れいわ新選組の候補者が次々に発表されている

このブログの今回のシリーズは、令和という元号に代わったことを機会に、日本人にとって天皇とはどのような存在であるのか、ということ書いてゆこうとしたのだが、いつの間にか話が逸れてしまった。

知ったかぶりのネトウヨの人から難癖をつけられた、ということがきっかけだろうか。彼らの心に宿る「人間に対する憎しみ」は、現在のこの世界に蔓延している病理でもあるのではないか。新自由主義グローバリズムナショナリズムファシズム格差社会ヘイトスピーチパワハラやセクハラやDVも、つまるところは「人間に対する憎しみ」の上に成り立っている。

「人間に対する憎しみ」が現在の世界を動かしている。そうして「人間に対するときめき」を生きる者たちの多くが社会の底に沈んでゆく。

まあ、総理大臣をはじめとしてそのまわりに群がってこの社会を動かしている政治家や資本家や知識人がすでにそういう人種だし、そんなヒエラルキーの上層部にあこがれたり、世の中とはそういうものだとあきらめている庶民も少なくない。

しかし、ほんとに「そういうものだ」ですむのだろうか。それではすまなくてさまざまな混乱や矛盾が生まれてきて、もはや収拾がつかない段階まできているのではないだろうか。

戦前のようにあからさまな強権支配がまかり通る時代はすでに終わっているはずなのに、今ごろになってまた、支配者が先頭に立って扇動したり逆にまわりが進んでにじり寄っていったりしている。そうやってヘイトスピーチフェイクニュースやメディア統制等々の醜悪なアナクロニズムがよみがえってきた。

そしてこれはもう、総理大臣の首をすげ替えるだけではすまない。総理大臣は現在のこの社会の醜悪さのたんなる象徴にすぎないのであり、その醜悪さに対抗する勢力が目覚めて立ちあがっていかないといけないのだろうし、そうした動きは徐々に起こりつつあるような気がしないでもない。

人の世がこのままでいいはずがないし、もはやこのままでは立ちいかなくなってきてもいるのだろう。

そりゃあそうだ。不自然な政治や経済のシステムを無理に無理を重ねてここまで進めてきたのだもの、いずれは破綻をきたすに決まっている。

蛙の腹はいずれ破裂するし、人類はつねに「人類滅亡」を夢見ている。だから、行くところまで行かないと気がすまない。大日本帝国膨張主義が、大東亜戦争のあのみじめな敗戦で終わったように。

現在のこの国のひどい状況も、破滅を体験しないと改まらないのだろうか。

ともあれ現在は、社会のシステム疲労が限界に達していた幕末の状況と似ているともいえる。ただあのころの民衆には社会制度を変革することができる立場を与えられていなかったが、現在はひとまず民主主義の制度になっているのだから、民衆が目覚めれば何かのはずみで一気に変わる可能性もある。

民衆の支持を集めたヒーローのような政治家が登場して政権をとれば、たぶん一夜にして変わる。

すでに時代は、沸騰点(シンギュラリティ)に達しているのかもしれない。

 

 

ネトウヨがどんなに頑張って大騒ぎしても、世の中がネトウヨばかりになるときなど来るはずもなく、どこまで行っても一部のはた迷惑な「嫌われ者」でしかない。彼らは現在のこの社会のシステムや権力に対してきわめて従順な者たちであるが、それゆえにこそ、その思考や行動にはこの国の伝統も人間性の本質も宿っていない。

言い換えればこの国の民衆には、今すぐにでも民主主義をいとなむことができる資質を、伝統精神としてそなえている。民主主義とは、国家権力が民衆を「支配」するという秩序によるのではなく、「無主・無縁」の混沌とした関係のままにときめき合い助け合うかたちで集団をいとなむことをいう。

少なくとも江戸時代までの民衆社会では、国によってひとかたまりにさせられるのではなく、それぞれの地域で民衆どうしがときめき合い助け合いながらゆるーく繋がってゆく「民衆自治」のシステムで暮らしていた。これが日本列島の民衆社会の伝統であり、国歌や国旗を欲しがる民衆なんかひとりもいなかったし、国家制度に支配されても、今どきのネトウヨのように心も体も国家制度にもたれかかってゆくということなどしなかった。ちゃんと民衆自治のシステムを持っていた。

たとえば、山や海の禁猟(漁)期間とか狩場・漁場などは、お上の命令ではなく、村の「寄り合い」で決めていた。まあ、そういうこと。

この国の民衆は、「民衆自治」の伝統を持っているからこそ、政治に対する「無党派層」や「無関心層」がたくさんいるのであって、べつに世の中に対する関心が薄いとか集団運営の意識が低いとか、そんなことはない。

 

 

どんな集団であれ、好むと好まざるとにかかわらず、ひとまず「リーダー」の存在は必要だろう。日本列島の民衆は、その最高の「リーダー」として天皇を祀り上げてきた。天皇は民衆に対して何もしない。両者のあいだに直接的な関係は何もない。ただもう、国家の支配制度とは別の「民衆自治」を守るためのよりどころとして天皇を祀り上げてきたのであり、天皇の存在が民衆自治の伝統を支えてきた、ともいえる。

敗戦直後の戦災孤児や戦争未亡人などの救済活動は民衆社会が率先してやっていたし、東日本大震災のときでも、むやみな暴動や略奪が起きることなくだれもがときめき合い助け合いながら粛々とした民衆どうしの連携が盛り上がっていった。これが日本列島における「民衆自治」の伝統であり、そうした集団性を無意識のところで支えているのがじつは天皇が存在しているという風土なのだ。

民衆にとっての天皇なんかふだんは何も考えない対象であるのに、それでもいざとなったら神のように崇めたりすることができる存在であり、最終的には権力者の言葉よりも天皇の言葉のほうが説得力を持つ。だから、2016年に天皇が退位の意向を示したとき、権力者のだれもが反対したのに民衆のほとんどが賛同したために、そういう流れになっていった。

天皇は、まったく民衆を支配するということをしていないが、それでもじつは権力者よりももっと大きな権力=説得力を持っている。明治以来の大日本帝国は、その関係性に寄生しながら民衆支配を強化していった。そしてそれはきわめて狡猾な手法であるが、もともと古代に大和朝廷が発生したときの権力者たちの手法でもあり、この国では天皇が存在しなければ民衆を支配できない構造のまま歴史を歩んできた。

民衆は、無条件に天皇を許している。それは象徴天皇制の今でもそうで、天皇は民衆を支配する存在ではないのだもの、許さないはずがないし、それがこの国の民衆社会における人と人がときめき合い助け合うという集団性の伝統を担保している。

で、こうした天皇と民衆の関係や民衆社会の集団性の伝統は、けっして作為的観念的文明的なものではなく、人間性の普遍的な自然というか本質というか本能というか無意識というか原始性というか、そのようなメンタリティの上に成り立っている。

明治以来の大日本帝国によってつくられた国家神道天皇制はきわめて不自然で作為的で観念的なものであるが、民衆社会で古代以前から現在まで引き継がれてきたプリミティブな「神道天皇性」は、そのようなものとはまったく別の深い人間性の自然・本質の上に成り立っている。

 

 

民衆にとっての天皇はぜひともいてほしい存在であるが、かといって天皇に何がしてほしいというわけではない。そこにいてくれるだけでいい。それだけで、人々がときめき合い助け合う関係で「民衆自治」を進めてゆくためのよりどころになっている。

天皇の命令も援助も当てにはしていない。自分たちの暮らしは自分たちでやってゆく、ということ。天皇はその本質において「空虚」な存在である……ということはさんざん言われてきたではないか。少なくとも明治以前の千数百年の天皇制の伝統においては、民衆が「天皇陛下万歳」と叫ぶことなどなかったし、日常生活でいつも意識している対象ではなかった。ただ、人と人がときめき合い助け合う関係の集団をいとなむための心の「よりどころ=象徴」として、人々の無意識の底に天皇という存在が生き続けてきた、というだけのことだ。

平成天皇が退位の意向を表明したとき、江藤淳をはじめとする多くの右翼インテリたちは、「天皇のあるべき姿」などというようなことをさかんに吹聴していた。しかしそんなことは権力社会の論理であって、民衆社会の天皇像ではない。民主主義の社会であるのなら、民衆社会の論理で天皇を語るのが筋だろう。そういう意味で、江藤淳三島由紀夫も、天皇という存在の本質を何もわかっていない。天皇を表立って意識し崇拝しているというそのことが、天皇の存在の本質を何もわかっていない証拠なのだ。「天皇のあるべき姿」を語りたがるのは、歴史的に天皇をさんざん利用してきた権力社会の内輪だけで通用する論理であって、民衆社会においては、天皇なんか光源氏のようなただの女たらしでもかまわないし、天皇がだれであってもかまわない。もちろん、男であろうと女であろうと、どちらでもいい。ただもう「天皇という存在」がいてくれるだけでいいのだ。

万世一系」なんて、権力社会の中だけのたてまえであり、まあ明治政府が捏造したヘリクツにすぎない。民衆は、そんな嘘くさく安っぽい権威など求めていない。民衆の中の天皇像は、もっと高度で抽象的な思考や美意識の上に成り立っている。

権力者にとっての天皇と民衆にとっての天皇のイメージは違う。まったく違う。明治以降の民衆は権力者の安っぽい天皇像を押し付けられてきたのであり、それは民衆支配のために都合よくでっち上げられたたんなるデマゴーグであり、日本列島の伝統としての天皇の本質とは何の関係もない。

明治政府がでっち上げた天皇像と、徳川幕府がイメージしていた天皇と、どちらが本質的であったのか?明治政府の天皇像など、民衆支配のための方法論だけで作り上げられたもので、それに対して「大日本史」の徳川光圀国学本居宣長など、徳川幕府のほうがずっと深く本質的に天皇を畏れ敬っていたのである。

 

 

もしも「民主主義」が人類普遍の理想であるのなら、そんな社会を目指すためのよりどころとして天皇が存在しているのであり、天皇は何も命令しないしだれも救済しない、ただもう人類の理想の「象徴」として、架空の空虚な対象としてそこにいる。天皇は存在しない、と同時に存在しないというそのことが存在することの証しなのだ。

「理想を目指す」とはひとつのメタフィジカルな思考である。人は心の中に理想とか夢という「異次元の世界」を持っている。その「非存在の存在」という高度に抽象的な世界に天皇が住んでいるわけで、民衆はそのことをちゃんと実感しているし、それに対して江藤淳三島由紀夫をはじめとして権力や権威をありがたがる世の凡庸な右翼インテリたちの薄っぺらな脳みそで理解できる話ではない。

天皇は「かみ」である……ということは、天皇は「架空の存在」であるということだ。だから、天皇を支配することなんかできないし、天皇が何かをしてくれるということもないし、いつも意識し崇拝していることもできない。しかし、だからこそそれはめでたくありがたい対象になる。

人は、「この世に生まれ出てきた」という運命に支配されて存在している。人は先験的に支配されている存在であり、支配されることがうれしいはずがない。その嘆きからの解放のよりどころとして、古代以前の民衆は、「天皇」という「架空の存在」を見いだしていった。「空虚という名の架空」、そこにこそ天皇のありがたさとめでたさがある。こういうことを民衆は知っているし、天皇を支配する立場の権力者たちは何もわかっていない。彼らは、いつの時代も支配することすなわち権力の「免罪符」として天皇を利用してきただけであり、だから「天皇陛下万歳」と叫ぶのだ。

まあ、右翼の者たちと天皇の関係は、お母さんにまとわりついて離れない駄々っ子のようなものだろうか。彼らはなぜ、天皇を利用しようとするのか。利用しないと民衆を支配できないし、利用すればいっそう支配しやすくなる。彼らは天皇にひれ伏しているが、天皇に対して何もときめいていない。ときめいたら、利用できなくなってしまう。ときめいていないから平気で利用することができるのだし、利用することが正義だと思っている。それはまた文明社会の構造の問題でもあり、資本家たちだって、民衆から搾取するのは正当な権利であり正義だと思っている。彼らは「ときめく」ということを知らない者たちであり、だから天皇を崇拝しつつ平気で民衆を支配できるし、お金を神のように崇めながら平気で民衆から搾取してゆくことができる。

 

 

民衆は、ふだんは天皇のことなど何も考えていない。しかしひとたび天皇の姿を前にすれば、思い切りときめいてゆく。そうして天皇が被災地などに訪れたときには、よろこび勇んで天皇に語りかけていった。天皇を前にすれば畏れ多くて口もきけなくなるはずだという思い込みが強い右翼の者たちにとってこの景色はかなり苦々しいものだったらしく、阪神淡路大震災のころまでは、天皇に対しても民衆に対しても、「復興の進み具合の邪魔になる」などという大義名分を振りかざしながらさかんに批判していた。しかし東日本大震災のときにはもう、そうした天皇の献身的な行為と姿を称賛する世論の高まりに押されて、彼らも沈黙するしかなかった。

「ときめく」とは、心が日常を離れて「異次元の世界」に超出してゆくことである。いわゆる「ハレ」の体験なのだ。したがって、よろこび勇んで天皇に語りかけてゆくことこそが、この国の伝統としての「天皇=かみ」の「聖性=異次元性」という本質にかなっているのだ。

今どきの右翼インテリほど天皇をないがしろにしている存在もない。平気で天皇を批判し支配しにかかるその態度の、なんと傲慢で恥知らずなことか。「天皇はかくあらねばならない」というようなことを、いったいどの口でいえるのか。これもまた、一種のヘイトスピーチだろう。

天皇のあるべき姿など、どうでもいい。われわれ民衆にとって大切なことは、天皇天皇であるというそのことだけだ。そのことにこそ、民衆社会の歴史の無限の想像力とときめきが宿っている。

ともあれこの国における天皇という存在は、権力者がファシズムを推進するための原動力になると同時に、民衆社会が自立してゆくためのよりどころにもなっている。

この国の天皇制の歴史は、民主主義の絶望と希望の諸刃の剣として機能してきた。そこが、なんともなやましいところで、われわれは、右翼のように「天皇陛下万歳」と叫ぶことも、左翼のように「天皇制がなくなれば……」などと思うこともできない。

明治以来の大日本帝国天皇を利用してナショナリズムを培養していったが、江戸時代までの民衆社会にナショナリズムが根付かなかったのもまた天皇制ゆえのことでもあったし、そしてそれは歴史的に「民衆自治」の文化をはぐくんできたということの証しでもある。

この国に天皇が存在するということは、世の左翼がいうほどネガティブなことではないし、右翼がいうようなナショナリズムを担保する存在であるのでもない。本質的にはむしろ、ナショナリズムとは無縁の「民衆自治」、すなわち人と人がときめき合い助け合う集団性の文化をはぐくんでゆくための心のよりどころとして機能してきたのだ。

 

 

というわけで山本太郎は今、民衆社会のそうした「無党派層」におけるときめき合い助け合う心を結集しようとしてがんばっている。

れいわ新選組が次々に発表する候補者はみな、それなりに大きなインパクトをもって受け取られているが、しかしすべて政治の世界のアマチュアである。それが何を意味しているか。これからはアマチュアが政治をするということ、すなわち直接民主主義こそ民主主義の本質であり理想である、ということだ。

現在のこの世界は、政治や経済のプロに任せてめちゃめちゃにされてしまった。彼らの手法は「人間に対する憎しみ」の上に立っている。政治や経済のプロフェッショナルとはおおむねそういう人種で、その「憎しみ」の構造が民衆社会にまで浸透してきて、今や人々のあいだが分断され、ときめき合い助け合う関係がつくれなくなってきている。

政治や経済のプロフェッショナル達に先導されたその世界観や価値観などの思想そのものが腐ってしまっているわけで、そこを変更しなければならない。パラダイム・シフト、ということ。まあ、世界的にそのような流れになってきているらしい。なぜなら民衆のほうが人と人がときめき合い助け合う人間ほんらいの関係性や集団性のことをよく知っているし、民衆=アマチュアが参加しなければもうどうにもならない段階になってきているのだろう。

ポピュリズムなどというが、人と人のときめき合い助け合う関係性や集団性は、民衆社会においてより豊かに機能している。それを政治や経済界の世界にどのようにして掬い上げてゆくかということに、山本太郎は今挑戦している。

現在の世界の民主主義の未来は、既成の右翼も左翼も既成の経済論も、そうした世界観や価値観を置き去りにしていった先にある。おそらく、「無党派層」こそ民主主義が未来に向かう先頭ランナーであり、それがこの国の「民衆自治」の伝統でもある。

人間性の本質・自然・真実・尊厳は、「生きられないこの世のもっとも弱い者」のもとにこそ宿っている。

どうしてあんな醜悪な者たちが、正当な人間であるかのような顔をしてのさばっていなければならないのか。

 

 

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キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。

みんなひとりぼっち

右翼であろうと左翼であろうと、何が正しいとか間違っているとかと「判断」するのは、僕の趣味じゃない。おもしろいものに「おもしろいなあ」と心を動かされるだけだし、嫌いなものは嫌いだし、この国の総理大臣やネトウヨのような気味悪いものにつき合わされるのはごめんだ。

僕は、さかしらに「判断する」というようなことはしたくない。人間としての自分の生理にしたがって生きていたいと願っている。

というわけで、そんなネトウヨ百田尚樹が、山本太郎のれいわ新選組を思いきりディスっているらしい。

一時の「右傾化」の勢いはだんだん衰えてきている。だから、焦っているのだろうか。「金持ち喧嘩せず」の言葉の通り、余裕をかまして無視していればいいだけなのに。

1990年代初頭のバブル崩壊以後、あるいは東西冷戦の終結以後、世界のグローバル経済の隆盛とともにこの国の右傾化の傾向もどんどん進んできたかのように見える。

グローバル経済と右翼的なナショナリズムは、けっして矛盾しない。グローバル経済とは、近代の帝国主義によるエゴイスティックな植民地支配のバリエーションというか生まれ変わりのようなもので、心理学的にいえば、自意識の無際限の肥大化とともに推進されている。つまりそれは、この世の「嫌われ者」による他者に対する無際限な支配欲のあらわれなのだ。イギリスを世界の冠たる大英帝国に押し上げた原動力はヨーロッパの「嫌われ者」として歴史を歩んできたことのルサンチマンにあったのだし、安倍晋三ヒットラーもまた「嫌われ者」として生きてきたことのルサンチマンをバネにして権力の頂点にたどり着いた。彼らの、他者を差別し排除し支配しようとする熱情・情念のすごさは、われわれにはとてもまねできない。

グローバリズムナショナリズムファシズムは、けっして矛盾していない。

ヒットラーナチス・ドイツは、ユダヤ民族を徹底的に差別しつつゲルマン民族の優位を称揚していった。「日本人に生まれてよかった」などと合唱しながらネトウヨ在日朝鮮人をはじめとするこの社会のマイノリティに対するヘイトスピーチをまき散らすのも、ヒットラーナチス・ドイツと同じなのだし、そうした差別やファシズムをこの世界から失くしてしまいたいというのは人類の悲願だろう。にもかかわらず彼らがそれを正義のような顔をして大合唱できるのは、現在の支配権力に許されているからだし、現在の新自由主義のメンタリティとどこかで通底しているからだ。

現在は、避けがたくレイシズムファシズムナショナリズムグローバリズムが生まれてくるような状況になってしまっている。それらはみな、根は同じなのだ。「嫌われ者」には色濃くそういう思想が宿る。現在の世界には、人間に対する「憎しみ」が蔓延している。

 

 

人間に対する「憎しみ」が、現在の世界の政治経済を動かしている。そういう社会の構造に人々が流されてしまっている。

ネトウヨにしろ政治経済の支配者たちにしろ、彼らは、この世のあらゆる「ときめかれる人=魅力的な人」に対して「憎しみ」を向ける。美しい人、賢い人、心が清らかな人、そういう美徳や能力にあこがれつつ、それらをすべて「正義」の名のもとに支配しにかかる。そうやって時代の文化が停滞衰弱してゆくし、美しい人や賢い人や心の清らかな人を支配してもいいのだという世の風潮が出来上がってゆく。

まあ、美しい人や賢い人や特殊な能力のある人や心の清らかな人はみな、この世の「マイノリティ」である。「憎まれ者」である彼らは、人と人がときめき合い助け合う人間社会の本質そのものに対する「憎しみ」がある。そうやって現在のグローバル社会やヘイトスピーチが横行する社会が成り立っているのだし、それはもう戦前の軍国主義社会だって同じだったし、いやもう文明社会の普遍的な病理的側面だともいえる。

文明社会はいつの時代も「嫌われ者」が出世するようにできているし、同時に、人の世であるかぎりいつの時代も「魅力的な人」は存在し、ときめき合い助け合う関係はどこかで生成している。

人は根源においてときめき合い助け合う存在であるがゆえに、「嫌われ者」が生まれてきて世の中を牛耳ってしまう。彼らだって猿の社会であるのなら嫌われないですむものを、ときめき合い助け合うことが基本の人の世であるから「嫌われ者」になってしまう。

安倍晋三であれドナルド・トランプであれ金融マフィアのロスチャイルドであれ、そのような「嫌われ者」によって牛耳られている現在の政治経済の状況を覆す勢力は、人間に対する「愛」や「ときめき」を組織して起きてくるのだろうし、またそれは人としてのこの生に対する「嘆き」や「かなしみ」を組織することでもある。

彼らには生きてあることの「かなしみ」がなさすぎる、だから、「ときめき」もまた体験することができない。

人の心の「ときめき」は、「かなしみ」を種として花開く。人間に対する「愛」や「ときめき」は、この生に対する「嘆き」や「かなしみ」に宿っている。

彼らは、この世の少数者である「魅力的な人」をうらやみつつ、支配したり排除したりしてゆく。なぜなら彼らは、人と人のときめき合い助け合う関係を許さないからだ。彼らにとって人と人の関係は、支配=被支配の関係であらねばならない。「嫌われ者」は、そういうかたちでしか他者との関係を結べない。

 

 

「魅力的な人」とは、「ときめかれる」能力と「ときめいてゆく」能力を同時にそなえている人のことである。人の世のときめき合う関係の象徴として「魅力的な人」が存在している。そうやって「魅力的な人」には「特権」が与えられる。それはダイヤモンドが高価であるのと同じで、「魅力的な人」はつねに「マイノリティ」である。そして赤ん坊や老人や貧しい者や病んでいる者などの「生きられない弱い者」もまた、この世の「マイノリティ」である。人は「生きられない弱い者」を生きさせようとするし、「生きられない弱い者」が存在する社会においてこそ、人と人のときめき合い助け合う関係が豊かに生成している。そうやって「生きられない弱い者」には「特権」が与えられる。与えられるのが人間社会の自然であり、それもまたダイヤモンドが高価であるのと同じなのだ。

「生きられない弱い者」としての死にそうな病人から治療費を徴収したり、貧しい者に生活保護の特権を与えなかったりするのは、人間社会の不自然なのだ。にもかかわらず現在の政治経済は、そうしたマイノリティを支配したり排除したりしながら生き延びてゆこうとすることの上に成り立っている。そういうことができるのは、マイノリティに対する「憎しみ」であり、人と人がときめき合い助け合う関係になることに対する「憎しみ」なのだ。

「憎しみ」でしか生きられない者たちは、「憎しみ」で生きることを謳歌している支配権力の社会にあこがれており、それを「ネトウヨ」という。差別支配のヘイトスピーチファシズムが正義の顔をしてのさばっている社会なんて病んでいるし、ネトウヨだけが病んでいるのではない、ネトウヨを生み出す社会の構造そのものが病んでいる。そういう「憎しみ」によって駆動している社会の構造そのものが病んでいる。

 

 

現在の権力者や資本家が民衆を抑圧し支配し搾取し続けて平気であるのは、それがこの社会の正義だからであり、その正義が他者に対する「憎しみ」の上に成り立っているからだ。憎しみは正義を培養し、正義は憎しみを培養する。それはとてもかなしくやりきれないことであるが、現代社会においては、他者を憎むことは正義なのだ。だから彼らに、そんな醜悪で暴力的なことをするなといっても、まるで通じない。彼らは、その「憎しみ」から生まれてくるみずからの金銭欲や権力欲や暴力性にこそ人間性の自然と尊厳があると思っている。だからアメリカでは銃規制ができないし、世界中の国が軍隊を持っている。それは、戦争だけの問題ではなく、経済システムの問題でもあるし、基本的な人と人の関係の問題でもある。われわれ人類は、そのような文明社会の構造を変えることができるだろうか。価値の根底的な転換というかパラダイム・シフトというか、そういう目新しい変化はなかなかあらわれてこない。

こんなにも愚劣極まりないネトウヨ言説の政権や金融資本家がのさばっている社会が、「ポストモダン」ともいえないだろう。

この国の1980年代には、「ニュー・アカデミズム」のブームとともに「ポストモダン」の新しい時代の到来が多くの知識人によって華々しく語られていたのだが、彼らは現在のこの時代状況を予測していたのだろうか。

たとえば、中央集権的なファシズムのような古い制度的な「物語」は一掃される、と彼らはいったが、じっさいには逆にそれがゾンビのようによみがえってきた。また、大学や知識人の権威がなくなりだれもが知識を持つことができるようになってゆくとも言われていた。たしかにだれもが大学に行くようになり、しかもインターネットの普及によって、大学に行かなくても多くの知識や情報を持つことができるようになった。しかしそれによって「権威」が失墜したかといえばそうではなく、だれもが知識という権威を振りかざすようになっただけだった。そうしてネトウヨたちは、ネット情報だけの一知半解の知識を振りかざしながら、大学教授と対等の権威・権力を手にしたつもりになって偉そうなことをいったりしている。権威・権力にすがるとか振り回すとか、そういうメンタリティは、30年前よりもむしろもっとあからさまになってきている。

あのころに制度的な「物語」や「権威」が失墜すると予言していた「ポストモダン」のインテリたちは、その後に世界中で勢いを増してきた差別主義者たちによるヘイトスピーチナショナリズムファシズムをなんと思うのだろうか。一部のエリートに握られていた「物語」が失墜したことによって、皮肉なことに上から下まで手垢にまみれた凡庸で醜悪な「物語」であふれかえってしまった。

 

 

今のところ、東西冷戦の崩壊やコンピュータ文化の隆盛によって新しい時代が生まれてきた、ということにはなっていない。むしろ、時代は後戻りしてしまった、ともいえる。

ネトウヨという名のファシストレイシストの群れが、大手を振ってそれが正義だと叫んでいる。そして彼らがなぜそんなにも傍若無人に振舞えるかといえば、それが世の中を動かしている一部の特権階級の政治家や資本家の考えでもあり、そうした支配権力に庇護されているという潜在意識を持っているからだ。つまりそれは「時代に庇護されている」ということであり、彼らには「新しい時代を切りひらく」意欲も能力もない。彼らにとっては、時代が変わってもらっては困るのだ。時代の甘い汁を吸っていない底辺のネトウヨたちだって、その「庇護されている」という「充足」があれば、「嫌われ者」であることの心もとなさというか欲求不満を忘れることができる。彼らに与えられている既得権益は「日本人である」ということだけだし、だからこそ激しくそれに執着しつつ、「在日」の朝鮮人や中国人をはじめとするマイノリティを差別し排除しようとしている。

ともあれ、新しい時代を夢見ないなんて、日本列島の伝統ではない。「日本人に生まれてよかった」と合唱しながら現在の支配構造に潜り込もうとしているネトウヨたちは、日本人として病んでいる。「日本人に生まれてよかった」と思わないのが日本人なのだ。だから江戸時代以前は、国歌も国旗もなかった。

自分の人生を屠り去ることを自分の人生のよりどころにする……それが、この国の伝統としての「みそぎ」の精神であり、人はそうやって他者や世界に献身してゆく。女が子を産み育てることはまさにそのようないとなみだし、自分の人生を屠り去ることの恍惚というものがある。「消えてゆく心地」としての女のオルガスムスはまあそのような体験であり、これも日本的な「色ごとの文化」だといえる。

日本人は「日本人に生まれてよかった」などとは思わない。

 

 

日本人はつねに、新しい時代を夢見て歴史を歩んできた。まあそうやって「初がつお」や「初なす」等の「初もの」を珍重してきたのだし、正月を「初春」として祝ってきた。

「初=はつ」は「果つ」でもある。「正月=初春」のめでたさは、すべてが「洗い流される=終わる」ことのめでたさでもある。そうやって「既得権益」に執着しない心で「新しい時代」を祝ってゆく。そうやって伊勢神宮は、20年ごとに本殿を新しく建て替える。

やまとことばの「初=はつ」は、「別れのかなしみ」と「出会いのときめき」を同じ心の裏表として抱きすくめてゆくことの上に成り立っており、日本人はそうやって新しい時代を夢見ながら歴史を歩んできた。

なのに現在のこの国の状況は、既得権益に執着する者たちに牛耳られたまま新しい時代に漕ぎ出すエネルギーを失い、身動きできなくなってしまっている。すなわちそれは、他者に対する「憎しみ」をため込んで自家中毒を起こしている状態であり、そうやって「日本人に生まれてよかった」と合唱しながら「日本人」であることができなくなってしまっている。

「日本人」は「日本人」であることを脱ぎ捨てながら新しい時代に分け入ってゆくことを夢見ているのであり、そうやって伊勢神宮は20年ごとに新しい本殿を建て替えることを繰り返してきたのだし、まあこの世のすべての人間は、「別れのかなしみ」を胸の奥に抱きながらたえず「出会いのときめき」を汲み上げて生きている存在なのだ。

原初の人類は、二本の足で立ち上がることによって猿であることから決別し、人としての新しい歴史を歩みはじめた。日本列島の伝統はそういう人間性の自然の上に成り立っているのであり、ようするに「原始的」であるということだが、「原始的」であることこそもっとも高度に文化的だともいえる。

 

 

ホリエモンが、山本太郎やそのファンたちのことを「情弱」なやつらだといって冷笑していた。しかしその「情弱」という「原始性」から生まれてくる「心意気」こそが新しい時代を切りひらくのであり、彼のような功利主義コスパ野郎の低劣な脳みそで理解できる話ではない。その「かなしみ」や「ときめき」こそが新しい時代を切りひらくのであり、そういう「人情の機微」を失い、人間に対する「憎しみ」を基礎にした功利主義が正義の世の中になってしまったからこそ、ホリエモン安倍晋三のような「嫌われ者」が跋扈していられるのだ。

人は、他者を憎み、他者を押しのけて得をしようとする欲望が膨らんでゆけば、生き延びる能力は発達する。「生き延びたい」という欲望は、人間に対する「憎しみ」から生まれてくる。

現在は、「嫌われ者」たちが、その生き延びるための「既得権益」を手放すまいと必死になっている。そうして、ときめき合い助け合って生きようとしている「情弱」な者たちを、ますます抑圧し、搾取し続けいる。

そりゃあ山本太郎のように、ひたむきに他者の前に命を差し出してゆく者があらわれてくれば、ホリエモンネトウヨも大いに不愉快にちがいない。彼は、「芸能人」という自分の人生を屠り去って政治の世界に飛び込んできた。そうして今、現在の汚れ切った社会システムに深く幻滅しながら新しい時代を切りひらこうとしているのであり、この社会のあらゆる既得権益を壊そうとしている。まさに「ポストモダン」である。そしてその戦いは多くの民衆から支持されているとはいえ、あらゆる既得権益の立場からの攻撃に晒されている。ネトウヨや与党政治家や資本家だけでなく、野党政治家や連合という労働組合だって、その既得権益を守ろうとして彼を攻撃している。しかし彼は、ひるまない。孤軍奮闘、喧嘩上等、仁義なき戦いはすでにはじまっている、這いつくばってでも戦う、という。

 

 

バブル経済が崩壊したとき、これからは「もの」ではなく「心」の時代になるといわれた。「コンクリートから人へ」などといわれたりもした。そうやって「生命賛歌」が叫ばれた結果、「生き延びる」ことが正義になり、「生き延びる」ための競争が激しくなっていった。そうして、政治の世界でも経済の世界でも知識人の世界でも、「生き延びる」能力に特化した「嫌われ者」が次々に表舞台に登場してきた。で、この30年は、どの世界においても何も進展がなかった。政治や経済は支配する側のやりたい放題になり、本屋の棚からは本格テクな哲学書が消えて、スピリチュアルとか生き方の啓蒙書というかハウツー本ばかりになっていった。

まあ、「生き延びる」ことが正義の世の中なのだから、そうなるに決まっている。

しかし、人に対する「ときめき」を生きている者は、つねにみずからの命を他者に捧げているのであり、「生き延びたい」という欲望など持っていない。そこにこそ人間性の自然があり、その「ときめき」とともに人類の歴史は進化発展してきた。

まあ人類の世界において「生き延びる」ことは他者とのときめき合い助け合う関係の上に成り立っているのであり、自分ひとりで生き延びる能力を持つことにあるのではない。人間とは「生きられない」存在であり、「生きられない」存在だから生き延びることができる。人類の歴史の進化発展は、生きられない者どうしがけんめいに他者を生きさせようとすることによって実現してきた。

「情けは人の為ならず」などいうが、それは「人に情けをかけておけばまわりまわって自分のもとに返ってくる」というような損得勘定のことをいっているのではない。もともとは「困っている人に情けをかける(=手を差し伸べる)ことほど気持ちのいいことはない、自分のためにしているだけなのだ」というようなニュアンスだったわけで、そこにこそ日本列島の伝統と人類史の進化発展のわけがあるのだし、だからこの国では「倍返し」という返礼の習俗も生まれてきた。誰もが他者に命を捧げたがっているのが、人の世の根源のかたちなのだ。そして山本太郎は、まさにそのことを体現する存在として、現在のこの社会に登場してきた。

ホリエモンは、「情弱」なやつらの「感激」するさまが気に入らないらしい。「嫌われ者」が、人と人のときめき合う関係に嫉妬し憎んでいるのだ。彼にとっては「嫌われ者」の生き延びる能力が称賛される世の中がいつまでも続いてほしいのだろうが、そうはいかない。人と人が他愛なくときめき合い助け合う新しい時代はきっとやってくる。それがこの国の伝統であり、人類史の普遍なのだ。

 

 

人は、たとえ世の中がどれほど荒んでいようとも、せめて自分のまわりだけは他者との他愛なくときめき合い助け合う関係を生きたいと願っている。そういうものたちが山本太郎の街宣に感激して何が悪いのか。どうしてホリエモンごときに冷笑されねばならないのか。「情弱」でけっこう、「情弱」であることこそ人が人であることの証しであり、人間的な集団の本質はそれによってこそ成り立っているのだ。

感激して涙を流したこともないような人間が、どうしてえらいのか。生き延びるための損得勘定が上手なことを称賛しなければならない義理など、われわれにはない。「嫌われ者」である彼らは称賛してほしくてうずうずしているのだろうし、称賛する同類もいるのだろうが、彼らが人間社会のマジョリティになることも基準になることもない。もともと人の心はそのようにはできていないからだ。彼らは「嫌われ者」の帝国をつくろうとしている。

自分のことを嫌う相手とは、支配することによってしか関係を結ぶことはできない。

「嫌われ者」の支配される社会はあり得ても、「嫌われ者」がマジョリティになる社会は、論理的に成り立たない。なぜなら、「嫌われ者」に「支配される者」が少数であるのなら、「嫌われ者」どうしの椅子取りゲームが起きて、多くの「嫌われ者」が抹殺されてしまう。「嫌われ者」とは他者に対する「憎しみ」が強い者であり、つねに他者を排除しようとする。そうやって古代以来権力社会ではつねに権力闘争が起きてきたのだし、現在の世界で超富裕層は全人類の1パーセーントだというのも、彼らがつねにライバルを排除し続けてきた歴史の結果だろう。

人間の社会で、他者を排除しようとするものがマジョリティになることはあり得ない。そういう社会は、つねに他者を排除しながら、とうぜん縮小してゆく。

人類の世界がこんなにも人口を増やしたのは、他者を憎しみ排除しようとすることをしない集団だったからだ。そしてそういう集団だから一部の「嫌われ者」に支配されてしまうのだし、そういう構造を克服しようとするかたちで長い歴史の果てに「民主主義」が追求される社会になってきた。

ネトウヨたちは、しつこく陰険に在日朝鮮人をはじめとするマイノリティを攻撃する。それは、自分たちが「嫌われ者という名のマイノリティ」だからであり、在日朝鮮人やLGBTを攻撃したり「日本人に生まれてよかった」と合唱したりしていれば自分たちがマジョリティであるかのように思えるからだろう。

「嫌われ者」が社会のマジョリティになることなどありえない。彼らほど日本列島の伝統から遠い者たちもいない。「日本人に生まれてよかった」だなんて、日本人になれないブサイクな日本人が日本人になりたがっている、というだけの話である。

 

 

10

この世の「嫌われ者」も「魅力的な人」もひとまずマイノリティであるが、後者がそのことを受け入れることができるのに対し、前者はどうしても受け入れることができない。何が何でもマジョリティであろうとして大騒ぎをするというか、悪あがきを繰り返している。自分がマイノリティであることの屈辱を感じているから、在日朝鮮人やLGBTにもそれを味わわせてやりたくなるし、味わわせることによって自分がマジョリティティであることを確認しようとしている。

人間なんかみんなひとりぼっちのマイノリティであるほかない存在であり、「その他大勢」のマジョリティになって何がうれしいのか。人類の集団は、だれもが心の底に「ひとりぼっち」の「かなしみ」を抱えているから、無限に膨らんでゆくことができるのだ。

2年前の枝野旋風も現在の山本太郎現象も「ひとりで立ち上がる」というのが共通点で、そうやって誰の中にもある「ひとりぼっち」の心を揺さぶっている。つまり、「結束する」のではなく「だれもがひとりで立ち上がる」というかたちで風が吹くのだろう。

既成の勢力は「結束」して既得権益を守ろうとするし、「新しい時代」は「だれもがひとりで立ち上がる」というかたちで起きてくる。

まあ、スポーツイベントやコンサートでどこからともなくスタジアムに大観衆が集まってくることだって同じで、みんな「ひとりぼっち」だし、祭りが終わればやっぱりひとりずつばらばらに帰ってゆく。

人間はだれもが「ひとりぼっち」の存在だからこそ、大集団になることができる。

日本人は、日本人だからこそ、「日本人である」という既得権益に執着なんかしていない。「日本人である」という以前にみんな「ひとりぼっち」なのであり、その「かなしみ」を共有しながら他愛なくときめき合い助け合ってゆくのが「やまとごころ」であり、この国の民衆社会の集団性の伝統なのだ。

孤軍奮闘は、選挙のときに風が起きる大きな要素のひとつである。

日本的であると同時に人間的でもある集団は、大勢がひと固まりになるのではなく、「ひとりぼっち」の者どうしがゆるーく繋がり合ってゆくことにある。

 

 

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キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。

人類の悲願

山本太郎現象は本物か」という記事が最新の週刊プレイボーイに載った。やはり確実に世評は盛り上がってきている。最貧層の底上げをするために今は大幅な財政出動をする必要があると主張する彼は、アメリカのサンダース大統領候補と同様に、最近話題の「MMT(モダン・マネタリー・セオリー=現代貨幣理論)」を肯定しているらしい。それが正しいかどうかということなど僕にはわからないし、判断しようというつもりもない。多くの学者の間で賛否両論に分かれているのだから、けっきょくやってみないとわからない、ということだろうし、やる度胸があるかないかの問題でもあるのだろう。

すべての予見の成否は後になってからわかるだけで、あらかじめの否定論はいつだって出てくる。

経済学者のいうことなんか当たるも八卦で、ほとんどは予測通りになっていないし、たとえ不景気になっても自分たちの現在の既得権益を守ろうとする者たちだっていて、確信犯で不景気にしているということもある。

日本中に大型店舗の進出を展開しているグローバル企業によって、地元の小売店がどんどん倒れてゆき、シャッター街が増える一方の地方はすっかり疲弊してしまっている。そうして人口が減少してゆけばやがて大型店舗も撤退してゆき、寒々とした景色があとに残る。その延長で今、水道民営化とかカジノ法案等々、さらに外国資本に国を売り渡している。この国は、バブル崩壊後の30年を、そんなことばかり繰り返してきた。その結果として人の心はますます内向的になってゆき、ヘイトスピーチが幅を利かせ、「日本人に生まれてよかった」などという愚にもつかない感想を合唱するようになってきた。

ここでいう「内向き」とは、自意識過剰になって自分が生き延びることに執着しているということであり、山本太郎流にいえば、そうやって愚かな国の政治に追い詰められながらだれもが愛を喪失してしまっているからこそ、ときめき合い助け合う愛こそが現在のこのひどい状況をひっくり返す力になる、ということだろうか。

何はともあれ、人々の心から人間性の自然としての「ときめき合い助け合う心」が消えてなくなることはない。

 

原初の人類が二本の足で立ち上がったことは、「生き延びるため」ではなく、逆にその目的を捨て、みんなで「ときめき合い助け合う」というかたちで起きてきたのであり、そういう集団性にめざめていったのが「直立二足歩行の起源」という体験だったのだ。まあこのことを説明しようとするときりがなく長くなってしまうのだが、とにかくそういうことだ。

現在の山本太郎の街宣活動が人々の心を揺さぶるのは、その純粋でひたむきな心映えが伝わるからであり、それは、人間性の自然としてだれの中にも「ときめき合い助け合う」社会であればという願いが息づいていることを意味する。また、そういう願いが避けがたく起きてくるようなひどい状況もある。

現在は、総理大臣から下層のネトウヨまでの、人と人の関係を差別し分断するヘイトスピーチやデマのフェイクニュースが許されるひどい状況であったほうがいいと思うような者たちも一定数いるわけで、そこがなやましいところだ。

ヘイトスピーチフェイクニュースが存在するということは、「表現の自由」とか「趣味の問題」とか「寛容な多様性」というような名のもとに許されるべきことではない。それらは極めて不自然で非人間的な現象であり、ないほうがいいに決まっている。ましてやそれらが支配権力に守られて存在しているなんて異様・異常な事態だ。

ヘイトスピーチフェイクニュースは、許されることではない。徹底的に抵抗しなければならない。抵抗しなければ、戦争や虐殺に邁進するナチスドイツや大日本帝国主義のような世の中になってしまう。そういう支配権力にもたれかかったヘイトスピーチフェイクニュースがはびこっていいはずがないだろう。

山本太郎の人気が高まっているということは、この世界からヘイトスピーチがなくなることの希望にもなる。もしも彼が総理大臣になったら、今のネトウヨはたよるべき権力を失って、半分以上はどこかに消えてしまうにちがいない。

いじめをするものは、いじめをしてもいいのだという思いがあるし、現在の権力はいじめの装置になっている。資本家が自己利益を追求して貧しいものから搾取するのが正当な権利として横行している世の中で、いじめやヘイトスピーチをするなといってもせんない話ではないか。それは、世の中の空気感の問題でもある。彼らはそうやって人を憎んだりさげすんだりすることを、「正当な権利=正義」だと思っている。

何が「寛容な心を持て」か。この世の中からヘイトスピーチがなくなることを願ったらいけないのか?僕はべつにだれを憎むというわけでもないが、ネトウヨたちのヒットラー的なあの醜悪極まりない言説や扇動なんかこの世から抹殺してしまえばいいのに、と思う。それこそが人類の悲願ではないか。

山本太郎が総理大臣になればというか、だれもが彼の街宣に感動し応援するようになれば、少しはましな世の中になるのだろうな、と思う。彼の存在の向こうに人類の悲願が横たわっている。

差別のない世界を願ったらいけないのか?

戦争のない世界を想像したらいけないのか?

人と人が他愛なくときめき合い助け合う世界を夢見たらいけないのか?

夢見ることができなくなってしまったこの世界の中で、「現実を直視せよ」と上から目線でさかしらにのたまうことが、そんなに偉いのか?

言葉で人を殺しにかかるようなヘイトスピーチが許されていいのか?

彼らの言説は、新自由主義の政治経済の支配権力にもたれかかってゆくことの上に成り立っている。

われわれがあんな醜悪で凶暴な差別主義者に負けることは、人間の魂の尊厳が滅びることだし、貧しい者たちが富裕層からいいように簒奪される現在の世界の状況が永遠に続くということでもある。それでいいのか……?

 

 

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それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

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『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

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です。

バブル景気の継続と崩壊

 

われわれ日本人は、あのバブル景気の時代に何を得て、何を失ったのか?

1980年代のあのころの活気は、今はもうない。90年代初頭のバブル崩壊とともに時代の景気状況は一変したのかもしれない。

1950年代の高校大学出の初任給は、おおよそ1万円くらいだった。それが60年代には3万円くらいになり、70年代には10万円くらいまで跳ね上がり、80年代になると20万円前後になった。それが高度経済成長の時代だったわけだが、90年代に入ってバブル崩壊が起き、その後の30年はもう、ほとんど増えていない。今の60歳のお父さんの若いころの初任給と息子の今の初任給がほとんど同じであるらしい。30年間のデフレ状況が続いているということで、バブル景気までのあのころとはまるで違う時代状況になっている。違うのだが、しかし、今なおバブル景気のままで生きている者たちもいて、下層の者たちの資産がどんどんそこに吸い上げられてゆくような社会の構造になっている。社会全体の景気は悪くなったが、消費税増税や非正規雇用の増加や高所得者の優遇税制等々によって、富裕層においては今なおバブル景気が続いている。

富裕層であることが悪だということもないが、権力者と資本家が結託して徹底的に貧しい者たちから搾り尽くして平気でいられるその心や社会状況は「病んでいる」としかいいようがない。

たとえば、「生き延びる」ことや「所有権を守る(追求する)」ことが正義であると合意されている社会になれば、富裕層というポジションを守ろうとしたり、より富裕になろうとすることは正義であるし、貧困層から搾り取ることだって平気になってしまう。

人は、「正義」の名のもとに戦争や人殺しだってしてしまうのだもの、貧乏人から搾り取るくらいなんの後ろめたさもない。貧乏人を殺すわけではない。貧乏人が勝手に死んでゆくだけのこと。

 

 

バブル崩壊以後の貧乏人にとってのこの30年は悪夢のような年月だったはずだが、因果なことに人々はあまり骨身にしみていない。というか、自分が貧乏であるのは国の政治のせいだとは思っていない。

政治に無関心であるのはこの国の伝統だ。また、どんな運命でも受け入れてしまうのは、普遍的な人間性である。そのようにして国の政治はかんたんには変わらないのだが、何かのはずみであっさりと変わったりもする。何しろ民主主義なのだから、2019年のときのように政治に無関心な者たちが投票行動を起こせば、あっさり政権が交代してしまう。

そしてあのときの民主党支持は、自民党に対する幻滅とセットになっていた。

ときめく心は、幻滅する心でもある。民衆社会はときめく心の上に成り立っているからこそ「嫌われ者」が生まれてしまうし、そのようにして権力社会に幻滅してもいる。

現在のこの国の総理大臣は、人から幻滅され嫌われながら生きてきた典型であるし、そういう者たちが寄り集まって権力社会を構成している。だから彼らは、執拗にマスコミや民衆に対する言論規制を仕掛けてくる。普通にしていれば人から幻滅され嫌われてしまう者たちだもの、それはもう彼らの本能的な処世術なのだ。

ネトウヨたちが現在の政権にすり寄ってゆくのも、幻滅され嫌われて生きてきた者たちの本能なのだろうし、そのような者たちが出世する世の中になってしまっている。

ネトウヨたちだけでなく、資本家や政治家たちだって、一般の民衆のことを「何も考えていない」というよりも「悪意=憎しみ」を持っているのだ。口では愛やいたわりがどうのといっても、本能的な部分においては「悪意=憎しみ」が作動している。だって彼らは「嫌われ者」として生きてきたのだもの。「嫌われ者」としてのルサンチマンとして生きてきて、その中の一部が出世の階段を上ってゆく。

もちろん、みんなから好かれて生きてきた人だって、その魅力や能力によって出世する。

しかしこの社会のシステムそのものにおいて「嫌われ者のルサンチマン」が作動しているのであり、多かれ少なかれだれもがそうした醜さというか病理を抱えてしまっている。

生まれたばかりの子供のように純粋で清らかな人なんて、めったにいない。と同時に、だれの中にもそうした「魂の純潔」に対する遠いあこがれが宿っているのであり、人はそこにおいて感激し涙している。

生きてゆくことは汚れてゆくことであり、その「かなしみ」のもとに「魂の純潔に対する遠いあこがれ」が息づいている。

だから僕は、「憎しみ」よりも「かなしみ」を生きる者でありたいと願っている。

 

 

ネトウヨヘイトスピーチに対する幻滅の声はどんどん高まっているし、世界的にも一部の富裕層が多数の貧困層から搾取し続ける現在の新自由主義的な社会システムを拒絶する民衆の動きもあちこちから起きてきた。

貧しい者たちはますます貧しくなって、富裕層はますます富裕になってゆく……こんな世の中が健全であるはずがない。一部のユダヤ人資本家をはじめとして、彼らは「嫌われ者」であることのルサンチマンをバネとして富裕層であり続けているわけで、彼らに人類愛などというものを求めても無駄な話で、彼らの存在の根拠は「人間に対する憎しみ」の上に成り立っている。そうしてその「憎しみ」は、ネオナチとかネトウヨと呼ばれる貧困層にまで及んでいる。

人間社会の基本は、「生きられない弱いものを生きさせようとする」ことの上に成り立っている。そうやって人類の歴史は進化してきたのであり、べつに心や体が強くなってきたのではない。現代人の心や体は、昔の人よりずっと脆弱ではないか。心も体も、かんたんに傷つき病んでしまう。人間の赤ん坊は、猿や犬や猫よりもずっと生きる能力を持たない存在である。それでも人間は、それらの存在を生きさせることができる。そうやって人類史は進化発展したのだ。

「生きられないこの世のもっとも弱いもの」を生きさせることができないで、どうして人間と呼ぶことができようか……まあ山本太郎はそう主張しているのであり、それこそが人類普遍の「夢や希望や願い」なのだ。それは、いつどんな時代においても、人類普遍の「本能=無意識」として、あるいは社会の「通奏低音=地下水脈」として、絶えることなく流れ続けている。

 

 

けっきょく人がいちばん感動するのは、ひたむきに他者に手を差し伸べようとしている姿なのだし、だれだってそういうことをしたいと心の底で思っている。少なくとももっとも魅力的な政治家とはそういう存在であり、自分に利益を与えてくれるとか、そういうことではない。

言い換えれば、自分に利益があるとかないとか、そんな損得勘定(=コスト・パフォーマンス)で政治家を選ぶなよ、という話である。選挙民は感激できる心を持つべきだし、政治家は感激させる心意気をみせてみろ、ということだ。

現在の投票行動のほとんどが損得勘定でなされているのだとしたら、それをしない者たちは良くも悪くもそういう意識が薄いことを意味する。言い換えれば、近代的な合理精神が薄い、ということ。それが日本文化の伝統、すなわち「色ごとの文化」であり、それが普遍的な若者の気質だともいえる。

損得勘定では動かない者たちの心を動かすことができなければ、投票率は上がらない。もちろんだれの中にも損得勘定はあるが、日本人の多くはそれを政治に求めていない。損得は自分の運命の範疇のことだと思っている。だからどんなに損得のことが気になっても、政治に対する関心は最初から薄い。

世の「無関心層」や「無党派層」は、「感激する」という体験がなければ選挙に参加しない。山本太郎は今、その「誰かに手を差し伸べたい」という純粋でひたむきな心を込めた演説によって、選挙に行かない人々を感激させている。新聞の調査によれば、「れいわ新選組」の支持率が10パーセントになろうとしているらしい。選挙がはじまれば、もっと増えるに違いない。

世の右翼や左翼が慌てているらしい。

民衆の動きが盛り上がるのは、「損得勘定=コストパフォーマンス」によってではない。「もう死んでもいい」という勢いで人と人が他愛なくときめき合い助け合う「祭りの賑わい」に向かって盛り上がってゆく。そういう勢いが起これば、損得勘定に終始していた既成の選挙システムを凌駕してしまう。

消費税廃止の政策を掲げながら山本太郎は、「みんなでときめき合い助け合ってゆく社会をつくろうよ」と訴えている。損得勘定の政策を掲げながら、損得勘定を超えてゆこうとしている。その政策が正しいかどうかはやってみないとわからない……ということは、だれもが思っている。人々がそれでもそれを信じるのは、「みんなでときめき合い助け合う社会」が実現することを願っているからだ。

この世にごく少数の富裕層と多数の貧困層が存在するのは、社会全体のシステムとして、「憎しみ」とともに他者を排除しながら生き延びようとする損得勘定がはたらいているからだ。「憎しみ」による「分断」ということがはたらいていなければ、派遣社員を大量に生み出す社会などつくれるはずがない。

「正義」とは、「憎しみ」の別名なのだ。

この国の総理大臣が息を吐くように嘘を並べ立てることができるのも、官僚たちが統計を改竄したり文書を破棄したりすることができるのも、自分たちのもとに「正義」があると思っているからだ。

人と人が他愛なくときめき合い助け合う社会は「正義」の彼方にあり、そこに向かって「祭りの賑わい」が盛り上がってゆく。

前回の衆議院選挙のときの枝野幸男と今回の選挙の山本太郎と、二度続けて一人で立ち上がった政治家に向かって風が吹いている。それが何を意味するかといえば、人々は今、あのフランス革命のときの先頭に立って民衆を率いた「自由の女神」のような存在を求めている、ということだろうか。

この国の民衆は、大和朝廷の発生以来の1500年を国の政治に無関心な歴史を歩んできた。そうしてようやく今、民主主義というものに目覚めつつあるのだろうか。

 

 

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初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

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です。

人類の夢と希望と願い

現在のこの国の総理大臣のように無知で無教養で性格の悪い人間が、自分がちやほやされる状況を確保しておくためには、自分に逆らったり自分を軽蔑したりする相手は徹底的に叩きつぶしてしまおうとする。総理大臣を含めたすべてのネトウヨに共通した生きる流儀である。彼らは、愛やときめきによってではなく、みずからの「憎しみ」をよりどころにして生きている。だから彼らは「嫌われ者」として人生を歩んできたし、「嫌われ者」であることから逃れていられるその充足した世界に対する執着はことさらに強く、同時に、それゆえにこそ充足の外の世界に対する「憎しみ」はなお激しくなる。彼らは、「嫌われ者」であることの「憎しみ」というか「恨みつらみ」というか「ルサンチマン」を糧として、その充足した世界を構築してゆく。

彼らは一種の偏執狂だろうと思えるが、現在はそういう人間ほど成功できる社会のシステムになっているし、現代人は多かれ少なかれみな偏執狂だともいえる。自分だけは清らかで健康だとはだれもいえないし、因果なことにそういう傾向の強い人間ほど自分だけは清らかで健康だと思っている。偏執狂とは、みずからの存在の正当性に執着することだ。

この世に正義など何もないはずなのに、どうして彼らはそんなものに執着できるのだろう。他者を排除したいのなら「正義」こそがもっとも有効なカードであり、人殺しも戦争も、「正義」の名のもとになされる。

他者とときめき合うことのできない飢餓感が、みずからの存在の正当性に執着してゆく。

「結束」しようとすることと「排除」しようとすることは一枚のコインの裏表であり、第三者を「排除」してゆくことによって「結束」が生まれてくる。「結束」してゆく集団は、「憎しみ」の上に成り立っている。

どうして「日本人に生まれてよかった」などと思うのか。そのいじましい優越感や自己の正当性に対する執着は、いったい何なのだ。それは、日本人ではないものに対する優越感や侮蔑や憎しみと一体なのだ。

自分が生きてあることなんか正当なことでもなんでもないし、自分が日本人であることなんか素晴らしいことでもなんでもない。それは、われわれの「運命」なのだ。その「運命」を「嘆き=かなしみ」とともに肯定し抱きすくめてゆくのがこの国の伝統であり、命や心はそこから活性化してゆく。

 

 

人は、「憎しみ」にとらわれたまま生きてゆくことができるだろうか。その埋め合わせとして、下は「日本人に生まれてよかった」とか上は「社会的な成功をした」というような「充足感」や「幸福感」に潜り込んでゆくのだろうが、それは心がときめき飛躍してゆくという生き生きした動きを失い停滞し澱んでいる状態でもある。

明治維新から太平洋戦争の敗戦までのこの国は、そうした「憎しみ」と「充足感」を基礎にした不幸な歴史を歩んできた。その停滞し澱んだ「国体=国柄」の果てに自家中毒を起こし、侵略と戦争を繰り返すことにのめり込んでいったあげくに、あのみじめで無残な敗戦を迎えねばならなかった。おそらくそれはもう、歴史の必然的な運命だった。

明治維新以後のこの国は、内乱の歴史としてはじまった。元下級武士による反乱や、民衆による一揆のような米騒動などが、野火のように列島中に広がっていった。それはまさしく国として自家中毒を起こしている状態だったのであり、そのことは夏目漱石のような本格的な知識人から名もない庶民まで、多くの人々が気付いていることでもあった。そしてその混乱状態に一気にけりをつけたのが、日清戦争を起こして国民を結束させてゆくという事態だったのであり、そこからはもう、たえず戦争していないと国が成り立たないというような自家中毒の連鎖に陥っていった。

明治維新以後のこの国は自家中毒の歴史だったのであり、それは、あのみじめな敗戦を迎えるまで収束することはなかった。

そうして敗戦直後のこの国は、経済的な困窮を極めた上にナショナリズムのもとに結束してゆくという「充足感」も失った代わりに、「憎しみ」を糧にして生きるという自家中毒からも解放された。

関東大震災のときは、人々の心がヘイトスピーチの流言飛語によって自家中毒を起こし、「朝鮮人虐殺事件」のようなことがあちこちで起きた。しかし戦後の東日本大震災のときは、一時的にせよ、だれもがときめき合い助け合い連携してゆく関係が生まれた。同じ日本人なのに、どうしてこんな違いが生まれるのか。誰だって、あんな日本人にはなりたくないし、日本人であるだけで素晴らしいなどということはない。百田尚樹とか櫻井よしことか杉田水脈とか、あんな狡猾で執念深い日本人のどこが素晴らしいのか。日本人だって、「嫌われ者」はいくらでもいる。

何が「日本人に生まれてよかった」か?ばかばかしい。

彼らは、「日本人に生まれてよかった」といわない日本人のことを「反日」などといって排除しようとする。日本人を嫌いな日本人が「日本人に生まれてよかった」などというのは、とんだお笑い草だ。そういいたければ、すべての日本人を愛せ。

 

 

現在のこの国の政治経済の支配層の多くは右翼思想の持主らしく、戦前回帰志向の言説が幅を利かせている。彼らは、「憎しみ」と「充足感」の自家中毒の中で生きている。自分の充足が大事であるのなら、他人の不幸など知ったことではない。むしろ他人が不幸であることによって、みずからの優越・充足をより確かに実感できる。まあそういうサディズムが、支配階層だけでなく、支配される者たちのあいだにまで蔓延してしまっている。サディズムを培養するような社会の構造になってしまっているのだろう。このままではだめだ、多くの人々がますます不幸になってゆく……と気づいていても、そうかんたんには変わりそうもない、という絶望的な気分が先に立つ。とはいえ、人の世が人の世であるかぎり変わらないはずがない、とも思える。

そりゃあ、いつになったら変わるのか、という暗澹たる気持ちもないわけではないが、人はつねに心の底で「究極の未来(あるいは理想)」を夢見ている存在であり、そうやってたえず「現在」が否定されながら時代は移り変わってゆく。究極の未来を夢見ながら現在の不条理に異を唱える者は必ず現れてくるし、それにみんなが賛同するお祭り騒ぎのムーブメントも起きてこないはずがない。

人はみな、戦争のない世界を夢見ている。それがどれほど現在の状況にそぐわないものであったとしても、人として究極の未来を夢見ることを宣言した日本国憲法第九条は尊いのだ。

それは人類の悲願であり、世界にひとつくらいは究極の未来=理想を夢見る憲法があってもいいではないか。

究極の未来を夢見るのは人間の本性なのだし、人はみな究極の未来から試されて生きている。究極の未来を夢見ることを失ったら、人間ではなくなってしまう。

どんなにいびつな社会になったとしても、人の心から人間性の本質というか究極のはたらきが消えてなくなることはない。なんのかのといっても、人類の文明社会の歴史は、さまざまな紆余曲折はあったとしても、けっきょくは「民主主義」に向かって流れてきた。なぜなら原始時代は直接民主主義だったし、それが、いつの時代も人が夢見ている究極の社会のかたちでもある。

 

 

人の心はつねに、究極の未来=理想から照射されている。それは、社会のかたちだけの話ではない、誰の心の中にも夢や希望や願いはある。

では、人としての根源にして究極の夢や希望や願いとは何か?もちろん誰ってこんな大問題の答えなんかそうかんたんに導き出せるものではないが、ひとまずわれわれが必ず死ぬことを自覚している存在であるということにおいては、「今ここ」に生きてある事態をどう取り扱うかということはそのひとつだといえるのかもしれない。

「生き延びたい」ということではない。なぜならわれわれは「すでに生きてある」のであり、「すでに生きてある」状態においてしか意識がはたらかないのだから、「生き延びたい」という夢や希望や願いが根源的な無意識としてはたらいていることは原理的に成り立たない。

それはあくまで「今ここに生きてあることをどう取り扱うか」という問題なのだ。そしてそれは、「どう死んでゆくか」という問題でもある。

われわれは「必ず死ぬ」ということはわかっているが、「死とは何か」という問題は永久に解くことはできない。この世でもっとも知りたいことなのに、永久にわからない。その「わからない」ということとどう和解してゆくことができるか。

それは、「わかりたい」ということではない。「わかる」ことは、あらかじめ断念されている。「わかりたいのにわかることができない」という、その「わからない」ことと和解したいのだ。おそらく人類は、そうやって「無=ゼロ」という概念を発見した。

であれば、人類の根源にして究極の夢や希望や願いは、「死」がわかることであると同時に、「永久にわからない」ことと和解することでもある、ということになる。

「わからない」ことほど人の心を惹きつけるものはない。すなわち「不思議」「神秘」「謎」、人の心の夢や希望や願いは、そういうところに向かってはたらいているし、そこにおいてこそ心が活性化する。

自分が「消えてゆく」心地であるという女のオルガスムスは、ようするに「何もかもわからなくなる」心地であり、その「不思議」「神秘」「謎」に引き寄せられてゆく体験だ。だから、昔の人は「死んだら何もない黄泉の国に行く」といった。それは「色ごとの文化」の国の死生観であり、どうせ「死後の世界」などわからないのだし、そういうことにしておくことこそがもっとも「死=わからない」ことと和解できる思考法であり、もっとも深く腑に落ちるイメージだった。

彼らは、「死後の世界」など問わなかった。彼らにとってのもっとも切実な問題は「死んでゆく」ことにあり、そのもっとも心地よい体験として、自分が「消えてゆく」ビジョン(=オルガスムス)をイメージしていった。

古代人にとっての「黄泉の国」は「オルガスムス」のイメージであり、そこで「消えてゆく」ということを果たす。「消えてゆく」ことは「『かみ』になる」こと。神道における「かみ」は「存在しない」のであり、「存在しない」ことが「かみ」であることの証しなのだ。もともとの神道は、そういう逆説的な思考の上に成り立っている。

必ず死んでゆく存在である人の夢や希望や願いは、根源的には「無=ない」ということに向かってはたらいている。

 

 

人がお金を欲しがるのはそれを使うためだし、使うことはお金が無くなってしまうことだ。そうやって「無=ない」に向かう。そして、自分がお金を使ってしまうことはそれがだれかの収入になるということであり、このことを大げさにいえば、自分の命を差し出して他者の命を救う、ということになる。つまり、たったこれだけのことにだって、人の夢や希望や願いの根源かつ究極のかたちがはたらいている。

人の夢や希望や願いの根源かつ究極は、自分が「消えてゆく」ことであり、他者や世界が「存在する=出現する」ことにある。そうやって人は、セックスをし、子供を産む。世界や他者の出現に驚きときめき感動することは、自分が「消えてゆく」心地とともに体験される。

世界や他者の輝きにときめくことは、自分が消えてゆく体験である。そうやって自分が消えてゆく体験がエクスタシーになっている。自分が消えてゆくことのエクスタシーには、世界や他者の輝きにときめいてゆく体験がともなっている。そうやって人は、自分が消えてゆくエクスタシーとして、他者の輝きにときめき、他者を助け生きさせようとする。

人の夢や希望や願いの根源かつ究極は、いわゆる「自己実現」ではなく、「自分が消えてゆく」体験とともに、他者の輝きにときめき助け生きさせようとすることにある。すなわち他者に手を差し伸べることこそ夢や希望や願いの根源かつ究極のかたちであり、そこでこそもっとも深く豊かなエクスタシーが体験されている。

「自分が死んでゆくことと引き換えに他者を生きさせる」……それはべつに倫理道徳の話でもなんでもなく、生きものの命のはたらきの本質の問題なのだ。

息を吸うことはひとまず命のいとなみであるが、それによって息を吸うという命のいとなみをする必要がなくなるわけで、そのとき生きものは「生きていない状態になっている」ともいえる。生きものは、死に向かう夢や希望や願いとともに「息を吸う」といういとなみをする。息を吸えば、生きてあることを忘れてしまっている。それは、死んでいる状態だともいえる。生きものは、生きてあることを忘れるために、生きるいとなみをする。すなわち夢や希望や願いの本質は、「死に向かう」ことにある。

「生き延びるため」などと安直にいってもらいたくない。命のはたらきも心のはたらきも、「死に向かう」かたちで活性化してゆく。そうやって人類の歴史は進化発展してきたのであり、進化とは「死に向かう」動きなのだ。

八百屋で大根を買うことだって、「死に向かう」いとなみなのだ。

人は、夢や希望や願いを持たないですむ状態に向かって夢や希望や願いを抱く。

神社でおみくじを引いたり絵馬に願い事を書いたりするのは、夢や希望や願いを抱くことから解放されたいからであり、それほどに病気や受験勉強が苦痛だからだろう。生きてあることの「苦痛」が夢や希望や願いを語らせる。そして、死んだらすべての苦痛から解放される。

 

 

「消えてゆく」ことは「救済」なのだ。だから日本列島の古代人は、死んだら何もない「黄泉の国」に行く、といった。小林秀雄は「そう考えることがよりよく生きるための作法である」というようなことをいったが、そんな単純な話ではない。古代人にとって「黄泉の国」は「死んでゆく過程」であり、そこを通過することによってはじめて「死=消えてなくなる」ということにいたる、と考えた。

古事記の「イザナミ」の話はもちろんのこと、能の「怨霊」の話にせよ、それは死んでゆく過程としての「黄泉の国」のことであって、「死後の世界」を語っているのではない。

「もがり」は、日本列島のもっとも古い埋葬方法のひとつであるといわれている。それは、死体をいったん山の中等に放置しておいて骨だけになってから埋葬する、というものであるが、「黄泉の国」というイメージはおそらくそこからきている。彼らにとって「死体」はまだ「死」そのものではなかった。「死体」が「けがれ」であると認識されていたのはそのためであり、「死体」がこの生の延長であるということは、この生そのものが「けがれ」であると認識していたことを意味する。生きることは苦痛にあえいだり夢や希望や願いを語ったりすることであり、そのこと自体が「けがれ」なのだ。そうして、「きれいさっぱり消えてなくなる」ことを「みそぎ」といった。彼らにとって「死体」は「けがれ」であるが、何もかも消えてなくなる体験としての「死」そのものは「みそぎ」だった。そしてこれは、「消えてゆく」ことのエクスタシーの上に成り立った「色ごとの文化」でもある。

古代人は「言挙げしない」といった。そんなことにも「無=ない」に向かって「消えてゆく」ことに対する夢や希望や願いが託されている。

 

 

「色ごと」と「セックス」、すなわち「情交」と「性交」、この二つは、同じであって同じではない。「色ごと=情交」は「人情の機微」の上に成り立っている。

今どきのネトウヨたちは「人情の機微」に鈍感だから、無神経なヘイトスピーチに熱中する。彼らは「正義」を振りかざして人を裁くようなことばかりいう。そんなことをいっても「人情の機微」というものがあるだろうという話だが、彼らには通じない。彼らは、「人情の機微」の世界を生きることができない。「嫌われ者」として生きてきたから、「人情の機微」の世界を憎んでいる。彼らは、日本列島の「民衆社会の伝統」から逸脱してしまっている者たちであり、逸脱して「権力社会の伝統」にすり寄っていっている。

日本列島の民衆社会における人と人の関係の伝統は「人情の機微」の上に成り立っているから、「正義」を振りかざすことが流儀の権力社会に対して無関心無抵抗になりがちで、大和朝廷の発生から現在までの1500年を、権力社会のやりたい放題に支配されてきた。ともあれその間民衆は、権力社会にたやすく支配されても、権力社会にすり寄ってゆくということはしなかった。

まあネトウヨなんか、この国の伝統でもなんでもなく、明治以降の近代合理主義の洗礼を受けたことによって産み落とされた極めていびつな鬼っ子のような存在なのだ。

江戸時代以前の日本列島には、ネトウヨのように「憎しみ」を糧にして生きている民衆なんてほとんどいなかった。

ネトウヨが集まって「わび・さび」の文化が生まれてくることはあり得ない。彼らは、みずからの「憎しみ」を消し去るすべ、すなわち「みそぎ」の作法を持っていない。だから、歴史修正主義を掲げて中国・朝鮮を憎み続けることをやめない。そうしないと生きられないのだから気の毒ではあるのだが、大いにはた迷惑でもある。日本人は、彼らのように生きる伝統を持っていない。

中国・朝鮮に謝るべきかどうかはわからない。江戸時代以前の武士は、謝って許しを乞う代わりに、腹を切った。それは、もっと過激で本質的な「贖罪」の方法だった。そこのところは、「神に懺悔して許してもらう」という西洋の伝統とはちょっと違う。日本列島には、そういう「神」はいない。

日本列島の「かみ」は、許すことも裁くこともしない。何もしない。「かみ」は、隠れている。すなわち「存在しない」対象なのだから、何もしない。「消えてゆく」ことのエクスタシーを基礎にした「色ごとの文化」においては、そのようにして「かみ」がイメージされていた。

 

 

ネトウヨは「自己充足=自我の拡大」を求める。それが彼らの夢や希望や願いであるらしい。彼らの思考は、バブリーだ。空疎な張りぼての虎、砂の楼閣。軍備拡大に突き進んだ明治以降の大日本帝国もまさにそのような動きで、夏目漱石をはじめとする良識的な人々はうんざりしていた。こんなことでは日本列島の伝統が壊れてしまう、と嘆いた。

日本列島の伝統としての「色ごと」の文化においては、「消えてゆく=自己消失」のエクスタシーが夢や希望や願いになっている。一方ネトウヨたちの思考様式はもう、根本的にそこから外れてしまっている。そういう者たちが今、「日本人に生まれてよかった」と大合唱しているのだから、笑わせてくれる。

人としての夢や希望や願いの根源と究極すなわち本質は、「自己充足=自我の拡大」にあるのか?そうではないだろう。この世界が輝いていることこそ人としての根源かつ究極の夢や希望や願いであり、心は、その輝きとの「出会いのときめき」や「別れのかなしみ」として活性化する。それは、自己が「消えてゆく」体験なのだ。人としての夢や希望や願いの本質は、「消失点(カタストロフィ)」に向かってはたらいている。世界の輝きは、そこから現れ、そこに向かって消えてゆく。まあこの話はちょっとややこしくて、「日本人に生まれてよかった」などと合唱している連中に説明するのはとても困難であるのだが、とにかくそういうことなのだ。彼らのように「憎しみ」を基礎にして生きている者たちの夢や希望や願いの対象は「正義」であり、彼らが願う日本人であることも生き延びることも社会的に成功することも、すべては正義の側に立つことの自己の充足や拡大にある。それに対して世界や他者との出会いや別れにときめいたりかなしんだりして生きている者たちは、「世界や他者の輝き」それ自体が夢や希望や願いになっている。

今どきのネトウヨや右翼政治家や多くの資本家たちは、自己の充足や拡大を目指して生きている。彼らにとって世界や他者はくすんでいるほうが満足なのだし、そういう存在だとみなしたがる。だから、民衆が貧困や差別であえいでいるといってもなんとも思わない。それどころか、それこそが彼らの望むところだというか、その自己の充足や拡大の根拠になっている。

民衆を貧困におとしいれ差別してゆくことは、彼らの正義なのだ。だから、消費税を上げ年金や生活保護費を削る等々の民衆を抑圧する施策を進めることに、何のためらいもない。彼らの心の底には、民衆に対する悪意=憎しみが巣食っている。民衆の中にも、民衆に対する悪意=憎しみをもっとあからさまに抱いている者がいる。それがネトウヨで、彼らは排除することの自己充足に耽溺しているばかりで、「別れのかなしみ」というものがない。「別れのかなしみ」がないから「出会いのときめき」もない。「日本人」というすでにある予定調和の世界で自己充足していたいらしい。権力者や富裕層の社会でも「参入障壁」をつくって、つねに排他的である。

まあ「日本人」であることはもっとも手軽で確実な「既得権益」で、それだけは貧しい民衆にも与えられている。

自分が他人よりも優位であることを確認して安心を得ようとするなんてまったくいじましい話だが、差別があり競争がある社会に生きていれば、だれだってそういう視線がまったくないとはいえない。ないとはいえないがしかし、そのことを生きるためのよりどころにしているとしたら、それは病んでいる。

 

 

たとえごく少数であっても、ひたむきに世界や他者が輝いていてほしいと願っている人はいるし、そこにこそ人間性の本質がある。だから少数意見は大切だし、だれの心の奥にもそういう願いは息づいている。世界や輝いていなければ、心は活性化しない。

学問や芸術や芸能や職人技等々、人類の文化はつねに「無用者」であるマイノリティにリードされて進化発展してきた。そして人類の普遍的な悲願は赤ん坊や病人をはじめとする「生きられないこの世のもっとも弱いもの」を生きさせることにあり、人類の歴史そのものがそうしたマイノリティにリードされて流れ、進化発展してきたのだ。

人類の夢や希望や願いの根源は、わが身が「消えてゆく」ことのエクスタシー=カタルシス、とともに、生きられない他者に手を差し伸べようとすることにある。

多くの人は、あのネトウヨたちのようなどんよりした心で生きたいとは思わない。どんよりした心で生きている当人だって、そんなことは願っていない。

人は根源において自己の充足を願っているのではない。充足できないでくるおしくなやましく動いているのが人の心の本質で、どうしてそうなってしまうかというと、自分を忘れて世界や他者の輝きにときめいてしまう性質を持っているからだ。どうして自分を忘れてときめいてしまうのかといえば、人はだれもが存在そのものにおいて「受苦性」を追っているからだ。だから。「消えてゆく」ことがエクスタシーになる。

人はだれもが「消えてゆきたい」存在であり、人としての根源的な夢や希望や願いはそこにこそある。

大震災で生き残ったおばあさんが、死んでいった若い人のことを思って「私が代わってやりたかった」という。これこそもっとも根源的で本質異的な夢や希望や願いなのだ。江戸時代の女房が、子供や亭主のために必死に「お百度参り」をする。夢や希望や願いのために「酒断ち」や「茶断ち」をする。これだって、「消えてゆこうとする衝動」の上に発想されている。

人が人であるかぎり、「誰かに手を差し伸べたい」という衝動は、どんなに貧しく弱いものにも宿っている。この生は、そんな「夢や希望や願い」が生まれてくるような仕組みになっているのだ。それこそが人類の根源にして究極の「悲願」であり、それをどれだけ結集し組織してゆくことができるか、と山本太郎が今がんばっている。

 

 

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キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。

ヘイトスピーチの彼方へ

 

言論の自由は守られねばならない。

だから、ヘイトスピーチだって許される。しかしそれは、限りなく醜いし、それによって傷つく人がたくさんいる。人の世は、その醜さと暴力性に耐えられない。耐えられる人間や世の中は異常だ。

ヘイトスピーチが自由であるのなら、ヘイトスピーチなんか許さないと叫ぶのも自由だろう。そういう叫びが存在しない社会は、健全とはいえない。

ヘイトスピーチの醜さと暴力性に支えられている権力なんか異常だ。

それは、社会の分断の象徴になっている。

ヘイトスピーチは、騒々しい。そして執念深く狡猾だ。彼らは、それによって「結束」してゆく。結束するためには、多様で緩やかに「連携」してゆく社会は認めてはならない。彼らは「嫌われ者」だから、そういう関係性を生きることができない。彼らには「ときめく」感受性がない。だから「嫌われ者」になる。そうしてヒステリーを起こし、ヘイトスピーチを吐き出す。「結束」する社会こそ彼らの理想であり、そういう約束された関係性を生きようとする。そこに参加してこないものは徹底的に排除してゆく。排除するためにはヘイトスピーチが必要だし、排除することによって「結束」してゆく。

「日本人」という約束された関係、そこに彼らの生きる場があり、「日本人に生まれてよかった」と合唱している。だから在日外国人を攻撃するし、日本人あることを嘆いたり政府を批判したりする日本人にも「反日」という呪詛を浴びせかける。

人間社会の「結束」は、権力支配によって生まれてくる。「結束」の上に成り立つ集団行動や戦争は、ファシズム国家や宗教団体の得意とするところだ。

あの戦争のときは、「鬼畜米英」や「非国民」というヘイトスピーチが流行った。その愚かさが今、ネトウヨというかたちでよみがえっている。ともあれそれは権力による強制がなければ国民全体に浸透することはないわけで、総理大臣から下層の庶民まで彼らは権力の亡者たちなのだし、現在の政権が続くかぎりこの騒々しさは収まらないのだろう。

彼らには、人としてのあたりまえの感慨や思考を共有してゆく能力はない。彼らは、支配し支配される関係の中でしか生きられない。ヘイトスピーチは、支配し支配される関係の中でしか共有できない。

人間であれ猿であれ、集団は支配し支配される関係の中で「結束」してゆくのだし、原初の人類は、二本の足で立ち上がることによって猿の集団性と決別し、他愛なくときめき合いながら緩やかに「連携・連帯」してゆく集団性を身につけていった。

ヘイトスピーチが生まれてくるということは、この社会の基礎に多様で緩やかに連携・連帯してゆく関係性が生成しているということでもある。いつの時代もどこにでも、人間性の自然としての人と人のときめき合う関係がなくなることはない。

現在は、戦時中のようなヘイトスピーチに同意しなければ権力によって罰せられるということはない。少しずつ、ネトウヨに対する包囲網が生まれつつある。ネトウヨの騒がしさはもう、飽和点に達している。

 

 

日本会議ネトウヨたちを背にした現在の支配者たちは、国民や家族はかくあらねばならないということ徹底的に押し付けようとしてきている。彼らは、支配するにせよされるにせよ、「かくあらねばならない」という「規範」の中でしか生きられない。しかしその支配=被支配の関係性は猿の集団性であり、人類の集団の基礎は、無主・無縁の混沌のままに他愛なくときめき合い助け合いながら緩やかに連携・連帯してゆくことにある。そういう関係性が担保されていれば、家族だろうと国家だろうと、なんとなくの「なりゆき」でなんとかなってゆく。二本の足で立ち上がった原初の人類はともかくそうやって今日までの歴史を歩んできたのであり、そういう関係性=集団性を担保しようとするのはもう、人類の本能のようなものだ。

だから、1945年の敗戦後のこの国の民衆は、大日本帝国憲法による国家神道の呪縛によって人々を「結束」させようとする関係性=集団性をあっさりと捨て去った。そしてそこから、より豊かにときめき合い助け合い連携してゆく関係性=集団性のダイナミズムを生み出し、戦後復興を実現していった。

あのころのこの国は極限まで貧窮していたが、それでもベビーブームが起きた。とすれば、現在の少子化問題は、単純に経済的な理由だけでは語れない。もちろん経済的な困窮はもっとも大きな問題に違いないが、「格差社会」とか右翼主導の「教育制度」等に加えて人と人の関係や集団性が壊れてしまっていることもある。現在の経済システムや右翼政権によってそうした関係性=集団性が壊されてしまっている。その関係性=集団性が豊かに機能していれば、どんなに貧窮しても、子供はどんどん生まれてくる。

子供がどんどん生まれてくるのが、原初以来の人間性の自然なのだ。

何はともあれ、人と人の関係性が壊されてしまっている世の中なのだもの、子供が増えるわけがない。

政府が「人づくり革命」などと言い出したのは、いつごろのことだったろうか。彼らの醜悪な人間観によって、いったいどんな「人づくり」ができるというのか。総理大臣とか日本会議とかネトウヨとか、今どきの右翼の無知で恥知らずで醜悪なだけの「規範」を大きな顔をしてどんどん押し付けてくる政治支配によって、家族も教育も社会もすべて壊されてしまった。この国の伝統である「人と人が他愛なくときめき合い助け合い連携してゆく関係性=集団性」がすっかり壊されてしまった。われわれは、それを彼らから取り戻すことができるだろうか。取り戻すことができるはずだ。われわれが日本人であるかぎり、人間であるかぎり、そういう関係性=集団性がこの世から消えてなくなることはない。

 

 

「他愛なさ」こそ美しく偉大だ。他愛なくてしかも聡明で勇気のあるヒーローが待ち望まれている。他愛ない心は、美しいものに憑依する。美しいものは、この世の外にある。他愛ない心は、この世の外に向かって飛躍してゆく。そうやって人の心の「もう死んでもいい」という勢いが生まれてくる。そうやって、心や命のはたらきが活性化する。人類の歴史は、生き延びようと欲望し計画して生き残ってきたのではない。「もう死んでもいい」という勢いで命や心を活性化させながら生き残ってきたのであり、そんな「他愛なさ」を持ったヒーローが待ち望まれている。

だから、山本太郎、なのですよ。

われわれ民衆は今、山本太郎をヒーローにすることができるか、と試されている。できなければ、この国のひどい状況はますます加速してゆき、右翼が高笑いする。

このひどい状況を切りひらくのは、あの凡庸な左翼たちではない。右翼でも左翼でもないおバカで「他愛ないもの」たちが切りひらくのだ。

僕は、こざかしい右翼も左翼もごめんだ。この世界や他者の輝きに他愛なくときめいてゆくものたちを信じる。問題は単純だ。困っている人に手を差し伸べようとするのか、それとも支配し排除しようとするのか、それだけのことだ。お国のためだか何だか知らないが、あなたたちは、貧乏人から金を搾り取ってよく平気でいられるものだ。消費税をなくしたら国の経済が危うくなる、というような議論もあるらしいが、危うくなったっていいではないか。困っている人を助けることができない国なんか、滅びたっていいのだ。

「滅びてもいい」と覚悟したところから、心も命も経済も活性化する。それはもう、この宇宙の原理なのだ。

たとえば国債を発行し紙幣を刷って低所得者層の底上げをすることが国の経済の自殺行為だというのなら、それは「もう死んでもいい」という覚悟をしなければできないことだろう。だったら、覚悟をすればいいではないか。覚悟をしなければ何もできないし、社会は活性化しない。

この社会に「誰かに手を差し伸べたい」という思いが生成していなければ、この社会は活性化しない。もともと人類は、そうやって歴史を歩んできたのであり、ネアンデルタール人はみんなそう思って生きていたし、縄文人だって同じだ。彼らは、「原始呪術=アニミズム」などというものにすがりながら、生き延びようとあくせくしていたのではない。

 

 

「もう死んでもいい」という勢いで生きることは、人生の最後に死を迎えたときに慌てふためかないでそれを受け入れるための大切なトレーニングでもある。原始人や古代の民衆はみな、そのトレーニングをして生きていた。そして現代社会は、そのトレーニングを怠って動いている。

自分が生き延びることを最優先にして生きている資本家や政治家に「手を差し伸べることをしろ」といっても無駄な話だし、だまされる民衆が悪い、ということもある。

古代の民衆は、権力支配に従順であったが、そうかんたんには騙されなかった。民衆社会は、権力社会から下りてくる支配制度とは別の、民衆だけの自治のシステムや思想=世界観をちゃんと持っていた。だから、権力社会が押し付けてくる仏教に対抗して「神道」をつくっていったし、権力社会も神道と仏教を習合させる策を講じなければならなかった。

村は、村独自の自治のシステムを持っていたし、村と村の連携のシステムも機能していた。

古代の民衆は、現代の民衆よりももっと賢明で、そうかんたんには権力社会に洗脳されなかった。これはまあ世界中どこでもそうで、権力支配のことがよくわからない歴史段階であれば、そうかんたんに洗脳されようがない。

ヨーロッパでなぜ民衆革命が起きたかといえば、権力者と民衆が同じ世界観を持っていたからだろう。だから、容易に権力の座を交代することができる。

しかし古代の日本列島では、権力社会と民衆社会の世界観や集団運営のシステムが違っていた。だから、かんたんに支配されてしまうが、かんたんには洗脳されない。そういう伝統があるから、今でも「無党派層」や「無関心層」の民衆がたくさんいる。で、ひとまず民主主義の社会であるのなら、そうした洗脳されない層を結集させることができれば、政権なんかかんたんに倒すことができるに違いない。

僕も「無党派層・無関心層」のひとりであり、既存の左翼や右翼には大いに違和感がある。

とはいえ現在の状況においては、右翼・保守を名乗る者たちは押しなべて醜悪に見えるし、魅力的な知識人は左翼・リベラルの側の人が多いように思われるのだが、自分としてはこの国の伝統や天皇のことに関心があるのだから、どちらというと右翼かもしれない。だから、元一水会代表の鈴木邦男氏に対しては、そこはかとないシンパシーがないわけではない。

ただ、彼らのように、天皇に対して崇拝するほどの気持ちは僕にはない。天皇に対してだって、ひとりの民衆としてそれなりのシンパシーがあるだけであって、それは崇拝ではない。

日本人としての誇りもとくにない。日本人ではあるのだけれど、日本人や日本という国を外から眺めているような気分のほうが強く、「日本人に生まれてよかった」という気分はさらさらない。僕にとって日本人であることは、僕の運命であって、べつに誇りなんかではない。

 

 

「日本讃歌」とか「生命賛歌」とか「人間賛歌」とか「生活讃歌」とか「家族讃歌」とか、そういうバブリーな思考は趣味じゃない。人恋しくはあっても、人間にうんざりもしている。

「嘆き」や「かなしみ」を抱きすくめてゆくのが、日本列島の文化の伝統の基礎原理になっている。そこから、他愛なくときめいてゆく。無知蒙昧だから他愛ないのではない。赤ん坊が無邪気であるのは、ひといちばい深く切実に「嘆きとかなしみ」を生きている存在だからだ。

猿にこの「他愛なさ」があるか……?ないのですよ。

「他愛なさ」は、「魂の純潔」であり、「魂の純潔に対する遠いあこがれ」である。いずれにせよそれは、「嘆きとかなしみ」の上に成り立っている。

「日本人に生まれてよかった」と合唱している右翼たちの、その充足しきって弛緩してしまっている表情には「嘆きとかなしみ」がなく、「それでも日本人か」と思わせられる。

彼らの、あの気味悪い「うすら笑い」はいったい何なのだ。「腹にいちもつ」とは、まさにあのことだ。

総理大臣をはじめとする今どきの右翼たちのその「うすら笑い」と、山本太郎が街頭演説や国会質問で見せるあの純粋でひたむきな表情と、いったいどちらが人々の共感を得るだろうか。そんなの、問うまでもないことだ。

今回山本太郎が『れいわ新選組』という旗を立ち上げたことによって彼は、与党からも野党からも攻撃されて四面楚歌に陥っている。野党の面々からすれば「野党共闘に水を差す」ということだろうが、山本太郎にすれば「野党の経済政策も気に入らない」と思っているのだからしょうがない。孤立無援を恐れない、というその心意気を、おそらく多くの民衆が拍手しているのだろうし、そうやってお祭り騒ぎが盛り上がるなら、それがいちばんなのだ。「お祭り騒ぎ」こそ、この国の伝統なのだ。

山本太郎はべつに、野党共闘の足を引っ張ろうとしているのではない。有権者の四割以上、いるという、選挙に行かない「無党派層・無関心層」にその心意気を訴えているだけだろう。だから、僕のようなノンポリのミーハーも注目するようになった。

もう野党共闘なんかどうでもいい。とにかくお祭り騒ぎになって投票率が上がり、それで結果がどうなるかということを僕は見てみたい。

選挙に行かない「無党派層・無関心層」が主役になることこそ、日本列島の民衆社会の伝統なのだ。古代から祭りの賑わいの主役はいつだって、共同体の外の存在すなわちマイノリティである乞食や旅芸人や旅の僧だった。まあ、そのようなこと。彼らはマイノリティではあったが、権力社会に対するカウンターカルチャーを民衆と共有していたというか、そこにおいて民衆をリードする存在だった。

古代以来の民衆社会の歴史は、日常のいとなみではなく、非日常の「祭り」を基礎にして流れてきた。彼らにとって飯を食ったり働いたりする日常は仮のいとなみであり、そこから超出してゆく非日常の「祭り」こそが生きてあることを実感する節目節目になってきた。日本人の生は、非日常の「祭り」の上に成り立っている。それが、伝統としての「色ごとの文化」なのだ。

人々に「心の華やぎ」をもたらすのは、食うことや働くことではない。心を非日常の世界にいざなってくれる「天皇」や神社の「巫女」や「旅芸人」や「旅の僧」や「乞食」等のいわば「無用者」こそが、民衆社会の歴史をリードしてきた。

山本太郎だって出自は「芸能の民」という「無用者」であり、古代以来そういう非日常的な存在こそが民衆社会のリーダーだったのであれば、彼にはその資格があるし、民衆の心を動かすその能力と魅力がある。

あと二か月、どこまで盛り上がるだろう。

 

 

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キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。

神は、女の性器に宿っている

 

吉野裕子の『日本古代呪術(講談社学術文庫)』は、興味深い読み物だった。日本列島の古代呪術は「女陰信仰」の上に成り立っている、という。それは、僕が考えている「色ごとの文化」の伝統とも通底していることで、なるほどとうなずけることも多かった。

ただ、ちょっと違和感が残るのは、そうした古代呪術がもともと日本列島に存在していた「原始呪術」と中国伝来の「陰陽道」という呪術が「習合」してつくられていった、という基本的な問題設定に対してだった。

陰陽道の影響を受けているのは確かなことだし、「女陰信仰」に上に成り立っているのもきっとそうだろうと思う。だが、なぜそれ以前に「原始呪術」が存在していたと決めつけるのか、そこのところがどうしても納得できない。

古代および古代以前の民衆にとっての「女陰信仰」は、あくまで純粋な「あこがれ」だったのであって、「呪術」ではなかった。

彼女は、原始呪術を説明するのに、沖縄に残るそれを引き合いに出している。これは、現在のこの国の知識人による常套手段である。吉本隆明折口信夫梅原猛、みんなそうだ。しかし沖縄は、地理的な条件からいっても日本列島本土よりもずっと早くから中国大陸との交渉があったのだから、沖縄に残る古い呪術が中国大陸と無縁だったとはいえない。

つまり、本土よりも沖縄のほうが先に中国伝来の「呪術」の洗礼を受けているのだ。そしてそれは、沖縄のほうが早くから「共同体(あるいは国家)」という意識に目覚めたということであり、本土においてはより遅れたまま、いまだにいまだにその意識が希薄で、政治における「無党派層」や「無関心層」がたくさんいる状況のままでいる。そうやっていまだに「女陰信仰=色ごとの文化」が色濃く残っているから、たとえばフーゾク産業で「裸で抱き合っても最後の一線を超えるのはだめだ」などという奇妙な営業システムが成り立っている。また「日本のエロビデオは世界でもっともレベルが高い」などといわれたりするのは、女の喘ぎ方のニュアンスがとても豊かだということにあるらしいのだが、これなどはまさしく「色ごとの文化」の伝統だろう。そうして「女陰信仰」の文化だから、女陰のことを「観音様」と呼んだり、江戸の吉原や京都の島原の花魁が女神のように祀り上げられたりしてきたのだろうし、もともと女の貞操観念が薄い土地柄で今どきは人妻不倫が流行ったりするのも、けっきょく「女陰信仰」の社会だから許されていることにちがいない。キリスト教社会でこんなことは、神も男も許さない。

すなわち「女陰信仰」は、非宗教で非呪術なのだ。

 

 

もともと「呪術」などというものは文明国家から生まれてきたものであり、国家が存在する以前の原始社会に「呪術」が存在していたという考古学の証拠などなど何もない、縄文時代火焔土器土偶が呪術の道具だったということなど、呪術があったという前提の上で学者たちが勝手にそう決めつけているだけであり、僕はそうは考えない。それは、純粋に人の心の「芸術的な衝動」から生み出されてきたものではないのか。「人情の機微」の問題だ、と言い換えてもよい。人としての純粋に造形的な感覚の問題ではないだろうか。

「神は妄想である」とういう本を書いたリチャード・ドーキンスによれば、ポリネシア諸島の人々は「カーゴカルト・ジョン」などといって大航海時代にやってきた西洋人に教えられて初めて「宗教=呪術」に目覚めたらしい。彼らは呪術思想を受け入れることができる思考様式をすでに持っていたが、呪術思想を持っていたわけではない。たとえ両者の思考様式に共通項があったとしても、両者のあいだには越えがたい天と地ほどの隔たりがある。われわれ無宗教のものだってかんたんに「神」という言葉を使いイメージしているが、いざ何かの宗教に入信するときには、越えがたい川を超えてゆく心の飛躍を必要とする。そのようなことだ。

人の心(=思考)は越えがたい川を超えてゆくことができるが、それは何も「宗教=呪術」だけの特権ではなく、学問であれ芸術であれセックスであれときめきであれ憎しみであれかなしみであれ、人の心そのものが「越えがたい川を超えてゆく」はたらきであるともいえる。

まあ、「越えがたい川」を超えて「意識」が発生するのだ。

原始時代に「宗教=呪術」があったと安直に決めつけてしまうべきではない。宗教と非宗教のあいだには、越えがたい川が横たわっている。人類史における「宗教=呪術」は、文明国家から生まれてきた。

 

 

この本の著者である吉野氏は「日本列島土着の原始呪術が陰陽道と習合した」というが、おそらくそうではない。この国の古代以前に「原始呪術」などというものはなかったのだ。もしあったら、陰陽道なんか拒否する。「宗教=呪術」というのは、もともとそういうものだ。「習合」したら霊験がなくなってしまうではないか。そうやって人類は、長い長い「宗教戦争」の歴史を繰り返してきたのであり、今でもそうだ。習合なんかできるはずがない。それでも習合したように見えるのは、陰陽道をもとにして古代の呪術が生まれてきただけのことだからだろう。それは沖縄においても同じであり、古代人がもともと持っていた世界観や生命観に合わせて陰陽道を取り入れていったのだ。そのとき陰陽道は世界最先端の世界観や生命観を説明する学問だったのであり、人々がそれを学び取り入れていったのは自然ななりゆきだったのだろうが、自分たちがもともと抱いている世界観や生命観を変更するわけにはいかなかったために、何とか工夫して折り合いをつけていった。

吉野氏は、古代以前から沖縄も含めた日本列島にあったのは「女陰信仰」だった、という。それが「信仰」であったのかどうかはともかく、古代以前の日本列島ですでに生成していたのは「色ごとの文化」だったのであり、女が中心の世界観や生命観だったのだから、その意味ではきっとそうだったのだろう。

雛祭りの「菱餅」は「女陰」をかたどっているのだとか。なるほど、と思う。神社にある「みてぐら」という「神の座」をあらわす石や岩も「女陰」の象徴である、と吉野氏はいう。きっとそうに違いない。ただ吉野氏はそれを「生命の誕生と再生」の象徴だというのだが、古代以前の世界観や生命観の本質はそんな宗教的呪術的なことではなく、「色ごとの文化」が基礎になっているだけのことだろう。彼らにとっては、「命」がどうのこうのという以前に、心が豊かにときめくとか世界が輝いているということをよりどころにして生きていただけであり、それを基礎にして世界の神羅万象を解釈していたのだ。

命がどうのという理屈は生き延びることにあくせくしている文明人の関心事であって、「もう死んでもいい」という勢いで生きていた原始人においては「死後の世界」も「生まれ変わり」も意識になかった。そんなことは、陰陽道と出会ってはじめて知ったのだ。

 

 

原始神道の「死んだら何もない黄泉の国に行く」という生命観は、「死後の世界などない」といっているのと同じなのだ。古代以前の日本列島の住民はそう考えていたのであり、そんな彼らがどうして「生まれ変わり」など発想できよう。彼らにとっては、その「ない」というそのことが救いで心ときめく大きな関心事だったのであり、その「消えてゆく」ことのエクスタシーこそ「色ごとの文化」の本質なのだ。

そして「死後の世界などない」ということは、仏教や陰陽道が入ってくる前のこの国には「霊魂」という概念がなかったことを意味している。そうして仏教や陰陽道によって「霊魂」という概念を知った彼らは、それと自分たちのもともとの世界観とどう折り合いをつけるかと考えながら「黄泉の国」という概念を生み出していった。彼らの思考においては、「かみ」も「仏」も「死後の世界」も「霊魂」も、「ない=非存在」というかたちで肯定され認識されていった。つまり彼らは、今どきの歴史家よりもずっと高度で哲学的な思考をしていた、ということだ。

日本列島の古代以前の人々は、吉野氏のいうような「生命の再生」などという俗っぽいことを考えていたのではないし、そんなところに日本的な「女陰信仰」の本質があるのではない。そんな現代的文明的な尺度で彼らの心を推量するべきではない。彼らの思考は、もっとプリミティブであると同時に、もっと高度に哲学的だった。

吉野氏は「祭り」と「呪術」を同列に考えてしまっている。そこに、彼女の思考の限界がある。原始的な神道はたんなる「祭り」の習俗だったのであって、「呪術」の要素などなかった。ただもう一方的に「かみ」という「神羅万象の輝き=本質」を祝福し祀り上げていただけであって、それによって何かを得ようというような目的はなかった。「祝詞」というのはもともとそのような性格のものであり、「五穀豊穣」とか「家内安全」とか「厄除け」とか「悪霊退散」とか、そんな「祈願=呪術」は陰陽道の影響としてはじまったことに過ぎない。

たとえば、「言挙げしない」というのは古代人の生活上のひとつのたしなみで、それは万葉集にも書かれてあるのだが、「言挙げ」とは「呪術=祈願」のことだ。万葉集のころにはすでに仏教や陰陽道の影響で「呪術」が広まり始めていたのだが、それでも神道の基本的なコンセプトは「呪術=祈願なんかしない」ということにあった。これは、古代以前に呪術がなかったことの大きな状況証拠である。

上代から古代にかけての最初の神道は、仏教や陰陽道に対するカウンターカルチャーのたんなる「祭りの習俗」として生まれてきたのであり、その後に仏教や陰陽道と習合しながら呪術の要素も加えていった。最初の原始神道においては、「かみ」を祝福しても、「かみ」から何かをしてもらおうというような願いなどなかった。

まあ、呪術の要素を持たなければ、もともとフリーセックスが主たるコンセプトであるお祭り騒ぎはお上からの許しが得られなかったし、やがては「悪霊退散」という汚れ仕事は民衆の神道が一手に引き受けるようになっていった。

「鎮守の森」の「鎮守」とは、「霊鎮(たましず)め=悪霊退散」ということ。そして「天神さま」といえば菅原道真の怨霊を鎮めるための神社だが、民衆はその怨霊までも祝福していった。ただもう他愛なくときめいてゆくのがほんらいの神道であり、呪術もくそもあるものか。

 

 

たしかに古代の呪術や習俗は陰陽道の影響を色濃く受けているのだろうが、吉野氏のいう「女陰信仰」は日本列島独自のものであり、呪術とは別の呪術以前のものとして語られねばならない。この本ではほとんどの記述が陰陽道の影響のことに当てられているのだが、そうではなく「女陰信仰」だけを取り出して語ってほしかった。その「女陰」を古代人は「生命の誕生と再生(=生まれ変わり)の象徴」として考えていたと決めつけられると、ちょっとがっかりしてしまう。「生命」という概念と結びつけると何か高尚な学問的思考のようだが、じつはそれこそが通俗的な思考なのだ。

「女陰」とは「おまんこ」であり、あくまで「セックス=色ごと」の象徴なのだ。そしてその「消えてゆく」ことのエクスタシーこそが日本的な世界観や生命観や美意識の基礎=伝統になっているのであり、そこにこそ人類のもっと深く高度な思想的哲学的な問題が潜んでいる。

「生命」という概念を生き延びたいという現代の文明的な欲望で考えると、ひとまず「誕生と再生」という問題設定になる。しかし「いつ死んでもいい」という覚悟で生きていた古代人や原始人にとっては、「消えてゆく」ことのエクスタシーにこそ命のはたらきの本質があった。

存在と非存在……生き延びようとする欲望が旺盛な現代人が考える命のはたらきは、「存在」に向かうこと、すなわち「存在」を生産し獲得し所有してゆくことにある。しかしわれわれの「今ここ」においては「すでに存在している」のであり、「いつ死んでもいい」と思って生きていた古代人や原始人は、生産し獲得し所有してゆく未来のことなどどうでもよかった。だから彼らにとっての命のはたらきは命を消費することであり「生ききる」ことにあった。すなわち「非存在」に向かって「消えてゆく」こと。彼らにとって「生きる」ことは、「生産」ではなく「消費」だった。

頭の中を文明社会の生産主義に毒された人間が、命とは「誕生と再生(生まれ変わり)」だという陳腐で観念的な問題の立て方をしてしまう。この国の古代や原始時代の民衆は、そんな宗教的妄想で生きていたのではない。ひたすら「今ここ」を「生ききる」ことを願い、そうやって「今ここ」の世界や他者の輝きとの「出会い」にときめいたり「別れ」にかなしんだりしてゆくことの上に彼らの世界観や生命観があった。

彼らにとって赤ん坊が生まれてくることは、「誕生=生産」ではない。そんな今風のもっともらしい観念的屁理屈なんかどうでもよろしい。それはもう、純粋に「出会いのときめき」の体験だったのであり、それ以上でも以下でも以外でもなかった。

セックスをして男の精子を女の体の中に注入すれば月満ちて子供が生まれてくる……というくらいのことは彼らだって知っていたに違いないが、その仕組みを操作し支配しようとする発想などなかったし、操作し支配している何ものかがいるとも思わなかった。ただもう赤ん坊が生まれてきたという事実にときめき祝福していっただけだ。そうやって世界の輝きにときめき祝福してゆく集団行事として「祭り」があったのであって、もともとそれは「呪術」でもなんでもなかった。

彼らは、世界の神羅万象のしくみを知ろうと思ったが、それを支配しようとは思わなかった。そんな人たちのすることを、どうして「呪術」というような手垢にまみれた言葉=概念で語らねばならないのか。

 

 

この記事を書きはじめたときは、吉野氏のこの著作をけなすつもりなどなかったのだけれど、書きながらなんだかだんだん腹が立ってきた。

世の歴史家の、安直に「原始宗教」や「原始呪術」があったと決めつけているその思考が気に入らない。

もともとたんなる祭りの習俗にすぎなかった原始神道が古代の仏教や陰陽道と「習合」しながら「呪術」的な性格を帯びていったことはたしかだろう。しかしそれでも、もともと「呪術」ではなかったのだから、その本質はあくまで「祭り」の習俗だったのであり「色ごと」の文化だったのだ。

日本列島の文化の伝統は、「出会いのときめき」と「別れのかなしみ」にある。古代および古代以前の民衆は、そのことを基礎にしてこの世界の神羅万象を解釈していったのであって、それを操作・支配してゆこうとしたのではない。彼らがそうした「呪術」を中心にして生きていたのなら、いかにもこの国らしい「なりゆきの自然に身をまかせる」という文化など生まれてくるはずがないではないか。

また、なりゆきに身をまかせる文化だから、「出会いのときめき」が豊かになるし、「別れのかなしみ」も深くなる。彼らは、神道の祭りを「出会いのときめき」の場とし、仏教には「別れのかなしみ」を仮託していった。そうやって神仏習合してゆき、神道で結婚をし、仏教で葬式をする、という習俗になってきた。それは、もともと「呪術」の伝統がない風土だったことを意味している。言挙げすなわち願い事などしないで「今ここ」のなりゆきに身をまかせる文化なのだ。

ひとまず形だけ「神だのみ」をしても、それでなんとかなるとは思っていない。神に「たのむ」のではなく、神に「おまかせする」文化であり、そういう「なりゆき」の文化なのだ。それが民衆社会の伝統であり、この違いを踏まえて歴史を考えるなら、そうそう安直に「原始宗教」とか「原始呪術」とか「アニミズム」などという言葉は使えないのだ。

 

 

もちろん、たとえば高松塚古墳の壁画には陰陽道そのものの世界観が描かれているわけだが、それは古代の権力社会が中国文化をまねてそうしただけのことであって、民衆社会にもそうした世界観や生命観が浸透していたとはいえない。

民衆社会は、陰陽道に影響されつつも、つねに原始神道の「色ごとの文化=祝福の文化」を守ってきた。

陰陽道には、方位をはじめとするさまざまな決まりごと(呪術)がある。しかし民衆はそれを基本的には「祝福の作法」というか「生活のたしなみ」に変えてきたのであって、願いがかなうかかなわないかは「なりゆき」しだいだという思いで歴史を歩んできた。だから、かなわなくても神社に行けばあたりまえのようにしておみくじを引く。それは、「祝福の作法」なのだ。神社というめでたい空間に立っていることの浮き立つ気分というか、つまりそうやって「かみ」を祝福する行為としておみくじを引いたり賽銭を投げ入れたりしている。

民衆の祭りの作法に陰陽道の影響があるからといって、いったいそれが何なのだ。べつに陰陽道を心の底から信じているわけではないし、そんなところに民衆の祭りの本質があるのではない。権力社会はともかくとして、民衆の「祭り」の本質は「呪術」にあるのではなく、どこからともなく集まってきた人々が世界や他者の輝きを祝福しつつ無主・無縁の混沌のままに他愛なくときめき合ってゆく、その「賑わい」にある。

古代および古代以前の民衆の暮らしの基礎になっていたのは、純粋な「祭りの賑わい」すなわち世界や他者の輝きに対する「ときめき」だったのであって、世界や他者を支配するための「呪術」だったのではない。そしてそれはもう、日本列島の民衆社会の伝統として現代人の心にも受け継がれている。

だから現在の「無党派層」や「無関心層」を投票所に連れてくるためには、「ときめき=感動」が組織できなければならない。民衆社会のエネルギーは、そこにこそ宿っている。

まあ「正義・正論」なんてただの「呪術」であり、そんなものでは無党派層や無関心層は動かない。

 

 

古代人や原始人が迷信深かっただなんて、何をとんちんかんなことをいっているのだろう。いちばん迷信深いのは、現代人なのだ。

原始社会に「都市伝説」はあったか?あったはずがないだろう。

原始社会に「正義・正論」という名の「法=呪術」で人を裁く制度があったか?あったはずがないだろう。

「呪術」などというものは文明社会が生み出したのであり、現在の政治経済はすべて「呪術」で動いているではないか。

お金=貨幣は、現代社会のもっとも重要な「呪術」のアイコンのひとつだろう。ただの紙切れ(あるいは数字)に「霊力」を吹き付けて食い物や自動車や家と交換できるものにしてしまう。

現代人こそ「呪術」に縛られて生きている。

ヘイトスピーチ……すなわち呪いの言葉。この言葉を吐く者こそが、真っ先にその呪いに縛られている。現在の政治経済の支配層は、そういう者たちの巣窟になっているらしい。

しかし「呪術」は、本質的には日本列島の民衆社会の伝統ではないのであり、観念的には呪術を受け入れつつ、歴史の無意識においてはそれを拒否している。「もう死んでもいい」という勢いで「なりゆきに身をまかせつつ、他愛なくときめき合い助け合ってゆく。

民衆社会の世界観においては、森羅万象はただもう「なりゆき」で動いているだけであり、その動きの法則を知りたがっても、その動きを支配している存在など信じていない。その動きの法則を知りたいからひとまず「陰陽道」を受け入れてきたが、少なくとも民衆社会においてはそれが「呪術」のレベルにはなり切れていない。たとえば、神社の祭祀で「悪霊を鎮める」といっても、悪霊を祝福し祀り上げるのがその作法の伝統になってきたわけで、はたしてそれは「呪術」といえるのだろうか。かたちだけは呪術のような体裁になっていても、内実は呪術ではない。

何しろ「言挙げしない」のが伝統の国柄なのだ。願うことはしても、願いがかなうかどうかは「なりゆき」しだいなのだ。「なる=なりゆき」の文化……「いい社会なろう」と思っても、「いい社会をつくろう」とは思わない。このへんのニュアンスは微妙だが、まあ、だから革命が起きない。

 

 

民衆社会の歴史・伝統においては、「非呪術」の文化が基礎になっている。「呪いや憎しみ」ではなく、「ときめきとかなしみ」の文化なのだ。つまり、権力社会は「呪いや憎しみ」で動いており、民衆社会は「ときめきとかなしみ」で動いている。

「呪いや憎しみ」で生きている人間が成功できるような社会のしくみがあるし、成功できない民衆のくせに「ときめきとかなしみ」で動いている民衆社会に参加できない「嫌われ者」もまた権力社会にすり寄ってゆく。彼らは、ヘイトスピーチという「呪術」でしか生きるすべはない。

原始時代に「呪術」などなかったし、古代においても、それをまるごと信じていたのは権力社会だけで、民衆社会は表面的に影響されても無意識の部分は無垢のままだった。

世の歴史家は、どうしてあんなにも無造作に「呪術」という言葉を使うのだろうか。民衆社会においては、原始時代であれ現代であれ、「呪術」は「けがれ」なのだ。そしてその「けがれ」をそそぐための「みそぎ」の作法として、古代の「神道」が生まれてきた。

人類の歴史のはじめに「呪術」はなかったし、究極の未来にもそれはない。このことが何を意味するかというと、文明社会が「呪術=宗教」から逃れられないかぎり、その「けがれ」をそそぐための「みそぎ」の作法をつねに必要としている、ということだ。

栄枯盛衰とは、社会における「けがれ」と「みそぎ」の反復である。われわれは今、思い切り「呪術的」になってしまったこのうんざりする社会状況の「みそぎ」を必要としているし、そういう動きはささやかかもしれないがたしかに起こりつつある。

死を間近にしている老人である僕としては、生きているうちに、あの執念深く狡猾な右翼たちが慌てふためきながら自滅してゆく姿を見てみたいものだと思っている。

 

 

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『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。