れいわ新選組のブームは終息するのか

こんなにもひどい世の中になってしまったのに、多くの人がそれを実感していない。それが、投票率の48・8パーセントという数字に表れているのだろう。正直言って僕も、山本太郎の街宣を聞くまでは、よくわかっていなかった。彼の街宣は、4~5年前から彼の人間的な魅力にひかれてYouTubeで追いかけていたが、お金の話は面倒くさいので聞き流していた。しかしそれが、じつは階級格差や社会制度の歪みや国民的な精神の退廃の問題だということが、このごろようやくわかってきた。

まったく、史上最悪の政権だと思う。あの総理大臣が中身の薄っぺらなただのいいカッコしいだということは初めてテレビで見たときから感じていたが、まわりに群がる政治家や官僚や大企業や広告代理店やマスコミ知識人やネトウヨたちの卑劣さや醜悪さもさらに目を覆うばかりだ。総理大臣なんて、そういう連中に踊らされているだけだろう。もともと何の見識もヴィジョンもなくただ総理大臣でいたいだけの男なのだから、まわりが多少なりともまともならこんなことにはならなかったに違い。彼らだけではない、この国の制度そのものが狂ってしまっている。

僕は今、このことをちゃんと認識しなかった自分が、ほんとにうかつだと思う。多くの人がすでに認識しているし、認識しはじめている。

僕は、山本太郎に教えられて、はじめてわかった。最初は「まあ、そんなものだろう」というくらいにしか思っていなかったが、今では「どうしようもなく狂っている」というやりきれなさが募ってくる。

とにかく、総理大臣のバカさ加減は今にはじまったことではないが、なんといってもまわりの者たちやこの社会のシステムが狂ってしまっていることが、なんとも不気味で醜悪だ。

 

 

生まれたばかりの赤ん坊は、まわりの「庇護しよう」とするはたらきかけがなければ生きられない。この「志向性」こそ人間性の自然・本質であり、生きものとしての本能でもある。この「志向性」を特化させることによって人類は、爆発的に人口を増やし、地球の隅々まで拡散していった。そしてこの「庇護しよう」とする「志向性」がなければ、猿のレベルをはるかに超えた人間ならではの大きな社会集団をいとなむことはできない。

まあ現代の文明社会の人々は、複雑で高度に発達した社会システムに庇護され支配されて生きている。だから多くの人が庇護され支配されることを当然のように受け止めているが、そのシステムからこぼれ落ちた者たちはどんどん切り捨てられてゆくようになってきた。

だから、けんめいに庇護されたいと願い、庇護されようとがんばる。それはつまり、支配されたいと願い支配されようとがんばる、ということでもあるわけで、そうなれば支配者にとってはとても都合がいいし、今さらいやだといっても文明社会のシステムは本質的にそのようにできている、ということだろうか。そうやって人々は、人間性の自然・本質としての「庇護したい」という願いを失ってゆく。

支配者にとってもっとも都合のいい社会は、人々が「庇護されたい」という思いを募らせながら「庇護したい」という願いを失ってゆく社会であり、しかしそれは、ほんらいの人間集団のダイナミズムを失って社会が衰退してゆくことのあらわれでもある。文明社会の歴史は、そうやってさまざま支配システムの社会が衰退し滅んでゆくということを繰り返してきた。

現在もまた、そういう衰退の時代なのだろうか。だから、投票率が48・8パーセントだった。この国が高度経済成長で元気だったころは70パーセントを超えていたのである。東西冷戦の時代で右翼と左翼の力が拮抗して政治に緊張感があったから、ということもあるかもしれない。

 

 

現在のこの国の人々は、国家権力や社会システムに「庇護されたい」という欲望ばかり募らせて、生きられない弱いものを「庇護したい=生きさせたい」という願いを失いつつある。そうやって国ごと衰退しつつある。

現政権は、民衆を貧困に陥らせ、「庇護されたい」という欲望を募らせることによってファシズムを押し進めてゆこうとしている。そして現政権のパートナーになっている広告会社は、ナチス・ドイツの広告戦略を研究して成長してきた。

ファシズムの影が忍び寄っていることは、だれもが感じている。

そこで、だれよりも深く純粋に生きられない弱いものを「庇護したい」という願いをそなえた山本太郎が、民衆社会のヒーローとして登場してきた。人が人であるかぎり、その願いが消えてなくなることはないし、それが活発に生成しないことには社会のダイナミズムは生まれてこない。

「庇護する(=他者に命を捧げる)」ことのカタルシスが人を生きさせている。これは、ただのきれいごとではない。根源においてそういう関係性がはたらいていなければ、人間の集団が無限に大きくなってゆくということなど起きるはずがないではないか。

今どきのネトウヨたちのように、他者を排除しようとする憎しみばかり募らせていて集団が大きくなっていくことなどできるはずがない。こんな小さな島国に1億人以上がひしめき合っていて、「現在の政権はよくない」とか「戦争はするべきではない」とかと考える人間はぜんぶ「反日」だと言って排除しようとするなら、この国の人口はどんどん減ってゆくに決まっている。

現在の政権が、貧しい者たちから搾り取って富裕層をより富ませるというような政策をしていることだって、タコが自分の足を食っているのと同じだろう。

「庇護しよう」とする衝動が生成していない社会が活性化すするはずがないし、少しも美しくない。醜悪さ丸出しでこじつけの「正義」とやらを振り回しながら、何が「日本人に生まれてよかった」か。醜悪そのものだ。

 

 

集団に庇護されるポジションを得ようとして他者を排除してゆく。そうやってみんながポジションを奪い合っているのが現代社会であるのかもしれない。そんなことばかりしていたら社会はどんどん分断され、格差も開いてゆくし、人口が増えるはずがない。

他者と「庇護し合う=助け合う」のではなく、だれもが国家や社会制度に庇護されるポジションを得ようとするなら、ひとりひとりがどんどん孤立してゆく。人と人のつながりをつくらせないのが、国家権力にとっていちばん支配しやすいことかもしれない。

戦前は、すべての国民は天皇の「赤子(せきし)」である、というプロパガンダによって国民を分断していった。つまり、ふだんの暮らしのプライベートな関係よりも天皇との関係が優先されていた。しかしほんらいの天皇は「みんな」との関係の上に成り立っている存在であって、ひとりひとりと関係を結んでいるのではない。ほんらいの天皇は「みんな」という関係が豊かに成り立つためのよりどころとして祀り上げられているのだ。すなわち、弥生時代奈良盆地の都市集落における民主主義を担保するために起源としての天皇が祀り上げられていった、ということだ。

天皇は、国民を庇護している存在ではない。国民が天皇を庇護し祀り上げているのであり、もともとはそうやって人としての「庇護したい」という願いを担保するためのよりどころとして祀り上げられてきたわけで、古代王朝の権力者たちによっていったんは民衆を「庇護する」存在として偽装されていったが、中世から近世にかけてしだいにもとの姿に戻っていった。そうして明治政府の「王政復古」の号令によって、また「庇護する」存在として偽装されてゆき、太平洋戦争の敗戦によってまたまた起源の姿に戻った。

ともあれ天皇が実質的な「庇護する」存在としての「権力者」であったことなど一度もないのであり、民衆の中の歴史の無意識における天皇は、あくまで「みんなで庇護しながら祀り上げてゆく存在」なのだ。

 

 

人類の歴史は、「生きられない弱いもの」を「生きさせたい=庇護したい」という願いとともに進化発展してきた。そういう人類普遍の願いの象徴として、この国では天皇が祀り上げられてきた。

天皇は、人類史の悲願の形見として存在しているのであり、だからこの国で2000年近く祀り上げられてきた。

天皇制が滅びることは、人類の悲願が滅びることだ。

人類の悲願とは、「生きられない弱いものを生きさせたいという願い」のこと。たったそれだけのことだが、それがなければ人類社会のダイナミズムも人類史の進化発展もない。

であれば、今回の選挙でれいわ新選組が二人の重度障碍者を国会に送り込んだことは、まさにそうした「人類の悲願」とかかわる重大な問題を提示していることになる。

重度障碍者にどれほどの議員活動ができるのか、というような批判の声もあるが、さかしらなそういう物言いがいかに下品で浅はかであるかということを何も自覚できない者が存在するということが、この国が狂っていることの証しなのだ。それに対して一般の民衆の多くは「どうかがんばってくれ」と祈っている。その祈りこそが人としての普遍的な知性・感性のはたらきであり、彼らがその仕事を果たせるようにまわりの者たちが配慮し努力するのが人類の使命なのだ。

まあ、何とかやりくりしながらできるようにしてしまうのがこの国の文化の伝統であり、たとえばそうやって大陸から輸入した漢字から「ひらがな」を生み出していったのだし、文楽人形にあれほどスムーズな動きと細やかなニュアンスを表現させてしまうことができるのなら、障碍者が活躍できる場を整えることくらいそれほど難しくもないにちがいない。まわりにそういう心掛けがあるかないか、それだけのこと。

おそらく重度障碍者の二人が国会に入ったことはもう、世界中に発信されていることだろう。そうして世界中の人々が、固唾を飲んでその成否を見守っている。

それは、世界の優生思想や新自由主義に対する挑戦であり、と同時に山本太郎は、「人類の悲願」を背負って21世紀の日本列島に登場してきた、ということになる。

 

 

1989年にベルリンの壁が壊れたとき、そのときの次期総理大臣候補で政界きっての優秀な頭脳の持ち主だといわれていた自民党宮澤喜一は、テレビのインタビューに答えて「これからは東側の人たちに<競争>ということを教えてあげなければならない」と語っていた。

それを聞いて僕は、なぜだか知らないがかすかな違和感を覚えた。だから今でもその一言を覚えているわけだが、今だったらその違和感のわけがわかる。そうやって西側の指導者たちが勝ち誇ったようにのうのうと「競争」などとほざいていたから、現在の世界の政治経済の混乱が起きているのだろう。そのとき西側の人たちと東側の人たちが共有しなければならなかったのは、「競争」ではなく「助け合う」ということだったのだ。

宮澤喜一は嫌いな政治家ではなかったが、今にして思えば、どうやら彼には「哲学」というものが決定的に欠落していたらしい。もとは財務省のとびきり優秀な官僚だったというが、官僚などという人種は、しょせんその程度のものかもしれない。

人の世の存在基盤は、古代だろうと現代だろうと、いつだって「助け合う」ということにある。道徳の問題ではない。それがなければ人の世の動きのダイナミズムは起きてこないということは、人類史の普遍の原理である。

そして「助け合う」ことの基礎には、「ときめき合う」ということがある。

現在は、世界的に「ときめき合う」という関係が希薄になってきている。それはきっと、ベルリンの壁の崩壊とともに共産主義が退潮し、「新自由主義」とか「金融資本主義」というような思考がのさばってきたせいだろうが、とにかくそうやって世界的に「政治原理」が崩壊してしまっている。

ベルリンの壁の崩壊のそのとき、宮澤喜一をはじめとするこの国の支配者たちが「資本主義の原理である競争こそ人間の本性であり、その意識を人々の頭の中に植え付ければ世界はよくなる」と思い込んだことによって、こんなにもおかしな世の中になってしまった。彼らは決定的に愚かだったのであり、その愚かさに多くの民衆が洗脳されてしまった。

資本主義だろうと共産主義だろうと、人間社会の基礎は「助け合う」ことにあり、人の心の「助けたい」という願いをかなえようとすることにある。政治原理というなら、そこにこそ置かれなければならない。

 

 

人間社会の基礎は、「贈与=ギフト」にある。「返礼」なんかいらない。一方的な「贈与」だけですでに世界は完結しているのであり、そのカタルシスが人を生きさせている。

これは、「言葉」や「貨幣」の本質の問題でもある。

起源としての言葉は、ある感動(=ときめき)とともに思わず発してしまった音声だったのであり、「伝達」しようとか「返答」を期待するとか、そんな意識は一切なかった。「やあ」とか「あら、まあ」とか「おはよう」とか「なあんだ」とか「うっそー」とか、起源であれ現在であれ、基本的に言葉とは「思わず発してしまう音声」なのだ。

吉本隆明は「言語にとって美とはなにか」という著作で、言葉の起源は「たとえば海を見て思わず<うっ>という音声を漏らしてしまったようなこと」といっているが、これは、個人の内面世界を至上のものとする彼のナルシズムから出た発想で、そういうことではない。起源としての言葉は、あくまで人が「他者」とともにこの世にいるということの上に成り立ったある感動(=ときめき)から他者に向かって発せられたのであり、それは「伝達」も「返答」も期待しないあくまで一方的な「贈与=ギフト」だったのだ。つまり、他者がこの世に生きてあることを「祝福」する音声だったのであり、それ自体無意識的には「他者を生きさせようとする衝動」がはたらいている。

人類の言葉は、他者とともにこの世に存在することの「ときめき」から生まれ育ってきた。他者が存在しなければ、言葉が発せられる契機など存在しない。海を見て感動すれば「言葉にならない」思いが湧いてくるだけであり、そんなところから言葉が生まれてくることなど原理的にあり得ない。

吉本は「言葉の本質は<沈黙>の中にある」ともいっているが、個人の内面世界の思考や感情は「言葉」として生成しているのではない。その「言葉にならない」思考や感情を、すでにこの世界にある「言葉」「に当てはめているだけなのだ。言葉は、個人の内面世界に存在しているのではない、人と人が生きているこの世の中で生成し流通しているのだ。だれともなく思わず発してしまった音声を、みんなが「これは<ときめき>をあらわしている」とか「<かなしみ>をあらわしている」というように解釈し合意しながら言葉になっていったのだ。

言葉は、他者に対する一方的な「贈与=ギフト」として社会で生成し流通しているものであって、個人の内面世界に存在しているのではない。そしてそれはもう、「貨幣」が社会に流通していることと同じなのだ。

 

 

「貨幣」の起源は、「きらきら光る貝殻や石ころ」だったといわれている。それはもう、数万年前の原始時代から愛されていたもので、一方的な「贈与=ギフト」として原始人の社会に流通していたわけで、二万年前のロシアのスンギール遺跡からは死者の埋葬に際しておびただしい数のビーズの玉が添えられていた。つまり、相手が死者だから「伝達」の意図も「返礼」の期待もない。ただもう一方的な「贈与=ギフト」なのだ。そうしてこれが、文明社会が生まれてきたころになると物をもらったことの返礼に使われたり、貨幣をもらったことの返礼に物が差し出されたりしながら、「交換の道具」になっていった。

人類は貨幣を持ったから物々交換をするようになったのであって、物々交換の延長として貨幣が生まれてきたのではない。

ともあれ「貨幣」は、現代においても、本質的には一方的な「贈与=ギフト」の形見であり、そのような使われ方をしている例は無数にあるし、そういう性格のものだから世の中に出回ることができる。

言い換えれば、貨幣が「贈与=ギフト」の形見であることを忘れることによって、偏ったところでむやみに貯め込むということが起き、社会の停滞や衰退を招いている。

人がお金を使うのは「贈与=ギフト」の精神によるのであり、現代の貨幣がただの「紙切れ」であることによって、なおいっそう「金離れ」がよくなる。そうしてそれが、たえず一部の富裕層のもとに吸い上げられてゆく。

支配者たちは、人々の「贈与=ギフト」の精神に付け込んで貨幣をただの「紙切れ」にしてしまった。そうしてそれをどんどん吸い上げてゆく。

銀行は「預金」というかたちで人々からお金を吸い上げ、それを債務者に貸すときは、ただ金額の数字を書き記すだけであり、実体なんか何もない。数字を書き記すことによって、そこでお金が発生する。まさに「贈与=ギフト」である。したがって、それで人々の預金が減るわけではない。人々が預金を下ろさないかぎり、銀行は貸した金が返ってこなくても何も損をしないということになる。

お金=貨幣の本質は、一方的な「贈与=ギフト」であることにある。それによって世の中に流通し、一部のところに吸い上げられ退蔵されていたりする。その本質を利用して一部の者が大金持ちになっている。金融資本主義とは「贈与=ギフト」を受け取り合うゲームであり、お金=貨幣だけがあって、実体は何もない。1億円を吐き出したからといって、そのぶんの何か実体が得られるわけではないし、実体が失われるのでもない。たんなる「贈与=ギフト」のゲームなのだ。

金融資本主義という名の椅子取りゲーム。そこではだれもが「贈与=ギフト」の精神を失って、「贈与される=庇護される」ことばかり欲望している。

お金=貨幣の本質を知り抜いたユダヤ人がこのような社会のシステムをつくったのか、それとも人類史の必然的ななりゆきなのか、僕にはよくわからない。ともあれいつの時代も人の世は「贈与=ギフト」の衝動の上に成り立っているのだ。そこに立って人類は、「新しい時代」に漕ぎ出してゆく。

 

 

既存の社会制度に庇護されながら「新しい時代」なんかいらない、といってもダメなのだ。人が人であるかぎり、それがいつのことになるかは知らないが、「新しい時代」は必ず生まれてくる。

ネトウヨとかチャンネル桜とか虎ノ門ニュースとか、そうした既存の社会制度に「庇護されたい」という欲望を募らせた者たちが今、きわめてヒステリックに「新しい時代に漕ぎ出そう」と願う勢力を攻撃し続けているが、人はいつかはその醜悪さに気づくのだし、この国の伝統はそういう醜悪さになじまないようになっている。

「庇護したい」という願いは、女の中にこそ豊かに息づいている。なぜなら、それがなければ子を産み育てるということなどできないのだもの。そしてその根底には、他愛なく豊かな「ときめき」と生きてあることに対する深い「かなしみ」があるわけで、それはだれの中にもある人間の本性でもあり、女それがよりラディカルな存在なのだ。

現在のこの閉塞・停滞した状況から抜け出す新しい時代は、女が切りひらくのだろう。

彼らはきっと、女たちから見捨てられるだろうし、そのときこそが「新しい時代」の幕開けであるのかもしれない。

新しい時代や環境を怖がるのは、いつだって男や老人たちなのだし、それをむやみに怖がらないのがこの国の伝統としての「進取の気性」である。この国の文化やメンタリティの伝統は、なんのかのといってもじつは女にリードされて培われてきたのだ。

「処女性=たをやめぶり」……それがこの国の文化の伝統の基礎であり、その象徴として「天皇」が祀り上げられてきた。まあこれが現在のこのブログの主題であり、現在においてこれだけ天皇が多くの民衆からよろこんで祀り上げられているのなら、天皇制の本質において明治の大日本帝国に後戻りすることはあり得ない。現在の天皇の祀り上げ方は戦前とはまったく違うし、ほんらいの天皇制は国家主義に陥らないためのよりどころとして機能してきたのだ。江戸時代までのこの国の民衆に国家意識などというものはなかったわけで、だから国歌も国旗もなかったのだし、江戸時代に天皇の存在感があまりにも薄くなってしまったために明治の「王政復古」が起きてきたともいえる。

 

 

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もしも今、天皇制を廃止したら、戦前よりももっとひどいファシズムのクーデターが起きるかもしれない。天皇を権力者の手に渡してはならない。天皇はあくまで民衆によって庇護され祀り上げられる存在であらねばならない。天皇によって担保されているこの国の伝統とは、権力者が扇動する「大和魂」などというものではなく、ときめき合い助け合って生きようとする民衆が共有している「庇護したい」という願い、すなわち「処女性=たをやめぶり」なのだ。まあ、赤ん坊や小さな生き物そして小さな世界を守ろうとする心こそこの国の伝統であり、人間性の普遍的な自然・本質でもある。そういう女の中の「処女性=たをやめぶり」によってこそ、新しい時代は切りひらかれる。女が目覚めたら、時代は変わる。女こそが、真の民主主義を担える可能性をそなえている。

古い右翼も左翼も、いずれ女たちから見捨てられる。なぜなら彼らは、国家の「庇護」みずからの自意識を満足させたいだけで、「他者」に対する思いが欠落している者たちだからだ。しかし国家はほんらい、みずからの「庇護したい」という願いをかなえてくれる機関であり、国家が庇護しなければならないのは自分ではなく「生きられないこの世のもっとも弱いもの」たちなのだ。

食うに困っていない善良な市民は、「このままでいい」と思っている。それでも権力者が許せないのは「生きられないこの世のもっとも弱いもの」を庇護しようとしないからであり、それをしなければ人間の社会ではなくなってしまうと思えるからだ。それをして、はじめて人と人がときめき合い助け合う社会になる。

 

 

11

現在のこの国の総理大臣は、セックスアピールがなさすぎる。彼がリーダー失格である理由は、そういう単純な問題でもある。彼がリーダーであるかぎり、世の中は明るく元気にならない。すなわち、人と人がときめき合い助け合う社会にならない、ということ。

あなたは、安倍晋三に抱かれたいと思うか……?

余談ではあるが、男として人間としてのセックスアピールのことは、マツコ・デラックスがよく知っている、と思う。人と人がときめき合い抱きしめ合うことは、男どうしであろうと女どうしであろうと男と女だろうと、根源的には違いはない。

セックスアピールとは、つまるところ人間としての魅力のことだ。

マツコ・デラックス安倍晋三小泉進次郎のことを「気持ち悪い」といっていたが、それはきっと、男としてというより人間としてということだろう。彼らの顔の造作がどうのというより、顔つきとかしゃべり方とかしゃべることの中身が「気持ち悪い」のだろう。男の値打ちは、娼婦とオカマがいちばんよく知っている。とくにマツコ・デラックスは、現在の人の世の「リトマス試験紙」の役割を果たしている。だれよりも人恋しくてだれよりも人に幻滅しているこのオカマの視線を、多くの民衆が称賛している。

まあ、安倍晋三小泉進次郎も、民衆という他者に「庇護されたい=ちやほやされたい」という自意識に凝り固まっているだけで、民衆という他者を「庇護したい=救いたい」という「人恋しさ」などさらさらなく、それがあの自己陶酔した顔つきやしゃべり方によくあらわれている。彼らは、人の心を支配しようとしているだけで、人の心に寄り添うという感受性がまったく欠落しているわけで、それが「気持ち悪い」のだ。

「気持ち悪い」人間がたくさんいる世の中で、それでも「人恋しさ」は多くの人の中に疼いている。その中でもだれよりも人恋しい心が逆なでされて「気持ち悪い」とつぶやき、そうやってマツコ・デラックスの「毒舌」が受けている。

安倍晋三小泉進次郎のような自己執着を捨てるためには、オカマになることはとてもいい方法のひとつにちがいない。だれもが自己執着を手放さない世の中だから安倍晋三小泉進次郎が許されるのだし、だれもが自己執着を手放さない世の中だからこそ、それを捨てたマツコ・デラックスが異彩を放って輝いている。

道端の小さな花を愛でるとか、秋風の気配にふと心が鎮まるとか、拾ってきた子猫をかわいがるとか、幼い女の子がお人形遊びをするとか、だれにだって「小さな弱いものを庇護したい」という願いはあるではないか。そういう心のよりどころとしてこの国では天皇が祀り上げられてきたのだし、そういう心の持ち主が、安倍晋三小泉進次郎のことを「気持ち悪い」とつぶやいている。自意識に凝り固まった彼らは、他者を支配しつつ、他者の「心のあや」に気づく想像力がまるでない。そのつくりものじみた表情しかできないニヒリスティックな人間味のなさが、「気持ち悪い」のだ。

 

 

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いったい「他者性」とは何だろう?80年代のニュー・アカデミズムブームのころの柄谷行人は、「他者性とは差異=異質性のことだ」といっていた。その延長で現在では「多様性(ダイバーシティ)」などというようなったのだろうが、あのころのヨーロッパでは「他者とは神である」という議論もあった。

では「神」とは何か?

原始時代だろうと現在だろうと、世界中のどんな地域だろうと、人間社会の普遍的な「神」は「生きられないこの世のもっとも弱いもの」であり、そういう存在を生きさせ祀り上げてきたのがこの国の伝統であり、人類史はそうやって爆発的に人口を増やし、知能を進化発展させてきた。

人の心のもっとも純粋で本質的な「他者」とは、「生きられないこの世のもっとも弱いもの」である。

政治的に正しいとか正しくないとかと知ったかぶりして議論しながらいい気になっているだけでは、右翼であろうと左翼であろうと、民衆の心をひきつけることはできない。そんなことの前に、魅力的かどうかということが問われなければならない。

だれの中にも「人間性の尊厳とか美しさに触れたい」という思いはあるし、その思いを共有してゆくことの上に人の世が成り立っている。現在のこの社会はそうなっていないといっても、「その思い」を結集しないことには新しい社会は生まれてこない。既成の野党のように「政治的な正しさ」を競っていてもだめなのだ。

政治的な正しさを競って安倍晋三枝野幸男に代わっても世の中はたいして変わらないということを、民衆はもう直感的に悟ってしまった。人々は今、「人間性の尊厳や美しさに触れたい」という思いを共有させてくれるリーダーを待ち望んでいる。

だから、山本太郎とれいわ新選組のブームが起きた。それは、弱者救済の経済政策を前面に打ち出したといっても、だれの中にもある人間の本性としての「小さく弱いものを庇護したい」という思いに響いたからであって、困窮している人々だけが支持したのではない。また、困窮している人々にだって「庇護したい」という心は疼いている。

そうやってあの二人の重度障碍者が国会に行ったことに、みんなが拍手している。

人間性の自然・本質の上に立った人類普遍の政治原理は、「生きられないこの世のもっとも弱いものを生きさせる」ということにある。山本太郎とれいわ新選組はそのことを提起し、民衆がそれに賛同しながらブームが起きていったわけで、これはけっして一過性のバブル人気などではない。

そのブームは、選挙が終わった今でも続いているし、さらに拡大しつつある。この国のあちこちの場所で、今なお山本太郎が街宣に来てくれることを待ち望んでいる。

 

 

13

だれだって人間らしい心で生きたいという思いはあるし、山本太郎とれいわ新選組はそのことに気づかせてくれた。それを応援すれば、自分があたりまえの人間になったような心地になれる。あたりまえの人間でいれば生きられない社会にこうして彼らは、あたりまえの人間になろうよ、あたりまえの人間として生きられるような社会をつくろうよ、と呼び掛けている。

これは「人間とは何か」ということを問い直そうとする運動であり、時代はもう、そういう段階に差し掛かっている。

日本中が都市化してだれもがうまいものを食ってきれいな服を着て快適な暮らしをできるようになったが、同時にだれもが社会制度の歯車であるだけの存在になって、人間であることができなくなってしまっている。新しい時代を待ち望んでいるのは、困窮している者たちだけではない。

山本太郎とれいわ新選組のブームは、人間の人間でありたいという願いが結集して起きてきた。その勢いが、このあと既存の政治経済のシステムを信奉する者たちによって押し返されてしまうのかどうか。

れいわ新選組は、支持者の熱っぽさと同じくらい、右左問わず既存の勢力によるバッシングが今なお続いている。

勝者であろうと敗者であろうと現在はだれもがシステムの歯車であるほかない状況に置かれているわけだが、人間という生きものはそれですむのだろうか?「人間とは何か?」「人間の心とは何か?」……そういう問いは、だれもがその胸のどこかしらで抱いている。

われわれは、「人間であること」を取り戻せるのだろうか?

 

 

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キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。

天皇制と民主主義とれいわ新選組

天皇は、人間社会に対する「贈り物」であり「生贄」でもある。それはまた、人がこの世界に存在することの本質でもあり、天皇はそれをもっとも純粋に表している「象徴」的な存在なのだ。

日本人が天皇という存在を生み出したことは人類史の必然であり、天皇は人類共有の宝物である。だからこそ、「天皇は支配者として遠い昔の奈良盆地にやってきた」という嘘っぱちの物語をまことしやかに語るべきではない。それは、後世の権力者が、権力支配の都合のためにでっち上げたたんなる作り話にすぎない。

起源としての天皇は、古代以前の奈良盆地の人々が生み出し祀り上げていった奈良盆地の「宝物」のような存在だったのであり、支配者ではなく、「この世のもっとも美しい存在」であり「生贄」でもあった。

「生贄」とは、本質的には「神への捧げもの」であり、人間なら誰だって死んでゆく者を畏れ祀り上げる気持ちはある。罪人を処刑することだって、心の底ではそういう気持ちが起きている。だから、昔のさらし首や絞首台・断頭台に多くの人が集まってきたのだろう。ただ悪を排除してホッとしたいためだけではない。怖いもの見たさというか、死の尊厳に立ち会っている、という思いがどこかしらで疼いている。

したがって「生きられないこの世のもっとも弱い者」は、「死の尊厳」の象徴としてこの世に存在している。

さらには「美しいもの」もまたこの世の外の世界で生成しているのであり、「生きられないこの世のもっとも弱いもの」は、美の象徴でもある。

美しいものにときめくことは、心がこの世界の外に超出してゆく体験である。

人の心は、「この世」と「あの世」を往還している。人類は死を自覚する存在になったことによって、死者を埋葬するようになり、なおいっそう生きられない弱いものに手を差し伸べずにいられなくなり、さらには愛らしく美しいものに深くときめいてゆくようになった。それは、心がこの世の外の世界を夢見るようになった、ということだ。

 

 

原初の人類社会は、二本の足で立ち上がることによって、猿のようなボスリーダー制から決別し、無主・無縁の個体どうしのときめき合い助け合う関係をもとにしながらなりゆきのままに集団を運営してゆくようになった。つまり、ボスによって「庇護される」集団から、だれもが他者を「庇護する=庇護し合う」集団になっていったわけで、「庇護したい」という衝動によって人は人になっていったのだ。

まあ集団が100人200人の小さいときはよかったが、大きくなってくれば、さすがに集団をまとめるリーダーが必要になってくる。そのとき外からやってきた猿のボスのような支配者がいきなり命令してみんなを従わせるということなど、できるはずがない。何しろ、猿とは違う人間性の上に成り立った無主・無縁の集団なのだから、「命令に従う」という歴史など持っていない。であればそのとき、みんながあこがれやときめきを共有している対象をみんなで祀り上げていったのが、自然な歴史のなりゆきにちがいない。おそらく最初は、世界中どこでもそうだったのだ。

つまり、文明社会の発生以前のこと。文明社会になれば、呪術が生まれ、呪術師がリーダー=王になり、さらには戦争のときの軍隊のリーダーが王になっていった。しかしそれ以前の段階では、たとえばオオカミの群れのように、強くもなんともないが、みんながあこがれときめく対象がみんなによって選ばれていったはずだ。

縄文時代のように戦争などない時代に、猿の群れのような「強いものに従う」というような集団のかたちが生まれてくるはずがない。

人が人であることのゆえんは「庇護したい」という衝動を持っていることにある。

人は根源的にどのような対象にあこがれときめくか……これが、人類最初のリーダー像なのだ。それはおそらく、「現世的な強い者」ではなく、「庇護したい」対象としての「現世離れした愛らしく美しい者」だった。その「他界性=異次元性」こそ、人が根源においてあこがれときめく対象にほかならない。

人類の歴史が最初に選んだ集団のリーダーは、「もっとも強い者」ではなかった。そのとき人類には、「庇護されたい」という欲望などなかった。そんな欲望は、文明社会になって呪術や戦争が生まれてきてからのことだ。

原始社会は、「庇護したい」という衝動の上に成り立った「庇護し合う」社会だったのであり、そんな社会で人々があこがれときめく対象は、「愛らしく美しい者」であった。

「愛らしく美しい者」というなら、それは「処女=思春期の少女」であるにちがいない。現在の舞妓とか宝塚とかAKBとか、「処女=思春期の少女」は人類永遠の祀り上げる対象としての「女神」である。この時期の少女は、心がすでにこの世の外にさまよい出てしまっている。それはもう、原始人にもなんとなくわかるわけで、その気配を漂わせた姿に、彼女らの愛らしさと美しさと異次元性がある。彼女らは、この世のもっとも強いものよりもっと高貴で崇高な存在である。何より「庇護したい」対象でなければ、原始人は祀り上げはしない。彼女らの愛らしさと美しさは、はかない。人生の一瞬の輝きである。人は、それを「庇護したい」と思う。

「処女=思春期の少女」……人類の歴史が最初に祀り上げたリーダーは、「庇護してほしい」対象としての「もっとも強い者」ではなく、「庇護したい」対象としての「もっとも愛らしく美しい者」だった。

 

 

人類最初の集団のリーダーは、「処女=思春期の少女」だった。そしてその後の歴史においても「処女=思春期の少女」が「生贄」として選ばれ続けたのは、その名残だろうと思える。

ジャンヌ・ダルクを有名にした中世の「魔女裁判」とか、マリアの「処女懐胎」とか、人間世界の「処女」はつねに「女神」であり「生贄」でもあった。

ともあれ文明社会になって「支配=被支配」の関係が生まれてきたことによって、呪術の司祭である「王」が支配者として君臨するようになった。

しかし、もうひとつその前の段階がある。人類最初の支配者は、「母」である。

人類の集団が余剰のものを生産するようになれば、集団の象徴として選ばれた「処女」に人々が「捧げもの」をするようになってくる。そしてこの「捧げもの」を処女の「母」が管理するようになり、そのまま集団の支配者になっていった。

そういう愛らしく美しい娘を生んで育てたということは人々の尊崇を得ることになるし、この「母」によって、この「娘」を中心にした「祭り」などが仕切られるようになってゆく。

もともと「娘」にとっての「母」はいつだって「支配者」であり、「母」という女は先験的に「支配する」ということを知っている。

人類の集団が都市化してゆくときの、原始社会から文明社会に移ってゆく端境期においては、世界中どこでも「母」が支配者になっていたと思われる。

人類最初に「支配」の能力を身につけたのは「母」だったのであって、「王」ではない。「王」は、「母」の権力を模倣して登場してきたにすぎない。子供を庇護してやれば、子供を支配することができる。そうやって民衆を庇護することによって民衆を支配してゆくのが「王」である。彼は、民衆に「庇護されたい」という欲望=不安を植え付けることによって、民衆を支配してゆく。そして権力者のこの統治方法は現在まで続いているし、現在の歴史家はこの問題設定でリーダーの起源のかたちを考えることしかできていない。しかしそれ以前の歴史段階があったわけで、天皇の起源の問題は、文明発祥以前の歴史段階で考えられねばならない。何しろ日本列島の国家文明はどう長く見積もっても2000年以下なのだ。しかしそれ以前の弥生時代奈良盆地はすでに大きな都市集落を形成していたわけで、そこで祀り上げられていたリーダーは、民衆を庇護する「王=支配者」ではなく、民衆によって「庇護されるもの」であったに違いないのだ。

 

 

人間性の自然としての「庇護したい」という衝動……まあ鳥だってあたりまえのように雛を育てているし、若い雌の猿だって、生まれたばかりの子猿をかわいがることをしたがる。現在のこの社会は、そうした自然な衝動が健全に機能しているだろうか。そういう問題提起として、現在の若者たちのあいだから「かわいい」の文化のムーブメントが起きてきた。それはもう、人類史の必然だともいえる。だからそれが、「クールジャパン」として世界中に飛び火している。

現在のこの社会は、社会制度に「守られたい・庇護されたい・かわいがられたい・ちやほやされたい」という不安神経症的な欲望が満ち溢れている。それはもう、いちばん上の支配者から下層の庶民までみんなそうなのだし、もしかしたらこの国の総理大臣こそ、もっとも強いそうした不安神経症的な欲望の持ち主かもしれない。

まあ、今どきの右翼のナショナリズムなんて、「庇護されたい」という自意識の産物にすぎない。だから彼らは、どんなひどい国家も社会制度も、否定することはできない。否定しないことが彼らの存在基盤であり、国家や社会制度からこぼれ落ちていった人間は徹底的に否定し排除してゆくことによって、「自分は庇護されている」と確認している。

われわれは、現在の高度で複雑な文明制度によって植え付けられている「庇護されたい」という欲望を捨てて、人間性の自然としての「庇護したい」という衝動を取り戻さねばならない。

天皇は、「すでに庇護されている」存在であるがゆえに、けっして「庇護されたい」とは思わない。われわれもまた、そういう存在にならねばならない。誰もがそういう存在になるための社会のしくみとして天皇制が生まれ育ってきたのであり、天皇制はこの国の民主主義のよりどころなのだ。

われわれは、天皇ファシズムの道具にしようとする者たちから天皇を取り戻さねばならない。一部のオールド左翼のように「天皇なんかいらない」といっている場合ではない。天皇はこの国の民主主義にとってとても素敵な存在であり、われわれが愛らしく美しいものを愛でるような「庇護したい」という衝動を取り戻すための大切なよりどころなのだ。

天皇が愛らしく美しいのではない。愛らしく美しいものを愛でる心をもっとも深く純粋にそなえている存在なのだ。ほんとにそうかどうかということなどたいした問題ではない。この国は、天皇とはそういう存在であると思い定めて歴史を歩んできたのだ。

まあ「処女=思春期の少女」だって、この世でもっとも愛らしく美しいものを愛でる心を深く切実に抱えている存在であり、それが彼女らの表情やしぐさや立ち姿の愛らしさや美しさになっている。愛らしく美しいものは、この世の外の世界に存在する。天皇だって処女=思春期の少女だって、いわばこの世の外の存在なのだ。

 

 

人類の歴史が最初に祀り上げた集団のリーダーは、「この世のもっとも強い者」ではなく、「この世の外の世界の存在」だった。「この世の外の世界」こそ人類普遍の遠いあこがれであり、だから人は愛らしく美しいものを愛でたり祀り上げたりしてきた。

人は何かを「庇護したい」存在であって、「庇護されたい」のではない。まあ、幼児体験として「庇護されている」という実感が持てなかったからそういう欲望を持つようになる、という場合も多い。それは、ただたんに親から庇護されなかったというだけのことではない。「親に庇護された」という体験を大切な思い出のように執着すること自体がいじましいのであり、「庇護したい」という衝動を失っている証左であるともいえる。

この世の中には、さまざまな他者との関係において、「たがいに庇護し合う」という関係が生成しており、それは、「ときめき合う」という関係でもある。

人の心の「ときめき」は、「愛らしく美しいものを愛でる=庇護したい」というところから起きてくる。ときめき合う関係を持てないから、正義を振り回し、支配しようとしてくる。

ときめかれることなんかなくてもいい、ときめくことができるのなら、それで世界は輝いている。世界が輝いていれば、人は生きてゆける。人はだれもが一方的にときめいているのであり、「ときめかれている」ということなど確かめようもない。ときめく心を持っていることが、ときめき合っているということなのだ。

だれもが何かにときめいていれば、世界はときめき合っている、ということになる。

「庇護したい」という衝動は、「庇護されたい」という欲望の上に成り立っているのではない。それは、一方的な「ときめき」であり、無償の衝動なのだ。人の世は「交換」や「契約」の上に成り立っているのではない。無償の「贈与=ギフト」をせずにいられない「ときめき」が、人を人たらしめている。

親鳥が雛を育てて、どんな見返りがあるというのか。それは、自分の命を削っただけの行為だったのだ。しかし、この生を削ることの恍惚というものがある。この生を削ってこの生の外の世界を夢見ることなしに「ときめく」という体験は生まれない。「庇護する」ということには「この生を削る」ことの恍惚がともなっている。

「処女=思春期の少女」の「愛らしく美しいもの」に対する他愛ない「ときめき」は、自分を忘れて無意識のうちに自分の命を削っているひとつの自傷行為であり、彼女らは、存在そのものにおいてこの世界の「生贄」である。

「処女性」は人間性の根源のかたちであり、「処女性」はだれの中にもあるし、それこそが日本文化の伝統の本質なのだ。まあそういう意味で、国家や天皇に「庇護されたい」という今どきの右翼は「処女性」がなさすぎる。

「処女性」とは、「庇護したい」という衝動のことだ。だから小さな女の子はおままごとやお人形遊びをするのだし、思春期の少女は「愛らしく美しいもの」に他愛なくときめいてゆく。

今どきのネトウヨたちは、そういう「庇護したい」という衝動が希薄だから、無自覚に差別やヘイトスピーチに走ってしまう。

「対米従属」などといわれるように、現在のこの国では権力者がもっとも「庇護されたい」といういじましい欲望で生きているわけで、この悪しきというか倒錯した受動性は、下層の庶民や若者のあいだにも広がっている。

 

 

何度でもいう。「庇護したい」という衝動というか願いこそが人間性の自然であり、この国の伝統の本質なのだ。今回の参議院選挙で山本太郎が二人の重度障碍者を国会に送り込んだことは、もともとだれもが持っているはずの「庇護したい」という衝動を呼び覚ました。それだけでもう、社会制度に庇護され飼い慣らされながら停滞衰弱してゆくこの社会に風穴を空ける革命的な出来事だといえる。

国家制度に飼い慣らされて生きていた民衆に、意識の変化が起きはじめている。今がもっともひどい状況だが、だからこそ目覚めるときでもある。

「庇護されたい」などと思うな。国家など、どうでもいい。愛らしく美しい「小さな世界」を守ろう。その無数の「小さな世界」がきらきら輝いて集まっているのが国家であればいいのだし、そのために天皇制が機能しているのだとしたら、それはけっして否定されるべきものではないだろう。

人々の心に「庇護したい」という思いが共有されてゆくようにならなければ新しい社会は生まれてこないし、そうなってはじめて新しい社会になることの混乱にも耐えることができる。

新しい社会になれば、それまで既得権益に庇護されていた者たちがそれを失って大きな反撃を仕掛けてくるに違いない。それに負けたら、今よりもさらに強い反動化のファシズムが起きてくる。たとえば山本太郎が暗殺されて社会が一挙に暗転するとか、そんなこともあるかもしれない。

まあ今だって、保守系右翼によるれいわ新選組叩きは、かなりヒステリックだ。とはいえそういう反動勢力に勝てるのは、おそらく「愛らしくかわいいもの」や「小さな世界」を大切にしよう(庇護しよう)とする心の広がりであり、そのことにはどんな正義も正論も沈黙を余儀なくされる。それが日本列島の伝統であり、そのときのためにも、天皇制はあったほうがよい。

起源としての天皇は、「愛らしく美しいものを庇護したい」という人々の願いによって生まれてきたのであり、その願いとともに日本的な文化やメンタリティがはぐくまれてきたのだし、その願いこそがこの国の民主主義の推進力にならねばならない。

 

 

新しい社会を切りひらくためのリーダーは、「正しいもの」ではなく、「魅力的なもの」であらねばならない。

人類の文明制度は、「正義」という名の「正しいもの」に引きずられながら、こんなにも歪んだ世界を生み出してしまった。

文明社会における「正義」とは、「生き延びる」ことである。そうして近代の世界においては「生きものの本能は生きようとすることにある」と合意されてきた。

あのリチャード・ドーキンスでさえ「遺伝子のはたらきの根本原理は生き延びることにある」という問題設定をしているわけだが、おそらくそれは違う。命のはたらきの本質は、「命を消費する」ことにある。命を消費するために、個人の体においても生きものの世界においても、命はたえず再生産されてゆく。命のはたらきの最終的な目的は、命を消費することにある。そうやって生きものは死んでゆく。永遠に生き続けるなら「再生産する」ということになるのだが、死んでゆくのなら「消費する」ということが最終的なはたらきになる。「命を再生産する」こと自体が「命を消費する」というはたらきなしにはかなわない。ものを食うことは、口を動かし呑み込んで胃を動かすことであり、そうやって命を消費しなければならないわけで、それができなくなったら死んでしまう。

「庇護する」ことは、他者を生きさせるために「自分の命を消費する」ことである。鳥だって、そのようにして卵を温め雛を育てている。

「庇護する」ことは「ときめく」ことであり、「ときめく」ことは「自分の命を消費する」ことである。「ときめき」がなければ、「庇護しよう」という気にならない。「ときめき」こそが人類の人口を爆発的に増やしてきたのであり、学問の進化発展だって、問題を立てることの「ときめき」と答えを導き出すことの「ときめき」の上に成り立っている。「答えを導き出す」ことだって、本質的には「問題の中に隠された謎を救出する」という「庇護する」行為にほかならない。「ときめく」とは「庇護しよう」とする衝動なのだ。

まあ、山本太郎ほど「他愛ないときめき」と「庇護したい」という願いを深く豊かにそなえている政治家もいない。そうやって「生きられないこの世のもっとも弱いもの」である重度障碍者の二人を送り込んだわけで、彼は、民衆に向かって「みんなで<庇護したい>という願いを共有しよう」と呼びかけた。そうして民衆もまた、山本太郎のそんな人間的魅力に他愛なくときめき、それに応えていった。「応える」とは「庇護する」ということであり、相手の願いや呼びかけを「掬い上げる」ことだ。

ポピュリズムとは、「(国家に)庇護されたい」という民衆のいじましい欲望に付け込もうとすることで、それは「生きられない弱いものを庇護したい」という自分の思いを民衆に訴えた山本太郎の呼びかけとは真逆であり、そこに現在の政治のパラダイムシフトがある。

山本太郎は、ポピュリストではない。

 

 

れいわ新選組から立候補した安富歩はこういっている。

「れいわ新選組は左派ポピュリズム政党であるといわれているが、そうではない。れいわ新選組は、<左派>でも<ポピュリズム>でもないし、<政党>ですらない。それは、現在の社会システムからはぐれた<無縁者>の集まりである」と。

つまり、現在の社会システムを解体し新しく再生させるプランは、システムの外に立ってシステムを見ている者でなければ持てないし、だれもがシステムの外に立って「愛らしいもの=小さな世界」を見守る視線を持っている。彼の立候補の訴えは「子供を守る」ということで、「ポピュリズム」ではない、「普遍的」なのだ、ということだろうか。

山本太郎は「(現政権を)仕留めに行きます」といっていた。そして観衆が「おもしろい、やれ、やれー!」とはやし立てている。それくらい多くの民衆が現在の状況にうんざりしているし、彼らが求めているのは「正しい政治家」ではなく「魅力的な政治家」なのだ。枝野幸男から山本太郎へ……れいわ新選組を支持しているのは、庶民だけではない。多くの知識人からも評価されている。知識人だって、魅力的な政治家を待ち望んでいる。

人を動かすことができるのは、理性の上に成り立った「正義」ではない。マルクス主義は「正義」である。「正義」だからこそ、世界の社会主義国もこの国の戦後左翼も衰退していった。そうして皮肉なことに今や、保守とか右翼とか新自由主義を名乗る者たちがより声高に勝ち誇ったように「正義」を叫ぶ時代になっている。

つまり、「資本主義」という名の現在の社会システムは「正義」である、ということ。そのあげくに、ほんの一握りの富裕層によって世界全体が支配される仕組みになり、多くの民衆は心も体もそんな社会システムの奴隷になってしまっている。

こんなにも人間性の自然・本質から逸脱してしまったひどい社会システムなど壊してしまえ、と声を上げたらいけないのか?山本太郎とれいわ新選組はそう声を上げているわけで、そう声を上げたがっている民衆がたくさんいる。したがってそれは、何もSF未来的な「デストピア無政府状態」を目指しているわけではなく、「大きな政府」をつくりながら「人間性の自然・本質に帰ろう」と呼びかけているだけなのだ。そしてその「大きな政府」が、現在の右翼たちのように天皇を政治に利用しようとするのではなく、あくまで遠いあこがれととして祀り上げているだけであるかぎり、その「処女」のような他愛ない「ときめき」や純粋で誠実な政治スタンスは担保され続けるに違いない。

人間は「ときめく」生きものである。正義の時代は、終わった。

 

 

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キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。

選挙の総括・その2

現在のこの国の選挙状況は、わりと単純である。投票率が低ければ組織票を持っている与党の側が有利になり、高ければ反対票として野党の支持が多く集まる。

今回は、与党の側に有利な、まったく無風の選挙だった。それでもれいわ新選組は2議席を獲得したのだから、大健闘だといえる。彼らはテレビ新聞の報道から完全に締め出されていたから、圧倒的に不利な戦い方を強いられた。そのために無党派・無関心層に彼らの名前が浸透することは難しく、社会現象といえるほどのどこよりも熱っぽい街宣現場が実現されていたのも関わらず、それが全体の投票率を上げる効果を生み出すことはできなかった。というわけでけっきょく彼らは、与野党問わず既成政党の票を奪っただけだったらしい。

しかし、ここからがスタートだともいえる。この熱っぽい盛り上がりを、どこまで無党派・無関心層にまで広げてゆくことができるか。

立憲民主党は、前回の衆議院選において、大きな風を呼び込んだ。その勢いのまま推移していれば、今ごろは与党と拮抗する支持率になっていたはずである。しかしじっさいには、じりじりと支持率を下げていった。それは、党首に人間的な魅力がなかったからだ。善良な市民の顔をまき散らしながら、いったん獲得した自分たちの世界を守ることばかりに終始してきたからだ。そんな小市民根性で、大多数の民衆の支持を得られるはずがない。いずれは飽きられ、幻滅されてゆく。

民衆が望んでいるのは、「新しい時代の到来」なのだ。たとえ「このままでいい」と思っていても、心の底では「新しい時代の到来」を夢見ている。人間とは、根源においてはそういう存在ではないないだろうか。だから、猿のレベルを大きく超えて進化発展してきたのではないか。

優れた政治家とは、「新しい時代の殉教者=生贄」なのだ。山本太郎はまさしくそんな気配を色濃く漂わせているし、枝野幸男にはまるで感じられない。

人類は、普遍的に「救世主=メシア」を待ち望んでいる。「メシア」の語源の意味は「出現する人」ということにある。

前回の衆議院選挙のときの枝野幸男は、「枝野立て!」という民衆の声に促されてようやく立ち上がったのだし、そのときすでに同調する現職議員が7~8人いた。それでは「メシア」とはいえない。真に「メシア」であるなら、前原が小池百合子希望の党と合流すると決めたときに、「だったら俺はひとりでも党を立ち上げる」と宣言するべきだったのだし、山本太郎はまさにそのようにして小沢から離れ、徒手空拳で立ち上がった。そこに、この二人の政治家としての資質の差がある。

政治は、善良な小市民根性でするものではない。良くも悪くも偉大な政治家とは、「やくざな時代の殉教者」なのだ。

 

 

今回の選挙で山本太郎は、自分を犠牲にして二人の難病患者と重度障碍者を国会に送り込だ。それによって彼は、「男を上げた」と民衆に評価されるのだろうか。

選挙中、テレビはまったくれいわ新選組のことは報道しなかった。選挙が終わって、ようやく少しずつ報道されるようになってきた。選挙中に報道されていたら、れいわ新選組の名は、もっとも魅力的な人材が集まった政治集団としてもっと広く拡散していたにちがいない。

山本太郎は全国比例区で最高の得票をしたが、テレビに登場したのは選挙が終わってからだった。つまりテレビマスコミは、今回の選挙の最大のスターのことを、まったく報道しなかったのだ。

テレビ局がたくさんの利益を上げるためには、政権の庇護を受け、スポンサーの利益の邪魔になる報道は避けなければならない。利益を上げるためには、れいわ新選組のブームがどんなに盛り上がっても報道してはならなかった。

正しく報道することより、利益を上げることのほうがテレビ局や新聞社の第一義的な使命であるらしい。

コストパフォーマンスの時代で、利益を上げることこそが正義なのだ。まあテレビ局や新聞社の上層部の年寄りはそんなことしか興味がないし、地位のある年寄りたちが若い者たちを支配することが正義の時代なのだ。たくさん収入があれば偉くて、そういうものが少ない収入の者を支配するという社会システムが出来上がっている。

年寄りがのさばる社会なんか、ろくなもんじゃない。

もともとこの国には、そんな社会システムはなかった。天皇がそうであるように、年寄りはみんなから「祀り上げられる」存在であって、「支配」する存在ではなかった。

むかしは人の寿命があまり長くなかったから、30歳代の者たちが中心になって社会を運営していた。江戸時代くらいまでは、50歳になったらもう息子に家督を譲って隠居するのが普通だった。

年寄りの価値は「長生きした」ことにあるのであって、「金がある」からでも「知恵がある」からでもない。そういう人類史の偉大な常識というか真実を、現在の高度資本主義社会は覆してしまった。

年寄りの価値なんて、「長生きした」ということ以外に何があるのか。しかしそれは、山本太郎がいうように「人は生きているだけで価値がある」ということでもある。すなわち、他者を生きさせようとすることこそ人間性の自然・本質であり、それによって人類の歴史は進化発展してきたのだ。れいわ新選組から二人の重度障碍者が国会に入ったことは、われわれにそういう人としての原点に気づかされるきっかけになるに違いない。そうしてここから、だれもがときめき合い助け合う新しい社会を生み出す動きが起きてくる。

今はまだ、新しい動きの兆しが生まれてきた、というレベルかもしれない。だったら、次の衆議院選挙こそが、れいわ新選組の正念場になる。

 

 

新しい時代の到来を信じる心は必要だ。

人の心が社会をつくるのでない、社会という環境世界が人の心をつくっている。

社会という環境世界が歪んでしまえば、人の心も歪んでしまう。逆にいえば、社会の環境が清らかになれば、人の心も清らかになる。

だから山本太郎は、清らかな社会環境にしようとして、まず重度障碍者の二人を国会に送り込んだ。彼はこのことを「国会に地雷を埋め込む」という言い方で表現したが、その本意はようするにそういうことだ。あの二人を前にして与党の議員たちは、これからも次々に出されてくるであろう弱者いじめの法案を堂々と正義面して強行採決することができるか。山本太郎は、ひとまずそういう挑戦状をたたきつけた。それでも強行採決するのだろうが、中にはいささかの後ろめたさを覚える人間的な感情を持った議員もいるだろうし、そこから少しずつ壁が壊れてゆく。

人間性の自然・本質とは何か?あの鈍感で冷血非道な議員たちにまっとうな人間らしい心を取り戻させなければならない。あるいは、そういう議員たちはみな退却していただかねばならない。

「三つ子の魂百まで変わらず」といい、人の心はなかなか変わらないが、いかようにも変わることができるのが「三つ子の魂」である、ともいえる。われわれは、自分の中に「三つ子の魂」を大切に守り育てているだろうか。まあ、人の心は社会環境によっていかようにも変わる、というのはそういうことだ。

社会の制度にフィットして生きてきた人間は、たとえ清らかな心を持った理想主義者の人であっても、社会が変わることに対してどうしても悲観的になってしまう。変わってほしいけどそうかんたんには変わらないだろう、と悲観してしまう。

一方、社会の制度からはぐれて生きてきた人間は、もともと社会の制度に縛られていないから、「社会なんか一夜にして変わる」と想像することができる。だから、新しい社会が生まれてくるためには、そういう「やくざ」な心を持った政治家を必要とする。

社会の制度にフィットして生きてきた人間は、どんなに清らかな魂を持った理想主義者であっても、新しい社会を構想することはできても、その実現を信じることはできない。そこが、「かたぎのマイホームパパ」である枝野幸男の限界と、「やくざな天才」である山本太郎の可能性の違いなのだ。それはもう、両者の行動力や決断力の差となってちゃんと表れている。

良き堅気の市民である枝野幸男の政治思想の基礎は、人間社会は民衆すなわち一般的な凡人がよりよく生きるために存在する、ということにある。

いっぽう山本太郎の思考や行動は、人間社会は「生きられないこの世のもっとも弱い者」を生きさせるために存在する、という直感的な認識の上に成り立っている。他者の命にわが身を捧げるということ、そこが彼の「やくざ」なところであり、人間はもともと「やくざ」な存在なのだ。まあそうやって生きものは子を産み育てているのだから、それはもうこの世界の普遍的な原理であり、人類はその能力を特化させることによって人口を増やしながら進化発展してきたのだ。

れいわ新選組の二人の障碍者の国会議員だって、社会のシステムからこぼれ落ちた「やくざ」な存在であり、彼らの新しい時代を切りひらこうとする心意気に期待したい。この国の伝統は、新しもの好きの「進取の気性」にあるし、彼ら自身が国会の新しい存在だ。

秀才のマイホームパパである枝野幸男ではだめだ。彼には「進取の気性」がなく、後ろ指をさされることを怖がっているところがある。いつだって「自分の世界」を守ろうとしているだけで、そんな小市民根性で新しい時代を切りひらくことなんかできるはずがないし、たぶん彼は小市民根性を守るのが政治だと思っている。

 

 

与党の醜悪さは言うまでもないが、立憲民主党にも、ほんとにがっかりさせられた。そんないじましい小市民根性で政治をしてくれるな。「心意気」を見せなきゃ、民衆の支持なんか得られるはずがない。

小市民根性の者たちは、みんな自民や公明や維新に投票しているのだ。

怒れる民衆は、たとえ「小市民」の身分であっても、小市民根性に閉じこもってなんかいない。小市民根性と庶民感覚は同じではない。たとえば、「江戸っ子かたぎ」とか「道産子魂」とか「九州男児」とか、それらの言葉は小市民根性を象徴しているわけではないだろう。また、日本列島伝統のメンタリティの基礎になっている「あはれ・はかなし」の美意識や「たおやめぶり」ということだって、いじましく「小市民」という自分の立場に執着しているのではなく、「寄る辺ない身」の「嘆き=かなしみ」の上に成り立っている。

この国の伝統においては、「男らしさ」であろうと「女らしさ」であろうと、わが身を投げ捨てて他者に献身してゆくことが理想とされているのであり、そこにこそときめき合い助け合う「庶民感覚」の神髄がある。

選挙が終わってれいわ新選組をヒステリックに攻撃しているチャンネル桜をはじめとする右翼たちも「何をそんなに焦っているのか」という感じだが、この国の左翼だって、どうやらもうすでにもう終わっているらしい。けっきょく彼らの小市民根性によるいじましくも正義ぶった市民民主主義の言説が、人々の政治離れを招いた。市民エゴ、そういうナルシスティックな自意識過剰の政治に、だれが参加しようとするものか。彼らは、選挙に行かない者たちを選挙に行かせることはできなかった。自分たちの正義を確認するために政府を非難しているだけだもの、だれがそんな運動に参加するものか。彼らには「他者」がない。「市民」という枠からこぼれ落ちた者たちに対する視線が希薄だった。

まあ左翼的市民運動のリーダーたちのほとんどは自意識過剰のナルシストばかりで、「市民」であることが正義だと思っている。

正義は、「自分」のもとにあるのではない。自分が手を差し伸べようとする「他者」のもとにある。

政治は、「市民」という名の「凡庸な健常者」のためにあるのではない。「生きられないこの世のもっとも弱い者」のためであらねばならない。そうやって山本太郎は、左翼的市民運動の限界を突破した市民運動を模索している。

たぶん山本太郎は、この次の衆議院選挙でも枝野幸男立憲民主党の立場を守ろうとして消費税減税の方針をとらないのなら、けっして手を組むことはしないだろう。そうしてN国党も国民民主党も与党にすり寄ってゆくのなら、れいわ新選組の立ち位置の鮮やかさはさらに際立ってくる。

孤立無援は、悪いことばかりではない。民衆の支持は、いっそう盛り上がる。

 

 

山本太郎は、人々の心の中の人間性の自然・本質に訴えてブームを起こした。その政策論の説得力もさることながら、何より彼をはじめとした候補者たちの人間的な魅力こそ、そのブームの原動力だった。

ただ残念なことに、この国の支配者たちの圧力によって、マスコミの報道からは完全に締め出されていた。だから、そのブームが起きていたことを知らない人がたくさんいた。マスコミが報道して知れ渡っていたら、もっと大きく躍進したに違いない。

今回、「市民連合」という左派リベラル的な全国組織は、既成の野党共闘に応援した。それでまあ「一定の成果はあった」などといっているが、そもそも投票率が5割を割ったということは、市民連合野党共闘も完全に失敗した、ということを意味する。既成の野党になんの魅力もなく、無党派層や無関心層を選挙に呼び込むことがまったくできなかった。

市民連合のリーダーたちは立憲民主党にはこれからも頑張ってもらいたい、などといっているが、彼らは、枝野幸男に代表される「善良な市民」のエゴイズムがいかにたちの悪いものかということをまるでわかっていない。それこそが戦後左翼の衰退の元凶であり、彼らが期待したのはおそらく民主党の再編成なのだろうが、枝野幸男玉木雄一郎も、わが身可愛さだけで、山本太郎のような自分を捨てて「状況」の中に飛び込んでゆこうとするような「心意気」など何もない。

女房子供を連れてカラオケに行って気持ちよさげにAKB を歌っているような人間に、命がけの政治なんかできるはずがない。

 

 

金融資本主義のせいかどうか知らないが、今や世界の構造そのものが狂ってしまい、人の心も歪んでしまっている。

歪んで狂ってしまっているのに、「このままでいい」と思っている人たちがいる。

たとえば現在の権力機構が10パーセントの最底辺の人々を切り捨てて国家を運営してゆこうとしているのだとすれば、それ以外の90パーセントの人々は「このままでいい」と思うことができる。そうやって醜悪なネトウヨたちが権力のお墨付きをもらったような顔をして騒いでいるわけだし、そういう思いは、濃淡はあるとしてもだれの中にもいくぶんかは巣食っている。おそらくそれが、このひどい状況を動かないものにしてしまっていたりするのだろうが、「このままでいいはずがない」という思いだって、同じようにだれの中にも息づいている。「このままでいい」というのが民意であるのなら、「このままでいいはずがない」というのも民意なのだ。最底辺の人々だって、「このままでしょうがない」というあきらめと、「このままでいいはずがない」という怒りの両方を抱えている。

人間の社会は、けっして「よい社会」にはならない。なぜなら「困っている」状態が生きてあることの正味のかたちで、「困っている」ことを受け入れてしまう存在だからだ。「困っている」ことが生きてあることなのだ。

だからつねに「よりよい社会」をつくろうとしているわけで、人間は永遠に困りつつ、永遠に「よりよい社会」を困ろうとしてゆく。

「このままでいい」なんて、とても非人間的な思いであると同時に、「このままでいい」と思ってしまうのが人間なのだ。

この社会が狂っていることはしょうがないことだが、「狂っている」と自覚しなければならない。自覚できるのが人間であり、自覚できないで充足しているなんて、とても非人間的なことだ。そして現代社会は、自覚できないで充足させてしまう構造になっている。自覚できなくさせるような制度が巧妙に張り巡らせている。そのようにしてネトウヨのような者たちが生まれてくるわけで、彼らは、狂っているのは社会ではなく、「狂っている」と自覚している者たちだ、という。

しかしどう考えても狂っているわけで、そう自覚している者たちが山本太郎の街宣に熱狂する。

人間の社会は、「よい社会」など永遠に実現しない。だからこそ、永遠に「よりよい社会」を目指し続ける。また、「ひどい社会」であっても受け入れるのが人間であるのだから、「ひどい社会」になってしまってもかまわないのだ。つまり、消費税を廃止したり国債を発行したりしたらひどいことになる、などといっても、それが「困っている」人を救うことになるのなら、するべきだし、してもいいのであり、ひどいことになってもいいのだ。

外国では、たえず政権交代が起きて、景気が良くなったり悪くなったりしている。それでいいのだ。たとえ景気が悪くなっても、人間の社会にはしなければならないことがある。それは、「生きられないもっとも弱い者」を生きさせることだ。それは人間社会の在り方の普遍的な大前提であり、山本太郎はそのことを訴え、民衆が拍手している。拍手するのが、人間性の自然・本質なのだ。

 

 

山本太郎は、「この社会の困っている人に手を差し伸べる政治をします」と誓って選挙活動をしてきた。ほんとに困っている人なんか5パーセントか10パーセントだといっても、じつはだれもが生きてあるというそのことに「困っている人」であり、ほんとに困っている人に手を差し伸べることはみんなに手を差し伸べることでもある。そして、だれもが「困っている人に手を差し伸べたい」という願いを心の底に持って生きている。みんなで助け合わなければ、人間の社会なんか成り立たない。

そこで、れいわ新選組が国会に送り込んだ重度障碍者すなわち「生きられないこの世のもっとも弱い者」である二人が、障碍者問題に対して「このままでいいはずがない」と主張すれば、人々はどのように反応するだろうか。「障碍者エゴ」だと反発するだろうか。それとも「その通りだ」と賛意の声を上げるだろうか。その主張にわれわれは、わが身のことのようにして受け止めることができるだろうか。そして彼らに対して「どうか生きてくれ」と願うことができるだろうか。

少なくともれいわ新選組の支援者たちは、「生きられないこの世のもっとも弱い者」としてのこの二人の当選を熱狂して喜んだ。彼らは、まさしくこの世界に突然出現した「メシア=救世主」だった。「メシア」とはこの社会の「生贄」であり、すべての「生贄」は「メシア」である。重度障碍者として生きて死んでゆかねばならないなんて、まさに人の世の「生贄」である。彼らは神の死者であると同時に神への捧げものである。現在のあのひどい国会のあのひどい議員たちは、彼らをどのように迎えるのだろう。

「生贄」がこの社会の存続のために死んでゆくものであるということは、彼らが他者に「どうか生きてくれ」と願いながら死んでゆく存在であることを意味する。だれのなかにもあるそういう思いの象徴=形見として、彼らは死んでゆく。われわれはこの二人の重度障碍者を前にして、自分の中にも他者に「どうか生きてくれ」と願う人間性の自然が息づいていることを確認している。

人類の歴史は、他者に対して「どうか生きてくれ」と願うことによって人口を増やしながら進化発展きたのだし、その人間性の自然・本質としての心を結集しながらみんなで投票に行けば、真にこの国の伝統にかなった新しい社会が生まれてくる出発点に立つことができるのだろう。

 

 

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キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。

選挙結果…かなしみは深く、怒りはくすぶったままだった

けっきょくそういうことだったのかなあ、と思う。

いつどんな時代であれ、人の心に「かなしみ」は深く息づいている。

生きてあることの「かなしみ」こそが人類の歴史を進化発展させてきた、と僕は思っている。それはもう、直立二足歩行の起源のときから考えてもそうだったのだ。原初の人類が二本の足で立ち上がることは、猿としての能力すなわち生きる能力そのものを「喪失」する体験だったのであり、その「喪失感=かなしみ」を埋めるようにして進化発展してきたのだ。

「喪失感=かなしみ」を抱きすくめるということ、そうやって民衆は権力者に支配されることを受け入れてゆく。それはもう、古代から現在までずっとそうだ。

民主主義とは「民衆が支配する」ということではない。民衆は支配者にはならないし、なれない。民衆とは支配されることの「喪失感=かなしみ」を抱きすくめているものであり、何よりわれわれは、この世に生まれてきてしまった、という「喪失感=かなしみ」を抱きすくめながら生きている。

今回の選挙の投票率が48・8パーセントだったということは、民衆の「かなしみ」は深く沈潜し、「怒り」はくすぶったままでいる、ということを意味している。その思いが表面にあらわれてこないことには、れいわ新選組のさらなる躍進はない。

けっきょく、いつも選挙に行っている人しか投票しなかったのだ。自民党の得票数なんか、全有権者の20パーセントにすぎないし、既成の野党の得票だってとくに増えたというわけでもない。

どうしてこんな無風の選挙になってしまったのか。

与党の側の作戦が功を奏したということもあるが、既成の野党に風を起こすだけの魅力がなかったからだ。

 

 

とくに立憲民主党枝野幸男には、ほんとうにがっかりした。自分たちの党勢を拡大することだけを考えて、新しい風を起こそうとする努力をまるでしなかった。

きちんとした野党共闘をするためには、すでに国民から見放されている国民民主党なんか潰してしまうべきだったし、共産党とのちゃんとした信頼関係を構築するべきだった。世の中には共産党に対する拒否反応がまだまだ強く残っている、などといわれるが、それは保守勢力のプロパガンダであって、野党に好意的な者たちはそれほどでもないし、立憲民主党が率先して手を組んでいけばそんなアレルギーもいよいよなくなってくる。しかし当の立憲民主党には、わが身を捨ててでも野党の共闘関係を構築しようとする意気込みがまるでなかった。お利口ぶって「他党のことには関知しません」だってさ。ばかばかしい。

僕はこれまで立憲民主党の党首や幹事長の記者会見はずっとYOUTUBEで見てきたが、もう見る気もしなくなってしまった。

けっきょく枝野幸男は、公的にも私的にも「自分の世界」を守ることしか考えていない。政治は、どんないい人だろうと、そんなマイホームパパのするものではない。そんな正しい人格者がするべきことではなく、もっとやくざな世界なのだ。一瞬先は闇の、地雷の上を進むような心意気のある人間、すなわちわが身を投げ捨ててでも何かを成し遂げようとする「勇敢で魅力的な人間」に託されるべき世界であり、それはもう歴史が証明している。アレキサンダーでもシーザーでもジャンヌ・ダルクでもナポレオンでも織田信長でも、みんなそうではないか。彼らみな、「英雄」であると同時に、歴史の「生贄」でもあった。そういう「生贄」になろうとする心意気が、山本太郎にはあって、枝野幸男にはまるでない。立憲民主党の党勢はわずかに拡大したが、けっきょくむざむざと自民党に勝たせてしまった。「万年野党でいるつもりか!」と山本太郎が怒るのも無理はない。

山本太郎は、既成政党の右からも左からも袋叩きにあいながら、それでも困窮する民衆のために立ち上がろうとした。政治にはそういうやくざな心意気が必要なのであり、そこに多くの聴衆が感動した。

ここまで来たらもう、選挙に行かない民衆の感動を結集して選挙に行かせなければ、このひどい世の中は新しくならない。

 

 

東浩紀が「れいわ新選組の消費税廃止論なんてまるで実現するはずのないことを掲げて民衆を煽るポピュリズムだ」といっていたが、たとえ有名なインテリであっても経済学においてはただのド素人にすぎない人間が、何を偉そうなことをいっているのだろう。

現在の積極財政論やMMTの経済政策論は、プロ・アマ問わずこうしたわけしり顔の「実現不可能」という言説によって、寄ってたかって批判され続けている。つまり、アマチュアのくせにそのようなしゃらくさいことをいいたがることこそ、どうしようもないポピュリズム以外の何ものでもない。つまり「消費税廃止不可能論」こそ、アマチュアでも容易に飛びつくことのできるポピュリズムなのだ。

現在のMMTは、貨幣や金融の本質をちゃんとわかっていないことには理解できない理論であり、知ったかぶりのド素人が既存の俗説を振り回してどうのこうのといえる話ではないらしい。

れいわ新選組における経済問題のエキスパートである安富歩も大西つねきも、消費税廃止に「実現不可能」という理論的な問題など存在しないといっているわけで、そもそもこれは世界中の経済学者を二分している問題なのだ。

また山本太郎にしても、どのようにして廃止してゆくかということをこと細かく説明しており、ただの口から出まかせのほら話のようにおもしろおかしく煽り立てているわけではない。何がポピュリズムなものか。とくに現在の金融経済のしくみをどうするかということは世界中の経済の専門家たちが等しく直面している問題であり、これはもう「人類社会はどのようにして成り立っているのか」という哲学の問題でもある、と安富歩や大西つねきはいている。彼らがなぜ山本太郎の誘いに応じたかといえば、東浩紀より山本太郎のほうがずっと高度に哲学的な思考をしている存在だからだ。

まあポピュリズムとは「生きられる凡庸な健常者(=市民)」たちが自分たちをより生きやすくさせるための自意識過剰のエゴイスティックな思想であり、それに対して山本太郎は、わが身を捨てて「生きられないこの世のもっとも弱い者」たちが生きられる社会の実現を目指しているわけで、「政治家がこの理想=ヴィジョンを失ったらおしまいではないか」といっている。

 

 

安富歩がいうように、たしかに現在のこの社会は狂っている。

愚かな総理大臣がいて、そのまわりに権力の甘い汁を吸おうとしたり自分の立場を守ろうとしたりする者たちが群がっているという景色も吐き気がするほど醜悪だが、さらにその下には充足しきった「凡庸な健常者(=市民)」のエゴイズムやナルシズムがうっすらと層を成して広がっているのも大いに気味が悪い。まさに現代の社会システムの、「スリラー」であり「オカルト」だ。

あんなにもひどい権力者たちがいてこんなにもひどい世の中になってしまっているのに、それでもまだ変わろうとする動きが大きくなってこない。もちろん社会現象としてれいわ新選組は大健闘したが、投票率の低さとともに既存の社会システムは安泰のままの選挙結果になっている。

残念ながら、れいわ新選組といえども、選挙に行かない無党派・無関心層を呼び込むことはできなかった。それは、彼らがあまりにも政策にこだわりすぎたということもある。四方八方から「実現不可能」だと揶揄され、それに対する反撃の政策論的説明に力を入れすぎた。そういうことはもちろん国会等の議論の場では必要だが、熱っぽく盛り上がる街宣の場においてはもう、「政権をとれば必ず実現できるのです」といっておけばよいだけだったのかもしれない。

なんといっても選挙はひとつの「祭り=フェスティバル」であり、その「賑わい」を盛り上げるためには、山本太郎をはじめとする各候補者たちの人間的な魅力をもっと浮き上がらせるべきだったのかもしれない。ほんとうにそれぞれが、人としてとても魅力的(チャーミング)だった。だれもが世間の風やしがらみにもまれて生きてきた人たちなのに、だれもが純粋で美しい魂を失っていない人たちだった。つまり、現代社会のシステムに心の芯が汚されていないというか、そういう部分は実は誰の中にも残っているはずであり、すでにそこにおいて共感の輪が広がりはじめているともいえるし、もっと広げないといけない。

 

 

人々の心の中に残る純粋な魂、すなわち民衆の「怒り」と「かなしみ」が露出してこなければ新しい世の中にはならないわけで、そういうことが起き始めている兆候としてれいわ新選組のブームが起きた。

残念ながら今回の選挙では既成勢力の壁にさえぎられて奇跡を起こすまでには至らなかったが、彼らの選挙活動に参加した人々は決して悲観も絶望もしていないに違いない。風穴は、確かに空いたのだ。現在の社会システムの醜悪さと不条理に人々は気付きはじめている。

彼らは、この世の美しいものとしての弱いものや子供や自然との関係を大切にしよう、取り戻そう、と訴えたのであり、それに多くの人々が共感した。そういう関係を壊してしまっていいはずがないし、壊してしまっている人間たちが大きな顔をしてのさばっているなんて、変ではないか。そういう世の中だから、ネトウヨたちがまるで正義の側に立っているかのような顔をして恥ずかしげもなくヘイトスピーチフェイクニュースをまき散らしている。

どうしてこんなひどい世の中になってしまったのだろう。

社会のシステムに呑み込まれてどんよりと充足してしまったら、新しい社会など生まれてくるはずがないし、かなしいことにそんな若者たちもたくさんいる。れいわ新選組は、そんな若者たちを覚醒させることができるだろうか。たしかにどうしようもない若者だが、若者は大人よりもずっと「可塑性」を持っている。彼ららは、これからどんどん変わってゆくのだ。今の若者たちの40パーセント以上が与党支持だといっても、彼らが10年後も同じだとは限らない。

ともあれ現在の総理大臣をはじめとして、あのどんよりと充足してしまっている者たちの振り回す正義なんて、ほんとうにろくなもんじゃない。

こんなひどい世の中の正義なんて、正義であることそれ自体が醜悪で愚劣なのだ。

日本人であることを失った者たちが「日本人に生まれてよかった」と大合唱してやがる。

日本人である前にひとりの「人間」ではないか。人間である前に一個の「生きもの」ではないか。そこまでさかのぼることができるのが、この国の文化の伝統であり、「日本人」なのだ。

 

 

明治の初めにこの国を訪れたイギリス人の旅行家であるイザベラ・バードは、「この国は国土そのものがひとつの美しい庭園になっている」と書き記している。なのに今や、その「美しい庭園」を経済発展等の名のもとにさんざん壊しまくっている。それはきっとこの国の心を壊していることでもあるのだろうし、壊れてしまった心で壊している。壊すことが正義だと思っている。

なんと醜悪であることか。

差別することが正義だと思っている。

なんと醜悪であることか。

金儲けをすることが正義だと思っている。

なんと醜悪であることか。金持ちが百億円儲けようと貧乏人が10万円働いて稼ごうと、それを正義だと思えば、どちらも醜悪なのだ。貧乏人が汗水流して働いて稼ぐことはいけないことではないし、するしかないことではあるが、正義だと思うことは醜悪だ。正義だと思っているから、年を取って働かなくなると、途端にぼけてしまったりする。働くことから解放されることを怖がっている中高年は意外に多い。そうやって現代社会のシステムから追い詰められ、心も体も壊されてしまっている。

人間なんか、生きていればいいだけなのに。

彼らには、人がこの世に生きてあることに対するときめきや感動がないのだろうか。われわれは、この社会のシステムからそういうときめきや感動が起きないように飼育されてしまっているし、もう一方の飼育されない野生の心を必死に押し殺して生きている。

だれだって死ぬのだから、だれの中にも「生きもの」として野生の心は息づいているはずなのに、現代人は、高度で複雑に張り巡らされた現代社会のシステムの奴隷になってしまい、生まれたばかりの子供のような「野生の心」を失っている。

「野生の心」は、嘆きかなしむ。そして怒り、そしてよろこびときめく。これを「喜怒哀楽」という。この心模様のあやを生きることが日本列島の伝統のはずなのに、現代人は嘆きかなしむことも怒ることもよろこびときめくことも忘れてしまった。街の景観も街が動いている仕組みもそして街の人の心も、どんどん無機質になってきた。そうして、あんなにも愚劣で醜悪な政権に支配されてしまっている。

現代の社会システムは、愚劣で醜悪な政権を生み出すような仕組みになっている。

それでも人が人であるかぎり「野生の心」が消えてなくなるはずがないのであり、現在のこの社会のシステムや現在の政権の醜悪さに人々が気づかないはずがない。醜悪なものに耐えられないのが、日本列島の伝統なのだ。そういう国の候補者であるれいわ新選組の面々は、「もはや世界的に気づきはじめている」と訴えた。

 

 

山本太郎のすごいところは、変な希望的観測はしない、ということにある。「できそうだからやる」ではなく、できるできないを度外視しながら、ただもう純粋に「やるしかない」「やらずにいられない」と思ってやっている。

ほんとうに寄付金が集まるかどうかわからないままたったひとりで党を立ち上げた。そうして選挙間近になって資金のめどが立ち、そこからようやく候補者選びをはじめて10人を立候補させた。候補者たちは、以前から約束を取り付けていたわけではなかったし、三井義文にいたっては初対面の相手だった。ここまではライブ(=即興)でやってきました、と彼はいった。それが可能だったのは、わが身を捨てて活動している彼の人間的な魅力だったのだろう。

特定枠に二人の重度障碍者を置いた。そんなことをしたら自分が当選できるかどうかわからなくなってしまうのに、それでもそうせずにいられなかった。自分が当選することよりもこの二人が国会に行くことのほうがもっと大きな意味と意義がある、と思った。もう、後先(あとさき)かまわずそう思った。

 

 

「ライブ=即興」こそ、人間性の本質なのだ。ほかの動物は、あらかじめ与えられてある能力の範囲で生きている。しかし人間は、思わぬひらめきを獲得し、新しく生きなおすことができる。そうやって進化発展の歴史を歩んできたのだし、何はともあれ原初の人類は、二本の足で立ち上がって新しく生きなおしたのだ。つまり彼らは人類史でもっともラディカルでダイナミックに「新しく生きなおす」ということした人々だったのであり、人類が進化発展することはその起源に戻るということでもある。人類史においては、起源こそ究極の未来でもあるのだ。問題に気付き問題を立て、その答えを発見し導き出すことは、「新しく生きなおす」ということだ。

あらかじめ決められてある解答(=計画)に向かって生きるなんて、猿がしていることと同じなのだ。にもかかわらず現代社会においては、そのように生きねばならない仕組みになっている。あらかじめ決められてある解答を書き込むことしか能のない秀才エリートがつくっている社会なのだもの、そうなるに決まっている。

われわれは、この閉塞状況を打ち破って新しく生きなおす道を発見することができるだろうか。秀才エリートに任せたら、この状況はますますひどくなってゆくというか、秀才エリートに任せたから、こんなことになってしまったのだ。

その答えは、おそらく「生きられないこの世のもっとも弱い者」のもとにある。だから山本太郎は、特定枠に重度障碍者の二人を起用した。

人間の社会は、生きることができる健常者の凡人たちのためにあるのではない。生まれたばかりの赤ん坊や死を間近にした老人や病人や障碍者のような「生きられないこの世のもっとも弱い者」のためにある。そういうものたちを生きさせようとして人類の歴史は進化発展してきたのであり、それは彼らがかわいそうだからではなく、彼らこそが生や死の真実を知っている者たちであり、神にもっとも近い存在だからだ。生や死の真実を知りたいという人間の願いは、彼らを生きさせようとせずにいられない。

彼らは、存在そのものにおいて、この世の「差別」の醜悪さを告発している。現在の社会システムの不条理と停滞を告発している。その不条理と停滞と醜悪さを克服してゆくための答えは、われわれが彼らのことを思うその向こうに横たわっている。

 

 

何はともあれ、「ひどい世の中だ」と思わなければ何も始まらない。平然と差別することが正義であるかのような顔をしてまくしたてることができる世の中なんてろくなもんじゃないし、差別する側の人間たちが支配している世の中なのだから、そうなるのも当然のことかもしれない。だからこそ、あの重度障碍者の二人が「神の死者」として国会に入ってゆくことには、大きな意味と意義がある。

われわれの社会は、新しく生きなおすことができるだろうか?

なんのかのといっても、現在の情況に気づかなかったり見て見ぬふりをしたりしながら「このままでいい」と日和見を決め込んでいる者たちもたくさんいる。そんな停滞しきった「リア充」を生きる者たちがつくる大きく厚い壁が立ちはだかっているが、まずは山本太郎とれいわ新選組がそこに風穴を空けてくれた。

山本太郎のように、泣きながら怒れ、そして突っ走れ。この停滞と不条理は、人間性の真実によって突破されねばならない。人類の進化発展は、希望や計画によって起きてきたのではない。それは、今ここの「嘆き=かなしみ」と「ときめき」によってもたらされたのであり、そこにこそ人間性の自然・本質がある。

今回の選挙結果を受けて「日本死んだ」とか「日本終わった」というような声も多く聞かれるが、山本太郎とれいわ新選組に民衆の熱い支持が集まってゆくかぎり、「人間」はまだ死んでいない。

 

 

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です。

選挙が終わった

選挙が終わった。

風穴は空いたか?

空いたような、そうでもないような、途方に暮れるような、やっぱり置きざりにされているような、そんな気分が残った。

まあ、右翼陣営であれ左翼陣営であれ、保守陣営であれリベラル陣営であれ、ほぼ既成政党の目論見通りになった。彼らは、ホッと胸をなでおろしているに違いない。

この世の中は選ばれた者たちの作為によって動かせるということ、人類史のそういう流れに対して僕は、なんだかやっぱりやりきれない、という思いが残った。

この社会のシステムに乗っかっている者がこの社会を作為的に動かすことができるということ、それじゃあつまらない。思いがけないことが起きるのが人生であり人の世の常ではないのか。それによって人々の感情や思考が揺り動かされ、進化発展してきたのが人類の歴史ではなかったのか。

つまり、あたりまえの人の世ではなくなってしまっているということ、世の中を動かす民衆の力が衰弱・退廃してしまっている。

そりゃあ、投票率が48・8パーセントなら、そうなるに決まっている。

いつも政治の話をしていつも選挙に行く人達だけでこの世の中の政治が動いてゆくのなら、そうなるしかないではないか。右翼であれ左翼であれ、知識人であれ庶民であれ、そういう人たちが偉いとも正しいとも僕は思わない。その中には、たとえ有名な知識人でも、思い切り軽蔑したい人間はいくらでもいる。彼らは、選挙に行かない者たちよりも自分たちのほうが知的にも人格的にも優れていると思っているが、そんなことは絶対にない。

現在の政治システムにうんざりしている人たちが50パーセント以上もいるということ、これが選挙結果なのだ。その中には、そうしたみずからの「かなしみ」を大切にし抱きすくめていった人たちがたくさんいる。

基本的に人は、生きていられたらそれでいいのだし、自分の生よりも他者の生のほうが重いと思っている。その思いを抱きすくめながら選挙に行かない人たちを、どのようにして選挙に行かせるか……?彼らは、いつも政治の話をしていつも選挙に行っている人たちよりも、ずっと知的に高度だったり人格的に美しかったりする。彼らこそが、この世の中がいかに狂っているかということをよく知っている。彼らは、政治を動かしたいという作為的な野心を持つことができない。その「かなしみ」が、あなたにはわかるか?その「かなしみ」は、だれの中にもある。あなたとの違いは、その「かなしみ」の深さにある。

この世の中は、作為的な欲望をたぎらせて生きている人間ばかりではないし、だれの中にも作為的な欲望を断ち切っている部分がある。金持ちの家に生まれたかったとか、美人に生まれたかったとかと思っても無理な話だ。50歳の人間が20歳に戻ることはできない。生まれてこなかったことにしてくれといっても、今さらどうにもならない。だれの中にも、生きてあることの「かなしみ」は息づいている。

選挙は終わった。

 

 

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初音ミクの日本文化論』前編……250円

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です。

風穴は空いたか?

選挙はライブであるということ、祭り(フェスティバル)であるということ。もしもれいわ新選組の奇跡が起きるとすれば、そのように「クチコミ」の人と人のときめき合う関係が大きく広がってゆくことによって起きるのだろうと思う。

もう、マスコミ報道は当てにできない。政権与党や経団連等の支配者たちの圧力によってみごとに黙殺・排除されてしまっている。

野党共闘のリーダーたちからも、自分たちの票を奪われるのではないのかと、かなり警戒され敵視されてもいる。四面楚歌だ。

しかし、もしもれいわ新選組が現れなかったら、この選挙はほとんど盛り上がらないまま、政権与党がほくそ笑む結果で終わっているに違いない。

れいわ新選組のムーブメントが盛り上がって投票率が上がれば、野党共闘だっていくぶんかはその恩恵にあずかることができる。

とにかく、投票率が上がらないことには、野党の側に勝ち目はない。そうして、このひどい社会状況はますます加速してゆくことになる。

多くの識者たちが指摘しているように、現在は、まるで昭和初期の戦争前夜のような社会状況なのだ。べつにそんな戦前回帰思想の持ち主が圧倒的多数であるわけでもないのに、多くの民衆が沈黙しているから、政治は停滞し、経済は冷え切って、エゴイスティックな支配層のやりたい放題になってしまっている。彼らは、民衆や労働者を寡黙で従順な存在にしてしまいたいのだし、その計画は着々と進んでいるかに見える。

そこで、山本太郎が立ちあがった。僕は、世の中がそうであるのならそれでしょうがない、と思っていたのだけれど、彼は政治家だから「しょうがないではすまされない」と考えて立ち上がった。勝算があるかどうかなど、考えなかったに違いない。考えてできるはずがない。そこが彼の純粋なひたむきさで、われわれ凡人と違うところだ。それを思えば、この状態で彼らが一体どれくらいの票を獲得できるかと予測するなど、彼らに失礼だしせんないことだ。あえていうなら、僕には希望的観測があるだけだ。10人が全員当選するということ。彼らの比例区獲得票数は、立憲民主党より多いだろう、と思っている。

多くの野党支持者が、立憲民主党にも国民民主党にもがっかりしているような気がする。野党は有権者と利害関係でつながっていることがあまりないから、魅力がなくなれば、たちまち見放されてしまう。逆にいえば、魅力的なら、またたく間に支持が広がる。

政治の中心的な機能はけっきょく「利益誘導」ということにあるのかもしれないが、人間にとってのもっとも本質的というか究極の「利益」は、「生きられないこの世のもっとも弱いものが生きられること」にあり、そしてそれは「誰もがときめき合い助け合う社会になる」ということでもある。つまり人間は「他者に命を捧げたい」と願っている存在であり、欲しいのは「自分の利益」ではなく「他者の利益」なのだ。たとえ現代時のほとんどが「自分の利益」を欲しがっているとしても、それでも無意識のところでは「他者の利益」を願っているのだし、だから「政治」という仕事が成り立つのだろう。

立憲民主党枝野幸男には、ちょっとがっかりした。それはわれわれに見る目がなかったということなのだが、彼は家族そろってカラオケに行ったりするマイホーム主義の良きパパであり良き夫であるらしい。それは、彼の美徳であると同時に、そうやって守るべき自分の世界があるということが政治家としての限界でもある。政治なんて、わが身を投げ打ってするものであり、そこに枝野幸男山本太郎の差がある。社会を変革しようとする政治家としての「怒り」と「かなしみ」が、山本太郎にはあって枝野幸男にはない。野党第一党の党首になって彼は、「守り」に入ってしまった。守るべきは「自分の党」ではないはずなのに、彼にとっては自分の党の支持者さえも「自分のファミリー」のように考えている。それは彼の「やさしさ」かもしれないが、その「やさしさ」は政治家としての「志」の低さでもあり、リーダーとしての資質というか魅力の限界なのだ。胎内回帰志向というか、まあ「自分の世界」の中でぬくぬくとしていたいのだ。だから、立憲民主党の支持率はどんどん下がっていった。彼は、民衆が待ち望んでいるリーダーではなかった。彼には、山本太郎ほどの「献身的な愛」はない。この世の「生贄」になろうというほどの覚悟はない。

さて、どのような開票結果が待っているのだろう。

 

 

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キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。

ラストスパート、いよいよ最後のホームストレートに差し掛かった

7月18日、今日の山本太郎の福島街宣は面白かった。

福島は原発事故の起きた場所だ。

頭の中をすっかり現在の社会制度に汚染されてしまっている年寄りがマイクを渡され、正義ぶって散々品性下劣な難癖をつけまくっており、政権与党側から送られてきた刺客だというコメントもあった。

もちろん山本太郎はそれを見事に切り返していたし、何度もマイクを渡してその話をちゃんと聞いてやったのも立派だと思ったが、そのクレーマーの老人のなんと厚かましく浅はかで醜悪なことか。

山本太郎原発被害に対するケアをちゃんとしろと訴えることに対して、一部の福島県民のあいだには、「山本太郎の言説は風評被害をまき散らしている」という批判もある。それを代表してこの老人はがなり立てていたわけだが、これは、まさしく「住民エゴ」である。そんなことをいって原発事故をなかったものにしてしまっていいのか。被害者を切り捨ててしまっていいのか。それは、福島県民が等しく負わねばならない歴史の負の遺産ではないのか。そのうえで、福島の復旧や復興が模索されねばならないのではないのか。

老害……とにかくまあ、右翼であれ左翼であれ、政治的な老人というのはほんとに醜悪だなあ、と思った。

選挙はまあ「お祭り」なのだから、なるべくならみすぼらしい老人は表に立つことなく、縁の下で頑張っていたほうがよい。

表に立つのは、女や若者がいい。そのほうが華やかで盛り上がるし、頭の中を規制の社会制度に汚染されてしまっている年寄りの男たちにはもう、頭の中を切り替えて新しい時代に漕ぎ出すという能力も心意気もない。

 

 

れいわ新選組は、いったい何人が当選するのだろうか。僕にはわからない。ただ、10人全員が当選すればおもしろいのになあ、と思っているだけだ。そうなれば、この国の政治の世界だけでなく、人々の心にパラダイムの転換が起きるきっかけになる。

悪いのは政治家だけじゃない。だれもがこんなひどい社会システムに埋没してしまっている情況から、あのようなひどい政治家たちが生まれてくるのだろう。何はともあれ選挙で政治家を選ぶ民主主義の世の中であり、民衆に許されていない政治家が存在できるはずもない。あのようなひどい政治家が存在できないような社会の情況が生まれてこないことには、何も変わらない。

もともとこの国には、権力社会とは別の原理を持った民衆だけの社会システムが機能していたのに、民衆が権力社会の政治に参加できる時代になったことによって、皮肉なことに民衆社会のシステムが権力社会と同じ様相を帯びてきた。それはきっとわれわれがほんものの民主主義を獲得できるようになるまでの過渡期の現象であり、この国ほんらいの民衆社会のシステムを権力社会に持ち込むことができなければならない。差別や競争によるのではなく、人々が他愛なくときめき合い助け合う社会システムを。

まあ現在の政権は差別や競争や闘争の原理の上に成り立つ権力社会の本能をむき出しにしてきており、そこに巻き込まれ流されてしまっている民衆がたくさんいるわけで、そんな情況において山本太郎とれいわ新選組は、そこからはぐれてしまったり抵抗しようとしている者たちを呼び寄せようとしている。そんな集団が過半数いることはたしかなのだ。もしも投票率が70パーセント以上になったら、自民党が政権与党でいられるはずがない。

「寄らば大樹の影」は日本人の国民性だというが、そうではない。それはもともと、権力社会の様相を揶揄する言葉だったのだ。江戸時代までのこの国の民衆は、権力社会とは別の民衆自治の集団システムをずっと守り続けてきたのであり、「お上」という権力社会に支配されてもけっして洗脳されないのが民衆のメンタリティの伝統だったのだ。まあ古代には、そうやって権力社会が押し付けてくる「仏教」に対するカウンターカルチャーとして民衆のあいだから「神道」が生まれてきた。この国の歴史は、いろいろ紆余曲折はあったとしても、けっきょく民衆のメンタリティがこの国を覆ってゆくようになっている。

 

 

この国の民衆の多くは、「寄らば大樹の陰」が嫌だから、政治に無関心であり、選挙に行かないのだ。まだまだ民衆の潜在意識においては、国の政治は「大樹」であり、長い理不尽な支配を被(こうむ)ってきた歴史の無意識が残っているわけで、どうしても権力社会の政治に対する拒否反応がある。なのに、権力社会の一員になったような顔をして偉そうに語るネトウヨたちの「寄らば大樹の陰」そのものの態度の、なんとあさましいことか。「それでも日本人か」といいたいところだが、その当人たちほど「日本人に生まれてよかった」と声高に合唱しているのだから、笑わせてくれる。「寄らば大樹の陰」のネトウヨは、駆逐されなければならない。そこから、この国の民主主義がはじまる。

ネトウヨたちは、れいわ新選組の盛り上がりを怖がっている。その気持ちは、なんとなくわかる。れいわ新選組は、存在のかたちそのものにおいて、彼らの「憎しみ」や「差別意識」を駆逐しようとしている。

人の世の基本は、ときめき合い助け合う関係の上に成り立っている。したがってその外に出て暴れているネトウヨたちが「憎しみ=ルサンチマン」を共有しながら結束しても、それは狭い世界の中のことで大きくその外に広がってゆくことはない。

人と人がときめき合いコミュニケーションしてゆく関係こそが広がってゆくのであって、ネトウヨたちは「憎しみ=ルサンチマン」によって他者を差別し排除しているだけだから、広がってゆくはずがない。

ここにきてこの国のヘイトスピーチの勢いは衰退しつつある。それは、この国の伝統文化にそぐわない潮流だからだし、人の世の構造上の意味においてどこまでも広がるはずがないのだ。そうしてそれと入れ替わるようにして、ときめき合い助け合う社会を目指すれいわ新選組のムーブメントが起きてきた。

とはいえこんなにも人がたくさん集まっている社会なら、「憎しみ」を募らせた「嫌われ者」が現れてくることもひとつの必然であるわけで、それはもう文明社会の宿命であるのかもしれない。しょうがないことだがしかし、われわれは彼らを置き去りにして前に進んでゆかねばならない。そのためには、山本太郎とれいわ新選組を支持すること、それだけでいい。彼らが民衆の圧倒的な支持を得て政権につけば、世の中の景色は、がらりと変わる。

 

 

民衆社会の論理で国の政治がなされることを「民主主義」という。そのためには、権力社会に洗脳された民衆ではなく、民衆社会の真の伝統すなわち人間性の自然・本質の上に成り立つ人類700万年の歴史の伝統を体現した者たちの論理が必要なのだ。

老人が新しい時代を切りひらくということなどありえない。彼らの多くは、他者ととときめき合い語り合うという「コミュニケーション」の能力をすでに失っているのであり、そうやって老人はボケてゆく。

女や若者たちの他愛なくときめき合い助け合うというそのメンタリティこそが必要なのであり、そこにこそ人間性の自然・本質がある。権力者であれ民衆であれ、そういう人と人の関係に対する「憎しみ=ルサンチマン」をたぎらせた「嫌われ者」たちがどんな正義・正論を叫んでもどうでもいい話なのだ。

自己実現」など、どうでもいい。自分を忘れて他者との他愛なくときめき合い助け合う関係を持てたときに、はじめて人は「幸せ」というようなものを感じる。山本太郎とれいわ新選組は、そんな社会にしようではないかと訴えている。

「クチコミ」、すなわち他者とのときめき合い語り合うコミュニケーションによって広くつながってゆくこと、これは、縄文時代以来の日本列島の伝統であり、それを起こすものを「ことだま」といった。縄文時代に国家制度なかった。当然である。しかしそれでも、日本列島には同じような言葉や習慣文化が広がっていた。それほどに「クチコミ」が豊かに機能している場所だったのであり、その伝統がよみがえればれいわ新選組の奇跡が起きる。

 

 

原初の人類はこの生に対する「嘆き」や「かなしみ」とともに二本の足で立ち上がっていった。そうして世界や他者に対する「愛」や「ときめき」に目覚めていった。平たくいえば、そのとき人類は「感動する心」を持ったことによって猿であることから決別し、進化発展していった、ということだ。そういう原点に還れば新しい世界はきっとやってくるし、そういう人としてのプリミティブな感慨はいつの時代もだれの心にも息づいている。

人間社会の根源のかたちは、人と人がときめき合い助け合うことにあり、それは「生きられないこの世のもっとも弱い者」を生きさせようとすることであり、さらにいえば「この世のもっとも魅力的な人」を特権化して祀り上げてゆくことでもある。そうやってこの国では、古代以前の奈良盆地から「起源としての天皇」が生まれてきた。

起源としての天皇は、大陸の古代文明国家から生まれてきた「支配者=王」とはまったく性格が違う。違うのだが、大陸には存在しなかったというのではない。

 

 

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『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。