓迎できないこと、歓迎しないことが正義のつもりの大人たちがたくさんいる。

歓迎されないものを抱え込んでやってくる移民もたくさんいる。

人類史の伝統においては、移民は歓迎されるはずの存在だが、現代社会においてはどうしてもその関係が築けない。誰が悪いといってもせんないことで、この世界のシステムがすでに病んでしまっている。

移民が怖いとか鬱陶しいと思う人が少なからずいることは仕方のないことであるが、しかし移民を拒否することが正義であるかのようにいうのは、ほんとにくだらない。そういう人たちが政治権力を握ればそれは正義になるが、しかしそれが人間性の普遍的な自然であるとはいえない。

移民受け入れの政策が間違っているとはいえない。それは人類史の自然であり理想であるのだが、現在の状況としてそれができない要素があることもまた否定できない。移民は受け入れねばならないと同時に、受け入れてはならない。TO BE OR  NOT TO BE……つまり、神の審判はどこにあるか、ということだろうか。ヨーロッパはいつも、そうやって歴史を歩んできた。

 

 

権力(=王)の上に神がいる。それはアラブ移民も同じで、イスラムの神は、イスラムの神を捨ててはならないと命じている。それは、権力=国家よりももっと絶対的なものなのだ。ユダヤ人だって二千年のあいだユダヤ教を捨てなかったのだから、現在のアラブ人だってアラーの神を捨てるはずがない。

アラブ移民が迷惑であるのは、何はともあれ彼らがイスラム教徒であることあり、イスラム教を信じることは正当だと思っているその態度にある。

ユダヤ教徒は、「この世界はエホバの神のものでありわれはその神に選ばれている」と信じている。それはもう、イスラム教徒だって同じだ。

ヨーロッパ人は、二千年たってもユダヤ人と和解できなかった。だったら、アラブ人とも永遠に和解できるはずがない。宗教というのは、ほんとうにやっかいだ。人と人が和解することはできても、宗教と宗教はけっして和解しない。「宗教の自由」などというのは、和解するなといっているのと同じなのだ。

ヨーロッパ人と和解できないアラブ人と、ヨーロッパ人はなぜ和解しなければならないのか。和解しないのは宗教的な正義だが、人としての道というか自然から外れている。外れてはいるが、移民が怖いとかいやだという気持ちも人としての自然な感情にちがいない。

現在のヨーロッパはまさにまさに、そうした「TO BE OR NOT TO BE」の状況に立たされている。この地球上に宗教というものがなければこんな煩悶などしないですむし、政治経済上の理由で反対したってゆえなきことだとはいえない。

しかしそれでも移民を受け入れることは人類史の自然であり伝統であり、移民ということが起きない歴史など、これからもきっとありえない。

政治経済上の理由で移民をするといっても、欧米や日本にあこがれて移民をするということもあるわけで、その部分だけは否定できないし、あこがれで移民するなら宗教なんか捨ててこい、ともいえる。民族性というか、たんなる祭りの行事や習慣としての宗教なら許すことはできても、われわれまでもアラーの神に支配されることや、われわれの職業を奪われたりわれわれまでも安い給料で働かさされるのはごめんだ。ただ他愛なくあこがれて来るだけなら歓迎するが、そんな子供や原始人のような話が今どき成り立つはずもないし、しかし成り立ってしかるべきであるのが人類の理想なのだ。

 

 

そりゃあ、もろ手を挙げて歓迎するというわけにはいかない。

宗教を捨ててくるのなら歓迎する。しないのならなら受け入れないし許さない……そういってもかまわないと僕は思うのだが、そうなったらみんな「隠れキリシタン」のようになってしまうのだろうか。宗教は本質的で大切なものだという合意があるからやっかいなのだ。世界中が「宗教などどうでもいい」と思うようになればそんなことにはならないだろうが、そんなことはもう永遠に不可能なのだろうか。

そんなような気もするが、しかし日本列島には非宗教的な思考や態度の伝統があるように思える。なぜなら神道の本質は宗教ではないからだ。国家神道なんか中世以降のものだし、大和朝廷が成立する以前のたんなる祭りの行事としての神道は宗教でもなんでもなかったし、その伝統は各地の鎮守の森のお祭りとしてちゃんと引き継がれている。「五穀豊穣」とか「国家安泰」や「健康祈願」などというのは後の時代に付け加えられたことで、最初はただみんなでワイワイガヤガヤと賑わっているだけの行事だったのだし、それがいちばん大事なことだという気分が日本列島の伝統の精神風土としてあるわけで、そのためのよりどころとして天皇が祀り上げられてきた。

大和朝廷成立以前から奈良盆地の民衆に祀り上げられていた起源としての天皇は、もちろん神武天皇などという架空の人物ではなく、たんなる祭りのアイドルとしての「巫女」という舞の名手だった。まあこのことを語ろうとすると話はとてつもなく長くなってしまうのだけれど、とにかく古代の奈良盆地の民衆は宗教として神道を生み出したのではなく、仏教という宗教に対するカウンターカルチャーの非宗教として、ただの祭りの習俗に過ぎなかったものを神道というかたちにしていったのだ。

だから日本人は、今でも宗教心が薄い。昔の人は信仰心が篤かったなどというのは嘘だ。昔から、それこそ仏教伝来のときからずっと、じつは思考も態度もとてもいいかげんだったのだし、いいかげんだったから世界的にはちょっと風変わりな日本文化が洗練発達してきたわけで、戦前だろうと江戸時代だろうと中世だろうと古代だろうと、じっさいにはとてもいいかげんだったのだ。

 

 

とにかく、そういうことをこれからどう書いてゆこうかと今思いあぐねているわけだが、べつに日本賛歌がしたいわけではない。僕は「日本人に生まれてよかった」などとは思っていない。人類普遍の本質や自然が知りたいだけだ。

僕は、日本人であること以前に生きてあることそれ自体に途方に暮れているし、宗教というよりどころを持たない寄る辺ない心で途方に暮れているのが日本人だと思っている。そして、その心を抱きすくめながら生きるためのよりどころとして日本人は天皇を祀り上げてきた、と考えている。それはつまり、他愛なくときめき合う人と人の関係で生きてゆきたい、ということ。

というわけで、ここでは「いかに生きるべきか」とか「幸福とは何か」というようなことは書かない。生きることなんかしんどいばかりでわけがわからないよ、という愚痴ばかり書いていこうと思っている。生きてあることの「嘆き」や「かなしみ」を知っている人と対話ができればと願っている。

 

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『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。

「美しい日本」なんかどこにもない

 

 

新しい元号が発表された。

「令和」、万葉集の万葉仮名からとったというが、「れいわ」と中国式に読んで、中国式の漢字の意味で体裁をとっているのだから、やまとことばとは何の関係もない。総理大臣は「令和」にはこんな意味があるとかなんとかと吹聴していたらしいが、「何言ってるんだか、あほくさ」という感じである。政府もそのお抱えの学者たちも、そろいもそろってよくこんなバカげたことができるものだ。

万葉仮名の漢字を二つ拾いだして、それで漢字熟語をつくる……そんなことに何の意味や意義があるというのか。

万葉集からとるなら、たとえば枕詞の「あをによし」の「青丹」とか「ちはやぶる」の「千早」とか「ひさかたの」の「久方」とか、そういうかたちならまだうなずくこともできるが、これじゃあまさに「仏作って魂入れず」そのものではないか。

こんなやり方のどこに「日本精神」や「やまとごころ」があるというのか。「美しい日本」が聞いてあきれる。

「令和」なんて、中国式に読んで初めて形になる。「規律正しく和する」すなわち「国の命令にはおとなしく従え」といっているのだろう。いかにも右翼政権らしいいやらしいコンセプトだ。

人と人の「和」という関係はときめき合っていれば自然に生まれてくるのであって、「令」などという作為的なものを必要としない。

「法令」の「令」、権力者たちはそれに絶対的な力を持たせようとするし、民衆は泣く泣くそれに従っている。

どうしてこんないやらしい言葉を使いたがるのか、賛美したがるのか。

 

僕は、総理大臣の談話を直接には聞いていない。この頃はもう、あの人の声やしゃべり方を耳にするだけで、いたたまれなくなってしまう。もともと政治なんかほとんど興味もないのだけれど、あまりにも愚劣でグロテスクで、さすがに気になってしまう。

気にしなくてもいいようなましな政治をやってくれよ、とひとりの日本人としてそう思う。

日本人は伝統的に、国の政治に興味を持つことはしたくないのだ。だから、ナショナリズムなどというご立派な心もさらさらない。

しかしこんなにも愚劣でグロテスクな政権であるなら、気にしないで済ませることができないではないか。

日本人の国の政治との関係は、褒めもせずけなしもせず、ただ遠くからそっと見守る、というかたちであるのが理想なのだ。

目障りでなければ、それでいい。

しかし現在の政権は、あまりにも醜悪だ。とはいえ、そうとも思わずにやりたい放題にやらせてしまっている民衆の愚鈍さは、もっと情けない。

民衆が高い意識を持って暮らしていれば、政権だって多少は襟を正す。民衆が舐められている。そしてなめられているのは、政権にうんざりしている者たちではなく、政権を許している者たちだ。

許されていると思うから、あの連中がいい気になる。自分たちを許している愚鈍な者たちの心さえつかまえておけば政権は安泰だ、と思っている。それ以外の者たちは人間だとも思っていない。「弱者のための政治を」などといっても、聞く耳は持たない、弱者であればあるほど搾り取りやすいと思っているだけだ。

 

ともあれ現在の権力者たちに一番なめられているのは、「ネトウヨ」と呼ばれている者たちだろう。

権力者たちは多少なりとも自分の醜さを隠そうとしているが、ネトウヨたちは、驚くほどあからさまにヘイトスピーチを垂れ流し続けている。その執念深さはいったい何なのだろうと思うが、権力者がそれを許しつつ「もっとやれ」とけしかけてもいるからだろう。彼らは、権力者に甘えている。権力者が「許さない」という態度をとれば、彼らにはそれに反抗するような根性はない。彼らは権力者に支援されていると思っているし、権力者は彼らの存在をみずからの悪辣なふるまいの隠れ蓑にしている。まあそういう憎まれ畏れられる親衛隊がいれば、仕事がやりやすくなる。戦時中の特高警察のようなものだろうか。

権力者のお先棒を担ぐことは、この社会のシステムからこぼれ落ちていない、という安心になる。

権力のまわりには親衛隊が群がってくる。蜜に群がる蟻というか、システムからこぼれ落ちることの恐怖にせかされた強迫観念というか。総理大臣から末端のネトウヨまで、みんなしてそういう強迫観念にせかされている。そうして、とにもかくにもそういうグループの共同幻想によって「令和」という元号が採択された。とにかく、正義とは命令することで命令することが正義だと思っている連中なのだから、そういう言葉に引き寄せられてゆくのは当然だし、きっと「格調が高い元号名だ」と思っているのだろう。

「れい」という音韻は、命令の「れい」であると同時に、令嬢や令夫人の「れい」だし、「きれい・淡麗」の「れい」でもある。「れい」という音韻には、「格調が高い」とか「鋭い」というニュアンスがある。頭の中身が鈍くさくて下品なものほど、そういう言葉を好む傾向がある。

まあその言葉にどういうイメージを抱くかは人それぞれだし、いずれは単なる「記号」として習慣化してゆく。

ただねえ、万葉集からとったといっても、それはやまとことばでもなんでもないのですよ。つまりやることがちっとも日本的でも知的でも上品でもおしゃれでもない、ということ、無国籍的で無知で下品で野暮ったい、ということ。「令和」という言葉に罪はないとしても、それを採択した者たちの知性や品性にはうんざりさせられる。

僕個人が勝手に描くストーリーとしては、その発案を皇太子に頼み、「平和」という言葉が出され、その理由を聞かれて「みんなが知っていてみんなが好きな言葉はこれかなと思った」と答えれば、それがいちばんめでたいことだろう。

何はともあれ元号などというものは天皇家が決めるのが筋だろうし、皇太子が発案者になれば、その後天皇になったときに「象徴」としてのカリスマ性が与えられることになる。

元号を政府以下の下々のもたちで勝手に決めるなんて、いかにも政府が天皇を支配しているという感じで、あまり愉快ではないし、めでたさも大いにそがれてしまう。

とにかく元号なんてただの「記号」であり、民衆はひとまずそれを受け入れる。元号に罪はない。それを決めた連中の醜さが目障りなだけだ。

 

われわれ民衆は、どうしてこんなにもかんたんに支配されてしまうのだろう。ありえないほどに愚劣でグロテスクな者たちが権力の中枢を占拠してしまっている。愚劣でグロテスクな者でなければ権力の中枢に入ってゆけない、ということだろうか。そうして、そんな社会システムから振り落とされるまいとして権力にすり寄っていったり権力を容認したりしている者たちがいる。そうした現政権を支持するグループはこの国の多数派だろうか?

なんといってもこの国は政治に対する無関心的無党派層がいちばん多いのだから、現政権の支持者が多数派だとは一概にいえない。そこに異を唱えている者たちや、いろんな意味でこの社会のシステムの外に立っている者たちは、決して少なくはない。

この国の伝統においては、「民衆」とはこの社会のシステムの外に立っている存在であり、だからかんたんに支配されてしまうし、だから政治に関心がない。この国の民衆社会は、権力社会とは別の集団原理をもっている。だから「革命」が起きないのであり、と同時に、一日で民意が右翼から左翼に変わってしまうこともできる。それがまさしくあの敗戦直後の状況だったのであり、「水に流す」という文化、すなわち「みそぎ」の文化こそこの国の伝統にほかならない。

権力社会の集団性と民衆社会の集団原理は逆立している。前者が「法=令」のもとに「結束=和」してゆくのだとすれば、後者は、たとえば「祭りの賑わい」とか「貧乏長屋の助け合い」のように支配=被支配のない混沌のままに「連携=和」してゆくことによって盛り上がってゆく。

つまり、民衆社会の「和」は、「令和」などという言葉によって表現されるようなものではない、ということ。「和」などというものを権力社会が語るなんてしゃらくさい話で、おまえらが民衆社会から学べ、ということだ。

集団の「結束」は邪魔者を排除することの上に盛り上がるのであり、やがては自家中毒を起こして自滅してしまう。昭和初期のこの国が自家中毒を起こしたあげくに惨めな敗戦に向かって転げ落ちていったように。

「連携」こそこの国の集団性の伝統であり、それは民衆社会によって引き継がれてきた。

まあ、民衆社会がみずからの伝統を示さなければ、権力社会だって変わらない。

聖徳太子が十七条の憲法で「和を以て貴しとなす」といったとき、権力社会では傍若無人の権力闘争が習慣化し、権力者たちが権力のために次期天皇候補を殺し合うということが平気でなされていた。それが「令和」というスローガンによって引き起こされる事態であり、大日本帝国だろうと現政権だろうと、何も違いはない。総理大臣のまわりには、閣僚・官僚からネトウヨまで、忖度するイエスマンばかりで、この「結束」を「令和」という。

「和」という言葉を使えばそれですべてがオーケーというわけにはいかない。愚劣な連中の「和」は、愚劣な「和」でしかない。

「美しい日本」なんかどこにもない。「日本人に生まれてよかった」なんて、能天気なことをいってんじゃないよ。おまえらごときが「美しい日本人」なのか?

ほんとうに「美しい日本人」は、「自分以外はみな美しい日本人だ」と思っているから、自分が「日本人に生まれてよかった」などとはけっして思わない。僕は、うんざりすることが多くてとてもじゃないがそんな境地にはなれないけれど、そういう人がきっといるのだろうな、ということは信じられる。まあ、いようといまいと、それが「美しい日本人」なのだ。

 

 

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です。

EUと移民反対

『日本国紀』という本がバカ売れしているらしい。じつは僕もさっそく買って読んでみたのだが、歴史の教科書やウィキペディアに書いてあることを並べているだけだし、しかもその歴史的事実に対する著者の解釈もまったく愚劣で幼稚で陳腐で、どうしてこんな本を買ってしまったのだろうと後悔している。

悪貨は良貨を駆逐するとはよく言ったもんだ。われわれのだれもが新しい時代の到来を待ち望んでいるが、新しい思想や作品が万人に受け入れられるわけではない。ゴッホの例のように、新しい思想や作品は、当人の死後に評価されことが多い。つまり人々は、後になってから、ああそうだったのか、と気づく。

リアルタイムで多くの人々にもてはやされるのは、通俗的であることもひとつの大きな要素になる。

時代を超えた思想や作品は、受け入れられない。しかし人々は、時代を超えた新しい時代を待ち望んでいる。

現在のこの国は右翼の本が売れる時代であるらしいが、だからこそ右翼を超える思想や作品が待ち望まれてもいる。右翼の時代であるがゆえに、右翼はもはや「NEXT」ではない。

まあ、日本人に生まれてよかった、ということを扇動している本であるのだが、著者も含めて現在の日本人がほんらいの日本人であることができているか。われわれが待ち望んでいるのは新しい日本人であり、それがほんらいの日本人でもある。

僕としてはこんな低俗な本をもてはやしている人たちよりも、初音ミクや米津玄師を聞いている若者たちのほうがずっと日本人らしさを感じるし、その日本人らしさが世界で「クール」だと評価されてもいる。

この国の総理大臣をはじめとして今どきの右翼が世界で「クール」だと評価されているか。笑いものになっているだけではないか。

「日本人に生まれてよかった」などと自己満足しているなんて、少しも「クール」ではない。もともと日本人は日本人とは何かと問い続けている民族であり、日本人であること正味がよくわかっていないのだから、「日本人に生まれてよかった」などと思いようがない。日本人であることを超えたところに立っているのが日本人なのだ。自分が日本人であることなんか置き去りにしながらたとえ異文化であっても他愛なくときめいてゆくのが日本人であり、だから「日本人とは何か」と問わねばならないのだし、日本人であることから解き放たれているのがほんらいの日本人なのだ。そしてその他愛なさを、外国人から「クール」だと評価されている。

彼らは「日本人に生まれてよかった」と思っているから、「移民」に入ってこられるのをとても嫌がる。たいした日本人でもないくせに、たかが戸籍が日本人であるということだけに居直りしがみつき、それに満足しようとしている。なんとまあ、いじましいことか。

日本人であること以前に生きてあることそれ自体に「かなしみ=嘆き」を抱いているのが日本人であり、まあそういうことは、こんな傲慢で恥知らずな作家やそれをもてはやしている右翼たちよりも、15歳のギャルのほうがずっと深くかみしめている。

 

だれかが、こんなことをいっていた。

多神教の集団に一神教とが一人でも入り込めば、多神教はたちまち崩壊する。日本人は一神教の怖さを知らない」と。

だから移民反対だといいたいらしいのだが、知ったかぶりして何を偉そうなことをいってるんだか。

一神教は怖いに決まっているさ。たいていの日本人はそのことを知っているし、だからこの国は、全体としては一神教にならない歴史を歩んできた。

日本人の中にも一神教の人はいくらでもいるし、しかしそれを排除することはできないということも知っている。なぜなら「おかみ=権力」とは、法律という唯一絶対の神によって支配しようとしている一神教そのものだからだ。

この世の一神教はもはや宗教だけに限らない一つの観念のかたちになっており、日本人がそういうことに寛容であるのは、それすらも攪拌してしまう文化の伝統を持っているからだろう。

移民反対という、その純血主義そのものが一神教なのだ。

一神教が一人でも入り込むと多神教が壊されるだなんてただの強迫観念で、その強迫観念それ自体が一神教でしかない。怖いのはそういう一神教という強迫観念の持ち主がリーダーになって支配しにかかることで、それが、ナチス・ドイツであり、大日本帝国だった。

純血主義も拝金主義も右翼が正しいというのも法律を守らねばならないというも、つまるところ一神教なのだ。正義正論で支配しようとするそのこと自体が一神教で、正義正論を振りかざすことがアイデンティティの国家も宗教もすべて一神教だといえる。資本主義であろうと共産主義であろうと、一神教だろうと多神教だろうと、正義正論という「唯一神」に縛られたら一神教に決まっている

人類はもはや一神教的観念から逃れられないのであり、その観念を排除するのではなくどのように攪拌してゆくかというのが現在の人類社会の課題であり、その課題を負って現在のEUが困難な道を歩み続けている。それはいつか挫折するかもしれないが、おまえらみたいな観念的一神教徒が偉そうなことをいうな。彼らは、けんめいに一神教を克服し超えようとしている。もしもその試みが成功すれば、それは世界中の希望になる。

一神教が怖いことなんか当たり前だが、それを排除すればいいというようなものではない。それを克服し超えてゆかねばならない。お前らみたいなアホと違って世界は今、その難題に挑戦している。

あなたたちは、現在の「ヨーロッパの苦悩」に寄り添ってものを考えてみるということがなぜできないのか。

多文化共生なんて個人的にはあまり好きな言葉ではないが、世界中の人類の血が混じり合ってしまうこととそれぞれの地域で独自の文化が生成していることは人類史普遍の法則であり、おもしろいことに両者は矛盾しない。

一神教徒が千人二千人入って来ても、現実には集団の全員がそれの染まってしまうことはない。相互扶助のミツバチの群れの中にエゴイストが一人入ってきたら、みんなエゴイストになってしまうのですか。ミツバチはミツバチのままだし、日本人は日本人のままなのだ。古代の大陸文化や移民の受け入れの帰結は平安時代の国風文化だったのであり、平仮名は漢字という基礎がなければ生まれてこなかった。

多文化共生とは、棲み分けつつ連携してゆこうとする思想であり、その基礎原理は「生物多様性」にある。ここでいう「共生」とは棲み分けつつ連携してゆくということであって、別別になることでも同じになることでもない。一神教多神教かというような二項対立で考えてもしょうがない。

日本人どうしだって、みんなが同じ趣味思想になるのではなく、それぞれ違いを認め合いながら仲良く連携してゆこうということ。個人と個人の関係だって「棲み分けつつ連携」してゆこうとしている。

同じになるなんてうんざりだけど、連携しないと生きていられない。「カルチャー=文化」とは人々の思考や感性を同じにするものではなく、人々が連携するための触媒である。音楽が好きだといっても、クラシックが好きな人もいればジャズが好きな人もいるし演歌が好きな人もいる。また、クラシックが好きだといっても、ベートーベンが好きな人もいればブラームスが好きな人もいる。文化は、文化であることを自己否定し乗り越えてゆこうとする。そうやって新しい文化や新しい作者がどんどんあらわれてくる。

もともとのジャズとは即興の変奏曲=バリエーションであり、そうやってジャズを超えてゆくことがジャズという文化運動だともいえる。大阪なおみは、日本人の変奏曲=バリエーションであるがゆえに、もっとも日本人的であり、人々はそこに「新しい日本人」を見ているのかもしれない。

この世に正しいことなんか何もないという「混沌」を生きるのが日本的な多神教であり多文化共生主義であり、身体的血統的なルーツとかアイデンティティなんかどうでもいい。そうやってこの国の伝統においては、我が家は天皇家の末裔だとか朝鮮貴族の末裔だとか平家の落人の子孫だとかと嘘っぱちを宣言しても許されてきた。

純血日本人を名乗るあなたたちが、どれほど「日本的」であるというのか。純血などどうでもいい、ということこそもっとも「日本的」なのだ。

日本人が一神教の怖さを知らないのは、一神教すらも攪拌してしまう文化の伝統を持っているからであり、そんなに怖いのなら、そんなに純血が大事だというのなら、おまえら、クリスマスもハロウィンもバレンタインもするな。漢字も横文字も使うな。中華料理も西洋料理も食うな。キムチも食うな。

多文化を受け入れて移民は受け入れないというのは無理があり、「移民」は人類の歴史始まって以来の普遍的な生態であり、それはもう、どう「拒否」するかではなく、どう「克服」するかという問題なのだ。

つまり、日本人がそういう無原則的無国籍的な思考や感性を持っているということは、日本人であることを超えようとしているのが日本人である、ということであり、そうでなければ一神教という正義・正論を攪拌してしまうことはできないし、年月や季節とともに移ろい流れてゆくことはできない。

日本列島の古代も中世も明治維新の近代化も、すべて外国文化や移民を受け入れるというかたちではじまったのだし、それらを攪拌しながら新しい国風文化が生まれてきた。

大坂なおみは日本人じゃない」だなんて、そんな失礼でくそ厚かましいことをいっちゃだめだ。本人が日本人だと思っているのならまぎれもなく日本人であり、そこにどんな法律的な規則があろうとも、個人としての他人がとやかく言うべきことではない。

 

 

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です。

ハイブリッドの栄光

大坂なおみ全豪オープンで優勝した。

すごいことだ。去年の今頃は世界ランク70位くらいだったのに、ここにきてメジャータイトルを連覇して世界一位に上りつめた。

もちろんこの国では大フィーバーだが、一部では、彼女はジャマイカ人とのハーフで幼いころにアメリカに移住して日本語もよく話せないのだから日本人とはいえない、という意見も出ている。

僕はまあ、彼女の国籍が日本であろうとアメリカであろうとどちらでもいいのだけれど、ひとりのテニスプレーヤーとしてとても魅力的だし、お母さんが日本人で「大坂なおみ」という日本語の名前を持っているのならまぎれもなく日本人だろうと思っている。

彼らの言い分はこうだ。

日本人ともいえないような選手を無理やり日本人として祀り上げようとするのはいじましいナショナリズムであり、外国人コンプレックスでもある……というようなことらしいのだが、何はともあれ半分は日本にルーツがありアイデンティティも本人が日本人だと思っているのなら日本人であるに決まっているし、彼女の肌の色や身体能力を問題にして「日本人ではない」とまで言うのは、彼女に対して失礼だろう。

たとえ両親が日本人で日本生まれの日本育ちの純粋な日本人であっても、いろんな日本人がいる。色の白い人白くない人、太っている人痩せている人、背の高い人低い人、顔の丸い人細長い人、健常者と障害者、美男美女とブスブオトコ……日本人であることの基準なんか。よく考えたらあってないようなもので、本人が日本人だと思っていてまわりもそう認めているなら、日本人以外の何ものでもないし、ジャマイカに行けば「私はジャマイカ人です」といえばいい。どちらも間違っていない。

ブラジル移民でブラジル国籍になって、日本語のしゃべれない二世や三世でも自分のことを日本人だと思っている人は少なからずいる。

大坂なおみの身体が何であれ、彼女から日本的なハートとは何かということを教えられていたりする。

日本人であることの嘆きやかなしみは日本人の伝統だし、日本人は日本人であることを超えたいと願っていたりする。だからバイリンガルがうらやましがられるし、いろんな意味で「日本人離れした日本人」はみんなのあこがれだ。日本人のくせにおっぱいの大きなギャルと、肌の色が濃い大坂なおみと、どれほどの違いがあるのか。

現在の日本女子陸上界の中長距離で売り出し中の高松智美ムセンビという19歳の選手は、ケニア人とのハーフで、顔や肌の色もその跳ねるようなバネのきいた走り方も大いにアフリカ的で日本人離れしている。この娘も幼いころにケニアから移住してきたらしいのだが、彼らからすると日本人ではないのだろうか。大阪育ちの彼女は、インタビューや友達との交流では、ひと昔前のこの国の少女のようなとても愛らしいはにかみ方をする。

本人が日本人だと思っているのなら、日本人だと認めてやればいいではないか。

大坂なおみを日本人として応援しようとする気持ちも、それ自体とても日本的で、「日本人離れ」していることこそ日本人の普遍的なあこがれなのだ。

「凡庸な悪」などという言葉があるが、「凡庸な日本人」であることに居直り、「日本人に生まれてよかった」などと思考停止しているのは日本人としてとても恥ずかしくいじましいことで、「日本人離れ」していることに対するあこがれを失ったら、日本人であることができない。

 

ようするに彼らは「移民」が嫌いなのであり、韓国も中国も嫌いであるらしい。

べつに嫌いであってもいいのだけれど、仲良くしなくてもいいというわけにはいかない。彼らだって国交断絶や戦争を望んでいるわけでもないだろうが、そんな空気を煽れば日本人が結束できるという幻想があるし、そうやって日本人として正当性を確認したいのだろうし、これもまた「凡庸な日本人のいじましさ」であり、とても危険だ。

ヨーロッパであれこの国であれ、移民問題の根本は、移民がいけないのではなく、移民と仲良くできないことにあり、そのことについてわれわれはもっと考える必要がある。もちろんそれには移民の側にもそれなりの節度を持ってもらいたいのだが、「日本人に生まれてよかった」などとほざいている「凡庸な日本人」にも問題がないわけではない。

現在のイギリスは、「凡庸なイギリス人」が移民拒否を叫んでブレグジットを決めたあげく、大きな社会不安と混乱を引き起こしている。

人類拡散の行き止まりの地である日本列島とヨーロッパは、いろんな地域から顔かたちも思考や感性も違うさまざまな人々が集まってきて、そこでとりあえずみんなで仲良く連携してゆこうとする文化を育ててきたのであり、今どきよくいわれている「多文化共生」の本家本元だともいえる。

「多文化共生」なんてあまり好きな言葉ではないが、ともあれそれは「生物多様性」という自然に還ろうとする思想でもあり、べつに彼らのいうちんけなナショナリズムの問題なんかではない。むしろEUのように、ナショナリズムを超えようとする思想だともいえる。

彼らの「移民反対」や「日本人は均質な民族である」という薄っぺらな思考こそ、まさしくちんけなナショナリズムそのものだろう。

「多文化共生」は原理主義的な硬直したお題目に過ぎないだなんて、何を下らないことをいってるんだか。その概念の基礎には「生物多様性」という自然があり、自然に対するあこがれは人間の本能のようなものだ。

生物多様性」は、生物間の棲み分けと連携の上に成り立っており、世界の国どうしも日本人どうしも、ひとつになることはないが、棲み分けつつ連携してゆこうとしている。

たとえば人間の体には無数の微生物が棲みついており、体の分子と棲み分けつつ連携している。その微生物がなければ体のはたらきは成り立たない。まあそういうことで、良くも悪くも自然=生物多様性に還ろうとすることは、現在の世界の潮流だろう。

「日本人は均質な民族である」という思考こそ、よほど硬直した原理主義のお題目で、顔かたちも性格や思考もてんでばらばらの混沌のまま連携してゆくのが日本列島の伝統的な集団性であり、彼らは帝国主義的宗教的な「秩序」と「結束」に対する信仰が強すぎるのであり、それは人間性の自然でも日本列島の伝統でもない。

 

彼らは、「EUはすでに破綻している」と批判し、右翼勢力の台頭を持ち上げる。

まあ今のご時世ではその「ちんけなナショナリズム」が商売になるのだから「もうかってまっか」「おきばりやす」というしかないのかもしれないが、EUでなんとか踏ん張ろうとしているヨーロッパ人が彼らよりも頭が悪いわけではないし、彼らよりも愛が薄いわけでもない。

国と国が国境を越えて仲良く連携してゆこうとして、何が悪いのか。あなたたちはなぜ、その困難な挑戦にエールを送ることができないのか。

彼らのいう通りにしてよくなるという保証なんかないし、「よくなる」という予定調和の前提を欲しがるそのさもしさいじましさはいったい何なのだ。

ヨーロッパは今、「よくなる」という保証もないまま、その困難な道をけんめいに突き進もうとしているのではないですか。たとえそれが挫折したとしても、「間違っていた」とは言えない。それはそれで、人類史の財産になるのだろうと思える。

太平洋戦争のぶざまな敗戦だって、この国の歴史の大切な財産だろう。彼らのような歴史修正主義者の「正義の戦争だった」ということが財産であるのではない。「ぶざまだった」というそのことが財産なのだし、だからこそ戦後復興のダイナミズムが起きた。戦後復興は、食糧危機をはじめとしてさまざまな艱難辛苦を克服してゆく過程だったはずだ。その艱難辛苦に耐えられたのは、「ぶざまだった」という後悔や絶望にあったからだろう。

今頃になって「あれは正義の戦争だった」と言い出したあげくに世界中の笑いものになって何がうれしいのか。正義であろうとあるまいと、とにかくぶざまに負けたのであり、地面に頭をこすりつけるようなその後悔と絶望こそが財産なのだろうと思う。

それはたぶんドイツだって同じで、彼らにとって移民を受け入れることはひとつの贖罪でもある。移民に入ってこられることは困ることも多いが、人間が人間であるかぎり、移民のない世界などありえない。何しろ人類は、原始時代からすでに世界中に拡散していたのだし、拡散する人間性の本質というのはある。それはつまり、人と人は仲間どうしで固まろうとするだけでなく、見知らぬものと連携してゆくこともできるということだし、そういう「連携」の集団性のほうが、結束の集団性よりもずっと豊かなダイナミズムを生む。

もともと人類最初の都市は、どこからともなく人が集まってきてときめき合い助け合いながら集団をつくってゆくというかたちで生まれてきたのだし、現在のサッカーや野球などの集団競技は、結束力よりも、高度な連係プレーを持っているチームがいちばん強い。

人がどこからともなく集まってくるということ、そこにこそ人間性の自然・本質があり、それによって「行き止まり」の地であるヨーロッパや日本列島の集団性の文化が育ってきた。

彼らがいくら移民反対を叫んでも、実際問題としてそうなるはずもなく、移民との関係をどうするかという問題があるだけだ。

同様に、どれほど韓国や中国が嫌いであろうと、現在の東アジアの状況からして仲良く連携してゆくしかないのであり、それをするための覚悟や勇気や誠実さや叡智を彼らに望むことはできない。

 

 

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<span class="deco" style="font-weight:bold;">蛇足の宣伝です</span>

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キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。