昭和=平成=令和

 

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令和という新しい時代になって、マスコミはもう、新天皇の話題ばかりで、平成天皇のことは何も語らなくなるのだろうか。

何しろ今の総理大臣は、平成天皇のことを煙たがっていたらしく、マスコミもそこのところを「忖度」するのだろう。

平成天皇とはどのような天皇だったのだろうか、と考えることなどあの総理大臣の趣味ではないだろうし、考えることができる頭もないに違いない。彼の頭の中にあるのは、お祭りムードを盛り上げて政治利用することだけだろう。そうやって国民を思考停止に陥らせながら参議院選挙に突入してゆきたいのだろう。

でも僕は、考えたい、平成天皇のことを。べつに崇拝なんかしていないが、それなりに確かな存在感の記憶をわれわれの脳裏にしるして去っていった人だった。

そして今だからこそ、「天皇とは何か」とか「日本人とは何か」という議論がちゃんとなされてもいいのではないだろうか。

令和という元号名が素晴らしいなんてさらさら思わないが、なってしまったことはしょうがない。われわれはもう、その元号名を受け入れるし、受け入れるしかない。しかし、思考停止してやすやすと政権のたくらみに踊らされているだけが能ではないだろう。

少なくとも平成天皇は、即位してからずっと、「天皇とは何か」「日本人とは何か」ということを自身に問い、国民に問い続けてきた。いや、皇太子のころからずっと、地方を回って地元民との対話を繰り返してきた。ときには机を並べて2時間以上語り合うこともあったのだとか。3・11のときは何度も被災地に足を運び、ひざまずいて民衆の話を聞いてやっていた。

天皇とは何か……?

平成天皇は、昭和天皇とはまったく違う天皇像を模索してきた。昭和天皇は、民衆との対話など、戦前はもちろん戦後においてもほとんどしなかった。雲の上の人として屹立しているのが役目だと心得ていたらしく、園遊会などで著名人と会っても「あ、そう」というだけだった。

しかし平成天皇は、「国民の安寧を祈り、国民の思いに寄り添ってゆくのが象徴としての私の役目だ」といっていた。おそらくそれが天皇であることの本質で、古代以前の天皇奈良盆地(あるいは畿内)限定であったから、もっと日常的に民衆と接していたに違いない。万葉集には、ひとりで奈良盆地を歩いていている天皇が美しい村娘と出会って言葉を交わす、というようなエピソードが語られている。

そのころの天皇は、権力者というクッションを置かずに、民衆が直接祀り上げている対象だった。

もともと天皇は民衆ととても近い存在であり、天皇の言葉は、いまでも民衆に対して権力者よりももっと大きな影響力・説得力を持っている。

2016年にテレビから民衆に向かって退位の意向を語りかけたとき、右翼や権力者たちはこぞって反対の意向を示したが、それに同意する民意の盛り上がりを押しとどめることができずにしぶしぶ承諾した。まあ、それなのに今となっては徹底的に政治利用して祝賀ムードをあおっているのだから、いい気なものである。

ともあれ、天皇家から天皇を出さないといっているわけではないのだから、いつ交代しようと天皇家の勝手なのだし、民衆の天皇に対する親近感と祀り上げる心映えには、右翼権力社会から押し付けてくる「神」とか「大元帥閣下」というようなイメージはない。

民衆にとっての天皇は「魂の純潔」の象徴であり、「魂の純潔に対する遠いあこがれ」とともに天皇を祀り上げている。

人は、だれもが「魂の純潔に対する遠いあこがれ」を抱いている。人類の歴史は、そこから照射されて流れてきた。

人類社会が「民主主義」を究極として目指しているとしたら、それは「魂の純潔に対する遠いあこがれ」の上に成り立っている。

 

 

天皇だって人間であり、天皇のもとに「魂の純潔」があるのかどうかはわからない。しかし、「魂の純潔」に殉じようとしている人ではあるに違いない。そうやって「無私の人」になり、「民の安寧を祈り、民の思いに寄り添う」ということをしようとしているのだろう。だから85歳の最後まで、毎日のように行われている宮中祭祀は必ず出ていたのだとか。そうして、民の安寧を祈る宮中祭祀と民と対話する行幸が体力的にできなくなることは天皇であることができなくなることと同じであると判断して退位を決断したのだろう。

彼にとっての平成は「天皇とは何か」と問い続ける日々だった。昭和20年の敗戦は、天皇の意味が大きく変わる出来事でもあった。そのことにもっとも戸惑い苦悩したのが昭和天皇だったのだろうし、それをもっとも身近で目撃していたのが当時皇太子であった平成天皇だった。そして昭和天皇は、その答えを見出せないまま死んでいった。彼は、「天皇とは何か?」という問いを昭和天皇からバトンタッチされたのだ。だから、皇太子のときからずっと全国を回って国民との対話を続けてきたのだし、自分が天皇になってはじめて気づくこともあったに違いない。

昭和天皇は、敗戦の無条件降伏を決断し実行した人であったのかもしれないが、権力を持たない身でそれを決断し実行しなければならない立場に置かれ、心にどれほどの重圧と混乱を負わねばならなかったのか、われわれにはわからない。できることなら、最後まで何も決めない立場のままでいたかったことだろう。この国の天皇の権威は、何も決定しないがすべてを受け入れる、ということにあり、それが天皇であることだと思い定めて生きてきたのに、最後の最後で決定・決断をしなければならなくなった。それは、天皇であることを放棄することだった。

権力者たちは、勝手に戦争をはじめておきながら、最後の最後になって天皇に丸投げしてしまった。ぶざまな話ではないか。天皇の権威を重んじるなら、どんなことがあっても天皇に決断させてはならなかったのだ。

その敗戦前の御前会議の席での天皇の腹の内はみんながわかっていた。今流行りの言葉でいえば、それでもそれを忖度しようとしないものが半数いた、ということだ。良くも悪くも「忖度」はこの国の伝統であり、明治以来の権力者は、天皇を無視しつつ天皇に対する「忖度」ということにして権力を押し付けてきていた。

戦後の昭和天皇が「あ、そう」としかいわなくなったことに、どれほど深い心の闇があったことか。おそらく皇太子だけは、それを知っていた。

 

 

昭和から平成、そして令和へ。天皇家にとってそれは、何だったのか。昭和天皇の心の闇とかなしみは、新しい令和天皇にも引き継がれているに違いない。そして、皇太子の妻になった美智子妃にしろ雅子妃にしろ、なぜあのように心の失調を抱え込まねばならなかったのか。彼女らが民間社会の出身ということもあろうが、やはり戦後の天皇家が抱えてしまっている「闇」というか「疵」というようなものが空気として流れていて、それに感染してしまったという部分もあるのだろう。ドーキンス流にいえば、「戦後の天皇家ミーム」ということだろうか。さらには、その失調が愛子内親王にまで伝染してしまっている。彼女らには、何かあの世とこの世の境目に「宙吊り」にされているような心地があるのだろうか。

天皇は「神」で天皇家は「あの世」の世界だということであれば、そう割り切って生きることもできるだろうが、現在の天皇家にはそれが当てはまらない。かといって、ここが「現世」だという確証もない。

戦後の昭和天皇はもちろんのこと、平成天皇にだって、「人間天皇」というアイデンティティをしんそこ実感することは完全ではなかったに違いない。

平成天皇や令和天皇が皇太子の嫁探しのときにあくまで民間の女にこだわったのは、「地上に降りてゆかねばならない」とせかされる思いがあったからかもしれない。

そして宮内庁の職員たちには、男も女も、権力社会の論理としての「天皇家は支配して天上世界に押し込めておかねばならない」という歴史の無意識がはたらいている。だから皇太子の妻たちは、そのような職員たちと「地上に降りてゆかねばならない」という夫の願いとのあいだに挟まれて、心が身動きできなくなってしまう。

伝統的に権力社会は、ことに皇太子に対しては支配的になる。古代には、権力者たちの権力闘争に巻き込まれて殺された皇太子がたくさんいた。

令和天皇の皇太子時代は、弟よりもはるかに自由がなかった。

ともあれ平成天皇も令和天皇も、最初から妻に対して「天上世界の住人」になることを要求しなかった。むしろ「地上の女」でいてくれることを望んだ。なのにまわりの職員たちは、あくまで「天上世界」の論理を押し付けてくる。

そして愛子内親王だって、そんな母親の「宙吊り」になった心が伝染しないはずがない。秋篠宮の娘たちは天上世界のそばにいることの選民意識を謳歌することはできても、愛子内親王にあっては、なまじ敏感で聡明であるがゆえになおさら心は途方に暮れてしまう。地上でもっとも選民として扱われる身でありながら、つねに選民意識をもってはならないという強い戒律がはたらいている。

 

 

天皇にとって権力者から支配されることは「天上世界に押し込められる」ことを意味している。したがってそれは、「不敬罪」にはならない。権力者にとっては、天皇を支配することが天皇を神として崇めることだからだ。民衆が権力者の命令に逆らうときに、はじめて不敬罪になる。権力者の命令は天皇の命令だし、天皇を神として崇めればあがめるほど、みずからの権力が正当化される。

右翼の天皇崇拝は、清らかな心でもなんでもない。権力欲に凝り固まっていることの証明なのだ。彼らの思い描く天皇像なんか、ほんとの天皇でもなんでもない。平成天皇は、ずっと「ほんとの天皇とは何か」と問い続けてきた。

天皇を崇拝する右翼たちは、難が天皇かということなどすでに分かっているつもりでいて、自分たちが望むような天皇であれと要求する。それは、天皇に対して失礼である。天皇がどんな天皇になろうと天皇の勝手だし、天皇が「天皇とは何か」と問い続けているのなら、おまえらも問い続けろ。考え続けろ。考えなくてもわかっているかのような、そのぶざまな態度はいったい何なのか。総理大臣をはじめ右翼としてのプライドがあるのなら、「なんだろう?」と、身もだえしながら考え続けてみせろ。ろくに考えることもしないで、知ったかぶりばかりするな。

こんなぶさいくな総理大臣でも受け入れる日本人とはいったい何なのか、と僕は問わずにいられない。

こんなぶさいくな総理大臣を受け入れることができなくてうんざりしている僕は、日本人ではないのだろうか?そうかもしれない。きっとそうなのだろう。僕は日本人ではない、日本人とは何かと問い続けるものだ。天皇だってそうなのだから、僕もそうする。日本人とは何かと問い続けるのが日本人なのだ、ともいえる。

天皇とは、右翼の者たちがいうような、人を支配・統治する権威・権力のことではない。

天皇とは何か」と問うことは、「魂の純潔とは何か」ということだ。平成天皇も美智子妃殿下も、たぶんそのことを問うて旅を続けてきた。天皇も人間であるのなら、それは永遠にかなえられないことであるが、「魂の純潔とは何か」と問うことが「魂の純潔だ」ともいえる。人はだれもが心の底でそれを問うているのだし、それに対する「遠いあこがれ」を抱いている。

人類の歴史は「魂の純潔に対する遠いあこがれ」とともに流れてきた……まあ、いきなりこんなことをいっても「なんのこっちゃ」と思われるだけに決まっていて、そこがなやましいところだが、これこそがこのシリーズの主題であり、自分としてはかなり本気でそう信じている。とはいえ、何をいっても誰にも通じないような気もしてかなりくだくだしい書きざまになってしまいそうだが、しばらく続けてみようと思う。平成天皇の旅路の後を追うようにして。

 

 

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初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

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です。

5・古代の心と処女の巫女

 

 

どうしてこの国は、こんなにもしょうもない総理大臣がのさばっているのだろう……多くの人がそう思っているはずだが、べつにそれでもかまわないとやり過ごしている人がいて、選挙に行こうともしない。

この国の民衆社会は、心理的にはひとまず権力社会とは無縁に動いていて、権力社会の醜悪さもさして苦にしないようなところがあるらしい。

もしかしたらそれは、権力社会の上に天皇がいる、ということもあるのかもしれない。

天皇が美しく崇高な存在であればあるほど、権力社会のことはどうでもよくなってしまう。

右翼の者たちは、天皇は「大元帥閣下」で「国の家長」だなどといっているが、じっさいの天皇は「統治者=支配者」でもなんでもないし、民衆社会においては、「自分たちがお願いして天皇になってもらっている」という歴史の無意識が息づいている。そういう天皇がいてくれるのなら、権力社会が何であれ、自分たちは自分たちでときめき合いいたわり合う社会をいとなんでゆける、と思っている。もちろん現在においてはそんな美しい世の中にはなっていないのだが、それでもそんな世の中を実現するのに権力社会が手助けしてくれるとはとうてい思えないし、天皇がいてくれればいつかそんな世の中がやってくるかもしれないとも思う。いやべつに、こういうことを表立って意識しているわけではないが、まあささやかなりとも誰かとときめき合う関係が持てればそれでいいかな、という思いはある。

良くも悪くも日本列島の民衆は、ささやかで小さな社会を生きている。そしてそういう社会の関係からはぐれてしまった「嫌われ者」のネトウヨたちが、権力社会にすり寄り、民衆支配に加担したがっている。彼らは、「支配」という武器を手に入れなければ生きられないというか人との関係を結べないという強迫観念を抱えてしまっている。そうやって善良で気弱な人々を攻撃しにかかる。

もしかしたら、ネトウヨたちが人々を選挙に行かないようにさせているのかもしれない。あんな政治好きの醜い連中と同じことはしたくない。あんな醜い連中が空騒ぎしている政治や選挙に、どうして行く気になれようか。魅力的な候補者もめったにいないし、選挙をお祭りのような楽しいイベントにしてくれないことにはその気になれない。

少なくとも若者たちのあいだで選挙に行きたがるのは、ネトウヨと、コスパばかりが気になる日和見主義の連中がほとんどで、だから権力側の政党に投票する割合が高くなる。どちらも、自己保身の強迫観念に追い立てられて投票に行く。もちろんそうではない理由で投票に行く若者もいるし、行かない若者たちが無関心だからといって、単純に「意識が低い」と決めつけることもできない。そこには、政治に興味を持つことに対する微妙な拒否反応がはたらいている。

今どきの権力者たちとネトウヨたちが、政治を醜いものにしてしまっている。また、オールド左翼の野暮ったさも、なんだかなあ、という感じだし。

 

 

支配者がいない原始的な集団においては、民衆はみずからリーダーのカリスマを祀り上げる。そしてそのカリスマのリーダーは、政治的な能力の持ち主ではなく、人としてもっとも魅力的な存在を選ぶ。なぜなら政治という集団のいとなみは民衆自身でできるからであり、必要なことは集団が集団として存在することだけであり、そのための「象徴」として選ばれる。

これはサルではなくオオカミのリーダー選びと同じで、原初の人類は二本の足で立ち上がることによってサルから分かれ、知能の進化と引き換えに、より原始的な集団性になった。

オオカミのリーダーは、もっとも強いものが力で勝ち取るのではなく、だれからも好かれるもっとも魅力的なものが群れのみんなによって選ばれる。つまりその群れは、ボスのもとに「結束」してゆくのではなく、「連携」してゆく。彼らはそうしないと集団での狩りが成り立たない。そのとき全員がそれぞれ別の動きをしなければならないのだから、命令は不可能だし、命令を聞くよりも早く動かなければならないわけで、リーダーとともに戦っているというそのモチベーションが身体の動きや判断を早めている。

オオカミの集団の狩りは、じつによく「連携」がはたらいている。サルにはその「連携」はない。たとえばチンパンジーはコロブスという小さなサルを集団で襲って食べるといわれているが、その襲い方は、ほとんど「連携」していない。めいめいが勝手に襲っているだけだ。だから、その獲物は捕まえたものの「所有」になる。ほかのものも寄って行っておねだりしておすそ分けにあずかるが、「所有権」が消えるわけでも代わるわけでもない。それは、オオカミの群れが自分の体の何倍もある大きなシカやウシを倒してみんなで食べるというのとは全く違う。オオカミの場合はみんなで連携して倒したのだから、そのとき獲物の「所有権」は発生しない。

 

 

原初の人類は「所有」の意識を捨ててみんなで「共有」してゆくことによって、サルと分かたれた。ネアンデルタール人が集団で連携してマンモスなどの大型草食動物の狩りをするのも同じで、当然みんなで食べたし、力の強いものが尊敬されるわけでもなかった。したがって彼らの集団に「リーダー」はいても「ボス=支配者」はいなかったことになる。つまり、力で支配しようとする強いものではなく、この国の天皇のようにあくまでみんなから好かれるものが「リーダー」になっていた、ということだ。

原始時代の人類集団だって「連携」のモチベーションのための「象徴」として「リーダー」を必要としたし、それが未来における究極の「リーダー」のかたちでもある。

集団の動きをもっとも多彩に活性化させるのは、サルの群れのように強いリーダーの命令のもとに「結束」してゆくのではなく、オオカミの群れのように魅力的なリーダーとともにいるというモチベーションとともに「連携」してゆくことにある。そのようにして人類は、質量とともにサルのレベルを超えた集団をいとなむことができるようになっていった。

集団の「結束」なんてサルのレベルの話で、人間は「連携」してゆくことによって人間になった。人類拡散の歴史は、まさに「連携」の集団性が進化してゆく過程だった。だからその集団性は、人類拡散の行き止まりの地であるヨーロッパや日本列島において、もっとも高度に洗練発達していった。

オオカミ=イヌは、寒冷地の動物である、人類が最初にオオカミ=イヌとの親密な関係を持ったのはヨーロッパのネアンデルタール人で、それは関係性や集団性のメンタリティがとてもよく似ていたからだ。

ヨーロッパ人は、イヌと「連携」して狩りをする。集団からはぐれたサルはいつか群れに戻ってゆくが、「一匹狼」のオオカミは死ぬまではぐれたままでいる。だから人間と親密な関係を結ぶことができたわけだが、オオカミ=イヌも他者との親密な関係で連携してゆく生きものであるがゆえに集団に対する忠誠心がない。ネコは家に着きイヌは人に着く、などといわれているが、オオカミはサルのように集団で行動しているのではなく、鳴き声に呼応するなどしてどこからともなく集まってきて狩りをする。猿のように、強いボスのもとで結束しながら普段から集団で暮らしているわけではなく、集団に対する忠誠心はない。そういう忠誠心がないから、みんなでリーダーを選ぶ。

人間と最初に親密な関係を結んだオオカミは、おそらくはぐれオオカミだった。

人間の軍隊だって、集団に対する忠誠心の薄い者どうしでこそもっとも篤い友情が生まれる。それはきっと現在の会社内でも同じで、一般社会全般でいえる人類普遍の生態にちがいない。人間はその本質においてひとりぼっちのさびしい存在であるがゆえに、他愛なくときめき合い助け合い連携してゆく。

オオカミもヨーロッパ人も、もとはといえばまあ南からの「移民」である。だから現在のユーロ連合も、政治的にはかなりやっかいな問題があるにもかかわらず、「移民」を拒みきれないでいる。

人間はその本質において集団からはぐれた存在としての「移民」であり、そのはぐれた心を共有しながら集団をつくってゆく。それは、ときめき合い助け合い連携してゆく心を共有してゆくということであり、ときめく対象を共有してゆくということでもある。

人間の集団は、サルの群れのように強いものの下で結束してゆくという自然を持っていない。だから、強い支配者はやがて必ず滅びるという歴史を歩んできた。

 

 

肉食獣は、ウシやウマのような大きな群れはつくらない。基本的には、単独で狩りをする。だから、集団に対する忠誠心は持っていない。

オオカミ=イヌの場合は、体が小さいから、集団で狩りをしないとウシやウマを倒せない。だから、「連携」をするようになっていった。言い換えれば、集団に対する忠誠心がないからこそ「連携」ができる。

サルは、基本的に草食だから、大きな群れをつくることができる。

二本の足で立ち上がった人類は、猿が持っている集団に対する抽選心を失い、その代わりに「連携」能力を得た。サルの集団の「結束」と、人間の集団の「連携」。両者の集団性は同じではないというか、人間はサルの「結束」の集団性に加えて「連携」の集団性も獲得し、それによってサルよりもはるかに大きな集団をつくることができるようになっていった。

「連携」のダイナミズムがなければ、人間の集団は成り立たない。「結束」の集団性が強くなると停滞し、「連携」の集団性によって活性化してゆく。すなわち、現在のこの国のように、「連携」を失って「分断化」「階層化」が進む社会は停滞している、ということだ。

この国の総理大臣やネトウヨたちのように「連携」したがらない者たちがのさばれば、社会はどんどん停滞・衰弱してゆくに違いない。それはまた、集団に対する忠誠心が強くなると社会は停滞・衰弱してゆく、ということでもある。

「連携」のダイナミズムは、集団に対する忠誠心の薄さの上に成り立っている。それは、オオカミのように、普段はバラバラに暮らしていて、いざとなると一か所に集まってきて「連携」してゆく、という動きが基本になる。まあそのようなかたちで人類の「祭り」が生まれ、それが発展して現在のコンサートやスポーツ等のイベントになっているし、繁華街の商店に行って買い物をするとかレストランや飲み屋に行くということだって、ひとまずそのような生態だといえる。

現代社会の消費行動は、「連携」の関係の上に成り立っている。

この国の総理大臣やネトウヨたちは、この国を停滞・衰弱させている。彼らの存在が、選挙の投票率を低下させている。

ただこの国の民衆社会は、権力社会とは別に独自の「連携」の文化がひとまず機能しているから、その危機感があまり切迫してこないところがある。

左翼たちは、「天皇がいると民衆が精神的に自立できない」などとよくいうが、そうではない、みずから天皇を祀り上げながら権力社会から精神的文化的に自立してしまっているからやっかいなのだ。権力社会に魅力がなくなれば選挙に行かなくなるだけで、権力社会を変えようとは思わない。

この国では、民衆革命は起きない。全共闘運動が失敗に終わったのも、けっきょく民衆を巻き込むことができなかったからだ。それは民衆の意識が低かったからではない。低かったら、巻き込まれてゆく。政治権力なんか関係ない、という意識が高かったからだし、それはまあ、「連携」しても「結束・団結」することが苦手だった、ということでもある。民衆どうしが助け合うという集団性は発達しているが、だからこそ権力社会に干渉してゆくということはしたがらない。

現在においても、こんなひどい政権なのに、まだ無関心を決め込んでいる。

 

 

日本人は強権的な支配者にたやすく支配されてしまうが、同時にそれゆえにこそ心まで売り渡してしまうことはしない。敗戦後はあっさり大日本帝国憲法を捨てた。したがって現在においてそれが復活されようとしているとしても、いずれまたあっさりと捨ててしまうだろう。

現在のこの国の政権はますます強権的になってきていて、民衆ももどかしいくらい従順だが、深く洗脳されてしまっているわけではない。それでも民衆の実生活においては、強権支配のもとで結束してゆくのではなく、ときめき合い助け合い連携してゆく関係性・集団性を生きようとしている。だから現在の状況なんか、何かのはずみであっさりと変わる。それが、この国の伝統なのだ。

もともと日本列島では、生きてあることの「嘆き~かなしみ」を共有しながら「連携」してゆく関係性・集団性の文化をはぐくみながら歴史を歩んできたのであり、そのための「よりどころ=象徴」として天皇を祀り上げてきた。権力支配のもとで「結束」してゆくのではなく、無主・無縁の関係で「連携」してゆく、そのためのよりどころとして権力支配の上に「天皇」を置いて祀り上げてきた。

まあこの国に天皇という存在が必要かどうかはよくわからないのだが、この国の高度に洗練された「連携」の関係性・集団性の文化が守られてゆくのなら、どのような集団においても「リーダー」は誰からも好かれるもっとも魅力的なものをみんなで直接選んで祀り上げてゆくのが基本的伝統的な集団性であるのだろう。

国家であれ家族であれ、リーダーは、上から支配してゆくのではなく、下からみんなで祀り上げてゆくのが人間性の自然でありこの国の伝統でもあるはずなのだが、それが欧米の帝国主義を模倣する明治維新によって壊されていった。

しかしそれが「王政復古」という名のもとでなされたということは、日本列島では古代からすでに帝国主義的な社会システムを持っていたということを意味する。

 

 

たとえば、古代の関東の民衆が「防人」として九州に送られてゆく、などという理不尽なことが、どうして可能になったのだろう。

大和朝廷の支配権力が絶大だったからだろうか?ひとまずそれは帝国主義的な強固な支配システムのように見えるのだが、何しろ「国のあけぼの」の時代の話だ、そうそう強く支配システムが国の隅々まで及ぶはずがないし、関東のその先の東北は「まつろわぬもの」たちの地域だったのだから、関東だってそれほど強く支配されていたはずがない。

いやならちょいと足を延ばしてすぐ隣の東北に逃げ込めばいいだけのことだが、それでも人々はその命令に従っていった。

それはたぶん、権力が「支配した」ということだけでなく、民衆自身が「支配されていった」ということもあるのではないだろうか。そこがまあ日本的であり、日本列島の民衆にはそういう部分があるからこそ、権力者はやりたい放題のことをして歴史が流れてきた。古代や中世はもちろんのこと、明治以降の近代史だって、けっきょくはやりたい放題をされながら太平洋戦争のみじめな敗戦へとなだれ込んでいった。

おそらく、支配権力が絶大でなくてもかんたんに支配されてしまうメンタリティと社会のしくみが、この島国の伝統としてはたらいていたのだろう。

それと同時に、縄文以来の伝統として「旅心

にいざなわれる」ということがあり、死ぬほど嫌なのだけれどそれでも断り切れない、ということもあったのかもしれない。まあそういう「無常感」ゆえに、かんたんにあきらめて支配されてしまう。

それはもう、生きて故郷に帰ってくることができるかどうかわからない旅だった。彼らには「お国のため」などという意識はなかった。それでも、従容として旅立っていった。そのときおそらく、旅をすることそれ自体から誘われてゆく心がはたらいていた。青い空の流れる雲から誘われた、と言い換えてもよい。古代人の心の、その「おおらかな遠いあこがれ」こそがその制度を可能にしていた。彼らのシンプルでぎりぎりの暮らしに、現実的な損得勘定(=コストパフォーマンス)の意識は希薄だった。生きてあることはなやましくくるおしいことであり、その「かなしみ」は、この生の外に向いていた。見上げる青い空の流れる雲に向いていた。

石川啄木は「雲は天才である」といったが、それは古代人の心でもあった。

「防人」の制度を成り立たせていたのは、古代の大和朝廷の政治権力ではない、流れる雲に対する「遠いあこがれ」だったのだ。

 

 

さらに古代には「采女」や「舎人」といった朝廷の労働者が地方から派遣されてくるという制度があったわけだが、それらの多くは地方豪族の子女で、地方が中央に差し出すいわば「人質」のような存在だった。しかしそれだって、中央の権力がそれほどに強かったというよりも、地方のほうから差し出したくなるような何かがあったのだろう。

その「何か」とは、もちろん政治経済的な利害関係もあっただろうが、それ以前に「奈良盆地の魅力」というのがあったのだ。「古代のおおらかさ」などというなら、まずそのことを考えねばならない。「色ごと」の文化、すなわち「美意識」とともに時代や社会が動いてゆく風土、それがこの国における「古代のおおらかさ」だった。

とにかくそのころの奈良盆地はもっとも先進的な地域だったわけで、いわば「奈良盆地詣で」のような気分が全国に広がっていたのではないだろうか。弥生時代奈良盆地が日本列島でもっとも大きな都市集落になったのはまわりの地域からどんどん人が集まってきたからで、このことはさまざまな考古学の証拠がある。まず、そのころはほとんど湿地帯だらけだったこと、そしてそこを干拓するための土木工事の技術がとても発達していたこと、その結果としてもっともたくさんの人が集まってくる場所としての「纏向遺跡」がつくられていった。

おそらく古代以前から古代にかけての日本列島には「奈良盆地詣で」のムーブメントが続いていたのであり、「采女」や「舎人」の制度もその動きを基礎にして生まれてきたのではないだろうか。そしてそれは、結果的に極めて高度な中央集権的な支配システムになっていたわけだが、おそらく大和朝廷が強権的計画的に進めていったのではない。国家とは何かということもよくわかっていない「国家のあけぼの」の時代に、こんなことを強権的計画的に推し進める能力が大和朝廷にあったはずがない。

その制度は、古代人の心の「おおらかな遠いあこがれ」から生まれてきた。もちろん明治政府はそれを強権的計画的に推し進めていったのだし、古代の大和朝廷もまた、民衆のその「おおらかな遠いあこがれ」に寄生しながら「天皇を最高権力者であるかのように偽装する制度」を見出していった。明治政府がなんとしても復活させたかったのはこの制度であり、それをしなければ欧米列強に肩を並べる帝国主義国家は実現できないと考えた。

ともあれ、大和朝廷成立以前の原初の天皇は、古代人の「おおらかな遠いあこがれ」の対象として生まれてきたのであり、大和朝廷成立とともにそれが最高権力者であるかのように偽装され、「神武東征」などという神話がつくられていった。

まあ「神武東征」だって、「神武の奈良盆地詣で」と読み換えることもできなくはない。この話をつくったのは、民衆だったのか権力者だったのか、僕にはよくわからないのだが、それでもこんな話の中にさえ、時代状況としての古代人の心の「おおらかな遠いあこがれ」が宿っているように思える。

 

 

古代の「おおらかな心」は、もはや失われてしまったのか?

そんなことはあるまい。

それはこの国の「伝統」というか「歴史の無意識」として受け継がれているはずであり、そうやって天皇制が残ってきたのだし、戦後の憲法第九条が生まれ守られてきた。

古代以前の起源としての天皇は、「処女の巫女」だった。天皇制だろうと憲法第九条だろうと、おおらかといえばおおらかな能天気でお花畑の文化遺産なのだ。

伝統の本質的な性質は、「究極」を目指していることにある。真実だからとか本当に大切なものだからとか、そういうことじゃない。嘘っぱちだろうと、無駄なものであろうと、「究極」を目指しているがゆえに残ってきたのだ。憲法第九条だって、それが現在の平和を守るのに有効だとか、そんな話じゃない。ただの能天気なお花畑の思想さ。しかしそれが、人類の理想であり究極であるのも確かなことだろう。究極を目指していなければ、伝統として残ってゆくことはできない。

現在のこの国で生きてゆくためには、「日和見主義」の「コストパフォーマンス主義」になるのがいちばんだろう。しかしそれは、理想でも究極でもない。われわれの「日和見主義」や「コストパフォーマンス主義」は、いずれ必ず理想や究極によって滅ぼされる。われわれの心は、つねに理想や究極に照射されている。

もしも「古代のおおらかな心」が人類の理想であり究極であるのなら、われわれの心にも「伝統」という名の「歴史の無意識」として残っていないはずがない。

 

 

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それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

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『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。

天皇の心の闇

 

大阪の選挙で維新の会が大勝利して、いったいこの国はどうなっているのだろうと思うのだけれど、まあ投票率が40パーセントを少し越えるくらいで、右翼的勢力しか投票に行かないのであれば、こうなるのも仕方がない。

右でも左でもない無党派層の「お祭り」が起きて投票に行くようにならなければ、この国の状況は変わらない。

この国の伝統としての「お祭り」の大切さが、ようやく気付かれ始めている。もちろんまだまだし、あんがい右翼のほうが先に気づいていて、政策なんか関係ない、お祭り騒ぎに持ち込めばこっちのものだ、と思っている。飲んで騒いで歌って踊って……とまでいかなくても、選挙のときの祭りの高揚感はたぶん、創価学会のおばちゃんたちがいちばんよく知っているのだろう。

祭りのエネルギーが持つ「過剰さ」と「超越性」、それが人の行動をうながす。

世界が右傾化してきたといわれて久しいが、そろそろそれもマンネリになってきて、カウンター勢力が芽生えてきている。それは、「左翼」というのでもない。「リベラル」というのか、ようするに今どきの右翼的な思考の醜悪さに耐えられないということであり、その「醜悪さに耐えられない」という思考こそ日本列島の伝統なのだ。

天皇はこの国の「家長」であるとか「大元帥閣下」であるとか、何をくだらないことをいっているのだろう。天皇なんてただの「色好み」であり、そこにこそ天皇の尊厳も超越性もあるのだ。

ともあれまだまだ右翼がのさばっている世の中で、彼らはわが世の春を謳歌しているのだろうが、それでも彼らの強迫観念は根深く、執拗に左翼勢力やマイノリティを攻撃弾圧しようとしている。そろそろ潮目が変わり始めていることに無意識で感じているからかもしれないし、何よりそれは人間性の自然に矛盾した思想なのだから、いずれは衰退してゆくに決まっている。

明治以降の日本人に染みついた思考の習性というのはあるのだろうが、そんなものはたったの150年で、人類700万年の歴史から見ればあっという間の時間に過ぎないし、日本列島の歴史1万年、大和朝廷発生以来の2千年の歴史から見ても、日本人の普遍的な思考であるとはいえない。

 

 

人間性の自然は、その「消失願望」という本能とともに、マイノリティに対して親密な感慨を寄せてゆくことにある。そしてこの国においては、人間社会の外の世界に存在する天皇こそもっとも本格的なマイノリティであり、それを祀り上げ献身してゆくこと、すなわちその「消失願望」とともに生きてあることの「嘆き=かなしみ」を抱きすくめてゆくことが伝統的な精神風土になっている。

したがって今どきの右翼こそ、もっとも伝統に反する思考の者たちなのだ。

生きられない存在である生まれたばかりの赤ん坊をかわいがり懸命に生かそうとしてゆくのはあたりまえの人間性であり、そんなことくらい犬でも猿でも鳥でもしている。今どきの右翼はあまりに観念的で、そういう自然がなさすぎるのであり、それは日本人らしくないということでもある。彼らは「日本人に生まれてよかった」とよくいうが、彼らのどこが日本人らしいというのか。滅びるまいとする強迫観念で悪あがきして大騒ぎするのは、「散華の精神」が伝統の日本人としてはあまりに醜い。自分が生き延びることも日本人であることも忘れてマイノリティや移民にやさしく親密になってゆくのが、伝統的な日本人の心映えなのだ。

今どきの右翼は、どうしてこうも非日本人的なのだろう。彼らにとって日本人であることもこの国に天皇が存在することも、自分の正当性を確認するためのよりどころになっているのだが、それはまあ明治以降の近代的自我にすぎないのであり、そういうよりどころを欲しがること自体が日本人的ではない。「日本人に生まれてよかった」だなんて、江戸時代以前の民衆にそんな自意識はなかった。日本人であるという自覚も、自分の正当性を確認したいという欲望もなかった。日本人であること以前の、生きてあるというそのことを嘆いている「たおやめぶり=処女性」こそ日本列島の伝統的な精神風土であり、その上に日本文化が花開き、集団が活性化していった。

今どきの右翼こそ、日本人の伝統を壊している。あるいは、明治以降の大日本帝国が壊した、ということだろうか。いずれにせよ、彼らの過剰な自意識は、天皇の存在の仕方すなわち日本列島の伝統とまったく矛盾している。天皇とはそういう自意識の向こうの世界に存在する人であり、それに対して彼らは自意識のよりどころとして天皇を崇拝し、「日本人に生まれてよかった」と合唱している。

 

 

国家主義や宗教主義とは、自意識に執着してしまう文明の病である。文明社会に生きるわれわれは、だれもが自意識を抱えてしまっているし、自意識の強いものが支配者になるような構造になっている。そして自意識の薄い原始的な関係性・集団性を成熟洗練させてきた日本列島では、四方を荒海に囲まれた島国であったたこともあり、文明制度(=大和朝廷)の成立がいちじるしく遅れたし、そのときすでに成熟洗練していた原始的な関係性・集団性によって文明制度に対する対抗的な文化を生み出していった。すなわちそれが、「神道」であり「天皇制」だった。

天皇制とはいわば「直接民主主義」であり、起源としての天皇は「支配者」として奈良盆地に登場してきたのではなく、奈良盆地の民衆自身がみずからの集団性のよりどころとして祀り上げていったカリスマだったのであり、その関係のあいだに支配者=権力者が寄生していったにすぎない。

奈良盆地には、戦争の遺跡がない。だから大和朝廷は、最初からずっと城砦を築かなかった。天皇の御所はまるで無防備で、幾重にも防備を固めている戦国大名の城とはずいぶん趣が違う。それは、天皇が支配者=征服者として登場してきたのではない、ということを意味している。

もちろん御所を警護する者たちは置かれていたが、天皇自身の存在は無防備であることが基本であり、襲撃されないという前提につくられていたし、襲撃する者もいなかった。列島中のそういう合意のもとに、天皇制が1500年以上続いてきた。天皇はべつに権力者ではないのだから、天皇を殺しても権力を奪うことはできない。だから、天皇が殺されるはずがなかった。天皇は、外部に対しても内部に対しても無防備だった。大化の改新壬申の乱のように天皇が権力に利用されることはあっても、天皇を殺せば権力を奪取できるという状況などなかった。

まあ明治維新のときに孝明天皇が殺されたという説もあるが、それによって天皇制が廃止されたわけではない。権力者はいざとなれば天皇を殺すことなんか平気だし、殺す必要がないから殺さないだけだった。この1500年のあいだに殺された天皇は他にもいたかもしれないが、だれも天皇制を廃止しようとは思わなかった。それは、天皇が権力の外にいる人だったからだ。

天皇は政治から利用されることはあっても、本質的には政治から「隠れている=消えている」存在なのだ。だから、天皇のいるところを「内裏(だいり)」といった。「消失願望」の文化、その象徴として天皇の純粋無垢な「姿」が祀り上げられてきた。そこは、この世の「けがれ」から隔絶した場所であった。

天皇は、無防備な「無私の精神」をそなえた存在である。つまり、戦後の憲法第九条は天皇の心映えの反映であり、だからこんなにも長く守られてきたのかもしれない。

 

 

権力者は、天皇を利用するだけ利用しても、政治に参加させるつもりはない。参加しようとすれば、たちまち殺されるか放逐される。

昭和の戦争前の政治家や軍人たちだって、天皇を「大元帥閣下」などと祀り上げながら、天皇の承認なしにやりたい放題のことをしていた。いちおう国の方針はすべて天皇の承認を得て決定されるという建前になっていたが、いざとなったらそんな手続きも省いてどんどん中国に侵略してゆき、けっきょく天皇も対米戦争突入を承認するほかなくなっていった。

そして現在の政権もまた、大嘗祭の大掛かりなセレモニーを皇室の承認なしに決めてしまい、天皇に代わって秋篠宮からそれを抗議されている。こんなことはもう不敬罪そのものの振舞いだが、権力社会はそれを、古代からずっと当たり前のようにしてやってきたのだ。彼らにとって天皇は利用するものであって、天皇のように思考したり振舞おうというようなつもりはさらさらない。

平成天皇生前退位の意向にしても、総理大臣をはじめとする多くの右翼は潰そうとしていたのであり、それに賛同する大多数の国民の声を抑えきれなくなって仕方なく認めただけであるし、認めたとたんにそれをあざとく政治利用しにかかってきた。

左翼の者たちは「天皇の戦争責任」などというが、そんなことを問うていたら、じっさいの当事者である権力者たちの愚かで悪質な振る舞いが免罪されてしまうではないか。「天皇の戦争責任」なんて、お門違いもいいとこなのだ。

古代の「白村江の戦い」への出兵も、天智天皇は嫌がっていたという話がある。日清・日露戦争だって、明治天皇は承認させられただけではないか。

この国の権力者がいかにあざとく天皇を利用してきたか、それはもう、起源のときからはじまっていたのだ。「神武東征」なんて、権力者による政治利用のためのつくり話なのだ。ただの作り話であることはだれもが知っているのだが、右翼たちはひとまずそういうことにしておくのが正義か美徳であるかのように主張してくるし、その話の裏にいくぶんかの史実が隠されてあるかのように考える歴史家もいるのだが、隠されてあるのは、天皇を利用しようとする権力者の企みだけだ。

 

 

元号が発表されて世の中は奉祝ムードらしいが、現政権にとってはやっかい続きの政権運営の厄払いをする絶好の機会になっているのだろう。ネトウヨたちが能天気にめでたいめでたいと合唱している。

彼らには、生きてあることの「嘆き=かなしみ」がない。それはつまり、セックスアピールがない、ということであり、「色ごと」が文化の伝統であるこの国においてはいずれ淘汰される。彼らはすでに文化の伝統を失っている。「やまとごころ」を失っている。

セックスアピールにときめいてゆくのが「やまとごころ」なのだ。

現在のこの国の総理大臣にセックスアピールはあるか……?ないから、世の主婦たちに嫌われている。利害損得にまみれ自分を見せびらかすことばかり躍起になっている気配にセックスアピールがあるはずがない。自分のこともこの生のことも超越した「もう死んでもいい」という気配にこそセックスアピールがある。「けだるさ」であれ「ひたむきさ」であれ、つまりは「もう死んでもいい」という「消失願望」が漂わせてい気配なのだ。そういう気配が、はた迷惑で騒々しいだけのネトウヨたちにはない。

ひとまずこの国の人々は、天皇には純粋無垢な精神の輝きがある、と見ている。その気配にこそ天皇の尊厳とセックスアピールがある。

「色ごとの文化」を見くびってもらっては困る。それは、往々にしてもっとも低俗な「エロ文化」として扱われてしまいがちだが、同時に、そこにこそもっとも深く本質的な思想というか人間理解が隠されてもある。

 

 

日本列島の歴史において、古代と明治維新から敗戦までは、もっともあからさまな天皇の政治利用がなされている時代だった。そして敗戦直後は、古代の大和朝廷成立以前の天皇の姿に回帰してゆく時代になった。すなわち、「神」とか「大元帥閣下」とか「国の家長」とか、そうした権力者が押し付けてくる天皇像ではなく、民衆が、民衆自身の心が祀り上げているほんらいの天皇像を権力者の手から取り戻していったのだ。

そうして今また、右翼思想の権力者によって奪い返されようとしている。いや、今どき右翼のようなオカルトじみた天皇像を抱いている者などほんの一握りなのだが、世の中の空気は声高な者たちに流されやすいし、現在の政権が率先してそれを煽っている。

天皇教というオカルト。これが、宗教心が薄いといわれる日本人全体の歴史の無意識であるはずがない。日本人の天皇に対する親密な感慨は、宗教ではない。国家神道の「天皇=神」という思考は宗教そのものだが、古代および古代以前の民衆の天皇に対する親密な感慨に「国家」という意識はなかった。江戸時代までの民衆に「国家」という意識はなかったのであり、神道はべつに「国家神道」として生まれてきたのではない。天皇はもともと国家の成立以前に民衆自身が祀り上げて生まれてきた存在であり、国家の統治者として民衆の前に登場してきたのではない。そのとき民衆が祀り上げたのは、あくまで美しく魅力的な存在だった。

今でも民衆にとっての天皇は、「この世のもっとも美しい存在」であって、だれもこの世界の統治者だとは思っていない。それが、日本列島の歴史の無意識であり伝統風土なのだ。

一部の、統治(支配)したがり統治(支配)されたがる右翼だけが、勝手にそう決めつけているだけだ。彼らは、神に支配してもらっていないと、不安で生きられないらしい。まさしく彼らは「宗教者」であり、国家神道という名のカルト宗教を信じている。

 

 

昭和天皇はたぶん、生まれたときから大日本帝国の「大元帥」」としての「帝王学」を叩き込まれて育ったのだろうから、自分が権力者の政策を「承認」することの重さを知り、その職務に誠実であろうとしてきたのだろう。彼に戦争遂行の意思があったかどうかはともかく、彼の「承認」という手続きを経て事態は進行していった。仰々しく白い馬に乗って閲兵するということもしていたのだし、だから彼としては、大いに「戦争責任」を自覚していたことだろう。しかし、いったい誰にそれを問える資格があるだろうか。

また天皇にしても、それを自覚して自裁するような自意識は持てない身であり、自覚はしても、裁かれれば素直にそれに従う、という以外に取るべき道はなかった。また、退位をして隠遁するという選択肢も浮かんだかもしれないが、天皇である以上、そうしたわがままも許されなかった。

もちろんそのときの天皇の気持ちなどだれにもわからないのだが、「自裁をしなかった」というのは、天皇らしい態度だったともいえる。「無私の人」であるべき天皇に、そんな自意識はあってはならない。戦後の「象徴」としての人生が彼にとって幸せだったかどうかなどわからないし、もしも小さくはない「苦悩」があったとしたら、それを知っているのは彼の息子の皇太子だけだったのだろう。天皇は、「苦悩」を持つことも許されていない。その後を継いだ平成天皇のわが身を捨てた献身ぶりは、もしかしたらそれが彼にとっての「父」と「昭和」に対する鎮魂だったのかもしれない。最初はなんだか頼りなかったが、みごとに「天皇」になってみせた。伝統というのはすごいものだと、あらためて思わせられる。

天皇天皇であることのゆえんは、「統治者」ではないことにある。そんなことは、戦前だろうと戦後だろうとみんな知っていることであり、だからこそ権力者が偽装する「天皇の命令」がいっそうの効果を発揮したという逆説がある。知っていたからこそ、どんな理不尽な命令にも誰もが天皇を恨むことなく従った。戦後においても、「天皇の戦争責任」を問うたのは一部の左翼知識人だけで、民衆全体の心にはならなかった。

日本列島の歴史を通じて天皇が「統治者」であった時代など一度もないし、この国においてもっとも権威をもった存在は、「統治者」ではなく「もっとも美しい存在」であり、それが「色ごと」の文化の伝統なのだ。

現在のこの国の「統治者」は、美しいか?愚かで醜悪なだけではないか。一部のネトウヨを親衛隊にして引き連れながら声高な騒々しさで民衆を支配し引きずり回そうとしているだけではないか?

 

 

「令和」の「令」には「端正な美しさ」という意味がある。それはまあそうなのだが、この国の総理大臣やネトウヨたちにそんな美しさがあるだろうか。あるわけがない。グロテスクなだけでではないか。そりゃあ、強権的に民衆の思考や行動を同じにしてしまえば、支配もスムーズにいくだろうし、それが彼らの目指す「美しい国」であるらしい。嫌われ者の生きる道は他者を支配してしまうこと以外にないのであり、声高で支配欲の強いものが社会の表層に浮かび上がってくるのは仕方がないのかもしれないが、だから古代以前の民衆は、支配統治をしない存在としての天皇をみずから祀り上げていった。それが、古代以前の原始的な集団運営の作法だった。すなわちそれが、「直接民主主義」という理想かつ究極の集団運営の作法でもある。

直接民主主義は、混沌とした無主・無縁の「祭りの賑わい」にある。その賑わいから天皇の前身である「処女の巫女」が生まれてきた。

もちろん、現在の国家のような大きな集団が直接民主主義だけで運営できるはずがない。しかしそれが理想・究極であるという思いが人の心の中から消えることはない。

人類集団の起源と究極のかたちは混沌とした無主・無縁の「祭りの賑わい」にあり、それがこの国の「色ごとの文化」の伝統になっているのだし、その文化の上に天皇が生まれてきた。

だから原始神道では、死んだら何もない真っ暗闇の「黄泉の国」に行く、といった。その「混沌」こそ「色ごと」の醍醐味であり、この国の「美」の伝統にほかならない。「無常」も「あはれ・はかなし」も「わび・さび」も、「混沌」の果ての世界のさまにほかならない。セックスのエクスタシーの果てには、だれしも死んでしまったような心地になるではないか。そこで見る世界が、「無常」であり「あはれ・はかなし」であり「わび・さび」なのだ。

天皇が「大元帥=統治者」であるとか「国の家長」であるとか、何をくだらないことをいっているのだろう。統治者とか家長などというものはただの嫌われ者だし、嫌われ者の生きる道は支配・統治しかないのだ。それを「令和」という。

新しい元号になるということは、昭和や平成とは何だったのか、と顧みる機会でもある。しかし現在のこの国の総理大臣やネトウヨたちには、昭和天皇や平成天皇の「心の闇=混沌」について思いを巡らす想像力などないに違いない。

天皇の美しい「無私の精神」は、「心の闇=混沌」でもある。だからあの人は、メッセージを読み上げるときに、あんなにもかんたんに涙声になってしまう。それは、ただ歳をとって耄碌しているというだけのことではない。天皇であることや天皇という任務をまっとうすることのくるおしさというものを、彼らは何もわかっていない。だからあんなにも平気で政治利用できるのだろうし、天皇を崇拝することは天皇の心に思いをいたそうとしないということであり、その態度のグロテスクというものがある。崇拝しているから私の心は清らかだといいたいのか?崇拝するということは、天皇をただの床の間の飾り物のようにしか思っていないということだ。だから「神」や「大元帥」にしてしまうことができるし、平気で利用してゆくこともできる。

 

 

天皇が人間であることなど、だれでも知っている。そんなことは戦前の人々だって知っていたし、天皇のまわりにいる権力者たちはなお知っていたはずだ。それでも、人間の最上位すなわち神でもある人間であるかのようにしておき、そういう存在として扱えばどんなに政治利用しようと、なんの後ろめたさもない。まあ、天皇が「無私の人」であることに乗じて政治利用し、同時に神として崇める。

「無私の人」であるとは、「私」がない、ということではない。「私」を限りなく消してゆく人である、ということだ。「無私の人」であることは、とてもなやましくくるおしいことなのだ。しかしそれとは対極の存在である権力者たちにわかるはずもなく、最上位の存在として自我が満足されているのだからそれでいいだろう、と思う。彼らが天皇を崇拝することは、天皇を政治利用するための免罪符になっている。天皇は神なのだから、天皇の心なんかどうでもいい、と彼らは思っている。

天皇を崇拝することの、なんとグロテスクなことか。

古代以前の奈良盆地の祭りから生まれてきた起源としての天皇は、この世界の「生贄」として民衆がみずから勝手に祀り上げていった存在だったのであり、だからこそみんなで「捧げもの」をし、保護していった。それはまあ、生きられない存在である赤ん坊をお母さんがみずからの命と引き換えにするように育ててゆくことと同じ行為だった。

つまり人の世はだれもがこの世界の「生贄」になることによって成り立っているのであり、天皇は、だれもがそういう存在として生きることのよりどころとして祀り上げられていった、ということだ。

権力者は天皇を神として崇拝し、民衆は、天皇の心に寄り添うようにしながら親愛の情を抱いている。

天皇を見上げて崇拝するということは、第三者(マイノリティ)や弱いものを見下し憎むということでもある。それが明治以降の大日本帝国国家神道プロパガンダであり、そういう思考からヘイトスピーチが生まれてくる。

しかし日本列島の民衆の伝統においては、第三者(マイノリティ)や弱いものに手を差し伸べる、ということのよりどころとして天皇を祀り上げてきたのであり、極端にいえば天皇とは「生きられないこの世のもっとも弱いもの」の形代なのだし、じっさいこの国にはそういう存在を「かみ」として大切に守り育ててゆくという文化の伝統がある。まあ、「あはれ・はかなし」とか「わび・さび」といっても、そういう「消えてゆく」方向に向かって関心を寄せてゆく美意識のことだ。だから天皇は、足しげく被災地を訪れる。そしてその関心は、生きてあることの「嘆き=かなしみ」から生まれてくる。そしてその「嘆き=かなしみ」を共有しながら他愛なくときめき合ってゆくのがこの国の民衆の集団性の作法であり、それはもう、天皇とも共有している。

共有していないのは、右翼の権力者たちばかりだ。

天皇とは、もっとも深く純粋に嘆きかなしむ人である。べつに右翼から崇拝されていい気になっているのでも、右翼のように人を見下しているのでもない。

天皇の心の闇を、民衆は知っている。だから、ひどい戦争だったと嘆きつつ、しかし天皇は責めない。誰の中にも心の闇はあるのだし。

 

 

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キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。

色ごとの文化とコンピュータのかなしみ

 

このごろ、人間とAIの違いはどこにあるか、とよく議論されている。

コンピュータは「ON」と「OFF」すなわち「1」と「0」の無限の組み合わせによって動いているのだとすれば、人間の脳というか生きものの命のはたらきは、「OFF=0」だけのはたらきではないだろうか。

コンピューターは「ON」と「OFF」の瞬間的な点滅と無限に繰り返しているのに対し、人間の脳は、「ON」の状態から「OFF」に向かってゆくその過程においてはたらいているのではないかと思える。瞬間的に消えるのではない。だんだん「消えてゆく」ということ、それが脳という命のはたらきではないかと思える。生きものの命のはたらきは、いったん貯め込んだエネルギーを消費しながらそれが消えてゆくまでの「過程」において起こっている。まあそのようなことで、脳のはたらきだってこの原理に基づいているのではないだろうか。

「(だんだん)消えてゆく」ということ、命のはたらきも脳のはたらきも、この運動ではないだろうか。コンピュータのはたらきには、この「消えてゆく」過程がない。

息を吸うことだって、それなりにエネルギーを消費しながらなされている。

命のはたらきとは、エネルギーを消費すること。すなわち「OFF=0」に向かうはたらきのこと。

コンピュータは、「解答」を導き出す。それは、もともとコンピュータに可能なことで、コンピュータは不可能なことには向かわない。「不可能」という「解答」を出すか、永遠に「解答」に向かって作動し続ける。コンピュータは「解答」の向こうの世界を知らないが、人間はそれを知っている。

人間の脳は、「不可能」に向かう。「女の気持ちはわからない」といってよろこんでいるなんて、コンピュータの趣味ではないだろう。わかるまで計算し続ける。コンピュータに不思議=神秘はないし、人間の脳は不思議=神秘に引き寄せられる。なぜならそれは、「OFF=0」に向かうはたらきだからだ。それが、人類の知能を進化発展させてきた。

原初の人類が地球の隅々まで拡散していった契機はあの山やあの地平線の向こうには「何があるのだろう」という「好奇心」だったという説があるが、厳密にいうと、そうではない。彼らは、あの山の向こうは「何もない」と思っていた。この世界は大きな数頭の象の背中に支えられた丸い円盤だと思っていた。われわれ現代人の無意識だって、水平線の向こうは「何もない」と思っている。知識としては何があるか知っているが、心の底では「何もない」という気分が疼いている。しかし人の心は、その「何もない」というそのことに引き寄せられる。

あの山の向こうに何があるのだろうと思ったら、たとえば幽霊やお化けを想像するのと同じで、気味が悪くなって行けなくなってしまう。「何もない」と思ったからこそ、強く引き寄せられていったのだ。

人間の脳は、「だんだん消えてゆく」過程においてはたらいている。それがたぶんコンピューターとの違いで、人間は不思議=神秘について考えるが、解き明かす装置であるコンピュータに不思議=神秘はない。

解き明かす装置であるコンピュータには、必然的な帰結としての「解答」があるだけで、根拠のない「偶然の飛躍(=ひらめき)」というものがない。

良くも悪くも、人間は根拠のないことを考える。誰がどう見てもブスに決まっている女を心底「美人」だと思って惚れてゆく男の気持ちが、コンピュータにわかるだろうか。わかるはずがない。根拠が「ない」のだもの。これを、現象学では「超越論的主観性」という。それは、「ない」に向かって「だんだん消えてゆく過程」で考えられている。それは、「解答」ではない。まったく根拠のない思い込み、コンピュータは、それをどう説明してくれるのだろうか。

コンピュータは、何を好きになるかということはすべてわかっても、好きになることはできない。好きになることに、根拠はない。「だって好きなんだもの、しょうがないじゃないの」という気持ちの根拠をどんなに細かく分析しても、分析しきれないものが必ず残る。「好きになる」ということは、「解答」ではない。ある種の「決断」であり、「判断停止」に陥ることだ。そうやって「ない」に向かって消えてゆく。「解答」を消去してゆくこと、つまり、考えなくなってゆくこと。そうやって「自分」が消えてゆくことの心地よさがあり、心=意識は自分から離れて対象に張り付いている。何かの音を聞いているとき、鼓膜の振動として自覚しているのではなく、心=意識はあくまで対象に張り付いている。だから、そこから聞こえてくるように聞こえる。テレビ画面を見ながらイヤホンでその音を聞いているとき、音はイヤホンからではなく、テレビ画面から聞こえてくるように感じている。そのとき耳は、「聞く」能力を失うというかたちで聞いている。「聞いている」のではない。そこで音が鳴っているのを感じているだけだ。「聞く」というはたらきの「超越論的主観性」というものがある。

「好き」という心を失うことが「好きになる」ことだ。そのとき心は、すでに自分から離れて対象に張り付いている。

人の心は、人の中にはない。それに対してコンピュータの心は、あくまでコンピュータの中のものでしかない。コンピュータの心は、コンピュータから離れない。コンピュータには「超越的主観性」はない。

コンピュータは、コンピュータ以下の存在になれるだろうか。コンピュータ以上の存在になれるだろうか。コンピュータではない存在になれるだろうか。

コンピュータが人間になってゆくシンギュラリティはあるのだろうか。コンピュータがコンピュータでなくなって、それでもまだコンピュータであることができるのだろうか。

人間の心=意識は、「ない」に向かってはたらいている。なくなるはずがないのだが、「ない」に向かっているから、「ない」という心地になることができる。そうやって音は、自分の鼓膜ではなく対象のもとで鳴っている……ように感じる。

快楽とは「自分が消えてゆく」心地のこと。そうやって「われを忘れて」夢中になってゆく。

コンピュータには、コンピュータであることの「かなしみ」はあるだろうか。それがなければコンピュータでなくなってゆくきっかけは生まれないし、なくなってゆくことの快楽もない。

コンピュータは、自分が消えてゆくことを体験することができるだろうか。それができなければ、好きになることもない。好きになる理由を無限に察知することはできても、「好きになる」ことはできない。

 

 

人類の視線の先には「人類滅亡=消えてゆく」という「カタストロフィ(=悲劇的終末)」があり、時代はつねにそういう「消失点」に向かって生成している。永遠に栄える時代や権力などないし、「栄えることを目指す」というそのことが人間性の自然に矛盾しており、だれもがそういう欲望をたぎらせて生きるとかだれもが幸せになるとかという世の中など原理的にあり得ない。だからいろんな意味で社会的格差はどうしても生まれてくるし、格差の低い落ちこぼれが人間として劣っているともいえない。ある意味で、落ちこぼれることのほうが自然だともいえる。なぜなら人類は、人類滅亡を夢見て生きている存在だからだ。そうやって進化発展してきたのであり、そうやって知性や感性を花開かせ社会的に活躍してゆきもする。

人の心や命のはたらきも、時代や社会の動きも、「人類滅亡」すなわち「カタストロフィ=消失点」に向かって活性化する。けっきょく社会的に落ちこぼれることも活躍することも差異がないといえばないわけで、たとえば日本列島の精神風土の伝統においても、さっさとあきらめる潔さと死ぬまであきらめないひたむきさが同居しており、どちらも「カタストロフィ=消失点」に向かう心の動きにほかならない。人間は本質において怠惰な生きものであるといわれており、それはひとつの消失願望だが、と同時にこの国の職人の「死ぬまで修行です」という探求心だって、わが身を捨てて技術に命を捧げるという消失願望以外の何ものでもない。

どれほど闘争や競争のさかんな社会でも、いつかきっと沈静化してゆくというかバーン・アウト(=滅び)のときがやってくる。人類史は、幾度となくマンネリズムの時代を繰り返してきた。どんな時代の栄華も、けっきょくは人間性の自然としての「消失願望」に抗えない。

いやもう、生きものの命のはたらきそのものが「消失願望」の上に成り立っているのであり、だから「生物多様性」になるわけで、どんな強い生きものも無限に生息域を広げることはできない。

そして人間だけは無限に生息域を広げてきたといっても、人間の場合はさらに「消失願望」が強く、ひとりひとりが「消えてゆく快楽」の上に存在しており、まあそうやって原初の人類は二本の足で立ち上がった。それは、四本足の猿が地上におけるみずからの身体のスペースを最小限にする姿勢だったし、この上なく危険で不安定な姿勢でもあった。その消えてゆこうとする孤立性や悲劇性を携えて集団からはぐれ出てゆき、また新しい集団をつくってその不安やかなしみをなだめ合うように連携していった。そうやって無限に生息域を広げてゆき、さらには無限に大きな集団になっていった。

じつは人間こそ、もっとも深く切実に「消失願望」を生きている存在なのだ。したがって人間の世界もまた「生物多様性」のかたちで棲み分けているのであり、国の中にもいくつかの県があり、さらにその中にもたくさんの市町村に分かれている。そしてその村の中だって、集落ごとに郷や字の区別がある。そうして小さな単位の集団になればなるほど、集団どうしの連携が濃く生成している。

 

 

人間の集団性の本質は、国家であれ村であれ、中央集権的に「結束」してゆくのではなく、小さく分かれながらそれぞれが「連携」してゆくことにある。

家族という集団の本質だって、親が子を支配するというような家父長的中央集権的なかたちではなく、それぞれが「消失願望」とともにみずからの「テリトリー」を狭くしながら他愛なくときめき合い助け合い連携してゆくことにある。

父親が最大限に「テリトリー」を広げて家族を支配してゆくという家父長制度など、まったく非人間的だといえる。

昔の大家族制度であれば、両親の上に祖父母という「大旦那」「大奥様」がいたわけで、権力がひとつのところに集中しない仕組みになっていた。これは、天皇制に似ている。最上位は権力者ではない、というシステムはこの国の集団性の伝統であり、国家だけでなくどんな小さな集団にも及んでいる。

戦国時代の武士軍団の最高指揮官は、たとえば軍師と呼ばれ、大将の下にいたし、ときには軍師が大将を罷免することもあった。つまり軍師は、大将の下というよりも、大名=総大将の直接の部下だった。日本的なこの集団システムのしくみはいろいろとややこしく、権力=責任の所在がつねにあいまいで、それはもう、戦時中の軍部だろうと現在の企業だろうと、ほとんど変わっていない。

いちばん上に天皇がいて、じっさいに支配統治する権力を握っているのは政治家であるということ。これはもう、古代の大和朝廷の発生のときからずっとそうだったのであり、天皇がじっさいの権力者であった時代など一度もない。権力者によって、ずっとそのように偽装されてきただけで、そのように偽装された古文書が残っているだけのこと。

この国の権力者は、民衆と天皇のあいだに立って民衆と天皇の両方を支配する存在である。それはもう、明治以来の近代史においても大和朝廷発生の古代においても同じであり、今どきの右翼政権は「天皇崇拝」のスローガンを掲げながら大手を振って天皇を支配束縛し、民衆支配の道具として利用している。こんなことはもう、大和朝廷がはじまったときからそうなのだ。彼らが天皇を崇拝しているということは、天皇と民衆の関係に寄生するように登場してきたことを意味するわけで、天皇がいなくても民衆を支配できるのなら、とっくに天皇を殺している。

権力者による天皇支配は、古代のほうがずっとあからさまで、たとえば大津皇子とか有間皇子とか、権力者が平気で次期天皇候補に浮上してきた別の皇太子を殺していたのであり、しかもそれは天皇の命令であるという大義名分の上になされていた。つまり、権力者どうしで、どちらを次の天皇にするかと争っていたのであり、強い勢力は「天皇の命令である」という勅書を天皇に書かせることができた。天皇がじっさいの権力者ならそんな命令をするはずがないし、どちらかひとりがナンバー2になればいいだけだが、ナンバー2の実権者は天皇の息子であってはならなかった。次期天皇候補は、殺されるか天皇になるかのどちらかの人生しかなかった。

そしてそのころの天皇の仕事は、次期天皇候補をつくる色ごとが中心だったわけで、多くの権力者が女を差し出してくるし、天皇自身もそういうことには積極的だったし、色ごとこそがそのころの文化風土の基盤になっていた。そのあたりのことは、古事記万葉集源氏物語によくあらわれている。色好みの光源氏は、まさに一般的な天皇のイメージだったのだ。だから光源氏の息子たちも、恋に生きる男として描かれている。

 

 

色ごとが文化風土のお国柄だから天皇制が成り立っていた、ともいえる。

天皇は権力者ではないからこそ、すなわち美しく魅力的な存在だからこそ、民衆も進んで祀り上げていった。何しろ色ごとが文化風土のお国柄なのだから、強いことよりも美しく魅力的であることのほうが、祀り上げるべき「権威」になりえていた。

天皇は、古代のときからすでに自分を捨てた無私の精神の持ち主で、そうでなければ天皇になれなかったし、それもまた、この国においてはこの世でもっとも美しく魅力的な心にほかならなかった。

天皇は歴史の初めからそういう存在だったのであって、「神武東征」などという勇ましい物語で登場してきたのではもちろんないし、権力社会にはそういう物語を捏造しなければならない必然的な理由があった。

古代および古代以前の日本列島では、だれもが色ごとに明け暮れて生きていた。古事記万葉集を読めば、そうとしか考えられない。そしてその集団性というか共同性が色ごとの文化の上に成り立っていたということは、ただ単に下世話であったということではなく、人と人のときめき合う関係を大事にする社会であったということを意味する。だからこそ、社会においてもっともも権威をそなえた存在は、もっとも強い存在の権力者ではなく、もっとも美しく魅力的な存在としての天皇であらねばならなかった。

まあ「源氏物語」に描かれた色好みの光源氏は、その当時の特殊な天皇像ではなく、理想の天皇像だった。そのとき天皇が実質的な権力者であったのなら、許されるような話ではなかった。古代の日本人にとっての天皇は、神武天皇のような「征服者・統治者」が理想であったのではではないし、歴史的に天皇はそんな遺伝子をそなえた存在ではなかった。

天皇は色ごとに明け暮れる能力を持っていなければならなかったし、そんな天皇であればこそ、みんなが祀り上げてゆく存在でありえた。

 

 

現在の天皇のことを考えればよくわかることだが、この国においてもっとも高潔な精神は、「無私」であることにあり、そこに天皇のキャラクターの本質がある。自己を消去すること、しかしこの国においてそれは、仏教的な悟りの境地とかというようなことではなく、その「消えてゆく」ことこそが快楽の本質であり色ごとの醍醐味だからだ。

色ごとこそ、この国の文化の伝統の基盤なのだ。

僕は天皇制がいいのか悪いのかということはよくわからない。しかしこの国の歴史において天皇が「支配・統治者」として登場してきたと考えるのは間違っているし、そんな存在であったことなど一度もないのだ。

上代天皇が名君だったとか暴君だったとか、さまざまな毀誉褒貶の伝説があるが、すべてはただの作り話だし、けっきょくは色ごとにまつわるエピソードを中心に語り伝えられてきた。まあ名君だろうと暴君だろうと、古代人が歴史を語るのにそんなことはどちらでもよかった。もともと権力を持っていないのだから、それによって現実の歴史がどうなったわけでもない。

そして、天皇の色ごとのことを語っても、それが天皇を貶めることにはならなかった。

古代および古代以前の日本列島は「色ごと」の文化の上に成り立っており、そのことの象徴として天皇が祀り上げられていた。

これは、人間としてとても本質的なことだ。人類は昔にさかのぼればさかのぼるほど人間として本質的であったに決まっているし、四方を荒海に囲まれた日本列島では世界のどこよりもそうした原始性を色濃く残して歴史を歩んできたのであり、その原始性の上に成り立った文化をどこよりも高度に洗練・発達させてきた。

人間であることや命のはたらきの本質は「ない」に向かうことにある。「消えてゆく」ことのカタルシス(快楽)、すなわち「消失願望」こそが色ごとの本質であり、そのことの上に「無常」や「あはれ・はかなし」や「わび・さび」の文化の伝統が育ってきた。

原始的であることは、それこそが人としての「究極」のかたちでもある。なんのかのといっても歴史は、「命のはたらき」の本質によってつくられている。人が人であるかぎり命のはたらきの本質を超えることはできないし、命のはたらきの本質は命のはたらきを超えてゆこうとすることにある。それが、「ない」に向かう、ということだ。

 

 

人も生きものも、命のはたらきの「消失願望」とともにみずからの「権力=責任=テリトリー」を縮小してゆこうとする衝動を持っており、それによって「生物多様性」が成り立っているのだし、その「消失願望」こそがつまるところ人類普遍の「贈与=献身」の生態になり、時代や権力者の栄華もいつかは滅びるという歴史の法則になっている。そしてそうした時代の推移は、ゆっくり変わるとはかぎらず、あるとき劇的に変わることもある。

風が吹けば、時代は一気に変わる。われわれにその予測はできない。ともあれ人は「今ここ」に生きてあることの「嘆き」の上に存在しているのだから、変わらないはずがない。命のはたらきは命のはたらきを超えてゆこうとすることにあり、それは「ない」に向かうことにある。

人間社会は、命のはたらきを超えて「永遠の命」に向かおうとする動きと、「ない」に向かおうとする動きとのせめぎ合いとして動いており、前者はつねに栄えつついずれは滅びるということを繰り返してきた。そうして後者は、けっして途絶えることのない地下水脈として流れ続けてきた。つまり、いつの時代も栄耀栄華を誇る者がいて、いつの時代も置きざりにされ途方に暮れている者たちがいる、ということ。そして、地下水脈である後者のほうが、つねにマジョリティなのだ。

いずれにせよ人間であることの自然・本質は生きてあることの「嘆き=かなしみ」にあるわけで、それがなければ「富」も「幸せ」も欲しがらない。

「嘆き=かなしみ」が人間的な魅力を生み、人間的なときめきを生む。「嘆き=かなしみ」がこの生を活性化させ、人間的な色ごとを豊かにしている。

日本列島の「色ごとの文化」の伝統は、生きてあることの「嘆き・かなしみ」の上に成り立っている。

コンピュータに、生きてあることの「嘆き=かなしみ」はあるか?もともと生きていないのだからあるはずもない。「嘆き=かなしみ」の何たるかをどれだけ深くたくさん知っていようと、それは「嘆きかなしむ」ということとは違う。「嘆きかなしむ」という心の動きが、人間的な思考の「超越性」を担保している。

コンピュータの思考に「超越性」はない。どこまで行ってもこの世界と地続きなのだ。

同様に、宗教が教える「天国」や「極楽浄土」だって、この世界と地続きのものでしかない。宗教には、「超越性」はない。

あの山やあの水平線の向こうに何があるのだろう、と思うことも地続きの思考でしかない。しかし原初の人類は、その向こうには「何もない」というそのことに引き寄せられながら地球の隅々まで拡散していった。そこにこそ、人間的な思考の「超越性」がある。

 

 

コンピュータは、「答えがない」ということに向かって計算し続けることができるか?「答えがない」という「嘆き=かなしみ」を生きることができるか?

この国の浄土真宗では「死んだら極楽浄土に行けるということなどいっさい考えるな、そんなことはすべて阿弥陀如来にお任せせよ」と説く。これは「何もない」ことに向かって思考する態度であり、古代の神道が「死んだら何もない真っ暗闇の黄泉の国に行く」と説いていたのと同じ思考であり、そこに日本的な思考の伝統がある。

セックスの醍醐味は「消えてゆく」心地のエクスタシー=オルガスムスにあり、それは「何もない」世界に向かう行為である。原初の人類は、そういう人間的な思考の「超越性」とともに地球の隅々まで拡散していった。

日本列島の文化の伝統・本質は「色ごと」にあり、そこにこそ人間的な思考の「超越性」のダイナミズムがある。

古代の日本列島の文化土壌が「色ごと」にあったということは、人々の思考が宗教以上にというか非宗教的なまでに「超越的」であったということを意味するのであり、その「超越性」の象徴として天皇が祀り上げられていた。

まあ、いかにも地上的現世的な政治支配に天皇が深くかかわっていたことなど、あるはずがないではないか。たとえば光源氏のように、色ごとに夢中になっている天皇こそ、もっとも天上的超越的なのだ。

古代の日本列島では近親相姦も不義密通もなんでもありで、そこにこそ古代文化の「超越性」があり、それを天皇という「かみ」が率先してやっていた……ということが古事記万葉集源氏物語を読めばよくわかる。

古代の日本列島においては、政治のことは政治家(権力者)に任せ、天皇も民衆も「色ごと」に熱中していた。その伝統があるから現在でも「無党派層」とか「無関心層」が大半を占めているわけだが、「無党派層」や「無関心層」であるためには選挙に行って権力の暴走にひとまずブレーキをかけておく必要がある。それを「民主主義」というのだろう。

われわれ民衆にとっては、政治や経済がこの生の最重要テーマではない。そして最重要のテーマではないという生き方をするためにはひとまず最低限はかかわる必要がある、ということだろうか。

「一期は夢よ、ただ狂え(閑吟集)」……コンピュータは、狂うだろうか?狂うことを生きることができるだろうか?

「かわいい」とときめくこと、たったそれだけのことにだって、コンピュータにはない人の心の「超越性」がはたらいている。それはまあ、ひとつの「消失願望」であり、「人類滅亡」を願う心でもある。そのようにして心は癒され、活性化してゆく。

 

 

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キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。

金が仇の世の中で

 

 

世の中は金で動いている……それはまあたしかにそうで、世の中を動かしているのは資本家であり、民衆は金に動かされている。そして今どきの権力者もまた、経団連という資本家たちに動かされている。

今や権力者は資本家の使い走りの犬に成り下がっていて、国会の山本太郎はこれを「『保守』と名乗るな、『保身』と名乗れ」と発言した。

まあ、「保守」と名乗れば商売になる世の中らしい。

山本太郎は、「政治家は、金と票の匂いのするところに寄って来る」ともいっていた。

そりゃあ誰だって金がないと生きてゆけない世の中なのだから、金を欲しがることがいけないとはいえない。

しかし、お金=貨幣とは、いったい何なのだろう。

人類史における起源としての金=貨幣は、きらきら光る貝殻とか石ころとかの「この世のもっとも魅力的なもの」として生まれてきたわけで、欲しがるのは当然だともいえる。人類の心には、そういう歴史の無意識が埋め込まれてある。

金を欲しがるのはいけないことじゃない。しかし、「生きてゆくために」という、その目的が不純なのだ。われわれは「お金を使うために」お金を欲しがっているのであって、「生きるため」じゃない。そしてお金を使うことには大なり小なりの「喪失感」がともなうわけで、それはお金がもともと「この世のもっとも魅力的なもの」であったという歴史の無意識がはたらいているからだろう。

原初のお金はただの「きらきら光るもの」で、それは生きるための衣食住よりももっと大切なものだった。だからそれは、衣食住の物との「交換の道具」になってゆくことができた。

お金を使うことは生きるためのエネルギー源を「消費」してしまうことであり、それは「死んでゆく」体験だともいえるし、「死んでゆく」体験は楽しい。だからわれわれはお金を使う。われわれは「死んでゆく」体験をするためにお金を欲しがっているのであって、「生きるため」じゃない。まあ「死んでゆく」体験をすることが生きることなのだから、「生きるため」といえなくもないのだが、「死んでゆく」体験の楽しさを知らないと、お金をどんどんため込むようになる。それはきっと、健康なことではない。

資本家とは本能的にお金をため込みたがる人種で、その点においては健康ではない。しかしお金を使うことによってお金を稼いでため込んでいるのだから、彼らはわれわれよりもずっとお金を使うことの醍醐味を知っているともいえる。お金を湯水のように使って遊ぶ競馬や自動車レースは、もともと貴族や資本家たちの遊びだった。

世の中は、まことにややこしい。人間の生きるいとなみは、生きることから逸脱してゆくことにある。いや、生きものの生きるいとなみそのものが、そのような仕組みになっているのだ。

人がお金を欲しがるのは「この世のもっとも魅力的なもの」に引き寄せられているからであり、お金を使いたがるのは「死んでゆく」体験に引き寄せられているからであり、単純に「生きるため」ともいえない。生きることそれ自体が、「死んでゆく」体験の果てしない繰り返しなのだ。

江戸っ子が「宵越しの銭は持たねえ」といってお金をため込むことを嫌がったのは、「死んでゆく」体験の楽しさをよく知っていたからだ。

この世でもっとも楽しいことは「死んでゆく」体験であり、「死んでゆく」体験がなければ生きられない。人は、「もう死んでもいい」という勢いで生きている。

お金は、死の世界からの旅人である。「きらきら光るもの」すなわち「光」とは、異次元の世界からこの世界に現れ出て、また異次元の世界に向かって消え去ってゆく現象である。原初の人類は、その不思議=神秘に魅せられ、「お金=貨幣」を生み出していった。それは、「死」に魅せられる体験でもあった。つまり、「もう死んでもいい」という勢いでときめいていった。

だからまあ、自分のことを語るのに、あまりかんたんに「生きるため」などといわないほうがいい。それは、人として不健康だ。人が「生きていてほしい」と願うのはあくまで「他者」であり、「自分」ではない。江戸っ子は、「他者」が生きてゆくために奢るのであり、そのとき「自分」が「死んでゆく」という体験を楽しんでいる。「他者」が生きるための「生贄」になることほど楽しいこともないのであり、そういう衝動はだれの中にも息づいている。もともとお金=貨幣は、そういう衝動の上に成り立ち、この世に流通している。

つまり、人類滅亡はめでたいことであり、人類はその願いとともにこの生を活性化させ、進化発展の歴史を歩んできた。

 

 

資本主義の欲望は、人類を破滅の方向に向かわせるのかもしれない。しかし人類滅亡は人類普遍の夢であり、それもいいのだろう。おそらく問題は、それまでのあいだをどう生きるかということにあり、それでも人は、原初から人類滅亡のときまで、つねに心のどこかしらですべての「主義」や「価値」を超えて人と人が他愛なくときめき合う世界を夢見て生きてゆく。

この国の中世の「末法思想」においては、「この滅びゆく世界を阿弥陀如来大日如来が救いに来る」と僧侶たちが語ったそうだが、民衆たちの気分においては、「滅びのときまでのあいだをどれだけおもしろおかしく生きるか」ということにあった。それが『閑吟集』の「一期は夢よ、ただ狂え」という「無常感」であり、明日死ぬかもしれないという状況において、仏の救済もくそもないではないか。

中世の民衆は、権力社会と結託した僧侶や神官のおためごかしの説法に洗脳されてなどいなかった。

中世は、民衆が「私有財産」を持ち始める過渡期にあったわけで、「私有財産」とはこの世界が存続するという前提の上に成り立っているのだから、それを持てば、この世界が滅びてしまっては困る。まあ「文字」というのもこの世界の存続の上に成り立っている道具であるし、民衆も文字を読み書きすることを覚えてきて、文字社会に移行してゆく時期でもあった。

そんな過渡期において民衆は、それでも「無常」という感慨とともに「今ここ」を抱きすくめて生きようとしたわけで、その伝統の上に「江戸っ子は宵越しの銭は持たねえ」という習俗文化が生まれてきた。

この国の民衆社会には、不健康な権力社会の思想に洗脳されたくない、という伝統がある。

 

 

もしも資本主義の原則が「私有」ということにあるのだとすれば、「贈与」とは「私有」とか「価値」を放棄することなのだから、資本主義に反する行為になる。そして、「贈与」こそが資本主義もこの世界も活性化させる。資本主義もこの世界も、滅亡に向かって活性化してゆく。

なぜなら「貨幣」の本質は、交換可能な「債券」としてあるのではなく、一方的な「贈与」の形見としてあるからだ。貨幣の流通は、本質的には、一方的な「贈与」の衝動の上に成り立っている。それは、「私有」や「価値」を放棄することなのだから、人類滅亡の衝動だともいえる。

なんのかのといってもお金を使うことには「喪失感」がともなっているわけで、人は、その「喪失感」を抱きすくめながらお金を使う。

原初のきらきら光る貝殻や石粒は「この世のもっとも美しいもの」であったからこそ、それを差し出すことの「喪失感」には、もっとも深いカタルシス(快楽)があった。

人が旅人や訪問者を歓待するのは一方的な「贈与」の行為であり、旅人や訪問者もまた一方的な「捧げもの」として何かを差し出す。ここに「交換」という意識はなく、ただもう一方的な「捧げもの」を差し出し合っているだけである。それは「人恋しさ=ときめき」の形見であり、人は本能的に「捧げもの」をしようとする衝動を持っている。それが「お金=貨幣」の起源のかたちであり、べつに「交換」という意図があったわけではない。土産を持ってこなければ歓待しないというわけではないし、歓待してほしくて訪れたのではなく、ただもう人恋しかっただけであり、出会いたかっただけだ。

起源としての貨幣はきらきら光る貝殻とか石粒だった。それはとうぜんたんなる「贈与=プレゼント=捧げもの」だったわけで、それで何かと交換できるわけではなかった。リンゴと魚なら、多少は交換可能かもしれないがきらきら光るものなんか、生きてゆくためには何の役にも立たない。それはもともと交換不可能なものだったのであり、それを交換の道具にしていったところに人間的な思考の「超越性」がある、

2万年前の原始人の埋葬に無数のビーズの玉が添えられていたという考古学の証拠がある。これは、もっとも古い起源としての貨幣だともいえる。それは、何と「交換」したのでもない。死者に対して一方的に「贈与」し「捧げた」だけであったが、これが時代を経て貨幣になっていったのだ。

太平洋のある島にはバカでかい貨幣の形をした石を結納金替わりとして花嫁の家に贈るという風習があったらしいが、これだってべつに「交換」のための通貨として使うのではなく、ただ家の前に飾っておくだけで、花婿の感謝を表すためのものだった。

現在だって、一方的な「贈与=プレゼント」としてお金が使われている例はいくらでもあるし、そこにこそ貨幣の起源と本質がある。誰だって、奢られるよりも奢ったほうが気持ちいいに決まっている。

ハンバーガーショップの店員が「いらっしゃいませ」といって愛想を振りまくことに値段はついていない。今どきのその態度に心がこもっているかどうかはともかく、本質的には「人恋しさの形見」として「訪問者」を歓待しているのだ。

貨幣の本質は「人恋しさの形見」であることにある。それが近代の資本主義のシステムとともに大きく変質してしまっているとしても、とにかく本質的にはそういうことで、金が仇の世の中でも、人の心から「人恋しさ」が消えてなくなったわけではない。

 

 

われわれは、貨幣と商品を交換しているのではなく、たがいに「贈与」し合っているのだ。商品は、「贈与=サービス=捧げもの」の性格を持つことによって商品になる。

人の世は、そういう「人恋しさ」の上に成り立っている。

国家も企業も個人も、「自己愛」に陥った瞬間から混迷・停滞してゆく。国家は自己愛によって戦争をし、企業だってライバル企業と経済戦争をする。そして個人においても、自己愛で競争や闘争をしながら「献身」や「連携」の関係を失ってゆく。

コミュニケーションの本質は「伝達の意思」ではなく「人恋しさ=ときめき」にある。それを失ったら、集団の活性化もおぼつかない。

現在の世界は、競争や闘争に明け暮れながら混迷に陥っている。今や資本主義全盛の時代だといわれているが、それによって人々の命や心のはたらきが活性化しているとはいえない。そうやって現代人は社会の動きに巻き込まれながら心や体が病んでいったりしているのだが、それでも誰もが一方では非資本主義的な「献身」や「連携」の関係を生きようとしているわけで、そこから新しい時代が現れてくるのだろう。たとえそれがただたんに新しい資本主義社会だというだけのことだとしても、文明社会の歴史にはつねに「人間性の自然」という抑止力がはたらいているし、それこそが心や命のはたらきも集団も活性化させている。

文明社会で生きるためにはもちろん「お金=貨幣」が必要だが、人は消費するためにそれを稼ぐのであって、稼ぐことだけを目的にしているのはいつだってごく一部のものに過ぎない。だから「ユダヤの商人」やこの国の「士農工商」のように、昔から商人の身分は低かったし、現在の「資本家=富裕層」の身分が高いといっても、多くの人はやっぱりそれを第一義の目的にして生きるということはできない。

「金儲け」という汚れ仕事は国家が引き受けてそれを国民に分配するというシステムは今なお人類社会の理想であり、そこに税制度の本質があるのだろう。金儲けというややこしいことより、できることなら学問や芸術・芸能やスポーツや恋愛やセックス等々の遊びに夢中になって生きていたいというのが人の心の本質・本音であり理想であるのだろう。

多くの人々は、金儲けを人生第一の目的にして生きることはできない。だからどうしても資産格差は生じてしまうし、商人から富が零れ落ちてくること(=トリクルダウン)はない。

お金は国が稼がねばならないし、国は税制度や紙幣の発行などのそのための最も有利な条件をそなえている。

金儲けをしないと生きていられないが、だれだって心の底では「金儲けをしているどころではない」という気持ちも同時にある。つまり、遊んで暮らしたい、ということ。そしてその「自己を開放する」という人間的文化的な行為の本質は、「贈与=献身」にある。

「遊び」とはともあれ「他愛なくときめく」という体験のことであり、「献身=贈与」とは「他愛なくときめく」という体験の表現にほかならない。

自己愛で遊びはできない。資本家は自己愛という自己実現の目的で金儲けをし、私有財産を増やしてゆく。そうやってつねに自己完結しているのだから、「贈与=献身」としてのトリクルダウンなんか起きるはずがない。金持ちほどケチだということは、昔からずっといわれてきたことだ。貧乏人のほうがずっと金離れがいいし、ずっと助け合い連携して生きている。それは、「贈与=献身」の衝動の問題だろう。

「贈与=献身」の衝動がなければ移民を受け入れることなんかできないし、現在の世界にはその衝動をなくさせる社会の構造がある。

 

 

われを忘れて何かにかに夢中になってゆく「遊び」とは自己愛を引きはがす行為であり、そこから「献身=贈与」の衝動が生まれてくる。誰だって自己愛=自意識を持っているが、それを引きはがすことが「快楽」になる。人類の歴史は、「快楽」に流されてゆく。人の一生も、つまるところ「快楽」に流されながら、気がついたら死期が目の前に迫っている。そんなものだろう。大昔からずっと人はそんなふうに無駄で虚しい人生を生きてきたのであり、それはもう、どんな偉人・英雄であろうと虫けらのように死んでいった名もない民衆であろうと同じなのだ。生きてあることは時間を喪失し続けることであり、その喪失感を人は生きているのだしその喪失感を抱きすくめながら生きてあることを実感し、死と和解してゆく。けっきょくのところ、生まれてきたことと生まれてこなかったことは同じなのだ。そういう虚しさを「生命賛歌」という観念で否定しても、無意識のところではちゃんとわかっているし、最終的な人の思考や行動はその「認識=かなしみ=喪失感」の上に成り立っている。なぜだかわからなくても、歴史はそういうかたちで動いてゆくし、人もそういうかたちで生きている。だれもが心の奥のどこかしらでそうした感慨を疼かせながら生きている。

人がこの世に生まれ出てくることはひとつの「不条理」であり「悲劇」であり、その「嘆き」こそが人類史に進化発展をもたらしたのだし、その嘆きを抱きすくめている部分があるがゆえに、「生命賛歌」や「幸せ」や「金儲け」を追求するだけではすまない生き方をしてしまう。

今どきの若者はコストパフォーマンスのことばかり考えているといわれるが、自分をコントロールしながら社会のシステムに順応してゆく訓練をさせられながら育ってきたのだから、コストパフォーマンスを度外視して生きることなんかできない。つまり、コストパフォーマンスに強くこだわる社会のシステムが出来上がってしまっている。以前は500円1000円出さないと買えなかったものが、今や100円ショップで買えるようになった。100円ショップで買えるものを500円出して買うなんて、コストパフォーマンスが悪すぎる。そんなことはしたくない。CDなんか買わなくても、ネットでいくらでも聞くことができる。わざわざ映画館で観なくても、ビデオを買わなくても、ツタヤで借りれば間に合う。辞書もいらない。コストパフォーマンスで動いている世の中なのだもの、それを考えるなといっても無理がある。

 

 

この世に、お金に換えられないくらい魅力的な価値を持ったものが存在するか?

この命を差し出すに足る他者は存在するか?

それはまあ、こちらがわの愛と心意気の問題でもあるわけだが、そういう関係が生まれにくい社会のシステムになっている。大人と若者、男と女、どちらが悪いかといっても、どちらも悪いし、どちらもこの社会のシステムの犠牲者でもある。

けっきょく、今どきのグローバル資本主義や金融資本主義とともに「お金=貨幣」の価値や性格が変質してしまった、ということだろうか。良くも悪くも日本人は、社会の変化にたやすく順応してしまう傾向がある。

われわれは「お金=貨幣」の起源と本質に立ち返ることができるだろうか。

この命を他者に捧げるということができるだろうか。

まあ、コストパフォーマンスが気になるということは「生き延びたい」ということであり、それは「もう死んでもいい」という勢いを持たなければ超えられないし、その勢いは「ときめく」というかたちで生まれてくる。それだけのことだが、それだけのことができない世の中になってしまっている。それだけのことだからだれでもできるし、だれの中にもその衝動はあるのだが、できない人間ほど上手に生きてゆける社会のしくみになってしまっている。

われわれは、ときめき合い助け合う、という関係を取り戻すことができるだろうか。「自分が大事」で「命が大事」ということが正義の世の中であるのなら、なかなかそうはならない。

大事なのは、「他者の命」であって、「自分の命」ではない。

生きることなんか、うんざりだ。しかしそれでも世界や他者は、せつないほどにきらきら輝いている。

ともあれこの国においては、「きらきら輝く」ことにこんな絵文字=☆彡やこんな絵文字=°˖✧◝(⁰▿⁰)◜✧˖°をつくって楽しんでいるのだから、希望がないわけではない。どんな時代になろうと、そういう心映えが人々のあいだから消えてなくなるわけではない

人間は、猿よりももっと他愛なく世界の輝きにときめいてゆくおバカな生きものなのだ。

貨幣の起源においては、「いちばん大切なもの」を一方的に差し出してよろこんでいたのであり、貨幣の本質は一方的な「捧げもの」であることにある。そういう「おバカ」なところにこそ、人の心(=人間性)のダイナミズムがある。

 

 

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キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。

令和の生贄

 

 

山本太郎の「れいわ新選組」のことは書いておかねば、と思った。

僕は政治オンチだから、彼のその行動がどれほどのインパクトを世間にもたらすのかはよくわからないし、その政策の是非を分析できる能力もない。

ともあれさっそくネトウヨたちが寄ってたかっていちゃもんをつけにかかっているが、どれもこれも程度の低いものばかりで、山本太郎にとっては痛くも痒くもないだろう。

「ただの悪趣味のパフォーマンスに過ぎない」といったって、わざとそうしているのだもの、「これはアイロニーです」とちゃんといっている。わざと悪趣味のおちゃらけをやって、令和フィーバーに水を差している。そうやって「ノイズ」というかたちの警鐘を鳴らして人々の関心を喚起しようとしているのだし、そのうえで現在の停滞した時代の「生贄」になろうとする彼の決死の覚悟を届けようとしている。

彼ほどに清純で熱い心を持ったネトウヨなんか、この国の総理大臣以下ひとりもいない。

この世に、死に物狂いほど美しいものはない。とはいえ彼は、困っている人に手を差し伸べようとしているだけであり、そんな当たり前の心が情け容赦なく踏みにじられているのが現在の政治状況なのだ。

信号のない道路を横断することができなくて立ち往生している子供や年寄りを見つけ、車を止めて渡らせてやるのはとても気持ちがいいことだろう。まあ山本太郎の「れいわ新選組」がしようとしているのはそういうことであり、現在の政治経済の支配層にはそういう精神がすっかり失われている。たったそれだけのことだが、それだけのことを取り戻すことが果てしなく困難な状況になってしまっている。

 

 

去年はクイーンの『ボヘミアンラプソディ』という映画が大ヒットしたが、そのクイーンに『ウィ・アー・ザ・チャンピオン』という歌がある。この場合の「チャンピオン」とは「メシア(救世主)」というような意味で、それを「ウィ・アー」というとき、「われわれは神に捧げられる生贄である」という自覚が込められている。

その当時のクイーンは、正当なロックアーチストというより、「トリックスター」という感じで評価されていた。まあセクシーな美声とともにファッショナブルで女子を中心に絶大な人気があったが、どちらかというとまあトリックスターであり、彼ら自身にも「本流ではない」という自覚はつねにあったはずで、おまけにリードボーカルフレディ・マーキュリーパキスタン系のマイノリティで、しかもゲイだった。彼らがチャンピオンのヒーローであるゆえんは、「人類の生贄」であることにあった。

山本太郎だって、もとはといえば政治家を目指していたわけではない高校中退の芸能人だったし、演説するときには「私は永田町のイロモノです」といつも言っている。イロモノ、すなわちトリックスター、気取ってなんかいられないという「生贄」としての自覚が彼の政治活動のダイナミズムを担保している。彼こそが「チャンピオン」であり、そのへんの低脳なくせに正義・正論を気取ってばかりいるネトウヨたちとはモノが違うというか、志の高さが違う。

彼が政治の世界でビッグスターになればおもしろいのになあ、と思う。

 

 

ろくでもない世の中だと思う。

今の政権が醜悪であることなんかだれでも知っているのだが、みんなが醜悪であれば、それが正義になる。それによって自分のずるさとかいじましさとかが許されるのなら、今の政権こそ正義だ。醜悪さこそ正義だ。今の政権は、ずるくいじましく醜悪に生きろと教えてくれている。それはとても安心することだ。それによって仲間内の関係が安定するし、醜悪な世の中なら醜悪に生きなければ認められない。

現在の権力者たちの醜悪さもさることながら、それにもたれかかって生きようとしている者たちがたくさんいることも大きな問題に違いない。権力者だけでこの世の中の動きをつくっているとは限らない。

まあ現在のこの社会は、こずるくいじましく生きてゆくことが正義であるかのように動いてゆくシステムになっている。システムから外れたら、うまく生きられない……そういう強迫観念を世界中が共有している。

生きることは大切だ、という強迫観念。醜悪にならなければ生きることはできないし、醜悪になることは正義だ。

いやまあ、そんなふうに生きたければそうすればいいのだけれど、それでこの生が輝き活性化するわけではない。

世界(他者)の輝きにときめいていなければ、人は生きられない。つまりそれは、「ときめき」は生きることよりも大切だということであり、「もう死んでもいい」という勢いで世界の輝きにときめいてゆくことが人間の普遍的な生のかたちである、ということだ。そうやって原初の人類は地球の隅々まで拡散していったのだし、われわれが小さな野の花を見つけて思わずときめくことにだって、そういう「もう死んでもいい」という勢いの「心の飛躍(=超越性)」がはたらいている。

あなたの心の「かわいい」というときめきを、はたしてAIに体験することができるだろうか。

政治や経済がどうのといっても人はだれもがときめき合う世界を願っているのだし, ときめき合わなければ政治も経済も安定しない。仲間内だけで「空気」という名の正義を旗印に結束しているだけでは、「ときめき合う」という関係は生まれない。結束して「空気」の外の第三者を忌み嫌い排除する。それは、忌み嫌い排除する心を共有しながら結束しているだけで、ときめき合い連携しているのではない。そんなことばかりしていたら、「ときめく」心はどんどん摩滅してゆく。

ときめく心を摩滅させなければ、あの醜悪な権力者たちのようには生きられない。醜悪にならなければ生きられないような社会のシステムが出来上がっている。生きることが大切であるのなら、醜悪になるほかない。「生きるため」とか「生活のため」といえば、どんないじましさや意地汚さも正義になる。

しかしそれでも人が人であるかぎり「もう死んでもいい」という勢いは持っているのであり、「もう死んでもいい」という勢いでときめいてゆかなければ生きられない。

 

 

世の中は、正しい方向に動いてゆくのではない。「感動=ときめき」がなければ新しい社会は生まれてこない。

戦前の大日本帝国は正義を生きようとして戦争の時代に突入してゆき、最後は惨めな敗戦で終わった。

とすれば戦後のこの国は、そうした正義の呪縛から解き放たれ、「感動=ときめき」を生きようとしていったのかもしれない。社会はこの上なく困窮していたが、人と人のときめき合う関係や映画や歌謡曲などの娯楽のムーブメントは大いに盛り上がっていった。そうやって東京や大阪などの荒廃した都市にどんどん人が集まってきたし、未曽有のベビーブームが起きた。そのとき多くの人々が、食糧や住居が確保されている田舎から、あえて不自由な暮らしを余儀なくされる大都市へとどんどん移住していった。それは、「滅びる」ことを覚悟してというか、「もう死んでもいい」という勢いで感動すなわち人と人のときめき合う関係を生きようとする態度だったのであり、その決意として憲法第九条が生まれてきた。

この生を活性化させるのは、この生に執着することではなく、この生を超えてゆこうとすることにある。

この生の尊厳は、「生命賛歌」によって証明されるのではない。

世界の輝きにときめき感動する体験が人を生かしている。生きることなんかろくでもないが、それでも世界は輝いている。人はこの生を嘆きかなしんでいる存在であるがゆえに、この世界の輝きにときめき感動する。

現代人は、この生の嘆きやかなしみを抱きすくめてゆくことができないがゆえに、この世界の輝きに対するときめきが希薄になっている。

この世界の輝きにときめき感動する体験は、この生に対する嘆きやかなしみから生まれてくる。敗戦直後の人々がなぜ世界の輝きに深く豊かにときめいていたかといえば、この生に対する嘆きやかなしみを深く切実に抱きすくめていたからだろう。

生きてあることを深く切実に問うなら、いつどんな時代であれ、嘆きやかなしみは沸いてくる。そのようにして人間は存在している。

 

 

人は、むやみな生命賛歌やナショナリズムを振りかざしながらヘイトスピーカーや右翼になる。移民を排斥しようとすることは人間性を喪失している態度だが、宗教を手放そうとしない移民もまた、新しい世界や人との出会いに対するときめきや感動を喪失している。彼らは、神との関係に潜り込んで出てこようとはしない。そして移民を排斥しようとする者たちもまた、みずからの生にしがみついている。

みずからの生や神との関係にしがみつけば、「出会いのときめき」はない。

この生を嘆きかなしむところには、神も生命賛歌もない。神は何もしてくれないし、この生はろくなものではない。しかしそこに立つことによってこそ、世界や他者は輝いて立ち現れる。

もちろんイスラム教徒がみずからの宗教を手放すことなどありえない。それはもう、ユダヤ教徒のヨーロッパ移住2千年の歴史が証明している。ヨーロッパ人の苦悩と受難は永遠に続くのか。宗教を携えた移民は排斥しなければならないと同時に、移民それ自体は排斥してはならない。

彼らにとってイスラム教を手放すことは生きることも死ぬこともできなくなってしまうことだが、その生きることも死ぬこともできない途方に暮れた心を抱きすくめて生きるのが人間性の自然・本質なのだ。

ヨーロッパ人にしても、イスラム教を手放さないことを許すとしても、それを当然の権利だと思われたら困る。そう思っているから、イスラム教徒やユダヤ教徒は迫害される。

宗教を携えて生きることが許されてしかるべきことであるとしても、それはけっして尊く美しい態度であるのではない。そんなところに人間性の尊厳があるのではないし、尊厳を意識するということ自体が卑しいのだ。

生きてあることに途方に暮れているのが人間であり、そこに立ってこそ世界や他者は輝いて立ち現れる。

 

 

ヨーロッパ人とアラブ人も、日本人と韓国人も、たがいに憎み合っている側面があるとしても、それでも「他者」は輝いている。

「他者は輝いている」という人間性の自然・本質を、たがいに受け止めなければならない。それは、生きてあることを嘆きかなしむ存在にならねばならないということであり、どちらも「自分は正しい」と思ってはならない、途方に暮れていなければならない。

正義にしがみついていたら、「許す」ということはできない。ナショナリストたちは、正義にしがみつきながら「他者」を「許さない」ことによって結束してゆく。国家とは「許さない」装置だ。正義とは「許さない」ことだ。とすれば「許す」とは、国家=法の外に出ることにちがいない。「生の外に出る」と言い換えてもよい。「もう死んでもいい」という勢いで許してゆく。そりゃあ「敵」を許すことはできないが、だれだって「人間」は許している。それは、他者に「生きていてくれ」と願うこと。他者が生きるためには自分が死なねばならないとしても、それでも「生きていてくれ」と願う。そしてそのように「もう死んでもいい」と思うとき、この生やこの心は活性化している。「許す」ことは心地よいことだし、それは、生きてあることを嘆きかなしんでいることによって可能になる。

つまり、「許す」ことは可能だし、そこにこそ人間性の自然・本質がある、ということだ。

おたがいいつまでも嫌いであったり許さなかったりするとしても、「許す」ことが人間ほんらいの心の動きである、という認識だけは持つことができるのではないだろうか。

「許さない」ことは、人間性の真実でも正義でもない。

人は、「この生」や「自分」を許していないが、「人間」は許している。なのに今どきは、「この生」や「自分」を許して、「人間」を許していない。

性悪説」というのだろうか。人間はもともと醜悪な生きものであるが、それを克服して正しい人間にならねばならない、という。そうじゃない。人間は醜悪な生きものになってゆくのだ。今どきのヘイトスピーチは、「野生の心」によるのでもあるまい。社会のシステムに侵されながら、そうやって歪んでゆくだけだろう。

人間的な「野生の心」は、生きてあることの嘆きやかなしみにある。なぜなら、この生を嘆きかなしむことが、この生を活性化させることだからだ。

 

 

まあ他者を「許さない」という感情は、後天的な権力志向の心から生まれてくる。それは、他者を支配ししようとしている感情である。他人が何をしようと何を思おうと、他人の勝手ではないか。人は「人間」を許している。「人間」に対して、「生きていてくれ」と願っている。だから原始人は遠来の旅人を歓迎した。それは、旅に疲れて死にそうになっている者だからであり、赤ん坊を育てようとするのと同じことだ。

死にそうになっているものほど美しく尊い存在もない。すべての基本はここにある、と僕は思っている。そういう存在に対して「ざまあみやがれ」と思うのか、「自己責任でなんとかしろ」と思うのか。生まれたばかりの赤ん坊に対しても、そう思うのか。思わないだろう。犬や猫や鳥だってそう思わない。子育てするなんて、とてもリスキーなことだ。ときには、自分の命を差し出すくらいの覚悟をしないとできなかったりする。しかしそれは、とても心地よいことでもある。自分の命を差し出して「生贄」になることの恍惚というものがある。なぜならわれわれは、生きてあることを嘆きかなしんでいる存在であるからだ。だから死にそうなものを美しいと思うし、死にそうなものに対して自分が「生贄」になろうとも思うし、「もプシンでもいい」という勢いで生きてしまったりする。というか、命のはたらきそのものが「もう死んでもいい」という勢いのことだ。

命がけの行為に対してはだれしも感動するし、だれにとっても生きてあることそれ自体が命がけの「死んでゆく」行為なのだ。息をすることは、そのぶん生きるエネルギーを消費しながら死に近づいてゆくことだろう。誰だって命がけで生きているし、よりあからさまに命がけであることに遭遇すれば、そりゃあ感動する。

「野生の心」は、死にそうなものに対して、「ざまあみやがれ」とか「自己責任だ」などとは思わない。ときには自分の命を差し出してでも生きさせようとする。生きてあることを嘆きかなしんでいる存在である人間にとって、自分の命を差し出すことはひとつの「快楽」であり、その勢いのもとでこそ命のはたらきは活性化する。

「許す」とは、他者に対して「生きていてくれ」と願うこと。それは、他者に向かって自分の命を差し出すということであり、そこにこそ人間性の自然・本質がある。

まあここでは、「神の許し」とか「神の裁き」とか、そんな次元のことをいっているのではない。人と人のあいだの「人情の機微」の基本的なところを問うているだけである。基本的に人は「人間を許している」存在であり、「憎しみ」とか「許さない」とか、そういう他者を裁こうとする心の動きは、文明社会のシステムから生まれてくる後天的なものに過ぎない。それは「野生の心」ではない。そんなややこしい心の動きが人間の本性などであるものか。

自分の中に人を憎む心があるのはそれが人間の本性(=原始的な感情)だからだ、とか、何をくだらないことをいっているのだろう。今どきのネトウヨたちはまあそんなところかもしれないが、そんなものはただの発達障害であり、文明病に過ぎない。この世のすべての人間がおまえと同じように醜悪な潜在意識をたぎらせているわけではない。

 

 

僕には、山本太郎ほどの清らかな心はないが、そのひたむきで命がけのふるまいを「美しい」と感動する心くらいはある。現在のこの国の「生贄」になろうとしているその心こそ、まさに「野生の心」なのだ。

原初の人類は、だれもが集団の「生贄」になってゆくようなかたちで二本の足で立ち上がっていった。そのようにして、猿とは別の生きものになった。

「生きる」いとなみとはエネルギーを消費する「死んでゆく」いとなみでもあり、「生贄」になろうとすることはすべての生きものの命のはたらきだともいえるわけだが、「進化」とは「生贄になる」ということであって、生きるためのコストパフォーマンスを拡大するということではない。原初の人類は、二本の足で立つというきわめて危険で不安定な姿勢を常態にすることによって猿よりも弱い猿になったのであり、それは、コストパフォーマンスを大きく失う事態だった。しかしそれが、結果的に目覚ましい進化へとつながっていった。

新しい時代が生まれてくる契機は、コストパフォーマンスを失うことにある。この国の太平洋戦争の敗戦が、まさしくそうだった。戦前の朝鮮・満州。台湾を植民地にしていた当時さえGDPは世界の6位くらいだったが、日本列島だけに閉じ込められて世界の最貧国のひとつになった戦後は、そこからたった40年でたちまち世界の2位にまで上り詰めていった。

現在のこの国は、コストパフォーマンスを失うことをとても嫌う傾向にあり、ネトウヨのようにすべての邪魔者をどんどん排除してゆけばコストパフォーマンスはよくなるだろうが、新しい時代に向かうダイナミズムは逆にどんどん減少衰退してゆく。つまり、だれも「生贄」になりたがらない世の中になっている。そうして多くの弱者がさらに追い詰められていっている。

そこで山本太郎の「れいわ新選組」が、われわれが「生贄」になる、と立ち上がった。ただ彼は、自分たちだけでも「生贄」になれば世の中は変わるかもしれないと期待しているのだろうが、それだけではだめだ。誰もが「生贄」にならなければ世の中は変わらない。

J・F・ケネディは、大統領就任演説で、「アメリカ市民のみなさん、国歌がみなさんに何をなしうるのかを問わないでいただきたい、みなさんが国家のために何をなしうるかを問うていただきたい」と語った。この文言の意図をどう解釈するかはさまざまだろうが、とにかく「皆さんが応援してくれるのなら私は死に物狂いで頑張る」という意味であるのなら、それはそのまま山本太郎の宣言でもある。

われわれのなすべきことは、山本太郎の「れいわ新選組」を応援したくさん当選させることだけであり、それが、われわれもまた「生贄になる」ことであるに違いない。

今は、賢い政治家よりも、死に物狂いで頑張る政治家が求められている。その「もう死んでもいい」と勢いに感動しながら、「祭りの賑わい」が生まれ、新しい時代が生まれてくる。

山本太郎のそのチャレンジが実を結ぶかどうかは、僕にはわからない。ただ、その姿勢は美しく感動的だと思うし、人間なら誰だって困っている人に手を差し伸べようとする衝動は持っている。僕としては、これによって現在の政権やネトウヨたちの醜悪さがいっそうあからさまに露呈される時代状況になってゆけばいいのになあ、と思う。

 

 

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キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。

人恋しさの集団性

 

 

「令和」という新元号名を聞いても、なんだかなあ、と思うばかりで、もう飽きた。

あんなセレモニーなどただのこけおどしで、それが成功したのか失敗したのか、よくわからない。

もうどうでもいい。

統一地方選挙の結果もなんだか低調で、人々は、どうしてこんな愚劣な政権を許してしまうのだろう。さしあたって自分が困っていなければ政治のことなんかどうでもいい、ということだろうし、困っていないのだから政権が代わってほしくないとも思うのだろう。とくに若者は。彼らは、スケジュールが代わることやコストを払うことを嫌がるし、ちょっとまあ自閉症的なところがある。余計なことにかかわりたくない。

もちろんそんな若者ばかりではないし、若者であれば、そんな気分も何かのはずみでかんたんに変わってしまうこともあるだろう。

世の中が変われば、若者の気分も変わってくるのだろうが、今は、若者を自閉的にさせる社会のシステムが上手にきつく出来上がっている。

若者が投票に行くか行かないかは、政策の問題ではない。お祭り気分にさせてやることができるかどうかだ。お祭りとして盛り上がらなければ、投票になんか行かない。

その点は右翼のほうがよく心得ている。元号のセレモニーやオリンピックはまさにそんなことだし、ヘイトスピーチで騒ぎ立てることだってひとつのお祭りであり、それが正義かどうかとか真実かどうかということなど、彼らの知ったことではない。

僕だって、現在の政権が間違っているかどうかということなどわからない。ただもう耐えがたく「醜い」と思うだけなのだ。

元号はすばらしい、という右翼の者たちの感動なんてまったくいじましいかぎりだが、それでもないよりはましでお祭り気分にさせてくれるし、それが投票行動につながる。

とにかく集団行動のダイナミズムはお祭り気分とともに起きてくるわけで、そういう感動を与えてくれないことには野党に風は吹かない。

 

 

日本列島の歴史だって、まさにお祭り気分とともに動いてきたのだ。

たとえば、起源としての天皇が九州から奈良盆地にやってきた征服者だったいうのは、後世になって捏造されたたんなる伝説に過ぎないのであり、そんなことくらいこの国のだれもが知っている。

まあ、それでもその裏に史実が隠されていると考える歴史家が多いし、右翼たちはひとまずそれを史実であることにしようといういじましく意地汚い合意で結束している。

そんなことは、史実とは何の関係もない。そういう伝説をつくりたがるのは世界中の共同体の普遍的な習俗であるが、原初以来の人類の歴史に照らして考えれば、まずどこらともなくたくさんの人が集まってきて大きな集団がつくられていったということ、そんなことは、あたりまえすぎるくらいあたりまえのことではないか。そんな安っぽい物語をまさぐっている前に、なぜ人間の原初的で普遍的な集団性について考えようとしないのか?

この国の起源としての天皇は、奈良盆地の民衆がみんなで仲良く暮らしてゆくための「象徴=シンボル」として祀り上げっていった、まあ「巫女」のような「カリスマ・アイドル」だったのだ。それが、奈良盆地の都市化とともに天皇という存在になっていった。それだけのことさ。それだけのことだが、今どきの凡庸な歴史家たちにはそれを考えるだけの想像力も探求心もない。

「そこに史実が隠されている」ということにすればかんたんだしおもしろくもあるのだろうが、そういう起源伝説が根も葉もない作り話であることは世界史の普遍的な法則であり、そこに考える余地があるとすれば、そういう根拠のない作り話が生まれてくる時代状況を問うことにある。

たとえばその伝説がつくられた6・7世紀ころの奈良盆地には日本中からたくさんの人が集まってきていて、九州に高天原という秘境があることを人々が知っていた、ということであり、その千年前の高天原に王国があったという考古学的証拠など何もないし、文字のない社会の千年前のことを一体だれが覚えているというのか。そんな話は一寸法師や桃太郎の「貴種流離譚」と同じで、世界中どこでも起源伝説は根も葉もないことにこそ存在意義があるのだ。

まあ日本人は歴史を修正したり消してしまったりすることが好きな民族で、それが「水に流す」という精神風土の伝統で、そうやって九州の山奥の村では「自分たちは平家の落人の末裔である」という起源伝説を語り継いできた。平家の落人の子孫が代々庄屋を務めてきた、ということがあるにせよ、その前には無人の山野だったという証拠は何もない。

古代ローマはオオカミに育てられた双子の子供が建国したとか、起源伝説は、根も葉もないというその「超越性」にこそ値打ちがある。まあこの話をすると長くなってしまうが、この「超越的な思考」で言葉や神という概念が生まれてきたのだし、人類の歴史は「超越的な思考」とともに進化発展してきたともいえる。

 

 

お祭り気分が盛り上がらなければ集団のダイナミズムは起きてこない。弥生時代奈良盆地がその当時の日本列島でもっともダイナミックな人口爆発が起きた土地だったすれば、それはお祭り気分で賑わっていたということであり、それによって人々の.生殖活動が盛んになっていっただけでなく、周辺から訪れてくる旅人もたくさんいたということを意味している。旅人が持つ熱い心やせつない心というかその「人恋しさ」は祭りの盛り上がりにはとても役に立つ。

まあ終戦直後の東京や大阪だって同じようなムーブメントが起きていたのであり、そこは、田舎と違って極めて食糧事情が悪く、日本列島でもっとも困窮している土地だったのに、もっともたくさんの人が集まってきてもっとも賑わっていた。人類史における都市は、祭りの賑わいとともに生まれてきたのであって、政治経済的な理由によるのではない。

もしも「神武東征」という征服者伝説をつくったのが奈良盆地の民衆だったとすれば、じっさいの権力者だって天皇の家来にすぎない、ということにしたかったからだろうし、権力者にとってもそのほうが民衆支配に都合がよかったのだろう。この国のように権力者と民衆との「契約関係」のない社会では、そういう「構造」が必要だった。

われわれ民衆は契約関係もない権力者になぜこうもかんたんに支配されてしまうのかといえば、それが「天皇の命令」として下りてくるからだろうし、まあ世界史的にも民衆支配は「神の命令」として出来上がっていったのだ。

征服者は、まず神との関係の仲介役として民衆との「契約関係」を結ぶことによって権力支配を確立する。神は人類を支配するが、同時に救ってもくれる。だから西洋の支配者は民衆を救う義務を負っている。

しかしこの国の天皇は支配もしなければ救ってもくれない。ただ一方的に民衆を祝福しているだけであり、民衆もまた一方的に天皇を祝福している。もともとこの国の民衆と天皇とのあいだには、利害関係で結びついた「契約」などというものはない。だからその「契約」を偽装するために支配者たちは「神武東征」という物語を捏造したのだし、民衆もひとまずそれを受け入れた。なぜならそのとき民衆の祭りがすでに大規模・広域に拡大していたから、祭りを管理運営することが必要になっていたわけで、その「まつりごと」するものとして、天皇と民衆のあいだに立った支配者が登場してきたのだ。

この国の最初の「王=天皇」は、征服者ではなかった。そのとき天皇は民衆が勝手に祀り上げている存在であり、民衆が天皇という王を殺して革命を起こすということはあり得ないし、支配者にしても、天皇を殺したら民衆支配が成り立たなくなる。天皇制が1500年以上続いてきたというこの国の歴史的な社会の構造は、起源としての天皇が「征服者」でなかったことを物語っている。征服者としての王は殺してもかまわないが、神としての王は殺すわけにいかないし殺すことができない。

なんのかのといっても天皇制がこんなにも長く続いてきたのは、天皇が征服者ではなく「神」のような存在だったからだ。しかも、支配しない神だったというか、支配しないことによって神であることができた。この国と西洋やアラブとは、神という概念そのものが違う。

この国の「神=かみ」は、支配しないし、救いもしてくれない。なぜなら、もとはといえば、ただの祭りのアイドルだったのだもの。

江戸時代の吉原の花魁は菩薩という神のような存在だったし、今どきの舞妓やAKBや宝塚や初音ミクだって、ひとまず「巫女」であり「かみ」なのだ。

 

 

征服者は、かならず別の征服者に滅ぼされる。そうやって藤原氏も平家も源氏も北条も足利も織田も豊臣も徳川も、すべて別の征服者に滅ぼされた。それが歴史の法則だ。

天皇家は、最初から征服者ではなかったから1500年以上続いてきた。天皇は、支配者ではない。民衆によって一方的に祀り上げられているいわば「生贄」であり、「象徴」であるとは「生贄」であるということで、天皇はその立場を受け入れている。

丸山真男をはじめとする戦後左翼は「天皇が存在するかぎり日本人の精神的自立はない」などとよく言ってきたが、その自立できない「寄る辺ない心」こそ日本列島の伝統的な精神風土であると同時に人類史の普遍でもある。原始人は、「寄る辺ない心」を携えて地球の隅々まで拡散していったし、人類はその心を共有しながら際限なく大きな集団をつくってきた。

結束すれば邪魔者を排除しようとするし、大きな集団になってゆくことはできない。寄る辺ない心で緩くつながり連携してゆくから、際限なく大きな集団になってゆくことができる。

「結束」ではなく「連携」、この「無主・無縁」の「祭りの賑わい」こそが人類の集団性の起源であり究極のかたちなのだ。

「祭り」とは旅人との出会いの場であり、同時にだれもがどこからともなく集まってきた旅人になっているわけで、その「寄る辺ない心」の「人恋しさ」とともに祭りの賑わいが生まれてくる。その「人恋しさ」こそが、人類の集団ならではの「連携」のダイナミズムを生み出す。

最初からくっついて「結束」していたら、「人恋しさ」も「ときめき」も「連携」も生まれてこない。

 

 

因果なことに「移民」は原初以来の人類普遍の生態であり、文明社会だって、「移民」を成り立たせるためにはどうすればいいかという方策をあれこれ講じてきた。たとえばこの国の村社会の新しい移住者は、村の掟や慣習に従うことをきつく約束させられ、ときに数年間は村の最下層の身分に甘んじていた。移民=移住者の作法というものがあったし、そのうえで温かく迎えられもした。それはたぶん島国だから成り立っていた慣習で、昔も今も外国からの移民にとってはけっして楽なことではないのだが、三世代住み続ければみんな日本人になってしまう。そして「日本人になる」とは、何か日本人であることの基準があるのではなく、アイデンティティも原則もない「寄る辺ない身」になるということだ。

「寄る辺ない身」とは、故郷を喪失したものであり、故郷を「遠きにありて思う」もののことであれば、「移民」であることこそ「日本人」であることだともいえる。

人類拡散の行き止まりの地である日本列島では、だれもが移民である集団として歴史を歩みはじめ、そういう「寄る辺ない心」を基礎にした文化や集団性をはぐくんできた。

人は誰もが、胎内という故郷を喪失してこの世界に生きている。あるいは、「無=非存在」という故郷を喪失してこの「存在」の世界に現れ、やがてまたそこに還ってゆく、ということかもしれない。ともあれこの世界に生きて存在しているということは「寄る辺ない」ことであり、そういう「喪失感」による「かなしみ」や「もどかしさ」や「とりとめなさ」や「不安」や「いたたまれなさ」は誰の中にも宿っている。

人は「喪失感」を抱きすくめながら生きて存在している。誰もが生まれながらに故郷を喪失した「移民」であり、人間性の自然に立ちかえれば、移民を温かく迎え入れようとする心は誰の中にも宿っている。

 

 

たとえば小学校のクラスに移民の子供が転校してくれば、大歓迎するのが子供の世界の自然だろう。子供にはナショナリズムなんかないし、植え付ける必要もないだろうし、子供は「寄る辺ない心」を携えて生きている。子供から子供の心を奪っていいわけもないし、子供の心のまま成熟してゆくことこそ人類の理想であり切実な願いであるのかもしれない。まあこの国の天皇はそういう存在として長く祀り上げられてきたわけで、そういう理想のもとに寄り添い合ってゆくのがこの国の集団性の作法になってきた。誰もがそういう「寄る辺ない心」を携えた移民のような身であれば、そういう「理想=願い」を共有してゆかなければ集団は成り立たなかった。いや、いつの間にか自然にそういうかたちの集団になっていった、というべきだろうか。ともあれ、そのようにして長く天皇制が続いてきた。

人と人が他愛なくときめき合い助け合い連携してゆく社会をつくることは、もっともかんたんなことであると同時にもっとも困難なことでもある。文明社会には、国家主義とか宗教主義とか競争主義とか経済優先主義とか、いろいろそんなややこしいことがそれを阻んでいる。大人になるとはまあ、そんな文明制度に染まってゆくことで、だから子供や若者は「大人になりたくない」と思うのだし、とくにこの国にはそういう精神風土の伝統があり、「負うた子に教えられ」といったり「若衆宿」がつくられたりしてきた。子供や若者には、子供や若者特有の文化や集団性がある。そこから何かを学ぼうとするのが、すなわちこの国の天皇制のかたちなのだし、けっきょくつねに時代はそこに還ってゆくのが人類世界の普遍的な歴史のなりゆきなのではないだろうか。

 

 

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キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。